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オグデンを読み始めた

昨年、邦訳が待ち望まれていた『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳)がようやく出版された。原書名はRediscovering Psychoanalysis Thinking and Dreaming, Learning and Forgettinghttps://kaiin.hanmoto.com/bd/isbn/9784909862211

オグデンのこれまでの著作はRoutledgeのサイトで確認できる。https://www.routledge.com/search?author=Thomas%20H.%20Ogden

『精神分析の再発見』以前に邦訳されたのはおそらく2冊目の著書『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』、4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』、5冊目『もの思いと解釈』、6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』の4冊だと思う。つまり12の著書のうち5冊が邦訳されたことになる。未邦訳のものも翻訳作業は進行中のようでそう遠くないうちに日本語で読めそうでありがたい。

202112月にはThe New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊が出た。このシリーズはクライン派の本はすでに何冊も訳されているが、独立学派のものは昨年邦訳がでたハロルド・スチュワートの著作と、そのスチュワートが書いた『バリント入門』くらいだと思う。オグデンの最新刊はComing to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

オグデンは本書でフロイトとクラインに代表される”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ。

この本はこれまでに発表された論文がもとになっているが、私はまずはオグデンがその仕事の初期から行ってきた”creative readings”に注目したい。読むという試みは常に私の関心の中心にある。

オグデンは『精神分析の再発見』においても「第七章 ローワルドを読む―エディプスを着想し直す」(Reading Loewald: Oedipus Reconceived.2006)と「第八章 ハロルド・サールズを読む(Reading Harold Searles.2007)とローワルド、サールズの再読を行っている。

これまで彼が精神分析家の論文を再読する試みとしては

2001 Reading Winnicott.Psychoanal. Q. 70: 299-323.

2002 A new reading of the origins of object-relations theory. Int. J. Psycho-Anal. 83: 767-82.

2004 An introduction to the reading of Bion. Int. J. Psycho-Anal. 85: 285-300.

などがある。

ほかにも詩人フロストの読解などオグデンの”creative readings”の仕事において「読む」ことは重要であり、それは彼にとって、精神分析実践において患者の話を聴くことと同じなのではないかと思う。

オグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”ではウィニコットの19631967年の主要論文2本が取り上げられている。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

まだ読み始めたばかりのこの本だが、50年以上前に書かれた論文がなお精神分析におけるムーヴメントにとって重要だというオグデンの考えをワクワクしながら読みたいと思う。

オグデンがウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysishaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”beingbe comingの問いに記述し直し、ウィニコットの”Oh God! May I be alive when I die” (Winnicott, 2016)を引用しているのを読むだけでもうすでに楽しい。

そしてすでにあるオグデンの邦訳が広く読まれ、精神分析がもつ生命力を再発見できたらきっともっと楽しい。

本当ならここでもっとオグデンについて語った方が読書案内になるのかもしれないがここは雑記帳のようなものだからこのあたりで。

そういえば中井久夫『私の日本語雑記」の文庫が出ましたよ。おすすめ!

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読書

『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』清田隆之(桃山商事)著を読んで

自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと

長い。書名が。しかしそのままの本だ。「一般男性」が括弧つきである理由は「はじめに」を読めばわかる。読み終えると「男らしさ」にも括弧をつけたくなるかもしれない。

著者の清田さんは「桃山商事」という恋バナ収集ユニットの代表だそうだ。主に女性たちの話をたくさんきいてこられた。

こんな記事もありました。ユニーク。)

そのなかで著者は、彼女たちが発する「男の考えていることがよくわからない」という声に賛同し、この本ではその男性たちが「何を感じ、どんなことを考えながら生きているのか、その声にじっくり耳を傾け」る作業を行っている。もちろん、著者が聞いた女性たちの「男の考えていることがよくわからない」という声は、特定の男性を思い浮かべるところに端を発していると思われ、本書に登場する男性たちもその彼女たちの特定の相手ではない。しかもたった10人の男性たちが「男の考えていること」を代表できるはずもない。自身でインタビュアーも務めた著者も当然そこに「それぞれの人生」という固有性を見出す。しかし同時に「驚くほど似通った価値観やメンタリティが浮かび上がってくる瞬間」も多く体験したという。

読者が本書を読んでそれを体験するかどうかはわからないが、私は読んでいてそれぞれの語りごとに思い出す顔があった。このインタビューは、著者の細心の注意によって加工されている。私たちの仕事における多くの症例報告がそうであるように、そのような加工は素材の生々しさを剥ぎ取り、第三者に伝わりやすい形にそれを変形する効果がある。つまり、こうして抽象度をあげることでより多くの人がそこに自らの体験を投影しやすくなる。私が自分の知っている顔をどの話に対しても思い出したように。本書の表紙のイラストにもそのような意図があるのだろう。三十三間堂で自分に似た顔を探せてしまうのも私たちのそういう性質ゆえだ。

とはいえ、このインタビューは「男性たちの正直な気持ちを知ることを目的とするため、質問や相づち、個人的な価値判断などは一切入れず、それぞれ「語りおろし」という形でありのままを伝えられたら」という考えのもとになされたと書かれてもいる。誰もが知るようにありのままという言葉は厄介だ。このありのままにも著者自身が即座に括弧をつける。言葉は語られてしまえば独り歩きする。「ありのまま」にはあっというまに色がつく。ある人にとっては我が事のようであり、ある人にとっては普遍的な事柄として、あるいはある人にとっては、、、と。

昨年『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房)という大変深みのある本(必読!)をだされた社会学者の朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)という本がある。私も仲間に勧められて読んだ。朴沙羅さんの父親は在日コリアンの二世で、母親は日本人だ。父は10人兄弟の末っ子、つまり朴さんには在日一世の9人の伯父さんと伯母さんがおられる。この本は、その「面白い」伯父さん、伯母さんの生活史を聞き取り考察を加えたもので、在日コリアンの人の歴史を知る上でも必読だと思うが、聞き手と語り手の呼吸や語り口、その場の空気が伝わってくるかのような生き生きとした書き方がとても魅力的で、「声」で語ること、それを聞くことを大事にしたい、と改めて思わせてくれる本だった。

一方、この『自慢話でも武勇伝でもない~』は先述したように、一切介入をしないという方法をとっている。そのため、文章がさらさらと流れ「読み」やすく、ひとりひとりの語りが発生する土地の違いのようなものを感じることはできるが、あまりによどみなく、彼らがそれぞれ異なる形で体験したであろう様々な情緒に直接的に心揺さぶられることはなかった。これは著者が「プライバシーの保護の観点から」彼らの語りを加工したせいではないだろう。20年近く、非常に多くの人の語りを聞いてきた著者には相当の具体例の積み重ねがあり、それはこれらの加工によって抽象化されたとしてもそのリアリティを失うことはないだろう。だったら、もしかしたらこのよどみなさこそが、著者が出会ってきた女性たちがいう「男の考えていることはわからない」ということと関係しているのだろうか。わからないが、私には形式の作用というか効果が大きい気がした。

著者は、10人の男性のインタビューの後に得た印象をそれぞれの語りの後に記している。その短い文章が挟まれることで、私たち読者は今読んだばかりの男性の語りに個別具体的な印象を見出すことができる。

著者は、この男性たちの語りはこうだが語られた側からしたらそれは別の語りになるかもしれない、という可能性を常に考慮に入れている。「おわりにー「感情の言語化」と「弱さの開示」の先にあるもの」で、著者は自分が「多数派という枠組みの中で守られ、様々な優遇や恩恵を知らぬ間に享受してきた“マジョリティ男性”だった」ことに気づくまでの著者自身のプロセスを書いている。そして「男の考えていることがよくわからない」と言う女性たちがいう「男」とは「この社会のマジョリティとして生きてきた男性たちではないか」と言う。

著者自身の言葉は少ない本書だが、男性に対しても女性に対しても一貫して流れているのは、これらを読む女性たちのこころの動きに対する配慮に加え、たとえ“マジョリティ”であったとしてもそこに潜むそうではない部分、いわばその人だけが持つ感じ方や考え方、あるいは体験に侵入しないようにという配慮のように感じた。私にはこの配慮が、介入を控えるという形式を採用したことと通じているように思えた。

もう少し具体的に書いておく。もし、彼らの語りがいかにも特定の相手に向けた形で対話の形で記述されたとしたら、著者が危惧するようになんらかのトラウマに触れる可能性は強まるだろう。特に、性が軽んじられたり、暴力的な関係においてはそれらが身体に与えるインパクトに比して言葉は貧困でパターン的になりがちだ。女性たちの「わからない」という言葉が傷つきの体験を伴う場合、その体験の再現にさえなるかもしれない。しかし、本書では彼らの語りを聞く相手の存在を意識しないですむため、読者は自分のペースや距離感でその語りに接近することができ、受身的に内容だけを取り込みながら読み進めることもできる。つまり、話されている内容が陰影や情緒で膨らむには読み手の能動性を発動させる必要があり、読みながら急激に自分の体験を近づけてしまうような、自動的に何かが生じてしまう危険性は遠ざけられる。少なくとも男性同士の対話として記述されるよりは、と思った。

私は、最初、それぞれの語りに対して「これって男性に特有のものなのかな」などと思いながら読んでいたが、身体性の関わる描写が増えるにつれ、違いはたしかに存在するし、お互いの想像力と対話が欠かせないことも改めて感じた。

著者の言葉は、内省的でシンプルで中立的で柔らかい。私が感じたように、読者がするかもしれない負担が減っているとしたら、直接彼らの話をきいた著者のこころがたくさんの作業をしてくれたおかげかもしれない。ただ聞く、というのはなかなかできることではない。

さて、題名に戻るが、もし、男性の話が「自慢話」や「武勇伝」に聞こえるとしたらそれは固有の事情以前に歴史も関係していることも意識できたらと思う。朴沙羅さんの本でもそれを学んだ。そしてもし「生きづらさ」を感じるとしたら、その歴史に対してあまりに受身的に巻き込まれているせいかもしれない、とも考えてみたい。

「らしさ」というのは曖昧なものだ。それをめぐってあれこれするよりも目の前の相手や状況に対する自分のあり方に少し注意をむけてみるのもいいかもしれない。自分が何者であるかはすでに内からも外からも規定されているかもしれないが、結局はなにかひとつの分類におさめられるものでもないだろう。そして自分のことをこうして静かに聞いてくれる誰かに話す機会を持つことの重要性も思う。たとえそこに多くの間違いがあったとしてもそれはたやすく個人の問題に還元できることではない。小さな声で届く範囲でなされること、それがより広い視座をもたらしてくれる可能性はこうして実際にあるのだから。

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マホガニー

マホガニーということばにふわっと記憶が蘇った。あの扉の向こう、いつも同じ場所で同じ姿勢をとって少し遠くの大画面をみつめる人のこと。あのテレビは当時は最新だった。ゴルフも野球も大河ドラマも「ベータ」に撮りためられた大量のビデオも遠くからでもよく見えた。ハウス食品劇場は別の部屋の小さなテレビで見た。しょちゅう泣いた。ハイジに似ている、といわれていたが、結構多くの子どもがそう言われていたことを大人になってから知った。囲碁はあの大画面で見る必要はなかっただろう。もちろんそこに映される側がその内容や登場する素材の大きさを私たちのために調整する義理などあるはずがないが、囲碁はただでさえ視聴者にみやすいように盤拡大版をみせてくれていたし。

さて、今や倍速の時代だ。少なくともそれが簡単にできる時代だ。サッカーなんてすぐに結果が分かってしまう。立ち上がれないくらい走り切ってコートに一礼してベンチに戻る選手の肩にタオルがかけられる瞬間に思いを馳せることも少なくなったりしているのだろうか。もちろん何度も何度も巻き戻してみる場面もあるにはある。そうそう「ビデオ判定」ってやつ、あれは面接をビデオ録画して見直して検討するのと同じような違和感がある。必要性は十分に理解しているつもりだが、結局見るのは人の目だろう、私たちの視覚の信頼性はどんなものだろう。目に見えるものが教えてくれるこころなるものはどんなものだろう。

マホガニー、今は少なくなった、とその人は続けた。えんじっぽいカーペットにむらさきっぽいベロアのカーテン。いまはない場所の記憶はおぼつかない。重たくて暖かくてくるまって遊ぶにはちょうどよかった気がする。レースのカーテンは隠れる用ではなく顔を押し付けてふざける用。岩崎ちひろの「あめのひのおるすばん」を思い出した。また少し記憶が浮き上がっては混ざりだす。家のどこかが少し軋んだ音をたてるだけで、風で庭の木の影が少し揺れるだけで、台所の氷がカランと音をたてるだけでキョロキョロしては居場所をなくしカーテンにくるまった。

マホガニー色の扉。あの扉はとても重かった気がする。でももしかしたらあの頃の私にはそうだっただけで簡単にひらいたのかもしれない。向こう側から強い力でひっぱられてどうしてもあかないときもあったけど。

その人が扉をあけてくれた。急かされることもなく迎え入れ送り出してもらえる。閉ざすのではなく、隔てるのではなく、たとえそうだとしてもノックをすれば返事がある。私がするよりずっと軽やかに扉がひらく。

そして交わす、言葉を。また思い出が少しひらく。孤独も寂しさもなくなることはない。カーテンがくるんでくれたそれらを大人になった私は少しは自分でくるめるようになっているのだろうか。少しずつでもそうだったらいいと思う。

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精神分析

ミュート

PCでTwitterを使っているときになにかを押してしまったらしかった。「自分をミュートすることはできません」と画面にでてきた(と思う)。「そりゃそうでしょ」と「え、そうなの?」が同時に出てきた。正反対のことを思ったのはどっちも私であるらしく、そう考えると「自分をミュートする」ということを無意識的にはやっているのではないか、という気にもなった。自分で自分を拒む、拒むまで行かなくても制限する。

自分なんて曖昧なものだ。いつも思う。あの人は「本当は」どんな人なんだろう、と悶々とすることはあれど、その問いが自分に向けられればやはり「わからない」となる。似たようなことは昨日も書いた。だって毎日そんなことを考える出来事と出くわすから。むしろそんな出来事を紡ぐのが仕事でもある。

「わたし」でなにかを感じ、なにかを考え、発信したりしたとしても、それが「本当」かどうかなんて怪しいものだ。ただここでこうした曖昧さを感じながらこうしている。
そうこうしているうちに夢をみることもある。

生まれてはじめてみた夢はどんな夢だっただろう。そこに「わたし」はいただろうか。誰かはいただろうか。そこに形なるものはあっただろうか。

一瞬、眠ってしまった。あの場面だ。あのとき、なにかを意識していたわけではないのにこうして夢で見る私はたしかにあのときのわたしの情緒を伴っていた。思い出そうとして思い出せるようななにか印象に残った場面でもなんでもない。だけどこうしてみせられればたしかにその場面を私は経験した。そしてその夢に音声はなかった。わたしは少し振り返り、私より背の高い人になにかを答えていたのだが、わたしがしたのか誰がしたのかミュートだった。

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写真 精神分析

真夜中の銀杏に輝きをみつける。さらに濃く。どうやって?写真に撮ることで。

都心の夜は明るい。今年はイルミネーションが復活し、駅に近づくにつれ、街道沿いは明るさを増していた。

地上にも頭上にも道路が交差し、そびえたつビルは夜通し様々な光を反射しつづけ、暗闇は遠くても夜はずっと向こうまで広がっていた。少し山のほうまでいけばむしろ空のほうを明るく感じるかもしれない。東京は狭い。

私たちはこの狭い世界でどうして惹かれあうのだろう。あるいは憎しみあうのだろう。

同じ景色に足を止める。iphoneで写真を撮る。私のカメラは誰かのカメラほどきれいに光を取り込むことはできない。私の目に映るよりさらに暗くそれらは映る。それでも私は撮り続ける。理由など考えたことはない。こういうところであえて言葉にするなら小さな感動を忘れたくないから、とか?書いたとたんに嘘っぽさがつきまとう表現を陳腐というのだろうか。

小さな関心を向け続ける。何が好き?何が嫌い?
どうして今この写真を撮ったの?

