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お菓子 俳句

眠い、あたたかい、ありがたい。

毎日毎日あったかいお布団で寝ないとダメだよ身体痛くなる、とおよげたいやきくんの替え歌として歌う、脳内で。ウトウトして起きるたびに腕が痺れてるからまた麻痺になったらまずいなと思うのだけど寒くなるなりよりだめになる。

薄目あけ人嫌ひなり炬燵猫 松本たかし

ああ、炬燵でひとりぬくぬくしたい、が我が家に炬燵はない。なくてよかった。仕事に行けない。

そういえばオンラインでやってる小さな句会で俳句を打ちこんでいる間に寝落ちして一句しか投句しなかったうえに選句するのを忘れるという失態をまたさらしてしまった。毎日毎日なにかの理由で謝る事態が発生している。全て自分が発生源。ごめんなさい。でもみなさんいつも通り優しくてあたたかくて素敵な選評までいただいてとてもハッピーでした。人に恵まれてるのにいつまでもだめなオレはどうしたらよかんべ。今月も俳句の雑誌に句友たちの句がいっぱいのってるんだ。発売されたら買いに行かねば!選評も面白いの。そんな観点があるのか!と目を見開いてばかり。手動かさんとね、わたしも。

今朝はアーモンドとチョコのマフィン。あったかい。美味しい。あっついコーヒーとね。昨年からカフェインとりすぎたみたいで調子悪くしたから気をつけながらね。日々、気をつけねば、ということが多すぎるからこの優先順位は低そうだけど。しかし持つべきは友。ありがたいことだ。ありがとうございます。今日もよろしく。みんなも元気で。

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精神分析

コーシャス・クレイたちを見た聴いた。

熱いお風呂で長風呂してしまった。暑い。危険。湯冷め注意。髪が濡れたまま外に出ると寒いからマフラー巻き巻きして首と髪を遠ざける。昨晩もベッドまでが遠すぎた。身体が痛い。

保育園を出て商店街を歩きながらメールをチェック。ああ。大変だなぁ、とメールを閉じたくなったが何度もきちんと読まないと本当に取りこぼしが多いのでため息まじりで何度も読んだ。通過儀礼には色々な手続きが必要で自分のせいだけど色々短時間でやらねばで大変だなぁ、みんな毎日の臨床やりながらこれ越えていったのすごすぎるよな、偉すぎる、と思いながらトボトボ保育園からオフィスへ移動した。

本当は10月中に諸々済んでいる予定だったのでご褒美を準備していた。コーシャス・クレイのライブ。柳樂光隆のRolling Stoneやノートでのインタビュー記事がいつもとてもよくて行きたいライブがいっぱいになってでもそこから厳選してしかも時間が取れたのがコーシャス・クレイだった。ジョン・バティステ、カッサ・オーバーオール、ジュリアン・ラージ、ブランディー・ヤンガーなどなど実際の演奏を聴きたすぎるアーティストは増えていく一方だけどコーシャス・クレイに行く時間が取れて本当によかった。記事を読んでから何回も何回も聞いてその優しい声とフルートはもうすっかり耳に馴染んでいた。行く前はアルバムで一緒に曲も作ってるジュリアン・ラージが一緒でないのが少し残念だった。ライブではなくても本当にすごいギターを奏でていてコーシャス・クレイとのレコーディングシーンも素敵で何度も見ていたから。ライブはアリーナ席で舞台に手が届きそうだった。始まる前に置いてあるサックスとベースとドラムをまじまじと眺めた。かっこいい。サックスってこんなかっこよかったっけ。コーシャスはフルートは自分で持ってくるのかなと思ったらそうだった(と思う)。赤ワインのグラスも持っていた。今回のツアーのギターはニア・フェルダー。ギターはすごくシンプルなギターに見えた。コーシャスが舞台に上がるときにニコッとしたのがもうすでに素敵で静かで柔らかい第一声を聞いてふわあってなった。koreaとjapanを最初に言い間違えてしまってロングフライトでお疲れのご様子で本当大変なことだよなぁと思いながら耳を傾けた。プロポーズが実ったというカップルにみんなで拍手も贈った。今後何が起ころうとこれは素敵な思い出になるよね、きっと。ベースはJoshua Crumbly、ドラムはBrian Richburg。アルバム「Karpeh」の曲を中心に柔らかなフルートで一気に優しい世界へ。場所的になのかずらしの効いた迫力のあるドラムだったせいか最初はドラムの音を中心に拾ってしまっていたが3曲目くらいから頬杖ついてゆらゆらしてしまうくらいうっとり。お疲れなのにこれかよ、ともうほんとすごすぎる、と思いながらうっとり。サンタナのカバー曲も良かった!フルートと歌の移行が一体どうなっているのかというくらいスムーズ。高校の時、友達がフルートでもう一人の友達がピアノで私はただの聞き役で休み時間の音楽室で演奏したことを思い出した。すごかったな、二人とも。群馬でいえば進学校だったけどみんな勉強というよりそんなことばかりしてた気がする。自由だったもんね。そんなこと思い出しつつもコーシャスのフルートには驚いた。違う楽器に聞こえた。サックスの掠れ具合いもすごい世界作ってたし、なんか息の使い方とかがもうコーシャスにしかできないものになっているんだよね、きっと。全部「声」って感じ。色々終わってないのにご褒美設定しておいてよかった。行く前に一気に一本書けたのもこれが楽しみすぎてきちんと楽しみたかったからだし。遅すぎたけどご褒美って効果的なのね。そして今回ものすごく見られてよかったと思ったがニア・フェルダーのギター。ジュリアン・ラージ聴きたかったなとか思っていたくせにあっという間になんだこの人は、となった。コーシャスの優しい声というか曲の世界をジュリアンとは別の形で広げるような繊細で彩り豊かなギターをすごい何気ない感じで目瞑って弾いててこの回はニアに結構ソロを任せている時間が長かったのかもしれないけど堪能。こういうのを堪能というのだと思った。ニアがコーシャスの様子をすごくよく観察していて時々隣のジョシュア・クランブリーとニコッと視線を交わして二人でめっちゃいい音出してるのもすごくよかった。終わって少しゆっくりしてから店を出たつもりだったけどその後サイン会もしてくれたみたいで、もっとゆっくりすべきだった!お礼言いたかった!さて今はニア・フェルダーのThe Longeset Starがかかってる。このアルバム好き。こういうことずっと書いていたいけどもう行かねば。東京はいいお天気。いよいよ風が冷たいけどあったかくして過ごしましょうね。

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精神分析

記憶。

知覧のみどりゆたか美味しい。あ、ゆたかみどりだった。知覧は複雑な景色をもつ街だったな。知覧特攻平和会館で本当にたくさんの資料を読んでものすごく複雑な気分になってから武家屋敷ののんびりとした豊かな生活を感じさせる通りを歩いたからかもしれない。「検閲」という文字が浮かぶ。ここはノー検閲だし検閲ノー、といったところでそれは無理なお話。無意識を想定するなら。それよりもあからさま「検閲」の恐ろしさ。先日久しぶりに見た芝居。記憶を奪いそれに殺される。記憶を奪われ愛を取り戻す。奪われた記憶のどれかもどこかも愛ゆえだったのかもしれないけど一気に見せられた人は狂い死ぬほどのものに変形してた。というより変形できなかったがゆえにそれはそのままの力を持ってしまったのかもしれない。恐ろしく悲しい記憶と夢にまつわる芝居だった。人は全部全部を忘れられるわけではない、と書きながら若年性アルツハイマーの患者さんのことを思い出した。毎週毎週会うたびに記憶を失っていく人と何度も出会い続けるように会っていた日々。厚生労働省のハンドブックを見て最初にくるのは社会で生きるためという視点なんだなと思った。実際まず最初に思い浮かぶのはそのことだろうけど。なんだかとても悲しい。

昨日も遅れに遅れていた原稿を一気に書いた。中身はともかく(ではまずいのだけど)このスピードで書けるのにこの2ヶ月くらいなにやってたわけ、と自分に呆れた。この2ヶ月どころではなく時間が止まっていたのでまだまだ色々こなさねばならないことが続々。本当にどうかしてる。

やりましょうそうしましょう。今日はお菓子不足。こんな日もある。チョコならあるけど今はチョコの気分じゃないの。和菓子が食べたいけど今そんな気分になるなんて知らなかったから準備してないし。そんな気分になる可能性は十分あったがな。さてさてさて。辛いわね。と思ったけどすっごく素敵なこともあったんだった。今その余韻に浸る音楽を聴いているのに書いている間は忘れちゃってたよ。うむ。がんばりましょう。

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俳句 音楽

日曜日

いいお天気。南側の大きな掃き出し窓からも西側のわりと大きな窓のブラインドの向こうもオレンジ。きれいな空。東京は晴れかな。今日はゆっくり。NHK俳句を見た。忘れていた書き物を一気に仕上げて大きな机を覆っていた本を一度全部本棚にしまった。今はまた別の書き物のための本が出ている。今日のNHK俳句は南風主催の村上鞆彦さん。熱い紅茶とアルフォートを食べながら見ていた。なんかしょっちゅうアルフォートもらっている気がする。昨日は雪見だいふくのCMを見てコンビニに雪見だいふくの「白い恋人」バージョン買いに行っちゃた。別の新作デザートも買っちゃったからアイスはまだ。絶対普通の白いのが一番美味しいと思うのだけど「白い恋人」も大好きだからつい。オフィスのそばのコンビニで見つけて気になっていたの。あ、また甘いものの話になってしまった。村上鞆彦さんはとっても素敵。南風のみなさんの句も村上鞆彦さんの佇まいとか話し方とかもとても好き。とか言ってるけど今月は自分の結社の句誌に出す俳句も気づいたら締切を過ぎていた。今気づいたよ。ああ。とりあえず出すのが目標だったのに。全然余裕がないな。あ、NHK俳句のゲストは山崎ナオコーラさんだったのだけど子育て俳句よかった!「母の友」で本紹介(だったかな)もされていたはず。今日は都会にも出るから本屋さんへ行ってみよう。オフィスのある初台は新宿から歩いて15分くらいなわりに都会ではないからね。コンビニの数と高速道路の近さは都会だけどね。

洗濯物を外に干してきた。晴れるみたい。そんなに気温も低過ぎないみたい。低過ぎないというのは服装でどうにかなる気温ということ。

ああ、今日も切羽詰まってるのに日曜日というだけでなんだか気持ちがのんびりしている。チョコ食べたのに朝ごはん食べに行きたいとかなってる。別にいつも行かないじゃん、日曜だからって。そうね。せいぜい電源のあるカフェに朝からこもってるとかだよね。逃避せざるをえない状況ってことだよ。ならこんなこと書いてないで早くやりなよ。えーん。わかってるよー。でもあそこのパン屋さんの美味しいスープが思い浮かんじゃったんだよー。行きたいー。でもだめ。あそこは日曜日は多分遠くからくる人も多いから混んでる。ああ。どうしてあんな小さな駅までわざわざみなさん・・・。うーん。とりあえずやるか。紅茶冷めちゃった。

BGMはずっとコーシャス・クレイ。来日中。昨日すでにライブがあったのかな。お、今日明日か。なんだこれ、「60秒でわかるコーシャス・クレイ」だって。後で見てみよう。アルバムに参加していたジュリアン・ラージはこの前来たばかりだから別の人がギターするんだよね。ジュリアン・ラージとのはこれ。とてもとても素敵。

もうさっきから頭の隅っこの方で怖い自分が「早くやれよ」とうるさい。はいはい。やりますやります。返事は一回。はい。大人だからうざいとか言わない。大体私が子供の時にうざいなんて言葉なかった。

さ、がんばりましょう。

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精神分析

ため息

お菓子と紅茶を合わせて「おかティ」。今日は月餅をもらったので半分食べた。もうこんな時間。色々ダメダメだ。ため息ばかりついていても仕方ないのだけれど。はあ。ため息。

今日のお天気はどうでしょう。東側の窓を開けたときはあまり風もないように感じたけれど。

大きな机の上が開かれたページを下にした本でいっぱい。本には付箋もいっぱい。私はこれのどこから手をつければいいのだろう。もっといろんなことスッキリさせないとこれから衰えていくばかりなのに適応できない・・・。最近階段降りるのも一段一段確認しないとなんか怖くなっちゃったし。

どうでもいいのだけどこんなときにふと昨日のレーズンバターサンド美味しかったな、とか浮かんできてしまうのはどうして。不真面目だから?切羽詰まりすぎてどっかおかしくなってる?この程度のおかしさはいつも?

毎日厚着しすぎてオフィスもポカポカ。まだ対応できてる。でも今からこんなでは今年はいよいよ冬を越せないのではないか。これも毎年いっている、と毎年言っている。季節に関する言葉はマトリョーシカ。

今日は沖縄社会学会に少し参加するつもりだったけど無理かも。ああ。それでも日々はすぎてくね。がんばろう。

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精神分析

カレー@初台&佐賀

夜の間は雨の音が聞こえるくらいに降っていた。今は雨の音はしない。鳥が鳴いている。でもきっとまだ降ってる。寒いね。

また自分の足首をもう一つの足首に乗せて眠ってしまい痛い。自分の重みで自分がやられている。結構本格的に痛い。

数ヶ月前、オフィスのそばのカレー屋さんがとても美味しい、と友達に聞いた。最近ちょこちょこ行っている。美味しい。ごはん少なめにするとトッピングをひとつ選ばせてもらえる。小さな店で並ぶことの方が多いみたいだけど回転は早い。辛さの調節は0が中辛で20まである。それ以上もできるみたい。「17とかできます?」「できますよ」と聞いてどんなふうに調節してるんだろー、と興味津々だったが皆黙々と食べて帰るような店なので誰かがお店の人に尋ねる場面にはまだでくわしていない。私は聞けないから「あの小さなタッパーたちに秘密が?」とか思いながら観察しているが多分違う。ご夫婦でやっているらしい。奥で男性が黙々と同じ動きを繰り返している。お二人とも無駄のない素早い動きなのにどこかあったかい雰囲気。はじめて行ったとき勝手がわからずあわあわしていたら最小限の言葉で静かに指示を出してくれてありがたかった。私のあとにあわあわしていた人にも同じ対応をしていてなんだか入学式とか試験会場みたいだった。はじめてってあわあわするよね。ごはん多分g数に合わせて自動で出てくる機械があった。初回はよくわからぬまま「なら普通で」とか言ったが2度目に行ったときになんとなく「3で」と言ってみたら結構辛かった。エビカレーのエビがプリップリでトッピングのほうれん草で見た目も豪華になった。周りの人は「10」が多かった気がする。17ってどんな感じだろう。ああ、佐賀の白山文雅に行きたいー。元はバーだったみたいな狭いスペースが待合室になっていて、順番が来るとお店の人が道を渡って呼びにきてくれるシステム。人気店だから待つのは普通みたいだけどそんなに待ち時間長くなかったと思う。キョロキョロしたり置いてある佐賀情報を眺めたりそばの人の話をなんとなく聞いていたらあっという間に呼ばれた。私たちが行った日は休日だった。隣で待っていたご家族は地元の人みたいでいつものメニューがないことに慌てていた。なにやら平日はセットがあるようでみなさんそれが狙いだったようなのだ。しかもその方が全然お得らしく、お母さんはいいよ、お金出せるよと言っていたが息子たちがそれだったら別のところでみたいな感じで平日に出直すことにしていた。とても残念がりながらも気持ちを切り替えようとしている姿にいい店なんだなーと思った。順番が来た。店は意外と広い、と思ったら鏡の効果もあった。アンティークな感じでとても素敵だった。ここでも「ごはん少なめ」と言おうとしたら少しお店の人に制されるようなタイミングで何か言われた。不思議に思って待っているとごはんのお皿が出てきた。びっくり。すっごく小さなごはんがお皿にちょこんと乗っかってる!ごはん少なめって言ったからではなくてスタートの量がこれ。あとはおひつから自己調節。かわいい。カレーもとっても美味しかった。隣にきた若い女性たちはインスタとメニューを見比べながらずーと迷っていたが結局お店の人に色々聞いて選んでいた。迷うよね、これは。写真とかみちゃうとなおさらね。その人たちはセットで頼んでいた。特別な店ではちょっといいもの頼みたくなるよね。私たちは旅に出ると早くから呑むからおなかいっぱいになりすぎないように普通にカレーだけいただいた。また行きたいな。夜にいって豪華なコース食べるのもいいな。11月上旬は佐賀バルーンフェスタだったね。佐賀に行ったときに電車から普通にバルーンが見えてすごく感動した。「うわー」ってなったんだけど電車の人たちだーれも反応していなくて「おお、日常・・・」って思って小さく騒いだ。

ああ、寒くて動きたくないぜよ。もう金曜日なんて最悪だよ。なにも進んでないじゃん。なのにこんなことばかり書いてしまった。はあ。準備準備。どうぞ良い1日をお過ごしくださいね。

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精神分析

悪口とか。

眠い。おなかがすいた。りんご食べた。ちっちゃいチョコと熱い紅茶もある。よき!

