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桃とかポテチとか。

早朝は動きやすいな。窓を開けてもあまり風は入ってこないけどまだ涼しい。

この時期は昼も夜もポテチでいい、と今年も思う季節になった。ポテトチップスは夏と似合う。似合わない?朝は水分を必要としているのでスイカとか桃とか食べたい。桃はサラダとかもいいなあ。なんのチーズがあうのかわからないけどなんでもモッツァレラにしておけば間違いないのかしら。なんか薄いチーズと合わせているところもあるよね。ポロポロしたチーズとか。今朝はとりあえずそのままいただく。傷つきやすい桃さん、大切に扱わないと。近江屋洋菓子店の「もも」食べたいなあ。予約しないとなんだよね。

そういえばこの前、大塚製薬のウェブサイトでスイカのクリームサンドのレシピもみつけた。食べるときに塩をかける通常のスイカ食べスタイル。私は大人になってからスイカに塩をかけることはしなくなったけどこのサンドイッチは絶対美味しいと思うな。まあ、生クリームが入っているだけでなんでも美味しいとか雑なことも言いたくなるが、最近生クリームを避けることも多くなった。とはいえ、甘いものと塩気を一緒に食べればずっと美味しいに違いなくこのクリームサンドは超グッドイナフなのでは。グッドイナフに超をつけるのは変か?

そうそう、ポテトチップスの話。湖池屋の食べきりサイズのを買ったけどなんかスリムだった。ポテチは丸いのをパリパリ食べた方が美味しい気がしてしまう。コンビニ限定のもあるんだねー、と言ったらサイズが違うんだよねと言われたけどコンビニ限定のサイズってどんな感じなんだろ。家族用、みたいにでかいのがあったとしても今の家族はちっちゃめだしねえ。でも実家に帰ってスーパーに行くとでかいサイズのパンとかお菓子とか多いなとは思う。湖池屋のウェブサイト見たら「スリムパック」誕生の理由の一つに「女性一人でも食べきれるサイズのものがほしいなどのご意見」とあった。なんだそりゃ。ポテチくらいどんなサイズでも余裕だぜ、と今は言えないけど「女性一人でも」とか書かれるとピクっときますよ、私は。昨晩も帰りに電車でそばに立った二人の男性が「そんな仕事は女の子にやらせて」とか「仕事与えて」とか話してて「はあ?」となった。そういう人に限っていち早く降りようとドアに引っ付いて私にバッグがガンガン当たってても気づかないのよ、気づいているのかもしれないけど気にしないのよ。意識するってこういうレベルからだから精神分析における意識化なんてもう遠い遠い昔の概念ってことになるのかしらね。それ以前に、精神分析概念もほんと適当に使われてるもんね。おしゃべりなインテリは一般的には魅力的なのかもしれないけど実践を伴っていないのはよくあることにしても専門家同士のインテンシブな議論にまみれていない言葉遊びみたいに色々言われると精神分析ってそんなだっけとなる。学問は黙々とした探求が続くし、精神分析臨床の場合、沈黙のほうが多い。淡々と地道に実践を続けている人たちとの対話を引き続き大切にしていきたい。沈黙って相手あってこそで、相手を不在にする語りが繰り広げられるならばそれはそれでどんな感じなんだろうと観察し考えていく必要はあるのでしょうね。

今日もすごく暑くなるんだって。気をつけて過ごしましょうね。

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週末

まだ涼しい。昨晩は雨が降ったりやんだりでしたね。今はやんでいるようだけど静か。

早朝からにんにくのみじん切りをしたら手が臭い。いや、臭くはない。にんにくはいい匂い。にんにく臭いっていいたくない。台湾に臭豆腐ってあるでしょ。夜市で食べた気がする。名前と噂にびびっていたが実際どうだったか。肝心の味を覚えていない。ほんとに食べたのかな。周りの人のを一口わけてもらったとか香りだけかいだとかそういう感じかも、びびってたから。それにしてもそれもすごく昔の話だな。

昨日のセミナーで参照した資料も20年近く前のものだったし、本当に人生も後期にはいってきているわけだ。なのに全然まだまだだな、と思う。がんばって形にすることは続けているし、人と生活していくこととか、まずはかかわりのある人たちを大切にするってどんなことだろとか毎日楽しいといいなと願いながら試行錯誤している。一番大変なのは時間の作り方。優先事項を丁寧に考えるというのは各々の残りの人生に思いをはせたり、今こそ手のかけどきというときに気づいたりすることな気がするけど、それって結局プロセスをともに過ごすことだったりするわけだからなんにしても時間をかける=丁寧ということになるのかもね。

昨日は事例検討とか論文講読とかで頭使ったけど焼菓子三昧の一日でもあった!ずっと気になっていた新宿中村屋の「できたてサンド月餅(あんバター)」も食べた。思ったよりずっとこぶりでサックサクであんこもバターもちょうどよくはいっていておいしかった。あんバター好きなんだけどいっぱい入っているのはもう食べられなくなっちゃった。みつけると食べちゃうのだけどこの半分でいいかなあ、とか思うときもある。あれはパンからはじまったのかなあ。粉ものにはなんでもあうよね。コメダ珈琲の「しるこサンド」だっけ、あれも同じ発想だよね。和洋折衷。とうかあんバターの発祥ってもしかして名古屋?小倉トーストからきてる?わからん。あとで調べよう。昨日の〆は山梨県甲州市塩山のおみやげNelkさんのスコーン。ちっちゃいかわいいクッキーはさっきteatonの紅茶と一緒にいただいた。特別感のあるお菓子は特別感のある飲み物と。ここのお菓子、買ってきてもらうの二度目だけど本当においしい。この店のご夫婦ももとは東京のお店で働いていらしたとのこと。山梨とか長野に移転してしまう人多いな。ケーキ屋さんをしている私のともだちもそう。こだわりをかなえる場所に移動するのは当たり前なんだろうけど、えー、東京を見捨てないでーともなる。でもお店の人にとってはそこだからできる味というのがあるのだろうし、彼らが塩山にいってくれたからこそこうやってお土産にもらえたりいい出会いができたお店なのかもしれない。東京は店がありすぎるものね。インスタをみればみるほど「あー死ぬまでにどのくらいいけるのだろう」って途方もない気持ちになるし。

昨日は自分の書いた論文に対して恥ずかしくなるようなコメントをもらったのできちんと考え直そう。やっぱり曖昧なことをむりやり誤魔化すことをやっているんだよな。査読もとおって専門家の中だけではあるけど公開もされたし、自分的にも一生懸命やったつもりだったけど指摘されるとすぐあきらかになってしまう自分のごまかしまやかし曖昧さ。もちろん意識してそうしているわけではないけど。でもそう気づかせてくれるコメントをもらえることは本当に本当にありがたいし、勉強が楽しくなるので嬉しい。今はいいかげんどこを深めればいいかすぐわかるから「あーあの論文読み直そう」とかなるけど昔は「もっと勉強しなきゃ」とすごく曖昧な反省しかできなくて時間ばかりたっていた。とりあえず勉強も実践も続けてれば自分がやるべきことって固まってくるんだね、とわかるのもそうやってみてからだからやっかいだよね。色々細々とでも触れておけばいずれどこかでということもあると思うけどね。

ということで新しい週もがんばりましょう。それぞれちょうどよい感じでお過ごしになれますように。

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言語化

少しだけよく寝た。今日はくもっている。陽射しがないと少し涼しく感じるけど30度まであがるみたい。たいして疲れていないのに「つかれた」とつぶやいたり、たいしておなかすいていないのに「おなかすいた」とつぶやいているうちに一週間が終わった。実際は疲れより眠気だし、空腹それ自体よりその程度。私にとって一番切実なのは「おなかいっぱい!」となるとき。「あーおなかいっぱい、くるじー、満足満足!」となれたらよいのだけど「くるじー」が本当に苦しくなりがち。これではおやつが食べられないではないか、くらいの苦しさならいいのだけど体調の悪さになっていくと本当に残念で悔しい気持ちになる。食べ物にもよるから毎回そうなるわけでもないというのが自分の身体なのにわかりづらい。でも今日も美味しいもの食べたい。

今朝はスイカを食べた。水分!シャクシャクと味も音も口当たりも優しく見た目もかわいくおしゃれなスイカ殿。スイカ柄のスカートとかほしい、というか昔スイカ柄のTシャツならもっていた気がする。すごく若いとき。スイカってストライプも水玉も入ってて王道のおしゃれさんだと思う。

Netflixで『大草原の小さな家』をやってる。大好きな本だった。いまだにあんな大地は私の身近な場所にないのに当時からすごく知っているような懐かしいような気持ちになるのはなぜだろう。きっとローラの目が素晴らしいから。言葉はいつも二の次な気がする。精神分析は週4日とか5日か、連日、1時間にも満たない時間、カウチに横になってぼんやりした視界をスクリーンにして、というわけではないのだけど、頭の中と多分そのぼんやりが同化していってなにか思い浮かんできたりこなかったりすることを言葉にしたり身体に出したりしていく作業なのだけど、分析家はそれを一緒にみている。そしてそれが全く異なることを知って驚愕したりする。精神分析において被分析者と分析家が使う言語は全く異なるので言語化というひとことでまとめられるものでは全くないし、共有までの道のりは本当に遠い。お互い同じものを見ているような気はするだろうし、そうあってほしいと願うだろうし、初めてわかってもらえたとか、なんか同じ景色の中にいる、と感じることもそりゃあるわけで、分析家はそこに流れているだろう情緒的なものに関心を向け続けていると思う、自分の感触を通じて。一般的に逆転移ってやつだよね。でも見えているものがこれだけ違うのにそこに伴う情緒を見出すなんて本当に全く簡単ではなくてありきたりの言葉を使った途端にそれは消えてしまうだろうよ、と私は思うし、そういう体験を患者としても分析家としても体験してきている。土居健郎が概念として使用した「甘え」が持つ最大の力は「言葉にしたら消える」ということだと思う。そして本来言葉というものは大体そういう性質をもっているという認識が大事だと思う。言葉にせずにどれだけ具体的にその人の体験に近づいていけるか。もちろんそこはとても病的な世界であることが多いから、精神分析家は自分も分析を受けて人のそういう部分を自分のこととして十分に体験しておく必要があるわけだけど、資格として分析家になれたとしてもそれがなされたかどうかはわからないし、分析実践を続けていくなかでずっと続けていかねばならない作業なんだろうと思う。

というようなことを午前中の事例検討の場で共有しようかな。いつもこういうことで立ち止まれるグループだから。情緒なんて本当に簡単に言葉になるものではないという言葉にできなさについて言葉にできるグループがあるって幸せなことだと思う。

沖縄の方の台風はとても大変そうだった。九州は今日ものすごく暑くなるらしい。いろんな場所でいろんな人がいろんな景色をみているという当たり前のことをのっぺりした言葉にしてしまわないように過ごせたらいいな。どうぞよい一日をお過ごしください。

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7月11日(土)朝

まだ太陽はでていない。でも今日も暑くなるみたい。毎日寝不足でしかも暑いと疲れちゃうよ、と朝から小さく不満。しかし洗濯ものを干し、乾燥フィルターも掃除した。昨晩、はじまった蒼井優のドラマの影響。同じことしてる人いると思うなあ。そのドラマを横目でみつつアンドレ・グリーンの論文を訳しおえて、やった!できた!とパッと共有ドライブにいれた。あとで確認したら作業途中のファイルが表示されていてびっくり。いつも作業箇所がわからなくなってしまうから赤字にしたりしているのがそのまま残っている。これではなんでもないこの文章が重要な箇所かと思われてしまう。そして結論部分も消えている。ガーン。ファイルが最新の情報に変更される前にアップロードしてしまったみたい?しくみがよくわからない。もう一度、ファイルを開き直したら最後まで訳し終えたものが画面にでてきた。よかった。そちらをアップロードしなおした。消えてしまったのかと思ってちょっと焦ったが珍しいことでもないので落ち着いて対処できた。

どうでもいいけどさっき「チャットGPT」と書いてあるのをみて「チャットのGPTってなんだ?」と思った。Chat GPTと書いてくれたらすぐわかるのに。使いこなせていないとパッとそれと認識できない。同じようなことはしょっちゅうで「ああ、〇〇のことか」とわかるまでに時間を要することも増えてきた。なんとかハラスメントとかも略されていわれるとパッとはわからない。きちんといわれてもそれはどんなハラスメントだ、となることもある。ハラスメントって言葉が苦手なんだよ、最初から。

気に入っていたお店がお総菜屋さんに生まれ変わった。インスタで気になっていたのでお弁当を買いにいってみた。コロッケもとてもおいしそうだったのでコロッケ好きにおみやげにしよう、色々やってもらったしな、と小さな扉をくぐった。これまでの人がやってるんじゃないんだ、とちょっと尋ねるとメンバーは変わっていないとのこと。あれれ?前の店は男性ひとりかふたりで、今回ははじめておみかけする女性ふたり。みえている部分が変わったということか?そしてレジ横に並んだふたつのパッドに唐揚げはあるのにコロッケがない!「コロッケ…」とつぶやくと感じのよい店員さんが「コロッケが人気でうりきれちゃったんですよ」と残念そうに教えてくれた。最初からコロッケ目的だったわけでもないのにとても残念な気持ちになっていたら奥の厨房からひょこっと「10分くらいおまちいただければ揚げたてをご用意できます!」といってくれた。揚げたて超魅力的と思ったが時間がなかったのでお礼だけいって鮭のお弁当を買った。真ん中に巻いてある包装紙がかわいい。「今度たくさん用意しておきますね!」と声をかけられながら小さな店をあとにした。そこまで残念そうな顔をしていたのか、私は。そもそもコロッケは自分用ではなかったのだが、この2,3日暑くなってきて「あービール日和!」と思うようになってからどうしても揚げたてコロッケが食べたいという思いに取りつかれるようになった。コンビニのでもうまいだろうが一度よさげなものをみてしまうと、しかも揚げカスだけが残ったバットをみてしまうとよけいに「あれが食べたい」となる。あるはずなのにない、というのがネガティブの作業ですね、アンドレ・グリーンの中心概念。

今朝、早朝から乾燥フィルターを掃除するきっかけになったTBSドラマ「Tシャツが乾くまで」を昨晩Tverでみた。蒼井優は昔から好き。リリイシュシュも花とアリスも好き。登場人物の単純な関係はすぐにわかったけど回想みたいな部分のみせかたがすごくいい。すごくきれい。それが不穏さをますのだろうけど。

今朝はあれの効果でこっちがこう、みたいなことばかり書いているな。そういう日なのか。どういう日なんだ。いいことあるといいな、と思うけど沖縄の台風のニュースとかみてるとせめて被害が大きくならないといいなと思う。どうかご無事でお過ごしください。

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チョコとか。

いいお天気。昨日も関東も梅雨明けしたようなお天気だったけどまだなのかしら。今年は梅雨らしい梅雨だったね、という会話をいろんな人とした梅雨だった。きちんと寒かったし。夏も以前の夏くらいの気温に戻ってほしい。体温より高い夏なんて夏じゃない。それは夏じゃなくて熱という。

日曜日にセミナーがあるのをすっかり忘れていた。しかも私が資料を担当している。毎月、フランスの有名な精神分析家、アンドレ・グリーンの論文を読んでいるが、その訳文をすでにもっているからと引き受けたが訳文も見つからない。こういうことが起きるからすぐにみんなに共有するようにしているのに。iphoneの予定、もう一度見直さないとなあ。こうやって思い出しただけいいか。すっぽかして遊びにいってしまうところだったぜ。しかし…また訳し直すのか…。明日の夜なら時間があるが辛い。論文の内容はなんとなく覚えているが、もし私が覚えている範囲だけでなにかいうとしたら5分くらいで終わってしまいそう。きちんとやらねば。私たちのReading Freudで読んでいるメタサイコロジー論が取り上げられているからなおさら。精神分析とセクシュアリティは関係なくなってしまったのか、という問いかけから始まるフロイト生誕記念講演。場所はアンナ・フロイトセンター。フロイトって打つと「風呂意図」ってなるのいい加減やめてほしい。わざわざ辞書登録が必要なほどマイナーなのか、風呂意図は。マイナーだよね、精神分析なんて。特に現代のは。いまだにフロイト、ラカンばかりだものね。がんばれ、私たち(私、精神分析家だから)。セクシュアリティが精神分析の中心をなすのは実践を行う私たちからしたら実感しかないものだし、そうではない精神分析実践をどう捉えるか。まあそんなことを考える時間になりそうですね、日曜は。日曜なのに…。アンドレ・グリーンになりきって講演スタイルで発表すればグリーンの考え方も実感できるかな。この論文は講演だからそんなに難解でなかったと思うけどいつも難しいことばかり言ってるからねえ。すごく関心を惹きつけられるからずっと読んでるけれど。セッション前にチョコレートを一粒食べるのはグリーンだっけ。訳本に書いてあった気がする。私はチョコレートも大好きだけど、グリーンは結構大きい一粒食べてそう。リンツみたいな。チョコって性格出ると思う。板チョコの食べ方とかも。それより性格出るのはグミか。私はグミって苦手だったけど最近のはおいしいよねえ、かわいいし。いろんな種類に展開できるお菓子の方がその人らしさを語りやすいのかもしれない。そういえばグミ「おとうふくん」っていつから「メンタルもよわよわ」の部分が消えたのかしら。問題になっちゃったのかな。みんなすごく普通に使ってるけどね。まあ「メンタル」って言葉が普通に使われはじめたときの違和感はすごかったが。