ありふれた質問かもしれない。でもそんなことを訊くことさえ躊躇する。本当のことをいってくれているだろうか。無理していないだろうか。だって私だって自分で答えては嘘っぽいとか言ってるのだから。

「どんな気持ち?」「あなたはどうしたいの?」

精神分析においてこれらの質問に答えることは容易ではない。意識的になにかをいったところでそれは本当だろうか、それは私の言葉だろうか、という問いがすぐに自分自身に向かう。無意識とともにあるというのはそういうことであり、精神分析家を「使うuse」のは、治療状況に複数の人物を置くことで、複数の思考を自分に許容するためだと私は思う。

誰かの写真では光のコントラストがはっきりと現れ、路上の小さな光たちは銀杏にもまとわりつき、深夜でも光の粒がまぶされたような輝きを保っていた。あったかい。優しい。あるいは自分には眩しすぎるという人もいるかもしれない。

「寒い!」とコートの前をしめたが夕方よりも寒さを感じなかった。多くの車や人を包み込んでいるうちに冷気もこの街になじんだのだろうか。

小さなことを感じ続ける。小さな関心を向け続ける。少しずつあなたと出会い、わたしと出会う。たとえそこが暗闇で寒くて寂しくてどうしようもなくても、そこからは見えない光の粒がそこにまぶされている可能性を捨てない。とりあえずこの冬を越せますように(寒がりにはつらすぎる季節!)。

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こころ

「こころをつかう」という表現が苦手だ、ということは以前にも書いた。こころって誰かが使えるものではなくて常に受け身だと思うから。心揺さぶられたり心苦しくなったり。たとえ能動的に誰かを心から締め出したくなったりしたところでそんなことはできないから私たちは苦しむ。もちろん苦しまない人もいるだろうけど、私は、そして私が会っている人たちはこころなんていうあるんだかないんだかわからないけどたしかに自分の身体の内側でうごめているものに苦しめられたり、色々している。

色々と雑に書いたのは苦しいだけではなくて、そこから救われたと感じたり、誰かへの愛しさでいっぱいになったり、心白くなるほどに自分や相手を区別しない瞬間もあると知っているから。

首都高の真下の寒椿、手入れのされていない枯れ木にまみれて小さな赤い花をたくさんつけていた。たくましいなと思った。もっと栄養を与えてもらったら、もっと別の場所に植えられていたら、と一瞬思ったけど、これはこれでこうして私が目を止める鮮やかさで咲き、人知れず散っていくであろうことにもなんの想いももたないのだろうから私の大きなお世話は素直に「たくましいな」「かわいいな」でとどめておくべきなのだろう。

花の名前も鳥の名前もそれらをいくら愛でたとしても覚えることができない。でもそれが特に必要というわけではない。いつも似たような人の似たような行動に似たようなことを感じてばかりいるわたしの「こころ」なるものがどうあろうと、わたしになにがなくともそこにいてなにかを感じさせてくれる存在をありがたく思う。

時間は有限だ。どうであってもいつか終わる。今日のわたし、今日のあなた、今のこころ、なにがどうなるのかまるでわからないけれどこうしている間にも太陽は少しずつ高いほうへ。私の小さなオフィスに差し込む光とそれが作る影もいつのまにか姿を変える。「いつのまにか」動かされるこころのようなものを静かに感じながら今日も過ごせたらと願う。

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写真

ピント

iPhoneで写真を撮った。冊子の中の写真を。2枚並んだその写真の両方にピントがあえばいいな、と思いながら。

一枚にはすぐにピントが合い、黄色い枠がその顔を囲った。もう一枚はより遠い写真だ。どうかこの写真にも同時にピントが合いますように。

私はiPhoneをほんの少しずつ動かしたり傾けたりしながらそれを待った。

先にピントがあった一枚はすでになにかに印刷された写真のようだ。

遠くにいるほうの人の背中にはいつだかわからない、多分私はまだ生きていなかった時代の空が広がっている。

遠く離れた二人がせめてここで同じ鮮やかさで出会え直せますように。

そしてすでにいない二人を想いながらこれを並べたであろう人が、まだ何も知らなかった時代を、知ろうとすればできたはずでは、なのに自分は、と悔やむことのありませんように。

ピントがあった。遠くの人の顔をさっきより小さな黄色い枠が囲った。

私はシャッターを切った。

移動を繰り返す。何かを探して。それは間違いだったかもしれない。間違いでなかったかもしれない。そもそも間違いかどうかなんて何を基準に?

移動を繰り返し世代をつなぐ。写真が撮られ、その写真がさらに撮られる。それで時代が変わるわけでも二人が生きてまた会えるわけでもないことは誰にだってわかる。

それでも無意味なことをしつづける。重ねて撮られ媒体を移動してきた写真の人物になんとかピントを合わせてまた撮ろうという行為もまたなにももたらすことはないだろう。

ただやっている、ただそこにいる。誰かは正しいかもしれないがあなたはただそこにいた、それに意味や価値を見出す必要などない、ただそんな気持ちになった。

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精神分析、本

言語と身体あれこれ

いつからこんなんなっちゃったんだろう、といえば「もともと」となる。いまや人に言われる前に自分が答えるほうが早い。なんだか前はもう少しましだったような錯覚をしていたいのね、私は、きっと。と思えるようになっただけましかもしれない。

まあ、自分からこうしてことをややこしくしたいときはやりたくないけどやらねば(あるいは考えたくないけど考えねば)ならないことがたまっているときだ、私の場合。前にも書いたが自分で自分をごまかす技ならたぶんたくさんもっている。まったく自分のためにならないのに不思議なことだ。いや、損得で言ったら損かもしれないが、自分の気持ちがまいってしまわないためには必要な技だし、気持ちがまいらないことはかなり大切だ。精神分析でいえば防衛機制というやつ。

精神分析家の北山修は母と子の間でしか通じない言語を「二者言語」といい、第三者に分かる必要のある「三者言語」と区別した(『ピグル』まえがきとしてーウィニコットの創造性)。

社会学者で作家でもある岸政彦は又吉直樹との対談で「言語以前」「無意味に身体を肯定される瞬間」について話していた(ネット上で読めます)。

北山修は「二者言語」を「言語以前の言葉」ともいっているが、私はそこに「身体」を持ち出すこと、つまり乳幼児的であることを言葉ではなく身体で説明すること、そしてそれを肯定していくことに価値を見出す。もちろん精神分析はそれをやってきてはいるが、どうしても説明は言葉でなされるのでその身体の肯定の瞬間はなかなか伝わりづらいかもしれない。

自分の身体の輪郭は自分ではなかなかわかりづらい。鏡をみればわかると思うかもしれないが、ボディイメージこそ自分をごまかしたり裏切ったりするものであることは多くの人と共有できるだろう。私たちは思いこむ動物だ(あえて断定したい)。

赤ちゃんはしっかりと腕に抱かれるまでに時間がかかるときがある。泣き叫んだり、のけぞったり、ひっかくようにしがみついてきてこちらが思わずのけぞったりするときもある。なかなかの困難を伴うが、多くの場合、大人の苦闘によって彼らは徐々に腕におさまる。動きを止めたその子の身体は形や重さを明確に知らせてくれるだろう。まだとっても小さくて軽いんだ、この身体であらん限りの力でなにかいってたんだ、とこちらが我に返るときもある。

線と中身は同時に作り出される、私はいつもそう感じる。抱きかかえるまでのプロセスこそが輪郭をつくり、中身を伴わせる。そこには赤ちゃんとそれを抱きかかえる腕や胸とが溶け合うように、しかし区別された形で存在する。ウィニコットの言葉を思い出す、というかそもそもピグルのことを考えていたのでウィニコットの言葉発でこんなことをつらつら書いている。

ややこしい書き方になるのは、とまた繰り返したくなるが繰り返さずにやることをやらねば。

ちなみに北山修『錯覚と脱錯覚』は『ピグル』を読んだ方にはぜひ読んでいただきたい。名著だと思う。

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精神分析

初期不良

取り外しておいておいた自転車のライトが煌々とついていた。なぜ。誰も何もしていないはずなのに。なんで、と思って消そうとしたが消えない。ますますなんで?明るさと点滅で何パターンかに調整できる機能は正常。でもオンオフができない。勝手にオンされているだけでオフができない。よってオンもできない。長押しでできたはずなのに。しかもこれまだそんなに使っていない。

かなり明るいライトなのでついたりきえたりされるのは非常に困る。とりあえずみえないところにしまって仕事をした。

さっき時間ができたのでこれを購入した自転車屋さんへいったらお店の人も「あれ、ほんとだ」と消えないライトをいじり、「初期不良だと思うので」と新しいのに交換してくれた。

一応、購入時の領収書があるかときかれたから「あるかもしれないしないかもしれない」とほんとのことなんだけどえらく曖昧な返事をしてしまった。でもお店の人は落ち着いていた。今度は「購入時期ってわかりますか」ときかれた。「あー、このお店ができてちょっとした頃だったかと」とまたえらく曖昧なことをいてしまった。でも気持ちだけはなんとかできるだけ正確にこたえたいと焦っていた。そんなとき私は思い出した。そういえば私はここに自転車屋さんのことを書いた。慌てて過去にさかのぼる。

あった!「自転車と親子並行面接」という変な取り合わせの記事を書いていた。「2月18日頃!」といってから、ちょっと待てよ、この記事、自転車屋さんにいってからすぐに書いたのか?と思ったけど、忘れっぽい私がさかのぼって書くことは少ないからずれたとしても数日だろう。果たして果たして。あった。あっていた。「鍵と一緒に購入されました?」とPCから戻ってきた店員さんにきかれた。それも一瞬どうだったか、となったがそれはすぐに思い出した。「そうです!」ということでまだ新しい箱に入っているライトをいただいてきた。いい人だ。これは急についたり消えたりしませんように。そして、これを書いておくことでこの購入日も忘れませんように。

それにしてももうあれから8か月にもなるのか。もっと乗ってあげないとかわいそうだ、私の自転車、と思ったのに明るい時間にちょこっと乗るだけでたいして活躍の場を与えていない。持ち主として責任をもたねば。ライトももっと使ってればもっと早くになにか気づいたかもしれないものね。「初期不良」っていわれちゃったけど。なんかすまなかったね、と思ったのでした。

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読書

習慣

本を読みながら歩いてくる小学生がいる。片時も目を離せないかのように、もうすっかりその世界に入っているかのように、すれ違ったことにさえ気づかずに(多分)そのままの姿勢で歩いていく。

うまく避けるものだな、あるいはこちらが避けているのか、人間の視野は広いんだか狭いんだかわからないからな、など思いながら私も歩き続ける。

大きなリュックを前に抱えて指で小さくトン、トンとしながらiPhoneを見ている人がいる。それは最近の私。iPhoneに入れたKindleで本を読んでいるのだ。そんな習慣なかったのに。いちいち老眼鏡を出すのもめんどくさいから歩きながら読むなんてことしなかったのに。不思議だ。なぜか。

ひとつはそうでもしないとなかなか本を読む時間がないということ。ただこれは私がなんでもかんでも読みたくなるからであって、むしろ早く読んでおしまいなさい、という本を落ち着いて読むべき、と毎日自分に注意しているけれどなかなかいうことを聞かない。

もうひとつはiPhoneを新しくして容量が増えたのでたくさん本を入れておけるようになったということ、本来メインで使おうと思っていたKindle paperwhiteよりも動作が早いということ、索引に載っていない自分的キーワードで検索したいときが多い私にとっては大変便利であるということ、そのままツイートもできるし(私のツイートは大体メモ置き場)何よりiPhoneの画面は小さくて(文字も大きめ設定)1ページに収まる文章が少ないということ。「もうひとつ」と書いたのに一気に書いてしまった。

あ、なぜ1ページに収まる文章が少ないとよいかというと英語で読むときは構文がわかりやすいし、没頭しすぎて轢かれたりぶつかったりすることもなく適度に外に注意を向けていられるから(もちろん意識的に注意もしている)。

デメリットについては以前すでに書いた。マルジナリアを使えないことと段落番号をどんどん振っていく作業がしにくいこと。

まあ、こんなことを書いている場合でもないのだが、今夜は数年前から続けているオンラインのフロイト読書会のアドバイザーをつとめる日でPC前に待機していたので、習慣って変わるんだな、と思い、もちろん他にもさまざまな要因が絡みあってのことだとは思うが、これからも変わるであろう習慣の記録として(というのは今思いついたことだけれど)なんとなくピン留め的に書いてみた。

参照

『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(2020、山本貴光、本の雑誌社)

https://www.webdoku.jp/kanko/page/4860114450.html

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精神分析

基盤と繋がり

CBTとか精神分析とかなんでも専門的な技法以前に共通してやることとしてマネージメントがあって、それがその後の展開にとって大切、といつも思う。

20年以上、様々な現場で臨床をしてきたが、基本の型みたいなものは身に付いていると思う。それを相手や状況に合わせてどうカスタマイズするか、はこれからもいちいち立ち止まりながら考えることになるだろう。

私の世代の心理士は、特定の技法のトレーニングをするというより分野、領域横断的に勉強してなんとか自分の臨床とそれらを接続してやってきている人が多いと思う。私は今は精神分析のトレーニングをしているけれど、これまでも今もその仲間関係に支えられていることが多い。

昨日もまだ効果研究が積み重ねられていない領域についてCBT専門の知り合いに連絡したらすぐに様々な資料を送ってくれた。そういう分野はたいていまだ英語文献しかないのだけれど自動翻訳でわかる明快な文献も多いので助かる。

こうやって困ったら「教えて」って言える信頼できる相手がいて、自分もいい加減教えてもらったらサクッと勉強するという流れができているのでなんとかなっているのだと思う。

結局いろんな人と繋がりがないと何事も難しい、というか人との繋がりのない臨床実践というのはない。


現在は特定の技法のトレーニングへのアクセスも簡単になっていて、日本語で学べる機会も多くて、それはとてもいいことだと思う。ただ、教える立場が増えてきて感じるのは、最初に書いた「マネージメント」など、思想や思考の仕方の違いがあっても共有されるような基盤がなかなか基盤として置かれにくいということ。

