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雨。再読。

久々にお茶漬け。温まる。今日は少し暖かいのかな。お茶を飲むとその瞬間だけは暑いくらい。

最近、再読ばかりしている。新刊を読むエネルギーがない。三浦哲哉さんのは読めた。レシピの紹介の仕方も素敵だし、食材も乾物も調理器具もお酒もうつわもみんな楽しいし、三浦さんは引用もいい。あの本は「おいしいトーストの焼き方」から始まるのだけどトーストの「いいにおい」って想像できますか?ほわってした蒸気のにおい。「ああ、蒸気か!」って思う人もおられるかしら。トーストって聞くと最初は乾いているカリカリのイメージが出てくる方もいるかもしれないですね。パン屋さんって10時開店とかでも早朝からとってもいい匂い。本にも書いてあったけど蒸気が落ち着くまでに時間がかかりますものね。焼き立てを売っているお店は紙袋に入れても上は開いたまま。ビニールだとすぐ白くなるくらい。紙袋だと顔近づけてあのほわほわジュワーを自分だけ吸い込んでおいて「あーいい匂いが逃げちゃう!でも閉じたらそれはそれで違っちゃう」と家まで急ぐとかやりますよね。三浦さんはトーストのおいしい焼き方を紹介しつつ「におい」ってものがどんな感じで私たちに体験されてるかもサラッと書いてくれちゃってる。おいしく賢く素敵な気持ちで過ごしたいものです。それにしても外はまだ雨。風も強そう。窓に雨粒がいっぱい。午後は晴れるみたいだけど長靴履いちゃおうかな。ショートブーツに見えなくもない、いや、ショート長靴(どっちだ)にしか見えないか。そうそう、エネルギーがないから再読してるって書いたけどこのダラダラ再読するのが結構悪くなくて、昨日は森田真生『計算する生命』を読んでいたのですよ。あ、これ文庫化されてて解説が下西風澄さんですって。この本、ざっと説明しますね、みたいな感じで計算史について書かれている部分も勉強になるし紹介されるひとりひとりのエピソードで「数学」に人間のイメージがくっついてくるし、AIや自然とも普通につながっていっていつのまにか壮大な世界になってる、いや、こうやって社会を見る方法があるのか、と私にとっては新鮮な視点をもたらしてくれた本なんだけど今回は「あー、ここここ、うっかりブルックスのファンになるところだったぜ」とかダラダラ思い出読みをしています。数学が身近になる本が増えましたよね。私は数学全然できなかったけど周りは数学好きが多いです。こういうのを読むとその楽しみがわかる気がします。三浦哲哉さんの本も森田真生さんの本も学術的なのに生活と密着している(三浦さんのは生活が前景)のがいいのかもしれない。生活大事、というか楽しきものにしていきたいです。

さあ、今日は何を再読しましょう。あ、村上春樹も最近また読んでますね。彼のはエッセイが好きです。ということで東京の皆さんはひとまず足元お気をつけて。良い1日をお過ごしください。

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白湯、頭痛、ポリフォニー

白湯。これで「さゆ」って読むの面白い。「お湯」と同じではないのか、と思うけど一度沸騰させるのが違うとか。外国の甘いチョコレートと。白湯、あっついまま飲んだら白湯じゃなくなっちゃうけど飲んでしまってあちちってなってる。馬鹿だな。

頭痛持ちになってからだいぶ長くなってきてあまりに痛さに夜中起きてしまうこともあったり日中も歩くのが辛くなったりするのだけど慣れてくると苦痛に苦笑いが混ざるのです。どっちにしても「苦」ですけど。最近は頭に頭痛用のふっとい輪っかが嵌められたような痛みが多いのだけど寝ぼけてると外そうという動きを手がしてしまったり。それを覚醒している部分で「おいおい、とそれとれないやつですよー」とツッコミ入れたりしてる。こういう状況に「おいおい」だぜ、と思っております。一方でこんな痛くてもこんな降らないならやっぱり結構大丈夫じゃね、と思ったり。今のところ脳の大きな異常ではないって言われてるけどそれもMRIとかで見える範囲ではだからどこでどうなるかは本当にわからないものです。

ポリフォニーという言葉を使って文章を書いたついでにそういう音楽ばかり聞いてる。小さいときから一番耳に馴染んでいるのはクラシック。特にオーケストラだからいろんなことが同時に起きている感じの不穏さとか華やかさにはドキドキしたりワクワクしたり。私は楽器の才能があまりにも乏しく演奏に混ざることはできなかったけど聞くのは誰にでもできる。今の時代はなおさら。今日も面白い音楽に出会えたらいいな。みなさんにもいいことありますように。

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街のお菓子、千葉雅也『現代思想入門』

今朝もまたまたパティスリートリヨンフさん。小川町マドレーヌ。町名のついているお菓子が好きです。たとえばヴォアラの「世田谷讃菓」とかだと太子堂の風景として「芙美子のかけおり坂」、豪徳寺だと「福まねこ」とか。心象風景をお菓子に、ということなので「これはどうしてこの味かしら」と想像しながらいただくのが楽しいです。なんでも「か」は「菓」に変えてしまうところとかも好きです。小川町マドレーヌはどうして小川町?というかどうしてマドレーヌ?これは多分ごくシンプル。パッケージに「和紙のふるさと」とあるからマドレーヌ自体に街らしさがというより街のお菓子屋さんならではの定番お土産なのでしょうね。「小川町って和紙のふるさとなんだー」「そう、わしのふるさと」「・・・」みたいな会話をもたらすのでしょう。「あ、わしって私ね」「(わかってるよ。だから・・・なんだよ)」みたいな会話も聞こえてきますね。あ、くだらない。

千葉雅也さんの『現代思想入門』読みましたか?私の周りは多分「フーコー」で挫折してると思うのです。デリダ、ドゥルーズとものすごく軽やかに話されているわけだけど「フーコー」は内容からしてちょっと雰囲気が変わるからなんにも考えずに「ただ読む」という方法をしない人は立ち止まってしまうと思う。なまじ有名だし。でも本は立ち止まらないことが大事。全部平面として読むことが大事。小さい頃って多分それができていたと思うよ、みんな。絵本の読み聞かせしてるといちいち反応はあるけど立ったまま膝に乗ってきたり指くわえてぼんやりしたりしながらもわりとじっと本を見て聞いているでしょ。反応は自分の中の情報と照合できる部分とかびっくりしたりするところであるわけだけどある意味作者の意図通りなわけでそこはそこ。進むことが大事。千葉雅也さんはこの本の付録にこういう読み方についてもっと上手にユーモラスに書いてくれています。「細かいところは飛ばす。一冊を最後まで通読しなくてもいい。」など。えー、最初に言ってくれよ、と思う人もいるでしょう。でもこういうのは壁にあたってから「え、そうだったの?」となる方が学びになるのでさすがは千葉先生なのです。方法論について常に考えておられるのはnoteを購読しているとわかる。それもすごく勉強になる。この本もベースになっているのは立命館大学での授業だそう。いいねえ、こんな先生に教わることができて、と思うけどだったらこの本を読め、ということですね。高校二年生のときのお父さんとのちょっとしたエピソードも印象的。進路を考え始める時期に誰かがいてくれるって本当に大事。言葉に従うためではなく何かを言われたら反抗したくなったりなるほどそうかと思ったり考えるためのきっかけができるから。そういう相手がいろんな事情でもてなかった人たちとお会いすることが多いのでこういうエピソードにもじんときてしまうのかもしれません。そうそう千葉さんの『エレクトリック』のフランス語訳も出版予定だそう。高2の達也くんのお話。フランス人にどう読まれるのか、千葉さんご自身がフランス語堪能だからご紹介してくれることでしょう。楽しみです。

どうぞ今日がよい一日でありますように。

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三浦哲哉『自炊者になるための26週』

今朝は埼玉県小川町のパティスリートリヨンフさんのフルーツケーキ。ここの焼き菓子をいくつかお土産でもらったのでまたしばらく朝お菓子が充実。いちごもあるし。フルーツケーキって昔はあまり好きじゃなかった。多分生地にも少しお酒が入っているのが多かったんじゃないかな。あとドライフルーツが苦手だった。歯にくっつく感じが嫌だったんだと思う。レーズンは昔から好きだけど。甘さも好きな甘さではなかったんだろうなあ。実際、いろんなお菓子は当時よりずっと癖が抜けて誰にでも美味しくなっているのかもしれない。今となっては当時のをそのままの味で食べたいけどね。きっと美味しく感じると思うの。たとえ「ん?」となってもそれが美味しいってなりそうでもある。

三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』(朝日出版社)という本がとても良くて何度もパラパラしちゃう。『LAフード・ダイアリー』も一緒にパラパラしてなんだかジーンときてしまった。三浦哲哉さんの語り口が好きで映画の本も持っているけど私が映画に詳しくないからこんなワクワク感では読めなかった。でもこの2冊は本当に生活の色々が詰まっててこんな料理本これまであったのかしら!と驚く。三浦哲哉さんはお料理も上手だけど対談もすごくいいですよ。対談は映画のことをよく知らなくてもすごく面白い。すごく前のことだけど千葉雅也さんとの対談からファンになった。味もお話も引き出すのが自然で上手。生活する人、交流する人、考える人の自然に鍛えられた末の自然体、かっこいい。自炊本、1980円で買えるんだけどこの質でこの値段はものすごくお得ですよ。これは子育ても含め、三浦さんの育ちとか生活とかに即した本なのだけど引用されている文献もいいし、料理ってレシピではないんだよな、こういう行為で、こういう思考をもたらすものなんだよな、と何度もお鍋の中確認するみたいに舞い戻って読んじゃう。『LAフード・ダイアリー』もぜひ一緒に読んでほしい。生活って面白いな、ってなると思う。今日も美味しいものと出会えますように。良い1日をお過ごしください。

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バスで、とか。

頭があちゃこちゃ大変。お湯がクツクツ。とちおとめパクパク。今日もミントティー。昔は苦手だったのにね。

なんか疲れやすくて乗り物を使うことが多い。普通は使うのだろうけど。昨日は小さなバスに乗った。大きなバスにも乗った。今小さなバスちっこかったな、と思い返していたらその前に乗った大きなバスの運転手さんのデッカくて早口な声がかぶさってきた。バスって外の人にも放送が聞こえるようになってるでしょ。あれっていつから?バス停にいると私が乗るバスがやってきた。何やら聞こえる。いつもバス停から少し離れて止まるバスが多いバス停なのでどうやらそのことらしい。乗った。乗ったのは私一人。席は満員。二人掛けの席は半分ずつ空いているところがあったけどもっこもこの私がぎゅーぎゅー入るのは申し訳ないのでいつも座らない。運転手さんの「発車します。危ないのでおつかまりください。」の声がデカくて早口で慌てて手すりを掴んだ。この運転手さん、ちょっと慌てん坊タイプでお知らせがないとバス停もないかのように突っ走ってしまう感じで一回慌てて止まってた。でもそういう時の態度が「あ、すいません、止まります」ってなんだか自然で、なんか安心した。運転手さんが焦った感じになっちゃうとこっちはもっと不安でしょ。私はのんびり運転手さんのときでも自分が降りるバス停をお知らせするのを忘れたりするから降りる直前だけちょっと気張ったけどね。というか、大抵は誰かがピンポン(ではないけど)押してくれるバス停なんですよ。なのにこの前気づいたら通り過ぎてて「えー!!」となった。私が押さなかったからなんだけどね。悲しかった。そういえばコロナ禍の頃かな、コロナとは関係ないと思うけど、バスの運転手さん、座ってとかつかまってとかつかまってくれないと発車できないとかすっごくたくさん言っててご本人も言われる方もなんかイライラした感じになっててこりゃ大変な仕事だな、と思ってたけど全然なくなった。あれは逆効果だったかもしれないね。よくデパートとかのエスカレーターとかで「よいこのみなさん」って呼びかけがあるじゃないですか。以前「「わるい子のみなさん」っていった方が注意引くのにね」と言ったら笑われた。そういう歌あったよね。「ねないこだれだ」の論理(?)でいえば「エスカレーター走って登っちゃうこだれだ」となるか。これはくどいね。小学生にもなれば「よいこのみなさん」と言われた悪いことしたい子は「よいこじゃねーから」となるし。でもまあそうやって注意が耳に届くこと自体が重要というのはあるね。今日もどうでもいいこと書いてるな。どうでもいいことといえばこの前夜にデニーズに行ったの。そしたら両隣も向こうも女性二人か男女のカップルで話してることはそれぞれだったんだけど喋り方が日中には全く聞かないようなプライベート感たっぷりの喋り方で「まだそんな遅い時間じゃないけどこの時間はもうそんな感じなのか」とすごく面白かった。退行タイムは大事よね。外でやるのか!という感じはしたけど大事よね。はあ。朝から疲れてるな。こんなこと書いてるからか。どうぞ良い日曜日をお過ごしください。

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『佐多稲子 傑作短編集』

紅いもタルトにミントティー。喉、鼻、頭痛をスッキリさせたい。

昨日は佐多稲子の短編集『キャラメル工場から ─佐多稲子傑作短篇集』(佐久間文子編、ちくま文庫)を読んでいた。最近、戦争、特に敗戦と憲法について考えていたからそのつながりで手に取ったのだろう。本屋での行動は大体無意識から始まる。佐多稲子は1904年生まれ。平成何年だか、10年かな、94歳まで生きた。大正モダンガールといえばなんとなくいい感じだが共産党、戦争、震災とも切り離せない作家であり、朝日新聞の戦地慰問に行ったことは敗戦後もずっと彼女を苦しめた。林芙美子もその一行の一人だったが同じように苦しんだ。何がなくとも本人は苦しんだだろうけど周りからの批判も強かった。今と変わらず人は好き勝手いうのである。無事に帰ってきてくれて本当によかった、とはならないのか。ならないのである。無事に帰ってきてしまったがゆえになんか言われるのだ。彼らが兵士の話を聞いたり、こういう文学を書いていなかったら私たちは敗戦や小林多喜二の死から何を学べただろう。人の死から学ばない人は人が生きていることも喜べないのだろうと思う。この時代は日本の精神分析導入期とも重なり、私はその文脈から敗戦などについて色々考えていたのだが、1920年代にフロイトの翻訳をした安田徳太郎は佐多稲子同様、小林多喜二の遺体と対面した一人である。私は長編を読んでいないのだけど佐久間文子の編集による佐多稲子のこの短編集は多分とてもバランスがいい。デビュー作「キャラメル工場から」は実体験からとはいえひろ子の目が捉える一瞬一瞬がリアルな格差を感じさせ心揺さぶる。どの作品も女の痛みや怒りを登場人物の対話によって正当なものとして浮かび上がらせる。以前、人の言葉を「全部正当防衛のつもりでしょうけど」とかいったバカ男がいた。自分への怒りを感情ではなく道具としてしか受け止められない人は相手を見下しその怒りを相手だけのものとして押し込めようとする。自分のダメさを知るのが恐ろしいからだろう。そういう人が哲学教えてたりするのだから哲学者たちの言葉もかわいそう。見下されたことのある女たちには佐多稲子を勧めたい。一緒に泣いてくれるし怒ってくれる文学だと思う。