カルビーのポテトチップス、表面だけカラーに戻されるのね。かっぱえびせんも。ほんとにこんな事態になるなんてね。昨日はお菓子の包装紙のことを書いたけどお菓子が共有し受け継いできた文化ってすごく大事なんだよ。CMソングだってそう。本当に大事にしてほしい。人命もお菓子も。戦後のチョコレート、戦後のりんご、忘れられない味や歌が語り継ぐ歴史を聞き続けることができますように。

あっついから熱中症には本当に気をつけて過ごしましょう。

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お菓子とか包装紙とか。

いいお天気。昨日、沖縄の玉城デニー知事が台風9号の関連情報を出していた。いつも大変そう。被害がありませんように。

早朝から道の駅まえばし赤城で買ってもらったアカギマサラを使ってカレーを作った。ハーブ農家さんのオリジナルスパイスカレーパウダー。原材料をみたら辛みは入っていなかったのでチリパウダーを足した。スパイスの量が結構多い気がしたが煮込んでしまえばそうでもないかな。いい香り。

いつもお菓子のお裾分けをいただいてる。最近だと東京都大田区久が原の老舗、フラマリオンのクッキー。お中元にいただいたそう。なんとなんと中身だけのお裾分けでなく猫とリスCANのままくれた。しかも未開封みたいな包装紙に包んで。ここの包装紙は東郷青児でかっこいいのだ。私もお菓子の包装紙大好きだけど、これをくれた彼女は包装紙を捨てずにとっておく人。お手紙を書いたり、封筒にしたり、ブックカバーにしたり、こうやって素敵に包み直したり。超不器用な私からすると最初に出てくる感想は「器用だなあ」なのだけど、包装紙の魅力は使用してこそかもしれない。知り合いの子供が小さかったとき、包装紙はもちろん、何かを包んでいたものはなんでもとっていて、母親もそれ用の袋を持ち歩いていた。ゴミという概念をもつ前の小さな子供には捨てるという選択肢は遠く、使用か保管。どちらも似たようなものだ。わからないけど。なんでも遊びでなんでも仕事。あまりに長い枝とかいかにも虫がついてそうな石とかになるとうまいこと家にいれずに保管か破棄をする説得力が必要になるが包装紙的なものであれば折り紙みたいなものなのでどうぞー、と寛容な気持ちでいられるのもよいところだ。昔から知っている包装紙に思わぬ発見をすることだってある。この前、高校生になったその子がコーヒー牛乳を包んでいたプラスチックのフィルムを飲み終わった容器型にきれいに立てているのをみて笑ってしまった。まだそういうことやってるんだ。一緒に遊んだ記憶はなくしてもやることはそんなに変わらない。そういうのがいい。どうでもいいけど、いや、よくないけど、人って忘れることに対してすごく厳しいよね。自分が忘れっぽいからいうわけじゃないけど、いや、そうなんだけど、ただ覚えてればいいってものではないでしょう。どんな記憶がどんなタイミングでふと現れるかなんてわからないし、そういう瞬間のためにも知識として覚えるなんてことしたくないよ。生活はテストじゃない。臨床で言った言わない問題が生じる場合、それは記憶の問題ではなくて関心の問題。私の存在を忘れていませんか、と問いたい場合は記憶の問題でもあるがそういう記憶の話じゃない、とか言い出すことになるから記憶についての書物は書かれ続けるわけです。言葉の流れと膨らみを大切にしよう。私たちは全てを覚えていることはできないし、みんな瞬間瞬間で変わっていくのだから。

で、なんだっけ、そう、おやつのお裾分け。先日もらった京都のお土産、祇園辻利の「つじりの里」も美味しかったー。小さな袋に一本ずつ入ってて、その袋が和紙風でね、開けるときに「お!」となった。さすがやなぁ。京都も金沢と同じく間違いなくお菓子天国。八つ橋に「おたべ」と「夕子」があると知った時も新鮮だったけど、硬い八つ橋とか餡なしの八つ橋を知ったときもなんやそれだった。私はニッキの香りしっかりの硬い八つ橋が好きなんだと思った頃には生八つ橋には抹茶とか桜ならまだしもいちごとかチョコとかいろんな味が出てきて、ほかにもいろんなお菓子を知るようになって、でもお土産はよーじやのあぶらとり紙みたいなね。京都も何回も行ってすごく歩いた街だけどまだまだみるべきものをみていないし、食べたいものは全然食べきれていない。あー、まだまだ足腰も胃腸も丈夫であってほしいし、すぐにいっぱいにならない胃袋がほしい。

今日のおやつは何にしようかなあ。それを楽しみにがんばろう。良い一日になりますように。

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いろんな時間

なんだか空が不穏に明るい。これは暑くなる空ではないか?今年も厳しい暑さになるのだろうか。怖い。

まだ週の前半なのにすでに疲れている。帰りの電車とかぐったり。周りの人もぐったり。おつかれさまー。朝は朝で早くからえらいですよねえ、私たち、と心の中で勝手に労いあい、夜は夜で同じことをする毎日。もちろん口には出していない。

初台にある私のオフィスの近所はこだわりコーヒーを淹れてくれるお店が多い。この前寄ったお店で、前に並んでいた人が注文を始めた。なにやらメニューとは少し違う形式で色々お願いしていて、私はカスタマイズ前の商品はどれだ?とメニューを追ったが老眼、手強し。見えぬ。お店の人はなんでも対応OKという様子でどの質問にも「できますよ」と軽やかに応じていた。しかもアイスでもホットでも美味しい瀬戸内(だったか)のレモンの説明もしていて、結局素材がいいとカスタマイズの幅は広がるのね、と思った。でも、逆の場合もあるか。いや、素材と腕がタッグを組めば可能性は無限と考えたほうが世界は明るくなると思う。そんなこんなしているうちにいつのまにか私も話に加わってしまった。話題はそのお客さんの声の美しさ。これから歌のお稽古に向かわれるとのこと。どおりでー、それで喉も冷やさないようにと、なるほどー、など。とても小さい声でお話しされるのに(から?)つい聞き耳を立ててしまった。内容もだけど声に。店主さんも素敵な気持ちになってしまったらしく大きく手を振ってテンション高く送り出していた。

私は動画を見るのが苦手なのだけど最近自動的に文字起こししてくれるせいか前より見るようになった。老眼が進んで文字を読むのも億劫だな、と思って動画でもチャレンジするか、と思ったのだけど結局文字を読んでる。でもなぜか本より楽。そりゃそうか。理解は音の方でしてるから文字はライナスの毛布的な役割になるのだな、この場合、知らんけど。スイッチできるチャンネルがあったり補いあえたりできるってありがたいことだね。

最近、なにも降りてこないけど、こういう時間こそ大事だよね、と思って短時間でも外に出たり、記録の仕方を変えたり、ひたすらレシピ本を読んだりしている。レシピ本は写真をみて十分に興味を惹かれて文字をみるから苦じゃないのよね、多分。この時期は毎日トマト豚しゃぶでいいのだけど見るだけ見てる。

そのときにかけている音楽も若い頃に聴いていたやつで、クラプトとか90年代ヒップホップとかあの頃ってもっと色々自由じゃなかったかしら、みたいな時代の音楽を聴いている。単なる自由というより抑圧と戦う自由、というか。自由には何段階もあって永遠に辿り着かない自由を求める自由というのもあるってことか。こういうのを聴いているのもなにかしら別のなにかか元のなにかに導かれたがっているせいかもしれないでしょ、無意識ってやつ。ヒップホップって私が生まれた頃に生まれたカルチャーだと思うし。違ったっけ。スヌープ・ドッグの初期のアルバムとかすごくいいと思う。そしてマライア・キャリーは改めてすごいなと思った。どのジャンルも愛を持って歌いこなしていた気がする。しばらくマライアを年代順に聞こうかな。なんてしている場合じゃない。音楽の歴史の勉強も色々したいのだけど最近柳樂さんの記事も追えていない。うー。時代と文化と歴史と私。全部連動しているのだから今は今として大事だけど、これからも楽しむために勉強って大事だと思う。文化として学び継承、いや、継承でなくてもまずは体験を文化として捉えることが大切な気がする。

もうすぐ夏休みだー。もう旅計画は立ててある。楽しみだなあ。仕事がんばろー。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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食べ物のこと。

今朝は曇。静か。涼しい。晴雨兼用傘を使いこなせないまま梅雨が終わりそうな毎日。雨にはやっぱり大きい傘で対応したくなってしまう。昨日は出るときに雨が降っていなかったから晴雨兼用の小さな折りたたみ傘をリュックに入れてでた。私の傘のさし方が下手なのだろうけど小さいのだと荷物が結構濡れる。大きな晴雨兼用傘もあるのかもしれないけど日傘として使う場合は小さい方がすれ違うときときに安全。都会は人が多すぎる。昨日、少し外に出るときは一応置き傘のビニール傘を持って出た。半袖で出たら寒くて引き返そうかと思った。でも成城石井でなにかみたくてそのまま進んだ。久しぶりにいったら「ココナッツミルクとガーリックシュリンプのトマトカッペリーニ」がない!大好きなのに別のカッペリーニになっている。なっているのか、たまたま昨日なかったのか確かめなかったけどもしなくなったとしたらすごくすごく残念。上に乗ってるフライドオニオンも好き。印度カリー子レシピで知ったんだけど神戸スパイスという会社のフライドオニオンは小麦粉がついていなくて小麦粉アレルギーがある人でも使えるとのこと。こういう情報って大事。長く保育園で仕事していたからたくさんのアレルギーの話を聞いてきたし、今もいろんな人との間で主にお子さんのアレルギーが話題になるのだけど本当に様々な程度や症状があって確認をしても確実に避けられるとは限らない場合もたくさんあるので食事って本当は本当に難しいのだと思う。

昨日、NetflixでChef’s Table:LEGENDS(アメリカ、2025)を少しみた。エピソード1はジェイミー・オリヴァー。身内がアメリカにいるときに何度か遊びにいき、そのときにでっかいテレビでずっとみていたのが彼の料理番組。なんだこの子は!というかっこいい登場の仕方でガンガン料理していくパワフルな番組でいつも圧倒されてみていた。その方法や料理自体にそれほど魅力を感じたわけではないがこういう人がいるということ自体にインパクトを受けた。同年代だったのだな。当時、彼はテレビに出始めた頃だったらしい。何も知らずにみていた。その後の子供たちに向けた社会的活動も経営の失敗も全く知らなかった。今も彼自身が苦しんだディスレキシアを持つ子供たちへの支援を続けながらシェフをしているらしい。Netflixのドキュメンタリーでも彼のディスレキシアに絡んだエピソードはとても興味深く、この前見た教育を受けることが許されないために読み書きができないセネガルの女性たちのこともまた思い出した。適切な教育とは、食事とは・・・。

この前、芦花公園、千歳烏山の方を歩いていたら直売所があったので大きな人参を一本100円で買った。小さな金庫みたいなところにお金を入れる形式だったのだけどお金を入れてふと目をあげるときれいな監視カメラと目があった。その側の壁には盗難被害の額が書いてあった。ああ、辛いなあ、と思った。日本は貧しい国ではないはずだったのに様々に貧しくなっているのだろうか。提供してくれたものに対してささやかな対価を払うという小さなやりとり自体をなくす行為でもあると思う、盗難は。昔、大学で盲導犬のための募金箱が盗まれて箱だけトイレに捨てられていたという事件があった。あれも衝撃的だった。当時から日本は貧しかったのだろうか。

今日は火曜日。良い1日になりますように。

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街歩き

日の出とともに起きるのは鳥の声に敏感になったからかも。まだ早いな、と思いつつついそっと窓を開けると鳥たちの大きな声にびっくりする。窓の防音効果を改めて思うが開けたままにして私も起きる。

昨日は結構降っているな、と晴雨兼用の折り畳み傘をリュックから玄関に出して、大きなビニール傘をさして出かけた。ほどなくして空は明るくなって雨は止み、傘を持っている人を見かけることはなかった。陽射しのない明るさはいいけど折り畳み傘にすればよかったなと少し後悔した。街歩きをしていたら途中また少し降ってやっぱりこの傘でよかったと思ったりやっぱり日傘もほしかったと思ったり。気温がちょうどよかったのは本当にありがたい一日だった。立ち寄った小さな施設が楽しくいろんなお話を伺って素敵な地図をもらった。駅に着いたときに地図とかおいてないかな、とキョロキョロしたが見つけられなかったので嬉しかった。携帯のマップで調べられるけど写真を撮るためには充電減らしたくないし、スクロールとかしないで全体像を見たいから紙がいい。八つ折りとかできるからね、紙は。夕方、その地図を広げて今日歩いたところを辿っていたらBrewingを発見。クラフトビール好きになってからも長くなってきて見つけた場合、労力を惜しまず出向く。朝歩いたほうだな、と朝とはすっかり雰囲気が変わった道を再び戻った。

朝、思わず足を止めたお団子やさんはもう閉まっていた。シャッターの横に「毎朝手作り」と書いてあって、朝に寄ってよかったと思った。地元らしき人が続々買っていく様子を目に留めたから私も足を止めたのだけど、肩にタオルをぶらさげたおじさんが串を咥えてでてきたのにつられて私も買ってみた。いつもみたらしとかあんことか買ってしまうけどきれいに海苔が巻いてある磯部餅の串にした。おじさんが食べていたのもそれだった。「すぐ食べる?」と聞かれて「はい」と言ったら「ならこのままで」と少し申し訳なさそうに串を手渡しくれた。私もそっと受け取ってパクリ。おいしー。地図をいただいたところでお話しながら有名な団子屋があるとうかがってさっき寄ったところかなと思ったら「そこはいせやさんでしょう。そこじゃなくてつぶれてる団子。そこのつぶれてなかったでしょう」みたいなことを言われたが、いせやさんというお名前ではなかったし、つぶれた団子というのをパッとイメージできず「磯部餅のお団子にしちゃったからわからない」とよくわからない返事をしたら「これあとで差しあげるけど」と広げておいてあった大きな地図で教えてくれた。私たちがきたのと反対側だったからあとでいってみようということになった。おやつ時間の頃にちょうど通りかかったので寄ってみた。つぶれた団子はひらべったい団子のことだった。餡をたっぷり纏ったみたらしを一本お願いした。これもおいしー。

あ、またこっち方面に戻ってきてしまった。クラフトビール屋さんに戻らねば、と今頭の中で私は再び歩き出す。昼間からやっている飲み屋さんもいっぱい。少し行きすぎて戻って少し小道に入って素敵なドアを発見。女性醸造家が立ち上げたとのこと。それほど大きくない店に見えるのにオリジナルで10種類以上のビールがあった。お客さんもひっきりなしにくるし、「僕はただのバイト」と言いつつお客さんと話す店員さんも醸造のこととかすごく詳しくて、製薬会社に勤めているらしきお客さんも「薬と同じだ」と盛り上がっていらした。みんなすごいな、と思いながらおいしく楽しくいただいた。

電車に乗って座って古本屋さんで買った文庫本を読んでいたらそういえば傘がないと気づいた。しばらく記憶を辿るとあのブリューワリー。傘立てに入れてそのまま忘れてきた。ああ。何本の傘をこうしていろいろな場所に置いてきたことか・・・。しかたないのでそれはお店でよきに計らっていただくことにした。雨に降られず帰宅できてよかった。

