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精神分析

フロイトのしたこととか。

古いエアコンの効き目がよく温度を一度上げて寝た。少し暑いけど暑くて起きるほどではない。でも今朝はさすがに冷たい麦茶を飲んだ。身体が飲んだ方がいいよといっている感じがした。あたたかいハーブティも入れておいた。部屋が冷えたら冷めたのを飲もう。お菓子にはそっちの方が合う、と小さな小さなお花型のずんだサブレを食べてしまいながら思う。

先日、フロイトの鼠男、ラットマンの症例についての論文で強迫神経症に関する精神分析的理解についていくつか質問が出てお答えした。この論文は今なら転移ー逆転移の観点から指摘されるであろうフロイトという治療者の態度に対する批判が何パターンかある。ひとつはフロイトの誘導的、あるいは誘惑的な態度について。これもほんの一文に対してだったりするのだが精神分析における一言一言が出来事の全体を表していくプロセスとなる証拠だろう。昨日、その前の晩の議論を思い出しながら「よく考えればフロイトはそんなひどいことしてないよなあ」と思いながら、フロイトのことも精神分析のことも全く知らない人(つまり大体の人)にこの部分の話を「医者に急にそんなこと言われて」と話したとして、と頭の中で会話してみた。「もっとひどい医者はたくさんいるよ、私なんてさ」というような会話が展開された。が、しかし、フロイトの患者はフロイトを医者であり、精神分析の創始者であると知っていて、今私たち日本の精神分析家に精神分析を受けたいと申し込んでくる人たちよりは精神分析を「そういうものだ」と受け入れやすい人たちだっただろう。そのためラットマンのように迎合的に振る舞う可能性は高いと思う。フロイトはそのあたりには慣れっこでそんな理想化には振り回されないが「何かがおかしい」と思わせるのがここでのフロイトの態度であり、それが精神分析だからであり、それが精神分析である理由なのだろう。ラットマンと呼ばれたランツァーという29歳の男性が最初に見せた迎合的な態度は単に相手がフロイトだからではない。フロイトは抵抗という概念を用いる。なぜなら彼が神経症の病因と考えたのはタブーとしての性、しかも個人の生活における極めて具体的な性的振る舞いだからである。そこにここまで注意を向ける臨床技法はほかにはない。フロイトが神経症の病因を性的なものに求め、愛と憎しみの両価性を強迫神経症の特徴として顕にし、自由連想という技法でそこで生じている欲動の動きの特徴を推論し、それに基づく介入によって症状を消失させた事例としてこの論文は発表されたが、実に多くの論点を含んでおり、フロイトの態度としてではなくそれを受け取る私たちの「翻訳」態度も問題にされるべきだろう。だから先日の議論では私はこの論文でも『夢解釈』の技法が基本にあることを強調した。この前読んだオグデンの論考も無意識と時間という二つの概念からこの翻訳、つまり解釈の問題を考えるときの基盤の見直しとして読んだ。精神分析において治療者も常に当事者になっていること、性を問題にする限りそうなるということ、だから治療者が分析を受けていることは必須であること、そういうことではないだろうか。

しかし眠い。こう書きながら頭の中で全く別の景色や出来事が展開している。半分夢の中みたいな感じだ。10分くらい寝てから出ようかな。やっぱり暑さのせいだろうか。どうぞみなさんもお気をつけてお過ごしください。

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韻とかラットマンとか。

憧れのふとん乾燥機を購入した。Amazonから配達完了メールが写真つきで送られてきた。あれ?そこはうちではない!慌てて連絡。ことなきを得た。早朝、さてさてと取扱説明書を見たら見えない。老眼鏡をかけていても起きたては一番見えないからなと放置。そうか、とネット検索して使い方を確認。理解した。それからさっきの説明書にもう一度目をやる。さっきよりは見える。すでに情報が頭に入ってるから推測で読めてしまうというのもあるのだろう。それにしてもこの説明書、字が小さすぎる。さっきはこんなに目が悪くなってしまったのかと驚いたけど手元の『フロイト症例論集2』(岩崎学術出版社,2017)の文字と比べても半分くらいしかない。ほんとフォントはいくつなの?「ほんと」は単に韻を踏みたかっただけ。これやりだすと止まらない。私は身近になんでもラップにできる名人がいてほんと韻を踏むのがうまい。私みたいに韻さえ踏んでればいいという感じではなくきちんと意味を持たせてくるからすごいなと思う。きっと何するときもリズムで覚えてしまうのでしょうね。楽器も弾けるし。私はセンスも記憶力もないからな。語彙が増えない!それなんだっけ、とすぐになってしまう。韻を踏みたくなる性質とは異なる性質を身に付けるべきだった。

昨晩は私主催じゃないフロイト読書会でアドバイザー役。「鼠男」「ラットマン」と呼ばれる症例の論文「強迫神経症の一症例についての覚書(1909)を読み終わったのでその振り返り回。SE10(151-240),岩波全集10(177-271),岩崎『フロイト症例論集2』(2−98)。「病歴の抜粋」を混乱しつつ読んで、「理論編」はさっぱり。フロイトが後半を「理論編」と名付けたのは1924年。その前の年1923年に追加された脚注には

「ここに報告した分析治療によって患者は精神的健康を回復した。彼は、多くの他の前途有望な青年たちと同じように、世界大戦において命を落とした。」

とある。前にも書いたけど非公式ながら最初の国際的なコングレスがオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)で開かれたのが1908年。フロイトはユングに臨床的な発表をと依頼しフロイトが選んだのがこの若きロシア人、ランツァーの症例だった。この発表は大変盛り上がり4、5時間に及んだらしいが記録は残っていないという。フロイトが脚注を書いたのは1923年だがランツァーが亡くなったのは1914年11月25日。第一次世界大戦の初期だった。戦争でフロイトはというか、フロイト派はshell-shock,戦争神経症と出会い、そこで精神分析的な方法を取り入れることになる。

いかん、別のことをはじめてしまった。もう時間がない。今日もがんばろう。

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主にオグデン論文。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、いちじく。いちじく大好きだけど高くて。この前もスーパーのいちじくを眺めながら立ち尽くしてしまった。見ていたら安くなるというわけでもないのに。今日は普通の紅茶を淹れた。色々やってる間に冷めてちょうどよくなるかなと思ったけどここに座ってしまったから熱いままいただくことになりそう。部屋の温度がまだ高めだから汗かきそう。でもこの時期は外の気温が高すぎてお散歩にも出られないし汗かく時間も必要か。

今朝は無料の仕事に関連する夢を見た。精神分析をしているとお金というのは本当に様々な意味を持つ。今読んでいるねずみ男の症例もそうだし、交換をどう考えるかということでもある。何かを考えるときにその人なりの基準があるわけで精神分析の場合は当然精神分析理論が前提になる。そしてその理論を引き継ぎつつ更新していくために多くの精神分析家が日夜臨床と検証に明け暮れている。先日サンフランシスコで開業しているオグデンの新しい論文を読んだがオグデンは「無意識なんてものはない」と強調していた。並行して読んでいるラカンも無意識の概念を更新しようとしているけど彼らのしていることの大きさにやっぱりすごいと思う。私は英語もフランス語もその書き方について何かを言えるほどわかってないけどオグデンの語り口の基本的な穏やかさはわかりやすい英語のせいかもしれない。

To say this is not to suggest

that we not use the concept of the unconscious,

it is to say that

when we use the idea,

we should be aware

that it is just an idea

– not a place,

not a second mind.

こうやって区切ってみるとさらにわかりやすい。オグデンはこの論文で無意識を実体としてみることに警鐘をならす。その概念を使うなという意味ではなく、それは単なるアイデアであり、場所でも二つ目の心でもないとオグデンはいう。要するに、と私が簡単にまとめるのはよくないが、オグデンはフロイトが「無意識」論文の冒頭で書いた部分を読み込みながらフロイトがその存在を「明白」と書いたことに反論している。この強調の仕方は主に誰に向けてなされているものなのだろう、と考えたりもするがそれはまた別の話かもしれない。フロイトの「無意識」論文自体、「欲動と欲動の運命」「抑圧」というその直前の二つのメタサイコロジー論文を踏まえる必要があるがオグデンはそれは前提として書いているのでそこには触れない。なのでオグデンを読むまえにフロイトを読む必要があるのはいうまでもない。オグデンの書き方の背景にどれだけの実践と古典との対話が積み重ねられているかを考えるとその途方もなさに驚く。私はオグデンという精神分析家が精神分析実践において患者の実存的なニードを認識する仕方を感じたいだけなので興味がある人はそれぞれ読んでオグデンのnot to convince, but to invite imaginative response.に応えてほしい。無意識について再考したあと、オグデンはトラウマに対する精神分析実践から精神分析における時間の経験を検討する。この二つの主題のつながりの部分をオグデンは書いていないのでそこにも想像力が必要だが最近の著書で書かれた認識論と存在論に関する議論を踏まえてフロイト、フェレンツィに立ち返りつつ書かれているように私は思った。オグデンは精神分析セッションにおける時間経験をこう書く。

The experience of time in the analytic session is at once synchronic (from the Greek for “together” and “time”) and diachronic (from the Greek for “through” and “time”). 

これをもっとも説明しやすいのがトラウマの事例ということだろう。この議論も表面的に読んでしまわないようにしたい部分である。

なかなかしっかり本を読めないが少しずつ少しずつ。今日も良い1日でありますように。

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筋肉痛、和菓子

筋肉痛。動きがおぼつかない。運動した翌日、筋肉痛だなと思った数時間後に「きた!」と本格的に筋肉痛になるのを意識した。自分で「へー」と思った。昔は起きたら筋肉痛という感じだったけど今は時差(?)があるから前日の昼に運動したとして痛みがくるのは24時間後だったりする。それで筋肉痛ってこういうプロセスを辿るのかと気づいたわけだけどこれも個人差あるでしょうね。

今朝は山梨県甲州市塩山のお土産、三省堂(さんしょうどう)さんの「一葉〜」というお菓子。小福だっけな。来福だっけな。福が入っていた気がする。すぐそこのキッチンに戻ればわかるのだけど動きたくない。美味しいものはなんでも福。これ、前にも書ってきてもらったことがある。半分に切ると緑の梅が出てきてびっくりする、と思ったらこれ桃なんだって。若い桃ってそういえばあまり意識したことない。小さい緑はみんな梅だと思ってるかもしれない。いや、柿とかみかんはわかるか。わかるか?うーん。それはともかく和菓子を半分に切ると断面がかわいくて楽しい。甘さ強めだけど小さいし濃い緑茶と合います。冷たい麦茶も合います。今朝は両方用意しました。かわいい和菓子は「一葉懐古」というお名前でした。キッチンへ行ったついでに確認してきた。「福」入ってなかった。まあ美味しかったから幸福。こういう記憶の適当さってなんなのかしらね。「一葉」は樋口一葉だから忘れないのだけど。塩山中萩原地区は樋口一葉のご両親の出身地とのこと。ゆかりの地の和菓子。一葉自身は東京の千代田区に生まれ、文京区に10年、その後、台東区(当時は下谷区)、でまた本郷かな。ご両親の地元には行ったことがなかったみたい。本郷の一葉記念館ではその短い人生を作品と共に丁寧に追う展示が見られます。一葉ゆかりの地を散歩するのも自ずと文豪ゆかりの地を辿ることにもなるからおすすめですわ。谷根千文人マップというのもあります。

さて、さてさて、この時間にやっておくべきことはなんだったか。昨晩遅くに突然ポストカードの箱というか入れ物を開けてしまったら色々懐かしくて収拾がつかなくなってしまった。主に20代の頃に集めていた。当時はたくさんお手紙も書いていたけど。これ少しずつ使う機会作ろう。すごくかわいいのがたくさん。多いのはバースデーカード。昔はどこ行ってもカード買ってたな。暑中見舞いも書きましょうか。そうしましょう。

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オグデンの「無意識」更新論文を読んでいた。

満月に見えるけど満月の一日後の月がまだうっすら出ている。ピッカピカの光は水色の空にすーっと吸い込まれてしまったみたい。昨晩は雷に打たれ、いや、打たれていない、だからここにいる、ピカッ、ドーンの距離がすごく近い中、一気に降り出してきた雨にすっかり濡れた。遅い夕食をしてやるべきことやってこの前見つけたオグデンの論文を読み始めたらすっかり遅くなってしまった。なのに朝はいつも通り早朝に起きられてしまう。あと1時間半くらい遅くてもいいのだけど起きてしまったので書いておこう。麦茶冷たい。いつからか麦茶を作っておく夏の習慣が始まっていた。でも今年はあまり減らない。部屋が冷えてくると温かいのを飲めるではないか、と温かいのにしてしまう。今は減らないから飲んでいるという感じ。おいしいけど。

さて、今回のオグデンは攻めている。ように見えてこれまでの集大成的文章のように思う。ちょっと前にここでも書いたOgden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291。このジャーナルに論文載せるのは夢だな。がんばらないと。

さてオグデン。なかなか始まらない劇場。オグデンは題名通り、まずは無意識の概念を一見今どき、つまり意識側から書き直す。でも読んでいるとその方法はウィニコットを読むオグデンの仕方と変わらない。今回はフロイトの「無意識」論文からA gain in meaning is a perfectly justifiable ground for going beyond the limits of direct experience [to justify acceptance of the existence of the unconscious mind]. When, in addition, it turns out that the assumption of there being an unconscious enables us to construct a successful procedure by which we can exert an effective influence upon the course of conscious processes [for example, psychoanalytic treatment], this success will have given us an incontrovertible proof of the existence of what we have assumed. を引用し、特に“incontrovertible”を導きの糸にしている。この部分は全体を示してもいるからこういう引用をズバッと決められてからだとどこ取り出しても同じような気がするがこの単語なんだと思った。“incontrovertible”。

オグデンはウィニコットのようにThis paper is meant not to convince, but to invite imaginative response.と読者の想像力に期待する。今回も難易度高い。オグデンも常に古典に戻る人なのでフロイトを読んでいるのは前提となる。ウィニコットはフロイトを読まなかった、という逸話があるが正確には読まないことを指摘されたので読んだ、でも死の欲動には同意しかねる、だったと思うが正確ではないかもしれない。ウィニコットの書き方についてはよく取り上げられるけど読まれたいのか読まれたくないのか読ませる気があるのかないのかわからない書き方はウィニコット自身の読み方と関係があると思うけど、オグデンは読み方と書き方の両方をユニットしてものすごく意識して仕事している人だと思う。あときき方。これが一番かな。

今回のオグデンのthere is no such はthere is no such entity as the unconscious. カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」を思い起こす。オグデンはフロイトはincontrovertibleと書いたがこの部分って言い換えれば the claim that the unconscious exists is based on the success that the assumption has had in helping us understand the meanings of our experience that lie beyond conscious awareness. ってことでしょう、と書いている。とにかくそれはメアファーであり精神分析家たちが作り上げた物語でありThere is no “inner world” (inside what?), nor are there object relationships inside of it, nor are there alpha-elements, beta-elements, alpha-function; there is no id, ego, or superego, no life instinct and death instinct, and so on. だと。夢だってそうだよ、と。今回のオグデンはシンプルに突き進む。オグデンに言わせれば無意識とは not a place or a thing, it is a quality of one’s thinking, feeling, and experiencing. である。

と書いているとキリがないがこのあと臨床素材もはいり、精神分析的時間の検討に進む、という論文。フロイト回帰というのはフロイトの方法に戻ることではなく更新するための回帰だと思うのでオグデンは忠実だなと思う。見習いたい。

すっかり光が強くなってる。まだ空は薄めだけど。汗をかく音を拡大したら蝉の声みたいな感じじゃないかと思うんだよね。ジトーって感じで。オグデンはWe listen to the words, not through them. と書いている。それはとても大事ですよね。どうぞ良い一日を。

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ノートとか星形もなかとかラカンとか。

なんだか珍しい夢で目が覚めた。面白かった。が、起きたら起きたで眠い。夏休みに向けて色々準備せねばなのに。それにしても暑い。眠い、暑いの繰り返し。冬は寒い、眠いの繰り返し。昨日はノートを三冊もらった。方眼紙じゃなくて方眼罫か、今、ノートを見たら書いてあった。5ミリ方眼罫(リーダー罫入り)と6ミリと7ミリの罫線の三冊。ノート好きだから楽しい。全部フランス精神分析の勉強に使う。たまたま読んでいた論文をまとめるのにゴージャスに二冊同時に使い始めた。

今朝は甲州市塩山のお土産、老舗和菓子屋「三省堂」の星形もなか。青えんどうを使った餡が詰まっています。ほんのり不思議な香りがするのは桜葉?とにかく見かけがかわいらしい。昨日はとてもきれいな満月が出ていたけど星は見えなかった。時間差で追加。想像力で補えるのってそれまでの体験と知識のおかげ。

私は大学に入れてもらってようやく勉強の楽しさを知ったけど本だけは小さい頃から読んできてよかったなと思う。難しい文章に出会ってもあまり抵抗がないのは結構お得なんだと思う。とりあえず読み流すことができてしまう。すっごく時間がかかったとしてもいつのまにか読めるようになってたりするからとりあえずこだわらないでおくのって悪くない。

昨日は時間があったから後期ラカンの論文をパラパラ読み、方眼罫ではない方の6ミリ罫線のノートの方にメモしていた。この前読んでいた『エクリ』の「治療の方向づけ」に関する論文は前期。まだ対象a(プティ・オブジェ・アー。フランス語はかわいい)もなかった頃。後期になるとプティ・オブジェ・アーも「見せかけ」になってシニフィアンからそれ以前のものであるララングへ、つまり言語から身体の問題が検討される。S1がララングってノートに書いたみたい、昨日。でもこれは反復の群れであってどうこうと色々書いているがもうすでに覚えていないな。こういうことの繰り返し、勉強というのは。後期だから「ファルス関数」とかもメモってある。また勉強しましょう。

しまった、また眠くなってきてしまった。動こう。がんばろう。暑いのでお気をつけてお過ごしください。

(追記メモ)

今日の夢はささやかながら即座に叶った願望充足の夢だった。が、夢は夢ゆえに欲望の消失へとは導かない。欲望は満足なんて求めてない。満足してしまったら消えてしまうのが欲望だから。ネット上のコミュニケーションに限らず、言葉は常に誤解されるのが基本なのもそういうことかな。欲望しつづける欲望。

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オグデンを少し読む朝。

夜明け。水色の空。夏至から1ヶ月。日の出も少しずつ遅くなっているとはいえ4時台にはすでに明るい。昨晩は豪雨で大変だった様子。帰ってきた頃はまだ雷もうっすらで雨もそんなに降っていなかったのだけど。目黒川と妙正寺川が警戒レベルだった時間もあったみたいだけど大丈夫でしたでしょうか。友達とワンコが雷怖がってるだろうから早く帰ってあげないと話したりしてたのだだけど大丈夫だったかしら。ハリケーンで飛んできた亀を飼った話とかも面白かったな。私が日々亀を愛でているのは多分学校にいけない子の家庭教師をしていたときにそのうちの亀と仲良くなったからだろうな。金魚も人に懐くらしいけどそれは餌付けというやつでは。そんなこといったら人間もそうか。美味しいお菓子に日々つられている私としては。昨日もとってもかわいい季節のお菓子をもらってしまった。「ふきよせ ほたる狩り」だって。世の中にはなんでこんなにかわいいお菓子が多いのだろう。あら、新宿区が警戒レベル3相当、というお知らせが来たのだけどどの川?川の名前が書いていないし旧玉川上水はすでに川じゃないし近いのはどこだろう。神田川か?お隣ではある。つい最近下水道の工事をやっていると中野区在住の人に聞いて、神田川って排水のための工事すごい大規模にしてたイメージがあるけどまだやってるのか、と思ったばかりだった。うーん。全国どこもかしこも被害が出ないといいなあ。