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富永京子さんポッドキャスト

姫栗もなか。上手に割れず。クシャッとなってしまった。緑茶が美味しい。

昨晩も富永京子さんのポッドキャストを聴きながら帰った。富永さん、本当に話すのが上手。おもし論文といって興味深い論文の紹介もしてくれるのだけどその説明もものすごい上手。上手という言葉にしてしまうと簡単なんだけどなんていうのかな、専門的な分野のこともこっちが全く興味を持ったことのないことも同じような楽しさの話にすっと変換しながら話してくれてるというか、疲れた帰り道でぼんやり聞いてるだけなのに耳はきちんと興味を持ててしまっている、というか社会運動の研究者は本当にいろんな人の声に耳を傾けているだろうからそもそも聞き手のことをよくよくわかっている人なのかもしれないねえ。元々そういう能力の高い人なのかもしれないし。そうそう、富永さんはいろんな人と美味しそうなアフタヌーンティーをしててすごく楽しそうなのだけど研究者同士とか狭い範囲の人と話すことが多いんだって。そこで話されている研究者同士の話の再現も「ほー」と思うのだけど、それ以外の人とのいわゆる雑談をものすごく新鮮に楽しんでいる富永さんの話も面白かったよ。私なんて仕事以外は雑談しかしていないから逆にそんなことがそんなふうに楽しいのか!と思ったり。またね、その紹介する話題も絶妙で、しょっちゅうそんな話してる人たちなら尚更ノれる話題だったりね。自分の言葉で喋っている人の話ってすっと入ってくるからいいのかもねえ。なんか好きなもののこと書いてると気持ちが和んでくるね。いいことだ。

とかいって逃避している場合か。場合じゃない。なんか頭がおかしいんだもん。だもんじゃない。はい。がんばりましょう、できる範囲で。

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『東東京区区』、社会学の本

近所で用事をすませてコブシと雪柳が真っ白に咲き誇っている場所に少し寄り道しようといつもと違い道を通った。同じ場所に白い椿も咲いていた。いつもの道からだと見えていなかった。

地元の珈琲屋さんで移転してしまったラーメン屋さんのことを話した。移転先は決して便利な場所ではないのに看板も出さずに成功しているらしい。惜しまれて去ったと思われたら皆ついていったか。素晴らしい。

街歩き趣味の私はかつしかけいたさんが「路草」で連載している『東東京区区(ひがしとうきょうまちまち)』という漫画が好きなのだけど「第10話「卵・焼肉・あんみつ」」が公開されて嬉しい。舞台は上野。私が子供の頃は特急も新幹線も上野までで上野が玄関口だった頃の景色はよく覚えている。あの薄暗いホームこそ私の「東京」だった。実家にいる頃はなにかとお茶の水へ向かうことが多かったので上野で降りることはあまりなかったけどこんなに高低差がある街なのね、ということを今回の回で学んだ。たまに上野から根津、谷中、湯島の方へ抜けたりするけどここに出てくる道は歩いたことないかも。あんみつ「みはし」は憧れ。いいなあ。友達と行きたい。

仕事以外はだいぶぼんやりしていて手元にある本ばかり読んでいるのだけど再読のはずが全然新しい本に思える、やはり。奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』は二月末に名古屋に行ったときに帰りの新幹線用に買った本なのだけどようやく最後まで読んだ。三木那由他さんが解説。こんなにわかりやすく書ける三木さんがすごい。全般的な私の意欲が落ちているせいもあるのかもしれないが、この本はかなりずっしりした一冊でしたよ。今回、25年を経て待望の再刊だったらしい。私は社会学の流れとかをよく知らないのでなんとなく手に取ったが今でも、というか今だから読まれた方がいい本なんだろうなあ、と思った。いろんな場面や状況が想定されてそこで生じていることをどう理解するか(理解できないという理解をどうするかも含め)について緻密に議論が繰り広げられているが、これは古田徹也『謝罪論』に通じるところがある。というか私が選ぶ本はみんな通じるところがあるから選ばれているのだろう。だってこの本の後に手にとった大澤真幸の『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学 大澤真幸THINKING「O」第14号』(左右社)の見田宗介論文の要約にも奥村論文が登場しており、奥村隆の文庫のあとがきは大澤真幸の言葉から始まっていた。先輩後輩関係とのこと。社会学も人材豊かだなあ。あまり意識せずに色々読んできたけど意識すると「あぁ、この本の編者もこの人なのか」など少し繋がりが見えてくる。ちなみに吉本隆明『共同幻想論』もそばにあったのですこ再読したがこれも重たいねえ。私がお世話になっている世代は皆はまったであろうこの本。ここで出てくる『古事記』はやっぱり町田康のとは違うんだな。もうあれは印象が強すぎるからオリジナルとして読んだ方がいいと思う。吉本本とは異なるテンション。そうか、今私はテンションが低めなのでそこのブレに敏感になってしまっているんだな。いつもだったら振り幅考えずになんでも読んでいたわけだし。はあ。とはいえ今日もお仕事がんばりましょう。オフィス周りの地形も暗渠とかあって起伏が多い。隙間時間にぼんやり歩くか。東東京の方が個人的には魅力的だが普段使いの街への気持ちはこんなものだろう。私のオフィスがある西参道は初台駅利用もいいけど明治神宮方面に行くのも中野方面に行くのもあり。私は都庁に行かねば。新宿中央公園のコブシも黒くなってきちゃったかな。真っ白に満開に咲くとすぐ黒ずんでしまうのもコブシらしさ。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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トレーニング、『他者といる技法』

昨晩はストレッチポールでぐりぐりしていたら遅くなった。最初は痛すぎた。脛がどこよりも痛い、が、二日前より痛くなかった。やり過ぎに注意して(痛みは癖になる)続けよう。少しでも体調を改善したほうがいいかなと思って個人の部屋を持っているアスレティックトレーナーの先生に見てもらった。足首と股関節の硬さに驚かれた。これ、子供の頃から驚かれている。子供の頃は身体部位としては言われなかったけど自分ではそれがどこかはわかっていたのでその後、ぎっくり腰になったとき、すぐにヨガを選択したのは悪くなかったと思う。あの痛さは二度となりたくない恐ろしいものだったし仕事も休みたくないからすぐにケアに取り掛かった。私は目的がはっきりしているとかなり地道(でもやりたくない筋トレは全然しない)。毎朝7時からスポーツジムのヨガのプログラムに出てから仕事へ行く生活を数年関したが朝8時から仕事をするようになってからやめた。で、あっという間に数年経った。怪我もしにくくなったと思ってたけど元々の身体って変わらないってことね。確かに柔らかい人は何しなくても柔らかいし。またケアしなおさないと。でもヨガに数年間通ってピラティスのマシンとかも使った個人指導も受けたことがあるのでトレーナーの先生の指示とか身体の仕組みとかについて何を言われているかはすっとわかった。足の力を抜いておなかの力で立つ、というのは本当にわかる。絶対そのほうがバランスが取れる。が、おなかの力も弱くなってるのだ。悲しい。でも久しぶりにがんばった。運動好きだからやるとなったらその場では結構がんばれる。ひとりでもがんばらねば。相談できる先生と会えてよかった。指導歴の実績もしっかりしたプロの先生はやっぱりすごいなと思う。余計なことは言わず時間で終わる。私も決まった時間にはじめて決まった時間に終わる仕事だし世間話とかしないので楽ちんだった。最近、奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』(ちくま学芸文庫)を読んでいたのだけど人間関係に「技法」とか「方法」とか持ち込むのが本当に苦手。そんなもんわかったらこんな世の中になってないんじゃないっすか、と思ってしまう。でもこの本はいい本だった。うまくいく技法とかではなくてどちらかというと私たちが他者を排除したくなったり居心地が悪くなったりするときの心の状態を説明してくれる感じの本だった。私たちは相手とともにいたければ「どうしたらいいのだろう」と悩む。いたくなければ平然とひどいことをしたり言ったりすることだって方法となりうる。相手に悪さを預けてしまうという方法。いたくないけどいろ、とかいう人も相手をダブルバインドの状態に置くという方法しか知らない人ともいえる。「一緒にいたい、でも難しいことばかり、どうしたらいいのだろう」こういう悩みは素敵な悩みだと思う。そこにとどまるのは辛いことだけどとどまってでも一緒にいたい場合、スキルではなく心のモデルをいくつか持っておくことは助けになるかもしれない。今日も悩んだり悩まなかったり色々だと思うけど良い一日でありますように。

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調布市武者小路実篤記念館

お菓子を食べるのに忙しくてなんにもない画面を眺めていた。洗濯機はかけた。コーヒーも久しぶりに飲んでいる。先日、京王線の仙川駅とつつじヶ丘駅の間にある調布市武者小路実篤記念館へいった。長い名前だ。仙川は母校の白百合女子大学があるので慣れているはずだが街に当時の面影はほとんどないのでその後行くたびに少しずつ付け足された景色からまた少しアップデートした。昨年、大学へ行ったときはちょうど駅前のルパ(パン屋)がなくなる時でみんなで懐かしんだ。ルパで「おはよー」となって一緒に大学に行ったりしていた。大学院生の頃にある先生と一緒になって「あみさんは博士課程に行くのかと思ってた!」と驚かれた。私はできるだけ早く現場で働きながら勉強したかったのでむしろなんでと驚いた。どう考えても研究向きの態度ではなかったのに。大学にはいい思い出しかないからそう言ってもらえたのは幸せなことだったのかもしれない。仙川という街も当時から大好きだった。一年生の時は白百合の少し先、ちょうど三鷹市に入ったあたりのアパートで一人暮らしをしていた。二年からはお隣の千歳烏山で暮らした。塾の講師とかメンタルフレンドとかとにかく人と一緒にいる生活だった。調布市武者小路実篤記念館は白百合とは逆の桐朋学園方面に出て、学園を道なりに進むと着く。仙川駅からは10分程度だろうか。まだかな、と思った頃に実篤公園が見えてくる。つつじヶ丘駅からだと住宅街だから少し分かりにくいかもしれない。桐朋学園の入口は濃い色の寒緋桜が満開で袴姿の学生たちを見かけた。その日は空も真っ青で椿やこぶしがますます美しかった。実篤公園は豊かな木々が日陰を作っており、お掃除をしていらした方に挨拶をされた。昔はここから富士山が見えたらしい。坂道を下ると池が見えてくる。ここは実篤が「水があるところに住みたい」という子どもの頃からの願いを叶えた家だという。広い敷地に伸び伸びとたくさんの植物が植わっていて見上げても佇んでもなにしても発見があるのでのんびりのんびりまわれた。途中、職員の方に「旧実篤邸にはいかれましたか」と声をかけられた。木の芽を大切そうにチェックしている方だった。旧実篤邸はとても素敵なおうちで玄関は広く、実篤の豊かな仕事がここから生まれたのか、と納得した。家具や民藝品もどれも興味を引くものばかりでその後記念館で見た写真や絵画を見ながら「あ、これはあのお部屋のアレだ」と言いながらあれこれ生活と作品を想像するのは楽しかった。今回は春季展「美術雑観」ということで実篤に影響を与えた画家や絵画、志賀直哉たちの書簡などを見ることができた。私は実篤と美術の関係は全然知らなかったのでその鑑賞の文章とか書簡とかとても面白かった。実篤の妻、安子さんが描いた絵葉書には家族の日常が描かれていてこれがまたとってもいい絵だった。私はオフィスが初台だから京王線沿いには出やすい。どの駅にもそれなりに馴染みがある。春に歩きたくなる道もたくさん思い浮かべることができる。街の景色は変わっても地形はそんなに変わることはない。歩くことで思い出される感触を大切にまた遊びにいこうと思う。今日は火曜日。良いことありますように。

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『ガラスの器と静物画』@東京オペラシティアートギャラリー、古田徹也『謝罪論』

今朝は箱根町強羅「ことほぎの木」の「箱根の坂 抹茶ショコラ」。すごく平らなお菓子なんだけど。美味しいわん。オレンジアールグレイと一緒に。この前、東京オペラシティアートギャラリーでやっている『ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家』を見にいってからガラスの器が気になっている。我が家にもあるし、しょっちゅう使っているけど。スウェーデン在住のガラス作家山野さんが画家とテキストでやり取りをし、そのイメージからガラス食器を作り、それを画家が静物画にするという興味深い企画。少し先延ばしにしてしまっていたが今回の展示もこのギャラリーの空間と光を効果的に使っていたもののような気がする。様々なガラスの器の小さな歪みや影がとても美しく私も写真を撮りながらゆっくりまわった。寺田コレクションもいつも面白いし行ってよかった。いろんな動きを少なめにしていると再読が捗る。私は政治のことはよくわからないけど戦後まもなくのことについて書いている文章に土居健郎がよく登場することに驚く。テレビはドラマや映画以外見ないがいろんな情報の読み方について本はとても勉強になるな。読んでいる本はTwitterにとりあえずあげている。本当はもっと乱読だけど一応全部読んだものだけあげている。再読でも全然覚えていなかったりするけどスピードは上がるから文章の構造とかには馴染んでいるのだろう。古田徹也の『謝罪論』を読み直したけど改めて読むとなんだかさらに重たいなと感じた。人の言葉の軽さにずっとずっと打ちのめされたままなんとか生活を続けている場合、謝罪の言葉は意味がないだろう。行為と言葉が自然にしっくりきている関係になければそこにある差異はすぐに嘘っぽさとして見抜かれる。傷ついた心でなければその差異も許容できたものの傷つきが積み重ねればそんな余裕はなくなっていく。言葉のひとつひとつが重みを増してしまう前に軽薄さを抑え誠実であることの大切さよ。古田徹也さんの本には戦後という言葉はあまり使われていないように思うが、言葉の問題を扱っている以上、そこに時代と国の状況が絡んでいないはずもなく、それらについて考慮したうえである言葉の使用について詳細に検討されていることがわかる。私たちは「戦後」という言葉も吟味し直す必要があるのだろう。自分の言いたいことのために軽々しく使ってはいけない言葉というものがあるのだろうから。今日は朝はゆっくりだけどゆっくりしすぎた。花粉も辛いけどなんとかがんばりまっか。

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古田徹也の本

ルイボス&レモングラス・ジンジャー。あったまる。銀座あけぼののもなかをいただいたのでそちらと、と思ったけどこれは緑茶の方が合う。桜もなかと姫栗もなかの詰め合わせ。もなかはあまり好きではないので少し変わった食べ方をする。桜の時期ね。昨日もいろんな木々の芽が膨らんでいて可愛かった。頭痛と鼻水が止まらない。頭が回らないので読んだことがある本をパラパラしてばかり。あとはNetflixでちょこちょこ。『ユニーク・ライフ』に出てくる友達役って『ディア・エヴァン・ハンセン』に出てきた友達役の人だと思うのだけど違うかな。別の映画なのに同じ役の人に見える。そしてどちらもいい感じ。おはなしはいまいちかな。最初の方で見るのをやめてしまった。『グッド・ドクター』は見続けている。これはいろんな人の背景がリアル。本筋とは関係ないがアメリカの医療現場は保険会社と弁護士の力が大きい。すぐ訴訟になってしまうものね。いろんな症状やアセスメント、処置の仕方も興味深い。パラパラ再読している本に古田徹也『不道徳的倫理学講義ー人生にとって運とは何か』(ちくま新書)がある。これはプラトン以前のギリシャの文学作品から運について考えることから始まるのだけどソポクレスの『オイディプス王』の古田流読解が興味深い。以前にもどこかで書いたが古田徹也は事実を知り自分の目を潰したオイディプスの意志と行為を尊重する。「運」や運命に翻弄されるだけではない人間をそこに見出す。フロイト精神分析の根源となるこの物語はいろんなふうに読めるので古田徹也の解釈もそのひとつとして新しい視点をくれる。盲目になることで真実に開かれることは確かにあるのかもしれない。それまでに見てきたものは絶えず目元で像を結ぶだろう。繰り返し繰り返し同じ場面が甦りもするだろう。私はオイディプスが目を潰したことに対してそうしたところで何かがなかったことになるわけではあるまいしと思う。一方で目を潰すことで身体全体の感覚が変わるわけである意味別の人になる可能性を作り出したともいえると思う。人間はどこまでももがける、というか愚かにももがく、というのかなんにしても単なる不幸ではなさそうだ。目を使わない精神分析で生じる不幸からありきたりな不幸へという移行でもある。あ、うとうとしてしまった。そりゃそうだ。今日も無理せず過ごしましょう。またねー。