今朝、窓を開けたら向かいのおうちの屋根が濡れているように見えたのだけど夜中に少し降った?今朝の東京はまだ気温が低い。鳥たちはもうどこかへ出かけて行ってしまった様子。あるいは二度寝。しないか。古本屋さんとしたちょっとしたおしゃべりも楽しかったな。今週も身近な街を歩くことを意識して過ごそう。用事ででたついでに少し足を伸ばすとか寄り道をするとかで十分楽しい。良い1週間になりますように。

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盧花恒春園にいったり。

雨が本格的に降っている。昨日のうちに遊んでおいてよかった。午後早めに仕事が終わったのでオフィスのある京王線沿線「芦花公園」駅最寄りの都立盧花恒春園に寄った。七夕の笹が飾ってあり、バケツに入ったササも「ご自由にお持ち帰りください」とあったがそのあと会議もあったのでいただかなかった。いろんな色の短冊といろんな色のマジックがおいてあったのでオレンジの短冊に黒で願い事を書いた。山で熊とかにあったりせず安全に歩けますように、みたいなことを書いた。細い紐のついた短冊を大きな笹に結ぶのは少し難しかった。不器用だと不便。不器用が直りますように、って書けばよかったかな。でも長年付き合っている自分の特徴に関しては限界を知って誰かに頼ればいいので「直す」発想がもてないからまあいいか。

ちょうど姥百合が咲いているとのことで木々の中を歩いていたら歩道から少し離れた薄暗いところに長い茎が影のように何本も立っていた。テッポウユリのように横向きに膨らむように咲いているのはたしかに花でカメラで拡大すればたしかに白いが、茎とほとんと変わらない薄緑色に近く、開き方もとっても控えめ。和名に「姥」という字があてられたように「葉がない→歯がない」の掛け言葉とのこと。曇り空の下、静かにスッと立つ姿は十分に若々しかった。

その隣の竹林がこの週末は特別に開放されており、道のないところに入ることができた。今日が夏祭りみたいで木にポスターが貼ってあったけど雨で残念。竹林の中では「絵竹ランタンづくり」もしていて子どもたちに混じって作らせてもらった。クッキングシートの上にクレヨンを削って上からもう一枚クッキングシートを被せてアイロンをかけて覚まして剥がして竹の断面に合わせてまーるく切ってボンドで貼り付けて側面に「恒春園」のスタンプを押してできあがり。100円以上の寄付でろうそくの形の小さなライトももらえる。私は月のでている夜空をイメージして作った。明日が本番と思っていたら予想よりたくさんの人が参加してくれて、と切った竹の不足を少し心配しつつも、明日は雨の予報だからよかったかもともおっしゃっていた。みなさん、お話のしかたがとっても優しくて素敵だった。竹林を出るところで遊歩道を歩いてきた小さな子と目があった。立ち止まって見つめられたので「中でこれを作ったの」と見せると少し先をいくお父さんに「竹の中で何か作れるんだって!」と言いにいっていた。知る→やりたい→親へいう、のスピードが素晴らしくかわいかった。親御さんはさらに小さな子供も連れて忙しそうだったけどみんなで楽しめていたらいいな。

ろうそくの形をした小さなライトはとても素敵。先日、Eテレドキュランド「村に光を セネガル 『ソーラーママ』奮闘記」という2023年にフランスのテレビ局で作られたドキュメンタリーをみた。原題はTHE LIGHT OF WOMEN。原題の方がいいと思うのだけど。女性「たち」の話だったし。西アフリカセネガルの生活の過酷さ、ほんの少しの光がもたらす希望、それを希望しても「許されない」という絶望、それでも、と夢見て、実際に足を使う女たち。航空写真のような映し方も効果的。狭い世界を出る、広い世界を知る、というのは簡単だけど、そこで育ちそこからでることも許されない女性たちがそこからでたい、何かを変えたいと思えること自体にとてもインパクトを受けた。

小さな光を心に宿す。それを協力してやっていけたらいいな。東京は雨の日曜日、良い一日になりますように。

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曇り。雨は降っていないみたい。早朝から鳥たちがとても賑やかでかわいかった。

この前、移動が多くてお昼を食べる時間がなかったのでNewDaysで「明太マヨしたらば」を買った。あれは紀文だった。セブンプレミアムのは「したらば 明太マヨネーズ風味」で1円違い(らしい)。ああいうワンハンドおやつ?ワンハンドフード?っていつから流行したのかなと思ったけど2013年にセブンイレブンがサラダチキンを発売してから一気に伸びたらしい。紀文は今から30年くらい前にはすでに近いものを発売していたらしいけど。今ほんといろんな種類のがあるけど、私はカニカマ系が一番好きだな。サラダチキンはそのまま食べるにはちょっとしっくりこない味。はじめて食べたときは便利さに感動したけど。ちょっと前に友人が作ってくれたサラダチキンと小松菜のさっぱり煮物が美味しくてすぐに真似したけど私のはいまいちだったな。丁寧にほぐした方がおいしくなると思う。

それにしてもそれにしてもなことが多すぎるので食べ物のことばかり書いてしまうのかも。ついでに書いちゃうけど、この前何十年ぶり!というのは大袈裟だけどすごく久しぶりに初台の吉野家に行った。私は2017年に開業して、その頃からあったと思うのだけどあまり行ったことがなかった。改装前に一度行ったかな。私が子供の頃は吉野家しかなかった、というか、私の地元にはそういうチェーン店自体があまりなかったのだけどコマーシャルをみんなが真似してたからすごく身近。小学生ってひたすらCMソング歌う時期とかあるよね?あとなにかとキャッチコピーを連呼する。文脈よりリズムの発達段階。テレビも分厚くて重たかったし、関係ないけど。静電気もすごかったし。静電気で遊ぶのも小学生だよねえ、下敷きとかで髪の毛逆立ててさ。宮沢りえの下敷きは中学のときか。友達が持っていたのだよ、『ぼくらの七日間戦争』の下敷き。思春期になると下敷きの扱いも変わるもんだ。そうそう、吉野家。なんか進化したなあと思った、店づくりから。卵が松屋やすき家よりおいしい気がしたが私の舌はそんなにあてにならないから気分やその日の調子の問題かもしれない。

おなかがすいた。まずはソルダムを食べた。なぜかキッチンの大掃除もした。あー、朝が過ぎていく。今日もがんばりましょう。

アイス食べたい。
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筋トレの「良さ」とか。

降っているのかいないのか、涼しいのか少し蒸し暑いのか、パッとしないお天気。

しばらく筋トレに行けないので自重でがんばるぞ、と思ったが多分やらないので姿勢だけは良くしようと背筋を伸ばした、今。何秒持つかしら。私の筋トレの目的は足腰の筋力の維持。プラス、急に走り出して、その結果転んだり、小さな段差で腰がぎくっとなるのを防ぐため。以前、早朝ヨガに通いだいぶ慣れてきた頃「転ぶのがうまくなった」と言ったら「そもそも大人はそんなに転ばない」と言われたけどわりと転ぶと思う。筋トレの効果はなにかな。始めた頃は色々効果を実感していた気がするけど習慣になってしまうと目的も効果もいちいち言葉にすることがなくなる気がする。後付けでいうなら「地道にやってたらいつのまにかできるようになった」という体験はいいぞ、ということかな。目的でも効果でもないが「良さ」。体幹を鍛える筋トレなんて最初は苦行でしかなかったけど、トレーナーさんが教えているバレリーナとかプロの人たちと比べたら私は「自分の身体の可能性をできるだけ広げておこう!」(これが目的か)という遊びだからできなさとか苦しさも笑えた。若い頃はまだもうちょっと自分の伸び代に期待してたから「わらえねー」となってたかもしれないけど、筋トレに限らず、力が抜けている方がうまくいくことは多いので経験値って大事だと思う。今もキツいはキツイけど「こんなにできるようになるなんて」と感動している。

プロのいうこと、身体のいうことに素直に応じていれば「あれ?できた」って感覚を掴めるし、トレーナーさんと一緒に喜び合うのも楽しいし、すかさず「チャレンジ」と負荷をかけてくるトレーナーさんもさすがだなと思う。「マジですか」と思いつつ「大丈夫、きっとできる。今無理でもいずれ」となる。モチベーションと身体の状態に合わせた微調整が上手なんだよね、教えるプロは。その都度、状態を口にしておけば考えてくれるし。学ぶ側がうまく言語化できないからといって黙ってしまうのはお互いにとってよろしくない。学びのプロセスなんてそんなのの連続だし、経験値がある相手は正確に掴んでくれるからとりあえずなんかいっとくことは大事。筋トレだったら「なんかここが痛いー」とかいうと「さっきの動きはどこどこの筋肉に効くからなんとかなんとかで」と教えてくれるし、「まあ、慣れてくるから」と言われれば実際いずれ慣れてくることも知っている身としては「ですね」となる。言語化って上手なほうがお金にはなるかもしれないけど、誰かにしっかり聞いてもらえていない言語化は言語化とは言わないのでは、と思う。言葉だって筋力だって人との間で育つのだよ、きっと。

私、「バスクチーズケーキ」という文字を見るとつい頼んでしまうのだけど「バスク」ってなに、というかバスク地方のことだろうけどどんな特徴のことを示しているのか全然知らないんだよね、と先日、食べたバスクチーズケーキのことを書きそうになっているが、毎日食べ物を巡って割かれる時間が長すぎるので我慢。食べるのは我慢できないのにこっちはあっさり我慢できちゃう。書く欲のほうが食欲より少ないのね。どっちも「しょくよく」って読めるね、これ、とどうもでいいことを思いつつ。

今朝は美味しいベーグルを食べて満足。いってきます。いってらっしゃい。良い一日を。

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金沢とか。

雨。昨晩は月が見えなかった。帰り道、ちょうど雨が降り始めたところだったけどこのくらいならまだ月が見えるかもと思ってしまった。その前の日もその前の日もとても明るかったから。

私、昨日1万6千歩以上歩いているのだけど暇だったのかといえば全然。朝から晩までずっと働いてた。ではなぜ。早朝に歩いたからですね。早朝にあいているパン屋さんとかないかしら、と思って。早すぎて全然なかったけど今度ここにきたいなというお店はたくさんあった。神社はあいていたので茅の輪くぐりをしてきました。そうだ、「水無月」を食べねば、と思って何度か通りかかったことがある和菓子屋さんをのぞいてみたけど当然開いていなかった。水無月って三角のういろうの上に小豆が敷かれている和菓子。ういろうは少し苦手だけど小豆が美味しいとこのお菓子は美味しい。発祥は京都だよね、多分。出町ふたばとか行きたいなあ。

これまで色々なところを旅して色々なお菓子に感動してきたけど到着するなり大大大感動したのは金沢。駅から少し距離のある西茶屋街の方のホテルまで歩いていたら和菓子屋さんが目立つ通りが現れた。うわぁ、うわぁと感動しながら近寄ると試食もどんどんすすめてくれて、こんな贅沢よいのでしょうか、と思いつつこっちにもあっちにも感動しながらいただいた。見ための美しさにも張りついちゃうよね、あんなの。興奮しながらも絶対このお菓子買って帰る!という判断は働いてはいたけどホテルに行くまでにすでに天国を味わったような気持ちになった。もちろんその時点でいくつか購入した。たくさんお散歩するときは美味しいものを片手にもたねば。

まだ20代後半か30代前半、どっちにしても今よりずっと昔、最初の職場の先輩がご両親が急に行けなくなってしまったからと誘ってくれたのが金沢と山中温泉。たくさん歩いてすごく楽しくてすごく豪華で、その頃からこの街に対するイメージは最高だった。その後20年近く付き合うことになるひどい頭痛にはじめて襲われたのもそのときだったけど茶屋街の2階の素敵なお部屋で休むという贅沢もした。あれから何年も経って自分のお金で再び訪れた。能登半島地震のあとは能登に行くついでに2年連続で訪れた。その間に友人の子どもが金沢の店で修行をはじめたりもした。

山中温泉にも再び泊まった。当時先輩たちと歩いたときは山道でほとんど誰にも会わなかった気がするのだけど鶴仙渓に川床があったり賑わっていた。芭蕉堂のそばの東山ボヌールというカフェが本当に素敵で閉店間際だったせいか誰もいなくて別世界に紛れ込んでしまったみたいな気持ちになった。先輩たちとは小さな工房にたどり着いたのだけど時を経てからはたどり着けなかった。当時、ポットにこだわっていて一目惚れした作品があってすごくすごく迷って彼らにも一緒にたくさん迷ってもらったのだけど結局買わなかった。そのおかげで記憶にはしっかり焼きついたはずだったのだけど工房自体に到達できないとは。夢だったのかなあ。

昔の記憶を呼び戻されつつ、記憶との違いに驚かされるのも旅の醍醐味。金沢ならとってもおいしい水無月が見つかるだろうなあ、と思いつつ金沢の超有名店のどら焼きのことを調べたのが昨日。ういろうと同じくどら焼きも大好きなわけではないけど時々ものすごくちょうどいい皮の厚さとそれにぴったりのあんこの量と甘味を備えたどら焼きと出会う。そういうのは見ためも素晴らしいので勝手に引き寄せられてしまう。わたし今お呼ばれしましたよね、と向かった先はたいてい天国への階段、Stairway to Heaven。たしかジミー・ペイジは金沢に行ってると思う。私は東京で行ったよ、ライブ。色々引き寄せられてはきちんと戻ってくる生活を続けましょう。東京は一日中雨なのかしら。どうぞ足元にお気をつけて。今日もがんばろう。

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食事とか。

通りかかった駅前の花壇が七夕になっていた。最初なんだかわからなかった。なんだか不思議なオブジェだった。数年前まで毎週代官山に通っていた。駅そばのビルの中に笹の葉があって願い事を吊るすことができた。旅先でいろんな神社に行ってもみんなが元気でありますように、みたいなことしか思わないが、駅前の変なオブジェを七夕と認識したときに思ったのは自分で叶えられそうな願い事はたくさん思い浮かぶけど「平和」とか「みんな元気」とかって普通に難しいなってこと。

星と星を繋げて星座を見出したのは紀元前3000年頃の古代メソポタミアの人たちだという。点と点を繋げてあんなもの見出しちゃうのか、俺は線で繋いでくれてなかったら全然そんなふうに見えないよ、と思うが、当時は星と星はとても近くて雲から形を見出すのと同じくらいたやすく形を見出せのかもしれない。スター発掘みたいに特別な星を見出すのもいいけどひとつひとつの星のつながりを大切にするのは素敵よね、と書いて思い出すドラマ『銀河の一票』。先日最終回を迎えた選挙戦をめぐる群像劇(だったよね?)。三浦透子がここでも素晴らしかった。スズナリでの一人芝居見たかったなあ。当日券が少し出るらしいが時間がない。

先日、ふらふら歩いていたら「ここすごく昔に誰かと行ったよね」というビストロの前を通った。当時もふらふらとおりかかった店だった気がする。昨日はこの店と味について色々考えてしまい楽しかった。なにかが足りない、でもおいしい、そして店内が絶妙に暑い。この感覚も当時のままな気もする。もうあと何軒いろんなお店に行ってあと何回美味しいものというか、食事を楽しむことができるかわからないというほど現実的な制約がまだあるわけではないけど考えてしまうな。行ってみたい場所、食べてみたいものはたくさんたくさんあるけどすぐおなかいっぱいになってしまうのが悔しい。家で作る分には冷蔵庫が偉大な仕事をしてくれるから量の調節はできるけど外だと出してもらったら残すの申し訳ないなと思ってしまうし、でもせっかく美味しくいただいたのにあとからおなかいっぱいすぎて気持ち悪い(そうなりやすい)となるのも辛いしうまくいかないわん。2、3年前に星野太『食客論』を読んだけどああいう哲学の次元で食事について考えるのはいつだって面白い。でも私の素朴な生活においては「孤食」は日常なのだけどたしかに贅沢ではあるんだよねえ。人といるとどうしても食事自体やその空間に集中できなくてそれはそれで素敵な時間なのだけど、優先されるものが変わるものね。