最近、IPAが出しているジャーナルを読んでいないなと思ってチェックしたらオグデン(Thomas H. Ogden)の論文が最初に出ていた。

Rethinking the concepts of the unconscious and analytic time。無意識と分析的時間の概念の再考。

Ogden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291

無意識と分析的時間の概念を再考する論文らしい。引用文献を見る限り、私の一番好きなオグデンという感じ。フロイトの引用は以下のこれら。

Freud, S.1900. “The Interpretation of Dreams.” SE 4/5.フロイト『夢解釈』フロイト全集4、5(岩波書店)

Freud, S.1914. “The Unconscious.” SE 14.フロイト「無意識』フロイト全集14(岩波書店)あるいは「メタサイコロジー論」(講談社学術文庫)

Freud, S.1915. “The Unconscious.” SE 14.あれ?なんで「無意識」論文二つ?こっちがあっているのでは。あれ1915年のはず。あとでチェック。

Freud, S.1918. “From the History of an Infantile Neurosis.” SE 17.フロイト「ある幼児神経症の病歴より」フロイト技法論集(岩崎学術出版社)

オグデンはここで単にrethinkingをするわけではなくてその方法について書くらしい。

最初が早速フロイト「無意識」論文からの引用。これ1915年になってるから間違いかな。でも校正で気づくだろうからこのあと1914年のも出てきたりするのかな。オグデンはこの論文の以下の部分を引用してフロイトが無意識の存在を“incontrovertible” と書いたところを取り上げる。こういうのがオグデンの手法だなあと思う。引用されているのはこちら。

A gain in meaning is a perfectly justifiable ground for going beyond the limits of direct experience [to justify acceptance of the existence of the unconscious mind]. When, in addition, it turns out that the assumption of there being an unconscious enables us to construct a successful procedure by which we can exert an effective influence upon the course of conscious processes [for example, psychoanalytic treatment], this success will have given us an incontrovertible proof of the existence of what we have assumed. (167)

この部分の十川幸司訳はこちら。

「ところで、意味および関連性において得るところがあるということは、私たちが直接経験を越えて踏み出すための十分に正当な動機となる。また、さらに無意識の仮定に基づいて、意識過程の経過に対して目的にかなった影響を及ぼすための手続きを構成することができたなら、その成功は私たちが仮定した無意識が存在する明白な証拠になるだろう。」

“incontrovertible”は「明白な」と訳されていてこれをあえて取り上げる気にはならないと思う。むしろこのあとの

「したがって、心の中で起きるすべてのことはまた意識にも知られているはずだと要求するのは根拠のない自惚れにほかならない、という立場に私たちは立たなくてはならないのである。」

の太線(本では傍点)の方が気になってしまうけどオグデンはやっぱりこっちじゃないんだ、という感じ。こういうのがワクワクオグデン、個人的には。

この論文ではこの「無意識」についての再考と、「無意識」論文でフロイトが「無意識系の諸過程は、無時間的である」と書いたようにdiachronic time (clock time) and synchronic time (dream time)、通時的な時間(時計の時間)と共時的な時間(夢の時間)について再考を行うらしく、我々はその方法を事例を通じて教えてもらうことになるのだな、という感じの論文らしい。今こうやってメモ的に書いておかないと何度も読み直すことになってしまうのが厄介だな。すぐ忘れてしまう。

ああ、朝に時間があるって素晴らしい。ところで昨日読んでいたのはeducation sectionで精神分析設定についての論文だったと思うのだけどそれはどこで見たのだろう。昨日はそこで中心的に引用されていたJosé BlegerのPsycho-Analysis of the Psycho-Analytic FrameをTwitterにメモしただけで、大元の論文をメモするのを忘れた。NHK俳句の時間だ。みよう。May,J.がゲストだー。歌える人は俳句も上手そう。雨やんだね。一気に晴れてきた。被害が出なかったならよいけど地盤緩んでるかもしれないから気をつけて過ごしましょう。

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フロイトを読んでいた、いる。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、マロン。こう書くとフランス語の語順っぽい。美味しい。あとゴールデンキウイ。いつからゴールデンとかできたんだなど言いながら。ホットコーヒーと。やや汗ばむ。

毎日、精神分析とは、と考えてはウンウン唸っている。私がやっていることそれ自体なのだけどそれってなんなんだろう。私は精神分析は医学でも心理学でもないと思っているので自分が所属している臨床心理学の世界と連続したものと考えていない、という時点で周りとの違いを感じる。フランス精神分析はその辺が普通にオープンで勉強しやすい。フロイトをしつこく読んでいるのもラカン派の本を読んでいると当たり前というか必須以外に思えないので常にフロイトから始める、みたいな人がまわりに増えればいいなといつも思う。しかし、フロイトを読み込むのは時間もかかるし、臨床中心の生活ではそういう時間も限られる。だからこうやって早朝に読んだりするわけだ。それぞれの限られた時間を思えば周囲に甘えているわけにもいかないしな。とかいって結構対話してもらっているか。基本はフロイトを読んでいる本と対話しながら読んでいるが、キノドスの『フロイトを読む』はバランスが良くてとてもいい。kindleで英語版も持っているので語彙の確認もしやすい。なんでフロイトを読みつつ、精神分析とは、とウンウンしているかといえば、自分がやっていることの効果や影響を常に考える必要があるから。これはいいものだ、という前提ではできないし、精神分析プロセスで生じさせる激しさや危うさは自分で十分に体験しているので気軽に導入もしない。もちろんそれは私の場合であるし、ケースバイケース。臨床家としていろんな現場でいろんなことをしてきたがその中心にあったのは週一の心理療法だった。今もそれは中心だけど考える起点と基盤が精神分析に変わってしまったのでまた新たに臨床から学ぶしかないんだな、結局。何歳になっても。

昨日は1920年の『快原理の彼岸』を読んで唸っていた。ここまでにも大量の論文を書いているフロイトが考え方をグッと変えてきた論文。ものすごい天才が考えていることなど私にわかるはずもないと思いつつ、それまでの蓄積とそのあとの流れと同じ実践に基づいているというところを頼りに読む。ラプランシュもデリダもこの論文の読解に力を割いている。局所論、力動論、経済論を考慮した心的装置を考案しようとするフロイトの記述はそれまでのメタサイコロジーの更新を伴う。意識、前意識、無意識という第一局所論からエスー自我ー超自我という第二局所論への移行、力動論はメタサイコロジー論で精緻化された通り欲動に起源を持つ力動論、そしてエネルギーの量的観点からの経済論的記述。さっき考え方を変えたと書いたけどそうではないのか。『草稿』『ヒステリー研究』ですでに構想されていたものか。でもこれまで同意するかどうかはともかくふむふむと読めていた快ー不快の解釈は臨床経験によって変わってきてしまったわけだからフロイトが一番困ったよね、きっと。自分で考え続けてきたことにどう落とし前つけるんだよって感じだったろうねえ、とわからなさをフロイトに気持ちを寄せることで誤魔化しながら読む。そういうことを今日もやるわけですね。ウンウン。がんばろう。

それにしても暑いね。ゴミ捨てに行っただけで紫外線いっぱい吸収した感じがする。ジリジリ。熱中症にも気をつけましょう。どうぞ良い週末を。

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BGM、マカロン、夏休み

着々と家事を済ませた。昔はなにがそんなに面倒だったのだろう、という感じでサクサクと。今は面倒がること自体が面倒。仕事前に読みたい本があったりちょっと遠回りして出かけたいとかやりたいことがあるといろんなことにいちいち重みづけしている時間があまりない。なのにまたこんなこと書いてる。これも習慣になってしまってるから別の習慣に取って代わられるまでは続けるんだろうなあ。今朝も起きたら柳樂光隆さんからのお知らせメールが来てて「また書いたのか!」と思ったら今回はプレイリストの紹介だった。かなりの頻度でものすごく充実したインタビュー記事を届けてくれるのは大変ありがたいのだけどライブに行く時間がないのが残念だなあ。知らなければ行きたいとも思わなくてすむのに。うん。このプレイリストは確かにBGMにいい。気持ちよく作業ができそう。

友達からもらった小さいマカロンを半分に切ったら真ん中に何か入ってる。ジャムかな。うん?これはジャムというのかな。甘すぎないおしゃれな味!かわいい色ばかりの素敵マカロンたちだった。これでおしまい。ありがとう。明日はまた「」のお菓子。今回は藤沢店。湘南台で地元のカフェだと思って寄ったら相模大野にも販売だけの店舗があって「え?チェーン店だったの?」となって調べたら神奈川にいくつかあって藤沢ルミネにも入ってたって買ってきてくれた。でもまた「葦」のカフェも行きたいな。ケーキ一個とかもう全部食べられる胃腸がないのだけどグラタンとかもあるからかわいいケーキを眺めながらお茶したい。なんで胃腸が弱いのに食べることばかり考えてしまうのかしら。身体と欲望って釣り合わないから色々大変なのよね。

子供たちは今日で今学期おしまいかな。お疲れ様。プールとか大変だよね。好きでいくならいいけど実技のテストとか本当に必要なのかね。私はスイミング通ってて泳げてた時期もあるけど思い出としては「毎回えらく疲れたな」くらいでなんであれが学校の評価に使われるのだろう。水を怖がらないとか自然に危機対応できるようになるとかだったら必要だろうけど。にもかかわらずこの前中学生に泳ぎ方を教えてしまった。質問に答えていただけだけど途中からなんか偉そうだわと思って「まあ陸地にいればなんだって言えるけどね」と言ったら「陸地」が別の言葉に聞こえたみたいでなんかチグハグして、笑って、いつのまにか水泳の話からずれていった。いろんな話しながらなんとかやっていこうね。良い夏休みになりますように。

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ボウイとか。

オレンジ色のメロンとショコラオランジュのマカロン。最近のマカロンは美味しい。流行りはじめた時期は苦手だった。マカロン型の小物はかわいくて好きだった。

この前、ジャズ界の作編曲家のマリア・シュナイダー Maria Schneiderのインタビューで彼女がデヴィッド・ボウイDavid Bowieに見出されてロックとジャズを融合したと知ってDavid Bowieをずっと聴いていた。今は1977年のアルバム『LOW』のB面だった(1991年CD化)「Warszawa(ワルシャワの幻想)」を聴いている。ブライアン・イーノBrian Enoとの共作。プロデューサーはトニー・ヴィスコンティTony Visconti。こういう情報ってサブスクだと調べにくい。昔は聴きながらレコードとかCDジャケットとか飽かずに眺めていたから自然に入ってきたけど、今ボウイを聴くとなるとほとんどリマスター版だからクレジットに発売年が書かれていない。Spotifyだからかもしれないけど。それにしてもこの曲は特殊というかブライアン・イーノと聞けばなるほどとなるけど当時はびっくりされたわけでしょう。マリア・シュナイダーもそうだけどミュージシャンたちはみんな自分の音を常に求めていて、そのためには相手が絶対に必要で、その人そのものよりその人の音に反応する。もちろんその人の音はその人そのものを表してもいるわけだけど人としての現れで考えると色々難しいよね。精神分析でいう部分対象と全体対象の関係ではないわけだから。もっとミクロな部分を捉えて反応していくしかたは同じだけどその前提にすごく主体的な自分がいて、その自分を変えていける人がそれに成功しているのだと思う。もちろん有名な人たちにはそういう人が多い気がするというだけでこのあり方の方が優れているとかそういう話ではないわけ。だって一人でそんなふうになれないという時点でいろんなものはみんなのものでしょう。ジャズの歴史を知ると特にそう思う。環境が整わなくても小さな頃に本物と言われるジャズと出会うチャンスがあったり、日本ではきいたことがない種まきがたくさん行われている。やりたいやりたくない以前に「これいいな!」と思えるものがたくさんできると楽しいよね、とりあえず。詳しくなくたってなんだって自由に語れる場がたくさんある環境もいいよね。なんかすぐバカにしたような態度とる大人が多いのはよくないでしょう。ムカつくよね。子供が大人をバカにするのもよくないけど大人は教育できる立場にいるわけだし、それはどうにかがんばろう。ボウイあるいはボウイの曲みたいに力をくれる存在にみんな何かしら出会えるといいと思う。今日も良い1日でありますように。

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禁欲原則とか。

鳥たちが賑やかに通り過ぎていった。彼らにも朝の挨拶のようなものがあるのだろうか、という疑問をこれまでなんども書いている気がする。調べればいいじゃん、ということかもしれないがこの問いはそういう類のものではない、ということがSNS上などでは通じない世の中だからコミュニケーションって変わったなあ、と思う。私は実際の人と対面して、見かけ上は一方的に話を聴いているが、問いかけを答えるべきものとは思わないし、問いが答えを求めていないどころか問いかけの形にして言いたいことがあることも知っている。まずひたすら耳を傾けること。その意義は今はますます大きいような気がしている。なんてことを書こうと思っていたわけではないが、精神分析の基本設定について考えていた。フロイトは禁欲規則 rule of abstinenceといって精神分析をしている間は結婚したり外側を大きく変えるような行動はするなというようなことをいった。そういうのを精神分析の世界では「行動化」というのだが、フロイトの時代は週6回通うとはいえ治療期間が今よりずっと短いのでこれもある意味契約のひとつだろう。しかし禁止なんてできるはずのない心があるとわかっているから精神分析はあるので二人の関係に外側を使って何かを生じさせようとする心について考えるのが現代の精神分析家の態度である。小此木啓吾をはじめ、私の親世代より少し上の精神分析家たちはフロイトに忠実であるとともに「日本では」ということを模索してきた。小此木先生はフロイト的治療態度、主に禁欲原則・分析の隠れ身・医師としての分別(Freudian fundamental attitude(neutrality・abstinence rule・analytic incognito physician’s discretion))に関するお話をフェレンツィ的態度との比較においてたくさんしていた。私の親より少し下の精神分析家たち、つまり今の日本精神分析協会の役員世代の先生方は世界を標準にしたフロイト再読が普通であり、それぞれにフロイトの技法を咀嚼し「自分では」ということを話されている。外では十分に指導的な立場にありながら分析家の中では子どもみたいな私たち世代はフロイトに素手で立ち向かっている人がいるかどうかわからないが私は続けていこうと思っている。応用分野で精神分析が使われる場合でももうすでに古びた印象がある精神分析を治療法として今を生きる患者に使用しているからには今の時代で精神分析ができることを考える必要がある。とはいえ、人と話すたびに古びゆく自分を実感する毎日、まだ本当の子ども世代の患者にも「今はね」と言われながら教わる日々。まあそれはそれでありがたいことだ。なにかもっと言いようのない良さについて書こうと思ったのに全然違うことを書いてしまった。言いようのないものは言いようがないのだからしかたないか。無理に言葉や形にする必要などないこともたくさんあるのだろう。今日もがんばろう。どうぞご無事で。お元気で。

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ジャズとかお喋りとか。

昨日のTBSラジオ「荻上チキ・Session」での柳樂光隆@Elis_ragiNa さんの選曲、よかったなあ。

Ambrose Akinmusire (アンブローズ・アキンムシーレ)はお気に入りに16曲入っている。MARIA SCHNEIDER(マリア・シュナイダー)のインタビューにも力をもらったしMelissa Aldana(メリッサ・アルダナ)のサックスには自然を感じる。ジャズにも色々ある。今回の選曲は昔の私だったらびっくりしてしまう曲ばかりだった。マイルス・デイビス、サラ・ヴォーンを中心にずっとその辺りばかり聴いてきたから。

知らない街で迷った。駅近くのドトールが空いている街だった。なのにコメダもできるらしい。なのに、とは、と自分で書いてみて思った。「なのに」は「店として大丈夫か」という経営者目線。一方で「しかも」だったら「いいなあ、作業に集中できそうな場所に恵まれてて」。それにしてもGoogleマップのナビで目的地に辿り着けたことがない。でも知らない街は楽しいな。全く知らないわけではないのだけどいつもわかりやすいところしか行かないからキョロキョロキョロキョロしてしまった。昔からあるという本屋さんもよかった。自分も子供もそこで教科書を買った、みたいな話も。なんだかんだやりたいことをずっと変わらず続けてこられてることもなんかよかったね、よくは知らないけどなんとなく知っているご家族とかお友達とかが元気と知るとなんか嬉しいよね、とか。言いようのないいい時間だった。

早朝からやっている地元の小さなカフェで天然塩のことを教えてもらった。店長のお子さんもよく舐めているという天然塩。お話をききながら再び少し口に入れてみたら「おいしい」という声が自然に出た。口にするの二度目。そしたらもっと色々教えれくれた。こんな小さなお店でこんなにコーヒーにこだわる人は塩にも詳しいのか。すごいなあ。ステンレスのストローも新鮮だった。紙のストローは嫌やねん。店長の顔と声が知っている作家さんにそっくりで途中からその人にしか見えなくなってしまった。

もう8月かぁ、と思ったけどまだ半分残っている7月を大切にしないと。やるべきことはなんだったか。色々ありすぎてよくわからない、とかいっていないで確認しましょう。そうしましょう。

あまり梅雨っぽくないまま今年も明けるのかな、いつのまにか。散歩道では真夏の花々がすでに萎れていたりした。紫陽花は緑に逆戻り。毎年毎年楽しみな七変化。今年もありがとう。反復のように見えて少しずつ本質的な変化が起きているのだろうけど毎年同じように咲いてフェイドアウトするようにほかの緑に紛れてく。原種はどんな紫陽花なんだろうね。今日は火曜日。間違えないようにしないと。どうぞ良い一日を。

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7月15日(月・祝日)

キッチンの小さな窓にスズメが通りかかった。やっぱり最近鳥の声が少ない気がする。ベッドで耳を澄ましながらこれはエアコンの音のせいじゃなくて鳥自体が減っているのではないか、あるいは鳴かなくなっているのではないか、という気がした。多分そんなことはないのだろうけどずっとそんな気がしていたけどやっぱりみたいな感じになっている。なんでだろう。私の耳が鳥の声を拾えなくなっているのかもしれない。いやだなあ。

個別と普遍という言葉が浮かんですぐに「普遍」以前に「一般」だなと思った。いろんなことはいちいち大きな言葉で語る必要などない。「普通は」といえば「普通が何かって話もあるけど」と付け加えなくてはいけない世界は一部でいい。いろんな言葉に勝手に悪意を付け加えるような心は狭めでいい。とサルトルを読みながら思った。なぜ私はサルトルを読んでいるのかを忘れてしまったのでだんだん読み方が適当になる。必要にかられて読み始めたはずだったのに。おそらく「自我」について考えているときにどこかで引用されていたのがサルトルでこれは読まねばと思ったのだ。おそらくだけど。サルトルはシナリオを書いてしまえるくらいフロイトのことが好き、あるいは嫌いで、精神分析批判というかフロイト批判をしてきた。