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日本っぽさ、富永京子さんポッドキャスト

昨晩の月はチェシャ猫の口だった。沈丁花いっぱいの薄暗い遊歩道を歩いていたら少し先を白黒の猫が横切った。いつもの子だ。まだいるかなとさらに暗いところを覗いてみたがもういないみたいだった。遊歩道を離れる道に左折すると月がニッと笑ってた。

毎日1時間程度の勉強は重ねていたがそれもままならないまま日々が過ぎていく。そんなで英語が喋れるようになるはずもないが発表原稿の締切だけは着々と近づいている。日本語でだって書けていない。でも今回のチャレンジはこんな状態で言葉の通じない世界に打って出る(とりあえず自分の意見をいってみる)こと自体に意義があると思っているので私個人は色々なことを学ぶだろう。できなさをいっぱい抱える個人であり続けること、無力であり続けること、そういう隙間いっぱいの個人でいることが精神分析家になるためには必要なんだと思う、候補生生活はそういう日々だった、ということを話そう。とはいえ、私は日本の候補生として何かをいう立場なので「日本の」を強調する場合、多分こういうあり方は全然日本的ではない。どうしよう。日本文化でもっとも素晴らしいのは落語だと私は思っているのだけど落語もいざ説明しようとすると日本っぽくなくない?という場合の日本というのはやっぱりどっかクリーンなイメージなのだろう。クリーンぶってる、というか。色々曖昧にしてなかったことになるまではみないふりを貫くというか、そういうときだけ仲間意識強めるとか。落語にある笑える居心地の悪さとか、ちゃっかりしてるぜこいつというにっくきかわいさはあまり日本人らしくない気がする。

そういえば富永京子さんが夢に出てきた。昨日、帰り道に富永京子さんのポッドキャスト「仕事の合間」を聞いたからかもしれない。おもし論文を紹介してくれたりするのだけど本当におもしろい。あと富永さんはとってもおしゃれでハイブランドのお洋服の話とかもしてくれるのだけどそういうのに全く縁がない私でも聞くのが楽しい。ワクワクする。この前「え?そんなことも知らないで好きとかいってるの?」みたいな人がいたのだけどこの人何か知らないと好きとかいっちゃいけないとか思ってるんだ、とびっくりした。でもたしかに人をそうやってカテゴライズして好き嫌いを言っている人ではあった。「〜っていう相手とは付き合わない」とか。だからいつも同じような人とばかりいるんだなあ。富永さんはそういうところが全くないから逆にそういう人を思い出したのだろう。人柄は社会運動の研究者だからというわけではないだろう。すごくフランクでオープン。言葉の使い方にもすごく注意が払われている。いろんな失敗込みで話してくれるから「わかるー」ってなるし。『みんなの「わがまま」入門』(左右社)に書いていることをそのまま実践できている方なんだな。このポッドキャストとてもおすすめですよ。ちょうどいい長さ(25分くらいかな)なのもそうだし、好きに話している感じなのにメディアに出続けている人でもあるせいか聞き手に対してとても親切。美味しいお菓子のことも話してくれるしワクワク。なんで自分では高級すぎて買わないものだったりするのにこんな楽しく聴けるのかなあといつも思う。

今朝も秩父土産、「栗助」さんの「ほっくり芋」でした。これはさつま芋。シナモンのコーティングがきれいでとてもいい香り。栗のお菓子よりも甘味抑えめ、というか栗と違ってそのまま素材の甘みを活かせるのかな、さつま芋だと。私こういう素材のジャケット持ってる。今日、それにしようかな。シナモンコーデっていうの?それだとサンリオの方になっちゃうか。あのコーデができる服は持ってないな。大学生の頃の服をまだ着られるとはいえやっぱりあの頃の方がスリムだったんだな。なんかどれもきつい感じがする。というかそんな昔の服をいつまでも着るなよ、って感じかしら。ふむ。なんか今日は花粉がいっぱい飛んでる気がする。むずむずする。みなさんもどうぞお気をつけて。マスクマスク。どうぞ良い一日を。

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未分類 精神分析 音楽

ノラ、歴史

はあ。ため息の日々。しかも寝坊ときたもんだ。間に合うけど。眠い。うーん。体調管理が難しいなあ。秩父土産の「2月3日のごもっともさま」というクラフトビールは美味しく飲んだが。今も流しているノラ・ジョーンズのニューアルバム「visions」がとてもよくて私の気分とは真逆の雰囲気が溢れている。どうか私を呑みこんでほしい。ノラは最初からとてもかわいくて透明感に溢れていたと思うが今回は深みがある。伸びやかさがこれまでとは違うのではないか?これまでこんな何度も何度も聞くことなかったもの。これは聞きたくなってしまう。

歴史をきちんと知ることは大事なのだが正確さに関してはかなり怪しい部分というのは残るものだろうから最初からこれは私という窓から見た場合の歴史であると知っている範囲の知識で概要を描くことをしたいがそれも一苦労だ。しかしやらねば。私という限界ある人が体験したそれが事実か真実かを問題にしてほしいわけではない。むしろそんなことは問題にしないでほしい。他でやっているから。私が今回したいのはなんだろう。親は親であるという事実が覆されるみたいな体験だろうか。「オマエのカーチャンデーベーソ」と言われるような体験だろうか。そう思う人もいるからもしれない。違うな。私にはそんな外からの悪口はどうでもいい。一度引き受けたんだからしっかり役割果たせよ、偽物か本物かなんてどうでもいいんだよ、ということかもしれない。これはこう書いてみるといよいよそんな気がしてきた。だって事実だって事実かどうかわからない部分がある(意味わからないと思うが)のにそれを本物か偽物かなんて誰が決めるのさ、あなたが決めるとしたらオマエ誰だよ、という話ではないか、などなど思う。ただ、嘘言うなら逃げるなよな、とは思う。昨年だか一昨年だか事実ではないことを書いた本が賞をとり、専門家たちがより事実に基づく本を出し反論したわけだが著者は逃げてばかりいるように見えた。もらえるものだけもらって・・・と自分で自分に呆れたりしているのだろうか。それとこれとは別、と開き直ったりするのだろうか。どんなあり方も別に構わないけどそういう場所での自分のふるまいは大切だろう。

沈丁花がいい香り。メジロが元気に飛び出した。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

栗、寄居虫、女性分析家の本

今日は「秩父菓子処 栗助」の「栗とら焼き」。虎模様で大きな栗が入っているどら焼きです。ここのお菓子、栗が丸ごと一個入ってるのが多いのかな。この前食べたのも半分に切ったらどーんと一個入っていておーっとなった。お茶にぴったり。秩父は和同開珎で有名な和銅遺跡があるのでそれにちなんだお菓子も色々。こういうのは楽しいですね。遺跡大好き。色々行ってそのたびに興味深く学ぶけど忘れてしまうのよね。前に句会で古墳のある学校があると聞いてびっくりしたのだけどどこだったか。あ、今日オンライン句会の締切だ。早く作らねば。兼題はなんだったか。「寄居虫」と「ものの芽」か。どっちも難しいなあ。今ちょっとヤドカリについて調べてしまったのだけど結構怖いね。殻の奪い合いはともかく生きている貝の中身食べちゃって殻奪うとかすごい。生き物は不思議すぎる。人間の「生きる」と全然違う感じ、というか人間がなんかおかしい。寝不足で書きながら寝てしまうな。途中まで読んでいたEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance by Klara Naszkowska、いい本だと思う。ザビーナ・シュピールラインとかホロコーストで殺された人たちのことを思うとなんとも沈んだ気持ちになるがこれまで男性との関係における位置づけばかり注目されていた女性たちの独創的な仕事が紹介されていて興味深い。1章で取り上げられたザビーナの子供の言葉の発達に関する仕事はもっと取り上げられてもいいのかもしれない。2. Lou Andreas-Salomé: An Unacknowledged Psychoanalytic Theorist of Art by Shira Dushy-Barrはミューズとしてのザロメではなく彼女の芸術論に焦点が当てられている。なんとなく読み進めてしまっているが他の仕事がかなり切羽詰まってるからやめとかないと。とても眠いけど今日も頑張りしょう。

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精神分析

ならされたりなれたり。

ダンデライオン&ジンジャーブレッドというハーブティーを飲んでいる。これ、最初に飲んだときは「うん?」という感じだったけど体調が良くないときに飲むと美味しい。漢方と同じか。漢方は体質とあえば美味しい、というか不味くない、って聞いたことがある。

届かないなあと思っていた資料が2月末に届いていてびっくり。お礼しなくては!というか3月が10日も過ぎていて知っていたけどびっくり。プリントアウトしはじめたら191ページ以上あった。調子の悪いプリンターが今日はわりと快調に働いてくれているからいいが、視力が落ちているせいか64ページに見えていた。どうして3桁が2桁に見えてるのか。視力のせいではないな。私は視覚的にも不注意なので他の情報と混ざったのだろう。よくある。にしてもこれ多すぎる。全部印刷しなくてもいいか。少なくとも今はここで止めておこう。精神分析もAI時代にコロナ禍にと様々な環境の変化によって設定の変更が課題になっておりテレアナリシスに関する議論が続けられている。それに対する意見交換の場もメンバー(精神分析家)、candidate(候補生)と分けて開かれたりしているのだが日本だと朝4時スタートとかでただでさえ英語力が足りないから議論に加われないし、という気持ちも手伝って起きられなかった。これだけの資料を作り、そういう場を作ってくれる委員会の先生方や候補生たちは本当に大変だ。この資料、そもそも精神分析の設定とは、ということからレビューされているから勉強になる。それにしても、この話し合いには出なかったけどIPAのYouTubeとか見てるとみんなの本棚とか見えて面白い。今みている精神分析家の本棚はあまりこだわっていない感じが楽しい。本棚だけではなくてすごい煩雑な部屋の様子とかも見えるときがある。コロナは世界共通の体験になったからオンライン状況の格差もできただろうし平され、慣らされた部分もある。人間は慣れてしまう生き物だ。差別にさえ慣れる、という昨日ここで引用したアウシュビッツの生存者であるマリアン・トゥルスキさんの言葉を思い出したりする。

空が明るくなってきた。洗濯も終わったらしい。終わったよー、と知らせる音楽が鳴っていた。毎日色々あるけど今日も地道にやりましょう。どうぞ良い1日を。

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精神分析

フォントとか音とか。

喉がイガイガするのが治らない。あっつい紅茶を飲んだけどあっついのは喉に良くないかな。小田原土産のロイヤルミルクティラングドシャ美味しい。ラングドシャはクシャってなるのが音的にもいい。ドシャッだとちょっとイメージ変わっちゃうけど。今度軽いハイキングも兼ねて小川町の酒蔵とかワイナリーを巡ろうと話していた。美味しいもの見つかるといいな。2月末には「酒蔵めぐり」があったらしい。行きたかったな。私は「道の駅」めぐりも好きで全国のいろんな「道の駅」に寄ってきた。「道の駅おがわまち」は改修中らしい。東武東上線は遠くないし馴染みもあるしまたいく機会があるだろう。たまに同じ「道の駅」でもその地域だけの小さなドライブインみたいなところがあってそういうところもとても好き。昔はドライブインってもっといっぱいあったよね。大きな縦型の看板で結構な斜体で赤い文字か何かでドライブインって書いてあるイメージ。やっぱり車って走るから斜体なのかしらね。ドライブインはステイだからポクっとしたフォントでもいいよね。そういうのもあるのでしょうね。昨晩「おまゆう」という言葉は「おまえがゆうなよ」でいいのか?など思った。「おまいう」でもいいのか?ナンパおじさんに「おうちに帰りたくない子みたいに自分から首つっこんでるくせにこの人何言っちゃってんの、ちゃんちゃらおかしいぜ」と思いながら「ちゃんちゃら」ってなんだ?とも思った。「ドンジャラおかしいぜ」とかだと具体的にものが見えてきてしまうからおかしいしね。あ、だめだ。私はこういうことを言い出すと止まらなくなってしまう。今日こそう次の作業にうつれるかなあ。昨日は少しサボって隙間時間にNetflixの「グッド・ドクター 名医の条件」を久しぶりに見ちゃった。医療用語以外は聞き取りやすいから英語の勉強にもなるからいっか。3月は本当に厳しいのでずっと作業しているけどまずいな。鶴見俊輔を引用して書こうとしているものがあるけどどの本か思い出すところから始めないとだし。そもそもそろそろ行きましょう。どうぞ良い1日を。

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腰、鳥、不在

寒い。眠い。外が明るい。先晩は2回くらい豪雨警報がきた。まだ少し降っているのだろうか。鳥が鳴いている。冷たいツンとした空気は少し和らいだように思う。昨日は腰をまたやってしまいそうになった。ほんとちょっとした動きで「しまった」となった。慌てて伸ばす。おなかに力を入れる。きょうもきをつけねば。隙間時間もずっと事務作業をしているのが悪いのだろうけど早く書く作業にうつらねばなのでさすがにいつもほどさぼれない。さぼらずともマイナンバーのせいで手間が省かれるどころか二度手間になったりして愚痴を言うのもめんどくさいことも含めて愚痴を聞いてもらったりした。梅が終わりつつあり河津桜にメジロも目移り、かどうかわからないけどピンクにまぎれてすばしっこく動く小さいみどりの姿がかわいい。新宿中央公園のチューリップも咲き始めた。いろんな色があってこれもとてもかわいい。フランスの精神分析家の本を読む時間がないが精神分析の最終的なテーマとなる対象喪失に絡めて不在と無の関係について考えていた。いや、絡めてはいないのだけど結局モーニングワークをいかになせるかということだなとは思う。「あれ、ここになかったっけ」となかったことに気づくのと実は青い鳥は近くにいたよというのは違う。反対側から語る不幸論が精神分析なんだと思う。とか。プリンタがいちいち紙詰まりするようになってしまった。すごく困る。いろいろいろいろだけど今日ものりきろう。いいことありますように。

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精神分析

夢、スープ

丑三つときに寝て一時間ほどで目が覚めた。ぬくぬくしながら夢を忘れないように思い返していた。一度布団を出てまた思い出そうとしたらものすごく薄れた夢の景色しか思い出せなくなっていた。iPhoneを枕元においておけばよかった。すぐに文字にしてから布団を出ればよかった。もう一度布団に戻ると布団はまだぬくぬくとさっきのままだった。潜り込むと夢の続きが始まりそうだった。さっきみた薄い夢の景色が少し濃くなった。そのまま眠ってしまった。夢はやっぱり覚えていない。さっきiPhoneと書いたがこういう機器がない頃は手書きでメモっていた。夢を記録する人や時期というのはわりとあるものなのだ。今は自分の日記も売り物にされる時代だし夢も不特定多数に向けて呟かれるものだからフロイトの『夢解釈』もまた異なる読み方をされるのだろう。NHKの「100分 de 名著」で取り上げるみたい。解説は立木康介さん。立木さんの『露出せよ、と現代文明は言う「心の闇」の喪失と精神分析」』なんて併せて読むのにちょうどいいかも。

今朝は昨晩の残り物から小松菜のスープにしょうがの千切りを入れた。いい香り。小松菜って緑の野菜の中でも使いやすいと思う。サクサク切れるしほうれん草みたいにへにゃってならないし癖もないから何にでも合うしカルシウムが多いらしい。骨も弱っていくというかほんと弱っているのを感じるから食べ物気をつけないとなんだろうねえ。小松菜は一番よく使う野菜だから効果が出てればいいな。小松菜はほんとにカルシウムが多いんだっけ、と検索したら小松菜奈が最初に出てきた。いい。小松菜奈も好き。今日は「昼間も冬の寒さ」だって。がーん。都庁に行かねばなのに。近いからいいけど。