どうしても技法の違いや自分の求めている方向に話が行きがち。なのでまずは、その人がその人のいる場所でいつ何を誰とどのように感じているか、という視点に戻ることをお勧めしている。そして、特定の技法の知識だけではなく、環境面において概ね共有された言葉で説明できる事象のなかでその人がどういう立ち位置にいるか、ということを他者との関係性を含めて描写することも大切と伝える。患者と誰か、そして自分の繋がりや交流のありようを多面体において記述することの大切さは伝えていきたいと思う。


特にこのコロナ禍で私がずっと懸念していることは、症状を含め自分に生じている出来事を繊細に吟味しないと、そこにどうコロナが関わったかという部分が忘れられる可能性があるのではないかということ。私たちは強く心揺さぶられたことでも意外とすぐなかったかのように振る舞える。でも基盤の変化はその後に必ず影響してくると私は思う。特に精神分析は基盤というものを重要視してきたと思う。


コロナ以前とコロナ以降の違い、あるいはその期間に生じた変化がすごいスピードでかき消されるか、大雑把な言葉でひとくくりにされる様子を思い描くのは難しくない。震災について考えるなどすれば。

個人的にはコロナ後の症状や環境側の反応の揺り戻しを警戒している。繋がりがいつどのように切られるかわからない、そういう状況で過度に繋がろうとしたり、逆につながれないことに悩まなくなったり、この期間で徐々に生じた他者に向ける注意の質の変化を感じるから。私はたまたま精神分析を受けている間にこの事態になっているから自分自身の気持ちの揺れ動きにもいちいち注意を払う機会を持てた。

この一年半、意志と記憶に関する本をよく読んだと思う。それは多分私が自分にも生じている変化に対して意識的であろうとする無意識のせいだと思う。

焦っても急がない、先走らない、とりあえず何度も立ち止まる。自分がいる場所はたまたまという偶然の積み重ねでできているとしてもそこをマネージしていくのは自分であり、身近な他者との繋がりがそれを助けてくれる可能性には常にかけていいと思う。

今日も地道に。

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読書

中吊り、立花隆、ノスタルジー、そして偶然性

「週刊文春」が2021年8月26日発売号を最後に中吊り広告を終了するという。

たまたまだが、先日読書会にきてくださった(オンライン)『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』著者の吉川浩満さんが「私の読書日記」という連載を担当している号である。さすが(?)「偶然性」をおす吉川さん。

ちなみに吉川さんが連載に参加したのが2020年8月27日号だという。これもTwitterで知った。そして執筆陣のひとりに立花隆の名前がある。ご存知のように立花隆氏は2021年4月30日に亡くなった。多分「週刊文春」の中吊りが終了することも知らずに。いや、知っていたのかもしれない。わからない。彼もデジタルを使いこなしていたのだろうか。私の記憶(イメージにすぎないかも)ではいつも紙媒体を手に外にいるか、積まれた本のなかでやはり紙媒体をもっている姿しか思い浮かばないのだが。

そういえばこの立花隆追悼のムック本(っていうのかな)にも吉川さんは書いているという。これもTwitter情報。

今回、「私の読書日記」は「ペンギン、恋愛、偶然性」ということで数冊の本がとりあげられている。紹介されている本は吉川さんのツイートをチェックすればわかる。私からもおすすめしたい本がとりあげられている。

私は「週刊文春」を読んでいないのでそこになにが書いてあるかはわからないけれど、紹介された本の訳者の方のツイートなどをみると「こういうことかなぁ」と推測できたりする。というように、やはり時代はデジタルなのだ。自分の目で確かめなくても誰かが断片を呟き、書き手、売り手、ファンたちがそれをすぐに拡散し、画面をみれば1分もかからずそれらを目にすることになる。そういう時代だ。

いや、そういう時代なのか?

大体私は読んでいない。どうして断片から想像してわかったような気になっているのか。まったく違うことが書いてある可能性だって十分あるではないか。でもなぜか本屋に走るような衝動も生じない。読もうと思えば「週刊文春」は電子版をはじめたらしいし(中吊り広告にかかった費用がかなり浮くらしいし)。いや、電子版も読まなそうだ。私の好奇心はデジタルの情報である程度満たされてしまった。食べ物の絵を見て空腹を満たすのとはわけが違う。断片であっても複数の人間が呟いていれば紙媒体の情報とそれほど変わらないだろう、内容だけを掴むのであればの話なら全部を見る必要はないのかもしれない。

中吊り広告はどうか。

両手で吊革につかまって中吊りを見上げている姿を目にしたことがある。当時は話したこともなかったけれど今はお世話になっている先生と偶然同じ車両に乗っていたのだ。先生は力の抜けた様子でぼんやり中吊りを見上げていて少し子どもみたいだった。この日を境に私の先生に対するイメージは刷新!、というほど大げさなことではないが、なんだか中吊りのテンションってこういう感じがする。実際、いろんな話をするようになった今は中吊り以前のイメージは私の投影にすぎなかったとわかる。

また、私はあの見上げる形式の広告が満員電車での小競り合いの数パーセントを減らす役割を果たしていると主張したこともある。私は背が低いので電車内で痛い目にあいやすい。そんなとき近くの人が中吊りに魅入ってくれているとほっとしたものだ(まだ過去ではないが最近満員電車に乗っていない)。

中吊りには独特の魅力がある。TwitterなどSNSはわりと正確な引用がされていることが多いが(発信元が書き手、売り手、ファンの場合)、中吊りにあるのは「見出し」ばかり。毎号異なる出来事についての見出しが躍っている、はずなのに毎号同じテンションを感じるのも面白いところだ。写真の大きさの違いや並べ方も戦闘的で興味深く、序列を知らせつつも勝敗の決まらぬ世界がそこにはある気がして読者の投影を気楽に引き受けてくれる。私の場合は、それをみても駅の売店や本屋に駆け込もうとはならないがちょっとのぞいてみたいな、という好奇心を維持させる効力がある。誰もが見出ししか知らないのに「見た見た」とお昼のおしゃべりがもりあがったことだってある。要するに情報の重みづけがとても効果的にされているのだろう、今思えば。

うん。やはり業界トップクラスのこの最後の中吊り広告はみておかねばならない。デジタルでではなく、本物を、つまり電車の中で。しかしコロナか(禍)。

立花隆は亡くなり、中吊り広告も終わる。だからなに、というわけではないが、若者に「昭和?」ときかれて「そう」と答える私はそんなにすぐには新しいものには馴染めない。変化を感じるたびにノスタルジックになる。それにしても「昭和?」って聞き方もどうかと思うが。同じく昭和生まれの仲間は取入れ上手で古いものとも新しいものとも上手に付き合っているけれど、私は紙媒体が好きだ。

3.11から間も無くして佐々木中さんの講義に出たことがある。彼は書物の価値を真剣に語っていた。もちろん彼の『夜戦と永遠』におけるルジャンドルを引用した議論はもっと複雑なものだけれど、確かに震災からまもなくの5月、私が石巻で目にしたのは横倒しになった家と水溜りに散らばった年賀状だった。映画「つぐない」において引き裂かれた二人を繋いだのは手紙であり、二人を引き裂いた罪悪感に苦しむ主人公が生きるためにしたのも書き続けること(=読まれ続けること)だった。

話が逸れた。中吊りにはお世話になったんだな、とこう書いてみて思う。出来事はできるだけ正確に伝えてほしい。それはどの媒体に対しても同じことだ。しかし、中吊りは中途半端で大雑把な情報を派手な形で切り取ることで大衆である私たちの注意を引きつけた。だからこそ私たちはそこに含まれるある種の嘘っぽさを前提にそれと触れることができた。中途半端な優しさより嘘とわかる優しさのほうがこちらを戸惑わせないこともある。これは恋愛の話でもあるかもしれない。

吉川さんが取り上げた本『南極探検とペンギン』。こちらはぜひお勧めしたい。ロイド・スペンサー・デイヴィス著, 夏目大翻訳、原題はA Polar Affair: Antarctica’s Forgotten Hero and the Secret Love Lives of Penguins。ペンギン’s affair相当びっくりな本で、生と性を語るのは精神分析以上に南極とペンギンなのかもしれない、と思わされたりもした。

こちらはツイッターと違って推して知るべし、ではない断片からは描けない世界が広がっていた。本来は全ての出来事がそうに違いない。「偶然性」に身を委ねること、おそらくペンギンだって恋愛だってそうなのだろう。

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読書

『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』をざっと読んで

妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』橋迫瑞穂著(集英社新書)が届いていたのでざっと読んだ。ざっとでも内容が入ってくるシンプルな書き方と構成(というのかな)。章立ては出版社のHPを参考にしていただきたい。

この本の主題は「妊娠・出産のスピリチュアリティがどのような内容を現代社会に示しているのだろうか。それが社会に広まった背景として、何が考えられるのだろうか」という問題について考えてみることである。

スピリチュアリティには「教義や教団組織がないのが特徴」ということで、それはつまり検閲、禁止の外部にあるということだと思うが、それゆえにか「生成される価値観や世界観はモノや情報を媒介として広まりを示すことがある」という。

本書では、2000年代以降の「スピリチュアル市場」における主要コンテンツ3つが取り上げられ、宗教学者の堀江宗正と同じ観点から、書籍を中心とするメディアを素材とし、社会学の質的調査法の手法である言説分析を用いて分析が行われている。

コンテンツは「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」の3つ。女性にはどれも「あー知ってる」という範囲の言葉だと思う。これらのワードを用いて会話をしたことがある人にはその体験をきいてみたい気もする。ごく自然にそれを良いものとして語る人、良さそうなものはなんでもやってみようと一情報として気楽に取り入れている人、なんらかの価値の押し付けを嫌って「そんなのデタラメだよ」と相手に諭す人、その場では話を合わせるがその後、その相手と距離をとる人、医学的な知見をもとにその正当性を説く人などなど様々な体験があるだろう。

本書は多様な消費者を抱える「スピリチュアル市場」から主要なコンテンツを抜き出し分析することで、妊娠・出産をめぐる女性たちがそこでどのような消費者であることを求められているのかを浮き彫りにする。

より詳細にいうと、各コンテンツが「スピリチュアル市場」に現れるまでの流れを踏まえ、日本におけるこれらの言説を書籍を素材に概観し、再度「スピリチュアル市場」との関連でそのコンテンツが果たす役割や問題を分析することで、妊娠・出産をめぐる女性たち(と同時に子ども)を取り巻く状況を浮かび上がらせようとする。

「自然なお産」という「医療が内包するイデオロギーへの対抗」として培われてきた「スピリチュアル市場」の「総仕上げ」である概念に向かって、「子宮系」「胎内記憶」というコンテンツについて知るうちに、読者はリスクを伴うとしてもそこに自分の居場所、あるいは希望を見出そうとする女性たちの姿を見つけ出すかもしれない。そしてそれはもしかしたら自分の姿と似ているかもしれない。

子どもを持つことについて「常に決断と絶え間のない努力を」要求されてきた女性にとって、子どもを産むことは間違いなく価値があることだと言ってもらえること、しかも「医師」の言葉がそれに科学的な根拠を与えてくれるとしたらそれほど心強いものはない、のかもしれない。

著者は、宗教学者の島薗進にならってスピリチュアリティという言葉を新霊性運動・文化とほぼ同じ意味に用いて、それ以前の歴史においては不可分だった妊娠・出産と宗教、呪術が何をきっかけに分離してきたかについて様々な文献を用いて記述する。たとえば月経を含めた妊娠・出産の母胎となる女性の身体性に対する見方の変化、妊娠・出産の医療化がそれである。またそれらに影響を与えたウーマン・リブなどのフェミニズムとの関係にも注意を払う。

宗教ブーム、主に島薗が取り上げたオウム真理教での女性の位置づけがまとめられている箇所(32頁〜)は興味深い。母親としての役割を強化するにしても母親になるという選択を無効化するにしてもその極端なあり方を迫られるのは当事者である女性と子供である。それぞれの事情に基づき、それぞれの選択をするというような複数の選択肢はそこにはない。また著者も指摘するように、妊娠・出産はそのプロセスありきで女性単独でなし得ることではない。つまり男性の関与が必須な出来事のはずの議論に男性が登場しない。もっともこの事態はすべてのコンテンツにおいて見出される傾向であるらしい。

また著者は、宗教社会学者のピーター・L・バーガーの宗教の「世俗化」論を参照しながら「スピリチュアル市場」の拡大を描写し、妊娠・出産が神聖化から「世俗化」、そして「再聖化」という流れをたどってきたことを示す。その様子は各コンテンツについて詳細に検討される第二、三、四章で知ることができる。

なるほど「スピリチュアル市場」は女性たちに選択の機会を増やしただろう。書店で女性向けの雑誌コーナーなどに行けば、女性の医師の写真やヨガのポーズをきめた若い女性の写真が表紙を飾る本を見つけるのはたやすい。妊娠・出産体験談も芸能人のものに限らず求めれば読むことができる。

これらのコンテンツに投影されるのは女性たちの意識や価値観であり、消費者側からそれらに求められるのは、肯定的(もちろん何を肯定と感じるかは人それぞれだ)な受容であり、妊娠、出産という内外からの制約とともに暮らす日々において具体的に役立つ何かであろう(ここでも役立つとはいかなることかという問題はある)。

本書で取り上げられる3つのコンテンツ「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」、これらはいずれも医学、科学の言葉で語ることができる一方、当事者による「身体や感性や直観をも含み込む知」によって語られる領域でもあり、スピリチュアルに関心のない層にも、そして一枚岩ではないフェミニズムの領域ともゆるやかに(この本で印象に残った言葉)つながっていきやすい曖昧な形式をなしている。

いずれにしても、それまで「穢れ」として共同体に管理あるいは排除されてきた女性の身体性は不可視な領域を保ちつつ、主体的に関われるものとしてその位置づけを変えつつあるということらしい。そしてそのプロセスで「スピリチュアル市場」に生じた生産者と消費者の相互的、流動的な関係は、特に孤独を感じやすくなるこの特殊な期間の女性たちに能動性をイメージさせるのかもしれない。無論それが、頼るのではなく努力をせよ、痛みや苦しみを乗り越えて「母親らしさ」「女性らしさ」をつかみ取れ、という要請に応えることにつながるリスクも含むわけだが。

さて、本書で最初に取り上げられるコンテンツ「子宮系」(第二章)は、それに関する書籍の執筆者のほとんどは女性であり、医療従事者が最も多く、鍼灸師やヨガ・インストラクターなどもいる領域だそうだ(51頁)。私はヨガをするので中身は知らなくとも著者の名前や馴染みがある謳い文句の書籍が登場するたび、知っているのに知らなかったこと、特に実践するわけでもないが特に疑問も持っていなかったことの少なくなさに苦笑した。現在のコロナ禍においても「生活や意識を変える」ことが求められてきた。しかし、果たして私たち人間はそんなにコントロール可能な存在だっただろうか、という疑問は疑問のままだ。いずれにしても切実な苦悩に短期的な「癒し」を提供する情報は貴重だろう。しかしそれを提供する側の個人的な物語やイデオロギーを透かしみるとき、ジェンダーバイアスなど現代社会がかかえる問題は依然としてそこにあることに本書は気づかせてくれるのである。