なんか書こうとすると洗濯機がなったり色々やらねばならないことが発生するな、とこなしているうちに眠くなってきてしまった。今日は二度寝可能。定期的に身体を鍛えるようになってから身体ががっしりしてきた気がする。部活で疲れきって眠っていた頃みたいな感じで眠れることも増えた。筋肉の要請による睡眠という感じが自然な感じでいい。トレーナーさんに、見た目をがっしりしたくない人もいるからいってくださいね、と言われたけど私はがっしりしたい。体調崩したりすればあっという間に筋力は落ちる。崩さなくてもこの年齢になれば自然に落ちるし回復しにくい。なので鍛えられるときに鍛えられる部分をと思う。ジムでガシガシ鍛える根性はないから短時間みっちり先生についてもらった方が私にはあってる。細かい感覚に敏感になって変化を感じられるのも励みになるし。私の知らない私の身体。なんとかがんばって私を助けてくださいよ。私も誰かの助けになれるようにがんばるからさ。今日は色々チャージ。がんばろう。

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Dana Birksted-Breen読書会、たとえば「根源的幻想」

おなかが気持ち悪い。果物と炭水化物を摂りすぎたかもしれない。今朝も扇風機が時間をかけて回り始めた。今は快調。

昨晩は読書会だった。どの学派にも属さず、IPAのジャーナルの編集長を15年間やってきたDana Birksted-Breenが精神分析の未来のために残してくれた書物として読んだ。置き土産なら自分の欲望を押し付けるものではなくてこういう全世界に通じるものであってほしいな、と思うのでありがたい。Twitterですでにあれこれ呟いた。日本の精神分析は治療者の逆転移に基づく描写が多いと思うし、実際それは必要なのだろうけど、その背後の理論モデルがないと「それはそうなのかもしれないけどそれって精神分析じゃなくてもいいんじゃないの」となると思う。もう多分20年くらい前のことだけどセミナーで英国のタヴィストッククリニックの子どもの臨床家、Anne Alvarezの技法を紹介をしてくれた平井正三先生に藤山直樹先生が「それは普通に子供と遊ぶときと何が違うのかなと思ってしまうのだけど」と質問していた。こういう素朴な問いはとてもよくて技法には理論的基盤があるということ、そしてアルヴァレズのそれを知る機会になったと思う。例えば最近、私はラカンあるいはラカン派、ラカン派以外のフランスの精神分析家の文献を読んでいるけど昨晩読んだ精神分析設定と絡めた場合の一つの理論的想定はこれ。根源的幻想。ブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』を使用してちょっと書いてみる。

私たちの最早期の光景とはどんなものだろうか。そしてそれはどんな幻想だろうか。フィンクによるラカン、ラカンによるフロイトの説明はこんな感じである。斜線を引かれたS(自我ではなく主体、意識と無意識に分割された主体)と欲望の原因=aとの関係において、斜線を引かれたS(分析主体)のaへの固着を「根源的幻想」と呼ぶ。これは無意識の幻想であり、フロイト理論における「原光景」(生を構成する性行動の役割)と重なる。この幻想には原因としての<他者>=aの内部に想定された欲望と主体の関係が含まれている。そしてこれが無意識的幻想の場合、そこへの通路は夢である。分析設定(here&now)において、分析家は分析主体のこの欲望の原因となり根源的幻想を投影される。このとき分析家は他者であり<他者>であるが、分析主体にとってこの他者は<他者>でしかなくこれまで分析主体が体験し観念化してきた<他者>であり幻想を生きる。しかし、分析家は他者であり、<他者>の欲望は徐々にこれまでの想定とは異なったものになる。フィンクは「それどころか分析主体がいつも想定していたようなものであったことはおそらく一度もない」と「おそらく一度もない」は太字にして書く。この辺の分析家の態度はお話としてはわかるが分役状況というのは分析家の方も意識的に何かをやれる状態ではなくなっていると私は考えるし、こういうことが生じるのは意志のせいでも意図のせいでもなく現実がそうなのであり、それがないと治療は進展しないだろう。なのでフィンクの描写する分析家の態度はかなり防衛的に思える。この部分がそうというわけではなく、むしろフィンクはそうではないほうだと思うが、ラカン派の分析家の書き方は皮肉を聴かせた極端なものが多い。私はそういうのが苦手。起きたことは正確に描写してほしい。SNSでもこれは皮肉なのか、本音なのか、適当なのか、とよくわからないものには注意を向けないようにしている。わからないから。わからない私に問題があるのだろうけどそういうレトリックはめんどくさいと思ってしまう。患者のこと考えるのにそれいる?と思う。いや、むしろ患者の言葉に対してそういう態度を持てること自体はかなり必要なことかもしれない。うーん、ここは難しいな。精神分析がやっていることって母子モデルを外してしまえば結構AI的なのでかなり皮肉きかせられるような人間的なものとセットでないと難しい面があると思うしな。

そうそう、根源的幻想のお話。この後「一例として」と出されるのが、私主催のReading Freudで読んでいる通称「鼠男」、何度も読んでいる論文「強迫神経症の一事例についての考察」なんだけど、フィンクはものすごーくあっさり要約。鼠男の父親が欲望の原因であるということを言いたいだけだから仕方ないのだけど、この症例の混沌とした部分はその見立てにも関わるでしょう。

などなど色々考えて自分の理論的基盤のもとに臨床をしているわけでその基盤を育てるのもまた臨床なわけだからどっちがどうというのではなく両輪なんだけど私も精神分析の未来を考えて学んでいかないとな。今日はグループ。がんばろう。

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扇風機、Dana Birksted‐Breen、自我

昨晩は涼しかった。信号待ちでは上着がほしくなるくらいだった。夜は窓を開けて過ごした。早朝、再び窓を開けた。暑くはないけどもう少し空気を巡らせたくて扇風機をつけた。動くつもりがあるのかないのかじっとみていてようやく動いている気がするくらいのゆったりさで羽を動かさんとしている。つもりはあるらしい。「そんなつもりはなかった」という言葉も治療中の頻出構文だが大体のことは「そんなつもりなく」やっているものだ。首が回るようにしてあるはずなんだけどと待っていたら羽が少しずつ早く回るのと同時に首もふりはじめた。これもものすごく長く使っているから身体が動かなくなりつつあるのだろう。コンセントまでのコードもなんだかとてもか弱くみえる。この前、トレーナーさんが「サーキュレーターはいいですよね」と言っていて「ほんとほんと」と話しながらうちもこういう小さいのにしようかなと思ったところだった。これの寿命も頭のどこかにあったのかもしれない。ハーブティーを入れる。今朝は温かい飲み物でいい。テーブルに戻ってくるとさっきよりずっと滑らに扇風機は動いていた。

昨晩はイギリス精神分析協会のDana Birksted-Breenの本を読んでいた。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”(Routledge, 2017) 

女性分析家の本を女性だけで読む会で、ジョイス・マクドゥーガルの本を読み終え、次はこれを読むことになった。Dana Birksted‐Breenは福岡の精神分析家の松木邦裕先生のセミナーでよく言及されていたので知ってはいたし、論文や動画も見ていたが一冊の本として読むのははじめてだ。今年1月には彼女のためのカンファレンスが開かれたのもチェックしていた。なので亡くなったというニュースを見たときは驚いた。6月1日土曜日の朝に亡くなったそうだ。Obituaryはこちら。the New Library of Psychoanalysisの編集長を10年、the International Journal of Psychoanalysisの編集長を15年務めたDana Birksted‐Breenだからその書き方にも注意を払って読みたいが今回読む分は分量も多く何かに注意を払う以前にとりあえず読み切るのが課題となりそう。フランスの精神分析家への言及も多そうなのでそれはありがたい。

スーパーヴァイザーの先生とウィニコット理論について話した。私が最も読み、書くときに引用するのはフロイトとウィニコットだが、最近ラカンを読む中で「自我」の位置付けに再び混乱をきたしていた。ウィニコットもラカンも「対象」については詳細に言及しているのだが「自我」となるとなかなか。ラカンは意識的主体を自我と呼んでいたりするが、私はその読み取りができていない。そもそもフロイトが『自我とエス』で示した「自我」がすでに錯綜している。昔、購読会で担当したときに「自我はこんなにたくさん役割与えられていろんなもの投げ込まれて大変すぎる」と発言をしたことがある。いまだにそう思うしラカンも対象としての自我には言及するが自我の自我部分(説明しにくい)は「主体」にすり替えてしまっている気がする。ウィニコットに至っては自我も自己も曖昧すぎるがtrue selfを自我と呼ぶとして、その自我とは、という話を先生とできたのはよかった。ナルシシズムにおける自我というものをどう考えるかというお話。はあ。突き詰めれば突き詰めるほどやること増えて時間がなくなる。臨床のおかげで頭だけで考えなくて済んでいるのはとてもいいことだと思う。昔はそうなりがちだった。いろんな経験していこう。今日の東京は少し過ごしやすいのだろうか。がんばろ。

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國分功一郎のスピノザの本

よく寝た。時間ではなくて質。睡眠って「量」のことを「時間」っていう。「時間」ってほんと特殊。ベルクソンのいうこともわからないではない。

今朝は小布施の栗のスティックケーキとハーブティで。

最近、「意識」について考えていたらスピノザが気になって久しぶりに國分功一郎『スピノザの方法』(みすず書房)をパラパラしていた。「あとがき」でまた泣いてしまった。2022年に出た『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)はこの「あとがき」に書かれた「誰かと一緒に読む」「誰かと一緒に考える」を実現した本なのだろう。どこかにそう書いてあったかもしれないし、書いてなかったかもしれない。

私はスピノザがデカルト読解でこう解説している部分を國分さんが解説している部分が好き。『スピノザの方法』の199ページ、<S公理九>、デカルトの空の例に対するスピノザの二冊の写本の例。

「ある人がここに同一の手で書き写された二冊の本(一冊は著名な哲学者の作品で、他はつまらぬ人間の作品であると仮定しよう)を見て、その言葉(つまり心像としてあるかぎりにおいての言葉)の意味には注意せずに、たんに筆跡と文字の列だけに注意するなら、彼はその二冊の本の間に違った原因を求めるように彼を強いるいかなる相違をも認めないであろう。むしろこれらの本は、彼には同じ原因によって同じ仕方でできたものと見なされるであろう。しかし言葉や文章の意味に注意するなら、彼はそれらの間に大きな相違を見いだすであろう。そしてこれによって彼は、一方の本の第一原因が他方の本の第一原因とはなはだ異なっていたこと、しかも一方の原因は他方の原因に比し、実際にその両方の本の文章の意味が、すなわち心像として考察されるかぎりの言葉が、相互に異なっているだけそれだけいっそう完全であったことを結論するであろう。私はここで、必然的に存在するはずのこれらの本の第一原因について語っているのである。もっともあるひとつの本が他のある本から模写されうるのは自明のことであって私もそれを容認ー否、予想する。しかしいま言っているのはそうしたことではない。」

面白くないですか。この後の國分さんの解説を読むとなるほど、と思うと思う。これ、人の話を聞くときにもそう、と勝手に別の話にしてはいけないのだけどどっちがどっちかなんて観念次第でしょう、ということでもあると思う。これって私が治療でよくいう「いいとか悪いとか上手いとか下手とか嘘とかほんととかはあまり関係ない」というときの感覚を思い出す。この本、デカルトを読むスピノザに対する國分さんの姿勢が一貫して他者というか、研究者の立ち位置の維持には強固な意志が必要なのだろうなと思った。この本を読んでから岩波新書の『スピノザー読む人の肖像』を読むとすごくスッキリした本だなと思うのだけど実際に読んだときは粘りが必要だった。粘ってよかった、と思えるのが國分さんの本だし、いい本ってことだと思うけどね。

さてさて、夜中までこんな読書をせずに読まねばならない本があるのだ。しかも英語だ。はあ。がんばりましょ。

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精神分析

自称。

風の音。洗濯は早朝にできあがるようにタイマーをかけていた。早すぎるのでベッドに戻る。エアコンが微妙に寒かったり暑かったりで寝たり起きたりしてしまう。夏は本当にちょこちょこ仮眠とりながら生きながらえる感じか。それにしても眠い。いや眠くない。寝たい。これだ。少し寝てまた起きた。宇多田ヒカルが聞こえたから。

宇多田ヒカルが精神分析を受けていたと聞いて精神分析に興味を持つ人が少し増えたらしい。日本の場合、「精神分析」を頻回の設定でのカウチでの自由連想、という捉え方をしている人は少ない印象。私のところにこられる場合は、私が実際におこなっている精神分析の方法を説明するのでそこではじめて「そうなんですね」と理解される場合も多い。もちろんオフィスのWebサイトにも詳細に書いているし、皆さんそれを読まれてから申し込むようなのだが人間って意外とこういうところがある。馴染みのない情報を処理する枠組みを持つのは自然にできることではないのだ。「書いてあったでしょう」「言ったでしょう」というのは継続的に会っていても「あれ、そうだっけ」となることも意外とあるのだから面白いものだ。それに私が所属する国際精神分析学会(IPA)の制度に則ったものだけが「精神分析」ではないので、自称でも構わないのだと思う。もし私が「自称精神分析家」だったらそう言うけど。それは私が認知行動療法を求められてこれこれこういう本とセミナーで勉強したくらいで実践経験ほとんどないですよ、というのと似たようものでとにかくその人の言葉での説明は大事だろうと思う。実際やってみないとそれがそれでないことにもはっきり気付くことはできないのだから曖昧なものを「自称それ」と言いながらやるのもなしではないだろう。それぞれの臨床家の倫理や治療観による。

ラカンを読んでいて情動論的転回について考えるに至ったが精神分析独自の文脈があるからやはりまたフロイト『夢解釈』に戻ることになる。不思議だ。このテキストは本当に原点なんだな。

今日も暑くなりそう。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

ハムレットとか。

今朝も鳥よりエアコンの音を先に聞いてしまった。あと洗濯機。電気の音ばかり。アメリカ西海岸での生活を体験した組で最初は一人前をシェアしていたのにしなくなったとか何キロ太ったとか冷蔵庫がどうとかこうとか話した。最近の家電の相場とか全くわからない。ガソリンが本当に高くなったと思うのはガソリンスタンドを日々目にするから。家電量販店にそんな頻繁には行かないから「あれ、こんな高いのからしかないんだっけ」とか思うことはあるけど変化を体感できていないからいつも曖昧。我が家は家電の持ちが良いらしく、それはありがたいがこの時期に冷蔵庫とか壊れたらすごく嫌ね、という話もした。うちはもう20年使ってる。でも作り置きを常にしているとかではないからダメージはそんなにないか?いやいや、今は果物がいっぱいあるから絶対だめ。チョコも結構溜め込んでるからだめ。このうちめちゃくちゃ高温になるから、など思った。

ラカンを読み始めたら止まらなくなってしまって『ハムレット』まで読み始めてしまった。ラカンじゃないじゃん、ってそう、もちろんシェークスピアなんだけど、ラカンが引用してるから。フロイトもしてる。フロイトの解釈にはある程度慣れているからラカンの解釈が新鮮で(私にはあまり面白くないけど)そうなるとやっぱり引用元を読みたくなるというのは自然な流れでしょう。シェークスピアは角川から出ている河合祥一郎の新訳を読むようになった。子供の頃は翻訳が誰かなんて気にしていなかった。『ヴェニスの商人』が怖くてしかたなかった。何度も何度も読んでしまった。怖いもの見たさって言葉は本当に的確。ハムレットと母ガートルードのやりとりもいいがやはり心に響くのは狂ってからのオフィーリアのセリフ。割と早くに退場してしまうにもかかわらず彼女だけがその世界で美しい花である。それゆえに狂ってしまうのだろうけど。でも最後まで知的。ハムレットがウジウジと激しく揺れ動くことにはそれほど混乱していないのに舞台が血生臭くなっていくにつれ死を花に変えるオフィーリアの力が弱まっていくようで悲しい。ガートルードがそういうものを生き抜いている大人の女として彼女をいたわるような場面も悲しい。ああ、語彙が少ない。美しい、悲しい、しか出てこない。ハムレットめ、やたら饒舌な王子様で腹が立つがあの憎めなさはなんなんだろうね。不思議。って、私は全然精神分析的ではないな。精神分析的なというかフロイトとラカンの解釈はあまり面白くないよ。さっきはカッコ付きで書いたけどやっぱり私はそう思ってるってことだね。一緒に舞台見に行っても面白くなさそう。一緒に行くことがないから好き勝手言えますけどね。でも一緒に行くならフロイトの方が楽しそう。きちんと会話してくれそう。こういうのはイメージだから。ハムレットのイメージだって人それぞれでしょう。シェークスピアはいいなあ、やっぱり。

昨日服の上からたくさん蚊に刺されて痒い。舞台上にはずっと痒がってる人とかあまり出てこないね。いつも虫追い払っている人とかは出てくるね。これは状況説明のためだろうけど。派手に腫れてて痒い。お薬持ち歩こう。今日も暑そう。どうぞよい1日を。

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精神分析

衰えつつ学びつつ

パイナップルを切った。ジューシー。昔は苦手だった果物。多分、缶詰の印象が強いのだと思う。シロップものはなんでも苦手だったから。今回は丸ごと一個もらったのだけど美味しいねえ。ありがたや。

定期的にトレーナーさんに鍛えてもらってるのだけど体幹の強さを褒められて嬉しい。でも柔軟性とバランスが苦手。この前、びっくりしたのは平均台に乗るように脚を前後して目を瞑ると長時間立っていられない。これ、車酔いとか眩暈とかの予防になるようなんだけど「目からの情報に頼ってるから」と言われて私の場合は本当にそうだなあと思った。肩甲骨を動かすとかも最初は全く感覚がわからなくて先生に動かす部位を触れてもらいながら動きを手伝ってもらってもどうしても肩を張ってしまったり肘を変なふうに使ってしまってた。でも鏡で姿勢を細かく見ながらやっていたら身体感覚としてはわからなくても形を整えようとする意識で「あ、こうかも」とわかってきた。今はようやく鏡を見なくても脳から指示がいくようになった感じ。足首もすこーしずつ柔かくなって横スクワットもやっときれいにできるようになった。これまでなんでも大きい筋肉使ってなんとなく形でやってきたから筋トレの本質がわかっていなかったことがよくわかった。筋力をバランスよく使えると形もきれいになるしスッと動ける感じが自分でもわかる。できていないときはどこかしらに違和感がでる。そういう細かいことに意識が向くようになったのはよかった。落ち着きないと怪我も多いから大変。若い頃はそれこそ力技と体力でどうにかなってたけどもう還暦見据えてるからね。脳機能のためにもバランス感覚の運動は自分でもやっていこう。

衰えゆきつつも新しいことを学び続けているわけでこれは年の功というか、学ぶ姿勢はいい加減身についているのだねえ。新しいことといっても今更精神分析から離れる暇もないのでラカンとかだけど。ラカン学ぶには結局哲学書も読むけどこれは今までも趣味で読んできてるから楽しい。最近は

Jacques Lacan, Ecrits: The First Complete Edition in English, Translated by Bruce Fink in Collaboration with Héloise Fink and Russell Griggから

La direction de la cure et les principes de son pouvoir, in: Écrits, pp. 585-645.をブルース・フィンク『「エクリ」を読む 文字に添って』(人文書院)と一緒に読んでいた。

1958年7月10日から3日間の国際会議で話された報告の原稿(かな?)。ちょうど66年前ですね。出版は1961年、La Psychanalyse, vol. 6。『エクリ』は1966年。フランス語だったらネットで見られるのだけど英語でも超超地道。私のReading Freudに出ていた人はこの論文も読めるよ。『夢解釈』をきっちり読んだから。ラカンのおかげでフロイトを読むのはもっと楽しくなった。そしてこの論文はとても臨床的。治療者自身の姿勢、特にIPA所属の私には意識すべき指摘もたくさん。この前、小さな症例検討会で「最近ラカン読んでるんだけど」と「自我の強さ」についてラカンが書いていることを話してみたら「なるほどねえ」となった。私たちは小此木先生や深津先生、中村先生から自我心理学を中心に教わってきた世代だから「自我」をなんとなくわかったものとして扱いがちな気がする。でもラカンがクリスを読み込んでいたりアメリカ自我心理学の大家を批判しているのを読むとやっぱりフロイトに戻って考え直さないとな、と思う。技法につながってくるから。こうやって行きつ戻りつしながら一生を終えていくのだねえ。相手が巨大だとこっちは最後まで道なかばのまま。でも大事だからやりましょう。シニフィアン。シニフィエよりシニフィアン。今日はなんかお天気荒れるらしい。嫌ね。気をつけて過ごしましょう。