はあ。もう5日か。昨日、ひとつ仕事仕上げたときはまだ二日だと思っていたのに。火曜日だから二日だと思う、ってすごい自分勝手な変換を行っていた。だいぶ追い詰められている証拠ね。まあやるしかないことはやりましょう。はあ。みんなみんないいことありますように。

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精神分析

異なる文化

遅くなってしまった。朝の光はきれい。東側のブラインドからオレンジの光が入ってくる。今日もハーブティーにしょうがをすりおろしていれた。しょうがでも大根でもりんごでもすりおろすと香りも出ておいしい。おろし器を洗うのは苦手だけど。

昨日はずっと英語を聞いていた。意味を聞き取るのが精いっぱいでほとんど思考できなかったので発言もしなかった。ASIA PACIFIC ONLINE CONFERENCEというイベントでインド(IPS)、オーストラリア(APAS)、中国(CSGW)、韓国(KPC)、台湾(TSG)、日本(JPS)の精神分析家や候補生が集まった。前半は韓国と台湾の精神分析家のペーパー発表とディスカッション、後半はSmall Clinical Groupsだった。これは私も昨年発表をした。昨年じゃない、二年前か。早い。今年、私が割り当てられたグループはオーストラリアの候補生が発表するグループでリスナーもバランスよく全部の国の人たちがいた。文化の違い、というか自分がいかに精神分析状況に影響を与える他国の文化について知らないかということに驚いた。驚いている場合ではないがそれによって使われる言葉もコミュニケーションも変わってくることを実感した。だからよけいに理解が難しかった。先生方はアメリカやイギリスで仕事をしてきた人も多いので自分の国の文化というものに向ける注意の仕方もずっと同じような場所で仕事をしている私とは全く異なるのだろう。もちろんそういう移動することで得られる視点ばかりではなく、それに先立ち、それぞれにとって切実な文化的問題というのがある。たとえば出自の問題は精神分析では中心的な問題だが、それは「~系~人の患者」という紹介とか自己紹介にも日常的に現れたりする。これまでもこういう話をきく機会はあったわけだがきちんとコミットするようになったのが最近でしかもこんな小さなグループで議論をするわけだからさすがに私にも切実さが伝わってきたわけだ。こういう場だからこそ浮かび上がってくる問題に対する各国の先生方の言葉選びにも感銘をうけた。みなさん、英語がとても流暢だったが生活様式としての言葉というウィトゲンシュタインの考えに改めて注意を向けたりもした。治療で生じることは設定の問題も含め各国共通していることが多いと感じた。人の心の普遍的な部分と文化を含む環境の相互作用はたしかにもっと詳細に見ていく必要があるし精神分析はそこに貢献していると思った。私も今日も一対一という小さな関係で同じ文化圏で育ってきたはずなのにまるで異なる人たちと言葉で出会う。地道に学んでいこう。

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精神分析

3月3日(日)朝

ラジオをつけた、が今朝の私の頭はダメだな、もっとぼんやりしたのを聞きたい。富永京子さんのポッドキャストはどの時間帯に聞いてもちょうどよくて好き。でも昨晩聞いちゃったからどうしましょう。音楽?ジュリアン・ラージ?いや、今日も角銅真実のニューアルバムにしよう。今日はいろんな素材がブレンドされているお気に入りハーブティーに生姜をすりおろして入れた。生姜紅茶は生姜紅茶として売っているのを常に買って飲んでいるけど生の生姜の方が柔らかく感じる。角銅真実の声も柔らかくて好き。「真実」。私の友達も「真実」。パソコン使うようになってから「真美」と間違わなくなった気がする。彼女と会った頃はまだワープロでポケベルだった。お気に入りのボールペンで手紙を書くのと画面に映し出される文字を見ながら打つのとでは単語に対する感覚が異なるのかしら。よく間違われるということを知っていたから時間の経過に伴い間違えなくなっただけかしら。確定申告をいつも通り先延ばしにしてようやくやってるけど本屋の領収書が一番多い。Amazonでも相当買っているのに。私の支出はほぼ本と家賃。訓練費用もすごいか。もうすぐこの支出はなくなる。それはそれで寂しい?いや、もっと本を買いたいしちょっと増やしたいルーティンもある。レシートを打ち込んでいると「あれ、なんで今年のじゃないのが入ってるんだろう」と思って「ああ」とにっこりしたり苦笑いしたりした。良くも悪くも節目になった出来事をそれを見て思い出す。なんとなく残していただけだけどどうやってそういう出来事を消化していくのかも興味深いからインクが薄くなって消えてしまうまで取っておくか。とかいってあっさり捨てたりもするかもね。それはそれでそういう消化の仕方。自分任せというか自分の無意識任せだから放っておきましょう。きっと好きにするでしょう。今日も勉強と事務。3月は本当に大変。手動かし続けましょう。できるかな。やるしかない。がんばろ。そっか、ひな祭りか。なにたべましょ。みなさんもどうぞお元気でお過ごしください。

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精神分析 読書

案内、春樹、間取り

胃がん検診の案内を開けた。少し前に届いた。受けなくてはと思うけどバリウムが本当に気持ち悪くなってしまうので怖くて受けたくない。でも受けねば。いつもこの葛藤。症状があるときは受けられないから症状があるときに胃と腸の両方を見てもらうのもいいなと思っていたところだったのでどうしてもバリウムを避けたいとなるとそっちになる。飲み物を一気にたくさん飲むということがないからそれだけでも気持ち悪くなるのにしかもあの発泡。何にせよ健診や検診は受けましょうね、と周りには言えるのに。ちなみに相談場所は色々あるのでその一つを載せておきますね。

村上春樹の『一人称単数』は短歌が出てくる話からだった、と思う。だから何というわけではないけどあの単価は誰かが推敲してるのかな、と思ったのだ。していなそう、春樹っぽい、と思ったりもした。私は村上春樹の良い読者ではないが大体のものを一度は開いている。多分私の注意力だとあのやや冗長で普通の人だったら次にまたそれが出てきたらむしろその冗長さの効果ゆえに鮮やかに形作られる何かが私には乏しいんだと思う。そこまでにほぼ忘れてしまっているから。作者の意図に乗れていないのだろうな。ノリが悪いオレ。なんとなくリズムがいい。下の階の人が歩いているのが聞こえる。ドンドンドンドンドンと。多分歩いている。結構大きめの歩幅で。あ、戻ってきた。いや、戻ってきたかどうかはわからない。正確には真下の部屋かどうかもよくわからない。同じ間取りではないからなおさらわからない。この前、先生に昔小倉清先生に子供に間取りを聞くといいと言われたことをお話した。私は子供の心理療法もしているので時折それを思い出す。何も聞かなくてもおうちのことを自分から書いてくれる子もいる。その子用にお絵描きできるセットはいつも準備してある。確かに間取りを描いてもらうとその家族の生活状況が見えてくることがある。私的にはこれはかなりプライベートな部分に触れることになると思っているのでそれをどこでやるかとかその扱いができる設定かどうかは重要だと思っている。人の家のものむやみにのぞかないでしょう、普通、と思うから。一部だから出せるんだよ、というのが普通だろうし。見せることも話すこともしてしまえばそれなりに発見も多いものだがその人がそうしたいと思ったときになされるのが一番いいと思う。私がその話を出したのは人の家に行くということのインパクトについて話しているときだった。小倉先生のことはすごく前にも書いたがお元気だろうか。著作集はこちら。毎年著名な先生の訃報を聞くようになった。彼らのような仕事は臨床的にも政治的にも難しいと感じる。何かを教えてもらうというより臨床をしていくうえでどのような工夫ができるかを考える素材を提供していただいたと思う。先生方が多くの患者さんと身体的、心理的に格闘しながら導いたものを簡単に評価することはとてもできないし、今の時代に出会う症例という観点からもいろんなことを残し、展開し、変えていかなければいけない。外からは見えない仕事だからこそ何度も同じパズルを解きながら少しずつレベルアップしていくような地道さが必要なのだろう。小さい子たちが同じパズルでもそれぞれの方法で取り組むのを思い浮かべたのでそんなふうに思った。小倉先生が治療した多くの子どもたちももうすっかり大人だろう。一緒にがんばりましょう。今日は土曜日か。やってもやっても何も進んでいる感じがしないけど今日もなんとかスモールステップで。

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精神分析

フロイト読書会、秩父土産、語尾

今年度最後のフロイト読書会Reading Freudを終えました。来年度メンバーも募集中。音読で丁寧に読んでいく機会はなかなか持てないと思うのでぜひ。音読で通読したあとはフロイトが生きた歴史、政治、家庭、理論を絡めながら解説を加えつつ精神分析のはじまりを振り返ります。おそらく精神分析の印象はだいぶ変わると思います。メンバーの皆さんからは単なる理論や読み物ではなく「難しいけど奥行きを感じられるようになって楽しい」など嬉しい感想をいただいています。ご案内はオフィスのウェブサイトブログ「精神分析という遊び」をご覧ください。ご参加お待ちしております。

秩父のお土産をもらいました。秩父は東京からもワンデイトリップで気楽に行ける素敵なところです。今みたいにきれいになる前に泊まりで行ったことがあるのですが駅前のホテルがとてもとても怖かったのを覚えています。今はなくなってしまいました。それはそれで気になります。これまで全国の安いホテルに色々と泊まってきましたが秩父は最も思い出に残っているホテルのひとつです。あとは萩と田辺のホテルでしょうか。最近だと中津川かな。これらは全く異なる理由で心に残っています。そういえば中津川は安くなかったです。かなりネガティブな意味で心に残っちゃったから残念ですが勉強になりました。素敵な居酒屋と老舗和菓子屋さんたちに癒されたので無問題ですが。そうそう、お土産は「秩福かりんとう」「長瀞ポテトチップス 鮎の燻製風味」「源作印・赤」、あととても素敵な水羊羹。どこのって書いてあったか。いただくときにきっとまた書くでしょう。ちなみに埼玉県秩父市のイメージキャラクターは「ポテくまくん」。「秩福かりんとう」のパッケージにもいます。かわいいです。にしても秩父に限らずだと思いますが山は花粉が凄まじいようですよ。ついにきてしまいましたね。

それにしても眠いです。春ですものね。今日は移動が長いからそこで眠れそうですが寝過ごすのも怖いですよね。でも怖いと思ってれば起きられるでしょうか。今ふと「〜ですかね」といって「かね、なんていわない」と指摘されたことを懐かしく思い出しました。たしかに、という文脈だったので恥ずかしくも思ったのですが語尾になにをもってくるかは大切ですね、たしかに。印象がだいぶ変わると思うのです。生身の人の言葉は生き物なのでその人の生活と切り離すことはできませんし興味深いです。さて、いきますね。またここで。どうぞ良い一日を。

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精神分析

ウェビナーにでたり。

今日はそれほど寒くない、と思ってiphoneの天気予報を見たら気温自体が高めなわけではないみたいだった。ロンドンタイムの夕方から始まるウェビナーに出ていたので寝不足。しかも英語だったのであまりついていけなかった。移民であることや肌の色の違いによる差別やフォビアが顕著な国での臨床のリアルを聞くのは苦しいため抵抗もあったのかもしれない。まさにそういうところで耳を傾け続けなければいけないのだが。記号論専門のスピーカーはブエノスアイレスにおける心理学の存在感や精神分析的に聞くということについて話されていたようだが活発な議論を聞きつつ眠りこけてしまった。周りのみんなも今日も朝から仕事だがきちんと聞いていたらしく終わった直後にやりとりをしていた。すごい。

頭の中が空っぽなようなごちゃごちゃなようなよくわからない感じになっているのは考えるべきこともやるべきこともあるのにちょこちょこ強く感情を揺さぶられる出来事があるからか。そういうときは大抵、読んでるだけ、言ってるだけの世界なんて滅びればいいのに、と思うとき。一方、それは他人事でもないのでなんともモヤモヤした気分になる。それと同時に今日の予定が頭の中で蠢いている。せめて忘れ物をしない、という小さなところから始めなければならない。ごちゃごちゃしてるときは書くスピードも遅くなるからもうやめとこう。何も考えずに書ける以外のことは書かない場所にしてるから。こういう引っ掛かりってリスクに繋がるからまずは止まること、考えること、と自分に対して思う。

今日は東京は晴れ。良い一日でありますように。

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精神分析 音楽

昨日とか今日とか明日とか。

ジンジャーやシナモン、いろんなものがブレンドされたハーブティーを飲む。今日の天気予報だと寒そうだけどどうなのだろう。部屋にいる分にはそんなに寒さを感じない。ハーブティーのおかげか。♪明日という日が今日にはまだ気配もなく近づいてくるようで♪とラジオから流れている。優河という人の『思い出』という曲らしい。「思い出」を今日と明日の関係で言い表すことは確かにできそうだけど近いスパンだとまだまだ形になるには遠くて流れていくものをどう捉えたらいいかわからなかったり見過ごしたりやり過ごすのに精一杯だったりする。いつか「思い出」になるのだろうかと苦しむこともある。セラピーに来る方はどうにか思い出さないようにしてきたことが今の苦しみに入り混じっていたりするから今を過去の方向へ受け流していくことが難しい。精神分析は過去に遡るものと思われているが、こちらがそうしているわけではなくて言葉だけで行っている自由連想法という方法がそういう方向性を持っているということ。何かを言葉にするというのは今を過去においていくことだけどそれを受け止める他者がいる場合、その流れは滞り、今話した言葉の重みが増す。そしてそれが記憶の重たい部分を刺激する。自分ひとりであれこれ考えて辛いときは今から離れられないという状態なわけで人に話すことで一時的に楽になることが多い。しかしそれを継続的でやっていくと臨床の関係では巻き込み合うことが必ず生じるので言葉は相手を求めはじめる。それを対象希求という言葉でいってもいい。その希求に対して即座に何かが提供されることはほぼない。赤ちゃんでさえおっぱいやミルクを待って大泣きしながら「待つ」わけでどんな相手でも自分の思い通りになることはない。なるとしたらそこには双方相当無理なことをしていることになる。しかし、大人になっても大泣きしてそれが得られないことに猛烈に怒ったりする心性はあるわけだ。少し先の自分と相手に期待して今をやり過ごせるかどうかは、習慣にもかかっている。習慣を支えているもののひとつが外の時間の流れだ。今日は雨らしくまだ空は暗いがそれでもさっきより明るい。カーテンを開けて待てば今よりずっと空は明るくなってくる。眠ったら明日がまた来てしまう、と眠れない一夜を過ごしてもやっぱり明日だった時間は来てしまった。そんなとき、カーテンを閉め切って一日中パジャマで過ごすことで時間を引き伸ばすという方法ももちろんあるだろう。しかしもし普段通り仕事や活動に従事できるならいつものかなり縮小した形であっても習慣的に行っている行動をした方がいい。もしその習慣がなく定期的な区切りが自分の中に持てずにいるなら何かしらの区切りを外との関連で持った方がいいだろう。定期的な通院やカウンセリングがそういう部分で役に立つこともある。相手あることというのは常に自分に圧力をかけてくるものだし、外に出るというだけでその気配に不快を抱く場合もあるだろうけれどちょっとした空気の動き、光の変化に気持ちが変わることもある。外をちょっと感じることで持ち堪えるきっかけが生じるというのは家を飛び出したりお手洗いに立ったり鳥の声に気づいたりしたことがある人、つまり大抵の人なら体験していることだろう。今日が昨日になることも明日が今日になることも私たちに止めることはできないが、今日とか明日とかいう言葉で時間の流れを区切る知恵を持った自分たちのことは信じるに値する。なんとか今日も一日。どうぞご無事でご安全に。