2つ目に取り上げられるコンテンツは「胎内記憶」(第三章)だ。著者はアップリンク渋谷で「かみさまとのやくそく」を見て大きな戸惑いを覚えたという。「胎内記憶」は胎教とリンクしている。本書では種田博之による胎教についての先行研究と数冊の書物、それらと「胎内記憶」についての書物(そのほとんどが産婦人科医の池川明によるという)を比較することで「胎内記憶」の特徴を明らかにする試みがなされる。この領域は男性の執筆者が多いのも特徴という。

「胎内記憶」が持つ意味や価値は一読しただけではピンとこないかもしれない。少なくとも私はそうだった。なので著者の戸惑いも理解できる気がするが、一方でこのコンテンツは人気もあるらしい。たしかに、私の仕事柄、知らない話ではないし、私が聞く個別の話からすればこのコンテンツが人気がある理由はわかるような気がする。しかし、ここでは本書から読み取れる以外のことはひとまず脇に置いておくべきだろう。著者が言説分析という手法を選択したことで得た広がりを経験によって別のものに変形することは避けたい。

ただ、「胎内記憶」に対して思ったことはメモ程度に書いておこうと思う。すでに書いたように切実な苦悩に短期的な「癒し」を提供する情報は時に必要だ。しかし、ただでさえ不安が強いこの時期になされるべきは、まだみぬ子供の行く末を「こうすると(orしないと)こうなる」的に直線的に予言することでは決してないし、infantの語源を無視して胎児に言葉や人格を与えることでもないだろう。しかし「胎内記憶」はそういう方向を向いているように思う。

この章に限らずだが、母になる女性に負わせるものを少しでも減らす、預かる、小分けにするなどしながら、彼女たちが自分を許す(=罪悪感を持つ)物語を「胎内記憶」に語らせずとも大変な日々を過ごしていけるように気を配ること、何ができるわけではない、という無力をともにすること、そういう言葉のいらない関係の必要性を思う。

「スピリチュアル市場」のマーケターには明らかに前者の方が向いている。一方、後者の態度を維持することは、母親と胎児の関係を重要視する(≒孤立させる)結果、父親をいなくてもよい存在、最初からいなかったかのようにする可能性を減らすかもしれない。妊娠・出産のプロセスはひとりでは生じ得ないということはすでに書いた。不安の軽減という観点からいえば、「胎内記憶」に語らせなくても、二人の大人のペアで、あるいはユニットで、生まれくる胎児について、親になる不安について語り合う方がいろんな不安に対応できると思うがどうだろうか。

最後、3つ目のコンテンツはすでに何度か登場している「自然なお産」である。「自然なお産」は「妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティの、いわば総仕上げとして設定されてきた」と著者はいう。そしてそこには次の第五章でみるフェミニズムの影響がある。なぜなら「自然なお産」は、「男性中心の医療体制において妊娠・出産が組み立てられてきたことに対する異議申し立てでもあった」からだ。

2000年代に「自然なお産」に関する書物が倍増し「スピリチュアル市場」の興隆とともにこのコンテンツが顕在化したという。ちなみにこのコンテンツの書き手は産婦人科医や助産婦がほとんどで、女性の書き手が比較的多い傾向にあるという。また欧米からの影響が強いのも特徴だそうで、海外の「自然なお産」との違いも興味深い。

さて、「自然なお産」の一応の定義は「医薬品や医療にできるだけ頼らずに、女性が主体的な意識を持ってお産に向き合うこと」(113頁)とある。また「自然なお産」は、「子どもを分娩する体験そのものが神聖な意味を持つという価値観に接続している」。(121頁)

ここでもいくつかの書物が取り上げられるが、なかでも強烈かつ対照的なのが「自然なお産」のパイオニア、産婦人科医の吉村正、そしてホメオパシーを日本に広めた由井寅子だ。

両者は、母となることを重視し、母となる過程として「自然なお産」の意味を強調したが、彼らにとって「自然なお産」はすべての母親と子どもにとって好ましいこととは限らず、弱い母体や子どもが「自然」によって「淘汰」される機会でさえある、という。著者が少ない言葉で指摘するようにそこに優生思想的な要素を見出すのはたやすい。

ここでも本文から引用するが、彼らには「お産が母体にとっても、子どもにとっても「命がけ」であるべきだという信念」がある。「スピリチュアル市場」の形成に大きな影響を与えた由井寅子は、医療を排した「自然なお産」の重要性を繰り返し説く。母親として愛情を持ち強く生きるというとき、この「強い母親」とは子どもの死をも乗り越えらえる内面性を備えた母親のことを指している。また、由井にとっての「自然なお産」とは、健康な子どもとそうではない子どもとが、いわば峻別される機会であり、そこにも「自然淘汰」という差別的とも言える価値観が透けて見えるのである。自分自身がシングルマザーで二人の子供を育てた経験があるせいか、由井にとって「母になることとは、父親の役割をも凌駕する存在になること」らしい。

ここまで客観的な立場を維持し、問題点の指摘も著者自身の主張も最小限に留めていたかのようにみえた著者は、3つのコンテンツの分析の最後でこう述べる。「問題なのは、日本における「自然なお産」の言説には、生命の権利を許容する優生思想的な傾向が見られることである。」「第三者が、妊娠・出産に介入することは私的な領域に踏み込む行為であり、それが妊婦の安全性を時に揺るがしかねない危うさを含んでいることを考慮すれば「自然なお産」の促進は決して軽視できないことである。」と。

また「この背景には現在の産科医療が男性中心であることに起因する問題がある」。著者は「自然なお産」における「自然」とは、医療が内包するイデオロギーへの対抗として培われてきた概念と言えるだろう、と述べる。(144頁)

さらに、この章では、男性の位置づけが海外と日本では異なることにも言及している。「海外における言説では、男性はお産に介入する医療を象徴する存在というフェミニズム的観点からの医療批判が垣間見られるが、日本ではあまり強調されない」。また「海外では分娩とセックスが同列に論じられるのに対して日本では男性は分娩や育児における補助としてのみ登場するにすぎない。男性はあくまで補助的、脇役的な位置づけ」「妊娠・出産の担い手たる女性の存在を聖性視し、男性にとって不可視の存在として設定している。」「逆にいえば妊娠・出産において男性は何ら責任を負うことがなく、最初から免責された存在として見なされていることを指す。」「こうした状況が男性の産婦人科医によってより強調されているのも興味深い点」とここで述べられておりペアとして対等に支え合う男女を見出すことは難しい。

これらにフェミニズムとの関連を見出すのは自然な流れであり、本書はそのまま「女性・「自然」・フェミニズム」と名づけた一章へ向かう(第五章)。この章だけは読むのに少し苦労した。

ここまでの分析から見えてきた「妊娠・出産のスピリチュアリティ」における女性の身体性そのものになされる価値づけ、そしてその価値づけにおいて「自然」という言葉が持ち出されるのがこうした言説の特徴である一方、「妊娠・出産のスピリチュアリティ」をめぐる言説ではフェミニズムが遠景に置かれたり、あるいは捨象されたりしている、ということに著者は触れ、「日本社会において、こうしたフェミニズムの排除が置かれるのはなぜか」ということを検討する。

ここで参照されるのは疫学者の三砂ちづる、評論家の青木やよひというフェミニズムに対して対照的な立場をとってきた二人の議論である。そして青木のいう「自然」を批判する社会学者の江原由美子、三砂の主張を「宗教」であり「女性嫌い」が透けて見えると批判するウーマンリブの旗手田中美津らも登場する。

批判が向けられているのは「身体性とジェンダーとが不可分という前提に基づき、自明のものとする見解そのもの」だという。一方、著者は別のパースペクティブに立つ。著者は、ここまでみてきたような妊娠・出産と「自然」との結びつきについて、聖性が持ち込まれている点が見過ごされている点に着目する。そして、フェミニズムとスピリチュアリティの接点である「自然」という言葉の役割や意味について整理するために、三砂(フェミニズムに批判的)と青木(エコ・フェミニズムの枠組み)という対照的な二人の議論を「自然」という観点から整理する。

この二人は「女性の身体性を「自然」と結びつけることで、聖性を付与している点で共通している」。一方、「妊娠・出産と「自然」を結びつける立場にありながら、その方法や目的において、特に母と家庭に向けた視線」が異なるという。

たとえば三砂の見解を貫くのは「女性が子どもを産んで家族をつくり、その子どもがまた家族を作ることへの絶対的な肯定」である。一方、「やさしさや暮らしの感覚を含めた感性の復権要求」こそが女性解放運動のあるべき姿ととらえ、「産む性である女性のトータルな自己実現」を価値あるものと位置づけ、「性」の分類を行い、その先に包摂的、超越的な「自然」を見出した(152-153頁)青木。彼らの考え方の類似点や相違点など詳細はぜひ本書で確認してみてほしい。

それにしても三砂が女性の「身体性」に向けるフェティシズム、そこを彩る「超越的な色彩」は日常のそこかしこでみられるような気がする。

さて、ここまで読み進めれば「スピリチュアル市場」のコンテンツはあくまで、母となり保守的な家族や家庭に居場所を見つけることへと接続しており、そのために、女性の身体性と「自然」との結びつきが強調されるのだという現状(180頁)にも納得がいくだろう。

何となく書き始めたわりになんだかずいぶん長くなってきてしまったのでこの辺りにしておくが、素人の印象として、第五章で著者はこのかっこ付きの「自然」の扱いに手を焼いたのではないかというような気がした。そしてもしかしたらこれが言説分析の難しさなのではないか、とも感じたが、私は言説分析に全く明るくないのでいずれ学び、このような印象についても再考できたらと思う。

第六章はそれまでの議論のまとめと今後の課題が書かれている。もっときちんと読めばさらなる発見があるに違いないが、とりあえずの要約(というかほぼ引用)と感想をメモがわりに書いてみた。

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精神分析

「理不尽な進化」メモ

8月8日「理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ」(ちくま文庫)オンライン読書会メモ

理不尽な進化 増補新版 ─遺伝子と運のあいだ 』

吉川 浩満 

著者の吉川浩満さんにもご参加いただいたこの読書会、終わるなり「面白かった!」などなど肯定的な感想をいただきました。オンラインイベントは反応も早い!ありがたいことです。吉川さんのお人柄に惹かれた方も多かったようですね。むべなるかな。

吉川さんにもご参加の皆さんにも楽しい時間を共有していただき感謝感謝です。職種、領域関係なく面白いものは面白いと感じられるのは素敵なことですね。どうもありがとうございました。

さて、この読書会に向けてTwitterなどでメモっていたものをまとめてみました。断片寄せ集めの私のためのメモですが、本をお読みになった方の想起のヒントにはなるかもしれないので一応。

まずは、読書会と関係ありませんが、ドーキンスにつながるファラデー『ロウソクの科学』 W・クルックスによる序文。かっこいいので。

「この講演を修得する子どもは、火についてアリストテレス以上に理解する。」「科学のともし火は燃えあがらねばならぬ。炎よ行け。」

かっこいいです。

その伝統のレクチャーに『利己的な遺伝子』のドーキンスが登場し、それが本になったのが『進化とは何か ドーキンス博士の特別講義』。その解説も吉川浩満さん。

吉川さんは解説の最後で「知的好奇心の追求は旧来の価値観との対決へといたらずにはいられない。ときとしてそれは探求者を既存の善悪を超えた場所へともたらすことすらあるだろう」と書かれています。この時すでに『理不尽な進化』を書かれていた著者が誰かを思い浮かべるとしたら『理不尽な進化』の主人公グールドだったのではないか、など考えました。

さて、唯物論でも神秘主義でもなく、還元か創発でもなく、日常(=社会)に潜む問題とお付き合いするために、私たち素人と科学を橋渡ししてくれる吉川さん、そしてコンビ(「哲学の劇場」)での共著も多い山本貴光さん。お二人は「素人」でいつづけることで日常的な問題と学問を繋げ、どっちかに落っこちない対話の仕方を教えてくれます。

おすすめの共著本『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)

吉川さん多趣味!音楽、卓球p209、ハーレーダビッドソンp 213

勝手に作成、プレイリスト

「地上の星」中島みゆき p18

It’s Only Rock ’n’ Roll p21 by The Rolling Stones

Theme From Jurassic Park by John Williams

The Long And Winding Road p25 by The Beatles

「生命の歴史は、より優れた存在へと向かう一直線の道のりなどではまったくない」

Dinosaur Act by Low

肉体関係 By クレイジーケンバンド p37

人にはそれぞれ事情がある By 真島昌利 p85

シークレット・エージェント・マン RCサクセション p130

問いの答えだけでなく、問いの意味そのものを考え直してみるとそれまでとは違う眺望が開けるかもしれないよ、というのが著者のいつもの姿勢。ここでも一貫しています。

序章

進化論は万能酸(デネット)15

文庫版p28~30の「用語についてー若干の注意点」

総合説、ネオダーウィニズム(基本)

自然淘汰 natural selection

ちなみに主要登場人物は

ラマルク、ダーウィン(基本)、

デイヴィッド・ラウプ、

ハーバート・スペンサー、

スティーヴン・J・グールド(この本の主役)、

リチャード・ドーキンス(超有名)、ダニエル・デネット

など。

三葉虫のクレーム電話(想像して) p24

失敗から学べ→「みんな何処へ行った?」©️中島みゆき

生き残りより絶滅から、勝者より敗者の側から

→ラウプ どうして99,9%は絶滅?

<序章~第二章のテーマ>p27

悪かったのは遺伝子?それとも運?という疑問を携えて生物の歴史を眺めてみると異なった眺望が開かれるかも。

<第三章~終章>

思考課題(=どうしても考えることを強いられてしまうような問題、避けて通れない問題)

→【見立て】これまでとは異なるパースペクティブから生物の歴史を眺めてみる。その時に手がかりにするのが絶滅。絶滅は遺伝子のせい?それとも運?という疑問。思考課題に取り組むことで素人に誤解や混乱を呼び、専門家たちに反目と争いをもたらす進化論に潜む共通の要因が見えてくるかも。それこそが進化論の尽きせぬ魅力の源泉では?(p27)

第一章の表層⑴

①地球上の生物種の99,9%は絶滅する(事実!)