今色々悪口をそうとはわからない形で書きたいけど書かない。そんな暇じゃない。悪口ならそうとわかる形で書く。そうとはわからないと思ってされてることって第三者からみたら結構あからさまに「そう」なので小細工するよりわかるように書いたほうがいいでしょう。悪口とか大雑把に言ってるけどこっちにはごく普通のありがちな文句でも悪意や非難としてしか受け取られない世の中なんだからもうなんでも悪口でいいや、みたいな気分になる。悪意で受け取りやすい人は自分より弱い立場の賢いが孤独な相手を使っていい人アピールするのは上手だから厄介。これも悪口。全部悪口。馬鹿は一生言ってろ、と馬鹿にすればいいのだ、これまで通り。これ、全く逆の褒め言葉でも言える。どっちかにすることは簡単。毎度同じように「最高!」とか言ってるのは褒め言葉ではないけどね。本の帯とかもある層にはかっこよく響くであろう、ある知識を前提としている言葉が書かれていると思いやりのなさを感じてしまう。昨日読んでいた英語の本の書かれ方もそんな感じで「この人の本は私の分野では読んだほうがいいから買って読むけどこの人の書き方あまり好きじゃないんだよねー」と近いうちに友達にいうであろう言葉を頭の中で言っていた。なんか基本的に意地が悪い、というかなんであえてそんな言い方するの、とか思う部分が多いのだけどもう大御所だからか書評とか見るとそこはもうみんなわかってることとして、みたいな感じなんだよね。わかってないよ、私は、と思うし私の英語の読み方がおかしいのもあるだろうからな、とぶつくさ思った。何かをだしにしてる感じが嫌なのよね。お料理だけにしといてくださいよ、と思っちゃう。嘘つきの優しい言葉よりはましか。あー悪口悪口。

ジュリアン・ラージは今日も優しくて確かな音色を超人的なテクニックで奏でてくれる。ミュージシャンたちのSNSが好きでよく見てるせいかFacebookで勝手に流れてくるのもそんな画像ばかりなんだけどものすごいのがいっぱいある。ライブ会場、どこまで広がってるの、砂漠なの?というくらいずっと遠くまで人で埋め尽くされてるライブとか。この前、年齢的に生きてる時代が重なっていない二人が一緒に写ってる写真があって面白いなと思ったのだけどついてたコメントが「フェイクだ!」という指摘でびっくりした。まあそうもとれるかと思ったけどこれも前もってもっている知識とかその対象に対する思いとかが関係してくるから難しい。載せた人のことは全然知らないけどしかしたら本当にフェイクとして載せてる可能性だってあるものね。難しいな。

今日もいろんな言葉と出会う。がんばりましょう。

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音楽

雲、ジュリアン

この時期は夏より淡い白の大きな雲がじーっと浮かぶ。今朝もそんな感じ。東側の雲は朝日のいれものみたいになっててオレンジがはみでてるのもきれい。まだ空気は秋。冬の鋭い感じがない。紅葉も今本格的にきれい。2週間前の広島もきれいだったけど東京のほうが遅く感じる。実際どうなのかしら。

おなかの調子が悪くて仕事以外じっとしてる時間が長い。やることがたまってく。ただでさえ時間が止まってたんだなと気づいてショックを受けてたのに。そのショックの身体化かもね。あーあ。しょうがないね。調子悪いと音楽も刺激になっちゃってイヤホン忘れて元気なくしてた日々はどこへという感じ。それでも昨日延々流していた、というよりPC前でウトウトしっぱなしの間に繰り返し流れてたのはジュリアン・ラージの新曲”omission”。

宣伝用に一部切り取られたのがずっと流れてたんだけどここちよかった。ギターの可能性だけではなくて一緒にやる人たちの演奏の可能性も広げていくのがすごいと思う。コーシャス・クレイのアルバムのギターもジュリアン・ラージなんだけど生で聴いたらどうなっちゃうんだろうというくらいきれいな重なり合い。本当はきれいって言葉じゃ全然足りないのだけどこれだけ良いとどの言葉でも当てはまるからいっかみたいな気分にもなってしまう。彼らの緻密かつ考えと正反対な気がするけど言葉にするとしたらもっと体験しないとって感じ。ライブいくとか。トップミュージシャンたちは背景を作るのも最高に上手。どの世界でもそれは同じか。デザイナーの世界もそうだよね。分業が素晴らしい。心理臨床も分業として考えればいいのだけどなかなかそうもいかないのでしょうね。私世代までは多分そうやってきたと思うのだけど。心なんてそもそも全体で語ろうとするからおかしなことになるんじゃないの?と思ったりするもの。

はあ。早く通常の状態に戻りたいな、と思ったけど通常でもたいして変わらない疑惑が出てきた。それもそうか。まあ、できる範囲で行ける範囲までやりましょう。寒いけど紅葉楽しもうね。

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精神分析

寒い。

寒い。PCも床も冷たい。マットって偉大。それにしてもお風呂場に暖房があるって画期的、嬉しい、ありがたい!と思ってもう10年以上だけどやっぱりありがたい。フィルターを取り替えたらその下に干していた洗濯物が揺れるくらの暖かい風が最初から出てきた。冬になると色々億劫すぎるけど暖房がないともっと億劫。フィルター取り替えるとか微妙に面倒だけどやってよかった。洗濯物はすでに乾いていたからたたんだ。あとはキッチンが難関。マットを新シクしようと思ったまま買っていないから。お掃除しやすい方がいいからあまり何も敷きたくないとか思ったのはきっと暖かい時期だったのね。冬はできるだけ大地から距離を取りたい。昨日はすごく寒かったけどショートブーツが暖かく感じた。そのうち何着ても何履いても寒い!!ってなるんだよね。もう嫌。今から結構厚着してるのにどうしよう、って毎年言ってる。毎年辛くて同じく冷え性の友達と辛さを分かち合っては暖かい飲み物をありがたがりおいしいお菓子情報を交換する。あったかグッズ情報もいろんな人に教えてもらうし実際にもらったりするのだけどどうにも使いこなせていないな。もらったらすぐ使うとかしよう。使ったらきっと「これいい!」って自分でも買うだろうし。今日のりんごは少し酸っぱい。柿は昨日少し渋かったから皮を厚めにむいた。私が大地と距離をとるように。接触面に栄養とかいいこといっぱい詰まっていることは多いのだろうけどね。冬でもお花は健気に地べたに咲くしね。

先日ここで柳樂光隆による稲垣次郎のインタビュー記事を読んだって書いてすごく興味深いことがいっぱいで笠置シヅ子のブギウギとの関連も気になっていたわけだけど佐藤利明さんという方が柳樂さんへの返信でブギウギのことに少し触れてた。これが気になってたから玉川裕子『「ピアノを弾く少女」の誕生 -ジェンダーと近代日本の音楽文化史-』玉川裕子著(青土社)を読んでる。今は読んでいる場合ではないのだけどちょっとずつね。

寒いけど無事に過ごしましょう。

今朝はコーシャス・クレイ(Cautious Clayを聴いてるよ。この人も本当にすごい。『KARPEH』は

「言ってしまえば、ナラティブ(出来事を伝えるストーリー)なんだ。」(Rolling Stoneのインタビュー by柳樂光隆)

とのこと。これもコーシャス・クレイの魅力全開のいいインタビューだった。広いところへ視野が広がっていくような優しく導いてくれるようなアルバムKARPEH』もぜひ。

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音楽

和ジャズ!

寒い。キーボード打つときに手の付け根の方の平たいところが当たって冷たい。熱い紅茶と久々の柿と昨日と同じりんご。お薬を飲もうとしたら落としてしまった。這いつくばるように探したのにない。どこまでコロコロしてしまったのかしら。転がる形態でもないのに。

今朝も昨晩に引き続き和ジャズ!今度はリアルサウンドの記事で柳樂光隆さんがインタビュー記事を書いていた。数日前に名前を聞いて気になっていた稲垣次郎というジャズミュージシャンの記事。まだ前編なんだけどやりとりが可笑しい。その場にいたら思わず笑ってしまいそうな瞬間がいっぱい。いなくても笑ってしまったけど。この年代の人はすごいね。90歳。本当に単純に好きなもの取り入れてやりたいことやってくぜ、という感じが好き。ものすごい人たちとも普通に対等で飄々としてていいよねえ、こういうの。

マイルス・ディヴィスに関してもこんなやりとりが。

――それはシンパシーみたいなものもあるわけですか?

稲垣:それはないですね、自分とはちょっと違うなって(笑)。

なんかシンプル!!面白い。私が当時大好きだったピンクレディの後ろにもいらしたのね。秀樹もですって。

音、かっこいいですよ。ロックとジャズはどんどんいい関係になりそう。最近ここであげるようなジャズ・ミュージシャン、みんなどの分野とも誰とでもセッションできそうな人ばかり。石若駿とかの世代とか30代は稲垣次郎の世代がやりたかったことをこれまた自然に展開させてるのではないかしら。よくわからないけど柳樂さんの記事を読んでいるとなんかそんな気がする。ルーツを意識し歴史を忘れさせないジャズと少年の心を意地でも忘れないロック、両方大好き。ネガティブな部分もなんでもきちんと出ちゃうのもいい。稲垣次郎さんかっこいい。アルバムはこちら

『WaJazz Legends: Jiro Inagaki – Selected by Yusuke Ogawa (Universounds)』

配信リンクはこちら

和ジャズ!ブギウギの笠置シズ子の少し下の世代ということになるね。歴史は面白い。その曲で今もみなさん繋がってますよ、とお伝えしたいミュージシャンがたくさん。「あ、そう」とか「へえ」というお返事かもね。繋ぐためにはじめたわけでもなかろうから。

さてさて色々大変じゃ。でもグッドミュージックbe with you!

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精神分析

一問一答。1袋2枚。オジー。など。

ふー。本を積み上げただけで疲れたぜ、と言えるほどには元気だぜ、ひどいことをした人が温かく励ましてもらえる社会にはひどいことをされた側は傷つくけどそういう人にもそういうことがないと世の中良くならないしひどいことされた側はどうやって過ごせばいいかわからなくてもとりあえず存在してることが大事、ということで今日は日曜日。りんごをシャクシャク。この冬初めてのりんご。トロッコ問題みたいな問いって答えるのが大事なんじゃなくてそういう問いが立ってしまう状況が問題なのでは、と思うけどそんなこというと「あれは」と穏やかだけどでかい声で説明をはじめる知識人が思い浮かぶ。問いに対してすぐ答えないと死んじゃうのかよ、と突っ込みたくなるほど一問一答(答えに多義性があろうとなかろうと)が好きな人はそれはそれでいいけどそんなこと求めてないよ、という人にはいらないよ、そういうの、大抵の場合。それが単に侵襲になっている場合もあるから。大人になると問題になりにくいけどね、ありがたがって群がる人もいっぱいいるし。その陰でしているひどいことまでそれで誤魔化せちゃったり。子供はそういう体験が外傷になる場合があるわけだけど、ということをウィニコットは書いたけど。そうそう、トロッコ問題なんていちいち言わなくてもそういう問いは心の中に実際立ってしまうでしょう。個人の傷なんてあっという間になかったことにされる集団のあり方なんてみんな言語化しないで行動化してるから見えにくくなってるだけで、というと「あれは」と間違いを指摘する声が聞こえる。そのでかい声がフラッシュバックして眠れない日々を過ごす。あれを穏やかと感じられる関係性の人はいいね、と呟きながら。何かを考えるとすぐに正解がほしくなる心と戦っている人の苦しみの起源は正解を押し付けてくる心だったりするのかも。それが正解だろうとなかろうと押し付けるなよ、といっても押し付けに感じる方が悪いんだろ、という堂々巡りにもなりがちだしね。何か言われたらとりあえず考えて答える、ということをするのではなくて「はいはい、私が悪いんですね」みたいに終わらせたがる人もキャパ狭いけどそういう人にも実際の濃いやり取りを必要とせず、つまりキャパが狭くても取り入れることができる知識なら大抵の人の一生分以上あるし、誰か一人の大事な場所に小さな傷をつけようと「なによりも家族!」とか嘯いて暮らすこともできるし、そういう人にも優しい社会はあるから他人事として考えると優しくされて優しい心が持てるようになるといいですね、せめてひどい言動はこれで終わりにできたらいいですね、となるけど当事者にとっては色々うんざりってことも多いから難しいですね。「どこがなによりもだよ」とか。人間関係に対するキャパって知識に対するそれとは全く異なるけど連動もしてるから今日も人のあれこれをあちこちから眺めて自分で体験しながら考える。とりあえず存在することの大切さを共有していくような仕事だからみんなであれこれやりましょう。今日はグループだからね。みんなよろしく。

しまった。2枚入りの美味しいクッキーを2枚とも食べてしまった。あーあ。1枚目が半分に割れてたから枚数感覚が狂ったか。そんなはずないか。美味しかったから残しておきたかったのに。群馬のケーキ屋さんのクッキーなのに。

今朝は昨日ノミネート作品が発表になったグラミー賞の昨年の受賞曲が集められたプレイリストを聞いている。今はオジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)のPatient Number 9feat.ジェフ・ベック(Jeff Beck)。オジーも大好きだった。オジーはbeingもdoingも両立してるというかdoingの前提がbeing.オジーのあとにWet Leg。良い並び。今日はこういう感じがぴったり。みんなはどんな感じかな。どうぞ良い日曜日を。

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グラミー賞とか。

第66回グラミー賞ノミネート作品が発表されたのね。外は風が強い。音がすごい。肌寒いけど膝掛けにも肩掛けにもなるフワフワのを羽織って熱い紅茶を飲んだら少し暑い。飲まないとすぐ寒くなる。冬ね。グラミー賞は時間があった頃は授賞式の映像を見るのを楽しみにしていた時期もあったけどここ数年音楽をきく余裕をなくしていた。ということに気づいたのもほんの数ヶ月前。それからはイヤホンを忘れると一日中元気がないほどに暇さえあれば何か聴いている。Spotifyでおすすめされるままに流していることもあるけど音楽評論家の柳樂光隆がすごい勢いで出してくる(ありがたい)インタビュー記事を読んでその音源をきくことが中心。重なってくる情報も多いおかげで最近少し頭が整理されてきた気がする。好きなロックミュージシャンたちは今も色々話題豊富な人が多いのかFacebookとかで流れてくるものからチェック。最近はCoverdale & Pageのことが流れてきて久しぶりに聴いた。YouTubeに1993年の大阪公演があがってた。東京公演行ったよ。ディヴィッド・カヴァデイルがほんと美しくて、そしてあの声、うっとりした。ジミー・ペイジはもうなんだか凄すぎた。かっこよかったなあ。一枚しかアルバム出さなかったけど今となってはあれでおなかいっぱいな感じもする。特別な二人の特別なアルバムって感じでいいよね。

ちなみに今年のBest Rock Albumは以下の5グループ。

Foo Fighters – But Here We Are
Greta Van Fleet – Starcatcher
Metallica – 72 Seasons
Paramore – This Is Why
Queens of the Stone Age – In Times New Roman…

やっぱり一番聴いているのはメタリカだねえ。Queens of the Stone Ageになると私にはちょっと新しいな。ライブに一番行ったのは1990年代前半だから2000年以降はほとんど新しい人だと思ってしまっている。しかもここ数年のブランクでよほど有名な曲でないと全然知らない。女性アーティストは結構フォローしてたかな。最近、ずっと聴いているジャズは根っこがつながっている感じで今のジャズを聞いても当時聴いていた古典が全然古びていないというかむしろすごいリスペクト向けられてるから古いも新しいもないかんじ。今私が聴いているジャズは、だけど。多分全然知らない世界もいっぱいあると思う。

あら。風の音が止んだかな。そろそろ行かないと。鹿児島で地震があったのね。どうぞお気をつけて。鹿児島、近いうちにお邪魔します。よろしくお願いします。良い週末をお過ごしくださいね。

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バティステ、ルララ♪

キッチンの小さな窓から入ってくる風がいよいよ少し冬。コーヒーとタルイベーカリーのパウンドケーキ。小さな人気パン屋さん。お隣のカフェも行ってみたい。昔、ボーイフレンドに焼いてくれた母のバナナパウンドは本当に美味しかったな。あげたことはお話としてしか覚えていないけど自分が食べたことは覚えている。

今、またジョン・バティステを聞いてる。今年9月、柳樂光隆のインタビュー記事を読んで知ったなんでもできるジャズマン。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/39978

アカデミー作曲賞もグラミー賞もとっているすごい人だった。ニューオリンズ出身というのも素敵。この記事で最新アルバムを聴いてそのかっこいい始まり方から魅了されて何度も聴いた。そして昨日出た新たなインタビューで『Chronology Of A Dream』(2019)の音源と出会った。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/40193/1/1/1