私のオフィスのある初台のお隣の幡ヶ谷駅は小田急線代々木上原にまっすぐつながる商店街があるのだけどそこが本当に素敵なお店がいっぱいなんだよねえ。幡ヶ谷は甲州街道を挟んだ反対側もいいお店がいっぱい。お隣なのに全然いけないけどInstagramでよくチェックしてる。まあ、初台も普段使いしやすい小さな素朴な店が多くて楽しいし、私はこっちの方が馴染むけれど憧れってあるよね。

今朝も食べることばかり考えてしまった。仕事仕事。今日も良い一日になりますように。

ソウルで買ってきたお菓子
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駄菓子屋とか。

あら。今日もくもり空。昨晩はとっても明るくて形の良い月(つまり満月)が水墨画のように雲から現れたり隠れたりしていてカッコよかった。写真を撮るにも新宿の方は空が明るいし、信号は多いし、自分の目だとこんなきれいに見えるのにね、と思えるのは素敵なことかもしれない。まだ遠くのものはよく見える。

今朝はサッカーで寝不足の方も多いのかしら。私は途中少し見たけどいつのまにか終わってた。普通に寝るのが遅かったから眠いは眠い。ねるねるねるねはお菓子だっけ。私が育った田舎の小さな駄菓子屋さんにはなかったと思う。スーパーのお菓子かな。今でもこういうお菓子の棲み分け?売り分け?ってあるのかしら。「駄菓子コーナー」みたいのがコンビニにもあるくらいだから駄菓子屋そのものがもうなくなってきているのかもしれないね。ねるねるねは練っているうちに寝てしまったみたいな豆本付きで売りたいですね。

子供の頃、通っていた駄菓子屋さんのおばあさんは童話に登場するおばあさんみたいに怖かった。お店の脇に咲いていたかわいいお花がほしくてつもうとしたら根っこが横に這っていてびっくりして手を引っ込めた。それが松葉牡丹だと知ってつんではいけないお花として愛でるようになった。白い小さなお花もほしくて少しつんでしまったときがあった。こちらはつめたがおばあさんにびっくりして落としてしまった。なんだかとても悪いことをした気持ちになったけど、というか実際悪いことだったのだろうけどおばあさんはただいつもの場所に立っていただけだった。そのあたりには紫陽花だったかなんだったかもあって友達とカタツムリをよく探した。駄菓子屋の前を学校の行き帰りで通るだけでなくて、反対側の道から眺めて店の小ささを意識したのはもう少し大きくなってからだろう。そばの家が建て替えられるなか、そこは長い間そのままだった。駄菓子屋さんが閉まってからもそのままだった。童話みたいだったのはその小さなおうちであって、いつも不機嫌そうにみえたおばあさんが実際に不機嫌だったり怒っていたわけでもなんでもない。だから私たちはしょっちゅう10円20円のお菓子を買いに行き、いつもワクワクしてみんなで色の変わったベロを見せ合ってゲラゲラ笑ったりしていた。店に入ってすぐ左側にはゲーム台があって、小学生の私たちからしたらずいぶん大人に見える多分高校生がいたりした。あの白いお花はなんていう花だったのだろう。小さな細い花びら、細い茎、落としてしまったお花を怖くて振り返ることもできなかったけどおばあさんはきっと大切に拾ってくれたのだろうと思う。ありがとうとかごめんなさいとかきちんと伝えたのかな、私は。本当にろくなことをしない小学生だったけどいろんなこと感じながら考えながら過ごしていた日々の記憶におばあさんがずっといる。私の中ではすっかり「赤毛のアン」に出てくるマリラの姿なんだけどそう伝えたとしてもにっこりはしないだろうけど嫌がりもしないと思う。いつもいてくれてありがとうございました。

子どもたちも大人たちも今日も安全に過ごせたらいいですね。良い一日になりますように。

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夢とかルーティンとか。

久しぶりによく寝た。奇妙で面白い夢をみた。ぼんやり思い返しているとぼんやりつながってくる景色や出来事があった。やっぱり睡眠は大切。

外は雨。昨晩からずっと静かな雨。途中強まったりした時間もあったのかしら。夢の中では雨は降っていなかった気がする。

身体が動かなくなることについてよく考える。それは徐々にかもしれないし突然にかもしれない。身近な人たちのことを思い浮かべる。同じ病気でも進行の速度が全然違ったり、ちょっとしたつまずきが長く動けなくなるきっかけとなったり、時が過ぎるだけで以前できたことができなくなったりやりづらくなったりする。先が読めないのはなんであってもそうなのだが、いろんな状態がありうるものなんだなと実際に見て知って考えることは自分の生活を考えることにもつながる。私は最近、より細かなルーティンを作ることを試みている。料理だったら似たようなものでまわしていけるように常備しておく食材をそろえておくとか余ってもそのまま食べられるものを使うとか、それ基本じゃないの?みたいなことばかりだけどおいしく食べきることを意識してそれをするようにしている。まあ、料理の場合はあれが足りないこれを買い忘れたとかあっても一個の食材でなんとかすることは可能なので別にいいのだけどなにがなくともこれがあればとおいしいものがちゃちゃっとできてしまう人は別の工夫を持っている人だと思うので、私みたいな人は平日は堅実に定番メニューを繰り返し、時間があるときに手間をかけるのがなんだかんだ一番無難においしいし、気持ち的にもストレスがかからない気がする。

今月は自分の臨床を細かく振り返る機会が多かったのでとても濃かった。学術大会で私の発表を聞きにきてくれたスーパーヴァイジーや友達からも細やかにフィードバックをもらえて土居健郎の『「甘え」の構造』をきちんと読もうと思ったと意外と多くの人からいってもらえたのが嬉しかった。私は臨床素材で説得力をもたせたいほうなのだけど、そもそもの基盤が共有されていないとそれも難しいということは実感した。それでも臨床素材によって抽象度をあげた議論に興味をもってもらえたのであればやはり方法としてはなしではないとも思った。実感のない引用は軽くなりがちだったり、単なる知的な食べ物として消費されがちだから、実感をもって書いている人の文章を実感をもって引用することも続けていきたい。

これだけ寝てもまだ眠気が残っているが今週もはじめよう。東京の空は今日もぱっとしないみたい。のんびり過ごせるといいですね。どうぞよい一日をお過ごしください。

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台風、Reading Freud

昨日は台風に備えて早朝から色々連絡をいれながらオフィスへ向かった。オフィスまでの道のりは静かな雨が降っているだけで嵐の前の静けさなのかなんなのかよくわからないままこのくらいの雨だったらいいかな、と少し遠回りした。なのに犬を散歩中の人に信号無視をするなだの前を見て歩けなど怒鳴られてびっくり。出会い頭にぶつかりそうになっただけで前見てたし信号無視してないし悲しかった。朝っぱらからなんなのさと思いながら早くからあいているはずのパン屋さんまでさらに遠回りしたが開いておらず!こっちのほうがショック!色々備えて一週間最後の日だからなにかおいしいパンないかな、と寄り道したのに。朝っぱらというのは朝の腹、つまり空腹、つまり早朝のことをいうのだよ。だから夜っぱらとはいわないんだよ、夜もおなかすくけどそういう問題ではないんだよ。あさごはんはとっても特別だったのに。たまにしか通らない商店街はどこも開店前でまだ昨日を引きずっている感じだった。そういえば台風が過ぎたらしき昨晩の空には明るい月がでていて、時折黒い雲に隠れる様子も素敵だった。

毎日定点観測している木槿も雨のせいか時間のせいかしぼんでいた。木槿は一日でしぼんでしまうお花。でも蕾が続々と控えているので毎日咲いているように錯覚する。ムクゲって漢字だとゲシュタルト崩壊しないのにカタカナだとなんだか間違っているような気がしてくる。ふわっふわの花びらのなかには小さな蟻が集まる。あれってムクゲの香りというよりアブラムシが出す蜜を求めてくるんだってね。ありんこは本当に糖分に目ざとい。目ではないか。触覚か。いくつかのハーブを嫌うとかいうけどあまり効果がないともきく。私は香水とかずっと苦手だけど蟻はだんだん大丈夫になってくるのかしらね。好きなものはずっと好き。嫌いなものもわりと大丈夫、みたいな感じで。こういう感覚だとしたらわからなくはないけどね。私だって毎日同じ香水を嗅いでいたら数か月後には自分が使うようになってたりするかもしれないってこと。慣れとは違うけどレシピ動画とかいっぱいみてても茄子大嫌いな子供がおかわり!みたいなのもよく流れてくるし、好き嫌いの感覚なんて意外と、って部分もあるのかもしれない。絶対音感とか絶対の感覚を持っている人はまた別だろうけど。

思うだけなら自由というのは見るだけならただと似てるけど境界を意識する必要は常にある。思うだけ、というのはおそらくありえない。それを話すだけ、というのも行為なので。どこで誰に話すかもとても大事。精神分析はお互いの境界に敏感にならざるをえない学問。なぜなら心がどれだけたやすくお互いを侵食するかを実感させられる実践を続けてきたから。だからこそメタで考える力が必要になる。心がどれだけ複雑で多様な動きをみせるかを知っておく必要がある。昨晩のReading Freudは十川幸司訳の「メタサイコロジー論」(講談社学術文庫)の「抑圧」論文を読んだが、「欲動と欲動の運命」で定義された「欲動」に基づいた「抑圧」の記述、表象と情動量の区別、短い論文に詰め込まれた緻密な思考の痕跡を追った。情動の議論はフロイトの臨床観察から導かれており、その素材が狼男、ドーラ、鼠男であることは症例を読んだことがある人ならすぐにわかる。私たちも何度も読んでいる症例論だがフロイトの思考にできるだけ近づいてこれらの論文を読み直す必要を感じた回でもあった。自分の物語をフロイトに押し付けるのではなくフロイトを読み続けることがこの回の目的なのでそう感じられてよかったと思う。

今日は長い移動がある。がんばろう。台風の被害があった地域にも適切な支援が早く入りますように。

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味わいとか。

東京は雨が降っていない。これからひどくなるのか?台風は本当に読めないので身の安全第一に行動してほしい。

毎日、台風にも地震にも悩まされている。が、相変わらず花の写真を撮り、コンビニスイーツを食べている。私「最近、甘いものにあまり目が向かないかも」知人「そういうこと言ってみたい」というやりとりをしたばかりなのにさては嘘つきだな、自分。この前、セブンイレブンの「たっぷりホイップWシュー」を食べた。甘いけどおいしい。でも超おなかいっぱい。ひとりひとつはもう無理かも、と思った翌日には神田近江屋洋菓子店のシュークリームを見て「うわー♡」となった。ついでに新入社員採用の募集要項を読んだらとてもきちんとしていた。お菓子作りを仕事にできる人の待遇が守られていることは消費者である私たちにとっても非常に重要なことなのでありがたいことだと思った。コンビニスイーツだってすごいのは今にはじまったことではない。最近だと平野紗季子さんの「ふあふあサンド」がお目当てだった。これ、オフィスのそばに新宿区のセブンイレブンには売っておらず世田谷と品川の、しかも一部の店舗のみの発売ということでがーんとなったが平野紗季子さんのおやつへのこだわりがとても好きなのできちんとゲットした。コンビニスイーツははんぶんこして食べるのがちょうどいいと思うのだけどこれはひとりひとつでもちょうどいいサイズだった。でも2種類をわけあっていただいた。おやつってやつはおいしさに楽しみが加わるとなおよし。ひとりで楽しみたいときもあればそうじゃないときもあるし形態はなんでもよし。

この前、小さな本屋さんで詩の棚をみていたら「詩、お好きなんですか」といわれた。「はい、俳句も好きです」ときかれてもいないことを答えつつすこしおしゃべり。詩の棚が充実していたお店が輸入お菓子のお店になってしまった話をきいた。輸入お菓子もきっとかわいくて楽しいけど、詩はとってもいいよ。必要な食べ物だと思う。味わうという意味で。この詩集も好き、このシリーズはすごく高い値段がつくようになっちゃった、など話したあと、つい「(詩を)よろしくお願いします」と本を抱えて小声でお辞儀をすると店員さんも同じようにしてくれた。詩の棚を作ってくださってありがとうございます。

この前の学術大会で土居健郎の「甘え」を論じるときにも触れたけど「味わい」って大事。味そのものより大事な気がする。自炊料理家の山口祐加さんも「味わい」について書いていた気がする。今年初めにでた『自炊の風景』という本はとってもいい本で、山口さんがお料理を教えながら聞き取るひとりひとり違う語りもお裾分けしてもらえる。私は冒頭の著者自身のエピソードからすでに涙が出てしまった。誰かの語りを聞くと別の人の語りも蘇ってきてしまって、特に食事にまつわる語りって本当にたくさんのものやことを含んでいるから味わうには少し情報量というより情動量が多いのかもしれない。私も最近、なんで得意でもないし、時間もないの料理にこんなに関心を持っているのだろうと考えていてふと気づいたことがあった。人には歴史がある。それをどういう風に大切にするか、そういうことを精神分析のみならず料理に対しても考えていたらしい。それがいいものであれ悪いものであれ育ちの過程は誰にでもある。それをどう味わうかはそれぞれの自由だけど聞き手ってやっぱり大切だなと思う。

この時期の紫の花にギボウシとかアガパンサスがある。ギボウシの英名はHosta。ホスタ。なんかかわいい。いかにも梅雨らしく涼やかにうつむき加減のつぼみが下から順にひらいていく。アバパンサスの開花を追うのも楽しい。駒テラス西参道にも大きな青紫の花が咲いていた。調べたらジャカランダというノウゼンカズラ科のお花だった。一つ一つのお花は裾がふんわりした細身のスカートみたいなお花なのだけどたくさん連なるからゴージャスなの。そばにはオレンジ色のノウゼンカズラもあったから、あの通りの日照時間とかはノウゼンカズラ科と相性がいいのかもしれないね。

台風でいろんな花が横倒しになってしまいそう。少しずつ回復しますように。そうこうしているうちに今度は暑さか。元気に過ごせたらいいですね。

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6月26日金曜朝

西のほうは雨が大変そう。明日には関東にも台風がくるのかもしれないけどニュースをみていてもサッカーの話題はでてきても台風の話題はあまりでてこない。

最近、ちっちゃくてかわいいがじゅまるの木があるカフェでおいしいスコーンをみつけた。スコーンも小さめでかわいいの。そこに行きたくて時間を作り出そうとしているが失敗続き。自分で作るか、と簡単なレシピないかな、と探し始めるといつのまにか今晩とか明日とか週末とかの献立を考えはじめちゃってこの時間をあわせたら余裕でいけるじゃんと思うが、時間の使い方というのはそんな簡単ではないのだな。なになにしている暇があったらこれこれできたでしょ!と他人にも自分にもいいたくなるかもだけどそれはなかなかそうもいえないものなのだよ。むずかし。

生活をもっと整えたくてほんとこまごましたことを調べたりしているのだけど、私の年代は人生の整理というには少し早い、というか、親世代ができるだけよい終わりを迎えられるようにあれこれ手伝ったりする時期なんだと思う。だからそういうこまごまとしたことに関する情報もそれぞれ蓄積されてきていて特に相談したわけでもないのに雑談でそういう話になるから面白い。少し前までは身体の不調とそれに対するケアの共有が自然にされてきたけど不調にはもうだいぶ慣れてきてるんだろうね。私はかかりつけの医者が若返って(世代交代という意味)私より若い世代の女医さんもいるのだけど症状の説明は論理的だし、一般的な対処を過不足なく教えてくれるし、それでどうしようもない場合でもとりあえず一生懸命耳を傾けてあれこれ学ぼうとしてくれるのがいい。医者だから全部わかってるなんてことはないので患者側も主体的に協力しないとね。とか主体的という言葉を使った時点でまたあれこれ難しいことを考え出してしまうわけだけどまあ私の仕事には必要なことなのでそれはそれでがんばりましょう。

信頼も期待もちょうどよくもちつつ今日もよい一日にいたしませう。

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雨の朝

木曜日。小雨。小さい傘で平気そう。

今週もあっという間に過ぎていく。幸せなことだとは思う、が、とあれこれ考える。そのなかで、隙間時間という言葉は私の仕事には正しくないなと思った。セッションと次のセッションの間の10分も隙間というよりつなぎだ。関連してプロセスという言葉ももっと限定的に精神分析的プロセスとして使わないとなと思った。たとえばスキマ時間にいれるアルバイトもだいぶ当たり前になっているようだけどどんな労働形態をなんのために選ぶかは目の前よりはもう少し先を見据えたうえで、現在の行動可能性を正確にアセスメントして選択しないと安易に搾取されたりイデオロギーの歯車になったりするのではないのかな。そこでの契約ってなんだろう。課せられる責任ってなんだろう。