②アメリカの古代生物学者ラウプ登場「大絶滅-遺伝子が悪いのか運が悪いのか?」(平河出版、渡辺政隆訳)

Extinction: Bad Genes or Bad Luck?(序文グールド)

③ラウプの「絶滅のシナリオ」3つ

1、弾幕の戦場

2、公正なゲーム

3、理不尽wantonな絶滅

「生物史の名士たちをも滅ぼすそのような難事業が可能なのは、ある種の生物だけを生き延びさせるという選択性と、生物の能力や実績などおかまいなししにルールを押しつける気まぐれさを兼ね備えた、このシナリオ(=理不尽な絶滅シナリオ)」(p74)

だけど「絶滅現象、とりわけ大量絶滅事変による理不尽は絶滅は、生物進化の歴史において重大な役割を担ってきた」(p78)、

つまり「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(イノベーション)のための作業場(ワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである」(p78)

だったら、進化のイメージが「もうちょっとだけ(本書の言う意味で)絶滅寄り、理不尽寄りになったらいいな」。「生存寄り、競争寄り」ではなくて。

でも「アンフェアで理不尽なもの」にたいしてどうやってフェアプレーを?「五輪競技ならいざ知らず」(p82−83)

そこで進化論の内容理解の水準で、第一章で見てきた絶滅に関する事実と考察がどのような意義を用いるかを考えてみよう。(p84)

まずは「誤解を理解する」(第二章冒頭p 92)ことから始めよう。「私たちは進化論が大好きである」(序章冒頭)、でも「私たちは進化論を根本的に誤解しているのではないか、私たちが愛しているのはじつは別のなにかなのではないか」というのがここでの問い直し。

私たち素人はこの第三のシナリオを見ないように、なかったことにしようとしているいるのではないか、なぜか、それはめんどくさいから。(ここ好き。p85)

なぜまたいかにして誤解してしまうのか(p93)を知るために進化論の中心アイデアであるダーウィンの「自然淘汰説」を吟味し直す第二章。ここでは、自然淘汰説にたいする私たち素人の理解の理解と誤解の理解をしてみよう。

ここ確認。「理不尽さ」=運と遺伝子の絡み合いにつけられた名前。(p90)

【問い】「誰が生き残るのかの優劣の基準は?」

→【模範解答】

「自然淘汰によって生き残る者=適者=(適応したものというより)結果として生き残り、子孫を残す者(あるいはそう予想される者)。

私たちが進化論のイメージに投影しがちな人間的観点からみた強者や優者とは関係がない。」

進化の理不尽さ=ゲームのルールが勝手に変更される事態(p96)

でも何度言っても取り違える。(p99) 模範解答があっても誤解はあらたまらないのはどうしてか。「誤解が生じるそれなりの事情」があるから、と著者は考える。(p100)

哲学的問題、哲学的困惑に対しては「新たな事実を探し求めるのではなく、問題そのものの成立と構成を明晰に理解しようと努める」(p102)

誤解のもとー「言葉のお守り的使用」鶴見俊輔。これは仕方ない。どうしても進化論をそうにしか用いることはできない、と著者。

①論理的な理由 自然淘汰のキャチフレーズ「適者生存」 スペンサー(p112) トートロジー(p120)

トートロジー問題が「進化論のお守り化」の根っこにあるので、いまとなってはまともに検討されることもないのだけど「この本の目的のためには何度でも時代遅れの議論を蒸し返す」(p122,123)としてトートロジー問題を詳細に吟味。

「適者生存」survival of the fittestが論理学的な厳密な意味においてトートロジーであるかどうかとか、どのようにすればトートロジーを回避できるかというようなことではない。疑惑のターゲットとなっているのは、「適者」(適応した者)であるかどうかは「生存」(生き延びて子孫を残したかどうか)を抜きにしては決められないの?ということ。(p124)

やっぱり「私たち素人はそうした学問的な限定を解除したうえで進化論を利用しようとする」。希望、絶望、楽観、悲観等を投影していただけの日常使用の進化論用語を(まるで法則であるかのように)宇宙の森羅万象(スペンサー)にたいして無制限に適用しがちだから。(p136)

「トートロジー的なものとしての適者生存は、むしろ進化論(ダーウィニズム)の経験的研究を可能とする条件」(三浦)だから「部分と全体を混同してはならない」(ソーバー)(p126-127)

②歴史的経緯(p145)

非ダーウィン革命 ボウラーの指摘。ダーウィン登場→ねじれた受容。「非ダーウィン革命」

ラマルクの発展的進化論「生物は決まった目的・目標に向かって順序正しく前進的に変わっていく」。社会ラマルキズム。

→より一般化&拡張、スペンサー!「適者生存」の発案者。宇宙の森羅万象を説明する壮大な進化思想。社会ダーウィニズム。スペンサー主義。158

→総合説(ネオダーウィニズム)1940年代、自然淘汰説復活!生物進化を自然主義的に説明する道を拓いた。

でもどっちの進化論も進化中。分業体制あるいは解離的共存 (p167)

①科学理論(検証可能な仮説形成のための基準としての自然淘汰説) ⇄    ②世界像(「世界とはこういうものだ」というイメージ。「言葉のお守り」(情報量ゼロ)として機能)

なぜ共存できるか。→進化の理不尽さの排除。「理不尽さからの逃走」

科学か、おとぎ話か。

第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか

素人の誤解から専門家の紛糾へ。地上での地図作成から地下水道をめぐる闘争へ。グールド(異端)vsドーキンス(主流派)&デネット(強い。p209の紹介秀逸)

「適応主義」と呼ばれる方法論をめぐってなされた論争は「本当には終わっていない」「争点そのものは生きている」(p178) だからまた蒸し返すぞ、と著者。

進化の理不尽さをめぐる論争(第一章)→私たち素人の「理不尽からの逃走」(第二章、私たち素人)→理不尽をめぐる闘争(イマココ第三章、専門家)

スティーヴン・ジェイ・グールド(アメリカの古生物学者・進化理論家)ー「適応主義adaptationism」批判ースパンドレル論文(共著者、リチャード・ルウォンティン)(p182)

・実際の生物の歴史は偶発的な事件や事故に満ち満ちており、すべてが自然淘汰のおかげなどということはできない。いまあるような生物の多様性がかたちづくられるのには、自然淘汰以外のさまざまな要因が関与してきた p183 →自然淘汰による適応のみを重視するのではなく、それを制約する非淘汰的な要因にも目を向ける多元主義的アプローチを提案 p203

・「適応主義」=「パングロス主義パラダイム Panglossian paradigm」ー最善説的先入観(p194)では? cf.ライプニッツ

リチャード・ドーキンス(イギリスの動物行動学者)の反論(p196)

・問いの組み替え、ハチの「コンコルド行動」(p202)

→総合説/ネオダーウィニズムの適応主義はパングロス主義ではない。p204 おとぎ話が取り組んできた問いにたいして、科学的な答え(科学的ななぜなぜ物語)を与えるものとしての適応主義プログラム(真打ち登場)

ダニエル・C・デネット(アメリカの哲学者)の追い討ち(p208)

グールド「なぜなぜ物語はいらない」、ドーキンス「なぜなぜ物語は必要だ」、デネット「むしろそれ以外になにがあるんだ?」進化論における適応主義の意義は、それがヒューリスティクス(発見的方法)であること!

著者の好きなものたち登場:卓球,犬209、かっこいいカブトガニ、ハーレー

エリオット・ソーバー再登場「リサーチプログラム」としての適応主義プログラム(進化論)。「彼(グールド)が本当に「なぜ」という疑問を問いかけ、それに答えたいならば、適応主義者になるしかないのだ」(デネット)。。。

適応主義=ダーウィニズムにおける機能主義の別名(p225) 

ダーウィン以降の生物学とエンジニアリングの結婚(デネット)p230 、手順=アルゴリズム

Ex.チャーハン (p234)

ドーキンスからグールドへ「偽りの詩」「ロマンに満ちた巨大な空虚」(p247)

最強の進化生物学者は「適切な用法・用量をお守りください」ができる注意深さを備えている。(p248)

でもグールドは負けを認めない。「グールドは戦う土俵をまちがえたのだ」(p252)

→土俵を分けるとしたら「生命の樹」「自然淘汰」という現代の進化論の柱で?スケールを変えてみればグールドにも軍配?

本書の目的は論争が私たちに提起する思考課題を理解すること。グールドが「依存しつつの抵抗」©️斎藤環、不利な挑戦をやめなかった理由は?(p256)

グールドの敗走は、第二章で論じた私たちの誤解や混乱と無縁ではないのでは?むしろ鏡像では?

終章 理不尽に対する態度

グールドの地獄めぐり

「グールドの敗北を知ることは、私たち自身を知ることでもあるのだ。これがこの終章のテーマ」(p264)

グールドが貫いた「理不尽に対する態度」

適応主義による歴史の毀損に抗して、ありうべき歴史の擁護と回復を行うこと。(p267)

①現在的有用性ー生物が持つ特徴がなんの役に立っているのか

②歴史的起源ーそれがどのような経緯でそうなったのかということ

①② の区別

地雷=「説明と理解」論争

グールドの問題(p292)  方法論と存在論のカテゴリー錯誤

オーギュスト・コントの実証主義p298、ハイデガー、ガダマー「真理と方法」p302

先入見

グールドが守りたかったものー歴史と偶発性(p316)

p322 進化という語(ダーウィンも色々考えちゃうよね)

理不尽にたいする態度 p330からはじっくりお読みいただければ。

科学と、素人である私たちの事情などほぼ関係がないとしても「関係がない」からこそ生じる往復運動に関わることで「見たいものを見る」危険を回避できるかもしれません(p245&P392~参照)。

そういえばこの本はどこの棚に置かれるのか、といえば、ちくま文庫の棚だと思うけど、単行本の時はどこに置かれていたのかな。「アートの本にもサイエンスの本にもしたくなかった。アートもサイエンスもという本にしたかった」p424

文庫版のための書き下ろし、付録「パンとゲシュタポ」は力強い宣言のよう。重たくも希望あり。

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精神分析

ご案内『理不尽な進化 増補新版 遺伝子と運のあいだ』読書会

私は、専門家と素人が緩やかにつながっていくことを大切に考えています。この仕事をしていると、日常がいかに感情の投影で満たされやすく、それによって私たちが苦しめられやすいかを実感させられます。世界を「ありのまま」みることは不可能でしょう。私たちは人間としての自分を通じてしか世界と触れることができませんから。また「認知バイアス」という先入観からも私たちは逃れることができないでしょう。

そこで登場するのが専門性です。「私たちには認知バイアスというのがあって」と看護学校の講義で話したときに「こんな日常的なことに専門用語がついているとは知りませんでした。救われました。」という感想をもらったことがあります。

これって私だけ?なんで私だけ?という疑惑や不安が生じたときに専門性(主に科学と呼ばれるもの)がそれに別の見方を与えてくれることで私たちは少し楽になれることがあるみたいです。

とはいえ、私たちは大体の領域において素人なので、専門性と触れるには仲介してくれる人が必要です。私が講義をするときは私を媒介として学生は心理学や精神分析学を学びますが、私も他の分野においては学生と同じく素人です。はてさて、身近にそんな人はいないものでしょうか。

幸運なことに、私は、素人である私たちと科学を仲介してくれる信頼できる人物を思い浮かべることができます。文筆家であり編集者でもある吉川浩満さんはその一人です。2021年4月に出版された『理不尽な進化 増補新版 遺伝子と運のあいだ』(筑摩書房)もそのような本として読むことができるでしょう。

素人である私たちが学問と向き合うときに出会う困難に寄り添いつつ、素人は素人なりに学問と付き合えるとその方法を示してくれた文章として秀逸だったのは、吉川さんがscripta summer 2021(無料、電子版あり)で連載されていた『哲学の門前 最終回 ―門前の哲学』です。彼はそこで、<門前の小僧>たる「素人」である私たちが<掟の門前の男>(カフカ)のようになることなく<掟の門>と付き合うことの大切さを驚くほど平易な言葉で書いてくださっています。

私はこれを吉川さんが頻繁にご登壇されるゲンロンカフェの創始者である東浩紀さんがいう「観光客」的なあり方を思い浮かべたりしながら読みましたが、<掟の門>性と付き合う<門前の小僧>という描写は、学問を前にしてまだ子どもである私たちのイメージと重なりますし、「ひとりひとりそれぞれ」という感じが伴っていてとても好ましく感じました。

また吉川さんの他のご著書でも一貫している「素人」であること、それ自体に価値を見出す姿にも励まされます。

哲学がもつ「高度に専門化された学問分野であると同時に、万人に開かれた問いと答えの広場でもあるという性質」は私の専門である心理学、精神分析学にも備わっていると思います。私たちはときに仲介役にもなりますが、多くの場合、仲介してもらいながらその広場へ向かいます。

そんなわけで今夜は、様々な立場で人の心と関わる援助職で集まり、吉川浩満『理不尽な進化 増補新版 遺伝子と運のあいだ』(筑摩書房)の読書会をします。お迎えするのは、著者の吉川浩満さん。「わからなさ」に閉じこもることなく自由な議論ができたらと思っています。

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精神分析

終わりのない仕事

なんだかひどく疲れる。見て見ぬふりをできるものもあればできないものもある。難しいのは見て見ぬふりができるのは最初からしっかり見ていない場合であって、二度見とかしちゃってきちんと目に入れてしまったら見て見ぬふりなどできなくなることだ。見て見ぬふり、というのは他の記憶とまぜこぜにしてなかったことにできる程度にしか見ない、ということではないか。もしそうできない場合は見て見ぬふりは失敗し、むしろしっかり見てみるまで気になってしょうがなくなってしまったりするのではないだろうか。

精神分析の訓練の間はものが書けない、と妙木先生がおっしゃっていた。どこかに書いてもいらしたと思う。これはとてもよくわかる。別に訓練が終わったら書けるかというとそうでもないだろうし、訓練中に書いている人だってもちろんいる。

でもおそらく妙木先生が言っているのはそういうことではない。ものすごく書ける彼でさえそういう状態に陥るのだ。

精神分析は自分の人生を差し出すような試みである。何かを形にする行為ではない。

吉川浩満さんが山本貴光さんとの共著「人文的、あまりに人文的』でロビン・G・コリングウッド『思索への旅ー自伝』を取り上げている。コリングウッドが提唱した「問答倫理学」は、命題や作品に接するときには、「誰それはこれをどんな問題に対する解答にしようとしたのか」と問うような態度のことらしい。

私はいつも通り精神分析という体験と結びつけて考えているわけだが奇遇なことに(?)コリングウッドは哲学をやる以前は考古学をやっていたそうだ。フロイトもまた考古学には強い関心を向けていた。

やっているのは常に問題の再構成だ。そして「問題」とは、精神分析でいえば現在の在り方であり、過去の出来事なのだろう。そしてそれを語るさまざまな症状を持った(人は誰でも症状を持つ)その人の身体と言葉、暫定的な私という存在が「解答」なのだろう。一体、私という暫定的な解答は今のところどんな問題を示しているのか。

もちろん精神分析ではこれは一人の作業ではなく精神分析家との作業として思考される。技法としてはそのはずだ。それをなすべく、精神分析家も一定の訓練を受けており、自分自身も精神分析家との間に自分を差し出した経験を持ち、それがどんな出来事か知っており、解体しそうな患者にそれと気付かせないように抱える腕を持っているはずだ、理論的には。

そしてそれもまた錯覚であり、幻想であることを知らせるのもまた精神分析なのだろう。終わりのない仕事だ、生きている限りは。

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精神分析

精神分析と絶滅

吉川浩満『増補新版 理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』(2021,ちくま文庫)を読んでいると「グールドよかったね」と親戚でもなんでもないのに思う。