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症例検討とか。

暑い。フルーツで水分補給したいが時間がなかった。週末はいろんな人の症例から学んだ。小さいグループでやっている会はかなり密な議論ができる。精神分析的心理療法は治療者の欲望が常に問われるが、それはやりとりのなかで見出されやすい。それに本人が気付けることもこういう会をやる意義になる。常に部分は全体を表してもいると考えればなにかがなされたかどうかということよりそれが全体の構造をどう描いたうえでなされたものかということのほうが大事。つまり見立てありきということになる。最近ラカンの『エクリ』を超地道に読んでいるがラカンの症例提示の仕方は普段私が経験しているものとは全く異なる。こういう考えのもとにこう見立てているということがわかるようなわからないようだが少なくとも治療技法に結びつく治療態度ははっきりしている。ビオンのグリッドで説明されるよりラカンの欲望のグラフのほうが臨床態度を含み込んでいて有用と感じる。もちろんこれはちょっと勉強すれば「使う」類のものではないかもしれない、と思い当たるが考えることを促してくれる力がある。この、考えることを促されること自体にたいていの人はかなり防衛的になるので治療者同士のやりとりで治療者の欲望が現れやすいのは当然といえば当然だろう。

しかし暑い。身体に悪い。東京都のトップは変わらなかったがボトムアップであることを考えれば私たちができることはなくはない。がんばろう。

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早朝、à la lettre

鳥の声よりエアコンの音をきく早朝。昨日の雷はすごかった。オンラインミーティングの向こうの空は何事も起きていないのに私は雷と雨の音に気を取られながらミュートし画面からの音声に耳を傾けていた。この状況で聞く話は私にどんなバイアスをもたらしているのだろうと思いつつ。大事なお話を終えて「東京、今、雷がすごい」といったら驚かれた。その後すぐに別のミーティングのために外に出た。新宿駅が冠水?床が水浸し。ここで転びたくないなあ、とそろりそろり歩いていたら隣の人が滑った。ビビった。うまい具合にとどまり後ろを歩いていたお連れの人と笑いあってた。よかった。地下鉄に入ると地下なのにさっきの冠水はどこへ、という様子でいつも通り乾いていた。東京の地下鉄は水害対策がしっかりしていると前に何かで読んだ。いろんな仕組みに驚いた。が、どこまで人間は自然の力を押しとどめることができるだろう。大抵の場合、無力、ということを私たちはすでに知っているけれど。それでも被害はできるだけ起きないでほしいし、起きたらすぐに、長期に支援に入ってほしいし支援したい。

なんとなく書き始めたらずっと書き続けてしまいそうな感じだがさっきまで何を着たらよいものか、と思いながら冷蔵庫を開け、夜に食べるつもりだった酒のつまみみたいな作り置きおかずを食べてしまった。美味しかった。キッチンの排水溝を急に掃除したりプチやる気が出たかと思えば無駄にリビングをウロウロしてしたりしていた。ふむ、となんとなく引き出しを開け、汗をかいても快適そうなスポーツ系ワンピを被った。今日も意識して歩こう。この環境に慣れていかないと夏を越せる気がしない。だったら早く出ればいいのだがやはりすでに強い日差しに怖気付いている気もする。時間はまだある。いつもなら本を読み始めてしまうがそういういつもの動きが今日は出てこない。何やってんだ私は、と思っているうちに結構時間が経っていることに気づいた。ちょっと正気に戻った。昨日、ミーティングの後に自分が話したことの重みに自分がやられてもいるのだろう。でもおかずは美味しく食べられたしな。いろんなことは両立する。でも朝なんだから送ってきてもらった果物にすべきだったな、と今は思う。さっきまでなんかおかしかった。夜がまだ続いている感じだったのかもしれない。遅くに帰ってきてなんとなく辻村深月の短編集というのか、あまり短編でもないが『ふちなしのかがみ』を読んでいたらもっと遅くなってしまった。それでもいつも通りに起きられるようになってしまった。長い間、目覚ましはかけてない。二度寝する気に満ちている時はかける。それにしても辻村深月は鏡を使うのがうまい。子供の世界を描くのがうまい。これ読んでいたからなんかおかしいのかもしれない。

昨晩、人文書院から『後期ラカン入門』がポストに届いていた。雨に濡れていない。遅い時間に届いたらしい。訳者のおひとりがお薦めしてくれて「あれ?持ってないんだっけ」と本棚をチェックしたらなかった。Amazonをチェックした。「あれ、こんな高いんだっけ」とポチッとするのを迷った。出版社のサイトを見た。「あれ?高いは高いけどAmazon高すぎない?」と思ったら古書だった。気づいてよかった。出版社から送ってもらうと送料がかかるが精神分析の本は最近の本屋さんでは買えなくなってしまった。本当に本当に減った。ジジェクは売っているが臨床家はジジェクを参照しない。読み物としては面白いが。人文書院のウェブサイトから申し込んだら数時間後には配送のお知らせがきた。早い、とびっくりしたらそのすぐあとにSNSで出版社の人がこの本の品切れを呟いていた。おお。いろんな仕事が早い。フィンクの入門書はわかりやすいがラカンを読まずには読めない。『「エクリ」を読む』をエクリを読まずに読んでわかる人っているのだろうか。なんとなく理解はできるが実際にエクリを読みながら読むと「これ、à la lettreじゃなくない?」となる。でもこういう循環が作られているのがいい。そしてラカンはフロイトを読まずして読めない。結局フロイトに戻る。いいなあ。文化を繋ぐこと。考えよう。がんばろう。今日もちょっと勉強しよう。

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精神分析

7月6日(土)朝

ゴミを捨てに行ったら隣のマンションの人が多分コンビニから戻ってきた。みんな朝早いね。夜が長い、これから寝る、という人もいるのかな。部屋が涼しくなってきた。この部屋のエアコンは効きが悪い。昨年から壊れているのかもなぁ、という気配を感じるけどこのくらい機能してくれるならまあいいか、という感じもして使い続けている。エアコンは高いからね。リビングのエアコンは全く機能しなくなって取り替えた。これもなんかAIが喋るのが嫌なんだけど効き目はすごい。しっかし、色々高すぎて嫌になるね。

マルグリット・デュラスがエクリチュールの可能性について話しているインタビューを読んだ。『愛人 ラマン』L’Amantが1990年。シリル・コラールの『野生の夜に』Les Nuits fauvesも同時期では、と思ったら1992年。同じ人と見に行った。これらでフランス語を勉強するのもいいかもしれない。ロマーヌ・ボーランジェがとってもかわいかった。デュラスの『陰画の手』les mains négativesは十川幸司先生が岩波の『思想』で書いた文章と素材が一緒。続きが読みたいわね。ふと目をあげたら『星の王子さま』が目に入った。最近よく会うわね。毎日いる部屋なのにそこにいたのね。オフィスのカレンダーが安西水丸なんだけどなんと7月はLe Petit Princeの本が書かれていた。7月はフランス語の月なのかしら。いや、星なのかしら。これもシニフィアンの「横すべり」の例になる?だったら私は再現なくこうやって遊べてしまう。この前みたケラリーノ・サンドロヴィッチ主宰、ナイロン100℃、結成30周年記念公演第二弾『江戸時代の思い出』がは精神分析の言語(フロイト&ラカン)に関心のある人には特にみてほしいのだけどこの「横すべり」が見事だった。北山修先生がメインで使う日本昔話が出てきたシーンも笑った。誰もが知っている物語はどんだけスピードあげて使用しても力があるし、そのスピードの変化で物語の質が変わるのも面白い。ほんと言葉だけで永遠に遊んでいられる、とか思う人が精神分析家みたいな特異な職業につくのかしらね。私は特にほかの持ち物がないけど言葉が面白くてしかたないからそんな卑屈にならないですんでるのかもしれない。ありがたいことじゃよ。今日も暑そう。東京の人は選挙行こうね、暑いけど。がんばろう。

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ラットマン症例

暑い。が、お湯を沸かす。エアコンもつけた。プチ二度寝したがまだ早朝。昨日は自分の勉強をする余裕がなかったのでフランス語のラジオを聴き逃しで聴いている。

夜にはフロイト読書会もあった。使用したのは岩崎学術出版社から出ている『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』。今回はラットマンの「Ⅰ病歴の抜粋」の最後の20ページほど。論文名は「強迫神経症の一症例についての覚書」。ラットマンことエルンスト・ランツァーは1907年10月1日にフロイトとの治療を開始した。翌年、Informalではあるがはじめての国際的なコングレスが開かれ、フロイトはこの症例を発表している。場所はオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)。

”Apart from this momentous decision, the most notable event at Salzburg was Freud’s presentation of the case of the Rat Man; this aroused so much interest that he was persuaded to extend it to more than four hours.”

ということでこの症例発表は大変盛り上がったらしい。いいね。日本の協会でもこういう会合してみたい。

この症例が出版されたのは1909年、IPA設立は1910年である。

フロイトが少しずつ人を集め、Psychological Wednesday Societyを経て、ウィーン精神分析学会を作り、IPAとなっていくまでの経緯はIPAのこちらのサイトに書いてある。動画ではフロイトの声も聞ける。1908年までに初期の著名な精神分析家は出揃っている感じがする。W.Stekel(1868‐1940),Carl Gustav Jung(1875-1961),Alfred Adler(1870-1937),Ernest Jones(1879-1958),Granville Stanley Hall(1844-1924),Ferenczi Sándor(1873-1933)など。

フロイトがラットマン症例をどのように発表したのか調べていないが本で読んでもこんがらがる話を聞くのは大変だったのではないだろうか。4時間を超える議論の内容も知りたい。フロイトは『夢解釈』において精神分析における言語表現の解読方法を開発しており、この症例理解にもそれが活かされる。この症例が示す愛と憎しみ、能動、受動、サディズムとマゾヒズムの反転は素早く性愛化された空想として言葉にされるが行動としては不活発だ。ラットマンは亡霊として死んだ父を呼び戻し自分と対峙させ見る見られるの満足を得る。その快はいつまでも同じパターンをたどり軌道を外れることがない。それこそが快であるが苦しみでもある。この症例は症状の消失という意味では良くなったと言われているが果たして、という疑問が残る。ラットマンは戦争で死んでしまったのでその後を知ることはできなかった。これだけの空想を持った人が戦地でどのような体験をしたのか、その体験をどう経験したのか、と考えると気が重い。私たちはいまだにこうして彼から学びを得ているわけだがそれが彼に対して何をしていることなのかということも考えさせられる。とにかく消費でない学びを続けよう。今日もがんばりましょう。

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境界とか存在しそこないとか。

暑い。すごい陽射し。眠い。今日はどんな1日になるのだろう。

いろんなことは起きてから考えればいいかと思うが考えて対処できるならしておいた方がいい、とも思う。しかしその対処が必須なのかしなくてもどうにかなるものなのかの境は難しい。境といえば最近境界例をétat limiteというと書いたけどその前にもフランス語のlimitéは境界で訳されることが多いのか?と思うことがあった。もちろん文脈にもよるだろうけど境界ってぶち当たる感じが弱まる言葉だと思う。でも実際、いろんな境界は曖昧だからただ線をひくみたいな言葉のほうがいいのかもしれない。精神分析で難しいのは境界という言葉が中間的なものを想起しやすいことだと思う。フランス精神分析における境界例は中間という意味は含まないといちいち書かれている印象がある。最近はラカンづいていてエクリも英語とフランス語で勉強してる。そこにmanque à étreという言葉がでてきるのだけどこういうのをきくと「おー、フランス現代思想」と思ってしまう。フランス語も現代思想も中途半端にしか知らないくせにイメージって不思議。「存在しそこない」と訳す。ネガティブなほう、不在のほうを強調するのがそれっぽいと思ってるのかもしれない。たしかにこれは必要かどうかを考える場合、そういう側面を意識しないと盛り込む方向になるのでシンプルに考えていきたい。

それでは熱中症に気をつけて一日無事に過ごしましょう

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精神分析

ワイン紅茶、医薬分業、『星の王子さま』

今年もブルーベリーをもらった。ブルーベリーは食後に食べるのが効果的だそうだが朝イチで食べてしまった。爽やか。ハーブティーもレモングラスだから爽やか。そういえばこの前、ワイン紅茶をもらった。宇都宮市のお茶専門店y’s teaのEncore bis。アンコールビスと読むそう。なんとこれ、同じく栃木県の足利市にある有名なワイナリー「ココファーム・ワイナリーの赤ワインに用いた高級ぶどうを、栃木県宇都宮市の福祉法人しのいの郷のマイスターが 長時間じっくりと乾燥してドライレーズンに。 そのぶどうと相性が良く、水色もワインをイメージさせる紅茶をY’s teaが 厳選し、独自の製法でハンドブレンドで仕上げた紅茶」とのこと。いろんなところがこうやってつながってるのね、すごい。y’s teaの紅茶は宇都宮の人がよく買ってきてくれるのだけどどれもとても美味しい。こうやって驚きもくれるし。

この前、医療従事者同士でおしゃべりしていて医薬分業からもう50年だよと言われて驚いた。私は大学院生のときにクリニックでアルバイトをしていたのだけどそこはまだ院内処方だった。「院外処方」が珍しくない今、「医薬分業」という言葉に重みを感じた。私は心理士でもあるけど精神分析家として開業している意識が強いので何かと分けられる以前に独自すぎる学問と実践に浸かっている。内実はいろんな学問領域のハイブリッドなんだけど業務を分けることはできない。昨日書いたフランス精神分析の本の執筆者のひとり、Pierre Fédida(1934-2002)は精神科医でも心理士でもなくドゥルーズの影響を受けて精神分析家になった人だけど「なる」という作業はどうしても大事。そういえば昨日、フランス精神分析でいう「境界例」はそれまでのパラダイムに変更を迫るものだったみたいなことを書いたけどピエール・フェディダは「いかにして精神分析から脱するのかではなく、いかにしてフロイト主義から脱するかという問題」と書いている。後半は点で強調されている。フロイトに還ること。「フロイト主義」から脱すること。フランス精神分析は本当に筋が通ってる。

「星の王子さま」で勉強しようとしたら「星の」は日本独自訳だった、ガーン、と書いたけどAntoine de Saint-Exupéryの”Le Petit Prince”はフランス語のテキストにも名言として引用されていたりする。たとえば

On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.

確かに。知ってるぞ。この作品がテキストとして使われるわけだ。でも私はとりあえず読む必要があるフランス語で勉強。隙間時間にやるから一文読んでおしまい、ということもあるけど一文に対してもあれこれ考えるので悪くないかな。今日もがんばりましょ。

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精神分析

フランス語の勉強とか。

早朝はまだ耐えられる涼しさ。涼しさなら耐えられるか。耐えられる暑さというべきか。まだランニングができる。ブログなんて書いている場合ではない。涼しいうちにやることをやらねばもったいない。若い頃は5時起きで走りにいったりもしていたが今は頭で思うだけで実際はダラダラこうしている。

フランス語の勉強を始めて最初はもっと堅実にと思ったけど最初から文献を読んでしまっている。NHKの「まいにちフランス語」は初級文法なのでそこで基礎固めしつつひたすら辞書をひいている。精神分析家になるために時間もお金も費やしたから余裕がなくなって一度やめた。ということはもう10年やっていないことになる。フランス人の先生に英語でフランス語を教わっていた。子供用教材で数とか色とか身近なものの名前を教えてもらうところからだった。先日聴き逃しでNHKの講座を聞いていたら前置詞の勉強で地図を書く課題があって、あれは楽しかったな、と当時の課題を思い出した。いつもの文献をフランス語で読むのは難しいが英訳されたものでも難解で、さらにそれを自動翻訳で読むともっと訳がわからなくなる。そうやって時間がかかるなら最初から取り組んでしまおうと思った。フランス精神分析が独自の道を行ったのは精神分析における言語の使用という問題から離れないからだと思う。今はアンドレ・グリーンのla position phobique centraleに関する論文を読んでいる。

la position phobique centraleとは j’entends une disposition psychique de base,qu’on rencontre souvent dans la cure de certains états limites.