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精神分析 読書

言葉とかそれ以前とか。

急がねばなのにのんびりしてしまった。「しまった」が「島田」になってしまった。島田さんという大先輩がいた。その人のおかげでどんな場所でも果たせる役割があることを学んだ。しかも明るく伸び伸びと。昨晩は読むべき論文の上で佐藤りえさん発行の文芸個人誌『九重』3号を広げたら止まらなくなってしまった。小津夜景さんも書いていた。やっぱりいいなあ。

”のびのびと発想する一番の秘訣は「無責任になること」ですが、人ってなかなかそうはなれない。”

と小津さんが書かれていた。本当にそうですね。

かささぎのこぼす涙をおつまみに 小津夜景『花と夜盗』より

もそういう感じ。4号の今泉康弘さんの作品もいいです。川柳のような雰囲気もあるけど景色が見える。あるはずのない景色まで不思議なく見えるのが不思議。

はあ。素敵な言葉たちと触れるのは幸せ。なんだけどやらねば。つくばのコート・ダジュールのパルメザンチーズサブレも美味しかったからがんばらねば。間に合わないよー。

フランス精神分析の本を読んでいる。ラカンは晩年、フィクションの次元なしに真理は成立しない、という言い方ではなく「嘘つきの真理」という言い方でラカンのいう「現実的なもの」を位置づけた。が、この時点で嘘になりえないものなどないという感じがするのでどっちが外部かという話でもあるか。ともにこぼれ落ちるものを掬い上げるとき分析主体がというより分析状況は「歴史化する・ヒステリー化する」ことを試みてるらしいがこれも「現実的なもの」に形を与えようとする行為なのだろう、か。

とかね、こういうややこしいことを考えてると言葉の美しさが取りこぼされていく感じがするでしょう。私のまとまりのない思考でぐちゃぐちゃ考えるのはそこそこ汚い行為ですよ。嘘も意地悪もいっぱい。言葉以前の世界に言葉に戻ろうとしてるんだから仕方ないけどね。適当なこと書いてないでやろう。ああ、もう少し何か食べたいけどちょっとやってからにしなさい。はい。どうぞ皆さんも良い一日をお過ごしください。

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季語「絵踏」

今日はとても大切な日なのに喉がイガイガ。とりあえず温かい飲み物をいただきましょう。生姜紅茶かな。

この前、オンライン句会のお題に「絵踏」という季語を出した。その句会はそれぞれがお題を出してそれを使っても使わなくてもよいのだが意外とみなさんこの季語を使ってくれた。絵踏(えぶみ)は江戸、徳川時代、正月から3月にかけて行われた宗門改めのこと。島原城のキリシタン史料館で色々な資料を見たりガイドさんの説明を受けたりしながらとても悲しい気持ちになると同時にどうにか信仰を守ろうと奮闘する人たちの炎のような情熱を感じたことを思い出す。平戸、津和野などでも資料を読んだが拷問の激しさこそが信仰の強さを示しており、どちらにも激化する心に言葉を失った。人から何かを奪うことなどできないからこそ人は暴力的になる、しかしどちらも同じ人間なのだ、という事実がどこにもいけないような気持ちにさせたのだろうか。私とて人間を降りるわけには行かないからただ悲しんでも憎んでも罰しても罰せられてもいられないのである。

「誰かが見ている」というのは症状としてもありうるが絵踏させられるものと踏まれるものの視線のやりとり(あるいはその回避)を感じる「絵踏」の句をあげておこう。

踏絵してキリストの眼のなくなりぬ 滝沢伊予次

まなざしを髪でかくして絵踏かな 鷹羽狩行

絵踏する女こつちを見てをりぬ 阪西敦子

見放された、いや見放そうとしているのは自分だ、でもきっと許してもらえる、いやそんなことはないというような、強烈な罪悪感、奪おうとするものを憎むことすら憚られるような信仰と愛。阪西敦子さんの句の女の視線にはドキッとさせられた。

一方、俳人の確かな視線が注がれた一句はこちら。

苗代の泥足はこぶ絵踏かな 正岡子規

生活の中の小さな光を奪おうとうするのもまた人であることにどうしようもない悲しさと苦しみを感じつつ、今日も一日。どうぞご無事で、ご安全に。

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カールおじさん、言葉、大会

今朝はつくばのコート・ダジュールのエンガディーン。このお菓子ってエンガディネとかアンガディネとか少しずつ呼び方が違うけどエンガディーンははじめて聞いた。ロボットの名前みたいでかわいい。ライディーンみたいな。ライディーン、よく知らないけど。サブレ生地はいつも美味しい。キャラメルがベタベタしすぎないでいい感じ。美味しい。くるみの苦い部分が当たってしまった。喉が苦い。紅茶で中和。やっぱりお菓子はティーとね。「それにつけてもおやつはカール」のリズムで歌おうとしたら合わなかった。「やっぱり」ではなくて「それにつけても」だった。「それにつけても」にした人すごいな。軽やかさが違う。今は関西以西でしか買えない、ということは関東よりこっちの子供たちはカールを知らない世代になるのか。奄美大島の地元スーパーで久しぶりに見かけたよ、おじさん、とか書いても「は?おじさん?カールおじさん?だれそれ」とか言われるのかな。あのかわいいおじさんを思い浮かべてもらうような説明ができるかしら。「カールの精」とか言ったら絶対あの姿にはならないし。歴代CMかわいいな(思わず見てしまった)。前に日本語も片言の英語も通じない人と面接をしたときにお互い絵で伝えようとしたのだけど私のが下手すぎていっぱい困って泣いている患者さんを苦笑いさせてしまったことがあった。カルテ情報もあったからだけどなんとなく色々お話しして終わった感じになったけど。精神病院での仕事はものすごく忙しかったけど日常の言葉の世界とは別の基準で動いていたと思う。クリニックもいくつか経験しているけど医師に「言葉は難しいかもしれません」と言われて依頼される場合が何度かあった。これにはいろんな意味が含まれるのだけどこっちも「はい。とりあえずお会いしてみますね」と普通に受けていた。社会的に通じる通じない、わかるわからないの基準ではない関わりが臨床には溢れてる。精神分析だって言葉言葉言葉みたいに思われるかもしれないけど、というか実際にそうなのだけどその言葉が通じる通じない、わかるわからないの基準で使われているかというとむしろ「わからない」が出発点になる。これは体験でしかわからないから説明できないけど興味深いものです。あ、日本精神分析協会第42回学術大会(2024年6月8日〜9日)の案内が出ました。今年度は協会に所属していない臨床家のみなさんにも開かれた大会になるのでぜひいらしてください。私は候補生としての登壇はこれが最後かな。最後だといいな。5月の登壇が言語的には一番不安だけど「言語の問題にこだわらないで、私たちは臨床家だよ」というのが共有されているのはありがたい。このことはさっき書いた言葉が通じる通じない、わかるわからないという水準とは異なる使用をされていることの延長。臨床の言葉というのは本当に興味深いしいろんなことを教えてくれます。今日もなんとかがんばろう。

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バレンタインデーとか。

バレンタインデー。この時期にだけ出るチョコを見にいこうと思っていたのに全然行かないまま当日になってしまった。しかしすでにいただいたものもあるので今朝はベルギーのホワイトチョコとあまりハートに見えないショコラのフィナンシェ。半分こしてもハートが割れた!みたいにならないようにかしら。でも失恋の場合のハートってギザギザに割れるよね。あれ、最初に考えた人すごいと思う。ハートにリボンかけちゃった人とか。自分の身体にリボンかけちゃうのは具象的すぎてロマンがないけど象徴の力は大きい。昨晩締切の俳句もお題の一つがバレンタインデーだった。8音もとられるが元々17音だからあと9音もあるといえばある。省略の文化は逆に盛りだくさんにもできるけどシンプルなのが一番。私は俳句も作り手の情緒が滲み出ているような句は苦手。私の仕事でいえば治療者の悲しみとか苦しみとか情熱とかが近いところから患者に伝えられているイメージ。アメリカでカウンセリングを受けていた人のお話とか聞いたりビデオで見たりするとお互いにすごい情緒的だったりする場合もあるけど「情緒」という言葉の幅を考えてしまうな。俳句の場合は季語が雄弁だからそこに上手にお任せできたらいいのよね、きっと。季語とそれ以外という関係を患者さんの無意識と意識の交流と関連づけてあれこれ考える。無意識に委ねられるとだいぶスッキリすると思うけどその前にいくつもの段階がある。最初の難関は他者と出会うこと。他者と出会うことなしに自分と出会えないというのはかなりハードルが高い、人間関係というのは。お互いに変化する生き物だから出会ったつもりがもういないということも起きる。そこをつなぐのが信頼。それは無意識から生じるもの。そこに潜在的な力を見出せるかどうか。私はノンフィクション作家の高橋ユキさんの記事を読むようになってから臨床が裁きの場になっていないかをとても警戒するようになった。加害者臨床という言葉があるがそれだって組織的に行う場合とたまたま出会う関係では随分違う。たまたま出会う関係の場合、その人が加害者という分類をされた人であっても見立ての仕方はそれほど変わらないだろう。ただ目的をどこに置くかというのは重要だろう。精神分析は受けたいからといって始められるものではない。それはどの治療だって同じなはずだ。アセスメントありき。患者さんのニードがどこにあるかを把握すること。治療プロセスで「求めてたのはこれではなかった」と気づくこともあるが治療法に関してはまずは治療者がその体験をしてその効果や副作用や弊害を実感していることが大切。設定を決めるのは治療者の方であるべき。ここからはガイドがいないと入れません、という道をいくようなものだからこういう場合はこういうことが生じやすいが果たしてそれは「どんな感じ」なのか、ということがわかっていないとかなり難しい局面を知的な作業に押し込めるだけになりかねない。他者として自分を差し出すのは誰が何を言おうと簡単であってはならないのは患者も治療者も同じことだ。日本のバレンタインデーは他者に対して自分が出せるお金という観点からみても興味深いものがある。お金といえば最近メールで詐欺にあいそうになった。時間がないから書かないけどクレジットカードの有効期限が切れているから確認して、ってメールでまんまと乗りそうになった。「あれ?きれてないはずだけどなあ」と思いつつ騙されそうになるのだから怖いもんだ。不特定多数の人からお金を巻き上げて一体何をしたいのか。その行為自体が快楽なのか。子供が親のお財布からお金を取るのとはだいぶ異なる心性だと思う。忙しいときは文面も自分に寄せて読んでしまいがちでしょ。「あれ?」と思ってもなんとなく自分にとって筋がとおる方で読んでしまうというか。気をつけましょうね。怖い怖い。「あれ?」という直感を大切に今日も一日。どうぞご無事で。

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うま味とか。

寝るのが遅くなってしまったせいかスッキリ起きられなかった。それでも目覚ましなしで遅れずに起きられるけど。

今朝のお菓ティはつくばのコート・ダジュールのバレンタイン用のお菓子、いちごのフィナンシェと桃風味のアールグレイ。flavored teaはアイスだと割となんでも美味しく感じる気がするけどホットだと合う合わないが出やすい気がする。風味って難しい。和田萌さん監督の『巡る、カカオ』で「うま味」の説明に苦慮するシーンがあるのだけど最後は「Umami is Oishii」と言っていた気がする。確かに!と思ったあとすぐに「おいしい」は通じてもそれが「うま味」を指すとは限らないからわからないんだよなぁ、とOishii is Umamiは通じだとしても逆は難しいか、うーん、となった。後日、友達と美味しいものを食べながらその話をしたら「アミノ酸なら通じるんじゃない?」と言われた。それも「なるほど!」と思ったがすぐに「アミノ酸のことだよ」と言われても「ああ!あれを日本語ではうま味っていうのね!」とはならないよなあ、と思った。味の説明は難しい。三浦哲哉『自炊者になるための26週』(朝日出版社)がいろんな言語に訳されたらいいな。

はあ、やることいっぱい。ついつい、というレベルではなく遊んでしまうから進まない。東京は電車が便利で乗り継ぎに苦労することなくいけてしまう区域が広すぎる。特に神奈川、埼玉、茨城は行きやすいよね。なのに方言ってきちんとある。県境と方言って本当のところどのくらい関係しているのかしら。なんかそういうのどこかで読んだ気がするけどそれすらどうだったかな。

はあ、がんばれるかなあ、とかまたため息ついてるうちにダラダラ別の話をはじめてしまいそう。やりましょう、そうしましょう。今日は火曜日。忘れないように。私はすぐ間違うから気をつけましょう。みんなは大丈夫かな。どうぞ無事にお過ごしください。

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マーロウとか灯台とか。

チロルチョコを二つもらった。気になっていた「よいとまけ」チロルチョコと「フォンダンショコラ」。「よいとまけ」ってハスカップ味なのね。北海道土産の定番なんだって。セブンイレブンではほかにも「よいとまけ」バージョンのお菓子を見つけたけどなんだったかな。マーロウのコーヒーとドレッシングももらった。逗子のお土産。昨年、私が逗子の友人と行ったら満席だった居酒屋へ行ったんだって。偶然。私たちは満席だったから狭いエレベーター前のスペースを挟んですぐお向かいのイタリアンにいてみたらちょうど二人席が空いててそこへ行った。とっても素敵なお店だったのでそれはそれでラッキーだった。居酒屋さんの方も美味しかったとのことなので今度はそっちも行きたい。お店の話を聞いて「それってあそこ?」とわかるくらいの知識は逗子に対してはある。駅前の狭い範囲だけど。あとはいつも車で連れて行ってもらったりしてるから。プリンで有名なマーロウは40周年なのね。はじめていったのは若者のノリがまだあった大学生の頃だった。誰かが三崎にマグロを食べにいこう、と言い出して車を出せる人が出して、城ヶ島でウツボに騒いで、くろば亭で店の前のイカの泳ぎ方に興奮して、駐車に苦労しながら葉山のマーロウへ行って想像よりずっと大きくて高いプリンを買って車の中だかどっかで食べたりした。その後も何度かマーロウのプリンはもらっていてビーカーの形状も変わったりして、我が家は菜箸立てたりするのに使ってる。この前、ちょうど一つ、落として割ってしまったところ。あれは一体何年前のビーカーだろう。三崎のくろば亭も当時から人気店だったのかわからないけどその後別の街でも見るようになったし王道をドライブしたわけね、若かった私たち。みんな元気かな。まだ会っている友人もいるし、何をしているかは大体わかる範囲の人たちだから会おうと思えば会えるけど。城ヶ島は小学校の修学旅行で行って大好きになった。あの地形には大感動だった。灯台は大人になってから行っただけかなあ。小学生のときも行ったのかなあ。全国を旅してると灯台にもいっぱいいくことになるのだけどどこも素敵だよねえ、灯台。昨年夏に巡った下北半島の尻屋埼灯台は灯台自体も景色も素晴らしかった。寒立馬のことを書いた時にも書いたと思うけど。近場だと観音崎灯台がいいかなあ。見学ができるからというのもあるかな。地震があった石川県珠洲市の禄剛埼灯台も行ってみたい場所なんだけどどういう状態なんだろう。船の運航とかに影響出てるのかな。後で調べてみよう。地震のその後のニュースも見たり読んだりしているけど時間が経てばまた別の困難が現れる様子で胸が痛む。どうかますます手厚い援助がありますように。今日も一日どうぞご無事で。