精神分析には「抵抗」という概念があって、それは自分の心の作業で、自分の部分対部分の話でもある。分析家との間に生じることは心の中の歴史ですでに生じたことでもある、と一応考えるのが精神分析における転移の考え方だろう。抵抗は異物に対する受け入れがたさでもあるが、自分の歴史認識を改めなくてはいけないという予感に呼応する身振りかもしれない。だったらみない、とりあえず今がよければ、と思考停止するあり方もできるが、かかわりはどうするか。それは自由とよべるのか。

いろんなことを考える。だって毎日ニュースにうんざり。それでも目を閉じず、耳をふさがず、できるだろうか。ひとりではなく。がんばろう。

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スペインの精神分析家のポッドキャストをきいたり。

涼しい。鳩が同じリズムでないて、とまって、を繰り返している。

2026年5月4日に配信されたIPA Podcast Talks On Psychoanalysisを聞いた。このポッドキャストは補足用のテキストがあってご本人がそれを読み上げてくれるのがいい。声が持つ情報って多い。

この回はスペインのマドリードで開業しているマドリード精神分析協会(APM)の訓練分析家、Dr.アリエル・リベルマン(Ariel Liberman)のお話。題はPsychic change and enactment:some reflections。

リベルマンはAPMでさまざまな要職を歴任。複数の論文を執筆しているほか、2冊の著書、“An Introduction to the Work of D.W. Winnicott”(2011)および “Conversations on Psychoanalysis with Stephen A. Mitchell”(2022)を出版とのこと。

この論文はWinnicott (1954)とWilly Baranger(1979)と、なんとBill Evans(大好き)の引用から始まっていてOgdenの引用も多いというだけでもいい。フリーで読めるし聴けるからぜひ。

後半のビル・エヴァンスの引用に戻るところから少し訳しておく。

“「クラシック音楽において、ミスはミスである。しかしジャズにおいて、ミスは、その後に続くもの(事後的/a posteriori)によって正当化され得るし、実際に正当化されなければならない」

ビル・エヴァンスは、私が伝えようとしたことの精神を要約しています。つまり、「技術的ミス」がいかに文脈と理解に依存し、それが単なるclosureではなくopeningになりうるかということです。スコア(楽譜)への参照がほぼ絶対的でありミスが絶対的なものであるクラシックの世界とは対照的に、ジャズのメタファーを借りれば、演奏されているハーモニーとその変容の可能性を絶えず理解し続けることが、一見ミスとされるものの中に潜在的な意味を回復させ、あるいはエヴァンスが言うように強制し、それを許容するのです。ミスが音楽テーマの継続の中でreharmonizeされ、回復され、前例のない可能性を切り拓く——つまり音楽表現の糧となるならば、それはもはやミスとして固定されることはありません。”

論文と関係ないがフロイトの著作が全集として最初に訳されたのがスペインだそう。翻訳者はスペインのドイツ文学研究者のLuis López-Ballesteros。フロイトからの手紙はFreud, S. (1923) Letter to Señtor Luis Lopez-Ballesteros Y De Torres. The Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud 19:289/RSE 19, Page 295

フロイトはこのルイス・ロペス=バジェステロス・イ・デ・トーレス氏への手紙で、『ドン・キホーテ』を原文で読みたいという願いから、独学で美しいカスティーリャ語(スペイン語)を学んだと書いている。フロイトの文学に対する情熱もすごい。

そしてルイス・ロペス=バジェステロスが「医師でも精神科医でもないにもかかわらず、これほど複雑で、ときには難解ですらある主題について、これほど完全かつ正確な理解」をしたことに驚きを見せている。

精神分析はのちにスペイン、そしてアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカ世界へ深く根を下ろしていったわけだけど、ルイス・ロペス=バジェステロスによる翻訳はその出発点となったのだろう。

まだ鳩が同じ距離で同じリズムでないている。よい一日になりますように。

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言葉以前。

深夜、窓を開けていたら近所から大きな話し声や笑い声が聞こえた。夜に窓をあける季節。風はあまり入ってこなかったけど閉める気にもならなかった。扇風機の音を近くにききながらコピペしたままの文章を眺めている間に深夜はもっと深夜になっていた。

現代の精神分析は主体を前提とできない症例が多い。カウチから言葉ではなく、身体を、声を聴く仕事。そもそもフロイトはそれをやってきたわけだが、フロイトが大きな役割を与えた自我がこんな形で空洞化した審級になると誰が想像しただろうか。

先日、アントニオ・R・ダマシオのDescartes’Errorをなんとなくめくっていた。この本はのちに新版『デカルトの誤り』としてちくまから文庫版がでているが、私が読んでいたのは『生存する脳』(講談社)のほう。

「私が考えている真に身体に統合された心は、そのもっとも洗練された作用レベル、すなわち精神(soul)と魂(spirit)からなるレベルを放棄していない。私の考えでは、精神と魂も、その気高さにもかかわらず、一個の有機体の複雑かつユニークな状態ということになる。
たぶん、日常われわれが人間としてできるもっとも重要なことは、われわれ自身が複雑で、脆弱で、有限で、ユニークであることを思い起こすことだろう。」

ソマティック・マーカー仮説で有名なダマシオだが、ダマシオが心を身体に戻すことを考えたように、ように、ではないが、精神分析は身体をよりsoul & spiritから記述していく必要がある時代だと思う。ただ話されているだけの言葉に安易に意味を与えず、その言葉の出どころを精神と魂と身体のハイブリッドで考える。その現れは言葉というより声であり、トーンであり、リズムだったりするだろう。精神分析で参照するとしたらやはりオグデンか。

今日はくもっている。日差しもあるがまだ強くはない。なんとか地道にがんばろう。

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散歩とかグループとか。

今朝はまだそこまで暑くないかな、と思ったけど熱い紅茶を飲んだら一気に暑い。昨日は曇っていたのに日射しを感じた。でもいろんなお花の写真がきれいにとれる空色ではあった。八重のクチナシもアガパンサスもアンティーク化したいろんな種類の紫陽花も薄暗い空に映えた。薄い花びらが雨に透ける姿も強い日差しに輝く様子も好きだが昨日くらいがしっとりしてて好きかな。年に数回行く街というか通りを歩くついでにはじめてのカフェにいった。ちょっと高いけどごまのパンがチーズとあっていてすごくおいしかった。一時期、いろんなパン屋さんをめぐったけど次から次に新しいお店ができているのね、こうやってカフェつきで。昔ながらのパン屋さんのたべやすくて素朴な味も好き。いまどきの工夫が多いパンも好き。コーヒーは特別好きなわけじゃないけどカフェは好き。オフィスのある初台にも小さな珈琲屋さんがいくつかあるのだけどオフィスと反対側でなかなか行く機会がない。この前、はじめて寄ってみたお店はこじんまりだけど噂どおりとてもおいしかった。私が知っている時代のコーヒーの値段という感じでお手頃だったのも嬉しかった。今は輸入とか少し大変かしら、コーヒー業界も。地道に働く私たちはこうして小さな交換をしながら生き延びているのだからそういうささやかな仕事を脅かさないでね、と思う。

夕方からのクリニカルグループもすごく面白かった。自分がやっていることを細やかに追うことはひとりではとても無理で、情緒を抱え、思考を止めないための他者が必要、というか思考停止になる厳しい状況を共有できる人がそうなっているけどどうしてだろうね、と一緒に考えてくれることはとても助かる。自分とは異なる考えにたくさん触れながら、影響を受けつつも、実際の場に立つのは自分なのでその責任を普通に引き受けていくこと。これは分析家になる訓練として精神分析をうけるなかで育まれるものではあるけど、精神分析が分析家と被分析者のペアにひきおこす情緒はたやすく「抱える」ことはできないので精神分析をいろんな人と体験していくことを続けていく以外にない。

医療現場において心理療法を提供する場合、生物学的、心理学的マネージメントを引き受けてくれる管理医は別の医師に引き受けてもらう必要があるが、それだって心理療法においてからめとられる自分ではたしかなマネージメントができなくなる局面があるからかもしれないからである。いわゆるA-Tスプリットのことだが、最近はどのくらい話題にされているのだろう。臨床はチーム意識が本当に大切。この場合、あくまで心理療法がクライアント、あるいは患者にとって必要な場合、というのが前提で、オーダーがでたらアセスメント済みとみなして即導入というのは倫理的ではないだろう。現実的に考えて、求めてもないものを押し付けることはすべきでないだろうし、心理療法以外にできること、すべきことを模索することを優先すべき事態はたくさんある。相手はこれを求めているけど、今の状況でそこに触れることはかえって状態を悪化させるかもしれないし、現実的に安全な設定をお互いに準備できてない、みたいな状況では心理療法ははじめられない。それぞれがそれぞれの役割を十分に認識し、協力しあっていくこと。そのプロセスでは意見の食い違いもたくさん生じる。話し合いは負担だろう。それでもそれも仕事、とうかそれが仕事。集団力動を読むことはその組織内の話だけではない。いろんな人と、いろんなグループと協力を模索するときにはいつも必要なこと。がんばっていこう。

6月ももう後半。今日はオンライン句会の選句〆切。いろんな形で季節に移り変わりを大切にしよう。

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羽抜鶏とか。

くもり。時々少し雨が降っているらしい。キッチンの小さな窓の網戸に少し水滴がついていた。風が強いときの水滴みたいだったけど窓を開けても風はふきこんでこない。なので扇風機をつけた。エアコンを入れるほどまだ暑くはない。

NHK俳句で「羽抜鶏」という季語について話し合われていた。なんとなくイメージはできるのだが実景としての羽抜鶏が思い浮かばない。小学校にあった鳥小屋、近所の美容院のにわとりたち、いまにいたるまで本当にいろんなところでみているはずなのに全然思い浮かばない。最近、オフィスのまわりを歩いているとカラスの羽をよくみかけるなとは思っていた。初台駅に向かうまでの道にたむろする鳩たちの羽も抜けるのだろうか。羽抜鶏は晩夏の季語らしい。気づけるといいな。

今朝は予定が変わったからお散歩にでもいこうかしら。なにかアイデアが降りてこないかなあ。インプットも足りないなと思うけど、時間がないなかでなにか降りてくるのを期待する場合、専門的な本は読まないほうがいい、私の場合。付け焼刃の知識では漠然と考えていることをふくらますこともできないし、お散歩しながらなにかを待つほうがいい。実践の積み重ねからぽわっと形になるものをうまくつかめたらいいな。

今日は「いいな」ばかりの日だな。まあ小さい希望をもって良い日曜日にしませう。

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6月20日土曜日

まだ雨は降っていないのかな。昨日より気温は低いとはいえすでに蒸し暑い。

今週はいつも以上にあっという間に終わった。先週末、学術大会でいろんな人と話したのが去年の学会くらい遠い。新潟の学会ついでにいった弥彦神社そばの弥彦ブリューイングもがんばっているらしい。Instagramでチェックしている。あそこは東京農業大学の弥彦桜5号酵母を使っていたりしてなじみ深いのだ。農大とか農大がある経堂とかは地ビールがすごいのだよ。素敵な呑み屋も多いし。農大は色々楽しいことやっていて出身の方のお話とかきくのすごく楽しい。弥彦でもきいた。あの日も雨が強くて寒くてでも紅葉がきれいでもりだくさんだったな。依頼されたお仕事をやっただけで自分の演題はださなかったけどおいしいものたくさん食べてよく遊んだ。新潟もいいところだよねえ。今年も学会のほうは演題はだしていないけど仕事はあるから福岡でおいしいもの食べたい。自分の発表は協会とIPA関係のほうしか余裕がないな。来年のIPA大会にもだせたらいいけどかなり難しいかも。今月末〆切は厳しいなあ。

昨日は隙間時間に海外の文献を紹介する原稿をバーッと書いた。読んだことがあるからといって引用しようとか思って読んでいなかったからちょこちょことしかメモもとっていなかったし、字数がそれほど多くないとはいえ結構難しかった。こういうお仕事をたくさんしている人はそれに対する準備も上手なんだろうなあ。私の頭は全然そうなっていない。でもラプランシュやリクールがまとまっていた箇所があって勉強になったのはよかったし楽しかった。土居健郎が読んだリクールを私もきちんと読みたいし。いろんな本読みたいし、いろんな料理したいけどいつになることやら以前に、安心して暮らせる政治が営まれていれば心にも時間にも余裕ができると思うんだけどね。現状、いつも怒っていなければならないじゃないか。もう。

今日は土曜日。良い一日になりますように。雨の降る時間は足元きをつけてまいりましょう。

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Early Women Psychoanalystsのことなど。

今日は6月19日、金曜日。いいお天気どころか真夏日になるって。それきくだけで辛くなってくるわ。今日は桜桃忌か、と禅林寺での光景を思い出したり、もう阿波踊りの話題か、と年末年始に行ったばかりの徳島に思いをはせたりしているうちに朝の時間はどんどんなくなっていく。

先日、Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance(Klara Naszkowska編、2024、Routledge)のことを少し書いた。精神分析のパイオニアであるにもかかわらずその貢献が語られてこなかった女性たちに関する本である。海外文献紹介の依頼をうけているのでこの本だったらすぐに書けたかもとあとから思った。それはともかく、精神分析家にいくら女性が増えていようと女性の地位が向上したわけではないのは日々のニュースから明らかなので、自分が生きる道を切り開いてきてくれた先人たちのことを知り、語り継ぐことは大事だと思う。

特に第4部のBeyond the Holocaustが印象深いと書いたが、そこには若くして自殺したふたりの女性精神分析家が登場する。ひとりはワルシャワの裕福で愛国的な家庭に生まれたポーランド系ユダヤ人のEugenia Sokolnicka。彼女の母は女性による愛国運動の著名な活動家であり、逮捕をされたこともあるが、ポーランド独立後には国葬に準ずる盛大な葬儀をもって追悼された人だという(Geissmann & Geissmann, 1998)。一方、ソコルニツカは当時のロシア帝国支配下のポーランドにおける女性への制限のため、大学への進学を許されなかった。

しかし、ソコルニツカは Sigmund Freud や Sándor Ferencziの分析を受け、lay analystとして活躍の場を広げていく。彼女に関する彼らのやりとりも興味深いというかなんなんだ、という感じはするが、フランスの精神分析に貢献したソコルニツカの名が Marie Bonaparteの登場によって、フロイトと同僚たちとの往復書簡から徐々に姿を消していったという記述は切ない。これだけみても女性分析家としての立場の弱さを感じるが、マリー・ボナパルトの登場は象徴的な例であり、男性中心社会における女の使用、権力構造のありようはどこでもなにも変わっていないのだろう。それに加えてヨーロッパの社会政治的状況、具体的にはユダヤ人に迫りくるヒトラーの脅威、様々な歴史的文脈があるにせよなんにせよ、彼女は1934年5月19日、58歳でソコルニツカはガス中毒によって自ら命を絶った。

ソコルニツカの死に際して、彼女の元被分析者であり生涯の友人であった小児科医・精神分析家の Édouard Pichon は、フランスへのフロイト理論の導入と精神分析家養成におけるソコルニツカの功績を公に認め「彼女は医学の学位を持ってはいなかったが、未来の精神分析家を養成できる唯一の人物であった。」と述べている。

ソコルニツカとこの後の章に書かれるSophie Morgensternに関して重要なことは、彼女たちに関する記述が単なる精神分析史ではなく、言語の歴史として読めるところである。これは私が紹介しようとしているアナト・ツール=マハレルの議論と重なっていくのだが、ソコルニツカもモルゲンシュテルンも母語はポーランド語であり、ドイツ語で分析を受け、フランス語圏で活動するという3つの言語空間を生きた精神分析家である。しかも彼女たちは患者とはポーランド語で話しながら、論文はドイツ語やフランス語で書いている。このようなことをどう受け取るかは読者によって異なるかもしれないが、と私の意見を書きたいがもう時間がないので今日はここまで。またいずれ。