全然イメージが違った。ワーオだった。このライブ行きたかったな。みんな絶対すごくいい1日になったと思う。この曲かっこいいですよ。

2本めのインタビューでバティステはこう言っている。

「JB:スタイルよりも、どうやって制限を持たせないかということを考えていたんだ。『World Music Radio』は「ワールド・ミュージックを作らない」ための良いスタートになると思ったんだ。世界中のカルチャーをカラーパレットのように見立てることが、ジャズやソウル、ポップ、さらにワールド・ミュージックというジャンルから自由になる一種の方法で、僕はその自由さに美学を感じた。とても自由な発想で作るんだよ、まるで子供のようにね。だって、子供は音楽を「これはラップだ、クラシックだーーだから、僕の趣味じゃない」っていうふうに音楽を聴かないよね? 耳に入った音楽に自然と反応する。そういった感覚で音楽を作ったんだ。」

1本めのインタビューでの多様性の解釈とその現実化もすごいな、と思っていたけどこうやってさらに知るともうなんだか多様性、多義性に関して本気の人って、とリスペクトしかない。

柳樂光隆の質問がすごくいいというのも大きい。他の媒体の別の人によるインタビューも見たけどこっちが知りたいのはそんなことではないですよ、と思うものもいくつかあった。良い問いを発明することは世界に別の見方をもたらすのね。素敵。

サマラ・ジョイが流れてきた。とても好き。ちょうど良い深みの声。美味しいコーヒーみたい。そしてとてもかわいい。

音楽は安らぐ。色々辛いこともたくさんあるけど色々なんとかなっていくといいね。ガンバリルルラリルルララ♪

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コミュニケーション大事。

コーヒー&カステララスク(ゆず)あとアルフォート。カンマを使わなかった。

高橋ユキさんが書き手を下に見ている編集者のことを書いていたけどわかるーと思った。書き手としてすでに人気がある編集者でも担当作家のこと見下してた男性もいた。嫌な人だなと思った。相手が女だと上手に依存関係築いて職権濫用をお互いにしているというよりはwin-winだから別の女への搾取の歴史は消えていく。それはそれでどちらの女のことも家族とか身近な人も見下しているんだけど大人な人にはバレてるんじゃないかな。嫌な人だ。やっぱりいろんな人と会ってコミュニケーションとるのって人として大事だと思う。気持ちのいい関係に安住できる環境がある人はそれを守るのも大事だけど気持ちのいい関係以外は排除しながらそれを維持している人は他者から学ぶ気がないわけでしょう。その人もいつも似たようなカッコよさめの文章を書いてキャーって言われるみたいなパターンがあってオレイケてるって思ってるらしいのだけど(表面的には「いやー」とかいって謙虚っぽいけど)あれはコール&レスポンスですね。中身はどこへ。ファンがいるっていい面悪い面あるけど嫌われたくない!と強く願っていたから願いが叶っているともいう。読まずに「名著!」とか紹介する方もする方だよ。それも愛情なのかよ、って思うけどきっとそうなのね。変なの。変なの、って一緒に言ってくれる人がいるのもすごくいいと思う。その人はすぐアスぺとか病気とかいう人だったし。そういう言葉遣いもパターンってあるのかしらね。パターンというかそういう言葉を使う人だと知っている人は知ってるし知ろうとしないか知る機会のない人は知らないしということでしかないか。

今日はちょっとひんやり。風邪引かないようにして過ごしましょう。

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精神分析

立冬

立冬。冬らしさまだ感じず。でも熱いお茶がこんなに美味しいからやはり季節は寒い方へ。高尾のお土産と一緒に。お菓子いっぱいで冬眠準備みたい、と思ってもすぐになくなってしまうから冬眠に至らず。準備不足でも冬眠してもいいですか。いいですよ。でもおなかすきますよ。それは困りますよー。

しまった。突っ伏して眠ってしまった。PCにwがいっぱい。この前はdがいっぱいだった。

昨晩はフロイトの「終わりのある分析と終わりのない分析」からメルツァーが引用した箇所を探していて何度見てもなくて途中からもしかしてと思ってメルツァーの本を確認したら引用ではなかった。やっぱりなあ。こんな文章あったっけ、と思っていたんだよ。でも私の記憶力なんて当てにならないし見逃してるだけだろうと思って結構時間を取られてしまった。何回か見たところであれ?と思ったのだからそこで確認すべきだった。確認が面倒で引き延ばしたのだろうね。そういうこともよくやる。昨日までに出すとか言ったのにダメだった。こんなに色々間に合っていないのはじめて。でもこれについては目処が立った。結構困難な作業だったな。勉強になったけど。とか言っていないで早く仕上げましょう。

昨日は石若駿のツイートでBanksia Trioを知ってそのアルバムを聞いていた。駿くんはいろんなグループにいるんだね、自分のグループも持ってるし。

「須川崇志(Banksia Trio)インタビュー & 『MASKS』全曲解説 | 日本のジャズシーンを代表する精鋭トリオ、バンクシア・トリオの成り立ちから、ニューヨーク時代の恩師、菊地雅章との出会いまで」という記事もざっと読んだ。みんな素晴らしいのだけど今それを書く余裕がないのでぜひお読みになって。アルバムも渋くてかっこいいのでぜひ聴いて

あー、突っ伏し寝は胃腸にも腕にも悪いしなによりこんな時間。立冬の光がブラインドの向こうで明るく光ってる。気持ちよく過ごせたらいいですね。行ってきまーす。

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精神分析

強風、アメリカ、環境

昨晩からすごい風がおさまることなく吹いている。今朝は何も胃腸にいれる気がしない。入れすぎていたのだろう。早く元気になって。体調が悪いと何もしたくないけど動けている程度だからゆっくり動き続けましょう。無理はしない。

ふと写真が目に入る。ジーンズのポケット部分に写真が入るデザインの写真たて。このデニムのシャツを着た大きい男の人のオブジェはPasadenaだ。身内がLAに住んでいるときによく行ったのんびりしたモール。毎回文房具屋さんでかわいいカードを集めた。小さな美術館もあった。米国同時多発テロ直前、2000年には彼らとNYにいた。別の身内はあの日もNYにいたし今もNYにいる。その後、戦争が始まり、やけにすいた飛行機でLAに行った。はじめてLAに行ったのは20歳のとき。暴動の余波を感じる時期で近寄ってはいけないと言われた場所がいくつもあった。国内での暴動に比べて戦争中でもアメリカは静かだったなと感じる。そうではないアメリカもたくさんあっただろうけど。アメリカは広い。

サックス奏者、ヌバイア・ガルシアのインタビュー by Mitsutaka Nagiraを読みながら彼女の曲を聞いていた。何度読んでも小さい頃から当たり前のようにあった音楽環境の豊かさに驚かされるが私もクラシック音楽は小さな頃から身近だったなとか考えていた。ドイツだったと思うけど有名な指揮者がうちに来たこともあった。フィンケさんだっけな。私は楽器も習っていたけど才能もなかったしクラシック音楽は身近なだけで好きでも嫌いでもなかったしどちらかというとオーケストラのコンサートとかいくのは面倒だった。すぐに寝てしまうから。母なんて始まる前から私に肩を差し出していた。寝ないよ、まだ…、と思った。大学に入ってバイオリンをやっていた友達に誘われて親とは関係なくコンサートにいくようになってからようやくクラシックの魅力がわかった。ヌバイア・ガルシアみたいに豊かな音楽環境を自分の生活の一部とできていなかったことが少し悔やまれる。

昨日、ウィニコットのいう「環境」や「退行」について少し考えていたので関連部分を載せておこう。私は退行概念は以前からたやすく使えない用語だと思っているので何か言うならこの辺は参考になるかなと思った。もう行かなくては。とりあえずメモ。ほんとに風が強いからみなさんもどうぞお気をつけて。交通機関にも影響が出なければいいですね。

「私は、通常の赤ん坊において、誕生以前にも誕生以降にも同様に適用できる存在のあり方の仮説を提示したい。この存在のあり方は赤ん坊にとってのことであり、観察者にとってではない。存在し続けることは健康なことである。比喩として泡を例に取るならば、外側の圧力が内側の圧力と適合していれば、泡は存在の連続性を有しており、このことを人間の赤ん坊に当てはめるならば「生存する」と呼ぶことができるだろう。それに対して、泡の外側の圧力が内側の圧力に対して大きいか小さい場合、泡は侵襲に対する反応の状態にある。これは環境の変化に対する反応として変化するのであり、個人的で衝動的な経験によるのではない。人間という動物の観点から考えると、これは存在の連続性に中断があったということであり、存在の場が侵襲への反応に取って代わられるのである。侵襲が終わると、反応は終わることになり、また存在することへと復帰することになる。」ー『人間の本性』第4章「最早期の段階」

「子宮のなかの素晴らしい時という観念(大洋感情など)は、依存に対する複雑に組織化された否認である。退行に伴って起こる喜びはすべて、環境は完璧だという観念を前提としている。これに対抗するものとして、環境があまりにも悪いために人間が存在する希望が全く無いのではないかという、退行した子どもや大人にはまさにリアルなものとなりうる考えを、検討しなければならないだろう。」

ー『人間の本性』第10章「環境」

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お菓子 音楽

1987年、高尾のお菓子、Jazz

月曜日になってしまった。どうしましょう・・・。雨が降っているのね。寒くはないけど首にストールを巻きましょう。昨晩、阪神の応援で騒いだわけでもないから喉が痛いとかではないけど肌が出ているところはなんかひんやりする。今日も明日も日中は暑いくらいらしいけど8日(水)は立冬。きっと急に冬を感じる瞬間が訪れる。毎年そうですから。昨日の阪神は強かったですね。今年はずっと強かったわけだけど日本シリーズでも勝つとは。私は岡田、掛布、真弓時代の阪神を知っているので岡田監督が前の優勝の時は27歳だったというのを聞いて時の流れをしみじみ感じたのでした。当時は毎年巨人ー阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」というものを後楽園球場に見にきていた。今wikipediaで「後楽園球場」を見たところ

「最後のパ・リーグ公式戦は1987年10月13日の日本ハム-近鉄戦で、近鉄先発の吉井理人がプロ初完投勝利を挙げている。最後のナイター開催試合は10月17日の巨人-ヤクルト戦で、巨人のサヨナラ勝ち。最後のセ・リーグ公式戦は10月18日の巨人-広島戦で、巨人の吉村禎章が4ボール2ストライク(4ボール目の見落とし)から本塁打を打っている。最後のNPB主催試合は10月30日の日本シリーズの巨人-西武第5戦で、最後の投手は西武の工藤公康、最後の打者は篠塚利夫だった(結果は三振だった)。」

馴染みの名前ばかり。前回の阪神優勝は1985年。私が最も野球をよく知っていた時代かもしれない。野茂がドジャースに入団するのはその10年後。いまだに野茂は偉かったよね、という話をする。

そういえば昨日はまた同世代で BUCK-TICKの櫻井敦司を偲んでしまった。BUCK-TICKのデビューは1987年。後楽園球場閉鎖と同じ年。1987年のwikipediaには

「5月25日 – 森高千里が「NEW SEASON」で歌手デビュー。9月12日 – マイケル・ジャクソンが後楽園球場で来日コンサート。9月20日 – おニャン子クラブが解散。12月24日BOØWY、渋谷公会堂にて解散宣言。」

はあるのにBUCK-TICKデビューはない。なぜだ。それにしても「そうか、これはこの年だったか」と思う出来事ばかり。38年。うーん。

ストールしてコーヒー飲んでたら暑くなったので巻き巻きをぐるぐる外したら今度は寒い。なんなんだ。今朝のお菓子は高尾のお土産。めじろ台に店舗があるパティスリーメゾンの高尾ラスクとマドレーヌ。ラスクはカステラを焼き上げてるんですって。今朝は黒蜜味をいただきました。マドレーヌも蜂蜜使ってて美味しい。蜂蜜大好き。

昨晩からグレッチェン・パーラトを聴いている。音楽の記録はTwitterとnoteにしていこうかな。なんとなくすでにそうなってる。時間があるときにメモ的に。グレッチェンは少し前に聞いてその優しい歌声にすっかり虜になってしまったのです。グレッチェンと一緒にやっていたベッカ・スティーヴンスもいい。

“’Cause there’s only now,
change all your thoughts from loneliness to solitude,
sacred,
the space that you’ve found.”

Becca Stevens BandのWeightlessに収録されている Weightlessという曲の歌詞なんだけどウィニコットみたい、と思いながらウィニコットはsolitudeという言葉を使ったかどうか、と考えていた。isolationを使ってはいるけど。

もうこんな時間か。辛いな。辛くてもお菓子は美味しく感じるんだからいいことですよね。みんなにも「あーこんな状態なのに空はきれい」とか「もう秋が終わっちゃうけど今年も紅葉みられた」とかほんのり良い感じのことがありますように。

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精神分析

11月5日朝

秋もみじ、というもみじ饅頭を熱いお茶と。くるみやら色々入った豪華もみじ饅頭なんだけどもはやもみじの形をしていない。ハンバーグみたいな形。でも美味しい。ポロポロ崩れるけど落ち葉ってことで。

寝不足。もうこんな時間。朝だね。朝イチの音楽は柳樂光隆が直近でお勧めしていたこちらKNOWER(Louis Cole&Genevieve Artadi)というのね。おー、エレクトロニック。かわいいおしゃれかっこいい。普通の褒め言葉が全部当てはまりそうな音楽だな。 YouTube、これ最初の撮り方かっこいい。普通の部屋で撮ってる?こういう感じは懐かしいな。インタビューもとったとのこと。すごいペースで記事書いてる。この量だと情報に合わせて音源コピペするだけでも大変だと思う。すごい。私の進まない原稿とは大違い。

KNOWERさんはLA発とのこと。なぬっ!レッド・ホット・チリ・ペッパーズのオープニング・アクトに抜擢されたこともあるのか。おお。なんでもできそうだしな。

YouTube見始めたら止まらなくなってしまった。いかん、今日もずっと書かねば。明日からまたまとまった時間はない。腰が痛いなあ。この前の長時間新幹線で悪くした感じがする。昨日も座りっぱなしだったし。鳥たちは元気らしい。とりあえず大きな声で鳴いておられる。なんだかまだ寒くないのがありがたいね。ここ数日暑いくらいだったけど寒いと身体がこっちこちになってしまう。手はもうしわしわ。あんなジメジメしてたのにもう乾燥。痛くなる前にクリーム塗りましょう。コロナ禍で肌荒れた人も多かったよね。消毒液で荒れてクリーム塗ってなんてなんか変だし。うちのピヨ(Hansaのひよこ)が倒れてるから首をPCの縁に乗っけた。deleteキーが打ちにくい。どかせばいいのだがなんかかわいい。君も何かおしゃべりしたらいいのに。私が一方的にしゃべっちゃうでしょ。まあいいか。というかあなたは喋らないもんね。表情で相手してくれてるんだもんね。いいこひよこ。かわいこひよこ。ありがとさん。

昨日は「あ、これって結局こういうことじゃん」となんか発見したような気分で書いていたんだけどもう夜もすごく遅くて「これあとから見たらなんだこれってなって消すやつかもよ」と思い直して見ずに寝た。今見るのも怖くてYouTube見ちゃってる。この前も「これって結局意識、前意識、無意識の言い換えじゃん」と発見した気分で寝てあとから見たら「どうしてそう思ったんだろう・・・」ってなって消したばかり。結局睡眠が大事ということか。とりあえず見て見ましょう。あー、怖い。饅頭怖い。お茶が怖いよー、ということでまたお茶いれてこよう。

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精神分析

11月4日朝

すごく鋭い鳥の声。昨晩、山手線で大きな声で話していたオタクらしき3人の会話を思い出した。あまりに大きな声なのでクワイエットモードで音楽の音量を上げたがそれでも耳に入り込んできた。相手に言われたことを「それは違う」と自分の見方を主張する仕方に攻撃性は感じず確かな証拠を持ったこだわりといった様子で面白かった。でも周りが見えていないというか実際に立っている位置がたくさんの人が降りようとしているのを塞いでしまっているのに立ち位置を変えることができず慌てた感じで仲間も似たような感じでそれまで見えていなかった世界が急に動き出した感じみたいだった。人って意外とこうなるんだよね。イヤホンとかしてると特にそう感じる。この前、カフェでイヤホンで音楽聴きながら作業してたら周りの人がバラバラと急に立ち上がったのを感じてなんだなんだと振り向いたら怒鳴るように話している人がいてみんな避難したみたいだった。確かにそれまでもその人の声って違和感を持って入ってきてはいたんだけどイヤホンのせいで随分普通サイズになっていたみたい。周りの人たちみたいな切迫感は感じなかった。危機管理的によくないな、と思うのだけど聴きたくなっちゃうねえ。たやすく欲望に負ける。あー。

今朝は熱いお茶をいれたけどもみじ饅頭にしようか、みかんにしておこうか迷う。買ってきたみかんがさっぱりしすぎていてもう少し甘みのあるものが食べたいなあと思ったり。でももみじ饅頭じゃ甘すぎるかなあ、今の私には、と思ったり。絶対あとでもっと甘いもの食べると思うのだけど朝の味覚はわりとうるさい。