語られること、読まれることで生き続ける、という意味ではグールドのような登場人物だけでなく、作者も作品もそうかもしれない。当人が願っているかどうかはともかく(むしろ大きなお世話である可能性すらあるがこれはこれで読者の営みなのでご容赦を)。


吉川さんがこの本で最初に登場させるラウプの3つのシナリオでもっとも有力と思われるシナリオ=「理不尽な絶滅」。詳細はぜひ本書をお読みいただきたいが、ここでは例によって「絶滅」から「精神分析」をちょっとだけ考える。自分に引き寄せて読む悪い癖だけど癖はなかなか直らない。

精神分析は語ってくれる人を持ちづらい誰かが自由連想を試み、治療者がそれを受け取ろうとする試みを続ける限りは生き残るだろう、と私は思っている。

精神分析を絶滅危惧種という人もいるし、実際そうなのかもしれない。が、精神分析そのものは特に実体ではないので、絶滅しようもないのでは、とも思う。もとよりそんな大きな集団でもない。

誰かに向けて自分を語る、その行為がなくならない限りはこの営みもまた細々と続いていくのではないだろうか。

それにしても、精神分析がどうというより、誰かに向けて自分を語ること、その場所が保たれること、この状況下ではまずはそれを願うべきかもしれない、とも今思った。

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俳句 読書

旬を味わいたいな、と思って草間時彦『食べもの俳句館』(角川選書)を開いた。

「六月は梅雨。関東地方の梅雨入りは六月九日ごろという。」と読み始めて、あ、もう7月、と少し先のページに移動する。この本は1月から順番にページが割かれているのだ。

冷奴、鮒ずし、朝餉、冷酒などなど上段に並べられている季語を眺めるだけで美味しい食卓が見える。

鮒ずしの季語はとても懐かしい。もう何年が過ぎたのか。まだ何も知らなかった。知ればご一緒するには気が引けていただであろう大きな俳句結社のみなさんとの鮨屋での句会。友人が連れて行ってくれた。どなたの句か忘れてしまったが鮒ずしと雨を取り合わせた一句をいただいた。似たような湿度と匂いを感じてとてもお似合いの素材だと思った。まだ句会のルールも何も知らなかった頃。とてもとても懐かしい。

さて7月(p136〜)には16個もの季語が並ぶ。

6月は?とページを戻すと泥鰌鍋、莫迦貝、新生姜(この二つはセット。一杯屋下物莫迦貝と新生姜 石塚友二)など7個。

7月のエッセイはこう始まる。「立葵の赤い花は下から咲き昇って行く。花が天辺に達したら梅雨明けだというのは、昔からの言い伝えである。」なんて素敵なんだろう。6月を読み直す。

「六月は梅雨。」ふむ。そうだね。7月の方が断然好きそうだ、作者は。

冷奴隣に灯先んじて 石田波郷

もいい。しかし、

朝餉すみし汗やお位牌光りをり 渡辺水巴

が気になった。

「戦争前の東京の中流の家庭の姿をよく見せてくれる一句である。」とこの朝餉の場面を描写する時彦。水巴は「黒胡麻はお気に召さない」そうだ。

ここで水巴のことを調べ出してしまい、とりあえずメモのようなTweetを残して仕事へ行った。

わたなべすいは。1882(明治15)年、東京都台東区に生まれ、1946(昭和21)年、強制疎開で移った藤沢市鵠村で没。父は近代画家の渡辺省亭。妹のつゆは水巴と同じく俳人である。

内藤鳴雪に師事後、復活した『ホトトギス』雑詠欄で虚子に見出された。主観の尊重を説く「主観句に就いて」という拝論も発表しており、虚子には「無情のものを有情にみる」と評された。

同時代の俳人としては村上鬼城、飯田蛇笏、前田普羅、原石鼎が輩出、大正の興隆期だった。水巴は1916(大正5)年に俳誌『曲水』を創刊・主宰、俳人以外の職業につかず、生涯それを貫いた俳人だった。

という。それぞれの俳人がそれぞれの時代を生き、食べ、俳句を作り、生活をする。

冷酒の氷ぐらりとまはりけり 飴山 實

水飯のごろごろあたる箸の先 星野立子

ルンペンに土用鰻香風まかせ 平畑静塔

などなど。

食べ物の句は美味しそうでなければいけない、と言われる。

それは見栄えや味だけではない。音、香り、感触、空模様、全てがその時々の食べ物を作っている。

もうこんな時間だ。明日は明日の朝餉あり。ありかなしかも人それぞれか。まずはどうぞ良い夢を。

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読書

忘却と疲労

ブラインドの傾きを変えると部屋が少し明るくなった。でもほんの少しだけ。今日も雨。のっぺりした薄いグレーの空が遠くの方まで広がっている。色々なところで色々な音を雨がたてる。降りこんでくる感じではないので窓を開けたままにする。

この一年以上、移動範囲、行動範囲をごく限られたものにするという不自由に驚くべき順応力で、それぞれが「我慢」をし、新しいウィルスに、というか事態に対応してきた。

保育や介助、介護が必要な世界では物理的な距離を取ることはそれ自体が相手の生死に関わる。それでも見えざる力による行動制限のなかそれらを行うことはこれまでごく自然にされてきた「ケア」に対しても躊躇や再考を促した。赤ちゃんを抱っこしないことなどありえない保育園を巡回している私も保育士の皆さんとさまざまなことを話した。身体に関われなければなにもできないという苛立ちや焦燥感は、ニードとニーズの境界を明らかにした側面もあるかもしれない。ここで今、自分ができることはなにか、関わらねば死んでしまうとしたらなにをどうやって?関わらないでなにかを成しうるならどうすれば?

触れたそばから拭き取られ消毒を求められる日常は、私たちの生活の一部をひどくのっぺりしたものに変えた気がする。今朝の空みたいに。「しかたない」という言葉が理由になる日常で、どうにか、少しでもできることをともがくのはひどく疲れる。しかしそれをしないとコロナにかからずとも生活が危うくなるかもしれない。どうすれば、どうすれば、と頭を働かせようとすればするほどぶち当たる無力感。もうどうしようもないのでは、という疑念が確信に変わっていくのを感じつつもそれを止めるにはあまりにも希望が足りない。あまりに自由が足りない。だんだん頭がぼんやりしてくる。オンラインで笑いあって画面を閉じたあと、また空虚と出会い無表情の自分と出会う。まるで生きるか死ぬかの二択を常に突きつけられているロボットみたい、と感じることもあるかもしれない。でも私たちにはこころがある。といったところで「こころ」って?と思うなら感覚でもいい。とにもかくにも私たちはひとりひとりみんな違う。感じるのは自由なはずだ、と自分で自分に言い聞かせる・・・

人間にあってAIにないもの、世阿弥において無主風から有主風を生み出すもの、それは忘却と疲労だと能楽師の安田登さんはおっしゃっていた。記憶については私もこの一年で数冊の本を買った。多方面からの知見が続々と積み重ねられている領域だ。しかし、なるほど疲労か。人間を人間たらしめているもののひとつにそれがあるとしたら、私たちは見えざる力による制限に疲れ、ぼんやりと曖昧な状態にあることでカッコつきの「正解」に向かって突き進むことを回避できているのかもしれない。

「疲れた」、この言葉がこれだけたやすく共有できた日々などあっただろうか。すぐに励まされたりなにかいわれることなく「ねー」と疲れた声を出しあえる基盤をこの事態はもたらした。「消毒疲れ」といっても説明なく通じるようになった。「疲れた」、力なく、ダラダラと、無力と疲労を表現すること。私たちはそうやってこれまで積み重ねてきた記憶が新しい情報や枠組みに乗っ取られることから自分を守ってきたのかもしれない。新しい情報は進化において定着してきた記憶よりも忘却されやすくはないだろうか。今日の稽古も疲れた。もう途中から師匠の言葉が入ってこなくなってしまった、でも身体は動く。自分には染み付いた記憶がある、と。

それぞれのペースでそれぞれの日常を。取り返すというよりは少し別の仕方でぼんやりと過去に浸りながら。変えられてしまうのではなく急がず少しずつ変わっていく自分を感じられたら。多分、この期間、それぞれがなんとかやってきたという事実が支えてくれる。そうだったらいいなと思う。

ちなみに安田登さんの新刊『見えないものを探す旅ー旅と能と古典』もおすすめです。試し読みはこちら

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精神分析

不確かさと沈黙

ほんと言うだけなら簡単、と私も思われているに違いない。してもいない経験をまるでしたかのようにいうことには相当の注意を払っているつもりだが、経験をするということがどういうことかということも常に問い直される。

ひどく痛むのに「ここだよ」と痕すらみせることができない傷、もはやどこにも起源を見出せない痛み、精神分析は痕跡について特殊な理解を示してきた。一見因果論にみえるかもしれないそれは触れればそうでないとたやすく知ることになる。

これはこうだと決めることはできない。確定した途端にそれが錯覚だったと気づくような不確かさに触れ続ける体験は精神分析に独特のものだろう。どっちにもいけない場所で自分を感じ続けること、精神分析家になる訓練が必然的にもたらすはずのその痛みを十分に生きることであるとしたら「真の」精神分析家などいないのではないか。その懐疑とともにそこにいる以上はともかくも死んではいないということだろう。

饒舌な語り手の前に沈黙し、上書きされ累積する痛みに身を沈めること、判断を保留し、自分に閉じることで開かれること。いずれ、と願うばかりの毎日にもいつか、と思えるようなささやかな出来事が今日もありますように。

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精神分析

5月4日

今日は5月4日、スターウォーズの日だそうだ。なんで?と思ったらすぐ調べられる時代だけどまあいいか。私は最近吉川浩満『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ 増補新版』(ちくま文庫)の紹介をするのにMay the Force be with youは使ったばかりだ。

さて5月4日、GW。いつもならどこかを旅しているはずだった。旅先での夜は早い。ほとんど店のない土地へ泊まるときは宿の夕食をいただく。その後、散歩に出たとしても真っ暗な道を何時間も歩く気も起きないのでなんとなく別の道を通って戻る。地方局のテレビを流しながら明日の天気を確認したり、一日をぼんやり振り返っているうちに眠ってしまい、空が白み始める頃にはすでに起きてからしばらくが経っている。

早朝から散歩に出るのは旅先での常だ。どの土地へ行っても朝はほとんど誰にも会わない。年末年始以外は。1月1日は朝9時くらいにのんびり初詣に行ったほうが人は少ない。すでに大量の人がそこへきた跡を目にしながらのんびり歩く。

色々な人から故郷の話を聞く。日本の全県を通過しさまざまな土地を旅してきた。話をききながら思い浮かぶ景色もそれなりにある。そのうちに家族の話になる。すると途端に景色が息づく。同じ業種であっても土地が違えば働き方は異なる。同じ父母と呼ばれる誰かから生まれた子供であっても育ち方はまるで違う。その人が語る土地や家族、育ちの歴史、そんな話を聞いているとその人の景色が色づきはじめ、わたしのこころも揺れる。

私が精神分析を信頼できるのは「なんらの一般的な原理や法則にも還元できない歴史的事象の細部にまなざしを注ぎ、些細な生物や忘れ去られた科学者と行った題材をその単独性において描き込んで」きたからだ。これは先述した吉川浩満『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ 増補新版』(ちくま文庫)p372-3にあるトルストイとグールドに対する記述でもある。

彼らについてはこの本を読んでいただくとして、ひとついえるのは、私が信頼するこのあり方は何者かになろうとすれば混乱を引き起こし過ちを犯しやすいということだろう。

「精神分析家」という特異な存在に向けられるまなざしを自分の中に見出すことはたやすい。私は引き裂かれずに生きていくことができるのだろうか。

とはいえ、私たちは生き残るために生きているのではないし、敗北や絶滅という事態が生じたとしてもそれは私たちの生をなんら意味づけない気もする。

May the Force be with you.

私の仕事は彼らのなかに、そして私のなかにあるそれを信頼することなのだろう。精神分析はコロナ禍であってもなくても身体的な接触はもたない。私たちは卵をあたためるようにそれに触れないまま相手を抱え、感じ続け、殻がつつかれればそれを助ける。それぞれのペースやリズムがある。ただその「それぞれ」はどうしても単独では生じえないのだ。あまりに人間的ななにかより自然としての人間の力、あの映画もこの本も私の今もそれについての再考という点でつながっている気がした。

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くりかえし

私のオフィスからは明治神宮がきれいに見える。目線の先に広がる森の下で誰がどんなことをしているのかは知らない。初夏を迎えたことははっきりとわかった。

月の満ち欠けも感じることができる。仕事を終えて電気を消してもう一度カーテンの向こうを振り返る。さっきよりずっと明るい満月が見えた。たなびく雲の、という歌を思い出す日もある。時々色を変える東京タワーの見え方も日々違う。

ほとんど時計をみなかった。到着時刻を知らせるメッセージが届いたがこの後の予定はだいぶあとだ。領収書の整理をしたり、視界に入った埃を拭いてみたり、積まれた本を棚にしまったり、友人の作品を眺めたりしているうちにチャイムが鳴った。

窓を大きく開けていたので音に気付くのが遅れた気がした。ちょっと待たせてしまったか、と思いつつ迎え入れる。特になにをするわけでなくただ話したり黙ったりした。その人は眠そうだった。私はどうだったのだろう。あまり何も考えていなかったみたい。

ほとんど時計をみなかったな、とひとりになってから思った。ただぼんやり過ごすとかできない、という友人たちの顔を思い出した。私はいくらでもできる。

普段は時間を常に気にしている。というか時間がくればいつもと同じことがはじまって、時間がくればそれが終わる。その繰り返しを過ごしている。

オフィスにきてカーテンの向こう、ああ、5月だ、と感じる。私のオフィスはひんやりしている。外はあんなに暑かったのに。

季節がめぐる。私たちは会い続ける。私たちと季節は常に同期しながら色を変えていく。これまでもこれからもずっとそうだろう。ずっと同じ人とずっと同じ場所でずっと同じことをしているかどうかはわからない。でも何かが変わっても私は私で季節とともに生きていくのだろう。

休日はいい。素朴な気づきにこころが静かになる。

もうすぐ9時だ。空から闇が抜けて水色になる頃にはすでに起きていた。今日もあの森を眺めて、電気を消して空を振り返る。一日が過ぎて一日が始まる。その繰り返しのなかに今日もいる。

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無力

人との「つながり」がいかに理不尽なものか、私はわりといつもそればかり考えているような気がします。コロナ禍では特にそうです。そのせいか何かと押しつけを嫌います、今は特にかもしれません。もうちょっとゆっくり考えさせてほしいと思うこともしばしばです。自分の押し付けがましさを棚に上げてと言われるかもしれないけれど、少なくとも私は治療者としてはそれに対しては意識的なほうだと思うのです、多分(自分のことは自分ではわからないのでまだ訓練中の立場です)。

ウィニコットという英国生まれの精神分析家がいます。

彼は『情緒発達の精神分析理論』という本で「交流することと交流しないこと」について書きました。

英語だとCommunicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites (1963)

書名はThe Maturational Processes and the Facilitating Environment: Studies in the Theory of Emotional Developmentです。

ウィニコットは英語で読むことが大切だと思っているのでがんばって英語でも読んでいます。

冒頭にはKeatsがBenjamin Baileyに当てた手紙からの引用があります。

Every point of thought is the centre of an intellectual world (Keats)

ウィニコットもたくさん手紙を書く人だったそうです。そしてこの文章は私がこの論文で最も好きな箇所で再び繰り返されます。

I suggest that in health there is a core to the personality that corresponds to the true self of the split personality; I suggest that this core never communicates with the world of perceived objects, and that the individual person knows that it must never be communicated with or be influenced by external reality. This is my main point, the point of thought which is the centre of an intellectual world and of my paper. Although healthy persons communicate and enjoy communicating, the other fact is equally true, that each individual is an isolate, permanently non-communicating, permanently unknown, in fact unfound.