良い一日になりますように。

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感触

昨晩、静かに降り始めた雨の音が強くなっていた。今はまた少し静か。昨日の昼間は陽射しがあった。少ししか浴びていないはずなのに肌が赤黒くなった。痒いような痛いような。薬を投与&塗布。アントニオ・R・ダマシオは皮膚を単なるタッチセンサーではなく身体最大の内蔵だとした。火傷で人が死ぬのも皮膚が不可欠な内臓だからだという。皮膚が原初的なインターフェイスであることはそれこそ感覚的に理解できる気がする。内と外が繊細につながる場所は自己も心も表れやすい。アトピー性皮膚炎の子どもの親がなぜか育て方を叱られたり、指しゃぶりが睡眠への導入となったり、感覚過敏によって同じ素材しか着られなかったり、人は繊細な部分にも容赦ない。

月曜日に大きめの地震があった。オフィスは高層階なので気持ち悪い感じで揺れた。防災用の多機能ラジオやミニランタンを充電したり懐中電灯の電池を確認したりした。防災グッズの準備に終わりはないが、いざとなったときにささっと使えるかな。シミュレーションはしているが不器用すぎるし不注意すぎるので不安ではある。

つくおきにも終わりがない。つくおかなくても帰ってきて10分とかでできるものはあるしInstagramでレシピを見続ける時間も減らないが洗い物も少なくしておきたいし、なんとなくつくおきは楽だ、ということで最近は好きな料理家のお弁当本を参考にしてメインを作っている。印度カリー子とか飯島奈美とか。一時はお昼もお弁当にしていたけど最近はあまりしない。電子レンジをおけばやる気になるかもだけど食べる時間も定まってないしまあいいかとなる。でも食材いじってる時間は楽しいよね。最近なんでも高くて困るけど。

毎日精神分析をしているといろんな体験を表す概念の奥深さを感じる。この前、週一回の精神分析的心理療法の事例を素材に「甘え」について発表したが、精神分析の場合、それはもっと別の形で現れるように思い、私はまだそれと出会えていない気がする、と話した。「甘え」と言葉にした途端消えるそれは私にとって消失点で立ち現れる感触だが、精神分析の感触でいうと、それはもっといつのまにか豊かな草原に立つような感覚と共に現れそうなジブリ的静けさをイメージする。なんだそりゃという感じだと思うが隔たりがなくなることでできる空間ということ。それでもなんじゃそりゃか。少しずつ言葉にしていこう。

それでは今日も気をつけて出かけましょう。良い一日になりますように。

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精神分析

Beyond

今日もいいお天気。まだ暑くもないし、ずっとこのくらいならいいのに。


昨日私は精神分析家になる(becoming)の文脈で考えていると書いたが、精神分析家によってそのプロセスは全く異なる。それはごく当たり前のことなので語られなかった言葉、忘れ去られつつある言葉に対する感受性は意識して磨いていくしかない。単に歴史は大切というのではなく、歴史に残らなかった歴史も大切である。


2年ほど前にここでも書いたがKlara Naszkowska編集のEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevanceはその観点からみてもいい本だと思う。


各章はBeyond Wife, Lover, Muse、Beyond Psychoanalyst、Beyond the Homeland、Beyond the Holocaustと「Beyond〜」のどれかに収められており、それぞれの章の著者は、精神分析家だけではなく、歴史家、ジェンダー研究者、文学研究者、ユダヤ研究者もいる。


出版社のウェブサイトの概要をみるとそれぞれは以下のように説明されている。

本書の第1部では、Sabina Spielrein、Lou Andreas-Salomé、Beata Rank といった比較的よく知られた分析家たちを取り上げる。彼女たちはしばしば誰かの妻、恋人、あるいはミューズとして記憶されてきた人物である。
第2部では、Margarethe Hilferding、Tatiana Rosenthal、Erzsébet Farkas など、明確な政治的立場をとった女性分析家たちに光を当てる。
第3部では、Ludwika Karpińska-Woyczyńska、Nic Waal、Barbara Low、Vilma Kovács といった、あまり知られていない分析家たちの伝記を、初期フロイト運動における彼女たちの重要性という文脈から論じる。
そして最終部では、Eugenia Sokolnicka、Sophie Morgenstern、Alberta Szalita、Olga Wermer の人生を、移住と亡命、トラウマ、喪失、そして記憶というテーマとの関連において検討する。(引用の訳はここまで)

この本は、特定の観点からしか語られてこなかった、あるいは語ることさえされなくなった女性たちを、既存の物語を超え、アイデンティティを超え、その枠組みの向こう側から読み直すものといえるだろう。なかでも第4部のBeyond the Holocaustの各章は印象深い。これらの章は女性分析家の語られなかった側面を語るだけでなく、精神分析を記憶、亡命、思考の歴史として読み直す視点を提供してくれる。彼女たちの体験とそれを語ろうとする言葉たちは胸に迫るものがあり、思考を促さあれる。Taking CureとかけたThinking Cureというタイトルも彼女たちの歴史の延長上で私も精神分析家になったことを思うとより集団的な態度として有効であるように感じた。


だからなにというわけではないが、土居健郎の「甘え」が人の心を表す概念として有効であることがもはや共有されていないらしい、という事実(多分)に私はそこそこ危機感を抱いているということだろう、こういう本のことを書きたくなったりするということは。

毎日眠いががんばろー。

代々木
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「甘え」とか。

東京はいいお天気。梅雨の晴間。この時期の花々は水も太陽も供給されているせいか朝日に輝く姿もみずみずしい。早朝から夜ごはんの準備をして朝ごはんを食べた。生活習慣は時間感覚を整える。ある程度の見通しがもてることは安心感につながる。
5月はソウルで精神分析の伝達、継承について、先日は市ヶ谷で「甘え」について発表したが、発表は少し過去の思考プロセスの断片となる。外からみると異なるテーマに見えてもひとりで考えられることなんてたいしたことないので、いつもいいたいことは大体同じなわけで、それらは日々考え続けられている事柄でもある。
今年の日本精神分析協会のジャーナルでも対象の不在を知覚するプロセスにおける精神分析カップルの心の揺れやそこから立ち現れる気づきについて書いた。「甘え」もそうだが、精神分析が相互作用を重視することは現代では普通のことだ。私はそれを分析家になる(becoming)という文脈で考え続けているから継承の話になるし、治療者が先に甘えにまつわる情緒を体験することの重視になる。土居はもちろん甘えの相互性を強調したし、子供も大人も甘えると述べた。そして甘えを転移と同様のものとして位置づけたが、私たちが甘えや転移という言葉を使うとき、そこに治療者側、母子関係モデルでいえば、母親側をどこまで患者と対等に位置づけて思考できているだろうか。訓練を受けることの重要性はまさにここにあるわけで土居でいえば治療者が「甘え」を自覚することにむけて自分のこころが他者との間でいかにいろんなふり幅で、いかに繊細に動くかに怯えたり、防衛したり、一時的に病的になったりする体験をするなかで自分を知る長き苦闘だろう。

私が土居健郎の「甘え」について考えるとき、同時にアンドレ・グリーンのネガティブ、そしてウィニコットの鏡役割についても考えている。たとえばContemporary Psychoanalytic Practice(2025, French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts series)のThe enigma of guilt and the mystery of shameの以下の部分は「甘え」の説明になりうる。訳はいつも通り間違いがあるかもしれないので参照する場合は必ず原著を。

>>ここに残される問題は、「欲動満足の欠如だけが攻撃性の引き金となる唯一の要因なのか」という点である。この疑問に答えるためには、まず欲動満足を構成する要素を同定する必要がある。母子関係の中で、破壊的側面が存在しているように見える場合、そこでは欠如による苦痛が攻撃性へと変形する背後に、持続的な融合、あるいは分離の欠如non-separationの徴候がうかがえることがある。子どもはこの状況から逃れようとして、母親を執拗に引き留め、ほとんど絶え間なく母親を自分のそばに置いておこうとし、母親に安らぎの時間を与えず、心配させる。まるで、母子関係だけでは得られない何かを、必死に求めているかのように。しかし、このような葛藤の反復は悪循環を延長させ、サディスティック=マゾヒスティックな関係を強化するにすぎない。私の見解では、ここで起きているのは、子どもが、自らの欲望の関係性を母親が理解していない(母親自身の葛藤のために盲目になっている)ように感じるがゆえに、その関係の中の欲望の性質を認めてもらうために行う必死の試みである。したがって、この要求に満足に応じるための前提条件は、主体がこう感じられることである。自分の欲求は欲望の表現として理解されている、そしてその欲望は、他者のうちに、自分自身を映す、自分と相補的な欲望する姿勢を見いだしたときにのみ表現可能である。
私の考えでは、攻撃性は対象を攻撃しようとする意志そのものではなく、むしろ他者からの応答の拒否への反応である。すなわち、主体が期待していた自らの欲望を映し返す応答がそこに見いだせないときに現れるのである。これこそ、ウィニコットがきわめて深く理解した点である。(引用ここまで)

土居は甘えを相手に自分の気持ち、欲求を察してほしい、理解してほしいという受動的、依存的な面を強調した。
一方、ここでのグリーンは、子どもは、自分の欲望の関係性を母親が理解していないように感じるがゆえに、その欲望の性質を認めてもらうために必死の試みを行うとう文脈で述べている。グリーンはウィニコットを引き合いにだすが、土居がウィニコットを引き合いに出すとしたらウィニコットの鏡役割ではなく、攻撃性の理解のしかたに自分の理論との類似性を見出したのではないだろうか。土居は切実さを情緒的に描写したが、それを即痛みとして、つまりわかりやすい攻撃性の文脈におくことはしなかったようにみえる。北山修のいう儚さもそうだが、日本の精神分析はどこかずっと見続けられる夢として親密さを捉えているのではいか。

とかこういうことをあれこれ毎日考えているわけである。今月末〆切の仕事もできていないのに同じく今月末〆切の演題募集に応募したいと欲張っている。どうせだめだろうとワンチャンあるかものはざまにいつもいるな。まあ、その時々の状況でどうにかしましょう。


今日は火曜日。良い一日になりますように。

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学術大会とか2

サッカーワールドカップ、ちょっとゴミ捨てに行ったら引き分けになっていた。外は雨が少し降っていた。

昨日も朝から夕方まで日本精神分析協会学術大会だった。市ヶ谷は昔、精神科クリニックの受付アルバイトで通っていた。昔すぎるが変わらない景色もある。釣り堀とか。一日がんばるためにと理由づけをして朝からケーキを食べてしまった。このカフェは私が通っていた頃はなかった気がする。午前のプログラムを聞き、すでに疲れきった頭で富士そばへ。知り合いが店内にいてなんとなくお話をしながらそばを待った。同じメニューを頼んでいたが彼は温かい蕎麦だった。私はすぐに食べられるように冷たい蕎麦にした。発表中に眠くなってしまうと困るのでさっさと食べたらそのあたりを早足で散策。お堀沿いを歩いていたらカワウがいた。また信号を渡って会場にはまだ戻らず急な坂道へ。登って降りてきた。この坂も昔セミナーで通っていた坂。腹ごなしにもちょうどよい傾斜。それでも全然歩数少ないまま会場へ。

今回は事例検討のグループとパネルで司会をしたが司会は負担が少なそうでそうでもない。一般演題で「甘え」について発表したが発表も原稿読めばいいだけといえば簡単そうだがそうでもない。そんなことは知っていたがいつもと違う頭と心を使った。事例とテーマにコミットしたコメントをいただけたりしたのは嬉しかった。せっかくオープンにしているのだからなおさら精神分析の外に開かれた、かつ精神分析概念としても重要な言葉を使いたい。「甘え」はうってつけなわけだけど、日常語としては使われていてももはや精神分析療法を説明する主要概念としては捉えられていないという感じがした。それならなおさら取り上げていかないとなあと思った。私は日々臨床の生活なので、臨床素材から議論していく形式は自分の中でぶれることはない。「AMAE」を取り巻く現代の環境や言葉の使用を思えば、外国に向けた論文を書いた方がいいのかもしれないな。日常語、つまり生きた言葉を日本の精神分析は大切にした方がいいと思うから。私は対象の不在を知覚することの困難と意義を絡めて「甘え」という言葉が使用されるときのことを考えている。

昔からの友達が今年もきてくれた。いろんな人とたくさんお喋りもした。精神分析的な理解は精神分析の訓練をしていなくても共有できる部分は多いというか、公的な相談室で外部からのスーパーヴァイザーとして精神分析家を呼んだりしていたのは私が若い頃からあったわけで、精神分析と呼ばなくても自然に力動的な理解をして臨床をしている心理職は多い。私の世代は気楽になんでも取り入れてきた世代だからなおさら症例や考え方はしっかり共有してもらえるうえに別の視点ももらえて楽しい。理論的な部分は難しいと言いつつも応援だからと毎回きてくれるのも嬉しい。若い頃から本当に助けられてきたつながり。仕事でもとてもたくさん話し合ったし、対話が普通にあった時代だから打てば響く。それが当たり前だと思ってきたけど今は本当に貴重に思う。携帯とインターネットは世界を変えたね。生身で、その場で、というのはむしろ自然じゃなくなってきているのかな。人間は、というか日本人は、というか、とどんどん対象を小さくしているが、本当にどうなっていくのだろう。

色々考えれば憂鬱だが考えなかったら面白いこともできなそう。新しい1週間、またがんばりましょう。

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学術大会とか。

今朝は少し蒸し暑い。ごはんを食べたらもっと暑い。代謝。今日も一日屋内。

日本精神分析協会の総会、報告会、学術大会1日目終了。大変疲れたが勉強になったのはもちろんのこと、楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。学術大会にいらしてくださったみなさま、本当にありがとうございました。お久しぶりの方々ともいろんなお話しができた。実際に会って近況を報告しあえるだけでもみんながんばってるんだな、と元気をもらえる。会員以外の臨床家にもオープンにしてから3回目の大会。参加者の皆さんの自由度が増している印象。議論が活発。有意義。学術的な議論ができる場として楽しみにしてもらえる大会にしていけたらいいな。

それにしても眠い。どうしたものやら。朝からレシートの整理とかのんびりしていたが今日発表がふたつある。全然自分の中がそんな雰囲気になっていない。いつもいかない駅でお菓子を見つけるのが楽しくて昨日もいろんなお菓子を配ったり食べたりした。世の中には本当にいろんな商品があるものだねえ。

なんかどうでもいいことを書き続けているうちに時間になってしまいそうだからもういこうかな。みんないい一日になりますように。

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6月13日(土)

いいお天気。だけど大気の状態は不安定です、とのこと。

昨日はサンダルで帰ってきたから足が痛い。朝は東京も雷雨になるのかしら、と心配していたのにもっとも雨に弱いおしゃれスニーカーを履いて出てしまった。運よく昼間の雷雨は免れたが夜も雨かもということだったので置きサンダルで会議のある場所へ移動。結局降られず。それはそれでラッキーだったが夜遅い中大混雑の駅構内を歩くのは辛かった。週末の東京の混雑、怖い。東京暮らしの方が実家暮らしよりずっと長くなってきたのに昼も夜もほとんど人に会わない通りの方に身体が馴染んでいるらしい。最近は実家に帰る電車も隣の人と隙間なく触れ合うように座らざるを得なくなったが昔はそういうことはなかった。ずっと変わらないなんてことはどこでもありえないのだろう。守ろうとしない限りは。

今日は日本精神分析協会の総会と学術大会。ずっと屋内。暑そうだからいいけど身体動かさないとなんか澱むよねえ、気分が。昨日からすでにいろいろ始まっておりすでにいろいろな話をした。今日も明日もいろんな人といろんな水準の話をすることになる。まるで余裕のないときこそいつも以上に普通に音楽を聴いたり小説を読んだりしたいが友達に本をあげることでよしとしよう。

どうでもいいことだが、昨晩、電球を交換して新しいのを店舗受け取りで注文した。新宿はどこの出口を出ても家電量販店が近いのでとても便利。そこそこ大きいものでも自分で持てるものは大体店舗受け取りにしてしまう。西口のヨドバシであればオフィスのある西参道(渋谷行)を通る路線のバス停が近いので重たいものも大体運べる。力持ちでよかったというのもある。そういえばしばらく忙しくてトレーナーさんのところに行けない。自重トレやらねば。毎日誰に訊かれたわけでもないのに言い訳をしてサボるのをやめましょうね。はい。ダイエット目的だと筋トレだけではそれほど効果ないかもしれないが、怪我予防にはとてもいいと思う。いろんなところに自分の足腰で行けたらいいな。