昨日、橋本麻里さんのツイートでとても気になる作品を見つけた。「かみ添」さんというところの作品。これは見たいなあと思った。

「かみ添」というのは唐紙老舗「唐長」で修行したのち、独立した新世代の唐紙師・嘉戸浩による屋号とのこと(美術手帖より)。

11月1日からTERRADA ART COMPLEXⅡ BONDED GALLERYで始まった特別展「ひかりの底」で見られるらしい。キュレーターが橋本麻里さん。橋本さんの記事の熱量もすごい。熱量とはいわないのか。私が勝手に受け取るもののずしんとした感じがすごい。2021年に出た『かざる日本』なんて豪華な図録みたいな本だった。宝物をさらに大切にしたくなる記述に溢れてた。

ああ、かみ添さんのこの作品は見たいなあ。ビオンというサミュエル・ベケットの分析をした精神分析家の研究者でベルギーの精神分析家のベルモート先生という人がいるのだけど彼がとりあげた作品はビオンの見方の一例を示すものだった。

Kazimir Malevich, Suprematist Composition: White on Whiteという作品。1918年の作品だからビオンの著作に出てくるのかもしれない。私はベルモート先生から知ったのだけどどうなんだろう。

うーん。時間できたらいいのだけど。自分次第自分次第。あー。

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音楽

11月3日早朝

星がきれいと空を見上げたら月がまだ高いところにいた。

始発で新幹線の止まる駅まで向かう。この時間でもそれなりに人がいる。いつもより荷物が軽い。急ぎの書き物があるがPCiPadももってこなかった。大きいノートは持ってきた。断片は集めてあるから順序を考えよう。

おなかがすいた。大きい荷物を持っている人は連休でどこかいくんだね。私はひと仕事しにという感じ。とにかく書かねば。なのに。まあがんばりましょう。

今私が一番恐れているのはイヤホンの充電がきれること。柳樂光隆のnoteのおかげで私の音楽生活が戻ってきた。ただ書いてあること以上に調べるのは我慢してる。行きたい店もいっぱいあるがそれは普通にいけないので諦められる。でも調べものは隙間時間でできてしまうからまずい。優先順位大事、と他人にいうのだから自分もね、と戒め戒め。

昨日はジョシュア・レッドマン“Where Are We”のアルバムと、アルバムでカヴァーされたり引用されたりしている原曲の両方を聴ける柳樂光隆のプレイリストの両方を聞いていた。ヴォーカルがとてもゆったりしていて気持ちよく眠れてしまいそうだったが寝てはならぬ時間だった。世知辛い世の中じゃのう。

周りに続々と人が集まってくる。この時間でもおしゃべりしてる人たちが元気で羨ましい。私の仕事はそこそこ身体が元気ならできるからよかった。愛想とか忖度とか大変だよね。しなくてもいいものをどうしてしているのかって自分もその循環に巻き込まれてそれを要求する側にもなってるからだよね。人間関係は難しいね。

よく寝てちょうどよく食べて無理せず過ごしましょう。車窓にはまだ暗い朝。今日最初に鳥の声に気づくのはどこになるかなあ。イヤホンしてたら聞こえないから充電きれてもいっか。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

11月2日朝

地震だ。昔あれだけ怖かったのに2011年5月以降、何度か東北の被災地へ出向いて余震を経験したからだろうか、正確には被災した子供や親たちと余震を経験したからだろうか、地震が起きると怖いとかいう以前に東北は、と思うようになった。今朝の震源地は千葉らしい。

今朝も社会福祉法人ぎんが工房のかわいいクッキーと大好きな街、神戸の岡本に本店があるモンロワールの葉っぱのチョコ。これも大好き。秋だし。東京でもいろんなところで買えるけど先日神戸の友人がくれた。三宮で働くその人が甲子園の熱気を伝えてくれたときは嬉しかった。昨晩の日本シリーズ第4戦はすごかった。8回裏からしか見ていないが申告敬遠という文字が電光掲示板に出てなんでそのフォントということ以上に作戦に驚いた。満塁策で4番と勝負。大山が最後きれいに打って決めたのも気持ちよかった。みんな激しく喜んでるんだろうな、といろんな阪神ファンの顔を思い浮かべる。私は特にどこファンでもないが周りに阪神ファンが多いので今回は阪神を応援している。中江有里が毎日甲子園に行って応援しているのが面白い。わらし姉妹も一人は毎日来ている。しかもなんで「お帰りなさい」「湯浅」のプラカード準備しているのだ。すごい。あらゆる可能性に備えているのかな。さすがだ。私の身近な兄弟は一人はオリックスファン、一人は阪神ファンなので兄弟対決とか言っていたがオリックスって阪急ブレーブスだったよね。阪急の帽子持ってたって言ってた。私も新しいキャップが欲しい。この前新宿ピットインにあるかなと思ったけど混んでてよくわからなかった。

10月中に色々終わらせる予定のものが終わらなかった。締切伸ばしてもらったけど平日は無理だな。色々割り切ってとりあえずやらねば。学会準備もせねば。あー。そんな今日もグッドミュージックと共にがんばりましょう。みんなは何聴くのかな。聴かないのかな。良い1日になりますように。

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精神分析

工房のクッキー。

やっぱり平日は書き物が全く進まないなあ。忙しい・・・。

さて今朝は米粉のクッキー。ピスタチオ&ココナッツ味。山梨県甲斐市天狗沢の社会福祉法人ぎんが福祉会ぎんが工房というところのお菓子。グルテンフリーだって。作業所なのかな。こういうところのパンとかクッキーとかすごく美味しいのにすごく安かったりする。私が知っているところはそこで売り手をするのも作業の一貫だったけど今回は高尾のお土産やさんで買ってきてくれたもの。かわいいパッケージでおいしい。これはいくらだったのかわからないけど相場の値段で売れていればいいのだけど。相場があるわけではないのかもだけど大抵とても安いから。いろんな作業所があるけど都合のいい解釈がされない場所であってほしいな。近所の作業所の前を通るといつも大きな声で挨拶されて私も挨拶をするのだけどそこはまだ場所が良くて地域にも馴染んでる感じがある。おしゃべり好きなスタッフさんがいらしたのだけどここ数年見かけなくなってしまった。品物を見ると安いなあと切なくなる。障害や病気と一括りにしないでひとりひとりにあった仕事を紹介してくれるような支援センターもあるし、患者さんの話を聞いていると効率的に多職種が連携している地域もあるんだなと知るのだけど多分そんなに多くはないと思う。関わりの難しさはお互い様だから生活に必要なお金を自分で稼ぐ仕組みとかあるいは当たり前のように基盤作りをしてくれる専門家とか増やしていければいいけど。小さい正方形のきれいな二色のクッキー、美味しかった。熱い紅茶といただきました。ごちそうさまでした。

なんか秋になっても爪の伸びが早いわ、と思ったけど時が過ぎるのが早いだけかもしれない。書き物進める前に資料作らないとだ。あー。今日は暑くなるの?体調崩しそうですよね、調整が難しくて。寒さにも暑さにも対応できる重ね着でまいりましょう。

どうぞ良い1日をお過ごしください。

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精神分析

頭の中とか。

井の頭線の浜田山のお店を調べるつもりが同じ京王線だけどメインの京王線の方の八幡山と打って調べていた。なのに検索結果は浜田山のお店が出てきた。なぜだ。同じ店があるわけでもないのに。私が打ち込んだ文字より打ち込んだ私の脳を読んでくれちゃってる?出てくる広告とかみると絶対読まれてるなと思うことは多いけどついに検索も念じるだけでできるようになっちゃった?これ冗談みたいで全然冗談じゃないと思ってるんだ、私は。近い未来にそんな感じになるんじゃないかな。

精神分析は自由連想といって思い浮かんだことをなんでも話してとお願いしてやってもらうのだけどこれ全然自由じゃないじゃんと皆さんすぐに気づく。自分が実際に声に出している言葉と考えていることが全く違ったりすることにもすぐに気づく。言葉はどんどん意味内容よりその話し方や言い間違いやなんかこういう感じがするというものに変わっていって治療者がその感覚をもとに言葉にしたものの方がずっと患者の心を動かすことがある。人は強く心が動くと自分でもコントロールできなくなるから言葉が揺れたり途切れ途切れにしか話せなくなったり言葉にならなくなってずっと沈黙したり急に多弁になったりいろんな様子になる。こういうコミュニケーションの情緒抜きバージョンをAIは可能にするんじゃないかな。情緒抜きでもある程度心を動かすコミュニケーションにはパターンがあるからそれくらい学ぶべるだろうし。もし心を動かしたいだけならそれでいいけど人間の防衛をどう扱うかは難しいのではないかと思う。私がこんな感じのことを言うとあなたはいつもそんな感じのことを言う、と「感じ」のパターン化が結構難しそう。

こんなこと書きながら今私の頭をそこそこしめてるのは早朝からずっと読んでいた精神分析家のビオンに関する本「Reading Bion」に書かれていたこと。そして2種類のBGM。Gretchen ParlatoのButterflyと彼女がカバーしたHarbie HancockのButterflly.グレッチェン・パーラトのButterflyはLive in NYCバージョンもいいし、アルバム “in a dreamに入った日本版限定ボーナストラックのButterflyもいい。湧水みたいなやさしくてきれいな声。

自分でも知らない自分の部分に期待して今日もがんばりましょう。失望の方が多くてもそっちの方が普通だよ、多分。回復しては沈み、寝込み、でもまた起きよう。心にも二度寝、三度寝が必要なときもあるものね。

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音楽

お菓子、鳥、Alabaster DePlume

寝不足です。起きていてもぼんやりしがちなので眠った方がよかったのに切羽詰まりすぎています。

昨日は「りんごの道明寺」というのをはじめていただきました。赤白の道明寺を混ぜ合わせてりんご餡を包んだ和菓子。あと栗きんとん。熊本の球磨栗というのを使っているんですって。調べたら「人吉球磨地方は日本有数の栗産地」とのこと。この地名って友人が昔勤務していたところだと思うのです。どっちのお菓子も小さくてかわいくて秋のおやつにぴったり。夜おやつとしていただきました。

眠い、という言葉しか出てきませんねえ。熱い紅茶を入れてきました。

この前、なんだこの声は、とあまりきれいではない声に空を見上げたら水色のきれいな鳥が数羽、桜の木に降り立っていきました。写真を撮りたかったのですが葉っぱに隠れてしまうのと動きが速くて。水色だから見つけやすいかと思ったのですがこれまた絶妙な水色、薄い空色で全然目立たないのです、木に入ってしまうと。そしてこの桜の木、かなり老木なせいか紅葉もせずすでに枯れ枯れで外から見るとスカスカなのに大きめの鳥の姿も隠してしまえるのですね。毎年「これ桜だったよね?」と思うくらい枯れ枯れなのですが毎年きれいに花が咲くのです。不思議です。変な鳴き声のきれいな鳥が電線に止まったところをようやく写真に収められました。何の鳥だろう、と写真から検索してみるとオナガ!私の知っているオナガと違う、というよりは私は本当のオナガを知らなかったのですね。気づいておりませんでした。私がオナガだと思っていた鳥さんはどなただったのか・・・。ね、ピヨ、とそばにいるHANSAのひよこに話しかけてみますが無表情ですね、やはり。この子、お店で何羽か並んでいるときには一番いい表情があった気がしたのだけど、と思ってもう一度見てみたらさっきよりかわいく見えます。なんなのでしょう。

最近、再び音楽生活なのですが、最近の音源の8割は音楽評論家で大学の講師もされている柳樂光隆さんが公開されているインタビューからです。noteに課金もしているのですが公開のペースが早くて、あー、追いつかないよー、と嬉しい悲鳴をあげております。高橋ユキさんもそう。記事の更新がしっかりしててしかも内容も濃く、あー、追いつかないよー(嬉)となるのでした。

10月28日に柳樂光隆のnoteで公開されたAlabaster DePlume(アラバスター・デプルーム)のインタビューは大変興味深く心に残るものでした。ロンドンを拠点に活動するサックス奏者で作曲家だそうなのですが学習障害を持つ方に音楽を用いて支援をしていたりそこで生まれたメロディーを作曲に生かしていたりというお話は支援に関わる立場としても興味深いのですがそれよりもこの人なら相手が誰であっても対話を試みるだろうし、その人のための音楽を奏でてくれるんだろうなと思わせる内容でした。このインタビューはzoomで行われたようですが、最初から相手に対するリスペクトフルな態度に驚きました。独特のペースを感じさせる語りにこちらも耳を傾けるようにして読んでいると時折スピリチュアルにも感じる語りが現れて胸を打たれます。音源を聴いてみるとまたびっくり。不思議な揺れと控えめな音の重なりあいが静けさと懐かしさを呼び覚ましてくれるような音楽で、今は知らない国の小さな祈りの場のような曲が流れています。調べたらTo Cy & Lee: Instrumentals Vol. 1に収録されているSong of the Foundlingという曲だそう。うん?Foundling?捨て子という意味でいいのでしょうか。みなしごハッチを思い浮かべました。

このお二人の対話は静かでお互いの声が同じ音量とペースで響いてくるような心地よいものでした。でもとても不思議、と思ってAlabaster DePlumeを少し検索してみたら海外での対面のインタビューなどもみることができました。少し「やっぱり」で少し悲しくなるようなものもあってそれはすぐにみるのをやめてしまいました。当たり前のリスペクトに少し身を引く人がいるのもよくわかります。でも、と私は思ったのでした。

また月曜日がやってきてしまいましたね。皆さんもGOOD MUSICと出会えますように。

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精神分析

ねば。

雨。結構しっかりした音を立てている。晴れの予報と聞いていたというか、今日は山に行くという話を聞いていたから日曜って晴れなんだ、と勝手に思っていた。

昨晩はPC前の椅子に寄りかかったまま寝ていた。ようやく書き始めた原稿を見直したが何が書いてあるのかわからない・・・私が書いたんだよね?はい。くまったくまった。消す。ああ。

今日も夕方までセミナーがあるからどうしよう。読んで、書く、を繰り返すしかないけど遊べないのが本当に嫌、とか言っている場合ではない。読むのも書くのも嫌いではないのだから、と自分を励ますものの書きながらぶつかる種々の事態に思考が追いつかない。というか、早くとりかからないからこういうことになるわけですよ、と自分を叱る。励ましもお叱りも他人から受けたい。自分は自分のやったことをすぐ無効にすると経験上、知っている。メカニズムは知らないけどなぜか効果がない。セルフケアは大事だけどあれは「まずやってみる」が大事でしょう。私はその「まずやってみる」を失敗しがちだからこうなるんだと思うのでそういう本買っても読み物としてしか活用できないだろうなあ。「この本にこう書いてあったからやってみれば」とかアドバイスには使えるかもしれない。お菓子食べながらダイエットの動画を見るようなことは最近していないけど。あ、今日は日曜だからラジオ体操じゃないや、テレビ体操あるでしょう。あれも眺めてると終わっちゃうのよね。当たり前だけど。お手本になってくれる体操の人たちの動きが呼吸にもすごく意識払っていてめちゃくちゃキレイ、と感心していたりピアノの音聞いてたりすると終わってしまう。テレビ局の意図はわかってるんだけどね。学校だってある程度の強制力があるというのがメリットなんだよね。その加減が難しいから色々大変なことも起きるのだと思うけど。大体の子は行けている、ということがそこで生じていることが適切だということを示しているわけでもないし。私の場合は最初から学校がもつ強制力を感じていなかったのかな。空気読めなかったのかな。勉強も大学に拾ってもらうまではほとんどしてないし。よく高校入れたよなあ。バイトばかりしてたからやっぱり学校というものが発する意図を理解していなかったのだと思うけど。反発するような強制力の強い学校でもなかったし。友達とか先生とのエピソードは色々思い出す。いい学校だったな。なら行けよ。はい。でも当時はそんなこと考えてなかったんだもん。でもだってじゃない。はい。隠れてやっていたバイトは厨房のおじさんとか最初めっちゃ怒鳴っててなんやねん、と思ったけど休まず行っていたのに。今だったら怖くてやめちゃう。なんか別の意味で怖いもの知らずというか世の中で前提となっていることとか普通の流れとかがセットされていなかったんだろうねえ、自分の中に。バイトはお金もらえるから、というほどもらっていなかったし、ほしいものがある子どもでもなかったからある程度貯まると郵便局に預けちゃっててそれでバレたんだけどね。怪しいことしているのではないかと疑われたけど一応労働の対価なの。ごめんなさい、心配かけて。はあ。論考書かねば、なのにこっちをダラダラ書いてしまった、と取り掛かろうとすると途端に眠くなる。これ強制力あるよ、締切間近ですよ。大丈夫ですか、自分。大丈夫じゃないよー。もう嫌だよー、じゃないよ、自分。って自分と追いかけっこ始めてはいけないわけです。はい。これが怠惰というの?ですね。コーヒー淹れよう。出かけるまでに進めねば。ネバー。

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精神分析

月、カーテンみたいな花。

毎晩、月がきれい、と思っていたら昨晩は十三夜。いよいよ満ちてきたその姿自体というよりは澄み渡った空の黒にすっきりと輝く様子に心落ち着きました。気温もちょうどよいからリラックスした身体で眺められますしね。