Les états limitesは境界例のこと。その中心をなす恐怖症について。

フランス精神分析には独自の鑑別基準があるが境界例はそれらとはまた異なるものとして精神分析実践を通じてパラダイムの変更を迫ってくる。境界例についてはアンドレ・グリーンを含むフランスの高名な精神分析家たちの講演録をもとにした”Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”という本が『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』という翻訳で出ている。アンドレ・グリーンの境界例概念はそこで確認することができる。

執筆陣はJacques André(APF/IPA),Catherine Chabert(APF),Jean-Luc Donnet(SPP),Pierre Fédida(APF),André Green(SPP/IPA),Daniel Widlöcher(APF/IPA)。すでに亡くなっている人たちも。大御所揃い。

以下、星和書店Webサイトを参考に。リンク先は私用メモを兼ねて。

『フランス精神分析における境界性の問題─フロイトのメタサイコロジーの再考を通して─』も読めるようになってきた。

・1996年11月~1997年5月
・ジャック・アンドレ主催、サンタンヌ病院でのセミネール
・目次は講演順、演者による加筆修正あり

第一章 唯一の対象
──ジャック・アンドレ
第二章 境界例の生成と状況
──アンドレ・グリーン
第三章 境界例は精神分析家にとって夢の患者なのか
──ピエール・フェディダ
第四章 境界例における分裂(clivage)と幼児性欲
──ダニエル・ヴィドロシェ
第五章 境界性機能様式:いかなる境界か
──カトリーヌ・シャベール
第六章 境界性患者、境界性状況

──ジャン=リュック・ドネ

翻訳で読んでいてもそれぞれの言っていることや表現の仕方が全然違うのだからフランス語で読んだらどんな感じなんだろう。フロイトを読んでいると翻訳で読んでいても「フロイト先生、またこんな言い方してる」とか思うわけだがユダヤ人のジョークやドイツ語ならではの表現を理解できたら別の読み方も現れてくるのだろうと思う。ということで今日も地道にがんばりましょう。いいお天気すぎるから熱中症に気をつけましょう。

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雨、蟻、岡田一実『醒睡』

窓の内側に染み込んでくるような音で雨が降っている。ヒタヒタヒタヒタチャプチャプチャプチャプチャプ。警報が出ている地域の被害が広まりませんように。水害のあと、その土地に立った観光客の私は立ち入り禁止の札やロープや抉られたり削られたりした大地をどう感じていいかわからずただ足を止め言葉をなくした。地元の人から話してくれる話もあった。思い出されるたび衝撃を受けるのは目があった直後にカーテンが閉められたあの瞬間だ。大きな家の窓のカーテン。昼間だった。そばには明らかに地形が変わった痕跡がありロープがはられていた。あの人は一人暮らしだろうか。とても申し訳ない気持ちになった。そんなこと思うならそこ歩くなよということかもしれないが知らなかった。一度ゆるんだ大地にまた大雨が降る。それを想像するだけで怖いし胸が痛い。

小さな蟻が今年も出たと書いた。少数でも侵入されている感覚は強く夢にも何度も出てきた。少し雨の大雨の日、蟻の巣が崩れるのを私は想像した。彼らの巣は相当頑丈で雨対策もしっかりしてると聞く。それが崩れるということは私たちも危険ということかもしれない。そのくらい私は彼らの侵入に無意識に追い詰められていたのだろう。追い詰められ攻撃性が蠢き自分の手を使わずに何かが起きてくれることを願うような心性は誰にでもある。大雨の翌日、一匹の蟻をキッチンで見かけた。あっさり駆除した。今の私の目は死んでいるだろう、と思った。それ以来、蟻を見かけなくなった。その前から少しずつ見かける量が減ってきた気はしていた。元々列をなすような数でもなかった。様々な対策の効果がでたのかもしれない。私は今この雨の音を聞きながらまた想像する。蟻の巣が崩れるのを。そしてまた死んだ目になる。

昨晩、ネコポスで岡田一実の句集が届いた。前もって配達完了のお知らせがきていたので家に近づくにつれポストを開けるために足が早くなった。こんな距離を急いだところで何も変わらない。しかも封を開けて確認したらビニールに入ったままのそれをPCの横に積んだままあと数分で終わる大河ドラマを見てしまった。さっき蟻の巣が崩れるのを想像したと書いたあとビニールの中の表紙を見た。ドキッとした。水滴?滲んでいる?慌てて取り出す。白い表紙をそっと撫でる。浮き上がってる。水が滲んだままの形が。よかった。私の意地悪な心がこんなところにまで雨を降らすようなことがなくて。それはすでに涙がこぼれ落ちたような跡にもみえた。昨日は出先で強めの雨も降った。それも気になっていた。ポストから出したときに濡れていないことを確認した。当然中身が濡れているはずもなかった。なんとなく雑に放置したことや蟻に対する仕打ちが小さくない罪悪感を生じさせているらしかった。岡田一実の新句集『醒睡』はベルクソン研究者の平井靖史さんが帯を書いているとのことでなおさら注目していた。俳句よりずっと長い文章で綴られた帯文は丁寧で美しかった。そして句集はブランショの引用から始まる。開いてみる。今の私に飛び込んできた一句がこれか、と苦笑いする。

食み殺しつつ白魚の句を数句

中途半端に心揺らしいつまでも想起に胸締め付けられる私にはもつことのできない境地で正確に言葉を紡ぐ著者から多くを学ぶだろう。この滲みが雨でも涙でもなくてとりあえずホッとしたところからしてすでに。

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エクリとかRSEとか。

この前会ったばかりの友達の夢を見た。眠い。カラスの声は意識に近いのに鳥の声は意識してはじめて聴こえる、という程度に眠い。

ラカンの『エクリ』の英語版を読んでいた。訳はブルース・フィンク。ラカン派精神分析の最も優れた紹介者であり、『「エクリ」を読む 文字に添って』という本は日本語にもなっている。フィンクの本の翻訳はどれも優れている。精神分析実践を伴わない人文研究者たちによる訳が多いがラカンは哲学者でもあるから精神分析実践だけでは逆に訳すことができない。彼らなら『エクリ』もフランス語から日本語へ訳せるのだと思うけど新訳が出ないのは何か事情があるのだろうか。フロイトの英語版新訳もMark Solms版がようやく出版。24-volume Revised Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud. RSEと略される。改訂前のJames StracheyによるStandard Edition(SE)に対してはいろんな人が色々言ってきているがこうして改訂版が出たことで逆にストレイチーが評価されるという動きも出てくるだろう。批判するのは簡単だが比較対象があるとよりその幅は広がるし私たち読者にとっても良いことだと思う。RSEには、SEに含まれていなかった56のエッセイと書簡も収録されているとのこと。それも楽しみ。電子版は出るのだろうか。フロイトとかラカンは読み継がれるものだから電子版にしてほしい。

フランス語の勉強も細々と始めて細々と4日間続いた。やっぱり『星の王子さま』からかな、と思いYouTubeで見られる講義を聞いてみた。原題を意識してみればすぐ気づくはずだが「星の」は日本語訳オリジナルだった。ガーン.気づいていなかった。そんなことにガーンとなっていて全然進む気配がない。やり方を変えねば。

今日は少し涼しい?今だけ?どうぞ良い休日を。

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お互い様。

メロンをいただいた。とってもジューシー。美味しい。今週は果物とクッキーに恵まれた週であった。幸せ。

メールアドレスやLINEで繋がる時代のわたしたちではなかった郵送時代の私たちと言ったら言い過ぎだけど、同窓会に登録されているのは住所のみ。なので昨年集まれる人で集まったときにオープンチャットやLINEグループを作ったのですよ、というお知らせを郵送で送った。もう住所もわからない人もいるけど61人に送った。封筒にシール型の住所を貼って、自分の住所のハンコを押して、中身を入れて、封をする。そして名前を照合して名簿にチェックを入れる。これだけの作業なのだけど結構大変でちょっと立ち寄った先で手伝ってもらった。二人だとあっという間に終わった。たくさん笑った。こういう単純作業が得意という人もいるけど私にとっては全然単純ではない。シールを貼るのもハンコを押すのも気を抜くとすぐ結構な斜めになるし、封をするときも折線通りにきれいに折れなかったりする。プリントアウトした名前と封筒シールの名前の照合は一人だと人より時間がかかる。行がうまく追えないからその工夫はしてるけど。リーディングマーカーみたいのを当てながらやるにしても時々ずれる。二人だと一人が読み上げて一人がチェックであっというま。もちろん私はシールの名前を読み上げる方。読み上げた名前をパパパッと見つけてチェックを入れていく速度にも個人差がある。知能の分類でいう処理速度というやつ。私は数値は平均的だけどこういうのは処理の対象によって変わるから。私だって封筒の種類によってはささっと上手に折って、貼る、というのができることもある。でもこうやってできない人って本当にいるんだよ、ということを強調したい。私みたいに子供の頃からできなくて、家庭科の先生にはふざけてると疑われ(不器用なのはふざけているせいではなかったけど確かにそう思われても仕方なかったという面はある)いい加減できなさを認識している人はそこにかかる時間とエネルギーを計算してすぐに人に頼れるからいいけどそういう環境にない人だっているわけでしょ。職場が怖い人ばかりとか。どんな形だって助けた方がお互いのためだと思う。大抵は別のことで助けられているものなんだからいろんなことはいずれお互い様となる。昔「あみさん、これだと売り物にできないから」と至極真っ当な理由で別の仕事を割り当てられたことがあった。助かった。アイスの盛り付けがうまくできなくて「それはあみはやらなくていいよ」と店長に言われたときは悲しかった。かっこいい盛りつけ方でやってみたくて練習したのだけどかっこいい盛り付けだから人気があるかもしれないのにそれができないんじゃしょうがないよね、と思いつつしょげた。慰められた。でもほかにやるべきこと、できることもたくさんあった。今回の作業は特に得意なことはなかったけどこういう一個一個の苦手さや得意さでお互いを補いながら自分や相手の癖を再認識すること自体も面白くたくさん笑った。相手が楽しそうだと私もありがたく嬉し楽しい。社会人になって最初の職場だった教育相談室でのことを思い出した。そこでの先輩たちがこういう作業を本当に楽しく一緒にできる人たちだった。今思えば上司に叱られるのも無理がないか、というくらい遊びながらやっているようなところがあったけど私以外はこういうのを単純作業として素早くきれいにできてしまう人たちだったからとても助けられた。いろんなことを教えてもらった。NPOのみんなもそうだった。おかげで私は事務作業が本当に苦手だけど嫌な思いをあまりしたことがない。その感じを思い出して「最初の職場がこんな感じだった」と言ったら「それは恵まれてる。よかったね。」と言われた。ほんと恵まれてた。先輩たちとは今も仲がいい。もう20年以上経つ。普通にお互い様をやっていこう、今日も。がんばろ。

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オグデンとかグリーンとか精神分析。

雨がしとしと。今日は梅雨っぽい。梅雨は1日単位のものではないはずだけど。窓を開けたらカーテンがゆっくりふんわり膨らむくらいの風が入ってきた。

アメリカ西海岸の精神分析家、トーマス・オグデンの本を読んでいた。オグデンは私の愛読書だったがここ数年そうでもない。もちろん新刊が出れば買うし、最近は翻訳される前に読む。私ももうそこそこ歳なので翻訳を待つ余裕はないし書かれた言葉で読んでいきたい気持ちは強くなる一方、ということでフランス語の勉強だって再開した。オグデンは英語。オグデンをそんなに良きものとして読まなくなったのは精神分析を受けた影響が大きいと思う。オグデンの臨床素材の描写は非常に的確で、私も今や実感を持って書かれたことを体験することができる。

今回読んだのは昨年から私が理解したがってるわりに理解が進まないアンドレ・グリーン(André Green)の仕事に敬意を表して造られたThe Dead Mother: The Work of André Green に収められたオグデン。

Ogden, T. H. (1999) Chapter 6 Analysing Forms of Aliveness and Deadness of the Transference—Countertransference. The Dead Mother: The Work of André Green 36:131-150

ちなみにこの本はThe Greening of Psychoanalysisの編者の一人、Gregorio Kohon編。第一章はKohonのThe Greening of Psychoanalysis: André Green in Dialogues with Gregorio Kohon。あとはMichael Parsons、Arnold H. Modell、Christopher Bollas、Jed Sekoff、Thomas H. Ogden、André Lussier、Adam Phillips、Rosine Jozef Perelberg、Martin S. Bergmann、そして最後はChapter 11 The Intuition of the Negative in Playing and Reality by André Green. 序文はR. Horacio Etchegoyen。

ここまで書いてこれ翻訳が出てたかも、と思ったら別の本だった。『精神分析のパラダイム・シフト』。マイケル・パーソンズとペレルバーグはどちらにも書いている。だから何というわけではない。こうしてメモしておくと引用するときに役に立つかなくと思ってなんとなくしてしまう。

オグデンの論文は『もの想いと解釈  人間的な何かを感じ取ること』(T.H.オグデン著、大矢泰士訳 / 岩崎学術出版社)に入っている。「第2章「生きていること」と「死んでいること」:その形を分析する」という論文。4人の患者さんが出てくる。臨床場面の描写で精神分析とはどんなものかを伝えてくるオグデンはやはり好きだし、私も書くならそうしたい。でも最初に書いたように精神分析を受けたこと、しかも精神分析家になるということがその目標として加わったことで理論の方にうるさくなってしまった。以前はもうこれだけで何かわかったような気になっていたというよりむしろ何かをわからないことの大切さ、みたいな感じでどちらにしてもわかったような気分になっていた。今はそうもいかない。グリーンに対してしつこいのはグリーンのフロイト再読と脱構築(なのかな)は私が精神分析臨床から学んでいることを他の人より言語化してくれているように感じるから。オグデンの「分析の間主体的な第三者」という考えも以前はそう感じていた。でも今はこれは後付け的概念に思うようになってしまった。ああ、以前好きだったものに批判を向けるときのこの罪悪感はなんだ。向こうは私がどう思おうと何も気にしないに違いないのに。ファン心理とはそういうものか。私はもう精神分析のただのファンではなくなってしまった。内側でそれをそれとして体験する立場になるとそんな呑気ではいられない。ちょっと寂しい。でもがんばる。なにを。とりあえず今日を。雨は東京だけ?みんなの空はどうかしら。どうか元気で。

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人もミミズも。

きれいな声の鳥。左耳で聞いていたらカラスの声が両耳に入ってきた。ハーブティーを入れた。少し冷ましてから飲む。美味しい。氷を作っておく習慣がなくなってから久しい。今年も麦茶を作って冷やしておく季節がやってきた、と思ってからもそれなりに経つ。だってまだエアコンをつけず窓を開けたままでもこうして温かい飲み物を楽しめてしまうから。昨晩は風がとても気持ちよくて色々な窓を開け放していた。フランス語の勉強を始めたらまたOS混乱みたいになって処理速度がグッと落ちた。しかしそのせいか、ずっと取りかかれずにいた同窓会幹事としての事務仕事を淡々とできた。一年前にやるべきことだった。文面の確認をしてもらったのが年明け。あとは印刷して封筒に入れて住所書いて郵送すればいいだけだったのにちょっとこだわっていたらどんどん時が過ぎてしまった。真夜中にだいぶ進んだので今日の隙間時間でようやく仕上げられそう。切手代が相当かかるからそれをどうするかはみんなに相談してみよう。秋にはみんなで集まれたらいいな。

昨日、内藤礼の展覧会のことを書いたけどあとから資料読んだら東京国立博物館でやることに意味があったらしい。私はその意義はあまり感じなかったな。というより最初の展示室に入る前に個別に注意事項を確認されるのだけど作品のためという感じは全くせず人に対して何かを伝えるというよりとりあえずチェック事項全部こなす感じでなんだか調子狂って嫌だった。豊島美術館のように場所とともにあるという感じではなかった。係の人はやるべきことをやってるだけに違いないけど。私も展示室に入ったら忘れたし。八戸市美術館でもそういうのが必要な展示があったのだけどそこではワクワク感が募った。こういうのもコミュニケーションだと思うし、作品へのリスペクトと繋がっていると思う。やや不愉快な気持ちのまま細長い展示室を抜け、常設展示がされているガヤガヤしたスペースを抜け、大きい方の展示室に入って感じたのは人の動きも作品の一部になるということ。いろんな人が静かにゆっくりした動きで作品と関わるのをスッと引いた視点で眺めたときに「ああ」と思った。私たちも自然の一部なんだなあ、同じ空に抱えられながらすれ違い同じような景色と出会ってでもそんなことほとんど意識も共有もせず毎日過ごしているんだなあと思った。人の蠢きを思い出しながら最近何度かみかけた大きいミミズを思い出した。我々の始祖たるミミズ(大きくみればそうだよね?)がアスファルトで焼けつかないように耕せる土地を残していくことと人と丁寧に関わることは同じものとして、もともと我々に備わっているものとして身体感覚として思い出していきたい。適当な繋げ方をしてしまったのはもう時間がないから。そんなではいけない。まあ、がんばりましょう。このあとは暑くなりそうね、気をつけましょう。

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内藤礼、想起、問い、対話

鳥の声が除湿のブオーという単調な音のせいで遠い。でも除湿のおかげで涼しい。なんでもかんでもは手に入らない。昨日、なんか私には自然が足りない、と書いた。そこで突然上野へ出向いた。東京国立博物館で内藤礼の展覧会が始まったからだ。自然があった。ああ、自然ってこういう形で体験できるんだった、という静かな喜びと驚きに浸された。作品の中に座りながら、立ちながら「豊島美術館みたいだ」と思っていた。もう何年も前になるが小豆島と豊島へ行ったときに寄った。フェリー乗り場のそばで自転車を借りたが電動はすでになく坂道は引いて登るしかなかった。苦痛で楽しかった。時折、なにかおかしなことが起きてゲラゲラ笑った。広大な自然の中なんだか自分たちがえらく間抜けに思えたのだろう。汗だくでたどりついた豊島美術館の中に入ると虫穴に帰ってきたような安心感を得た。その穴は広く静かで空が見えた。ひんやりした床に寝そべって少し眠った。いや、結構眠った。あの夏の日の感覚を上野の一室で思い出した。同じ作者なんだからそりゃそうだろうという話だが、内藤礼と豊島美術館は私の中では全く繋がっていなかった。想起というのは不思議なものだ。こんな形で自然を体験できる、と私が感じたのが私が実際に豊島へ行ったからなのか、行かなくても感じられたのかはすでに行ってしまった私にはわからない。行っていない場合には行っていないからわからないとなる。どっちにしてもそんなことはわからない。この仕事をしているとこういう問いの立て方を患者はよくする、というよりそうしていることに意識的になりやすい言語的なやりとりが行われている場なのだろう。わからない、としか言いようがないことを問う。問う。わからないと知る。わからないと知っているのに問う。その繰り返し。問いと答えは対ではない。それが対だとしてもその部分だけ抜き出してもその人が、あるいはその人たちがどんな思考の場にいるかわからないだろう。それは対話の中にある。今は「対話」という言葉がやや教育的というかイベント的な意味を持つようになったと感じる。しかし問いと答えに終わりがないようにそれは有限であり有限ではないものなのでみんなで輪になって行うものは少し違うのではないかという気がする。プラトンの書いた『饗宴』みたいな飲み会スタイルで生じる対話はそれらしく感じる。昨日パラパラしていた『木村敏対談集2 臨床哲学対話 あいだの哲学』(青土社)の対話はよかった。木村敏が臨床医であることから降りないというより降りることはできないほどに臨床医として言葉を使っているところにとても力を感じた。最後の村上陽一郎との対談はなんだかな、と思いながら読んでいたが木村敏は上品で受け身がうまくてそのあたりも臨床家だなと思った。浅田彰はここでも切れ味が素晴らしく楽しく読んだ。こういう対話を延々と続けていけたら楽しいけど終わりがあるとわかっているからいいのだ、きっと。しかしいずれ誰にでも終わりが来るのだ。だからやりたい人はやればいいしやりたくない人はやらなければいいという結局は欲望の問題かもしれない。私はもう行かねばらならない。私にはリミット必要。今日もがんばだ。

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オラニエのピクトグラム

昨晩は寝苦しかった、というよりなんとなく読んでいた本を訳しはじめてしまい寝るのが遅くなった。除湿をかけてお布団を軽く身体の一部に乗せるように寝た。途中少し寒いなと思ったけど止めるのが面倒でそのまま寝てしまった。なんとなく喉が痛いような気もするがそうでもない気もする。キウイを食べた。最初より少し熟してきたらしい。

読んでいたのはまたまたフランスの精神分析家、Piera Aulagnier(ピエラ・オラニエ1923-1991)の最初の著作“The Violence of Interpretation: From Pictogram to Statement. “ (1975)。毎回わざわざ「フランスの」と書くのはイギリスやアメリカとの違いが顕著だから。日本はオーソドックスにやっている立場だと思うけど集団として小さすぎて比較対象にはならないかな。このeditionの序文はJoyce McDougallとNathalie Zaltzman。最近、読み終わったマクドゥーガルの著作”The Many Faces of Eros A Psychoanalytic Exploration of Human Sexuality”は構成から不思議な読み物だった。彼女の誠実さは大変よく伝わってきたが。さて、この序文で二人はオラニエの簡単な個人史と重要な概念を紹介してくれている。

そこのThe pictogramをチェックした。先日、アンドレ・グリーンの論文でビオンのピクトグラムの概念が取り上げられていた。私はアントニオ・フェロがその概念を展開していると思うといってその場で先生も少し調べてくれたのだがそこではよくわからなかった。ただナラティブの方に目線を向けているフェロの考えはビオンの応用ではあるかもしれないが基盤を共にしているとは個人的にはあまり思えない。いや、ここではフェロは関係ない。ただ、グリーンがビオンのピクトグラムに興味を持っているとしたらその方向ではないと思う。ではどのあたりに?そもそもピクトグラムというのは精神分析用語ではなく、前言語的な表象不可能なものの表象のことを言うのに適していたのだろう。私はオラニエをきちんと読んでいないにも関わらず、なぜオラニエがピクトグラムのことを書いていると思ったのだろうか。以前、これまたグリーンの「私」概念がオラニエを参照しているのでは、と思いパラパラしたからそのときに目に止まっていたのかもしれない。視覚情報は言語化される以前のものが多くなる。ピクトグラムはその中間のようなものと理解している。で、またざっと訳してみたはいいものの、私の英語力がないのか、オラニエだからなのか、フランス精神分析だからなのか、フランス語から英語への翻訳に関する問題なのかわからないが、内容がわからない。なんとなくこういうことを言いたいのだろう、ということはわかる。しかし何を言いたくてこれを言っているのかがわからない。なので本文を読まねばならない。というか読むために買ったのだらから読むべきだろう。そうだそうだ。それにしても「わからない」と言うのは楽しきことだ。私はわかりやすさに抵抗する。なんでわかったことになっちゃってるの、と思う。だから物語論が苦手。昔ははまってたのに年をとった。いや、本当に。年齢と経験は関係していると思う。特に精神分析経験に物語を持ち込むこと、あるいはそこにそれを見出すことはとても面白くなさを感じる。その点、ラカンのフロイト読解は勉強になる。そもそも転移に対する態度が異なる。私はラカンがパッと出してくる実践で生じる出来事にとても共感する、少なくとも昨日読んでいた部分は私が実践で感じていたことそのものだった。この不思議さをどう考える?と考えるのが私は楽しい。