いつも考えていることの大半はこの文章に集約されている気さえします。ウィニコットが何を持って「健康」とするかはともかくいわゆる「普通」と言い換えてもいいかもしれません。

肝心なのはthe other fact以降です。an isolateである私たち(=私)、これを維持することは生きているということの本質をなしているように思います。

コロナ禍において断たれたつながりは私に改めてその理不尽さを知らしめました。コロナというウィルスは誰のせいでもなく広がりました。そしてそれに対する無力に耐えられなかった集団化した思考の行動化によって私たちは無力でいることさえ許可が必要になった気がします。それもまたひどい無力感の現れですが。

偽りの「つながり」や「連帯」がan isolateである私たちを、本来誰からも見つけられることのない不可視であるはずの私たちを剥き出しの状態にしたともいえるでしょう。

今はただこういう抽象的な言い方しかできません。もちろんこれは具体的な体験に裏打ちされている感覚です。しかし精神分析は渦中にあるものがいかに潜在性を帯びているかに驚かされてきたはずであり、その事後的な発露を待ち続けるような学問でもあると思います。

だから私は判断を最大限保留したいと思っています。それは思考や情緒が無駄に波立つことを抑えるためではなく、むしろ逆で、刻々と時は過ぎ、老いていく自分にはその時間を同質に引き延ばすことなどできないと感じながらその無力にとどまることが大切なように感じるからです。

それぞれの「孤立」が守られること、私のそれを私自身が裏切らないこと、不安な毎日が続きますがこの無力を抱え込みながら過ごすこと、まずはそこからと思っています。

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精神分析 精神分析、本 読書

友人が好きな歴史小説を教えてくれた。早速Kindleで買って読み始めた。本に限ったことではないが、その世界全体を見渡そうにもそれは海を眺めるようなもので「ここからみた景色が好き」と連れて行ってくれる友人はありがたい。ありがとう。

一方、ただ海を眺めるときの様々な情緒の揺れや混じり合いは独特でほかの行為では得難く時折とてもそれを欲する。

歴史小説にあまり馴染みがないせいか、まずは登場人物の関係図が頭に出来上がるまでに時間がかかってしまった。まぁこれも歴史小説に限ったことではないが、私の場合。

時代ものと言えばいいのだろうか、私は藤沢周平を敬愛しておりいつも手元に置いている作品がある。以前、ここかどこかでそれについて書いた気がする。

同じ土地に生きていてもそれぞれの日常がある。それはごく当たり前のことだ。

藤沢周平の作品でもモチーフ自体が斬新だったり、いつも何か新しいことが起きるわけではない。どれもこれも小さなまちで寝起きしている男女の日常が描かれているだけ、といわれればそんな気もする。しかし、彼らは生きている。激情を、諦めを、嫉妬を、殺意を、愛しさを。

海が海でしかないように言葉にしてしまえばそれはそれでしかないのかもしれない。それでもそれは「それぞれ」のものでこころ模様ほど多様で複雑なものはない。

藤沢周平の流麗な文章は、めくれたりとじたりする「それぞれ」のこころのひだを私に体験させ沁み渡らせる。

歴史も海も人も全体をみわたそうとすれば途方に暮れる。

精神分析を体験している人はその途方もなさに唖然としたことがあるだろう。自分のこころなのにあまりに・・。

精神分析は、毎日のようにカウチで自由連想をすることを基本原則とした。だから今日、せめて明日、刻々と色合いを変える自分のこころの「今ここ」の描写を、ひとりでは難しいからふたりで、と考えた。

途方もない自分のこころの全体性あるいは潜在性を信じ、自分自身に丁寧に関わることでこんな困難よりは少しはましな生き方をしたい、そう願う人は少数かもしれない。なぜならその営み自体もまた困難を伴うから。

藤沢周平は、自分のこころの動きに押し潰されそうになりながら小さな理解と小さな諦念のもと悲しみと清々しさと共に小さな一歩を踏み出す「普通の」人たちを生き生きと描き出す。

傷つきや困難を伴わない関係性などおそらくないのだろう。

海を見たい。いずれいつかの週末に。少し足を伸ばせばいける場所にあるのだから。

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『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』からの連想

吉川浩満さんの『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)が即重版決定だそうです。パチパチ。おめでとうございます。

ちょうど「食い違い」や「論争」について考えていたときに再読の機会を得たのは幸運でした。というか、これらは常に身近すぎて考えざるを得ないことなのですが。

この本は2014年刊行の名著の文庫版です。生物の進化を「生き残り」ではなく「絶滅」という観点から照らし直す本書、サイズと装丁はかわいらしいですが、増補新版ということで収録された書き下ろし付録「パンとゲシュタポ」のインパクトもすごく、直線的な思考にうねりをもたらしてくれます(私にはありがたいことでした)。

やはりこれは読まれるべき本です。

私はなんでも精神分析を通じて考える癖があるのでバイアスがかかっていると思いますが、正反対の読み方とかはしていないと思います、多分。でも自信がないので一応その可能性は残しながらの再読と連想です。

ここではただ連想を書いているだけというか、この本を読んだら結局また精神分析のことを考えてしまったというだけなので、本来なら省いてはいけない文脈を省いてしまっています。

だからぜひ読んでいただいて共有したいのですが、この本に登場する科学者たちの「個人的事情」=「学問=科学と人生の無関係の関係があらわになる場所」=「「ウィトゲンシュタインの壁」が立ち上がる場所」は彼らがそこで体験した引き裂かれるような痛みを感じさせます。

そしてそこを私たちが目指す場所として位置付け、私たちの態度を問い、May the Force be with you(そうは書いていないですが)と著者は祈ってくれているようです。

おそらくこの本を書くこと自体、その痛みにどうにか持ちこたえるプロセスだったのではないでしょうか。今回の文庫化を期にさらに多くの方がこの本と共にあらんことを、と言いたくなります。ダークサイドの話は今回書き下ろされた付録「パンとゲシュタポ」をぜひ。

さて、すでに別のところで呟きましたが、吉川さんが終章で示した「理不尽にたいする態度」(文脈必要ですが突然取り上げます。すいません)はあれかこれかではない思考、簡単に言えば多様性を集団が維持するための手がかりとなるように感じます。

私たちは「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」同士、互いを少し侵食しながら語らうことをやめられないでしょう(今「寄生獣」という漫画を思い起こしましたがそれはまたちょっと別の話ですね)。

だからこそ「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という「理不尽にたいする態度」はたとえそれに対して勝利を謳うものがいたとしても「負け」にはなり得ず、自分が生きるため、同時に相手の内側で蠢き続け動かし続けるための動力として機能するのではないでしょうか。

私は精神分析を「信頼」し実践している立場なので他者の体験あるいは出来事に大雑把な言葉を与える人には「執拗に」物申したい気持ちになることが時々あります。実践においては私は物申される立場でもあります。

精神分析においては自分の分析家がその対象として最もふさわしく、自分の情緒は分析家の身体とこころ(転移ー逆転移の場)を通過して自分に帰ってくるため(おおよその対人関係はそうかもしれませんが)、最大限自由であろうとするならばそこが安全ということで、カウチ 、自由連想という設定の必要性もそれと関連しているように思います。

同時に、最大限自由であるということは、そこが危険で苦闘の場にもなりうるということでもあり、カタストロフィックな体験によって自己が変容するというモデルをとるならば、その場は常に両方の性質を持つと考えられるでしょう。

ちなみに本書においてカタストロフとルビがふってあるのは「大量絶滅事変」であり、「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(ルビはイノベーション)のための作業場(ルビはワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ルビはディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである。」(p78)と書いてあります。規定はプロデュースなのですね、なるほど。

精神分析においてカタストロフは自分の内側で生じます。

そして、そこでの体験をトラウマにせず生き直しの機会として体験するためには実在する第三者の介入に対して脆弱ではない、二者関係における第三者性をお互いの内側に宿らせることが必要になると思われ、そのプロセスは必然的に長期にならざるを得ないかもしれません。

さらに、精神分析における出来事は常に事後的で予定調和はあり得ないという考えを維持するのであればそこは名付けようのない場所であり、現象の描写にしかなり得ないはず、と私は考えて文章を書いたりしています。

突き当たる壁をなかったものにせず、そこに留まろうとするプロセスにおいて両者の間に常に蠢いている他者、私はこれが「理不尽にたいする態度」が形を得たものとイメージしました。対話を志向するとき、そこを別々の二人の場とみなすのか、互いの一部が重なり合う場とみなすのか、前提はプロセスを左右するかもしれません。

そしてウィニコットが言ったように、という連想になっていきそうですが、時間がきてしまいました。再び良書に出会えたことに感謝します。それではまた。

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精神分析、本

進化

「短期力動療法入門」に関するアカウント@amisoffice1を作ってみました。

GWにみんなでこれについて学ぶのでちょこちょこ情報発信をするつもりで関係のある本から断片的に引用をしていたのですが、引用は断片でも引用する私はそれが書かれている文脈全体をみているので色々と考えだしてしまい、気づくと関係のないことばかり自由連想的に書きそうになってしまっていたのでした。

なのでこちらでちょっとメモ的に書き流しておこうと思った次第です。短期力動療法は焦点化アプローチですが、拡散する思考をそのままおいておくのも私は好きです。いずれどこかへ消え去るとしてもとどまったり通り抜けたりすることにはなんらかの意味があるでしょうから。

さて、フロイトもウィニコットもダーウィンの進化論の影響を強く受けていました。進化論それ自体もいまだに進化の途上にあるわけでリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』は内容を知らなくても書名は知っているという方も多いでしょう。無神論者という点ではフロイトと同じですね。

進化本としては、昨年文庫化されたマーク・チャンギージーの『ヒトの目、驚異の進化』には驚かされました。石田英敬さんが『新記号論』でこれに触れておられたのと、その石田さんの解説+豪華な帯に惹かれて買ってしまいました。

なんだか私たちの姿を別の仕方で見せられれば見せられるほど自分の感覚の不確実性、あるいはこんな私、私は知らない、という感覚を持ちます。

精神分析をうけることもそういう驚きにみちているのは確かですが、なんだかそれが自分だと思うことの難しさも感じたりしますね。

ということで私は仕事に戻りましょう。

今日は土曜日、明日は日曜日。よい週末をお過ごしください。

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写真

小彼岸桜

つれづれともの思ひをれば春の日のめに立つ物は霞なりけり

ー和泉式部日記

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精神分析、本

珈琲

早朝のルーティンをこなし、珈琲を淹れた。淹れる、という漢字を使うのってこんな時だけかもしれない。「淹れる」はお湯にしか使わないのね。いや、そうでもないのか。ネット上にはいろんな情報があるから結局何が正解だかよくわからない。まぁいいか。すぐに忘れてしまうし、珈琲を淹れる、淹れた、と書くときにしか使っていないのだから。

以前、noteで、バイトしていた店のアイスココアの思い出を書いた。こっちのブログに移行したかどうか忘れてしまったがあれはとても美味しかった。一昨日かな、ここで書いた自転車もそうだけど思い出には必ずモノが登場する。臨床場面を描くときもそうだ。舞台上の小道具にスポットライトが当たるように私の記憶のなかでそれらは時折こうして浮かび上がり再びその記憶と私を交合わせる。

そういえばnoteは退会した。多くの方に読んでもらいたい場合には適したメディアだったみたいだけど、私はSEO対策(?)とかもよくわからないし、これも本当はどうかわからないけど運営上の問題を(ネットで)見聞きしてお金をかけるのをやめた。noteにはダッシュボードというのがあって、アクセス数がわかったのだけど相当の数の人が読んでくれていたらしい。でも私の周りでnoteをやっている人が時折呟いているアクセス数とかものすごい数だから私にはびっくりしてしまうこの数も大したものではないのかもしれない。私は小さいオフィスで地道に仕事をしているだけだからこういう場所で徒然にただ書くのがあっている気がする。

全ての記事を移行したわけではないが(理由はないが移行に疲れてしまった)大したことを書いていたわけでもないからまあいいかと思う。また同じようなことを書くだろう。

いろんなことは相対化することで意味が変わってしまう。その点、モノというのはただそこに、素朴に、確かに(だと思う。触れるし。)存在しているのがいい。マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』という書名が頭をよぎった。来月でる本のなかの一章を書かせてもらったけれど、そこにはモノが登場していない。そこにはどんな意味が、と一瞬思ったけど、すぐに登場している場面を思い出した。私の記憶なんて曖昧なモノだ。

何を書きたかったのか忘れてしまった。珈琲はコロンビアだ。紙のフィルターがどうにもドリッパーっていうのかな、フィルターをセットするあれに収まりが悪い。たぶん、円錐型じゃなくてなんだろう、台形形っていうのかな、それだからだと思う。円錐型も探せばあるけど近くにあるものを使ってしまうのもいつものことだ。お湯を注ぐと陶器のポットにリンリンときれいな音をたてて珈琲が落ちていく。ポットは21年前、北沢タウンホールに移る前の聖葡瑠の前にあった雑貨屋さんの閉店セールで買った。ポットが大好きで、どこの土地へ行ってもポットがあれば足を止める。友達と山中温泉にいったときに山中に工房を見つけて一目惚れしたポットがあったが、迷いに迷った挙句買わなかった。ポットはポストカードみたいに気軽に買えないし、数はいらないので迷って買わないことの方が多い。でも今もあのポットだけはこうして何度も思い出す。あの旅からも20年近くが過ぎた。金沢と山中温泉の旅。激しい頭痛というものをはじめて知ったのもそのときだったが、それも辛い思い出ではない。そのときのことを思い出すと今もちょっと可笑しい。楽しかったな。

聖葡瑠はもうない。移転後も何回か行ってマスターと言葉を交わした。素敵な人だった。独特の雰囲気を持つ常連さんも多くて、小さな店で写真や絵を眺めながらマスターと彼らの話を聞くのも楽しかった。こだわりの珈琲を几帳面な様子で丁寧に淹れてくれた彼は今はどうしているのだろう。だいぶお年に見えたけれど。