昨日はコンビニへ向かう緑道で花の写真を何枚か撮りました。金木犀はまだ花が残っているけど大分香りが薄くなりましたね。金木犀はみんなが思わず呟きたくなる花だと思いますど「え?金木犀?」とキョロキョロするくらいどちらの方向にいるのか分かりにくいですよね。「あ、カレーのいい匂い♪」と帰り道とかに感じる時って大体このお家、ってくらいには方角がわかるのに不思議じゃないですか?緑道には色々な花が咲いていたのですが「ゴージャス!カーテンみたい」と思ったのはケイトウ。学名は燃焼という意味のギリシャ語に由来する、とウィキペディアに書いてありました。今調べました。確かに。私が「カーテンみたい」と思うのは実家のリビングの大きな窓にかかっていたカーテンがこんな色だったから。岩崎ちひろの絵のようにお留守番のときに電話がかかってくるとくるまっていたカーテン。ベロア素材みたいで気持ちよくて隠れたりぐるぐる巻きになったり色々遊んでもらいましたね、カーテンさんには。

鳥がそばで鳴いています。カラスも遠くで鳴いています。遠いのに大きな声。読みたいと思っていたカラスの本があるのを思い出しました。これを閉じたらすぐにまた忘れそうだけど書いておきましょう、本屋さんで急に思い出すかもしれないから。声とか文字とか。記憶を引き出してくる情報は恒例のイベントとかだったら分かりやすいけど感覚的なものはすぐに空気に溶け込むように形を崩してしまうし意識的に引き出すことは難しかったりします。でも多分一度出会ったものは必要なときに出てきてくれるでしょう。フラッシュバックみたいな辛い記憶もあるけれど昨日の月みたいにギュッとした輝きに守ってもらえますように。

どうか今日もご安全に。良い週末を。

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精神分析

バンド世代、國分・千葉世代

今朝はぬるめのお茶。やさしい緑とかおり。

先日、ウドー音楽事務所の創業者の有働誠次郎さんが亡くなった。懐かしいアーティストたちが続々とSNS上に現れたのは彼を追悼するためだったのか。yahooニュースでは彼が招聘したアーティストとして「エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、KISS、エアロスミス、サンタナ、ジェフ・ベック、デヴィッド・ボウイ、ビリー・ジョエル、ボン・ジョヴィ、ジョージ・ハリスン、ザ・フー、ヴァン・ヘイレン、TOTO、ブライアン・アダムスら」を挙げているが、私はこの3分の2くらいのライブに行っている。私のロック時代はウドー音楽事務所によって支えられていたわけか。確かに名前にはとても馴染みがある。

今は久しぶりにEric Claptonを聴いている。『MTV Umplugged』のライブを収録した『Unplugged』がグラミー賞を取った年か次の年に私は東京へ来た。CDは1992年発売だからその年か。18歳の私たちは聴きまくったし歌いまくった。池袋の河合塾の帰り道や隙間時間にバンドマンの男子たち3、4人と楽器屋さんやヤマハで歌った。私は聴いてただけだけどすごく楽しかった。なんで彼らはあんなに弾けて歌えたんだろう。全員がバンドマンだったわけでもなかろうに。いやでも当時はバンドブームか。そのときの彼はベースを弾いていた。あの頃はいろんなところで自由に演奏できた。CD屋さんに入りびたっていろんな曲を教えてもらったりレコファンでレコードを漁ったりした。プレイヤーは実家にしかなかったのに。西武百貨店にはまだリブロがあった。フロイトの『精神分析入門』の文庫を買ったのもリブロだ。リブロにはあまりに馴染みがあり、池袋に通わなくなったあとも演劇を見にいくついでなどに寄った。2013年の千葉雅也選書フェアで色々買ったのもリブロだ。震災後、2011年から2013年は千葉雅也、國分功一郎の書き物からたくさん学んだ。二人ともほとんど同世代だったし臨床実践を意識しつつフロイトに触れてくれる人だったからなんとなく親近感があって勉強も楽しかった。

ふふふ。きっと今ここに書いたことって前にも書いている。何も考えずに書いている場所ではなんでもありなのだ。何度も思い出して何度も書く。精神分析設定での自由連想では毎日のように起きていることだ。反復に含まれる反復ではないものと少しずつ出会っていく実践だからその侵襲性に注意を払うために高頻度の設定が必要になる。精神分析的な心理療法を週1回の頻度で受けはじめた人が頻度をあげることを希望するのは当然のことだろう。もちろんそれが可能かどうかはお互いの現実的な事情による。やりたいからという理由でできることはそれほど多くないものだ。自らが置かれた状況で自らの持ち物で、今日も一日。

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精神分析

朝(Asa)、閃き、直観

明け方のまだ暗い空に大きな布を広げよう

透かしてみえる小さな世界

混ざってく光がまだら模様

ー石若駿 feat.角銅真実 「Asa」 (『Song Book』収録)

石若駿のプロジェクト『Songbook』シリーズは本当にいい。角銅真実さんの声がとても安心する。お二人は藝大で打楽器を専攻した先輩後輩関係にあたるらしい。

精神分析学会でも音楽を取り上げるとのことで聞こうと思っているがまだきちんとチェックしていない。Institute of Psychoanalysisでも象徴化されない経験の新たなコンテイナーとしての音楽ということでセミナーがある。バイオリニストのSara Trickeyがバッハのthe Chaconne for solo violin from the Partita in D minor by Bachを演奏してくれるらしい。精神分析で音楽を語るとしたら特にこの曲だと反復が重要になってくるのかな。フロイトはグスタフ・マーラーの分析はしたけど音楽に親しむ人ではなかったらしい。フロイトの部屋に音楽関連の機材ってあったっけ。あとで写真を見直してみましょう。

先日、友人にコロナの症状に「風味がわからない」という症状が残ることがあると聞いた。「風味!」と驚いたが抹茶風味のチョコレートのチョコの味はわかるのに抹茶の風味がわからないという話を聞いてなるほどと思った。そして日本のお菓子や料理がいかに風味を大切にしているかという話になった。またこれも一例だがコロナで味覚障害になった人が回復するときに甘味と酸味を最初に取り戻したという。これも動物としての人間を実感するエピソードだった。母乳と腐った食べ物の対比を思い浮かべたからだ。そして今度は母乳を飲まない赤ちゃんの話になった。お母さんも赤ちゃんも双方大変だろう。これは腐っているぞ、食べさせてはいけない、という嗅覚を働かせるのは母親のほうであり、早期の母子はやはりユニットとして存在しているのだ(cf.ウィニコット)と思わざるをえない。もちろんその役割はすぐに父親にも共有されるだろう。

そうだ、これも今書かなければいけないもの(全然書けない)で取り上げようと思っているのでメモがてら書くが、精神分析家のビオンが1978年7月3日のタヴィストック・セミナー

「私たちはこの残骸すべてを見て、その中に何らかの生命の火花vital sparkを探知することができるでしょうか」(2014, p.54)

という問いを投げかけている。

ウィトゲンシュタインは

「私が変化しない二つの顔をじっと眺めていたとする。突然、両者の類似性が閃く。こうした経験を、アスペクトの閃きと私は呼ぶ。」(私が引用したのは古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHK出版)p274)

「アスペクトの閃き」というのはビオンのいう「直観」ときわめて近いものとして私は実践にもとづく感覚から捉えているがそれによって捉えたものをどうするか、ということについても考える必要がある。あくまで患者「と」の体験である精神分析においてどちらか一方が何かを捉える(それだとおそらく「理解」の範疇)ということはない。その二人の体験には必ずぶつかり合いが生じる。ビオンが「火花」という言葉にその事態を含んだかどうかはわからないが理解ではなく体験を重視したのは確かだろう。

ということで書かねば。

どうぞ良い一日を。

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精神分析

厄介

かりんと饅頭、美味しい。やっぱりかりんと饅頭は美味しい。「やっぱり」をつけるなら「かりんと饅頭は美味しい」は一回でいいよね。熱い緑茶といただきました。

女の権利が脅かされる出来事って事件化されていなくても第三者に話せば「ひでえな、クズだな」と言われるようなことは色々ある。たとえば、妻、愛人、ビジネスパートナーと都合よく使い分けをしていることを搾取として自覚しないどころか、こっちには怪我をさせたけどあっちにはしていないから大丈夫、となかったことにできる「俺倫理」を持っている知識人もいる。また、単なる快楽の種類に基づく使い分けをみんなを少しずつケアしてあげてるつもりでいる勘違いフェミニストである賢人もいる。しかし、都合よく扱える女が複数いても足りないこともあり、SNSで「がんばる」宣言をして「いいね」をもらわないとがんばれない50代もいる。この例は、女は数ではないということを示してくれてはいるが、その場しのぎの部分利用でそこそこ満足できればそれで構わないので、そういう自分のあり方についてはどうでもいいらしい。複数の人を「ケア」しているつもりであるがためにダブルブッキングなどスケジュール管理できなくなって苛立ったり自己嫌悪に陥っている人を見たときは、この人その前に何か感じないんだ、と思ったりした。彼の主観としては「まさか俺様が女を見下したり傷つけたりするなんて」という感じだろう。女の方も見下されていると思いたくないので美味しいもので「満足!」となかったことにしたり、それこそ身体的な満足を優先することもあるのでお互い様となってしまう場合もある。相手を部分利用するだけではなく、自分をスプリットさせる防衛を使ってしまう。ナルシシズムが傷つかないための防衛は次から次へ発動する。傷ついてもそんな人が支えてくれるわけはないし、そんな人と関わっている間に失ったものにあとから気づいても戻ってこないのだから難しいことだ。人が健康に一人の全体として大切にされながら生きる時間を奪っておいて平然と快原理、一次過程優先でいられるのも人間だし。残酷。など事件化されない出来事にも事件になるものと同じ芽が潜んでいるとみて基盤となる構造は同じでもたまたまそれが表面化しないような環境があったとかなかったとか正当防衛とかいって責められる前に責めておいて黙らせるとかいろんなふうに出来事は処理されるわけだし人間関係は厄介だ。

今日も色々あるでしょう。自分を大切にがんばりませう。

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精神分析

ジャニス、お菓子、ブランディー

Don’t compromise yourself. You are all you’ve got.

ーJanis Joplin

ジャニスを聴き続けていた。ジャニス・ジョプリン。27歳ってどんな年齢だったっけ。私は大学院を修了してはじめての職場、といっても非常勤だったから学生時代からの塾講師のバイトも続けながら。当時も朝から晩までよく働いていた。朝、自転車で教育相談室へ向かう途中、同じ方角の大学に通っていた塾の教え子と時間が重なりいつも一緒に行っていた。生意気盛りの中学生集団の時期からみていたが彼だって27歳を無事に過ぎた。私はちょうどお金の準備ができたから精神分析家のところへ連絡をした頃か。その時は2、3回のやり取りで「まだいいのでは」となり治療は始まらなかった。その分析家はそれから数年して亡くなった。電話とFAXの時代だった。あの緊張と安堵の体験があったから私はずっと精神分析を信頼して自分もそれになろうとしているのだろうといつも思う。精神分析を受けるということは私にとって当たり前の選択だったのが自分でも意味がわからないがなんらかの形で生き直さねばならないと思っていたのだろう。私にとってはそんな年齢だったがジャニスはそれまでに多くの曲を作り、ライブをし、死んだ。薬物中毒と言われている。ジャニスは母と同じ世代で絵を描く人だった。母はジャニスを聞いていただろうか。聞いたことがない。絵は自分を内に籠らせる、歌は外に開く、歌が自由にしてくれた、というようなことをジャニスは言っていた。同窓会のときのインタビューで。冒頭の引用も有名だが引用元がわからない。ジャニスの辛い体験や底知れぬ孤独が彼女の死と直接結びつくわけではないだろうけど、彼女のあの声によって生かされてきた人もいることを思えば彼女の生き様が見事だったことだけは確かだろう。ものすごい歌声だった。夜中にお風呂に浸かりながらずっと聞いていた。身体が乾くまできいていた。出てきてしばらく半袖でいたら冷えた。寒いなと感じながらジャニスの歌声を頭の中で反芻していた。20代の頃から着ているテキサスっぽいリバーシブルのトレーナーを着た。というかこれテキサスロングホーンズのか。大学名やチーム名が入ったトレーナーが流行った時代だったか。ジャニスは生まれ故郷のテキサスに戻るかはわからない、サンフランシスコが好きだから、というようなことも言っていた。切ないよ、ジャニス。

今朝は先日書いたプレオープン中のケーキ屋さんの「焦しバターのフィナンシェ」。名前だけで美味しそう。美味しかった。だるま珈琲といただいた。そして今朝の音楽は柳樂光隆のインタビューを読んで知って聞いてみたらハマってしまったジャズハーブ奏者のブランディー・ヤンガー。柳樂光隆のプレイリストがまた素晴らしい。ずっと聞いていられる。

お菓子と音楽、仕事仕事仕事。がんばりましょう。

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精神分析

月曜日、お菓子、週末

月曜日がまたきましたね。あえて「きてしまった」と書かないのが味噌。味噌ってなんだ。「手前味噌」とかもさ。「みそっかす」のみそも味噌?なんなんだ。旅に出て朝ごはんがついている宿に泊まるとお味噌汁の味に驚くことがある。そうか、ここは赤味噌か!とか。旅先に思いを馳せている場合ではない。再び月曜日ということはもう月末ということなのだから。

私の朝ごはんはほぼお菓子。今朝はパッケージの素敵な薄い珈琲とこの前散歩中に通りかかった小さなケーキ屋さんのちっこくてかわいいマロンの焼菓子。なんだここは、とのぞいたらプレオープンということでどうぞどうぞとしてくれた。オープンしたらケーキを買ってみよう。とても素敵な缶入りクッキーがあって思わずきれいと呟いたらデザイナーさんと協力して作ってるとのこと。特別な贈り物にしたい。焼菓子、ちっこいのにしっかりマロンの味がしておいしい。満足じゃ。でもお土産にもらったぐんまちゃんのこちらもちっこいメープルケーキもつけた。SPODEの小さなお皿にちっこいふたつを並べたらとてもかわいい。ぐんまちゃんって今や群馬のゆるキャラとして有名だけどもともとはあかぎ国体のキャラクターだったと思うんだよね。私がまだ小学生のときだったけどそこら中で見かけていたように思う。あかぎ国体は身内が吹奏楽部で演奏していたし、小学校の行事としてみんなで見にいったんじゃなかったかな。家族でいったのかな。

週末はいくつか事例検討グループがあったのだけどとても有意義だった。初回面接を検討するグループでは逃れられない自分の思い込みをどうやってできるだけスタンダードとかニュートラルとか言われる状態に持っていくか、そのための訓練、という話とかした。あとグループのマネージメントについて。人が3人以上いたらマネージメントは必須になる。私は臨床の基本はマネージメントだと思っているのでこういう小グループでじっくり話し合う時間があるのは私もありがたいしみんなにも役立ててほしいと思う。

昨日は閉館間際に滑り込めるかなと思っていた展覧会に行けなかったので勇気を出してはじめての喫茶店に行ってみた。はじめての場所って緊張しないですか。私はいちいちドキドキする。でも行ってよかった!音楽に浸れるお店で大好きなIPAを飲んだ。お店の人も素敵だった。今度はレコードのこともうちょっと教えていただこう。

さあ、月曜日。洗濯物は外に干したよ。秋晴れは信頼していいよね。少しでもすすめなくては。はあ。がんばろー。

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精神分析

環境、還元。

曜日感覚がおかしくなっているのか予定を忘れたり間違えたりが増えている。何も進んでいないのになぜだろう。みんなパワフルだなあ、と周りを見て思うがやることをためるから動けないのだろう、と自分で自分を叱る。自分で自分に何かやってもその自分もたやすく怠けるからダメダメですのん。「ですのん」って言い方、昔からずっと好きな大阪出身の俳優山内圭哉さんのマネ。大阪のイメージそのままのかっこいい人。中島らも主宰の笑殺軍団リリパットアーミーに所属していた頃から知っている。中島らも事務所プロデュースのわかぎゑふ作・演の『お正月』が最初に見た舞台だと思うのだけど違うかも。この前のケラ&緒川たまきのケムリ研究室『眠くなっちゃった』にも出ていて相変わらず倒錯的なのかまともなのかいや絶対まともじゃないという人をナチュラルに演じていた。絶対素敵な人だと思いますのん。昨年、高円寺にお店を開いたとのことなので行きたい。ナイロン100℃というよりグループ魂の、といったほうがいいのかもしれないけどこれまた昔から大好きな三宅弘城さんとのライブも私のオフィスから散歩圏内の幡ヶ谷であってそれもすごく行きたいけど時間が合わない。三宅さんはEテレの『みいつけた!』でもお馴染みだから小さな子がシームレスにライブや舞台とつながる機会になればいいなあ。音楽評論家でDJで昭和音楽大学でも教えておられる柳樂光隆さんのいろんなジャズミュージシャンへのインタビューを読んでいるとそれぞれを取り囲んできた教育やサポートを含めた音楽環境の豊かさ(というか工夫)に驚かされる。柳樂さんも若い世代が出来るだけ早く「クラブへ行く」とかを体験できる環境整備の大切さを考えておられるようだけど本当に大事と思う。英才教育とかではなくてお金がなくても日常的にその文化に触れていける場所があるというのはそれを職業にするとか関係なくその人の人生に影響を与えると思う。フレディ・マーキュリーが死んだ日、友達が教室でずっと泣いていたこと、新しいもの好きな父が買ったまま使わずにいたCDプレイヤーでこっそりマイルス・デイビスを聞いていたこと、高校生のときに行ったディスコ(いけない)、ロックを語らせたら止まらないぜ、と言っていた塾の先生のことをその時にきいた曲とともに忘れない。曲は忘れてもエピソードを忘れない。そういうきっかけがあったからしばらく音楽生活から離れていてもこうして再びどんどん触れていけるのかもしれない。それがいいものだと知っているから。舞台もそう。原点は多分あの日の宝塚。今の私と同じくらいの年齢だったであろう女性たちの悲鳴も覚えている。自分のハンカチを使うふりをされただけでものすごい興奮!今ならわかる。すごいサービスだったな、と今なら思う。わかるわからないを超えてとりあえず出会っておくこと、そういう場所があること、そういうことの大切さを最近特に考える。自分がそこそこ恵まれてきたからこそそれを還元するには、ということを考える。その前に目の前のことを、ですね。はい。今日は日曜日。2グループやりますよ。美味しいお菓子を食べてがんばりましょう。