さてオラニエのピクトグラムをJoyce McDougallとNathalie Zaltzmanが簡単に説明した部分のさらに一部をざっと訳すとこんな感じ。

「オラニエの考えでは、ピクトグラムとは、乳児の心が最早期の快の感覚という身体的経験から作り出した心的表象である。それは口と乳房の最初の出会いをモデルにしている。このように、継続的で身体的な出会いからなるピクトグラムは、いかなる語表象も欠いているにもかかわらず、将来、あらゆる性感帯とその部分対象との出会いの原型となる運命にある。絵文字的な表象は、それを構成している二元性をまったく無視していることが特徴である。オラニエは、若い成人の精神病患者たちとの長い臨床経験から、どの表象が表象そのものとして心に受け取られるかという見方をするようになった。乳児の表象能力は、心的表象を自らの自律的な動作の結果として経験する。言い換えれば、原初的な過程は、ピクトグラムという象徴様式と連動して自己繁殖的に経験される。そしてそれは、体験とそれを体験する乳児双方を含む。出会いが快と結びついているとき、その表象は、オラニエの用語で言えば、「結合のピクトグラム」である。それは性感帯とその相補的な対象(口と乳房の結合という原型に基づく)との結合を表象し、その全体は自己繁殖し、自己破滅するものとして経験される。」

こんな感じ。なんのこっちゃというほどなんのこっちゃでもないかもしれないが、なぜこの概念がオラニエにとって必要だったかを知りたい。オラニエはウィニコットを参照しているはず。私の興味はそこへ向いている。私はあまりビオンを面白く読めないのでフェロよりオラニエに来てしまったのかもしれない。イタリアにはイタリア精神分析の雰囲気というものがあるだろうし、ビオンの娘もそこで活躍した分析家だった。

そんなこんなで寝不足だ。がんばろう。

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記憶とか予言とか。

洗濯機の音。鳥の声が遠い。なんだか最近自然が足りない、私には、と思い窓を開けた。鳥の声がよく聞こえる。涼やかに鳴いておられる。涼やかに「泣く」ということはあまりないのにね、と思いながら「爽やかに泣く」はあるな、と思った。お湯は沸かした。部屋をキンキンに冷やして熱々の飲み物を飲みたいな、と一瞬思うが夏のカフェであっという間に冷えて退散する自分を思い出す。リュックにはいつも薄い上着を2枚常備、さらにいつも薄手のを羽織ったり手に持ったりしている。時々これらを全部着込んで作業をしていることがある。ここ数日やっていた翻訳(といっても下訳作りくらいの粗さ)も一気にカフェでやりたかったがなんだか先週はそういう余裕もなかった。なぜだったか。気持ちの余裕か。過ぎ去った日々は過ぎ去った日々。あとから思い出せる分だけでも、と書きながら土曜日はフロイトを読んだ。昨日はとても素敵なお祝いをいただいた、など近いところから思い出してきた。だからなに、という記憶もニコニコする記憶も思い出し笑いする記憶も色々あるな、記憶には。

アンドレ・グリーンがちょっとだけ引き合いに出した『リア王』を河合祥一郎の角川、新訳版で読んだ。訳すときもここから訳を借りた。坪内逍遥の血筋(忘れてしまったが坪内逍遥の兄のなにか。ひ孫?)。遺伝ってほんとどんな感じ?と思うがすごいことだ。グリーンは色々断片的に引用していたけどやっぱり色々なものは全体を読むに限る。『リア王』、本当に悲劇中の悲劇だと思うけど道化とか狂人に扮するエドガーとか本当にユーモラス。『テンペスト』のキャリバンとかが子どもならではの軽妙さと切実さで突きつけてくる言葉もとても好きなんだけど『リア王』はみんないい。リアやコーディーリアをどんなふうに演じるのか想像するのも楽しい。最近見てないけど『光る君へ』でユースケが安倍晴明を演じてるからこそもっと道化っぽくてもよくない?と今ふと思った。なんか割と確かな予言より予言なんてできないよということを確かに予言していくイカサマと真実の間にいるのがああいう存在として面白いのでは、と思った。安倍晴明のことよく知らないから適当だけど。

今日も苦手な作業をしなくては。思い出さなければよかった。いや、思い出せてよかった。やらねば終わらないのだから。はー、世知辛い。それぞれ頑張りましょうね。

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羽二重餅、ラットマン症例

雨。昨晩から頭痛がひどい。東京も梅雨入りしたのだろうか。ここ数年、いつのまにか梅雨入りしている気がする。雨雲レーダーの水色はきれいだけど雨は嫌。

羽二重餅をもらった。久しぶり。たぶん、子供のときにも食べてるけど自分で旅に出るようになってその土地の名産としてお土産に買っていく方になってから意識された羽二重餅のインパクトは大きかった。とてもきれいで名前とぴったりで求肥というのも素敵だった。身近に求肥好きさんがいるから絶対喜ばれるお土産にできるのも嬉しかった。東京にいれば現地で買わなくても名産品を買うこともできるがお土産というのは中身がなんであれその土地の話をセットでお土産。あれこれ選ぶプロセスも楽しいし。気に入るとデパ地下でかっちゃたりするけど。

昨晩はオフィスで開催しているReading Freudというフロイトを読む会で 岩崎学術出版社の『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』からラットマンの方を読んだ。論文の正式な名前は「強迫神経症の一症例についての覚書」。1909年フロイトが51歳の時に書かれたものだ。

以前ブログに「その後」ということでこんなことを書いていた。すっかり忘れていた。

「死に方には色々あるし、いつどうなるかは誰にも分からないけど、できたら「その後」を死以外のなにかで伝えたり、伝えられたりしたいな、と思う。」

というのは本当にそう。後世の論者はフロイトはこの治療成果に満足していたという人もいるが、病歴の記述からはあまり満足感は見出せない。同じ人物に愛と憎しみを向けてしまうことから逃れられず苦しむ強迫神経症患者の描写は途中でやたらスッキリした感じで記述されるがこの病歴の最初と最後はかなり錯綜している。途中までは詳細な記録も残っており、それは別の本として出版されているが、途中からそれが途切れることも含め、ある時点からフロイトはこの患者を強迫神経症の患者として以外に見ることをやめている。数なくとも理論の確率を目指すこの論文の記述内では。論理的なフロイトらしくない雑な理解が突然挿入されたところにももやもやした。しかしこれは私が「いつものフロイト先生ならこれはこう考えるんじゃないですか」といいたいだけで、フロイトはいつでも「いつもの」なわけではないのだ。この前も書いたが「いつもの」なんて自分がそう思ってるにすぎない。など色々考えながら彼はこの患者に相当揺さぶられたのだろうと思った。フロイトはのちにフェレンツィに指摘されるように自分に向けられた憎しみを扱うことができない人だった(自己分析では可能だったのかもしれない)もちろん精神分析という設定の中で生じる憎しみは日常のものとはかなり異なり、客観的な記述を阻むものなので書かないというより書けない、扱わないというより扱えない、扱うにはどう理解すればいいかがわからない、だって形がない、ということになる。できるのは憎しみの対象として憎まれながら言葉だけなにかやりながらともにいることだけなんだから。この病歴の中でフロイトが「私たち」というところが2回あるが(実際にはもっとあるかもしれないが印象に残ったのが2回)これが患者の転移対象としての私と患者のことなのか、単にフロイトを怖がって歩き回りながら話す患者とそれを眺めるフロイトのことなのかよくわからなかった。印象からは後者だ。途中にフロイトが初めて見た強迫神経症患者との関わりが挿入されているが、そこでにフロイトは私が「いつもの」と考えるフロイトであって「それは害なのにご自身のこれは害と思わないのですね」というようなことを言える人だった。実際の文章は異なるので事例とともに本で確認してほしい。もやもやしているうちに私は、フロイトはいろんな症例に対して自分が信じる精神分析をしながらそこで生じることにかなりまいったのかもしれないな、と思い始めた。後世の私たちはこれを陽性転移に導かれてよくなった事例と思っているが症状がなくなったという意味ではよくなっているが現在の精神分析は症状の消失は同時に起こるものであるが、それと同時に流れていた人生の方が分析対象となっている。フロイトも随分もやもやしたのではないだろうか。私たちが陽性転移と言ってるものはフロイトが精神分析が持つ軌道を外れようとする力に気づき、技法において能動性を抑えるという意味での受動性を維持するということにかなり意識的になったことに対してなのではないか。憎しみを捉え、抱えていくにはまずその憎しみに浸される必要がある。しかしそれは患者にも分析家にも双方の心に大きな負担となりリスクも伴う。フロイトが描写した強迫神経症の患者がひとりでやっているこのぎりぎりの攻防の相手を能動的に買って出ることはできない。とりあえず開腹手術をしてみたらあったので取りました、というものでもなく、そこに何もないのだけど何かが生じているという事態に持ち堪えつつそれが展開されるのを待つのみ。これは医療ドラマでもある話だろう。身体も心も単純ではない。ラットマンは戦争で死んだ。精神分析がどんな効果があろうとなかろうと人は死ぬという事実によってフロイトが悲観的だったとは思わないが、人の心に関わるということの重みをフロイトは症例を通じて痛感していたのではないか。しかし「だからこの部分は扱わない」といえるほど私たちは色々わかっていないわけだからずっとずっと迷うのだろう。動かそうと思って動くなら、止めようと思って止まるなら気楽でもいられるが一度動き出したらその先は未知でしかない、ということを学び直す機会になった。もやもやしすぎて頭痛がしているのかもしれない。今日もがんばろう。

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球場とかメガネとか。

かあかあ、カラスが鳴いておる。すずめもチュンチュん鳴いておる。昨日は夏至。夜の満月もすごかった。中江有里は毎日甲子園にいるな、といつも微笑ましい。私の周りは阪神ファンが多いからその熱意はよくわかる。甲子園はいい球場。昔高校野球も見にいった。高校野球好きさんを連れて行ってあげたい。プロ野球で使う球場やドームにはほぼ全部行ったことがあると思う。日ハムは移転しちゃったからエスコンフィールドHOKKAIDOにはまだ行っていない。札幌ドームはサッカーと野球の芝の入れ替えを見たんだけどすごかった。もうほとんど工場見学。関東5球団以外で実際に野球を見たのは甲子園と広島マツダスタジアム、今名前変わったんだっけ、あとどこだろう。そんなものかな。昨年、幕張に行ったついでに千葉マリンスタジアム(ここも名前変わったんだっけ)に寄った。海沿いの開放感がすごくて好き。マリーンズのグッズも白黒でかわいいし。私は特に特定の球団が好きとかはないけど野球は自分がやったことのあるスポーツ以外では一番身近。草野球はたまに参加してた。でもバスケやバドミントンも私がやっていた頃とはルールも変わってるだろうから今や野球が最もわかるスポーツかも。中学生と野球盤やったときも普通にできたし。野球盤、懐かしいでしょ。あれ、結構本気で悔しかったり腹立ったりするから面白いよね。消える魔球とかさ。野球盤とか人生ゲームとかは子供の頃からある。近所の友達の家でやってた。人生ゲームのマスは随分変わったらしい。株券ってあれで知ったと思うのだけどいまだにそれ以外では馴染みがないわね、やったほうがいいと言われるけどお金のことでやるべきこと増やしたくない。放っておいても増えるよ、とか友人は気楽にいって稼いでるけど私は放っておいたこと自体を忘れてしまう心配があるから結局損しそう。

フランスの精神分析家のアンドレ・グリーン(もう死んじゃったけど)の論文を訳していると書いたけどリア王が出てきて以降は論文が面白いのか、私が盛り上がったからなのかわからないけどかなり早く訳せた。安心したよー。もういいやっ、と思って見直しもせずGoogleドライブにアップロードしようとしたらできない。というか私はGoogleドライブと全然上手にお付き合いできていない。Adobeとかもそうだけど、なんか保存したつもりなのにあれれ?ということが多くて結局PC全体に検索かけて見つけるみたいになることが多い。もう現代って色々難しい。先生に代わりにあげてもらったのだけど私がアップロードする権限(?なんか大仰じゃない?)はまだなかったらしい。よくわからんな。でも訳はちょい褒めしてもらえた。嬉しい。早速読んでくれたのがすごいと思う、忙しいのにね。昨日、そのファイルを送って安心したらメガネのフレームというのでしょうか、片方がパキッと外れてただの棒になった。今やメガネがないとどこがどうなったのかも見えないので100均メガネで対応。メガネを忘れたときのためにどこにもかしこにも置いてある。よかった。でもすごく疲れて頭痛も激しくなってしまったから移動ついでにピューっとメガネ屋さんへ。移動があってよかった。すぐに直してくれたけどレンズに傷がとか直してくれている間、いろんなお手入れ不足を指摘されつづけて悲しかった。全てそうですね、ほんとそうですね、私が丁寧に扱わないからですよね、と悲しくなりながら早く終わらないかな、と丁寧な口調で先生にお説教される子供みたいな気持ちでいたんだけどきちんと直してくれたから大感謝。これから、いや、今から気をつけます、ときちんとメガネの形に戻ってくれたメガネさんをかけてピューっとオフィスへ戻った。なんかどんどん老眼が進んでてこのメガネもそんなに度があっている気がしないのだけど100均のより全然目が楽。頭痛もしない。よかった。この土日もいっぱい読むものがあるから急いで行動して正解。100均メガネで事足りてたらもっと時間あるときでいっか、となっていたと思うし、そう思うと100均メガネさんにも感謝だわ。きちんと限界を教えてくれたからね。

なんか一仕事終えた気分でこんなことダラダラ書いちゃってるけど仕事はこれから。読まねばならぬものたくさん。否認と逃避を得意技にしてはいけない。困るの自分なのに困ったもんです。ガンバリましょ。

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アンドレ・グリーンの論文に『リア王』

南側の大きな窓からスーッと涼しい風が入ってくる。ペパーミントティーがますます爽やかで美味しい。賞味期限が今月いっぱいだからと保存食をもらったのでそれを半分食べた。カロリーメイトみたいな感じだけど美味しかった。

眠い。首が右側にどうしても傾いてしまう。疲れている。早朝から今度セミナーで担当しているアンドレ・グリーンの論文を訳していた。あと3ページ。間に合いそうではあるがただの作業になっているので咀嚼と消化のプロセスを欠いている。当日、口頭で補えるほどに読みこめたらいいけど時間がない。

昨日読んだ部分で『リア王』が出てきた時は楽しかった。カントと、というか、カントを引用したビオンの理論を説明するために出てきた。そうだよ、ここで『リア王』を思い出したってことはここにビオンだけでなくフロイトの色々も詰まっているってグリーンはよくわかってるからでしょ、もういいよ、これだけで。リア王、めっちゃ面白いもん、と思ったのに数行で終わってしまった。ほぼ直訳だがこの部分を載せておく。精神分析は文学、特にシェークスピアから学んでいることがとっても多いからそういう観点からの発表をいずれしたいなあ。でも日々の臨床の合間にこういう課題をひたすらこなしていると本も雑にしか読めないし、何やっても咀嚼と消化のプロセスのない経験になってしまいそう。咀嚼と消化、と言いたくなるのはビオンが消化機能をアナロジーとして使うから。さて私の雑な訳をここにおいておこう。すぐにどこかにいっちゃうから。アンドレ・グリーンAndré Greenの”The primordial mind and the work of the negative”から。

「ビオンは、いかなる推測の試みの前にも事実に対する絶え間ない関心を優先する。最初の登記registrationは絵文字(初期の物表象)である。もしこれが失敗すれば、感覚経験の形をしたβ要素は、視覚的イメージ(原初的表象)に変形されるのではなく、「things in themselvesものそれら自体」として感じられる。「thing-in-itselfものそれ自体」とは、ビオンがカントから借用した概念であるが、この精神分析的な文脈ではその意味はまったく異なる。ビオンにとって「もの」とは、「未消化の事実」であり、象徴化されていない経験であり、心的な出来事には少し及ばない生の素材であり、心的な精緻化にはそぐわない。私の連想のペナンブラでは『リア王』が思い出された。リア王が荒野で、ベドラムから逃亡した狂人に変装したエドガーに会うと、堕落した王と愚か者、そして哀れなトムの間で奇妙な会話が始まる。哀れなトムはリアと同様、すべてを失ったように見える。彼は荒野に裸で立っている。リアは彼に言う。 おまえだけが人間そのものだ。」(『リア王』3, 4, 106)。これは、カントがこの言葉を夢見るずっと前のことである。」

ーーCHAPTER EIGHT The primordial mind and the work of the negative –W.R. Bion Between Past and Future Edited By Franco Borgogno, Silvio A. Merciai, Parthenope Bion Talamo,2000

アンドレ・グリーンAndré Greenのこの論文は1997年7月29日、IPA第40回大会(バルセロナ)W.R.ビオン生誕100周年記念のオープニングレクチャーをもとにしている。ビオンはカントを自分に寄せた理解で使用しているから哲学をここから学ぶことはできない。でもグリーンが連想してくれたリア王のおかげで言いたいことはなんとなくわかった。というか精神分析の本質はシェークスピアの引用でだいぶカバーできる、とフロイトだって思っていたのではないのか。そんなことないのか。『リア王』読みたいし、舞台も見たい。でもやらなくては。なんか今日は肌寒い。薄着だと少し寒いね。風邪ひかないようにしましょう。

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ほうたる、アンドレ・グリーン論文

昨晩の帰り道、オレンジの光が草むらによぎった、気がした。蛍?そんなはずない。ここは新宿と渋谷の挟間。先日の句会の兼題の一つが蛍でいろんな蛍を見たからそんな気がしたのだろう。ほう、ほう、ほーたるこい、と口ずさみながら歩いた。ほたるは「ほうたる」ともいう、と句友の句で知った。これまで「ほ、ほ、ほーたるこい」と歌っていたが「ほう」で歌ってみた。1音入るだけでだいぶ柔らかくなる。蛍の写真を見るのも楽しい。シャッタースピードによって光の形が異なる。つまり蛍は光。昔蛍狩りに行ったと思うが蛍に会えたのだったか。小さな光はみんな蛍と思ってしまい結局本物とは会っていないかもしれない、と蛍の季節になるといつも思う。