良い一日になりますように。

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6月12日(金)朝

いいお天気。でも予報では雷雨になるかもと。東京もかしら。昨日はお昼に外に出たときが一番涼しく感じた。朝は長袖Tシャツにシャツを羽織っていたけどお昼はシャツを脱いでいた。夜は用心して置き上着も羽織ってでた。それを脱ぐほど暖かくもなかったが着なくても大丈夫だったかなくらいの気温だった。

昨日は朝早く着いたのであまり歩かない道をぐるっとまわってからオフィスへ行った。坂道で小学生の兄と妹が手を繋いで追い抜いていった。歩き慣れている子たちは早いな、と思って見送ったら妹が急かす兄を嫌がって泣き声で何かを言い繋いでいた手を離した。お兄ちゃん、荷物を持ってあげてるんだ、と今度は私が通り過ぎようとすると兄は苛立ってその荷物を妹に軽くぶつけ、少し先を行った。信号が変わってしまう前に妹が渡れるかどうかを気にしながら立ち止まったり振り返ったりする兄とマイペースに不貞腐れつつゆっくり歩く妹に、信号変わっちゃうよ、と私がハラハラした。信号が点滅しはじめると妹は少し早足で無事に兄のあとを渡りきった様子だった。この短時間ですでに泣き顔は消えていた。きっと毎日のことなのだろう。歩き慣れた道だから生じる二人の出来事だとしたらそんなに危なくもないのだろう。お互いのペースに合わせることは難しくても付かず離れず一緒にいる。きょうだいの距離感も色々ではあるが。

先日、この八百屋に行くとテンションが上がる、と思っている八百屋にいけた。セロリが安く立派だったので買ってきて黒酢と醤油と生姜でマリネにした。時期的にはもう最後かしら。セロリって結構衝撃的な味だったと思うのだけど出会いはいつだったか。生で食べて「?」となってスープでのんで「♡」ってなっていつのまにかどんなふうに食べても「(^o^)」ってなったんだっけ。えらくまかないがおいしかったバイト先の喫茶店ではセロリ使ってなかったと思うしなあ。友達とよくいってたカフェで知ったのかも。

食べ物との出会いで一番覚えているのはナスだな。周りにナス嫌いはいたらしく、あとから嫌いな食べ物をどう拒否していたかという話をしたことがある。自分の好き嫌いはあまり意識したことはない。牛乳を飲むと気持ち悪くなってしまうのは知っていたのでほしい子にあげていた。

Netflixで見ていた「ホームランド」の最終回にカマシ・ワシントンが出ててびっくりした。面白く見てきたがこの最後でかなり印象深いドラマになった。バンドにはリッキー・ワシントンも。あー、感動した。

もうこんな時間か。計画的に過ごさねば。いい一日にしましょう。

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メッセージとか

朝の空じゃないみたいな色。夕方みたい。梅雨に入ってもまだくもりが多い。傘は持ち歩いているけど。関東は今日はにわか雨が降るかもだって。

誰かと親密になることを対人関係の目的にする必要はないと思うけど、回避しつづける関係はそれはそれでいいけど、親密になるならお互いを思いあえる関係の方がいいだろう。傷つけあうことを快楽とする場合もあるが、それも単純なものではない。自分が人にどういう態度をとっているかは怒りの表現でわかることが多い。怒りは結構自覚しにくく衝動的に表出されやすいものなのでそれが関係を一気に変えることはすごくありうる。多くの人が経験済みだろう。出せば伝わるものではないのがメッセージであり、子供と大人のコニュニケーションともなればなおさらだ。フランスの精神分析家ラプランシュは以下のようなことを言っている。今ラプランシュが手元にないのでAnat Tzur Mahalelの Routledge, History of PsychoanalysisシリーズのReading Freud’s Patients: Memoir, Narrative and the Analysandから孫引きしたのを訳してみる。

“メッセージという概念には、すでに存在し、主体に先立って存在する意味が主体に提示されるという考えが含まれている。しかし主体はその意味の主人ではなく、それに身を委ねることによってのみ、その意味の主人となりうるのである。

また、謎という概念によって、決定論には断絶が生じる。なぜなら、謎めいたメッセージの送り手は、自らが意味していることの大部分を知らないからであり、また子どもは、自分に伝えられたものを構成し理論化するための不十分で未熟な手段しか持たないからである。

したがって、一方にある親の無意識やその言説と、他方にある子どもがそれらをどのように受け取り処理するかとのあいだには、直線的な因果関係は存在しないのである。”

(Laplanche, 1999, p.160)

以上のことは本当に大事なので心に留めておきたい。

6月もやることが多いのにもうすぐ半分が過ぎてしまう。今日もがんばろう。

代々木公園
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ジビエとか。

今日は関東は涼しいみたい。湿度高いけど涼しい風も時折吹く。昨日は朝は結構厚着をしていたけど昼間と夜はそんなに気温差もなく、上着も着ないで帰ってこられた。

先日、友人夫妻にジビエ料理のお店に連れていってもらった。

鹿肉のデミグラスソースがさっぱりしていて美味で、友人が頼んでいた猪のお肉もとてもきれいだった。自分たちでとって解体してこうやって料理する。いろいろお話も伺ったがプロセスを実際に経験している人たちの言葉は気持ちよかった。

連翹や大きな鹿がいつの間に 岸本尚毅

私たちを送ってくれた帰り道、猪に遭遇した、と写真を送ってくれた。私の生活は猪や鹿が身近ではないけど、少し足を伸ばせばそういう生活がある。宇都宮にも熊が出たが、身近でないと思っていても生活圏のバウンダリーがはっきりしているわけではないのだからこれまでもありえない話ではなかったのだろう。誰も危険にさらされてほしくはないが。

こう書きながら熊が出てくるインパクトの強い文学作品があったなあ、と思っているのだけどなんであったか。最近のではなくて。宮沢賢治か?でも外国文学だった気もする。そのうち思い出したらまた読んでみたい。全く覚えていないだろうけどまたインパクトは受けるのだと思う。

今朝はルイボスティーとか皮のまま食べられる葡萄とか。ルイボスティーって本当にいろんな種類がある。すごく好きというわけではないけどなんとなくいつも置いてあってなんとなく飲んでいる。大人になってから知ったお茶だと思うけど大人になってからがもうすごく長いのでいつのことだったか忘れたな。

6月は全然休みがない。どうせ雨だから屋内がちょうどいい、と思うことにしよう。もう10日か。いろいろ間に合うのだろうか。がんばろう。

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対象の使用とか。

梅雨だ。とてもそれらしい雨。

形なきものの影濃き梅雨の家 宇多喜代子 『雨の日』

もうしばらくしたらきっと

化粧して梅雨に慣れたる体かな 岸本尚毅 『第二句集 舜』

どの季節も日常を淡々と。

花にいきなり触れる人、花をいきなり手折る人をみるとびっくりしてしまう。たまたま目にはいっただけなのに、自分のものにしても見ようともしないだろうに、その場の衝動をおさめるために対象を使用する。それは精神分析家のウィニコットがいう意味での「対象の使用」ではない。使用の前には常に想像/創造が必要。ためらいのなさとはいきなり近づいて触れることではない。雨の季節、傘についた雨粒の行方をおもう。

人は形を変え、相手を変え、驚くほど同じことをやっていたりする。精神分析ではそれは反復と呼んできた。分析家のほうには別に見えるものを同じとみなすための枠組みがあるが、本人がそれとあれとこれが同じ、と気づくには時間もエネルギーもいる。同じといわれればそんな気もして、ついなんでもかんでも同じ構造で説明したくなるというような奇妙なことも起きる。いわれたら囚われる、いわれるまで気にならない。囚われは精神分析でなくても重きを置かれる状態だろう。森田療法とか特に。

あさごはんを食べすぎておなかいっぱい。仕事までにしゃきっとできるかな。今日もがんばりましょう。

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精神分析

週末

関東も梅雨入り。シトシトシトシト雨が降っている。関係ないが口の中が痛い。どこかの粘膜がやられてしまったのだろう。

昨日は同じ路線で乗り換えつつ一時間くらい電車に乗ってでかけたがずっと立ったまま本を読んでいた。途中、座ろうと思えば座れたがストレスの少ないほうを選んだ。

久しぶりに没頭気味の読書をしたが、それでもほとんどの本は読みかけのまま積まれたりする。若いときの日曜日は1日数冊読んだりしていた。読書はその時々の自分と時間の関係を示している。大人になっていろんな機能が落ちているせいなのかなにやら別の要因かわからないが、小説の読み方が随分変わった気がする。ぼんやりした状態でなくてもなんどもなんども同じ文章を追うことが増えた。内容よりも音からなにかを得ているような。それだけでなくなんとなく正確に文字を追いたいという気持ちも強くなった気がする。いろんな作家の文章を知ったせいもあるし、身体感覚が変化したせいもあるのだと思う。

久しぶりに砂浜を歩いた。海に近い庭園の土はすでに海の砂まじりで明治の頃は松林の向こうに海が見えたそうです、というお話からその景色もたやすく想像できた。海が近い土地は独特の空気がある。私は海なし県育ちで海をどこかとても怖く感じてきたのでそこにいけばいつも、普段なにも感じていない身体部位を刺激されたような気持になる。大正12年(1923年)、関東大震災で海底や地盤が隆起し景色が変わったときいた。

海が似合う大きな犬とも仲良くなった。犬らしい警戒心を残しつつも次第に耳を垂らしそばでくつろいで時折鼻をぐっとくっつけてくる様子がとてもかわいくて嬉しかった。動物とはじめましてをするときは保育園で0歳児クラスにはいるときと似たような気持になる。繊細でやわらかきものたちと距離をはかるのは少し緊張する。その緊張で相手も緊張してしまわないようにと自分をコントロールするような気持にもなるが、基本、自分のコントロールというのは難しいものなので経験を生かしていくという方向になる。

いろんな土地に行っていろんな人と出会ってきたことで身体も感覚も変わってきたのだろう。読書体験自体が無数の自分を空想させる機会にもなるのでそれにもずいぶん楽しませてきてもらったのだと思う。良い週末だった。今週も頑張ろう。

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精神分析

実感とか

まだまだ朝と日中と夜の気温差が大きい。梅雨前は毎年こんな感じか。今朝も長袖。

今朝は桑名のおみやげ「焼きはまぐりサブレ」をいただいた。サブレはなんでもおいしいしいろんな形のサブレがあって楽しい。「その手は桑名の焼き蛤」という表現を最初にきいたのは親からだと思う。私とのコミュニケーションではなくて、なにかの出来事とかニュースとか映画とかそういうものに関してだろう。私はそう応答させるようなふるまいをした覚えがないから。覚えがないだけでしたのかもしれないが。なんにしてもどこできいたとしても小さいときの私にはハテナだっただろう。食べ物系の表現でこりゃ面白いなと思ったのは「目黒のさんま」だ。これは落語だから当然面白いわけで大人側も単に意味を説明するというよりは演じる感じで教えることになる。たぶんそれが面白かったのだろう。

俳人の西村和子さんが季語を実感してほしいといっていたが本当にそうだな。最近だったら新緑、若葉、薔薇、つばめ、紫陽花に季節を実感したか。もう少ししたら「梅雨に入る」になるか。

実感というの精神分析臨床においても最も大事な感覚だと思う。AIにはもっとも難しいものではないだろうか。直感もそうかな。

この前、居酒屋の店主が自分は飽き性だから同じ酒を置いておくのがいやで毎回変えているといっていた。日本酒の種類が多い店だったのでこの量を毎回変えていくってすごいことではといったら直感でいい酒が手に入るとのこと。たしかにおいしかった。長年、酒と肴・魚と付き合い続けた結果、獲得された能力としての直感でこうして私たちにいい時間をくれる仕事。温暖化も外交も彼らの仕事を追い詰めつつあると思う。店は私くらいの年代の人が多く満席だった。変わらずありつづけてほしい。守られてほしい。

来週末は日本精神分析協会の学術大会。福岡支部の人たちとも会えるし、昔からの友人たちも申し込んでくれたというし楽しみだな。精神分析学会にはいかないけどこっちには毎年きてくれるというのは協会がまだそういう個人的なつながりを生かせるくらい小さいということだけど大きくなっても(ならないかもしれないけど)学術面ではずっと対話可能空間であってほしい。

東京はくもり。お昼過ぎには雨マークも。季節を感じ、季語を実感し、うわすべりしない言葉で対話できる日曜日になりますように。

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『大濛』をみたり。

今朝も涼しい。ネットで調べてごはんを時短で炊いた。途中、気になって蓋を開けたりしたから少し硬い。

昨日は寒いくらいだった。厚手のパーカーを着て歩いてたら少し暑くなったけど。帰り道はパーカーのジッパーを首までしっかり上げて早足で歩いた。風が強いとすぐに体温を奪われてしまう。陽射しが少しでもあると一気に気温が変わることにも驚くけど。昨日、新宿中央公園を横切ったときに思った。新宿中央公園がイベント中だけどその手前の都庁のバリアフリールートが今工事中。別のルートもあるのかな。屋根がある通路や地下道があるのは助かるけどそれでも都庁へ通勤する車椅子の人が大変そうなのを時折見かける。朝は人が多いから誰かしらが声かけをしているのも見るけど通勤だけでとても体力を奪われそう。居場所づくりはよく問題になるけどそこへ至る物理的な道づくりも課題だねえ。

Netflixで台湾映画、大濛(だいもう/A Foggy Tale)を観た。言葉と絡めた台湾の歴史を知らねばと思わされる映画だった。あまりよく知らずとも想像される歴史だけでも、そこを生きた人たちを思うだけでも胸に迫るものがあり、映像も配役もすばらしかったが、この重たさはメッセージとして受け取り解読する必要があるのだと思う。台湾の人が解説したブログが良いらしいのでそれをまずは自動翻訳で読んでみようと思う。自動翻訳で読んで誤った歴史認識をしてしまったらどうしようとも思うがいろんな本を合わせて読めば標準的なことは知れると思うのでこのあまりに知らない状況をまずはどうにかしようと思う。

1週間が恐ろしく早くすぎるが夏休みの予定をお伝えしはじめたりしている。2年後のIPA大会に演題を応募したいが、それは間に合わなそう。すっかり締切を忘れていた。バラバラと仕事を引き受けてしまったのでそちらをまずはやらねばならない。

今夜は寝不足を解消したいがとりあえず今日もがんばりましょう。東京はくもり。気温はこれから少しあがるのかもだけどあったかめの服装にしてしまった。用心用心。各地でいろんなお祭りやイベントが増えている。もうすぐ梅雨入りだけど元気出していこう。

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精神分析

6月5日朝

鳥たちの声がまだ少し遠い。月がまだ高い場所にある。寝る前にみた月もたいして変わらない位置にあった。寝不足ということ。夏の夜明けは西側のマンションが珊瑚色に染まるのがきれい。時折足元に涼しい風がスーッと抜ける。時折寒いくらい。

片付けも大分進んだ。紙類の処分が悩ましいが地道にやろう。

古文が好きで高校生の頃はよく読んでいた。おとなになってからは人の本経由。河合隼雄の『物語を生きる 今は昔、昔は今』(小学館)とか。殺人がない平安時代の文学では攻撃性がどう描かれたか、とか心理療法にも示唆的なことが多く書かれている。河合隼雄だから主にそれが書かれているのだが古典のブックガイドとしてもいい。私も人間の様々な心模様はほぼ本から学んだ気がする。現実の人間より掘り下げが深いし。色々書き始めると長くなるから今はがまん。

今日も一日頑張りましょう。

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精神分析

天安門事件の日

夜明け前の空がとてもきれいなピンクだった。台風は東京をあっけなく過ぎたが電車はすいていた。他の地域はどうなのだろう。私の仕事も自然災害は経済状況に響くので辛い気持ちになる。

今日は中国で1989年に起きた民主化運動「天安門事件」から37年。今年は遺族の人たちの墓参りまで禁じられたという。言論統制の徹底が引き起こすことを思えば日本もこのままではいけないという危機感を持つ人のほうが多いのではないかと思うがそうでもなさそうなのが怖い。台湾での追悼集会に少しだけホッとする。