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精神分析

七福神、蕪島、象徴化

眠い。今日は晴れみたいなのに空はまだ曇り空。昨日の空はとてもきれいで写真をアップしている人が多かったですね。私もしました。今朝のお菓子は群馬の定番お菓子「七福神あられ」。小さい子からご老人までみんな大好き。しかしなぜ七福神以外に「寿」とかいってココア味を作ったのかしら。「旅がらす」と同じ失敗では、と思ってしまう。ココア味のお菓子なら他にたくさん美味しいのがあるのだし定番がこんなに美味しいのだから加えなくていいのに。七福神めぐりするときだってそれ以外いないじゃん。まあ、でも宝船とか色々ゴテゴテしてるから余剰も大事か。夏に八戸に行ったときウミネコの繁殖地で有名な蕪島へ行ったのだけど、そこから見える景色に「七福の岩」というのがあった。岩7つ。神様の形態は柔軟だな、というか石や岩が投影先として柔軟なんだな。硬いのに。自閉症の子でその硬さを好む子たちもいるけど彼らがそれを遠くから見て神様と思うことはないだろう。実際の硬さが重要であってあえて変形する必要もないだろう。象徴化機能は過度である必要はない。そういえばこの蕪島、イワシがたくさん獲れる場所だからウミネコが繁殖したらしいのだけど太平洋戦争の末期に旧日本海軍が埋め立て工事をして島を陸と繋げてしまった。そのせいで何が起きたかといえば猫、タヌキ、キツネなど天敵が増えた。だから保護しなくてはないけなくなった。こういう話、大間から見える島にもあった気がする。その島は海鵜が自然に繁殖したのだったかな。勝手に変形するのはよくないこともあるよ。自然が変わってしまう。言葉のレベルだってそう。言葉にするとか見立てるとかって相手なくしてできるものではない。象徴化機能は一見「正常な」大人として必要な機能みたいな感じがするけど言葉巧みなだけで心ない人なんてたくさんいるわけだから。あんなことしといてそんな言葉で「いいね」集めたり人にもの教えたりしてるんですか、とかね。しかもそういう人って誰かの言葉の引用が大得意だったりする。自分が吐いた言葉は態度を伴うので直接吐かれた人との関係で考えるべきでしょうけどね、と私は思う。感じよく人生にまつわる何かを教えたりしている人が気に入らない相手に加害性押し付けて自分だけ平然と快楽を保持しているだけの人だったりするから。いや、そうやって人を部分的に扱う人といったほうが正確か。精神分析で象徴機能が問題になるのはその位置付けがそんな簡単じゃないからかもね。あーあ。神保町のことを書こうと思ったのに蕪島のことを書いてしまった。晴れてきた。どうぞ良い一日を。

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精神分析

先輩たち

早朝の空がとてもきれい。気温も半袖ニットでちょうどいいくらい。足出してないせいもあるかも。今日は友達とサッと会ってサッと移動しないとだから服装気をつけよう。ギリギリまで会いたい。お互い近くに住んでいても遠くの地での学会のときくらいしかごはんしないという人もいるけど「今度東京行くからごはんしよう」とかお互いの土地にいくときは声をかけあったりする。私は学会に行くときは大抵開催地に住む友人と会う。この年齢になると学生時代の友達はいろんな土地へ散らばっているし、学会って大体大きい都市でやるから誰かしらがいる。札幌でやったときは最高だったなあ。バド部の先輩が同じ道内とはいえ少し離れたところからわざわざきてくれて色々とおもてなししてくれた。北海道の人がみんなそうというわけではないだろうけどその人はフットワークが軽くて札幌にも詳しかった。学生時代は近くに住んでいたからお部屋に遊びにいっておしゃべりしたりした。「あみー」とのんびり寄り掛かってくる声が聞こえそう。バド部の先輩たちとは今も仲良しだけどその先輩は特別。ニセコでダッキーというのか、一人乗りボートでの川下りに連れていってくれたときには驚いた。途中ボートから川に降りて遊んでボートに戻ろうとすると自力で上がれなくなっていた。こんなに消耗していたのかとそのときはじめて気づいた。なのに私よりずっとか弱いと思っていた先輩はあっさり戻っていた。えー。しかもそのあと重たいボートを自分で持って歩かなければだったのだけどそれもあっさり。疲れ切ってるのにこんな重たいもの担いでいくのかよ、と私にはキツかったのに。先輩、そんなに逞しかったっけ。そういえばそうか、とこれまでのいくつかの場面を思い出した。ニセコは水量も十分で激しく遊べてとても楽しい体験ではあったがボートに戻れないときは怖かったよ。先輩。水って怖いね。先輩の家は冬になると一階部分が雪に埋まるそうだ。私が遊びにいったときはまだ一階から景色が見えた。すごい。北海道とか雪国の生活ってすごい。私は寒いだけでかなりダメになるので住めない。でも住まなくてはとなったらどうしよう。先輩に助けてもらおう。頼りにしてもらっているようで結局いつもずっと寄り掛かってきた。みんなすごく面白いし優しいんだもん。子沢山の先輩も数人いるけどもうみんなすっかり大きくなったらしい。小さかったのにねえ。当たり前だけど大きくなるよねえ、ときがたてば。それぞれ個性的な人生を歩んでいるようなのでこれからもマイペースでがんばってほしい。なんだかさる・るるるだよ。子沢山の先輩には「あみこ」と呼ばれているけど当時からお母さんだったんだね。全然そんな風に思ったことなかったけどずっと面白がってかわいがってくれたものね。絵本を思い出すわけだ。プチこどもがえりができる場所があってよかった。精神分析は赤ちゃんになりすぎて自分でもやばい(患者として)と思うときがあるけど友達はグッドイナフ。彼女たちはグッドイナフなお母さんたちだな。すごい。なかなか無理なものとしてのグッドイナフでしょう、普通は。こうやってダラダラ喋り続けられるのも友達のおかげだよなあ。ありがたい。ありがとう。今日もそんな場合ではないけど気持ちだけはのんびりやりましょう。なんか今日は夜雨なのかな。どの地域の方もお気をつけてお元気でお過ごしくださいね。

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音楽

マグ、ヌバイア・ガルシア

洗濯物が思ったより多くて辛かった。というより早く次のことをせねばなのに、という焦りでそう思ったのかも。色々大変なんだ。この柿、美味しい。駅向こうの八百屋さんの。この街に越してきたときはすぐそばに八百屋さんがあったのにな。そのあとにできたお花屋さんとは仲良くしていた。そのあとには何ができたんだっけ。古いアパートの1階部分をいつでも撤退できるような簡素さで使っていた店たちだった。みんなどこかでお店続けてるかな。熱いお茶飲もう。今日はマグカップに緑茶を入れた。持ち手があるのにそうではないところを持ったらあちち。当たり前だ。湯呑みの底辺を熱くならないようああいう風にしたのも工夫だよね。マグの持ち手だってくっついてるのに熱くならないのだから不思議。はじめてこんなような形の入れ物ができたのってすごくすごく昔でしょう。土器から?最初は道具を使ってなかったのだものね。すごいことだ。小さいとき、みんなで雨に向かって口開けたりしたでしょう。自然に対する飢餓感と恵みを知る瞬間だったのかしら。そういえば子供の頃、学研か角川かどこか忘れちゃったけど漫画「日本の歴史」の日照りの場面はとても怖かった。ガザの水や電気はどうなっているのだろう。人がこんなに工夫ができるようになった時代に人を殺すなんておかしい。すごくすごく昔から言葉ひとつで人を殺せることはあったかもしれないけど、いや、なかったかもしれない。言葉はいつからこんなに暴力的なものになったのだろう。

音楽はいい。はずなのに、というか、いいものだから?いいものを攻撃するのは人間の原初的な心性なわけだけど加齢だけでは大人になれない。破壊と殺戮を繰り返してきたのは大人だもの。イスラエルの音楽フェスで襲撃にあったDJの方のyoutubeを少しみた。音が出せなかったから字幕で。もうなんともいえない気持ちになった。どうか少しでも早く普通の感覚を普通の生活を取り戻すことができますように。

昨日、blue note東京で初来日公演を果たしたロンドン出身のサックス奏者、ヌバイア・ガルシアのインタビューを読んだ。インタビュアーは柳樂光隆。媒体はRolling Stone Japan。来日前にもデビューアルバムを介したインタビューを再掲してくれていてそれでヌバイアのことを知ってデビューアルバム『Source』を何度も聞いた。来日公演の様子をSNSで知って私も行きたかったよーと思った。今回のインタビューはヌバイアが通り抜けてきた音楽ジャンルの多彩さに驚かされた。音源もたくさんで全部チェックする時間がない!のが残念だけどリミックス・アルバム『Source ⧺ We Move』が素晴らしくてずっと身体を揺らしてしまって仕事にならない。記事と一緒にいろんな音源チェックしてみて。今日の気分に合うものが見つかるかもしれない。

あと最近ずっと聴いているこれも柳樂光隆のインタビューで名前が出てきたThe YAYennings Quartetのデビュー作『Scott Ave』(2019)。軽やかで淡々としていて明るい。乱れなさの醸し出す明るさって仕事するにはちょうどいい。

さあ、今日もどうぞご無事で。東京は爽やかないいお天気です。みなさんのところはどうでしょう。どうかお元気で。

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映画 言葉

高崎、高橋、ギター、千葉

今朝の飲み物はだるま珈琲。先日、突然高崎へ行った帰り、新幹線改札前にある充実のお土産屋エリアで我が家用に買ってきた。この前ノンフィクション作家の高橋ユキさんが高崎駅を利用して前橋に傍聴に行っていて、そのルート知ってる、と嬉しかった。前橋地裁で働いていた知り合いもいたし、高橋さんが以前その近くの美味しい珈琲やさんのことも呟いていたのも嬉しかった。もちろん布袋のことも呟いていた。新幹線ホームの発車メロディが布袋虎泰になったから、多分今年。高橋さんは氷室ファンなんだっけな。高橋ユキさんの傍聴記録はvividですごいし、有料だけど最近始まった日記もすごく面白いからチェックしてみて。人のこころと行動のわからなさに対する理解が深まるから。

さてさて珈琲のお味はどうかな。パッケージは白地に赤い達磨の絵が書いてある素敵なデザイン。いただいたちんすこうと一緒に。美味しい。この珈琲、結構コンク(うち語)。色々あって美味しい。みんな違ってみんないい。金子みすゞは上田出身なんだっけ、など話す。ちなみに画家の星野富弘は群馬出身で美術館もある。小学校の授業で色々みたり聞いたりしたときはどうしてそんなことができてしまうのかと驚いた。かわいいお花の画集も持ってる。群馬にはね、といえばそこそこ観光案内できる程度に色々行っているな、群馬出身者のわりに。高崎は隣町で小さい頃はクリスマスケーキは高崎のお店のと決まっていたし、夏のキャンプでは新幹線からも見える白衣観音の麓にあったカッパピアというプールに連れていってもらっていたくらいしか記憶がない。ここ数年で少しずつ知った。高崎市は達磨の生産量が全国第一で、この珈琲は市内の珈琲やさんがそれにちなんで作ったみたい。高崎だるま市は東京都調布市の深大寺、静岡県富士市の毘沙門天大祭だるま市と並ぶ「日本三大だるま市」の一つ。高崎はアニメ映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』の舞台になっていて映画にも達磨が登場。主な舞台は大きなイオンモール。あの辺何もないから遠くからでも目立つ大きな建物なんだけど行ったことないな。イオンモールって割とそういうところにあるイメージ。滋賀県草津のイオンモールもこんな感じだった気がする。滋賀は色々と興味深い土地だし友達にも会いたいからまた行きたい。そのまま京都へ行くこともしてみたい。

昨晩久しぶりにギターを触った。コードは4つくらいしか覚えていない。Cを押さえて弾いてみたらCの音がしなかった。ガーン。以前は教わるままにやればそれなりにそれっぽい音が出たのに。ガガーン。とかショック受けてないでジャラーン♪ってカッコよく弾けるようになりたい。せめてバンド組んで失敗する夢くらいみたい。なんか夢ってあまり成功しなくない?そんなことない?意外と現実の方が無難だったりする気がするよ。とにかくなんでも触れ続けていないと夢にだってでてきてくれないよね、続けよう。続けるのが一番大変なんだけどね、というのは3回くらいしかみていない朝ドラの蒼井優のセリフ。まさに。

昨日は朝から千葉雅也さんの言葉にしんみりしっぱなしだったなあ。この前の平井靖史さんの時間論とも重なったし読者でいてよかったなと思った。人の言葉は断片で聞くものではないからね。

さあ、準備して出かけましょう。準備なんてあっという間。持ち帰り仕事もそのまま持って出ましょう・・。

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精神分析、本

距離、言葉、秘密

なにやら素敵なデザインのドリップコーヒーをいただいた。お味も美味しゅうございます。ありがとさんです。美味しいショコラのスイートポテトと一緒にいただきました。

この前、ドゥルーズ研究者の小倉拓也さんが秋田で研究をされていること自体に意味があるのでは、と精神分析にとっての中央であるロンドンではなくスコットランド、エディンバラで分析も受けず分析家になった精神分析家、ロナルド・フェアバーンのことを思ったりしながら書いた。いわゆる「中央」との距離というやつは結構重要なのだ。言語だって変わってくる。精神分析だって初期の論文は全部ドイツ語。でもフロイトがロンドンに亡命したり、戦争が中心を変えた。それまでもどの国で誰が何を、ということは本当に色々あったわけでそれはジョージ・マカーリ『心の革命 精神分析の創造』(みすず書房)に詳しい。

今ぼんやりドナルド・フェアバーンと書きながら、あれ、フェアバーンもドナルドだっけ、ウィニコットと同じ?あれれ?と思ったけどロナルドである。なんでドナルドとかロナルドとか似てるけど違うみたいな名前ができてきたのかな。伊藤とか佐藤とか武藤とか古藤とか江頭とか、あ、江頭だと漢字は「頭」になった。そうか日本語だと漢字で由来も変わってくるか。ドナルド、ロナルドとかきながら、なるほど、とかロナウジーニョとかも浮かんできた。ロナウジーニョは昨日のTBSラジオ「#こねくと」で書評家の渡辺祐真/スケザネが、古田徹也『謝罪論――謝るとは何をすることなのか』(柏書房)を紹介するなかで石山蓮華のエピソードに出てきたお名前。いいエピソードが出てくる素敵な紹介だったでのぜひ。『謝罪論』はとてもいい本だよ、と言っていたら私の周りでも「買ったよー」という人が何人かいて嬉しい。あーでもないこーでもない、こういう場合もあるけどこういう場合は、とか色々考えられるのはいい本だと思う。

毎月、ラカン派以外のフランスの精神分析家の文献を読んでいる。フランス精神分析においてはラカンとの距離は重要だ。この前はセルジュ・ティスロンの『家族の秘密』を読んだ。秘密の言葉に関して「追放された言葉、あるいは情熱(ふりがなはパッション)に覆われた言葉」という項目があってhomonyme,paronyme,allosème,cryptonymeというフランスの精神分析家のニコラ・アブラハムが分類した秘密を伝達する媒体についての4つの語法を知った。こういう考えはフランス人には馴染みがあるけど日本人には、というから子供の遊びはこんなのばかりだし、私なんていまだにやってる、というようなことの子供の遊びにはありますよね、という話だけした。秘密や恥についてもフランスと日本ではその言葉が使われるときに前提とされるものが異なるという話は重要だと思った。ティスロンがここで秘密を取り上げているのは精神分析が秘密を取り扱うものだからであり、トラウマとの関連においてなのだけどヨーロッパでトラウマというとき、そこには必ずホロコーストが背景にあり、日本だったら原爆、阪神淡路大震災があるなど。今まさに起きている戦争はそれ自体もトラウマとなるし、今を生じさせているトラウマの歴史にも目を向けざるをえない。先日、最初に挙げた小倉拓也さんが秋田魁新報の連載に書いた記事『「逃げて、生きる」という平和試論』を読んだ。言葉や戦争について考えるときに保持しておきた視点だと思う。ホロコーストに関して読むべき本は山ほどあるが『ホロコースト 最年少生存者たち 100人の物語からたどるその生活』(柏書房)は精神分析家がそこにどう関わったかの一端を知ることができるし、生活史に耳を傾ける臨床家にはおすすめしたい。紹介代わりに『子供の虐待とネグレクト』(日本子ども虐待防止学会)に掲載された森茂起先生の書評はこちら。