昨日はようやくアンドレ・グリーンの論文のざっくりした翻訳をはじめた。まとめて説明できるタイプの論文ではなかったので結果的に翻訳することにした。いろんな原稿を出し終えて6月になってから1日1ページやれば余裕、と思っていたのに学術大会の前日まで原稿を出せず、そこでまず1週間遅れた。そして1週間いろんな本を読んでサボってるうちにアジアンパシフィックカンファレンスの英語レポートを出し忘れていることに気づき、それに時間というより気持ちがとられた。もう3週目、20日になってしまった。DeepLを使ってもアンドレ・グリーンのはフランス語でも難しいのをさらに英訳されてニュアンスが変わったものを訳さねばなので出力された日本語がなんとなくしかわからず結局自分の言葉にしながら理解することになりこんなことをしていては絶対に間に合わないとなっている。それでも昨日は昼間の数時間が空いたので結構なスピードでがんばり半分はできた。あまり頭に残ったり心に響いたりしていないただの作業みたいになっているけどとりあえずやってから読み直そう。読み直してもわからなそうだけど。ざっと最後を見たらどうやらモーリス・ブランショの「答えは問いを不幸にする」が締めにきそう。日本の精神分析界隈ではこれはビオンを通じて有名かもしれないけどアンドレ・グリーンが教えたみたい。ジョン・キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」もビオンを通じて知った人が多いかもしれない。もちろん他の領域ではキーツと出会う別の文脈があると思う。精神分析ではビオンが1967年の講演で引用したキーツの手紙が精神分析とはまさにそういうものである、と的確に示しているだけに有名になった。土居健郎の「わからなさ」を大切にしたのと似ているし、そもそもフロイトが盲目であれと言った。どこで言っていたのか探そうと思ったけど時間がない。その前にビオン、じゃなくてグリーン。この二人は仲が良かったそうでいろんなやりとりをしてきたらしい。それに基づいた論文だから面白くないはずはないと思うのでがんばりましょう。

今日も暑くなりそう。お気をつけてお過ごしくださいね。

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忘れ物、時間のせい。

「葦」のココナッツサブレ美味しい。スイカも染み渡った。昨晩は少しひんやりしたけど今朝は早朝からリビングがキラキラ。梅雨は昨日で終わったのかしら。昨晩はひんやりだったけど朝着てきたはずの上着を着ていないことに気づいたのはオフィスを出てしばらく歩いてからだった。朝はもっと寒かった。自分のオフィスに置いてくる分にはいいけど常に忘れ物が多い。大きいリュックともう一つが限界。そこに帽子とか傘とかがつくともう無理。雨が降っていれば傘には気づけるけど。カフェに寄ったら隣に座っていた人が「これ」って傘や帽子をレジにいる私に届けにきてくれるということが連日起きている。もちろん相手は連日とは知らないし、「ああ、また!すいません!」という私の残念さも伝わっていないと思うがそんな気分だ。大体こういうことを延々書いているうちにやるべきことをやる時間がなくなっていることを放置しているのも似たような性質に違いない。注意力にかけるし集中力にもかける。子供の頃よりずっとマシ、といえばそうだがそんな比較をしたところで今の自分がマシになるわけではない。世知辛い。

 この前の発表で精神分析は一方向的で不可逆的な時間を意識させると述べた。時系列が曖昧で、時間が過ぎていくことを意識しないまま現実より観念に囚われている場合、週の半分以上会う、という精神分析設定は設定だけで役に立つ。引きこもっている人が自分の誕生日や年末年始など区切りが近づくにつれ強烈な不安に襲われることがあるのは過ぎ去っていく時間を強く意識してしまうからだけど、平日に仕事なりなんなりに行って、土日は休む、というようなリズムがある生活をしてる場合でも意識しない時間というのは日常にはたくさんある。子供がいる人といない人では見通しの持ち方など時間感覚は全く異なるだろう。というか他人のお世話をするためには見通しを持つことが必要になるからそれが苦手な人はさらに負担が増えてしまう。「こんなはずではなかった」がたくさん起きてしまう。ときには「だからいったでしょ」と怒ってしまう。「自分のことくらい自分でしてよ」という怒りは切ない。誰だって自分でいっぱいいっぱい。私が自分の傘や帽子を忘れる分にはあまり誰かを困らせることはないが他人の分まで忘れ物しないようにとか気を遣うのは大変なことである。一方、物忘れ歴も長くなると「忘れ物ない?」というような聞き方はせず「携帯は?お財布は?ハンカチは?」と具体的な聞き方ができるようになる。そしてなんにでも紐をつける。同じく忘れ物名人の友人はなんにでもAirTagをつけているという。私の場合はそういう現代的な紐付けではなく、実際に紐をつけている。ストラップというやつ。大きいリュックの中もファスナー付きのバッグがいっぱい。それにさらに紐をつけたりもしている。もちろんファスナーを開け放しにしてリュックの奥底の暗闇からそれらを救い出さねばならない時も多々ある。あ、時間の話をしていたのだった。そういうとこだぞ、と言いそうな友人の顔が思い浮かんだ。いってくれる人大事。そう、精神分析では超自我とかいう言葉を用いたりするが、そうまでいわずとも毎日のように会っていれば昨日、今日、明日、は連続性を持って感じられるようになるし、会わない日でも「先生がこういってたなと思い出して」とか言葉のリフレインが生じたり「今度これ話そう」とか「火曜日、行きたくないなあ」とか先のことに思いを馳せたりするようになる。年単位で同じことを呟き続けている自分に「変わってない」と何度も落ち込んだりもする。そう気付けること自体が一つの達成だったりするわけだがたしかにそこにとどまっているわけにもいかない。そう、人生は世知辛い。焦ったり追い詰められたりするのも時間のせい。「いちいちうるさいな」と思ってもその人のせいではない。その人も時間に囚われているのだからしかたない。私も焦っているがこれも時間のせい。でもそういう時間のなかでやると決めたのは自分だからやらなければなされない。何かのせいにしたところで大抵のことは何も変わらないのだ。世知辛いといいながらやるしかない。辛いね、がんばろう。

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取りこぼし、助成金

雨。雨。雨。洗濯機の回る音が重なって水の中にいるみたいになってる。実際湿気に沈む。

昨日SNSで「これに怒った人はこれには怒らないんですか」というような構文?を見かけた。これを使いたくなるのは本当によくわかると思う一方、この論理は成り立たない、出来事が違う限り、人が違う限り、と思った。私もよく思う。自分が問題としている差別に対しては許すまじという態度で見知らぬ人にまで反応する人でもこちらが搾取されたと感じている人のことは信頼して何かとやってさしあげているのをみたりすると「これには怒るけどこちらは大好きなんですね」と思う。でもこれも成り立たない。その人の現実には起きていないことだから。

SNSは自分を当事者に置くこともただの他人にしておくこともたやすくできる魔法ツールみたいになって自分にはない正義を他人に振りかざしたり(正義って振りかざすものじゃないと思うからある意味納得だけど)、女を傷つけながらフェミニストと依存関係を作ったり(ある意味同じことやってるってことだけど)、他人から見ても酷すぎる言葉をはく人が数年後に訴えられたときには見える形でやりとりしていた人たちはシーンとしているとか(ある意味加担したくせにと思ってしまうけど)、理不尽だと言えるようになり、すごく真剣に取り合ってもらえる分野も増えた一方、相変わらず同じことが起き続けている。常に取りこぼしがあるのが現実だから仕方ない。もちろんどうにかしていきたい。

昨日は隙間時間に英語のレポートを書いていた。GWにシドニーであったアジアンパシフィックカンファレンスで助成金を申し込んだので、それを受け取るためのレポート。国際精神分析学会(IPA)とは独立した組織だけどかなり尊重されている団体として候補生からなる組織IPSOというのがあって、日本の候補生たちも全員それに所属している。私はそのIPSOのパネルのプレゼンテーターだったので助成金を申し込める、と友人が教えてくれたので年末年始せっせと申し込み用紙を書いた。英語でプロフィールを書くのも志望理由を書くのもとても大変だったけどなんとか書いた。日本精神分析協会で毎月行われている例会は英語でなんていうのか、とかそんなことから確認しつつ。そして先月、無事にシドニーで発表してその報告を書くのをまたもや忘れていてもう6月も後半になっていた。30日以内と言われていたのに。これも友人に「まだ大丈夫だと思う」と教えてもらって慌てて書いた。英語で2000語。日本語だったら字数だけはいくらでも書けるのに「え、これだけ書いて500語?」「え?まだ800語、もう書くことない」となってしまった。途中から同じことを言い換えてるだけみたいになってしまい自分のダメさに唸ったけど出すことが大事、と送信。あっという間に北米リージョンの担当の方から返事がきた。請求書のフォームと一緒に。ああ、せっかく書いたのにこんなにすぐに次の試練がくるとは。カンファレンスのことではいろんなやりとりを海外の担当者としたけどみんな恐ろしく仕事が早くて「ガーン」「ヒエー」となることが多かった。こちらが一仕事にやたら時間をかけて「やっと終わった!これで別のことができる!」と思ってもそんな希望を打ち砕くかのようなスピードで次のタスクがやってくる。ガーン。そもそもは私が別のことをしていてやっていなかったのが悪いとはいえ。ガーン。とか言ってるあいだにやったら?というお話ですね、ありがたいことなんだから。はい。週末のセミナーで担当している資料も読めてないしまずい。全部英語だし。もっとまずい。雨だし。どの地域も被害が出ないといいですね。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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お祝い、組織など

ベッドから手を伸ばして窓を開けた。レースのカーテンを買わないと。あまり風は入ってこなかったけど鳥たちが面白いくらい賑やかだった。

友達ととっても美味しいイタリアンに行った。別の友人に教えてもらってからもう何回か行っている。聞いたことのない食材のお話も楽しいし、お皿もカラフルでユーモラスでとってもキュートでなにより美味しい。今回はご馳走してもらってしまった。お花もいただいてしまった。なんと。大好きな黄色とオレンジのお花。嬉しい。

私は日本精神分析協会に所属しているので組織の内側のことも組織というもの自体についても色々と考え、いろんな人と話す機会がある。週末もそんな話をしていて、事務作業をしてくれる人に場所とお金がしっかり払われる組織であるために、と考えればシンプルなのではとなった。今はなんでもレンタルで一時凌ぎがしやすい時代だけど次の世代のことを考えるのであればどこかに根付くことが大事。

根付くといえば、私は大学時代、重度の自閉症の人たちと施設で生活する仕事をしていて担当していた人を迷わせてしまったことがある。当時同年代の私たち。小さい私とすらっと大きな彼はいつもの感じで一緒にいた。時折すごいジャンプ力とすごいスピードで走ることはあっても戻ってきていた。なのにこの日はその勢いで山道を登っていくのを見失ってしまった。いつもの場所のいつものこと、だからなんだったのだろう。私の慢心だった。相手にとってはそうではなかったかもしれないのだ。生きた心地がしなかった。地元の人が知っていてくれたおかげで無事にまた会うことができた。大きく混乱するでもなくどこか遠くを見るように、しかし淡々と私の腕の方へ戻ってきくれたところで私の記憶は途切れている。彼らが言葉を話せたらどんな思いだったか教えてもらえただろうか。

さて、地域のつながりが大切というのは田舎では言葉にするまでもないが(つながらざるを得ない面もある)東京でも同様に大事だ。東京中心の学術団体における東京と地方で考える場合、東京にいる人が地方のためにできることはあるし、地方の人も東京にいる人にできることを提案してみる手もある。

GWに四谷にある小寺財団で狩野力八郎先生が残された本の頒布会があった。お知らせはTwitterだけだったのか知らないけれど私はTwitterで知って行った。初日は直接くる人のことを考え遠慮したが、数日後もまだ残っていた本から見繕って東北や北海道の友人に送った。もちろん普段から繋がりがあって「もし可能なら」という話をしていた。自分が受けられる恩恵をどこまでなら届けられるだろう、もしその場合どうやって、というのを考えることは楽しい。労力や金額の問題は難しいがそれももちろん考える。その頒布会の時に、東京の人はいいな、というような呟きも散見されたが本の写真をアップしてもらって自分で本の名前をリストにして着払いで送ってもらうことはできないか、とお願いした人もいるかもしれない。これは事務局の仕事ではない可能性があるからできるだけ負担をかけない形を提案しつつ交渉してみるというのは悪くないと思う。そういえば昔、鈴木晶が自分でそういう企画をしていてジェフ・ロヴィンの『怪物の事典』を送ってもらった。あれは有料の頒布だった気がする。

勉強会や研修が同じようなメンバーで入れ替わりが少ないのも組織の経済にとって良くないという話もした。今日はもう時間がないから書かないけどいろんなことは力動的に考えることができるので血の巡り(の話もした)と同じく滞ることに注意を払いながら健やかでいたいものである。とりあえず今日も。

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非医師、非大学所属、女性であることとか。

雨がどこかを叩いたり引きずられるような音を立てている。どれもこれも雨。七変化。紫陽花も七変化と呼ばれる。四葩ともいう。私は俳句を作るとき、紫陽花より四葩を使うのが好きだ。

昨日、精神分析家に登録されたことをSNSに書いたら友人の坂田昌嗣さんが非医師、非大学所属、女性というマイノリティの立場の私が登録されたことは現在の日本の精神分析状況の突破口となるかもというようなことを書いてくれた。坂田さんは睡眠行動医学とCBTを専門としながら大学で働く男性なわけだが子供や女性に対する眼差しが温かいだけでなく実際に行動で示せる友人のひとりだ。精神分析はIPAのウェブサイトを見ればわかるように世界では女性が中心になりつつある。会長もこの数年ずっと女性だ。シドニーで各国からのパネリストと発表したときも全員が女性でそういう場では非常に対等に仕事をできていると感じる。もちろんそんな私たちが語るのは差別であり戦争であったりするわけだが。日本でも女性分析家は増えつつある。しかし坂田さんが書いてくれたように非医師、非大学所属の精神分析家はようやくという感じだ。もちろん日本の精神分析協会も変わりつつあり、週末の日本精神分析協会の学術大会で私たちのパネルに来てくださった方はお気づきだったと思うが発表者の性別も地域も職種もバラバラだった。たまたまそうなる程度に色々な候補生が増えているということである。それでも坂田さんが言語化してくださったことはありがたかった。同時に、個人で開業している非医師の女性臨床家が増えているのは先輩方の世代のおかげであることに改めて思い至る。精神分析家の訓練は受けておられなくてもいわゆる日本的な週一回の精神分析的心理療法をプライベートオフィスで実践しながらフロイトに始まる精神分析の知を毎週のセミナーや個人スーパーヴィジョンで長年に渡り多くの人に受け継いできた女性臨床家の先生方がいてくださったおかげで私たちはその流れに乗りながら自分の目指す方向を考えることができた。実際、私はその先生方に直接ご指導を受け、部屋もお借りするなど間近で学ばせていただいた。私が開業したときにはお祝いもいただくなどいつも背中を押してくださった。してもらったことを還元しようとするというのは人の心の自然な動きのひとつだと思うが、私も私のあとに候補生になった人たち、精神分析家を目指すわけではないがその知に関心を持ち臨床に活かしたいと思っている人たちにできることがあればと思い活動してきた。それが必ずしもいい方向に作用するとは限らないのが難しいところであるが似たようなまとまりとして存在する必要はない。むしろ一つの方向へぐっと引っ張る力のある存在が多かったことで家父長的と言われる状態が続いてきた面はあるだろうからそういう力と対等に対話できる相手としてバラバラと存在していくことも大事だろう。私はそういうあり方で私たちの居場所を作ってきてくれた先輩方へ恩返ししたいと思っている。精神分析の存続には精神分析家が増えること以上に精神分析という知に関心を持ち対話を続けてくれる存在が不可欠である。そしてそういう存在はありがたいことに実在する。もし精神分析の世界に飛び込めない理由が非医師、非大学所属、女性であるということであるならば少し安心してもらえただろうか。もちろん必要なら相談にものる。何かを諦める要因を少しずつでも減らしていけるようにいろんな人と協力していきたい。これからもどうぞよろしく。

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虫、『むらさきのスカートの女』、平和

鳥が鳴いている。昨晩はいつもの猫がGを追いかけていた。いつものように私に警戒することもせずおもちゃのように追いかけていた。我が家にも変な虫が登場した。真っ黒で怖い。Gではなく思った以上にトロイ。クイックルワイバーで取ろうとしたらボトンと落ちた。思ったより大きな音だった。色々と書類が入っている大きくてすごく重い花瓶(アートなんだと思うけどひどい使われ方をしている)に多分落ちた。のぞいても見えない。そのうち出てくるかと思ったが出てこない。あのトロさだと自力で登れないのではないか。怖い。いつのまにか増殖されるのも嫌だし、中で死なれるのも嫌だ。がんばって登って。ああ、なんでこんなことで応援をしなければいけないのだ。しかし本当にそこに落ちたのだろうか。

昨晩、突然今村夏子の『むらさきのスカートの女』を思い出した。あと昔読んだヘンデルセンソンくん(これ多分名前違うけどこう覚えてしまっている)。『むらさきのスカートの女』は中身より表紙を思い出した。かわいい表紙だよね、と最初は思うけどあれ?となる水玉の表紙。なんであれ水玉なんだっけ、と思った。そもそもあれスカートだった?話の詳細は怖かったとしか覚えていない。「むらさきのスカートの女」という主語が繰り返されると結構くどいな、と思いつつその悪意のない執拗さが怖い話だった気がする。「紫のバラの人」だとそんなくどくないのに。いや、あれはキャラと合っているからそう思うだけか。ヘンデルセンソンくんとよんで私たちが怖がっているのは子供の頃に読んだ漫画に出てきた子。人だったかどうかさえ定かではない。だって最後信号になって「いつも見守ってるよ」みたいな感じで終わったから。さっき、突然思い出した、と書いたけどその時は理由はわかっていたので突然ではなかった。しかしなんだったか。もう覚えていない。

今朝はブールミッシュのフィナンシェとペパーミントティー。暑い。眠くなってきた。寝てはいけない。寝てはいけない、って雪山とかで言われるイメージ。夏は熱中症で死ぬこともあるけど。熱中症って初めて聞く人は何かに熱中しすぎてしまうことって思ってしまう人いると思う。寝てはないけない、は私が最初に聞いたのは凍死しそうな場面ではなくて映画。小学生の時に見た『対馬丸』のアニメ映画。強烈だった。今もその断片を思い出す。とても悲しかった。子供の頃に戦争は絶対にダメだと思った気持ちは今も変わらない。でもこんなに身近に戦争を感じるようになるとは思ってもみなかった。あの頃はまだそれは過去のことで遠くなっていくものだと思っていた。今は国際精神分析協会に所属しているせいもあり世界情勢が実際に身近だ。国際交流をすればそれはすぐそばの話であると実感して言葉を失う。それでも今こうしていつもの日常を始めようとしている。この平和も現実だ。どうしたらいいのだろう、と漠然と考える。身近でも自分の身に降りかかっていないことを具体的に考えることは難しい。ただ唸るばかりだ。

今日は県外に行くのでついでにどこかに寄りたいが暑い。やることやってからにしろ、という声が頭の左上の方から聞こえた。はいはい。返事は一回。はい。平和ってなんだろう。はあ。暑さに気をつけて過ごしましょうね。

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小説、日常

早朝の空がとてもきれいだった。強い陽射しが照りつける前の空はこんな薄く涼やかなピンクが広がっている。意外とたくさんの人が色々なところでこんな空を眺めているのかもしれない。