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のんびり、メンバー募集

布団のヌクヌクが素晴らしすぎて全然出られなかった。良いベッドって本当に素晴らしい、買ってよかった、とかすごく昔の買い物に急に感謝したりした。ソファとかで適当に寝てしまったときとは眠りが全然違う。ここに越してきたとき、ベッドと本棚はベランダから吊るして入れてもらったんだったな。本棚は自分のは割とシンプルに大きいだけだったんだけどどうしても使ってほしいという立派な本棚を譲り受けてそれが重厚で大変だった。今思えばそれをリビングに置けばよかった。書斎にしている狭い部屋に本棚は全部押し込んじゃったから大変だったんだな。すいません。もう書斎はいっぱいだから各部屋にラック本棚も作ったけどそれでも本は増え続ける一方だからねえ。うむ。幸せなことだわね。今日はのんびりのんびり。朝のお菓子はFLOのラムレーズンサンド。かなり甘いけどペロリ。そうだ。午後の勉強会にお菓子持って行こう。臨床はひとりでやり続けるものではなくて同じ専門家の目を時折いれていく必要があるからみんないろんな形で同業者と勉強を続けている。自分がしていることを正直に見てもらうってそれなりに傷ついたりもするからやっていない人も多いし防衛的にならざるをえない部分も実際たくさんあるけどそういう自分を照らし返してもらうためにも必要。「私は私」でできるものではない、臨床は。他人の人生に関わっているわけだから。今日のグループは臨床経験豊富で裏表のない楽しい人たちと。どういうグループも役に立つけど日曜にわざわざ入れる予定は余計なこと考えないでやれるものにしたい。そうだ、来年度、第2日曜の事例検討グループに1名空きがあるので臨床をしている方はご検討ください。初回面接をほぼ逐語で検討してしますが、初回面接にいたるまでに初回面接における二人の関係を規定するあれこれが動いていることも実感します。それは自分ってどうしてもいつもこうなんだろう、という反省モードを引き起こしますが個人の反省は自分が治療を体験するなりなんなりで大切に扱う必要があるでしょう。グループではなにがどうなってこうなったかという仮説を立てていきます。このグループは私がやっているので理論的基盤は精神分析ですが、不安、抵抗、防衛、そして転移、という概念はどの治療にも役立つものですし専門用語は必要な場合以外は使っていません。このグループは発表者の方が「外から言うのは簡単だよね」といいたくなることはいまのところ起きていません。誠実に臨床に取り組もうとしている人は評価目線で他人事のように事例に接する余裕は持っていません。少なくともそうなってしまったらそれは自分の問題である、という認識を持っているものです。グループ力動というのは本当に興味深いもので一対一の関係とは全く異なる豊かさをもたらしてくれます。小グループなのでお一人2、3回発表の機会があります。とてもいい助け合いの場になっていますし、発表の仕方について考えを深めることもできると思います。ぜひお申し込みください。

もう一つのほぼ更新されない(だから多分誰も認知していない)そっちがメインだったはずのブログに募集のご案内を書いてしまったのでそれを貼っておきます。フロイト読書会もとっても面白いし他の読書会が難しくてあまりついていけないという方にも結構面白いじゃんと思えるようなグループになっています。合わせてご検討ください。

東京はいいお天気。各地で梅まつりが始まっています。いろんな種類の梅がかわいくて私も色々いきたい!甘酒とかビールとか飲みたい。大抵は各地の商店街がお店出しているので楽しいです。地元だとクリニーング屋さんが焼きそば券をくれたりします。寒いけど春です。どうぞ良い休日をお過ごしください。

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「自我とエス」から100年

The International Journal of Psychoanalysis, Volume 104, Issue 6 (Decmber 2023)が届いたのでパラパラした。

2023年はフロイトの『自我とエス』出版から100年ということでEducation SectionはHoward B. LevineのOn looking into The Ego and the Id 100 years afterから始まる数編の論文だった。昨年出版されたFred Busch, Natacha Delgado編のThe Ego and the Id 100 Years Laterと合わせてチェックしておきたい。どちらも様々な国や学派の人が書いている様子。フレッド・ブッシュは自分の編著にもジャーナルにも書いている。精神分析を体験すると歴史の重みを知りそこに触れざるをえない静かな衝動に突き動かされるようになるが精神分析家になるというのは個人の歴史を超え、精神分析そのものの歴史を遡らざるをえない状態になることなんだ、という実感を強めている。隙間時間に細々と資料を読んだり周りとテキストでやりとりしながら現在に至るまでの様々な出来事に思いを馳せる。日本でいえば私は後期の土居健郎、小此木啓吾をリアルに知っている世代だ。土居健郎は直接指導は受けていないが小此木啓吾には慶應心理臨床セミナーで講義を受けていた。ゴシップ的な話も多いこの界隈とは離れ、精神分析家小此木啓吾という視点から彼の思索を眺めるとその引き出しの多さと中身の豊富さに驚愕する。そして小此木先生は日本語がうまい。美しいというよりかっこいい。私はドイツ語版Das Ich und das Es、英語版The ego and the Idと比べると『自我とエス』という題名はセンスがないと感じている。小此木先生だったらエスを日本語にするとしたらどう訳していただろうか。そうやって参照したくなる。2003年に亡くなったので昨年で20年が過ぎたのか。早い。『自我とエス』出版80年後。土居健郎が語られることは多いが小此木啓吾を語るとしたら、という空想をする。私をご指導くださった先生方はもう高齢だったり亡くなっていたりする。語りえないこと、語れないことを語ってほしいとは思わないがどうか先生方が内に、外に、体験した精神分析の歴史を学ばせてください、と以前よりずっと強く思っている。

はあ。やるべきことを思い浮かべたらため息が出てしまった。やるしかないが。ああ、やるしかないが・・・。みんながんばりましょう(巻き込んでる気分)。どうぞ良い一日をお過ごしくださいね。

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チグハグとかゴチャとか。

昭和初期からやっている老舗の商品だけを引き継いで営んでいるカフェに連れていってもらった。想像していた外観と全く違った。白を基調とした洋風のお部屋で和のものをいただくという感じ。これが友人の家とかだったらそんなチグハグな感じを受けないと思うのだが店だとなんだかチグハグしていて面白かった。家はもっと雑多に色々あるものね。チグハグするほどひとつひとつが際立たないのが生活っぽさというのかもね。ごちゃっとせざるをえない。今だって目も動かさず視界に入るものだけみてもごちゃっとしてる。名刺とかお香とか取り替えたばかりの電池とかユースキンとか髪ゴムとか。所ジョージのガレージみたいなところはごちゃっとしているけど統一感がある。ああいうゴチャもある。チグハグは会話にも使う。ゴチャやグチャはあまり使わないでしょう。臨床の言語には使うけど。私がここに書く文章はチグハグもゴチャもあると思う。グチャはあまりないかな。とか書いているけど「ゴチャ」はさっき私が自分で使った言葉でチグハグと同じ水準で使う言葉ではないな。「ごちゃごちゃしてる」とかいうならともかくね。こういうズレ感はいっぱいありますよね。面白い。「ズレ感」って比較的新しい用語?というかさっき「昭和初期」って書いたときも思ったけど私の「比較的新しい」は平成初期だったりする場合もあるからな。私にとって「昭和初期」もそれなりに昔だけど、自分も昭和を10年以上過ごしていて明治、大正に生まれた人とも出会ったりしてきたわけで、平成とか令和の新しさの方が際立ってしまうのよね、自分の中で。それにしてもこうやって指が動くままに書いていると言葉を意識が後から追う感じになってその変さに気づきはするのだけど、いや気づかない時もあるけど、まあいいかとなるね。精神分析では週4、5回、分析家のそばに横になって(横に横になってと書くと変な感じかも)自由連想をするわけだけどこれはね、とても難しいよ。「自由ってなんて不自由!」と実感するのが自由連想だから。でも「そう感じたらそういえばいいんだよね」ということをそういうインパクトから学ぶのも自由連想。何年もかけてようやく力の抜けた感じが出てくるのだけど性格はあまり変わらないかもしれないけど力抜けていると色々楽にはなりますよね。週一、対面の心理療法でもそういうことは起きて身体化もなくなったりするけど精神分析の場合はなんか言語の構造が変わる感じがある。途中、身体化が激しくなったりだいぶおかしな状態になることもあるけど。私はなったし結構みんななると思う。外身はなんとか保っていても内側は嵐、しかしそれは精神分析家との間で生じつつそこにおさめられる、密な設定はそのためだからなんとかなるという感じ。なんとかならない局面を作るのも人との関わりだけどそれをなんとなするのも人との関わりだから分散と凝集は両方大切。なんだってどっちかってことはないからいろんな人がいろんなことをしているわけでどっちかに強く向かうとしたらそれはそれなりのリスクがあるのかもしれないね。時間と偶然性に多くを委ねる精神分析はハイリスクなのかな。でも生活するってほとんどそういうことだからむしろ生活療法では、とも思う。世界に目を向けると精神分析もあまりにそれぞれで驚くけどそれのどれを大きな流れにしていくかというのは政治的な話でもあるから色々難しい。いろいろ難しいけど今週も無事に金曜日まできた。無事ではないが今こうしていられる範囲では無事。みなさんもどうぞご無事で。お元気で。

そうだ。この前、メモ的に書いていたフロストの詩とそれを読むオグデンのことをほとんど更新されていないメインのブログに書いた。結局メモのままだけど載せてしまった。

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当時

少し時間ができたので少し歩くところで待ち合わせをした。時間がなくなって通ることもなくなったその道は昔自転車で家庭教師に通っていた道だった。中学のときから不登校になり家の状況もなかなか複雑で当時、その子と定期的に会えるのは私だけだった。当時はまだポケモンが100をちょっと超えたくらいしかいなかった。その子のおかげで私はポケモンに相当詳しかった。いろんなことはもう忘れてしまったがその子は不登校を経験した子が多く通うという高校へ進学した。学校へ行けるようになり私との関係も終わった。そう思ったある日、その子の祖母から電話がかかってきた。当時はまだ電話が主な連絡手段だった。ものすごく慌てた様子だった。その子がいなくなったという。私は祖母に状況を確かめつつその子がひとりでいなくなるということがあるだろうか、いや、誰かと一緒にいなくなるようになったのだろうか、など考えたりした。しかしよく考えればその時間はそれほど慌てなくても大丈夫な時間でもあった。

数時間して母親から電話がかかってきた。無事だったという。はじめて母の声を聞いた。それまでのお礼を言われた。とてもいい子だった。あまり言葉のやりとりはしなかったけど私たちは小さく、よく笑った。静かに淡々と過ごしてもふと愉快な出来事が生じたりするのだから一緒にいるというのは面白い。なぜか二人で体験した修羅場もあった。時折祖母に誘われるままに台所で一緒にごはんをいただいた。祖母の時代の風習に驚きつつ、家庭の文化の継承についてとても興味深く思ったのを覚えている。

私も母にお礼を言った。おばあちゃんにも本当にお世話になったことを伝え、くれぐれもよろしくと伝えた。その電話以降、やりとりはあっただろうか。なかった気がする。お元気だろうか。もうすっかり大人の年齢になったに違いないその子は当時すでに私よりずっと背が高かった。ご家族みんな元気でいてほしい。いろんなことを教えてくれてありがとう。

今日もいろんな心と出会う。わかるわからないのお話ではないところで静かに昨日やこの1週間の話を聞いたりする。話はいつのまにか状況から離れていつもの心の話になるだろう。プロセスが全て。精神分析においては。生活と同じ。

東京は今日は晴れらしい。どの地域の方もどうかお元気で。良い1日でありますように。

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雪のあと。

隣の家の雨戸が開く音。今日はお互い遅いですね。私は資料作りに時間がかかってしまった。二度寝してしまったし。何度寝でもしたい。東京の雪はあっという間に溶けた。昨日の朝は雪かきも少ししたが夜帰る頃には隅に追いやられて盛り上げっている雪以外はほとんど消えていた。朝と日中はいろんな雪だるまを見た。小さな子が球体を作って持ち上げようとしても持ち上がらない。「重たい」「重たいね」とお母さんと言い合っている。お母さんは赤ちゃんを抱っこしてその様子を見守っている。その子もなんどもがんばるがどうしても持ちあがらない。「重たいね」と私も呟きながら通り過ぎる。ちょうど横を通るとき、その子が「えいっ、えいっ」と小さな足で自分で丸めた球を踏み始めた。イライラしている様子はないが悔しかったのかもしれない。自分で作ってそれが使えなければ壊す。なんかすごく大切なプロセスのような気がした。小さな足では壊すのも容易ではないようにみえたが。今度雪が降る頃にはこのくらいの重さなら持ち上げられるかなというプロセスが働くだろうか、それよりもこのくらいの球なら軽々持ち上げられるようになる方が早いかもしれない。子供の成長は早い。

雪を見ながらロバート・フロストの詩を思い出し、フロストを愛する精神分析家のオグデンのことと一緒にちょっと書いていたのだが別のところにメモ的に書いていたので暇があったらまとめたい。ちょっと、かなり余裕がない。もう行かねば。

どうぞみなさんもよい1日を。寒さにもお気をつけてお過ごしくださいね。

(メモ的に書いてるのはこんな感じ)

昨晩、雪を眺めながらロバート・フロストの詩を思い出した。ひとつStopping by woods on a snowy evening,もうひとつはDust of snow.

サンフランシスコの精神分析家であるトーマス・オグデンはフロストを好んで引用し、その解釈を行ってきた。彼にとって詩を読むことと分析実践において患者の話をきくことはほぼ同じである。彼は近著”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

8章 Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson.でもロバート・フロストの最も有名な詩を取り上げている。Stopping by Woods on a Snowy Eveningがそれである。

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雪が降った。

グループLINEに時間差で雪の写真があがる。東京の同業者たちの帰り道だ。みんな似たような時間まで仕事をしている。関西は雨だったという。同じ東京でもいろんな道があるものだ。向かい風に傘を傾け、前傾姿勢で駅へ向かう人、タクシーから降りようとする人が先に外に出した傘先、ポケットに手を入れ足元を確かめるように見る人、そしてそれを見るその人の隣の人、誰もいない住宅街、電燈が雪と同じ色をしている。青い電車が通り過ぎるホーム。平面をいろんな色の平行線が横切る素敵なデザイン画になっていた。私は足跡はあるが人気のないまっすぐな道を歩きながら写真を撮った。その写真に友人がthe vanishing pointという言葉を使ってコメントをくれた。消失点のことだ。街道と高速道路がまっすぐに走るこの道は平行線がいくつも並びそのずっと先でそれらは交わってみえる。交わることなんかないのに。北海道の人はこんな雪に傘なんかささないと聞いた。私も隙間時間に傘をもたず非常口に出てみた。あっという間に服に白い点々ができた。東京の雪はべちゃっとしている気がする。部屋の中からはもっと粉雪みたいに見えたのに。家の最寄駅もはじめてきた街みたいになっていた。まだ残るクリスマスのイルミネーションが再び存在感を増していたが、ポツンとした様子に見えた。皆が傘を開きその横を無言で通り過ぎる。立ち止まって写真を撮ろうとすると前にいた人が先に立ち止まった。その人の邪魔にならない場所からシャッターを切る。携帯で撮るとシャッターを切るという感じは薄い。傘が邪魔だが手ブレしないようにちょっと耐える。ピコン♪いい写真が撮れた。いつもの散歩道も歩いてみた。とてもとても素敵な景色で小さく声があがった、私の中で。小人さんたちが喜んでいたみたい。雪が嬉しくて小さなふわふわの手袋とふわふわの帽子でいくつも雪だるまを作っていたあの子は中学生になった。「まだ雪嬉しいのかな」というと「嬉しいみたいよ」と雪だるまマークと共に母親から返事が来た。「みたい」がその子が大きくなった証。わからない部分、わかろうとしなくても大丈夫な部分、そもそも触れえない部分、そういう場所を大切にされてきた子も自分で必死に守ってきた子もどうか良い一日を。