東京は今日もいいお天気。忙しい毎日だけど健やかに過ごしたいものですね。

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仕事 言葉 音楽

言葉とかTシャツとか初回面接とか。

寝てるときに右足首を左足首にかける癖があるようで自分の足の重さのせいで痺れたり痛んだりしている。力の抜けた人間の身体は重いとはいえ両方とも自分なのに。どの雪崩れからここへきたのか舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫)を手に取った。パラパラしつつ最近私は歌のない曲か歌詞が聞き取れない曲ばかり聴いているなと思った。もしかしたらとんでもない歌詞の曲を口ずさんだりしていたりして、と思うことはハードロックに没頭していた高校時代にもあったがそんな感じ。色とサイズがかわいくて気に入っていたTシャツの文字がスラングだと英会話の先生に笑われたときは赤面した。好きだった人が半ば押しつけるように買ってくれたTシャツには差別用語として受け取られてもおかしくない言葉が書いてあった。自分で選びたかったな(ツライ)。音楽はどうなのだろう。差別的で暴力的な言葉を使う人でも誰の胸にも響くような音楽なら奏でられたりするのだろうか。するのだろう。差別用語をモノに包んで贈り物にだってできるのだし。言葉は相手がいればその影響を受けざるを得ない。自分が何かを言って相手から返ってくる言葉は自分が発した言葉の影響を受けていることは忘れられがちだが、という話を初回面接のグループでした。力動的な心理療法家としてアセスメントする場合、防衛のあり方などはそのコミュニケーションにおいても反復されるので自分のあり方抜きでアセスメントはできないだろう。治療者は目の前の人が何に困っているのかを把握するためにいつもその人が取りがちなコミュニケーションに対して開かれている必要がある。たとえ相当苛立ったりしたとしてもどうして今この人とそうなっているのかということを自分が発しているものを含めて考える。だから自分の特徴を知っておく必要がある。そのために訓練はある、という話をした。

別の本のことを書こうと思っていたのだが眠くなってしまった。二度寝はできぬ。準備せねば。新しい1週間もがんばりましょう。

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お茶、ケムリ研究室『眠くなっちゃった』

ベッドで雨音を聞いていた。結構しっかり降っている感じ。今日もルピシアの「知覧 ゆたかみどり」。おいしいおいしい言っていたらいただきました。本当においしい。少し低めの75度から80度くらいのお湯でいれるのがおいしいのにぼんやりしていて熱いお湯をいれてしまった。でもおいしい。今朝はまだなくなっていないお土産お菓子にちんすこうとかパンセとかまだどこのかチェックしていないお煎餅とかも追加されたから選び放題。でも今日はあんまりおなかが元気ないらしく「どれにしようかなあ」と眺めただけでお茶だけいれた。おなかが積極的に痛みを訴えてくるわけでもない日は自分の行動で自分の状態を測る感じ。小さい頃から胃腸が弱いわりにお付き合いが下手でおなかに申し訳ない。欲望がね・・・。ポットのお湯を足しながらこの前まで毎日煮出して冷やしておいた麦茶のパックが目に入った。冷蔵庫の麦茶が減らない日が増えていってこの前「もういっか」となったのだ。今日はグループもセミナーもあるけどいつもよりのんびりできる。とりあえず作っておこうかな、と1000mlまで目盛が入っている小さい方の片手鍋に上限ギリギリまでお湯を入れる。本当は1200mlまで目盛が入っている鍋の方が余裕があっていいのだが今ここにある方を使っちゃう。IHなのでタイマーをかける。7分でお湯が沸く。わりとすぐに小さな泡が鍋の底につきはじめる。この鍋でこのまま「6」の熱でいくと7分より少し前に吹きこぼれる。なんとなく見続ける。泡がどんどん増えていく。これが大きな泡になって一瞬でふきこぼれる様子を思い浮かべながら小さな泡が水面を白く濁ったように埋めていく頃に「5」にした。7分はこっちの鍋用設定ではないのだから最初から5分とかにしておけばいいだけなのだが時間に余裕があると動きが鈍くなるのでぼんやりキッチンに立って観察。小さな粒が現れて最初は控えめなのにどんどん数を増やしていく。音も変わる。校庭にひとり、ふたりと出てくる子どもたちがいつの間にか校庭を埋め尽くしていくとか、朝の光をいっぱいに受けて遠くまで見渡せる表参道が用事を済ませて出てきたら遠くまで人でいっぱいだったとかそういうのを思い出す。ふきこぼれるほどに人が溢れてしまいませんように、とやはりガザを思う。

昨晩はケラリーノ・サンドロヴィッチと緒川たまきのユニット「ケムリ研究室」のno.3「眠くなっちゃった」をみた。場所は三軒茶屋の世田谷パブリックシアター。今回、舞台装置かなにかにトラブルが生じたということで初日があくのが1週間遅れた。私はまた観られないかも、と心配した。ケラさんの舞台だけは絶対に観たいのだがコロナで公演自体がなくなったこともあったし、席数が減ってチケットが取れなかったこともあったし、コロナで私がいく日をいれた数日が公演中止になったこともあった。なので今回も何かあったらどうしよう、と思っていたらあった。心配した。払い戻しになってしまった方々はとても残念だったと思う。こういうのは巡り合わせだなあ。私は今回はラッキーだった。とにかく幕が開いたのはよかった。開いてみたらとんでもなかった。上田大樹さんによるオープニング映像の素晴らしさはいつものことだが今回はあまりの良さに最初から涙が出てしまった。役者の皆さんのほとんどは何度も舞台で見てきている私にとってはお馴染みの猛烈に安心感のある人たちで、振り付けも何もかもが素晴らしくて今思い出しても涙が出てしまう。ストーリーももちろんあるし近未来を描いていたはずが今すでにそんな未来がきてしまった、ということを実感させられるセリフも多かったけどケラさんの舞台は全体としてしか語れない感じ。公演終了の放送が流れても拍手が鳴り止まず、また役者さんたちが出てきてくれて客席はスタンディングオベーション。本当に素晴らしかった。東京は今日の13時でおしまい。是非チェックを。この後の北九州、兵庫、新潟にいくというのもありかも。

今日の雨は舞台の余韻をひきずるのにぴったりかも。東京は雨だけどみんなの住んでいる場所はどうだろう。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

プロとか人間とか。

薄緑のお茶がきれい。何もかも進んでいないけどお茶はいつもきれい。空の色も水色とピンクになるようなならないような色が境界線なくしててきれい。昨晩は明日までに読まなくてはいけない本を探し回って終わってしまってなんにもなんにも進んでいないのだけどなんにもベイベーだな、って今思ったのは前に身内が「何度もベイベー」って曲を舞台用に作ってそれが私の中を流れてきたから。ほんと単純で最初はなんだその曲って笑っていたのだけどプロにアレンジをお願いしたらとんでもなくかっこいい曲になって返ってきてプロすごい・・・と思ったのだ。しかもその人とてもいい人で、とまで書いて「あ、これは別の人だったかも」といつも通り記憶の揺れがひどい。いい人!素敵な人!やさしい!って思うことがたくさんあるから混ざってしまう。「プロすごい・・・」と思うことも本当によくあってこの前も「ちょっと意味がわからない」と思うくらいすごい人に会ったのだけど一緒にいたり会話できたりするんだよね。動物とは通じ合っている気はするけど会話はできないし。プロってなんだ、という話でもあるけど対話ができる、ということまで含めてプロだと思う。

でも人間ってわからないものでとっても素敵でとっても大好きと思っていた人に「あれ?」と思う瞬間があったとして、そのときは「この人に限ってそんなはずないか」という感じでなかったことにするのだけど小さな違和感は大抵正しかったりする。悲しいことに。前にその人の全体がなんだかわからないまま勢いみたいな感じで親しくなった人がいた。その時点で「あれ?」という感覚をいくつも持っていたのだけど否認していた。その人には配偶者と愛するペットがいてそのペットが死んだあともそのペットについて呟くたびにたくさん「いいね」がつくほど動物好きで有名だった。その人の家にはほかの動物もいたけどそのペットだけは特別だったようで家族がほかのペットの死を悲しんでいる日もその人はごきげんに愛想を振りまいていた。私がそういうエピソードに「あれ?」と思うのは、その人が人に対しても突然冷たくなるところがある人でいわゆる「さめる」様子がよく伝わってきて、怖いと感じることがあったから。そしてその直感が正しかったことは悲しみが共有されなかったペットが死んで一年もしないうちにわかった。人を全体としてみていたら絶対にできないことってあると思うのだけど部分で見ている人はやってしまってから「だっておまえがひどいことするからじゃないか!」みたいな感じで何も言っていないのに不安定になったりしてしまう。本からそれだけ学べるのに人からは決まった範囲でしか学べないのか、SNSではそれだけ発信できるのに受信範囲はそれだけか(見なければいいから)と驚いたりもしたが自分の攻撃性によって被害的になりやすい人との対話は難しい。ああ、このセリフってあのアニメの男の子のセリフだな、と思ったけどアニメって本当に人のそういうところをよく描き出している。人の関係における複雑さを単純化する力がすごい。プロたちすごい。今日もいろんな人から学ぼう。私の仕事はとりあえずそのまま置いておくところからかな。現象大事。事実大事。

鳥たちも元気っぽい。がんばりましょう。

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お菓子

旅がらすとか波さんとか虫さんとか。

東の空で賑やかにしてる鳥たちのことを考えていたらパスワードをhigashiと打ってしまった。当然ピコピコって跳ねられてしまった。画面のその小さな揺れだけで「このパスワードは違いますよ」って伝えてくるんだから面白い、と思うけど、私たちも首ちょっと降ったり、指ちょっと動かしたりで伝えられるものね。昨日と同じく「微」が大事。

洗濯したりお茶いれたり柿剥いたりお菓子準備しているだけで時間はあっという間に過ぎる。合間合間で余計なことをするからだけど。目に入っちゃうとついね。今朝はこの前高崎に行ったときに買ってきた旅がらす本舗清月堂のシルクスイートポテト。秋らしく温かいお茶ととっても合ってとっても美味しい。私は小さい頃からこの会社の「旅がらす」というサクッとした薄いお菓子が大好き。お煎餅ともクッキーとも呼べない、と思うのは私だけで実はなんなのかしら、あれ。あ、鉱泉せんべいか。これ。言われてみればそうか。自分にとって特別なお菓子ってなにかもっと特別な感じがするのかな。いや、単に語彙に乏しいとか想起の力が乏しいとかってことか。

首にストール巻き巻きしたまま窓開けてバタバタ動いてたら暑くなったからトレーナーも脱いで半袖になった。ミッキーの頭の部分が小さく貼り付けてあるようなちびT。豹柄に塗りつぶされているのだけどこれもこの形だけでミッキーってわかるんだからすごい。これももうさよならしたほうがいいかな。何年着てるんだろう。まだ形はしっかりしてるのだけど生地が薄くなっている気はする。窓から静かに流れこんでくる風が冷たくて上着を羽織った。ついこの間まで風がないー、涼しい風流れこんできてー、と思っていたのに今は窓を少し閉められてしまう。風さんは何も変わっていないのかもしれないのにね。

この前、ベルクソン研究者の平井靖史さんが時間を説明するときに「波さんのほうからしたら」と言っていて俳句みたいと思った。そうだ、さっき「想起」って言葉使ったけどベルクソンは単に「想起」とは言わないということも学んだ。俳句みたいと思ったのは俳句は時々ものからみた描写をするから。月さんからみたら、とか虫さんからしたら、みたいな感じで。お米さんとかもいいかも(今ごはんのいい匂いが広がっている)。たい焼きの歌なんて、というか「およげ!たいやきくん」(漢字に変換されたら変な感じがした)、あれなんてたいやきくん、ケンカしてるしももいろサンゴが手ふったりしてる。でも擬人法はあまり使わないんだよね、俳句は。中途半端に人でいないようにしないと。子どもはすぐ虫とかになりきれてすごい。むこうに虫になりきられるとこっちはその仲間になったり人間のままでいたりしなくちゃいけなかったり臨機応変な対応が求められるが。知らない生物なのに微妙に動き直されたりして戸惑ったり。まぁなんにでもなるよ、ならせてもらえるのなら。色々教えて。子どもたちが今日も元気でいますように。

今日も部屋には光がいっぱい。外はまだ少し肌寒そうだけど東京はいいお天気みたい。週末ですね。がんばりましょう。

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読書

微か

きれいな空。この時期の空は本当に特別。風は少し冷たい。髪が濡れているとちょっとひんやりするが少し動けばなんてことはない。長袖Tシャツになにか羽織るものがあるだけで大丈夫。微調整でなんとかなる世界っていい。どうして、とイスラエルとパレスチナのことを考える。微かなんて言葉は命を奪われる可能性の高い人の最後の希望の言葉としてしか使用されない世界が戦争なのではないか。私はウクライナに対するロシアのときと同じくイスラエルのガザに対する攻撃のニュースに驚いてしまうと同時に何か知るたびにあまりに知らないと知る国のことを学び始めた。なにを手に取っていいかわからなかったのでとりあえずシリーズで気に入っている高橋正男『物語 イスラエルの歴史』(中公新書)を読んでいた。

あとがきに簡潔な紹介があるので引用しておく。

「本書は、西欧中心史観とは異なる、アフロ・ユーラシアからの視点で、一日本人歴史家の複眼を通して、歴史・民族・宗教をキーワードに、一神教徒にとっての聖都イェルサレムを基点として、近年の考古学・歴史学双方の研究成果を踏まえて、古代から現代まで──父祖アブラハムから中東戦争まで──のイスラエル四千年の興亡史の枠組みを一般読者を対象に綴った歴史物語である。」

「物語である」というところは大切だし注意が必要なのだと思う。どのような物語を選ぶのもその人の自由だがその物語が多くの場合、なにかの物語に取り込まれるようななにかしらの方向性をもっている。この本は少し前の本だけど(といってもイスラエル国独立60周年の2007年)今のことはニュースで追える。と思いたいのだがSNSはダメだ。私に基本がないからその情報をどう信じて理解していけばいいかわからない。そこに正反対の言葉や矛盾や悪意が撒き散らされていることならわかる。なので私はまずは一人の人が書いた本で学ぶ。次はダニエル・ソカッチ著『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』でどうだろう。誰かにアドバイスをもらおう。

人の心は常に分裂気味でとても複雑であるというのは前提のはずで、多くの微調整の結果なんとかやっていられるのだと私は思っているが、そこに大雑把な仮のまとまりをもたらすのが言葉だろう。評価が真っ二つに分かれる人や状況の場合がわかりやすいかもしれない。そこで用いられている言葉そのものもそうだがその使われかたに注意を払うとそこで消されてきたであろう言葉に出会うことがある。というよりもいつもこれだな、という感覚によって導かれるその人の言葉のルーツへの興味と出会うといったほうがいいかもしれない。沈黙であれ饒舌であれ大抵の人は受け継がれてきた言葉に微調整なり大変革なりなんらかの操作を加えながら使用している。戦地での言葉はどうだろうか。言葉を発するだけで殺されるような環境で思い出す言葉はどんなだろうか。

こんなたっぷりとした朝の光を浴びながらとても暗い気持ちになる。願うことや祈ることもどうやったらいいのかと戸惑うがまずは学ぼう。微かさが普通の希望とともにあればいいなと思う。

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世界、社会、バウンダリーとか。

秋の朝は爽やか。今日はちょうどいい気温。ずっとこのままだったらいいのに。でもこれはこれで温暖化の結果のお天気なのかしら。世界で起きていることの深刻な事態とつなげて考えていく面とかいろんな時間感覚や距離感覚が必要なんだろうな。

家族以外の場所で他人の心身弄んでいる人がフェミニストに尊敬する人とか救世主とか言われていたり学者ぶって教育者やっているのを見ると絶対に変わりようのない社会の縮図を見たような気になる。片方でそれで片方でそれ、というあり方は誰しもそうだがこの場合中身が重要。バウンダリー、有限性がなぜ大切か、ということ。ちなみにフェミニストというのはその人の部分しか表していないとはいえその方面で稼いで生活をしている人に対しては私はあえて使う。家族って、教育って、友達って、セクシュアリティって、身体って、心って、と考えながら戦地で殺されていく子どもたちのことを思い浮かべたりする。以前は日本に住んでいた人たちでもあったりする。自分って、人間って、と考えるだろうか、彼らは。どうか早く戦いが終わりますように。