山本周五郎を思わず読んだという話はすでに書いたか。句会の兼題が「釣忍」だったところからだ。俳句はまだできていない。明日締切だから今回も直前になるだろう。以前『青べか物語』についても書いた気がする。私はジャンルというものがよくわかっていないのだがああいうのは時代小説というのだろうか。時代劇っぽいのを時代小説というのか?藤沢周平もそうだと思う。私はこの二人の作品がとても好きだ。どちらも女の描き方がいい。藤沢周平の描く女は繊細で賢く、山本周五郎の描く女は情に深い。愚かだが優しい男たちとの組み合わせもロマンチック。「釣忍」もそうだが小物遣いもわかりやすく効いている。昨日今日は打って変わって倉橋由美子『交歓』を読むのに隙間時間の全てを使ってしまった。これは「桂子さんシリーズ」として知られる連作の一つだが、単独でも十分楽しめる。桂子さんはとても賢く本来どうにもならなそうな欲望もスマートにコントロールする。男たちが描く女とはだいぶ違う。小説に出てくる人間は豊かだ。そしてやはりコミュニケーションがスムーズ。

もう金曜日。アンドレ・グリーンのビオンについての論文を訳さないといけないのだけど何もしていない。学術大会の原稿が終わったらやろうと思ったのに原稿はギリギリになり、日曜にそれを発表し、月火水木と音楽を聴き、小説ばかり読んでしまった。最近全然読めていなかったから、と思ったけどここで小説のこと書いていた、そういえば。原稿もやらずによんでいたのか。

あ、別のことをしてしまった。今日も上野原の菓子処植松のお菓子をいただきましょう。今朝は少し時間があるからコーヒーをゆっくり淹れようか。コンバットおかなくては。美味しいもののこと考えてたのにコンバットのことも思い出してしまった。ああ、日常。今日もがんばりましょう。

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お菓子、夢、持続。

今朝は上野原のお土産。菓子処植松の焼きモンブラン。ここは「あんどうなつ」が有名。この日はすでに売り切れていたけどただで小さめのをもらえたとのことでそれも数日前に食べた。すごく美味しかった。久しぶりにキウイも食べたけどまだ酸っぱかった。タネがぎっしり。

今朝は松戸伊勢丹の狭い入り口の前の広い広場で自転車を止めた夢を見た。実際の松戸伊勢丹と似ていたけど違った。実際のといってもずっと前のだから今はわからないのだけど。というか調べたら閉店していた。平成30年、2018年に。そういえばそうだ。数年前に松戸に行ったときに知ったはずだ。思い出の場所だからみんなでそんな話もした気がする。夢だなあ。面白い。花火屋さんで花火を買って江戸川でやった。まだ10代後半だった。20代になってもちょこちょこ行っていた。あの花火屋さんはもうないだろう。友人が大変な病気になったと聞いてすぐ会いに行ったのも松戸だった。あれから何年になるのだろう。進行は早かった。同じ仲間内の彼女が突然亡くなったのはその数年後。あれからも随分経つ。近いうちに彼女のご家族と会う約束をしている。私は彼らに対していろんなことを後悔していることにまた気づいた。後悔しているとか言って忘れては気づく、を繰り返している。色々話したい。

精神分析家の資格を取れました、と友達や家族に報告したらとても喜んでくれた。長い訓練をずっと支えてきてくれた。「よく頑張ったね」という言葉がこんなに嬉しいとは思わなかった。「私はよく頑張ったのか?」とも思うが事実はともかくそう言ってもらえるのだから頑張ったのだ、きっと。トレーニングは日々のことすぎてひたすら淡々と繰り返してきた。これだけ時間がかかるとがむしゃらに何かを目指すという感じにもならないし「とりあえず今日もがんばりましょう」というのの繰り返しだった。トレーニングを終えてもそれは何も変わらない。ただ私を観察してくれる人の目が減る。後付けでならなんとでもいえるが臨床はその場その場での判断になる。精神分析はひたすら持続性のうちにあるのでやりとりと現象を正確に描写し仲間内で検討してもらうことは続ける必要がある。持続的な響きを言語化することでそこに複数の耳が現れる。そこでは私たちが積み重ねた響きは別の音として聞かれる。そうならざるをえないしそれを聴くことに意味がある。自分にはそう聴こえなかったものをどう聴いていくか。精神分析はどこまでも耳の仕事だと思う。もちろん視覚的な情報を使わないとかそんなことでは全くない。

お世話になった先生方、いつも応援してくれる友達、家族、みんなからの眼差しをとてもありがたく思う。しばらくお祝いモードで胃腸も継続的に使うから私の胃腸がんばって。まあこうやって何かと集まる理由を作っては遊んでるわけだ。感謝感謝。がんばりましょう。

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とりあえずやってみる

昨日は仕事以外はだいぶぐったり過ごしてしまった。すでに暑さに耐えられていないのかもしれない。

学会の抄録を修正しなければ。あのスピードで書いてよく通ったなと思うが当然修正が必要だったか。PDFの修正ってどうすればいいのだろう。前にもやった覚えがあるがやり方を忘れてしまた。今やってみたらできた。送信。どうしてソフトによって字数が変わってしまうのかがわからないけどまあいい。とりあえず採択してもらえた。なんでもやってみるもんだ。

今昨晩の夢がパッと頭の中に出てきた。『虎に翼』の兄弟みたいな子たちが出てきた。伊藤沙莉の顔の演技がすごすぎていつも楽しい。ぎゅっと小さい顔だから余計わかりやすいのかしら。細かい筋肉を器用に動かせるのがすごい。

この前、日本精神分析協会の学術大会で候補生の会のパネルで発表したと書いたのだけど、会場からいろんな質問をもらって思った。たしかにみんなが心配に思ったり疑問に思うことって私も候補生になる前に思っていたことかも、でも忘れてたな、と。時間とかお金とか現実的なことはたしかに大変だった。でもそれよりも候補生になってからの分析が大変すぎてリズムができて以降はそういうことは気にならなくなった。開業して自分で調整できる範囲が増したことも要因だろう。でもなによりも精神分析が大変だった。つまり自分、厄介すぎた。今でも厄介だけど。あ、でも現実的なことはカウチでも候補生同士とも話せる環境だったからなんとかなっていたというのもあるか。こうして資格をとってみれば、というか訓練の修了が近づいてからは精神分析を良い悪いとは関係なく価値あるものと思えたが精神分析や制度に対する嫌悪や懐疑がなくなったわけではない。精神分析のというよりフロイト、ラカン、自分の分析家など個々の分析家の限界なんて当たり前にある。限界は何にでもあるし、それに対して色々思うのも普通だろう。学問は自分にとって収まりのよいものであっては困るわけで、そこに拡張の可能性を見出し現実化していく努力をしていくことが大切なんだと思う。私は学問の知というより体験として実質を伴わせたかったわけだけど。やってみないと何を自分が不安に思っていたかはわからないものなんだ、ということしか言えないけどそういう実感もやってみないと得られないから伝わりにくい、というのはもうしかたないこと。でもまあ現実的なことはどうにもならなくてもそれをどうにかしようと思えるような対話なら可能だろうからとりあえず相談してみるって大事と思う。シンプルに。今日も暑そう。がんばろう。

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良い悪いではなく。

遅く帰ってきてたくさん食べてしまった。週末、学術大会で東京駅八重洲口におり、その地下街がとても充実していた。発表があったからお昼は20分くらいしかなかったが会場からすぐ入れる地下街へ行って北海道のお菓子が売っているところとかドンキとかで色々買ってしまった。みんなにもあげた。そういえばあなたは北海道出身ではないか、とその友達にも北海道のバターサンドをあげた。ドンキにはいろんな種類のミレービスケットがあった。その中の一つがコーンポタージュ味。「朝のミレー」と書いてあったのに夜中に食べてしまった。「真夜中のミレー」というのもあってそれはニンニク味!そっちだったら今朝はもっと気持ち悪かったかもしれないがコーンポタージュ味の味はそんなにしなかった気がするから油のせいだな。油のせいで美味しいし油のせいでおなかが痛くなる。美味しいことばかりではないのだ、人生は、と急に大きなことを言っていい他愛ない領域。良い。

プレイセラピーのスーパーヴィジョンをしていると良い遊び、悪い遊び、というものがあるかのような話になるときがある。遊びに最初から良い悪いが備わっているのではなく楽しく遊べたら良い遊び、危険なことをしたら悪い遊び、危ないことになりそうな要素強めだったら悪い遊び、とか言えるかもしれないが、遊びは楽しく遊んでいてもいろんな要因で怒り出したら悲しくなったりそしてまた楽しくなったり一つの遊びでも色々生じるので名詞として捉えるのではなく動詞で捉えた方がいい。そしてこれはプレイセラピーに限らずだがそれを「良い」「悪い」と捉えるときこそそう判断している自分は何者かと考えるきっかけにした方がいい。前回のセッションでめちゃくちゃ怒りながら途中で出ていった子が翌週何事もなかったかのようにやたらスムーズにまとまった遊びをしていたら「今日はいい子だな。先週発散したからかな」ではおそらくない。大抵はどうにもならない感情をなんとか自分で処理して表面を保っているわけでそういう様子にホッとした治療者の思わずの一言で怒りが暴発したりする。遊びと呼ばれるものの内容は様々だが、お互いの心が相互作用しつづけていることに細やかな注意を払うところがセラピーと学校とかの遊びとの違いだ。学校の遊びは大きな筋肉を使う遊びも多いがそれは広い場所があるからであってプレイセラピーでそれをすることについてもきちんと考えた方がいいと私は思う。細かい筋肉や使っていない筋肉を使うときの疲労は結構なものだ。まあ、これは単に個人的な体験だが。

Bon Joviのデビュー40周年、16枚目のニュー・アルバム『Forever』リリースということで聴いてる。ザ・ボンジョヴィといつも思う。Foreverというのも「らしい」と思う。しかし16枚か。もっとだしてるかと思った。若い頃、横浜スタジアムだったか、屋外のライブに友達といった。よく聴いてはいたが特別好きなわけではなかった。なんとなく歌える曲は多かった。実物はめちゃくちゃカッコよかった。歌いまくった。やっぱりライブは良い。ブライアン・アダムスのライブに友達が行けなくなって代わりに行ったときもそうだった。ニューアルバムの予習を直前にしたくらいだったが特に予習要らなかった。ステージの間近で「今目があった!」と誰もが思うやつが私にも起きた。カッコよかった。前に仲良しの美容師さんとこれまで行ったライブの話をしていてレディー・ガガのライブがすごかったという話になった。やっぱりそのクラスの人のライブには好き嫌いを超えていってみたいよね、と盛り上がった。私は最高だったB’zライブ&一泊の話もした。そういう時間があった日々というだけで懐かしいが今は今で面白い毎日だ。もちろん遊びと同じで楽しいだけではない。でも面白さは常にある。汚い言葉で言い表したい事態の最中にあるときでも面白みはある。二分法で考えなければいろんなことにそれは潜んでいる。今日もいろんな気持ちでいろんなことを。おなかが気持ち悪いけどがんばろ。みなさんもお大事に、お元気で。

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精神分析協会の学術大会だった。

二度寝坊。しかしゆったりジョーダン・ラカイ。そしてカステラ&夏みかんヴァッファル(だっけな)。お菓子豊富!週末は日本精神分析協会がはじめて外部の臨床家も参加できる形で開催した学術大会だった。内部だけの報告会でも結構人がいると思ったが全然だった。たくさんの人が近くからも遠くからもいらしてくれた。知り合いもたくさんいたが知らない人もたくさんいた。私がパネリストとして登壇した候補生の会の企画にもたくさんの人が参加してくれた。3人のパネリストが全く異なる形で自分の体験を話すことになって面白かった。私は前日までほとんど原稿も書けていなかったがどうして私がIPAでの訓練を必要としたのか、無意識的な動機とその要素としての個人的な体験を話した。そしてそこから学んだ私にとっての訓練、私にとっての精神分析みたいなことも話した。候補生になるまでの躊躇はわかるが私みたいに訓練に入るかどうかをIPA以外の分析家の分析で考える人もいるのでとりあえずこうやって相談しやすい場を作れたのは役に立ったみたい。先輩方、現在の候補生のご参加もありがたかった。私たちも大変楽しんだ。そのすぐ後は学術的な内容で個人発表をした。お世話になった先生方がいらしてくれてコメントもくださった。その内容からもまた学んだ。お会いできなかった先生にはメールを書いた。楽しい二日間だった。来年は市ヶ谷で開催予定。新鮮で高度な議論ができる場として続けていけたら嬉しい。

私にとって候補生を修了して会員(精神分析家)になりはじめての発表になった候補生の会の企画での発表の最後の部分をこちらにも載せておこう。題は「Ongoingであること」にした。

 「さて、色々と書いてきましたが、限りある時間といつ失うかわからない命をこんな先の見えない、時間もお金もかかる訓練に私が費やすのは結局なぜなのでしょう。

 私が思うのは、私はこのような形で精神分析との語らいに実質を持たせたかったのだろうということです。私にとって精神分析は書物から得られる知ではありませんでした。だから私は病跡学でもなく哲学でもなく、精神分析家という実在する対象を求め、自分自身がそれになるということを欲したのだと思います。どれもこれも「今ここ」ではこう思う、ということでしかありませんが生きている間は全てが進行形、オンゴーイングであるという当たり前だけど希望ある事実に気づかせてくれた精神分析にこれからも多くの人が関心を持ってくださり、対話を続けてくださることを願っています。」

これからも臨床家に限らず多くの人と語り合いながら精神分析が存在していけますように。どうぞよろしく。

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夢見たり迷ったり話したり。

朝。足湯がしたい。夢で足湯をした、気がする。足湯なのに湯量がやたら多くて普通にお風呂みたいだった気がする。いや、そんな夢、本当に見たのだろうか。

朝からミーティングにおしゃべりに勉強に。ミーティングは貸会議室で。絶対迷うから早めに行った。ビルの前にベローチェがあった。最近ベローチェづいているな、と思いながらこれで安心安心と思ってあたたかいカフェオレを飲む。時間になって出るとそのビルに会議室がない。ない、ない!とGoogleマップを開く。すぐそばの違う場所に印がつく。同じ名前のビルがあるのか。マップを見ながら右に行ったらさっきまで1分だったところが2分に増えた。逆に来ていた。Googleマップの矢印だとどちらに向かえばいいかわからない。左に向かってもピンとこない。また右に行く。やっぱり離れていく。左か。でもどこここ。君は本当に地図なのか?いや、私が地図を読めない人間なのか。すぐに着いたが急いだら疲れてしまった。関西や九州からの人もきちんと時間通りに来ていたのに。私もさっきまでゆったりしていたのに。東京は難しい。でも久々にみんなとおしゃべりできるのは嬉しい。朝から夜まで断続的にいろんな人と話す。昨日は無事に精神分析家として承認してもらったのでいろんな人とハグした。トイレでも。トイレはみんなが集まる場所でありプライベートスペースでもあるからそこでばったり会うとパーソナルな感じが強まる。あまりよく知らない人にもなんとなくお祝いを言ってもらったりした。恐縮でござる。ありがたいことだ。友達からはモスグリーンという小さな植物をもらった。すっごくかわいい。この小さなガラスに水滴がつくこともあるらしい。なぜならこのちっちゃなグリーンは息をするから。ああ、かわいい。夜遅く帰宅してからテーブルに置いて写真を撮った。小学校と中学校で9年間。訓練には同じくらいかかった。小中はただの悪ガキだった、というか自分は悪い子だった覚えはないがランドセルではなくお下がりの紫のショルダーバッグを持っていったら注意されて注意の意味がわからなくて毎日持っていったり。ランドセルも好きだったけど好き嫌いではなく持ってくるべきものを持ってくるというルールがわかっていなかったということなのか?バスケットボールを持っていったら注意されたり。きちんと管理してたじゃん、と思うけどボールを持ち歩いていたらいけなかったのか。うん、今思うとそれは少し何かを引き起こした感じがする。あとはなんだろ。いい子じゃなかった?すごい悪い子たちと仲良しだったりもダメだったのかな。これは本当に悪い。でも私は仲が良かっただけで行動は止めてる方だった。でもなんか悪い子だったみたい。好きな先生たちはかわいがってくれてたけどな。なんでだ。スムーズにいうことを聞かないのがダメなんだろうね。昨日もそんな話をした。エライ人の一言でほぼ自動的に行動する人たちってなに、という話。もちろん話相手は自動的に行動しない人たち。スッということを聞かないのは全く悪いことではないがそこに文句を言うのが悪いことっぽいのだろう。まったく。今日は候補生の会の企画として候補生の「リアル」について話す。昨晩、やっと原稿を送った。自分用に大きな文字にした原稿をプリントアウトした。この年月で目がすごく悪くなった。良くなったところは特にないが無事にそこそこ元気に生きている。ありがたい。こういう感じで話せるといいのだけど、ということの「こういう感じ」はなかなか伝わらないのだろうと昨日話しながら思った。そういえば、という話もたくさんした。組織の内側では外からその組織について話されていることと全く異なることが問題になるのでそれについて色々話し合った。それぞれ同じことを問題に思っていても見たり聞いたり表現する仕方が違う。こうやって時々直接会ってあれこれ話せるのは本当に大事。「だからそれは排除じゃないって」とか。排除と感じる人がいるのはわかる。でも「だからそれは排除だ」と自分たちのしていないことをしていることに変えるのはおかしい。相手の圧力で論理を歪ませてはいけない。それは相手にとってもよくない。問題にすべきことを正確に描写していくにはこういう感じで話すことがほんと大切。話せて良かった、とそれぞれ安心する。普段はほんと余裕ないもんね。今日は役割を果たさねば。楽しくしたい。いつも「こういう感じ」で話せる人たちとの仕事だからきっと楽しいだろう。がんばろう。

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オーディブルとか朝ドラとか。

寝不足辛い。早朝から日差しが強い。リビングが光いっぱい。鳥の声がしない。ポットががんばってお湯を沸かしている。

昨日ここで沢木耕太郎の『深夜特急』のこと書いたらちょっと読みたくなって読んでしまった。香港行きたいなあ。飲茶食べたい。改めて読むと事実って連ねるだけで面白いということがよくわかる。あ、お湯が沸いた。

Amazonのオーディブルってあるじゃないですか。あれ2ヶ月無料とかで前に聞いてみたんだけど読む人によって本の印象が変わるからなんか変な感じがした。知らない本はいいのだけど知っている本にはもう自分の読み方がついちゃってるから最初びっくりする。原作のあるお芝居を見るときと同じか。でも便利は便利だよね、きっと。でも高かったよね、たしか。本は読んでみたいけど読むことが苦手、という人にはすごくいいね、きっと。私は自分の生活のペースとかその時々の気分で読んでいるからずっと同じスピード、同じトーン(ではないのだけど)で聞いてるとなんかやっぱり変な感じがしちゃうんだよね。視覚と聴覚は随分働きが違うものね。視覚だと背景も自然に映像化されるような感じもあるし。結局無料期間中にあまり楽しめずに終わっちゃった。

『虎に翼』の昨日の回も見ましたか。優三さんが出てくるとじわって涙が出てしまう。それはともかく椅子の使い方がうまい。あの公園のシンプルなセットだけで舞台が成り立つ。ダンスっぽくもある。そこにいたりいなかったりにはものすごい数のバリエーションがあるだろうからその表現だけでグッときてしまう。

遠くからきた仲間たちとおしゃべりしていてひとりっ子について話したのだけどとっても面白かった。ひとりっ子の人って「それがひとりっ子」って自分で言う人多くないですか。何か自分ですごくそう感じる瞬間が多いのかしらね。たしかに私の身近なところでも兄弟姉妹がいなくてよかったと呟いているひとりっ子がいたからこれもいる場合、いない場合のお話か。

今日はいつもよりも早く出ないとなのにどうでもいいことをまた書いてしまった。ここから出てここに戻る。頑張ろう。