窓の内側に染み込んでくるような音で雨が降っている。ヒタヒタヒタヒタチャプチャプチャプチャプチャプ。警報が出ている地域の被害が広まりませんように。水害のあと、その土地に立った観光客の私は立ち入り禁止の札やロープや抉られたり削られたりした大地をどう感じていいかわからずただ足を止め言葉をなくした。地元の人から話してくれる話もあった。思い出されるたび衝撃を受けるのは目があった直後にカーテンが閉められたあの瞬間だ。大きな家の窓のカーテン。昼間だった。そばには明らかに地形が変わった痕跡がありロープがはられていた。あの人は一人暮らしだろうか。とても申し訳ない気持ちになった。そんなこと思うならそこ歩くなよということかもしれないが知らなかった。一度ゆるんだ大地にまた大雨が降る。それを想像するだけで怖いし胸が痛い。
小さな蟻が今年も出たと書いた。少数でも侵入されている感覚は強く夢にも何度も出てきた。少し雨の大雨の日、蟻の巣が崩れるのを私は想像した。彼らの巣は相当頑丈で雨対策もしっかりしてると聞く。それが崩れるということは私たちも危険ということかもしれない。そのくらい私は彼らの侵入に無意識に追い詰められていたのだろう。追い詰められ攻撃性が蠢き自分の手を使わずに何かが起きてくれることを願うような心性は誰にでもある。大雨の翌日、一匹の蟻をキッチンで見かけた。あっさり駆除した。今の私の目は死んでいるだろう、と思った。それ以来、蟻を見かけなくなった。その前から少しずつ見かける量が減ってきた気はしていた。元々列をなすような数でもなかった。様々な対策の効果がでたのかもしれない。私は今この雨の音を聞きながらまた想像する。蟻の巣が崩れるのを。そしてまた死んだ目になる。
昨晩、ネコポスで岡田一実の句集が届いた。前もって配達完了のお知らせがきていたので家に近づくにつれポストを開けるために足が早くなった。こんな距離を急いだところで何も変わらない。しかも封を開けて確認したらビニールに入ったままのそれをPCの横に積んだままあと数分で終わる大河ドラマを見てしまった。さっき蟻の巣が崩れるのを想像したと書いたあとビニールの中の表紙を見た。ドキッとした。水滴?滲んでいる?慌てて取り出す。白い表紙をそっと撫でる。浮き上がってる。水が滲んだままの形が。よかった。私の意地悪な心がこんなところにまで雨を降らすようなことがなくて。それはすでに涙がこぼれ落ちたような跡にもみえた。昨日は出先で強めの雨も降った。それも気になっていた。ポストから出したときに濡れていないことを確認した。当然中身が濡れているはずもなかった。なんとなく雑に放置したことや蟻に対する仕打ちが小さくない罪悪感を生じさせているらしかった。岡田一実の新句集『醒睡』はベルクソン研究者の平井靖史さんが帯を書いているとのことでなおさら注目していた。俳句よりずっと長い文章で綴られた帯文は丁寧で美しかった。そして句集はブランショの引用から始まる。開いてみる。今の私に飛び込んできた一句がこれか、と苦笑いする。
食み殺しつつ白魚の句を数句
中途半端に心揺らしいつまでも想起に胸締め付けられる私にはもつことのできない境地で正確に言葉を紡ぐ著者から多くを学ぶだろう。この滲みが雨でも涙でもなくてとりあえずホッとしたところからしてすでに。