ベルクソンとドゥルーズの勉強続けたいな、と思ったけどもう目の前のことに追われて余裕がなくなっている。平井靖史さんの朝カル講義が昨日から始まり、それは見逃し配信ありだったので申し込んだ。自分の言ったことで派生していくものをつかむためにももう少し学んでおきたい。自分に違和感や不快感を与える相手を加害者にしながら別の気持ちよくさせてくれる対象に依存しいろんなことをなかったことにする他人事でしか偉そうなことを言えないお友達ごっこではない真剣さを感じたのはぶつかりあいは当然生じるであろうという態度で対話を求められたから。私たちの組織にもこういう緊張感は必要だろう。

今日はみんなどうかな。元気だろうか。秋の美味と出会えますように。今朝の柿も美味しかったです。

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精神分析 精神分析、本

小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。

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精神分析

山、ビール、筋肉痛

筋肉痛。起きられるかな、と思ったけど腹筋だけで上半身を起こせた。腹筋はあまり使っていなかったらしい。立てるかな、と思ったけど立てた。ふくらはぎがパンパンな感じで少し痛い。遠くに洗濯物干すのに身体を伸ばしたら背中も痛かったけど普通に動いている分には全然痛くない。筋肉痛になるとどの筋肉が使われたのかがわかるから面白い。辛いけど面白い。いずれにしても本格的な痛みはこれからかも。

厚木オクトーバーフェスト2023」にいくついでに低山登山をした。時間ができたから調子に乗って計画してしまったが老体に鞭打つみたいな感じになってしまった。距離だと6キロくらいしか歩いていないが普段はあげない高さに足を上げてこんなふうに踏み出してバランスとりながら身体を持ち上げることを繰り返すことなんてないし、なんてちょっとしたことをはじめて言語化したくなるくらい身体が自然に動かなくなっているのを感じる。トレランやろうとグッズ探したりしたのだってすごく前ではなかったような気がするがすごく前なのだろう。あのときコピス吉祥寺でかわいいと思ったトレラン向けリュックが全然似合わなくて買わなかったのが分かれ道だったのかもしれない。今はわからないが当時のコピス吉祥寺には赤ちゃんや小さい子を連れていきやすいフロアがあってそこで赤ちゃん連れの友達と会っていた頃だから10年くらい前か。コピスもまだ新しかったし。2014年に精神分析家になるための訓練に入るための準備に入って2016年に候補生になって(候補生になるにも手続や審査がある)自分でも開業したりで単に時間がなくなったというのもあるが今回みたいにちょっと思い立ってサクッといって帰ってこられる山は東京にもたくさんある。今回は1200mくらいの山だったが標高100メートルくらいの山でもなめてはいかんぞと実感したのは島根県のJR安来駅から徒歩で行ける標高92mの十神山だろう。私たちはよく旅に出るがちょっとした山があると登ってみる習性がある。その日も足立美術館に行って帰るのに電車の時間まで少し間があったので標高100mくらいならと向かってみた。なんだかいい山でぐんぐん登れたが途中から「意外ときつい?電車間に合うかな」となった。当時は駅まで走って戻る体力があったのでよかったが100mをなめたらあかん、と学んだ。いい山だったのでまた行きたいな。ちなみに足立美術館ではスクールカウンセラーをしていた学校で親しくしていた先生と偶然再会したりとても素敵なこともあったがかの有名な庭園とか送迎バスに関しては結構な文句を言ってしまった。だってさ、と今も言いたい、とかにはならないが。思い出とは過ぎ去った証拠。

そうそう、「山登り後のビールは最高!」と書きたかったけど山は時折ポツポツパラパラと雨が降ったり寒かったりだったのでいつも通り「ビールはうまいぜ」でした。祭りは楽しですしね。今日は結構きちんと雨なのかな。寒いし。風邪ひかないように過ごしましょう。

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散歩

毎日秋。斎藤陽道個展『絶対』

朝。本当あっという間に寒くなった、といってか何日が過ぎただろう。あっという間あっという間あっという間劇場♩っ歌がなかったか。あったか。空がまだ夜の雲が混じっているみたいなグレーと水色が重なって絵みたい。「絵みたい」といいながらいつも一体それは何を意味しているのだろうと思うが今日は考えない。

もうちょっと外に出ちゃったから頭がいつもの朝モードではなくなってしまっている。いつも違う気とするとなんかすでに刺激過多という感じで書くモードではなくなるのかな。でもこうやってるしなあ。

ミーティングで発表したのだけどこの形式が結構面白くてなにもみないで自由に話すという形式。自由とかいって形式。本物の空を絵、というのとは少し違うか。そのときに自由連想ってフリーアソシエーションフリーはアソシエーションにかかってるからfreelyとは少しニュアンス違いますよね、でもフロイトも「自由ったってなかなか難しい」みたいなこと書いてますしねえ。ねー面白いね。みたいな話をした。自由に話す形式は自分がなにをみていないかを相手が拾ってくれやすくなるならよい。他人の目だからみえることのほうがずっと多いから、自分のことに関しては。

昨日から京橋で写真家の斎藤陽道さんの写真展『絶対』がはじまった。小さいスペースに光の輪をまとうように浴びる写真たち。素直に感動した。斎藤陽道さんはEテレの手話アニメーション「しゅわわん!」でも有名かな。子どもたちに驚かされる幸せを感じるかわいい番組。個展にはご本人もいらして筆談でやりとりしていらした。重版になった写真集『感動、』すごくよかった。レターはこちら

月末まで東京駅東側エリア(八重洲・日本橋・京橋)はT3 PHOTO FESTIVAL TOKYOのプロジェクトもあってTokyo Dialogue 2023と色々みられるみたい。斎藤陽道さんの個展しか行けてないからまた行きたい。

街の木々も少しずつ色づいてきたし暖かくしてちょこちょこおでかけして外でやるイベントでホットワインとかココアとかのみたい。結局美味しいもの探し。秋はなおさら。

みなさんは今日はお休みかしら。どうかゆっくりお身体いたわってお過ごしください。

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精神分析

秋の空、黒糖、無理。

PCの画面に何か通り過ぎた。首だけ後ろに倒して空を見ると早速鱗雲。秋。いくつかのことは確実に積み上がってきてるのだけど今が一番大変かも。かも、というのはこれまでにも大変なことはたくさんあってやるべきことのシンプルさは知っているから。それにしてもなぜこんなに効率が悪い、というか効率の良いやり方を忘れてしまうのか。しかもなぜいつも保存先を間違えたりしてしまうのか。さっきも危なかったぜ。毎回、色々学んだり教わったりしてるのに自分のものになっていかない。よくこんなんでやってきたよな。まあでもこれでやってきたのだからこれでやっていくのだろう。

サクサクのはずのお菓子がベタベタになってしまった。お菓子ってお砂糖なんだなあと改めて思う。美味しいお砂糖ってあるのね、きっと。うちは沖縄のお土産だっけな、黒糖があるのだけどサトウキビは美味しい!あんみつの黒蜜も黒糖から作るんだよね?難点は塊が大きいこと。これ皆さんどうやって砕いたりしてるのかな。そのまま舐めておやつにする人もいるみたいだけどそれはちょっと不安、止まらなくなったらどうしよう。自分の意志の力を信じられない。温めたら溶けちゃうよね。うーん。そういえば作家、作詞家の高橋久美子さんが自分の畑で黒糖作って売ってた。チガヤ倶楽部というサイトがあるのですよ。そこに書いてあるかな。あとで探してみよう。彼女の記事は面白いし勉強になる。それにしても高橋久美子といい松山ケンイチといいすごく忙しそうなのに食べられるものを育てている。芸能活動と通じる一貫した何かがないとなかなか時間を割くの難しいと思うのだけど。すごいことだ。

私は自分が無理できる範囲でできるだけ無理しながらできることやろう。「無理しない」ことが本当に大切なこともあるけど無理無理言いながら少し力を入れたら「あれ?さっきよりちょっと遠くに手が届いた」みたいな地道な無理は続けていけたらいいかもね。小児科でも子供たちにそういうちっこい魔法をかけて遊んだりしたなあ。ちょっとのイカサマで結構な自信がついたりする遊びって結構あるの。面白いよ。ということでがんばりましょう。

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言葉 読書 音楽

かわいいといえば、とか。

眠い、すぐに眠ってしまう。急に涼しくなったから身体がついていかないという人が多い。私もそうなのかもしれない。あくびばかりでる。仕事のことで音声入力を使ったら変換間違いがおかしかったのでふざけて関係ないことも入れてみた。「あくびが出てしまう」と適当な口調で言ってみたら「歯茎がでてしまう」と出た。変換後の文章を文字としてみても変換前になにを言ったのかわからない。「粘着の間違い」ってあるんだけど私はなにを言ったのだろう・・・。英語だったらもっとひどいんだろうなあ。「人間は弱いかな」とかもある。絶対こんなこと言っていない。弱いだろ。言ってもいないのに返事しちゃった。こういうことって実は日常的に起きているのかもしれない、と思うと少し心配ね。でもそこから生まれる遊びもあるかな。ここでもたまに変な間違いしてるんだろうね。

私が思わず「かわいい」というと「かっこいい」と言い直す園児がいた。「かっこいい」と言い直すと満足そうだった。彼女は結構大きくなっても「かわいい」という言葉がしっくりこないようでみんなが「かわいい」というものにもそんなに興味がもてないようだった。「きれい」「すてき」という言葉はとても自然に使っていた。ちっちゃい子が「すてき」とかいうとかわいい。その子の前で赤ちゃんのことを「かわいい」と言ったら「私は?」と言われた。あらあら。「すごくかわいい」と言うとそこそこ満足そうだった。

かわいいといえば暮田真名さんの川柳に「かわいい」という言葉を使ったものがあったがなんだったか。(「かっこいい」だった!in『ふりょの星』左右社)暮田さんが「暮田真名以外」というアカウントに載せているstand.fmのラジオが秀逸。やっぱり頭がいい。声もいい。喋り方もいい。淡々とした一人漫才も面白い。一人喋りがこれだけうまいのだから漫才もできちゃうだろう。というか漫才の才能がある人は一人喋りがうまいのだろう。なんてことない出来事の一部を広げていくしかたが新鮮ですごくいい。記憶力もいいのだろう、というか暮田さんはとても頭のいい人だと知っている。川柳に記憶力は必要ないと暮田さんはおっしゃると思うのだけど辞書に載っていない言葉を含め、語彙力は絶対に必要だと感じる。あと軸のブレなさ。教え方とかもびっくりするくらい上手なのですよ、暮田さん。誰にでも通じるものにする工夫をずっとしている気がする。川柳をというよりあの教え方を体験しにいくのもいいんじゃない?と思ったりする。それにしても暮田さんの文化は新しい。最近「くるり」の新譜が出たが「くるり」くらいだと共有できるのかな。ブルース・スプリングスティーンは共有できないかも・・・。知識としてはできるけどこの熱狂とかあの想いとか。最近、柳樂光隆のプレイリスト「for Joshua Redman”Where Are We”」に大好きなブルース・スプリングスティーンを発見して再び聞いている。柳樂光隆さんの記事を読むようになってよかった。自分の音楽の歴史が想起されたことに驚いた。記憶力ないのに。Netflixでは今も『SPRINGSTEEN ON BROADWAY』が見られる。『ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝』(早川書房)と繋がってるんだと思う。この本はファン必携。かわいい赤ちゃんのときの写真から始まりますよ。赤ちゃんはかっこいいとはいわないよね、あんまり。行動にはいうと思うけど。そうか、彼女は「かわいい」は見かけのことというか全体を表す言葉としてはしっくりこなかったのかもな。

今日はいいお天気。乾燥もはじまった。身体大切に過ごしましょう。

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短詩 言葉 読書

言葉の使用とか。

大学って非専門家をお友達感覚で専門分野の先生として使う時代なんだっけ、今って、しかも人の心身を傷つけたり搾取したりする人に、と思うけどこういう事例って国立大学でもあるようなので引き受けた者勝ちということになるか。勝ち負けではないが被害者側が相当の負担をおって事件化しない以上、一方で搾取しながら他方で稼いでいるわけだから経済的に敗北感があるとしたら被害者の方だろう。搾取側に勝利感はないだろうけど。そういう意味では常に勝利している、というか弱い立場に立てないためにそうなっているのだろうから。ナルシシズムという言葉も薄っぺらいし邪悪という感じの悪でもないし思考停止というのも違うし、と考えるときに田野大輔、小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)はとても参考になる。歴史研究者と哲学研究者という異なる専門家の対話によってハンナ・アーレントの<悪の凡庸さ>という言葉というか、これは概念になっているわけだけど、それをプラグマティックな発想のもとに割り切って「使う」のか、その言葉の使われ方、受け取られ方の変遷を含め、それが現代の私たちの文脈にもたらす意味を探るのかという対比も非常に重要な論点だと思う。

私たちは大抵何かの対立軸で物事を見ているわけだけどそれがそれぞれ異なることを前提にしないと話が通じないこともある。それとそれはそもそも意味的に対立するものではない、とか、歴史上の文脈が全く異なる言葉を無理やり対立するものとして使っていたりする場合もあるからそれはそれで違いを明らかにすることが必要だし。こちらを言いたいがために持ち出した何かがその人がいうとそれっぽいのに私が言ったら全くそれっぽくないという場合はそれがそれっぽいのは行動の勢いによるものであって言葉の意味ではないわけね、ということもあるし、いつどこの誰の何をどんなふうに見ているのか、どうしてそういうふうに見ているのか、という5W1H的な問いは常に大事と。さてさて果たして今は有効ではない言葉なんてあるのだろうか。果たしてその一言でその人を説明できる言葉なんてあるのだろうか。

ちなみにnoteにも引用したがアーレントの『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』の以下の部分は事件化しないと決めた問いについて法と政治がらみで考える場合に有効だと思う。

「ここでわれわれの関心をひくのはもっぱら君のしたことであって、君の内面生活や君の動機は犯罪的な性格を持っていなかったかもしれぬということや、君の周囲の人々の潜在的な犯罪ではない。」
「政治とは子供の遊びの場ではない」

–『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)より

暮田真名さんのラジオについて書くつもりが全く別のことを書いてしまった。いい感じなので聞いてみてね。ではでは。

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精神分析

雨、Sufjan Stevens、福来氷

起きたら雨が降っていた。東側の大きめの窓を開け放したままだった。まっすぐに落ちるような雨の音だったから大丈夫かな、どうかなと思ったけど、うん、よかった、降り込んでいない。パソコンのあるこの部屋の窓はどうだったっけ、とパタパタ。そうだ、昨晩寒くて大きく開けた窓を少しの隙間を残して閉めたのだった。

SNSで知ったSufjan Stevensの『CARRIE&LOWELL』をかけてみた。最初の曲”Death with Dignity”のリフレインに驚いて何度もスマホを覗き込んでしまった。壊れたレコードみたいになるはずもないのだが。なるはずもなくもないのか?二度目に聴いたらそんなに不思議には感じなかったのだから不思議だ。このアルバム、雨の日にピッタリ。圧力を感じない声。安心する。Sufjan Stevensのサイトにポンっと飛んでみたら曲とはまた少し異なるイメージの背景に写真。車椅子や杖?と少し驚いた。Guillain-Barré Syndromeでリハビリ中とのこと。重くなければよいが。新しいアルバム”Javelin”が出たばかり。あ、これから出るのか。チェック。あ、もう聴ける。本当に雨の日にピッタリ。背景の音の美しい規則性のせいか。優しい声に心が落ち着く。

それにしても冷える。昨晩は窓を少し閉じたほど寒かったのに真夏の格好のまま寝てしまった。トレーナーを着た。お湯も沸かし中。今、我が家はお菓子天国だから迷うな。筑波山のお土産もいくつかあるが「福来氷」にしようかな。でもこれは夜っぽい。つくばは福来みかんというみかんが特産だそうで福来氷はそのふくれみかんの皮を加えた寒天菓子。表面がカリカリしてたりパサパサしてたりするお菓子は甘いのが多くて少し苦手なのだけどお茶菓子としては絶対優秀。お茶をいただく必要がでるお菓子たちだよね。組み合わせで考えるの大事。羊羹とかも以前は苦手だった。甘すぎるから、と思っていたけど茶道とかで使うお菓子ってそんなに多くないものね、と少量ずつお茶といただくと染み渡る。福来氷も小さいからやっぱり朝のうちに緑茶といただこうかな。茶道の先生をしている身内にもお裾分けしよう。彼女にお土産のお菓子を選ぶのはとても楽しい。ゆっくりみていると本当にいろんな工夫がされているなあ、と知れるのも楽しいし。

二度寝したくなってきてしまった。ダメダメ。気持ちよさしか求めていない感じになっている。バックトゥリアリティ。ポンっとクリックしなくてもここが現実。戻らなくてもそこにいるでしょ、逃避しない、と自分に言い聞かせないとなかなかね。東京は一日雨なのかしら。皆さんもどうぞ足元にお気をつけて。