天安門事件以降、冷戦終結、1992年以降、経済の高度成長期に入った中国の学問的なあり方もずいぶん変わったときく。外とつながりはじめること、言論を封じ込める圧力に抗うには啓蒙だけでは無理だろう。内で語れないことを外が語るということもやめてはいけないし逃れ続けるならそういう弾圧に対してであって自分の嫌な部分からではない。実際、哲学の分野ではデリダとハーバーマスの訪中と交流による影響はとても大きかったという。

うーん、色々考えてしまうな。今日も色々あるかもしれないけどみんなでがんばりましょう。

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台風

雨がすごい。空気が重たく感じるくらい湿気もすごい。テスト期間中の学校もあると思うが休校になるのかな。授業はオンラインに切り替わったところもあるみたい。みんな無事が基本。気をつけて過ごしましょう。

学術大会の原稿をなんとか送ったので次の書評の仕事に取り掛からねばだけど隙間時間に一気に書いて疲れ切った頭ではどうにもならず、ダラダラと岡田温司の『アガンベンの思想圏』をめくっていた。アガンベンの「瀆聖」というのがとても興味深い。内と外をたくみにごっちゃにしていく思考はよくわからない宗教的なものにのっとられがちな今こそ必要ではないか。今はその後に切断できる準備ばかりする社会になってる気がして怖い。緻密に緻密に人間らしさを取り戻していきたい。

原稿を書きながら俺はいつも同じことばかり言っていると思ったが自分が探求したい方向性がそうなのだろう。やりたいだけ繰り返しながら少しずつ別の軌道へ、というのはむしろ精神分析的。

今日はのんびりしてしまったので時間がなくなってしまった。被害のでている地域のみなさんもどうかご安全に。

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精神分析

循環

風が涼しい。台風が近づいてる。

最初、というか、もうずっとだけど家族というものが維持されている不思議について考えなければいけない時代なんだなあと思う。その単位が基本と思わないように、思わせないように、など。

週末に完成させられなかった原稿、平日の隙間時間にやるのは本当にきついがしかたない。まあ、なんと大きなものを残してくれたものか、土居健郎。私に実践が伴っていなかったら対話などできなかったかもしれない。精神分析を受けて、自分も患者を持って、指導する側にもなってという循環ができてやっと思考が可能になる感じ。でもそれを形にするのはまた別の話。とても時間がかかる作業。今は長い訓練で得たもの形にしている側面が大きい。これはこれでやらねばと思っていることではあるけど。

とにかくいただいた猶予を大事にせねば。良い一日になりますように。

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知床の自然とか。

昨晩の月がとてもきれいで何度もカーテンの向こうをのぞいてしまった。沖縄本島地方及び周辺離島と宮古島地方に暴風警報だって。大変なことだ。どうぞお気をつけて。関東はくるとしたら水曜日かな。今日はひどく暑くなるらしい。

昨晩、作業しながらNHKスペシャルをなんとなく流していたら、温暖化などでエゾジカがこの10年で急増し、ヒグマを脅かしているとのこと。ヒグマの食糧となる草を先に食べ尽くしてしまうらしい。そしてヒグマもエゾジカも食べないハンゴンソウばかりが茂ってしまう。うーん。自然の循環、恐ろしい。もちろん人間にもすでに影響が出ている。結局最後までなんとなく見てしまったのだが知床のあまりにも美しい自然の中で起きている現実にとても悲しくなってしまった。知床のネイチャーツアー、あれは原生林トレッキングだったか、すごくよかったけどもう行けなくなってしまうのかな。当時も車から野生動物たちを見たがクマの注意はそんなにされた覚えがない。むしろ人間の足跡が立入禁止のロープの外まであることに驚いた。ほぼ崖のような場所で。危ない場所が人間が踏み入れたことでもっと危なくなっていく。私の胃腸の弱さも自然とうまくやってこなかった証拠かもな。病気の知識はあっても自然の知識がないのはダメな気がする。色々知っていこう。

今日はものすごく寝不足だが作業は結局終わらず。昨日は症例を使ったグループディスカッションもあったけど普段と違う気持ちになれて発見が多いな。無理なく正直に言葉にすることはどの場面でも大事。言葉にすることで別の無理が生じたりは当然あるけど自分の中のなにを大切にしたいかだね。

AIのニュースが本当に増えたねえ。人間ひとりひとり限界ある自分のことも大事にしよう。

新しい一週間もがんばりましょう。

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5月31日(日)

朝はまだ涼しい。今日も晴れるみたいだけどまた風が強いのかな。昨日は物干し竿が風で落ちた。洗濯バサミをストッパーにしていたけど劣化していた。台風がきているんだなあ。奄美大島は大丈夫だろうか。奄美でスコールを体験したことがあるがあんなにすごい雨が降る地域で台風はどんな猛威を振るうのだろう。被害が出ませんように。

毎日着々と働いているが進んでいない仕事もたくさん。なのに大掛かりな模様替えに手をつけてしまったりする。こういう習性って治らないよね、というか治す気がないのかもしれない。またやってる、と思いつつやってるし。でも梅雨前の大掃除になってよかった。あとどうしても身体が動くうちに、と思ってしまう、最近。それなりの筋力を維持していると思うけど何も考えずに思った通りの動きができることはかなり減ってきていると思う。元々注意力はないけどぶつかったことないところにぶつかったり。ううう、とひとりうずくまりながら滑稽さも感じるけど。人の身体は不思議だ。

Netflixでちょこちょこ「ホームランド」を見ているけど主人公のキャリー、恋しすぎではないか。一人の相手に。才能も何もかも過剰なのが人間味に凝縮されていて面白いしなんか愛おしいけど。

今朝は昨日パン屋さんでおすすめされたパンを食べた。「トーストかまして」という表現をはじめてきいた。ここのパン屋さん、とっても素敵なお庭を受け継いだのにほぼ放置でとても残念なのだけど味は美味しいので時々いく。あーお庭がー、と思いながら。我が家の花壇も春菊が逞しく伸びたくさんかわいい花をつけ終えたので刈り取るか。刈らないで抜いたほうがいいのかな。調べましょう。

紫陽花が満開になりつつありますね。薔薇はだいぶ枯れてきた。緑道の花壇にもボランティアさんが新しい花を植えてくれていた。いつも小さく挨拶を交わして写真を撮らせてもらってる。すると散歩中のおじいさんに大きな声で挨拶をされたりする。だいぶお年だと思うのだけどいつもお元気。私もあのくらいまで元気に歩けているといいなあ。

五月が終わる。良い日曜日になりますように。

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運動会とか。

早速暑い。鳥たちももうどこかへいってしまった。家事をバタバタしてたらもうこんな時間。というかもう週末。今週末は運動会も多いとのこと。熱中症が心配ね。

私はだいたいのスポーツはできたので特に体育が嫌とか運動会憂鬱とかなかった気がする。でも決め事とか練習とか細かい部分をみれば憂鬱だったりウンザリだったりしてた気もする。大人になってNPOで子どもたちと運動会的なこともしてきたがみんな楽しいといいなくらいで燃えるみたいな経験をしたことはない思う。そういう記憶ももうすでに遠いからなんともいえないけど今の時代、こういう科目とつながりのある行事って必要なのかな。練習にやたら時間をさくならそれなりにみんなの負担がよきものに変化するであろうという期待がほしいところ。先生たちや保護者にとってもそう。長く続いてきたものに対しては当たり前に負担を受け入れている場合も多いと思うけど結構大変なことだなと思う状況は多い。運動会に限らず。

なにはともあれみんな無事に楽しい土曜日になりますように。

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『傲慢と善良』、『ほんのこども』など

声の大きな鳥がいる。あの鳥かなあ、と寝ぼけた頭に思い浮かべたのはカラフルな大きな鳥。あの声がして振り向くとその色にいつもびっくりするから多分そう。今朝も朝は曇り空だけどすでに熱を感じる。

先日、Netflixで映画『傲慢と善良』を見た。辻村深月原作。よくわかるという感じは経験の有無に関わらず誰もが馴染みがなくはない関係性を描いているからだが、倉悠貴の演技もよかった。でもやっぱり文字の力は大きい。映画を見た人には原作もお勧めしたい。分厚い本になるわけだ、というそれぞれの心模様が繊細に描かれているから。自分の意志なんてなんて曖昧。でも求めうるもの。

最近、ますます老眼が進んで読書の量もスピードもすごく落ちているが、それでも本を手に取ってしまう癖というのはそう簡単に変わるものでもない。あー、疲れたなあ、と思ってなんとなく手に取ったは町屋良平の『ほんのこども』。最初に読んだときは圧倒されたが大変面白く読んだ一冊。いつも通り内容は細かくは覚えていない。冒頭からの反転具合とスピードがすごかったのは覚えている。少しパラパラしてみたらやっぱりすごい。どういう頭の動かし方をするとこういう文章が書けるのだろう。動かし方というよりそういうふうに動く頭があるということなのだろうけどすごいよなあ。ジャンプ力がすごい。私はここ数日、土居健郎の「甘え」について考える時間が多いので、この本の不穏さを「甘え」が持つ不穏さと重ねてしまったな。まあ「甘え」はこうやってなんでも重ねていける強度というか自由度が高い言葉なんだなという認識をあらたにしてしまったからだが。土居のいう「甘え」がナルシシスティクな方向で働く場合、それは他者を消す動きになるので侵襲的で暴力的ともいえる。「甘え」がネガティブなものとされる場合はそういうものがかぎつけられた場合だと思う。自分を許容してくれる「はず」というのは相手の善意任せすぎるのでそれがただの圧力として作用することもある。一方、それは他者なしでは存在できない自分という存在(主体という言葉はややこしいの使いたくない)との鉢合わせの回避でもあるので自分に対する侵襲性や暴力性を反転させてるだけとも言える、なんてね、かなりのスピードで書くとこういうことを書いてしまうわけで、私みたいな素人はジャンプができない。町屋良平は実際どのくらいのスピードでどのくらい助走したりしなかったりして書いているのだろう。いい本だったなあ。最近のはまだ読んでいないから読みたい。

今日は群馬県前橋市のSWEET SHOP YOSHIDAの「はちみつマドレーヌ」。前橋駅か高崎駅のお土産屋さんで買ったのだけどここのはイラストがとてもかわいい。猿田彦珈琲をもらったのでそれといただいた。

今日も元気に過ごしたいですね。頑張ろう。

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「甘え」とか

朝から蒸し暑い。月曜日まで暑いそう。熱中症に本当に気をつけないと。あっという間に具合悪くなるから怖いものね。

平日になるとなにがなにやらという感じであっという間に時間が過ぎていく。レシピばかり見ている時間は相変わらず長いが美味しく身体に良いものは大事。

土居健郎の「甘え」について一定の理解に達した気がするが、結局どこにでも書いてあるところに戻ってきた感じ。これがこの概念の凄さなんだろうなと思ったが私は一体何を発表すればいいのか、といえばやはり実践から何かいうしかないということになる。土居の「甘え」概念が曖昧なのは土居が実践で自分の概念に追いついていなかったからではないか、という仮説を私は持っている。そこがフロイトのメタサイコロジー概念とは異なるところではないか。でも日常語を用いた概念は日常で使うことでしか育たないと意識して使用していくことが専門界には求められるのだと思う、というようなことをいうことになるかな。

あいからず寄り道して花々を愛ながら歩いている。こういう小さな喜びが続けられる政治であってほしいと毎日思う。今日もがんばりましょう。

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空海とか。

陽射しがなくはないけどまだ曇っている。早速肌がやられてるからこのくらいがいいな。

昨日、協会の仕事の前にちょっとカフェによって土居健郎選集を開いた。土居の甘えに対する執着はすごい。わざと執着と書いてみたがこれは執着でもこだわりでもないな。ふとひとつ向こうの席を見たら「空海」のデカい文字がみえた。空海の言語論を読んだばかりだったのでなんだか嬉しくなった。あの分厚いのは安藤礼二の空海だ。読んでいないが姿形だけは知っている。人間だって大体そうだろう。いいなあ、と思ったが私はしばらく精神分析以外の本であの分厚さの本を読む余裕はない。夏休みになったら読めるかも。もうずいぶん前になるが年末年始を高野山の宿坊で迎えたことがある。単に宿坊にとまっただけだったが早朝の朝勤行に無料で参加できた。足がとても冷たくて辛かったけど厳かなルーティンは興味深く、キョロキョロしたいのを我慢して参加した。宿坊のおもてなしのひとつひとつがとても丁寧でありがたかった。お食事もとても豪華だったがダラダラ食べるものでもないから2度ほど声かけされた。就寝時間も早く、食事が終わると二人のお坊さんがささっと素早く綺麗にお布団の準備をしてくれた。おおっ、と少し可笑しかった。きちっとした生活を一泊二日だけでもしたのはよきことだった。今は老化のために動きが遅くなったMacが原因不明でフリーズしたのも高野山だった。お正月の銀座のアップルストアでみてもらったが原因不明、時間が解決。結局寒すぎたのではないかということだったが真相やいかに。お互い歳をとったね。今度は雪ではない季節にいってみたい。高野山くらいの観光地だと雪でも歩ける道は確保されてるけどやっぱり自由度は下がるし、足腰が健康なうちにもう少し色々歩きたい。でも雪の高野山はそれはそれで静かで厳かで修行気分にはとてもよかった気もするな。空海の話はどこへ。カフェで『空海』を見かけて今流行ってるのかなと思ったけど、空海ってずっと流行ってるといえば流行ってると思う。最澄よりずっとイメージがいいのは多分「日本の歴史」の漫画のせい。空海は中国語も早くから喋れたというしサンスクリット語もあっという間にマスターしたという。母語は日本語だが当時はまだ今のような日本語のシステムは確立されていない。そのような多様な言語環境で考え、書かれたテキストが『声字実相義』だ。今も空海について書いたり読んだりする人がたくさんいるのも言語という根本的なものに対する関心が失われていないからだろう。SNSなどではその力は相当弱まっていると感じるが。そして仏教。あらかじめ無を想定しつつその実相を顕にすること。言葉というものを考えざるを得ないのは宗教が先なのか?勉強しないとよくわからないが。そういえば先日、空海も修行したという広島は宮島の大聖院の霊火堂が全焼した。山火事、神社仏閣の火災が続いているが、燃え盛る日の前に呆然と立ち尽くす人を思いつつ、実景を言葉にしていくことが必要なのだろうと思う。

ソニー・ロリンズが死んだ。高校時代、隠れて聴いたのがマイルス・デイビスで、ほぼ同時にソニー・ロリンズを知った。思い出をかけばキリがない。幸せな人生であったことを願う。

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精神分析

量とか質とか。

鳥たちが賑やか。今朝はまだ陽射しがそんなに強くない。遅くまで作業していたが寝てもすぐに起きてしまった。老化で睡眠の質が落ちてるように思うので最近はとにかくまともな睡眠時間を増やすために夜遅い食事の量を減らし、とっとと寝るようにしていたが、やりはじめた作業は途中で止めるとまた最初からやり直すことになりがち。続けていくことでしかいけない場所もあるのだ。とかいいながらたいして進んだわけでもないが難しいことを考える頭にはなっていると思う。そういう頭になっているときは難しい本も手にとってしまうもので(理解しているわけではない)中島隆博先生による空海の言語論にまた感動してしまった。というか毎月、Reading Freudで相当頭の中が再構築されたり、フランス精神分析のセミナーでわからなさに浸りながらじっと考え続けたりしているおかげで難しさには慣れている。耳障りのいい言葉ばかり取り入れて居心地のいい世界ができるかといえば全然そんなことはない。むしろ逆だろう。心が痩せるのは簡単。

知らない街に行くとその街の歴史を思う。大規模な団地と大きな公園、街の成り立ちに戦争が関わっていることは多い。広大な農地が荒れ果てるのは戦争のせいだけではないがどちらも人のせいだったりはする。少子化の今、団地に住んでいる世代は高齢者が増えているかもしれない。ただでさえ孤独な時代に物理的にも孤独であることの負担を思うと胸が痛い。それでも東京は人が多い。実家にいる頃、道で人に会わないというのは普通のことだったし、今でも旅先に行けばそんなことはよくある。山だってそうだ。人と人との関わり自体は量より質が重要になる。数で質自体が変容する場合はもちろんあるが。

頭が休まっていないのだろう。まとまりのないことならいくらでも書けそうだが疲れをとるために上質エッセイでも読むか。言葉に傷つき、言葉に助けられる日々。今日がいい一日でありますように。