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雪の予報の日の朝

今日は雪が降るそう。雪に弱い地域(東京)に住んでいると警報と言われてもあまり対処方法がないけどとりあえず手をポケットに入れないでいいように厚手の手袋をする。普段全く使わないですんでいるのは幸運だが痛んでいるのではないかと懸念されるスノーブーツを履く。使わないと痛むでしょ、靴。あれ、結構ショック。スノーブーツとかはいいの買ってしまってるし。能登地震で家族を亡くしたという方の話を読んだりした。話してくれるだろうかと現地に入り、なぜ話してくれるのかと思う。矛盾する心の聞き手に対して「彼ならそれを望むだろう」と言いながら語り出す人など。地震から1ヶ月、ただただ呆然とするような状況を生き残り遺品に触れる。少し前までただ静かにそこにしまわれていたものが剥き出しになり遺されたモノとなる。「これはあのときの」と一緒にいられたら一生口にしなかったかもしれないモノとの思い出が想起される。語れば涙が出てしまう。語れば気持ちが動いてしまう。聞き手が躊躇するのは被災地へ入り自分自身も心揺さぶられる中、語らせてしまうことで生じる心の揺れをどこかで予測するからではないか。多かれ少なかれ人はそういう経験をしているだろうから。うとうとしてしまった。資料に目を通しておかないと。どうぞご無事で。

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立春

立春。昨晩、お菓子を食べ過ぎた。今朝も我が家のお菓子たちの前にしばし佇んでみたがさすがに手に取る気が起きなかった。そんな日もあるのか。とかいってこう書いている途中に「やっぱり」とか思って取りにいきそう。東風解凍、はるかぜこおりをとく。ほんとかな。たしかに昨晩、遊歩道の梅が満開になっているのに気づいた。そこにこの色の梅あったんだ。雪国に春がいち早く届きますように。

NHK俳句、そうか、もう選者が変わる時期か。いつもなにかやりながら流し見してるけどなるほどねえ、と勉強になる。俳句も学問だねえ。だからいい句ができないのか・・・。勉強は嫌いではないのだけどなんせ地頭の限界が来るのが早い。集中力の限界はもっと早い。アプリとか使っていると自分の特徴がよくわかる。この前、携帯に入れたアプリを人に試してもらいながら私の場合こうなる、というのを説明した。笑われた。なんでそうなっちゃうの、という感じだよね。理解されにくいことをしてしまうことを笑われたり不思議に思われたりしてきたけどおおむね受け入れられてはきた。よかった。でもこの歳になるとそのなんとも衝動的で不器用なやり方を私なりに制御する、あるいは利用するやり方も身についてきたよ(と以前迷惑や心配をかけた人にご報告したい気持ち)。その時々で落ち込んだりもするけど引きずることはない。身の丈を知るって楽になるってこと。昨日の英語でのミーティングはみんな違う国で暮らしていて英語が母国語ではない人たちの方が多かったのでチューニングに苦労した。どれも新しい情報として入ってくるから処理に時間がかかり思わず喋れない英語を口に出してしまうということはなかった。喋り出したらよくわからないことを言い出してしまったというのはあったけど。英語話すのがとても不安と言っていた私よりずっと達者な候補生の方も安心したことでしょう、きっと。モデレーターの方はおいおい大丈夫かよ、と思ったかもしれないけど。でも、精神分析は母国語で実践しているわけだから英語できないとかは全然気にしないで大丈夫、そういう人たちでやりとりするから面白いんだから、みたいなことを言っててにっこりになった。多分そう言ってた。私が無駄にポジティブなだけではないと思う。

昨晩も最悪な姿勢で寝てしまったので痺れがまずかった。寒かったけどきちんとする余裕がなかった。身体の外側も内側も動けなくなるのは避けたいから気をつけないと。2月、3月は特にダメ。締め切りがあるでしょ、確定申告とか。ああ深刻。。。みんなみんな健やかでいられますように。外で鳴いているのはどなたかしら。ジョウビタキに会いたいな。またね。

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bandwidthがないとか。

昨晩は「不適切にもほどがある」をみてようやく一日が終わったという感じだった。移動はあるが隙間がないという一日だった。いつもなら移動時間も隙間時間として使えるのだがいつもと違う仕事をすると切り替えがうまくいかず細々ながら毎日続けていた英語の勉強も途切れそうになった。アプリが「連続記録が危ないです!」みたいなことを教えてくれるのだがこれ多分日にちじゃなくて24時間計算になっていて何時になると1日が経ってしまったことになるのかわかっていない私は毎日危ない危ない言われてるのに切迫感をもてない。ただ「危ない」と言われたから「おお、急がねば」と思ってやるという感じ。そのアプリで「余力がない」という表現を学ぶ4分動画があったから見てみた。bandwidthという単語を学ぶ回だった。周波数の範囲を示す言葉で帯域幅と訳すと知った。「帯域幅」という単語は見たことあるけど使ったことはなかったと思う。bandwidthはそこから派生して「余裕」という意味も持つとのこと。I don’t have the bandwidth for〜みたいに使う。常に余裕がないので学んでおこうと思って身始めたのだがこのbandwidthの発音が難しい!最初はAIがこの単語だけ拾ってくれなくて「まぁいいか、きっと使わないし」とやややさぐれていた(やが多いな)。が、ああ、thだけじゃなくてaもか、というかバンドとワイドかと気づいたらAIにも通じる発音ができた。我ながら気づくのおそっ、とびっくりしたが気をつけるポイントが二つあるとわかったら修正できた。最初はthがここの位置にくると発音難しいな、と思っていたのだがaの発音が間違っていたのかもしれない。単語の組み合わせとして理解するとうまく発音できてしまうのも不思議なところ。使いこなせない単語を学んでいる場合ではないのだがこういう余裕ならあるってことだな。今日も大変だ。頑張ろう。

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言葉とか時間とか。

人の心身を雑に扱い言葉と時間を奪った人がやたら饒舌に忙しさを強調しながら好き勝手な時間を生きていられることの理不尽は常識らしい。そういう人ほど言葉で稼いでいたりする。メディアにいる人は自分のコントロール力をどう考えるだろう。差別も排除もしない側でいるつもりらしいが自分がやってきたことは棚上げし、この世界ではこんなことよくあることと心の中で呟きつつ「すいません!」でなかったことにできると思っている人もいるが。そういうのを「なんでも勉強」とか「いい経験」とか「今となっては言ってくれたことに感謝」とか嘘を言わず、雑に扱われた体験をそのまま言い続ける人が出てきてよかった。それはそれで時間は奪われるが言葉の力を取り戻せる可能性はある。それでも「あの人は別枠」とか思うまでもなく、自分には優しくて面白いからファン!と無知や否認で支えたい人のほうが多かったりするのでおそらく世界は大きくは変わらない。人を雑に扱う相手ほど変わることは望めないし(人から学べないからそうなるしそういうことは本にも書いてないので)、そもそも相手を変えることなどできないという当たり前の意識も持たず自分に合わせないおまえのせいでこうなってるくらいな感じで嘘と腕力を行使する人とは距離をとった方がいい。自分の言葉と時間を取り返すためにはまずはそこから。近くにいれば見えないから見たくない人はずっとそばにいようとしがちでしょ。傷つけられれば傷つけられるほど離れるのは難しくなる。どうか自分の感覚を失う前に普通の思いやりを持つ人と出会えますように。

さて、今日はつくばのお菓子を半分と奄美大島のかりんとうを少し。甘味といえば黒糖。黒糖といえばかりんとう。美味しかった。生姜紅茶と。生姜はすりおろして入れるのが一番温まるけどパウダーでも効く気がする。生姜の味が好きだから単に気持ちが温まるだけかもしれないけどそれはそれで効果だよね。移動が多い1日だけどブーツでいこう。冬用のスニーカーも持ってるけどちょっと生地が硬くて痛いんだよなあ。それであまり履かないから伸びないというのもあるのだろうね。昔、塾講師のバイトしていたときに生徒と駄洒落を言い合ってて「箱根には履き慣れた靴をはこーね」と言っていた子がいた。あの子ももうとっくに「子」ではないというか、私と10歳くらいしか変わらなかったのでは。元気でいてね。駄洒落楽しもうね。皆さんもどうかお元気で。ご無事でお過ごしください。

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ナボナとか。

最近、朝は亀屋万年堂のナボナを半分。詰め合わせをもらったの。久しぶりに食べた気がする。定番中の定番お菓子ですよね。前に自由が丘に自閉症の子の家庭教師をしに通っていたことがあってそのときに店の前をよく通った。あの店舗で買ったことはあったかな。その子の家に行くまでのスーパーでお菓子を眺めてはちょこちょこ買いぐいしてたけど。なにかとよく行ったなあ、自由が丘。最近は美術館へ行ったくらいかな。あとは乗り換え。彼ももうすっかり大人なんだなあ。お母さんもお元気かしら。楽しかった。元気で暮らしておられますように。

最近なにかと「話し合いましょう」「炙りシメサバ」「それが組織」と歌っている。ムッチ先輩が素敵。明日だね、「不適切にもほどがある」。歌いながら炙りシメサバって英語でなんていうの、シメサバって外国でどのくらい食べられてるの、とか言いながら。話し合いと殴り合いが同列なのも面白い歌詞。確かにねえ、じゃないか。

もう2月。週末の英語でのミーティングにビビっていたのは2週間前。がーん。2週間でどうにかなるはずはないが早すぎる。英語で読むことはDeepLに助けられつつ日常的にやってるけど話すのは全く別。AIとやってみたけど本当に簡単なこともスムーズに出てこなくてびびる。サボっていたオンライン英会話をまたサボってるけどやりましょう。気づいたのだけどAIと話すのも叱られたような気分になったり落ち込んだりするもんだね、結構。オンライン英会話の先生に厳しい評価されても楽しくおしゃべりできちゃったらそれはそれでよしとなるし。よしっ、じゃねーよ、と思われているかもしれないけど人間と話すというのは奥深いねえ。AIが登場してから「人間」という単語を使うときに「AIではなくて」というのを頭の中でカッコ付きにしている。「AI」と「人間」ってそういう関係でいいのかしら。そういう対比もしうるということかな。「話し合い」と「殴り合い」みたいな、ってことはないか。

うーん、持ち帰ってきた荷物を今日もそのまま持っていくのだなあ。そんな日々ってどうなのかしら。大変よ、2月。がんばれたらよいが・・・。あ、明日印鑑忘れないこと。明日のことは今ではなくて明日思い出させてほしいのに。でももうリュックに入れてある気がする。今夜に限ってリュックから出してしまったり、リュック変えてしまったりしないこと。もう、自分の管理が一番難しい気がする。ひとのことを言うのは簡単なのにね。ゆったりやりましょう。寒い地域の方もどうぞお元気。ご無事でお過ごしください。

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1月31日(水)朝

寒い。暖房のあごは?外れてる。がばーって温風を出してくれている。がんばれー。紅茶あつっ。いつもこれで火傷する。火傷といえばいつかの元日に三重県伊勢の二見興玉神社に初詣に行った。その途中かどこかで振る舞われたとても熱い甘酒を喉に流し込んでしまった。すっごくチビチビ飲むつもりが手元が狂った。多分カップが熱すぎたのだろう。あの時は大袈裟ではなく生命の危機を感じた。火傷というのは本当に怖いものだ、ということを火傷を中心にみる科の病棟に勤めていた看護師さんから何度も聞いていた。口の中も喉も爛れた。どうやって回復したのか覚えていない。ただ強烈な体験だったのは覚えており、この前も女ばかりで話していたときにその話をした。なんの話の流れだったか。「構造式まで書いてある」という言葉が出たのを覚えている。彼女たちは化粧品の話をしていた。すでに医療現場にいる私たちとこれから医療の道へ進む若者とでいろんな話をした。彼らは化粧品にすごく詳しかった。今は消したり上げたりする技術があるとはいえそれにお金かけるなら予防をがんばりたいと若者が話していた。成分を吟味してしっかりスキンケアをしているそうだ。皮膚科でドクターズコスメを扱っている看護師に化粧品をプレゼントされその成分をみながら大喜びしていた。なになにが入っているとなになにが入っているのと違ってどうこう、と大変わかりやすい説明をしてくれたが「なになに」が耳慣れずひたすら感心するのみだった。趣味で化粧品検定1級もとったという。実際ノーメイクの肌はツヤツヤピカピカでびっくりした。思春期にニキビに悩まされた話はみんな持っていて当時からこんなに詳しければと悔やんでいた。彼女は結構いろんなことを悔やんでいたな、そういえば。大雑把に「高校生なんてそういうもんだよ」とか話しながらと書いていたらうとうとしてしまった。ほんと5分くらいだ。今朝はこの前会ったばかりの友人たちとお別れする夢を見た。単にしばらく会えないという話で夢のようだったのに。結構別れを惜しんだ気がする。起きだけ起きて昨晩何も進まなかった資料作りを今のいうちにせねば。しかしん眠い・・。どうぞよい水曜日を。お過ごしください。

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奄美の本屋さんとか。

昨晩、机の上に辻村深月を見つけた。鹿児島県奄美市名瀬入舟町の本屋、棚田書店で買ってきた本だ。入舟町という名からわかるように漁港が近い。宿泊したのもその近辺だったがそこに海があることを忘れるほど磯の香りがしない。自然の循環がうまくいっていて腐敗臭が生じないからだときいた。棚田書店は同じく近所にある本屋、あまみ庵とは全く雰囲気の異なるこざっぱりしたいわゆる街の本屋だ。小さな店内に過不足なく並べられた本たちは生活と観光が自然につながっている様子で好ましかった。棚田書店に寄る前に長居したあまみ庵のインパクトが強かったが棚田書店にもたくさんの奄美に関する本があった。このスペースにこれだけの本を揃えているのか、と見れば見るほど充実していた。おそらく近所に住んでいる父子が必要なものをサクッと買って帰っていくのを見送ったりしながらそこそこ長居した。そんな高くない本棚の向こうには大きな倉庫に繋がるドアが(扉があったかなかったか)開かれていて広いスペースに段ボールがたくさん積まれていた。教科書なども売っているとのこと。お口は小さいのに中が大きい、とおばあちゃんに言われていたという人のことを思い出した。そのとき買おうと思っていた本があって探したのだがそれはなかった。なんの本だったか。特に奄美で買う必要はなかったと思うが本屋に長居できる時間は貴重だ。なんの本だったか、やはり思い出せない。その代わりというわけではないが辻村深月の本を買った。瀬戸内海の島に暮らす子どもたちと大人たちの物語だが島つながりなのだろう。島にまつわる本が多く目に入った。辻村深月は子どもの心を描写するのが本当にうまい。特に女の子の。しおりが挟んであるところまで読んだ。ひとりひとりの心を知ればそんなに大雑把に人をモノのように消費することなどできないはずだがそう思わされる出来事が多い。辛いときほど時間をかけて静かにしていようと思う。どうか今日もご無事で。よい一日でありますように。

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幸福な時間とか。

胃腸が疲れている気がする。お菓子を食べる気がしない。昨日美味しいものを食べすぎた。もたれたりとかそういうのではなく単に使いすぎた感じというのが嬉しい。みんなその小さなイタリアンをとても気に入った。食材も珍しく本場ローマの食べ方を再現したお料理は見た目もお味も素晴らしかった。美味しいお店のシェフがおすすめしてくれたと友人が教えてくれたご夫婦でされている小さなイタリアン。私が6月に資格を取れたらそこで貸切パーティをしようという話になった。嬉しい。イタリアの特産物や食事情に合わせて店を閉める時期もあるそうで今年はそれが6、7月になりそうとのこと。6月末にパーティをしたかったけど夏になるかな。無事に取れますように。

お菓子を食べる気になった。食べる気にならない→食べる気になった、までの間が短かっ。岩手のお土産「かもめの玉子」。みかん味があるのね。知らなかった。このお菓子はやっぱりかわいいし美味しいねえ。さっきまで感じなかったひんやり感を感じて熱いお茶を飲んだ。昨晩、おなかいっぱいになったあともみんなでいろんな話をしていたら急にひんやり感を感じてそろそろ帰ろうかとなった。とてもたくさん話した。大切な話、嬉しい話、日本と世界の話、たくさんたくさん。満席だった店内はいつのまにか赤ちゃんのいるグループだけになっていた。お店の人と貸切計画について話しながら赤ちゃんと目があった。ニコッとするとニコッとしてくれた。周りがそれに気づいて大人たちともニコニコしあった。「みんなのアイドル」と言われていたその子はかなり小さいのに色々わかるようでお名前を呼ばれると小さな手をパッとあげて「わかるんだよねー」と言われていた。大人の「バイバイ」という声に合わせて私に小さな手を振ってくれた。あら、わかるのー、と私も思った。バイバイと手を振り返した。幸福な時間だった。

クドカン「不適切にも程がある」もみた。クドカンドラマリピート率の高い私は今回も満足。まさか歌い出すとは。そしてツッパリはかわいい。

外は光がいっぱいだけど能登はまだまだ過酷な避難状況が続いている。東日本大震災の教訓が生かされていないことに憤りを感じる、と支援のプロたちが話していた。本当にどうして生かされないのだろう、と思いつつ自分の学びのなさに胸が痛む。あれだけの被害が出てもシステム構築の機会にならないとしたら私たちは一体何からなら学べるのか。人の心だけでなく行動に突き動かすものはなんなのだろう、ということを最近ずっと考えている。どうか暖かく柔らかな居場所が確保されますように。どうぞご無事でお過ごしください。

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言葉とか。

長風呂した。NHK俳句で伊集院さんの言葉になんか涙ぐんでしまった。言葉にこだわるのは面白いよね。前にケースカンファレンスに英語で症例を出したときにこの日本語はどの英語がしっくりくるかわからなくてそういってみたらその場でみんながあれこれ考えてくれてとても面白かった。普段から英語で喋ってるのはオーストラリアとインドの人でモデレーターの韓国、台湾の人たちも英語ペラペラだけど英語は第二外国語。参加者もみんなそう。その中で英語でしっくりくる言葉を探す作業はそのプロセスがとても面白かった。まだ言葉が拙い小さい子たちと話しているときと似た感覚。治療場面でもそうか。お互い何いってるかわからない瞬間っていっぱい訪れてるのよね、本当は。いちいちわかろうとすることよりもそのままきいてる。Netflixで “Love on the Spectrum.”という番組を見つけた。そこで使われていたりいなかったりする言葉の世界も本当に胸を打つものがある。

It’s a documentary series about young adults on the autism spectrum navigating dating an relationship.

と説明すればいいのかな、と友人に送ってみた。悪くないか。コミュニケーションのための言葉というのはひとりのものではないから一人と二人の間を探索することが大切になるのだと思う。ウィニコットが強調した中間領域は絶対に残しておく必要がある触れられない場所のことも示していると思うし、フロイトがいった陰性治療反応は精神分析ではどうしても起きてしまうけど起きてしまうからといって防ぎようのない世界への手がかかりをくれたと思う。昨晩は私がやっているReading Freudの会だった。精神分析を体験しなくてもそれに魅力を感じ、その理論を使用することに慎重なメンバーのみなさんは自分が当事者であることを忘れない。常に自分も「そっち」であるという意識は臨床をしていれば誰もが持ちそうなものだがそうでもない。言葉で非対称を語るのはたやすいがどんな非対称か。権威という言葉をたやすく使うことで誤魔化されているものに目を向けた方がいいかもね、などなど。やることが多いから頭がそっちに行ってしまって落ち着かないけどそこから逃避してこんなこと書いているわけですね。困った困った、自分。今日もいろんな人と会う。みなさんも良い1日をお過ごしください。

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ちょbit a ちょbit

今朝はつくばのコートダジュールの「くりくりぼうず」。かわいく愉快な黄色い袋の個包装。栗がくりくり坊主を手にしている。食べるんかい。昨晩、友人から送られてきた深夜ラーメンの画像を思い出してフフフとなった。かなりの中年になっても変われない俺ら。俺はラーメン食べないけどお菓子の量でいったら似たようなものだ。夜に色々やらねばでかろうじてやるべきものを積み上げる。だけどいつもそこまで。朝にちょこちょここなすのみ。bit a bit.ちょびっと、ちょびっと。英語の勉強もこんな感じで全然進まない。この前ラーメンの友人が教えてくれた英会話アプリでAIさんがゲームをしようとかいってルールを言ってきたんだけどよくわからなかった。やっているうちにわかるかなと思ってAre you ready?と聞かれてI’m ready.と答えてはじめてみた。決まった文句からはじめて、お互いに経験したことのないことを当てっこするみたいなゲームなんだけどいまだによくわからない。お互いに話したことは画面に文字化される。ゆっくり読めば理解はできるが会話のスピードが早く確認したい画面がどんどん上に消えていってしまう。よくわからないままなんとなくyour turn.とか言われてなんか言ってみる。なんて言えばいいんだっけ、と何かを曖昧な発音で言ったらなんか全然わからない文章が文字化された。たしかに発音上はこう言ったかもしれないがなんだこれは。自分で言ったことが意味のわからない言葉に変換されていた。しかもゲーム相手のAIさんはそれを聞いてhaha(じゃなかったかも)と笑い「うまいこと言ったな。やられた!」みたいなことを英語で言ってきた。これは文字になったからわかったけど肝心の英語を覚えていない。よくわからないが私が不意打ちを喰らわして勝ったらしい。意味わかんねー、と思いつつ形だけイェーイみたいな気分でいたら次の何かへ移っていった。最後は適当にロンドン行ったことある?いいとこだよね、みたいな私にでもできる会話をして終えた。あれはなんだったんだろう。どこどこ行ったことある?という質問はお決まりで楽ちんなのだがAIさんにこれまで行った場所でどこが一番好きか聞かれたからケンブリッジと答えたらやたら細かくそこでやったことや見たものを聞かれもう30年前なので覚えていませんといったら英語を直された。ああ。全てにおいてこんな感じ。bit a bit.ちょびっと・ちょびっと。

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フロイト読書会とか。

連日月がきれい。満月は今夜みたい。オフィスを出る頃には月は遠く空の上の上の方にいる。夕方に薄くて丸い月を見つけられたらラッキー。そこにいましたか、となる。

昨晩は遅い時間からのフロイト読書会だった。新しいメンバーも入ったそろそろ指導的な立場になりつつある中堅たちの週一の集まりにアドバイザーとして月一くらいで参加している。私たち候補生にも週一とかでフロイトを読む会が訓練として義務付けられていればいいのに。セミナーは月一回あるし、いろんな候補生と自主的にいろんな勉強もしているが訓練として位置付けられていないと都合に合わせてスケジュールを組むことになるからなかなか合わない。3人くらいなら合うから3つくらい勉強のグループを作ってるけど月一とか3ヶ月に一回とかになってしまう。私は8時から仕事を始めるから朝1時間でもあったらいいのに、と思う。実際に精神分析を体験しながらフロイトを読んでいる人が体験はしなくても精神分析的にものを考えている人たちにフロイトの理論を伝えていかないとフロイトを読むということはますます難しくなると思う。ラカンを読むのは精神分析を体験していたとしても読みにくいし現代思想の流れで読むことも意義があるような気がするけど、フロイトは精神分析を志す人には必読なわけで、それはラカンとは比べものにならない。しかもゲーテ賞をとるくらいの文章を書く人であり、読み物としてとしてわかりにくいわけでもない。素直に読んでいけば文章としては理解できる、と私はいつも言っているのだが違うのかな。みんな文章自体の理解を何かが邪魔するような読み方をしている時が多い気がする。というかもう何年前だか忘れてしまったが初期のこのグループはフロイトを読むのが本当に苦痛そうだった。内容の理解が難しいというのはもちろんあるが、その理由のひとつに自分が知っている現代の精神分析理論の用語で理解しようとするからというのがあったと思う。私は読書自体がそういうものではないと思うし、私たちが知っているわずかな知識をもとにするのではなくてフロイト本人がその概念なりなんなりができるプロセスをを書いているわけだからそれに素直に沿っていって文章として読みにくいところはチェックしてとりあえず普通にただ読むということを続けていくのが一番シンプルに現代につながってくると思う。フロイトほどの天才はそんなに多くないわけだからまずはきちんと乗っかろう、というようなことを何度も言ってきた気がする。創始者と生涯をかけて語らうように関わり続けて自分の新しい言語を作るラカンほどの人もなかなかいないわけで、多くの場合、自分の狭い世界に巨人のイメージだけを住まわせて必要なときだけでてきてもらうみたいな使い方になりがちなわけだけどまずは実物と出会って手のひらとか肩に乗せてもらおうぜ、と思う。多くの物語が最初はデカくて異質で逃げ出すことしか考えられなかった対象と格闘するうちにヒョイっと肩に担がれてそこから見える景色に大感動する場面を描いているではないか。このグループの初期メンバーは肩に乗ることに成功した人たちだと思う。まずはそこに辿り着くのが大事だよね。フロイトの概念がどのように変遷してきたかを理解しているから議論もふわふわしないし丁寧。すごいことだ。継続は力。昨晩読んだのは『性理論のための三篇』(1905、岩波版フロイト全集6)。この三篇は、倒錯、幼児性欲、思春期におけるその変化の3つに分かれている。フロイトが「対象」というのはモノではなく人なのはたしかだけど社会的なお付き合いの範囲の人ではなくあくまで基盤は欲動の話。しかし3つ目の思春期における男性と女性の分化を語る段階になると錯綜しはじめる。281ページ以降は別の言葉で書き直した方がいいのではないのかと思ったりする。そのためにも何度も何度も咀嚼しないとだけど。精神分析は社会的な人間関係を描写するには向いていないと私は思う。精神分析でしか起きないことを精神分析だから起きることとして記述していく技法論も大事だけど精神分析家もびっくりしてしまうようなことが起きるのが精神分析なんだということを前提とする必要があると思う。予定調和なことは一切起きない。日常生活が本来そうだろうけど。とにかくよく読み終えました。二度目?三度目?また読みましょう。私主催のリーディングフロイトも卒業生が出るからきちんと募集しないと。ああ。やることが多すぎる・・・。がんばろう。能登の地震後のニュースがひどいけど考えさせられることも多い。人間って・・・というのは大抵私って・・・ということでもあるのできれいごと言わないように自分に注意したい。早く暖かくなりますように。

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1月25日(木)朝

今朝は寒い。暖房をつけた。顎が外れたみたいに開いた吹き出し口から風が勢いよく出る音が聞こえはじめる。色々やって戻ってきたらモーター音が弱まるのが聞こえた。ちょうどよく暖まったがPCで作業するために冷えとり靴下を履いた。暖かくなる電気足置きマットも買ったがあまり使っていない。むしろ100円ショップで買った小さな踏み台の方が活躍している。そこに足を置いて距離を地面と距離をとる方が効果的な気がする。台自体が冷たいのでそこからも着る毛布の足元を調整して距離をとるけど今朝はベッドに着る毛布を置いてきてしまったからちょっと冷たい。靴下のおかげでそのうち忘れるだろう。ぼんやりコーヒーを淹れていたら溢れそうになった。慌ててドリップパックを持ち上げると思ったより多くは入っていなかった。今朝も善行のCafe花笑の焼き菓子。今日はベリーティーパウンドケーキ。さっぱりしていて美味しい。「さっぱり」って「して」よりも「していて」とか「した」とかのほうがしっくりくる。状態をしっかり言ってあげたい感じなのかしら。それとも文法上そういうものってこと?あるいは耳慣れているから?

昨日1月24日の俳句日めくりカレンダーの俳句は

寒卵一つ怒涛の前に置く 中村正幸

季語は寒卵。「かんたまご」と読む、と知っていたのになぜかぼんやり「カンランひとつ」とつなげて読んでしまってなんかリズムが、と思って「ああ、寒卵じゃん」となった。最初からそう書いてあるじゃんね。ダメな俺だぜ、と思うと軟式globeの「そうだよアホだよ」が思い浮かんでしまう。なぜかYouTubeで流れてくるからたまにみてうけている。小室ファンだったからか?

さてこの一句がなぜか気になりいつもはしないのに調べてみた。そうしたら同じ作者で

絶海のしづけさにあり寒卵 

が出てきた。雰囲気が似ている。中村正幸は昭和18年愛知県生まれ。平成12年から「深海」を創刊し主宰を務められているとのこと。この二句を見ると「寒卵」がまるで美術作品のように見えてくる。直島の海の前に置かれた草間彌生の「南瓜」みたいな。あれは台風で壊れてしまったけど復元されたらしい。この「寒卵」はハンプティダンプティみたいな脆さもないだろうなあ。すごく逞しい。今みたいな一番寒い季節に産まれた卵。新宿の京王百貨店では物産展「石川・福井 物産と観光展」が始まった。売り上げの一部は被災地に寄付されるという。29日まで。ぜひ行こうと思う。

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カンバーグとか。

寒い、眠い、ウトウトを繰り返しているうちにこんな時間。小さなクッキーを半分食べた。あとでうなぎパイも食べる。お茶はすっかり冷めてしまった。先日、岡野憲一郎先生の「行動化」についての講義でオットー・カンバーグのことを久し振りに聞いた。アメリカの大御所精神分析家でありボーダーラインの治療といえばカンバーグだった。1928年生まれ。まだお元気。岡野先生が講義で話された臨床体験は私も初期に体験してきたものであり当時の臨床は身体的にも相当なエネルギーを使ってとても大変だったが若かった自分には必要なハードさだった。今はエネルギーがなくなった分、病理の理解とか動きのパターンとかが身についているのでコンパクトに動けるようになった。昔は「若い」というだけで頼りなくみられることに複雑な気持ちを感じたこともあったが実際頼りなかったと思う。経験しないとわからないことだけれど臨床は経験するしかないことだから真摯にやっていればそのうち遅ればせながらという形にはなってしまうけど色々わかるようになるよ。日本の心理臨床は幅広過ぎて自分が何をしているかわからなくなってしまいがちだけど経験を積み重ねるというのは自分が何をしているかわかるようになってくるということなので頑張ろう。特定のアプローチに沿ってやっていない人も多いわけだけどそれはそれでそういうアイデンティティとして自覚できるわけだし、まずは現在の自分って何者?今後どうなる予定とかどうなりたいとかある?と問いかけておくことが大事なのかもね。労働環境を変えていくのも自分たちだし。

精神分析家候補生を志す皆さんには

I’d like to introduce you to a book.
Otto F.Kernberg writes a one chaper of this book..
The title of the book is
“ Dear Candidate: Analysts from around the World Offer Personal Reflections on Psychoanalytic Training, Education, and the Profession.”
This book is a good guide to candidates.

なぜ突然英語かって他の人に送ったものコピペだから。英語は使えないと本当にダメだなということで英語でやりとりするグループを作ったの。高いお金かけて国際学会とかいったのに観光だけになったら本当にもったいないし先がそんなに長いわけでもないから精神分析家になって、訓練分析家になってというプロセスをたくさんの人と交流しながら積み上げていけたらいいな。私はそんな感じ。みんなはどうだろう。今日もがんばりましょう。能登だけでも早く春が訪れればいいのに、と思うけどせめて春の気配だけでも感じさせてくれるものがあるといいのに。花粉とかは嫌だけど。難しい。春を待てる気持ちになるような実質的な支援ができるだけ手厚くされますように。どうぞご無事でお過ごしください。