書きたかったことを忘れたのに文字を打ち続けてしまった。まだ少し出かける前にやることがあるのだった。

今夜は一年かけて読んできた『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』を読み終える。昨年度は『フロイト技法論集』を読んだ。これらについてもオフィスのHPやもうひとつのブログに書いた。来年はドラを読むが、この岩崎学術出版社版フロイトではいつか訳されるのだろうか。そもそも症例論集1、っていつ出るのかな。そもそも存在するのか。世界は存在しないのか。まあ、いいか。フロイトの翻訳はたくさんあるから色々読んでみれば。

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精神分析、本 読書

『ウィトゲンシュタインの愛人』を読み始めた

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会、2020)を読んでいる。隙間時間にパラパラしているのでなかなか進まないけれどとっても好きな書き方でワクワクする。

Kindleの不便なところ、あ、これ早く読みたくてあまり得意でないKindleで買ってしまったのだ。そうそうKindleの不便なところ、1、マルジナリアに書き込みできないこと。2、紙の本とページが対応していないところ。

デバイスや設定によってページ数も変わっちゃうし。大きい字にできるのは老眼にはありがたいけど。

でもこの本はKindleでよかったかも、私には。

主人公の語りはさながら自由連想。夢を語るように自由に景色を行き来する。この世界はこの主人公だけのものだ。今のところ圧倒的に孤独な。身体の変化だけがかろうじて時間に一貫性を与えているようだけどそれもずいぶんぼやけてきたらしい。豊かな知識で一見饒舌な語りだがとてもとても乾いている。何が燃えても彼女には風景の一部だ。しかし時折情動に突き動かされたかのような様子も見せる。一体、この話はどこへ進んでいくのか。進むのを拒むように揺れ動く景色。

こういう書き方が私はとても好きだ。好きな接続詞がいくつも出てくる。あぁ、この書き方がとても好きだ、と読み始めてすぐに思った。そしてKindleでよかったと思った。

もしかして、と思って、ちょっと先走って検索してしまった。やっぱり、と嬉しくなった。好きな接続詞がたくさん使われている。こういうときKindleって便利だ。どんな単語も検索ができる。

もちろん翻訳だから元の単語はわからないけど、木原善彦さんの翻訳は山本貴光さんと豊崎由美さんがとてもいいといっていたからとても信頼できる。信頼の連鎖。

本の読み方は色々あるが、山本貴光さんが『文体の科学』か『マルジナリアでつかまえて』で私と同じような、いやもっとずっとマニアックな方法で本を全方向から楽しんでいるのを知ってとても共感した。無論あちらはプロの文筆家でありプロのゲーム作家なのでその緻密な方法には驚くばかりだ。

山本さんは吉川浩満さんと「哲学の劇場」という動画も配信していてそこでも本の読み方について話していた。

ちなみにこの『文体の科学』もすぐにほしくてKindleで買ってしまったけど山本さんの本は紙の本で買うべきだった。わかっていたはずなのに欲望に勝てなかった。せっかく載せてくれている資料がKindleだと全然楽しくないことを学んだからいいけど。失敗から学ぶことばかりだ。

ばかりだ、と二回使った。

早朝から家事を済ませ、こうして短時間書く作業はとても楽しい。この時間に読めばよかった、と今気づいたけど。

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自転車と親子並行面接

オフィスのそばの自転車屋さんへ行った。学生時代に新宿で買ったマウンテンバイクもどき(マウンテンバイクなのかも)はもはや枠組以外残っていない。長い年月を経て様々な部品を交換しながらも原型を保っているこの自転車がちょっと愛しい。最近、ずっと乗っていなくてごめん。

枠組みは大切だ。

2020年、私が子どもと親御さんの心理療法を行っているクリニックのメンバーで本を編んだ。『こころに寄り添うということ 子どもと家族の成長を支える心理臨床』(金剛出版)という本だ。院長を中心とした日々の試行錯誤を仲間たちとこうして形にできたことは喜びだった。それぞれがそれぞれの技法でそれぞれの患者と実践を積み上げてきた痕跡がそこにあった。

私はそこで親子並行面接を取り上げた。「クリニックにおける心理療法の実際」の「第5章親子並行面接という協働」という論考である。社会人になってはじめて勤めた教育相談室時代からこの枠組みはずっと私の実践にある。多くの親子の「子担当」、あるいは「親担当」になり、私は先輩方と協働していた。慶應心理臨床セミナーに出始め、児童精神科医にスーパーヴィジョンを受け始めたのもその頃だ。まだ「親子並行面接」そのものを問うてはいなかった初期の初期。

その後、20年、実践を重ねるにつれ、この枠組みの意義について疑問を持つことが増えた。教育相談室をやめたあとも親子の心理療法を担当する場は持ち続け、この枠組みとはともにあった。今回論考を書くにあたり、テーマはあっさりと決まった。

昨日もここで、精神分析は、こころのなかに複数の人を住まわせる作業だと書いた。私は、集団をひとつのパーソナリティとみなすと同時に、個人のパーソナリティを複数の自己と対象からなる集団とみなす、というビオンのアイデアを援用し、親子並行面接という枠組みを見直してみた。

親子並行面接はこころの複数性に形を備えたものであり、それぞれが緩やかにつながりを維持することで、子どもと親のこころが安全に重なり合う場として空間的に機能する、というのが私の概ねの主張であり、論考ではそれを事例を用いて示した。

店には美しいフォルムのかっこいい自転車がたくさんあった。私の古ぼけた自転車も当時はそこそこ素敵でたくさん褒めてもらった。スクールカウンセラーをしていた学校の嘱託の先生は自転車乗りで、私の自転車を気に入ってくれてメンテナンスの仕方を色々教えてくれた。一緒に100キロ走ったこともある。若かったな、と今思ったが、彼は当時すでに還暦を過ぎていたわけで、若さの問題ではなさそうだ。

「これとっちゃっていいですか」若い店員さんの声に振り返る。手を黒くして作業してくれている。すでに本体のない台座を彼は指差していた。昔つけたスピードメーター、そのセンサー、最初につけたライト、2番目につけたライトなどなど。台座という痕跡が本体の記憶を蘇らせ、思い出を再生する。こんなに痕跡を残したままだったんだ。少し可笑しくなって笑いながら答えると店員さんもつられて笑った。

タイヤもサドルも当時とは違う。なのに見かけは当時のままだ。だいぶ黒ずんだけど。強固な枠組みは痕跡を抱え、私の年月を抱え、思い出を作ってくれた。私はこの自転車でとてもたくさんの場所を走った。昨日も自転車をとめては降りずに写真を撮った。曇り空の向こうに残る水色の空と夕焼けがきれいだった。

オフィスのある初台は昔住んだ街だ。当時とは街並みも変わった。商店街の名前は当時のままだ。あの頃から乗り続けているんだな。あれから何人の人と出会い、別れてきたのだろう。

これまで出会ってきた親子の多くはもうすでに別れているだろう、物理的には。当時子どもだった彼らはもうすでに子どもではないのだろう。当時すでに親だった彼らはきっといまだに親であり子どもでもあるのだろう。

私は教育相談室時代の仲間と今も緩やかにつながり、コロナ禍においても支えあった。私たちは彼らとの共通の思い出がある。いろんなことがあった。この論考も読んでくれた。まだ同じことを考え続けていることを褒めてもらった。論考に「協働」とつけたのはまさに彼ら彼女らとの仕事がそうだったからだ。

私たちは親子、あるいは大人と子どもという枠組みを維持したまま世代をつないでいく。緩やかに繋がりながら痕跡を残し、壊れたり、壊されたり、修復したり、捨てて新しくしたりを繰り返しながら日々を過ごしていく。この自転車ともいずれなんらかの事情で別れるのだろう。もう危ないからやめなさい、と言われまではメンテナンスを繰り返していろんな道を走りたいと思う。

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True Colors

Cyndi LauperのTrue Colors、思春期のあたたかな思い出だ。THE BLUE HEARTS「少年の詩」もあのカセットには入っていた。♪1.2.3.4 5つ数えてバスケットシューズがはけたよ♪

私はバスケ部だった。大好きでいつもそのことばかり考えている。バスケはそういうものだった。精神分析は今もずっとそうだ。これからは俳句もそうなっていくかもしれない。〆切までに出すのが精一杯だけど。

人が人を想う。言葉だけならすでに使い古されているかもしれない。私はチームスポーツが好きだ。組織での訓練にも大きな価値を見出している。喜びも悲しみも苦痛も絶望も希望も終わってみれば全て夢のようかもしれない。それでも生きている限り、それらは私たちのこころを彩り続ける。

そばにいてもわからない人のことを想う。電話越しでも伝わってくる人のことを想う。会えない距離の人のことを想う。明日会えるのに囚われてばかりの人のことを想う。

精神分析は複数の人をこころのなかに住まわせる仕事だと以前にも書いた。私はあなただったりあなたは私だったり彼や彼女が私やあなただったりする。あの時の場面、あの時の出来事が、今ここと交差して立ち現れる。

思春期はまだ幼い。それまでとは異なる性愛の世界の入り口で身体もこころも戸惑っている。私は何者なのか。それはこれから先も長い間あなたを悩ませるかもしれない。

問い直し、出会い直す。痛みも多い作業だ。それでも人は人を想う。想われた記憶がふと現れるとき、想う私も現れる。それがないならここで紡ぎ、編み出していく。

大切な曲がたくさん詰まったカセットテープをもらった。小さな几帳面な字で曲名が書かれていた。「シンディー・ローパー/True colors」。今はApple Musicで聴くこの曲も探せばあのカセットテープできけるだろう。

I see your true colors and that’s why I love you.

忙しない日常を今日もはじめよう。また思い出すことはできるだろうから。

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「その場での旅」

今日は雨に濡れた。乾燥に困っていたので雨自体はありがたかった。夕方の空はすっきりしていてピンクと紺の重なり合いがきれいだった。細い月も出ていた。

オンラインでの仕事が始まるまでに片付けがてら見つけた資料をパラパラしていた。10年前に受けた江川隆男さんの「ドゥルーズの哲学」の講義資料だ。

江川さんは修論をカントで書いたそうで、その頃はまだアカデミックにやれるほどドゥルーズは知られていなかったのだといっていた。

私は、重度の自閉症の方と過ごす仕事をしていた頃、ABAを学びたいと思ったが、当時はアメリカで活躍しているセラピストの通信教育くらいしか見つけられなかった。今だったら日本でもスーパーヴィジョンを受けながら学べる。

学問との出会いは時代が大きく絡んでいる。文学だってそうだ。先日久々にパラパラした(パラパラしてばかりだな)柄谷行人『意味という病』にもそんなことが書いてあった。古井由吉のことを。もうすぐ彼が死んで一年が経つ。

それにしても「意味という病」を「意味のない無意味」と書いてしまう。年代的に近いのは千葉雅也さんの方だからか。いや、違う。あれは『意味がない無意味』だ。ドゥルーズつながりではある。

江川さんはドゥルーズの哲学は、新しい対象について考える哲学ではなく、考えている自分自身を変えないとわからない哲学だと言ったらしい。私の記憶にはないが、私のマルジナリアにはそう書いてある。それって精神分析が必要ということでしょう、と私は思うけどきっとそういうことではなかったと思う。

それにしても私のマルジナリアは読めない字が多いな。片方の肺がないのにタバコをやめなかったとも書いてある。ドゥルーズは「自宅の窓から投身して死去」した。

「哲学は悲しませるのに役立つのだ。誰も悲しませず、誰も妨げない哲学など、哲学ではない。」ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳。

私はこれを読んでいない。江川さんが引用していたのを引用した。この講義はとても難しくて、かっこいい引用が多かった記憶がある。そのときすでに受けていた國分さんの講義で「ドゥルーズ読めるかも」と思ったのとは大違いだった。でも江川さんはわざとそうしているとも言っていたし、素人の私にも残る言葉がたくさんあった。否定でみるのが多義性、肯定するのが一義性、とか。フロイトの「否定」論文を再読したくなった、今。

ドゥルーズは「その場での旅」と言った。これは「運動」が生じるための「条件」の話であり、そこには「不動の差異」が存在するということらしい。ベケットとカフカが例にあげられている。「意味がない無意味」も再読したい、今。

「今」と書いても「いずれ」と書いても取りかからない限り同じことなのだが、あえて書き分けたくなるくらいの心持ちの違いはある。「その場での旅」。染み入る。

まずは今ここでやるべきことを。

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ジャズ

昨晩は大きい地震があった。みなさん、ご無事だろうか。

ずっとチック・コリアを聴いている。生きているのか死んでいるのかわからないほど、というより、ずっと生きているような錯覚を持っていたことに彼が死んで気づいた。いや、実際生きていたんだけど、ほんの数日前まで。

まだ79歳だったんだとも思う。まだ若いじゃないか。

私が初めてCDで聴いたジャズは家にあったマイルス・デイヴィスだった。チック・コリアのこともそれで知った。

大体のCDはレンタルの店にせっせと通ってカセットテープにダビングしてウォークマンで聴いていた。ジャズやロックはイトーヨーカドーの一角だったか新星堂だったか輸入盤を安く手に入れることができ、バイト代でせっせと集めた。

東京に出てから多くの時間を費やしたのもレコファン、池袋HMV、シスコ、渋谷タワーレコードなどだった。新宿レコファンでバイトしたかった。よく通ったカフェもずっとジャズが流れていたがあれはどこだったか。

日本での公演情報も目にしていたけど当時の私には高かった。ブルーノートには憧れ続けた。今思えばハードロックのライブにはすごくお金をかけたのだからチック・コリアもいっておけばよかった。大人の世界と思って敬遠したのだろうか。

BGMとして聴いていても時折焦燥感をもたらすのが私にとってのジャズだったけどジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、そしてチック・コリア、彼らは違った。聴き続けることができた。

生き続けている、そういう錯覚は聴き続けることができるという身体感覚と無関係ではないだろう。数年経ってチック・コリアの名前を聞いたときに「あれ?亡くなったんだっけ」とか言いそうだ。

昨晩のような地震があると、3月11日が近い、という感覚とともに過去に再接続される自分がいる。誰かの死を抱え込んで生きている、という感覚は以前このブログで墓の俳句と土居健郎に触れたときにも書いたと思う。

こころを抱えこころに抱えられて生きている。

地震が続きませんように。

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精神分析

春の句

春の句を10句作りました。

もう冬の句はしばらく作らないのね、と思って手元にためた1月の日めくりを眺めていたら苦手な冬が少し愛しくなりました。でもそれも多分少し遠ざかってくれたからいえることですね。

1月のベスト俳句は「手袋の左許りになりにける」かな。正岡子規の句。この句は1月13日(水)の日めくりにのった俳句です。私の手袋が手元に戻ってきてくれた日でした。俳句は実景を読むことでインパクトを与えるけど、実景にならなくてよかったです。

ちなみに今日2月12日(金)は「空ばかり春めく底の信濃かな」仲寒蝉

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読書

『新プロパガンダ論』

ゲンロン叢書008『新プロパガンダ論』について早朝から呟いていた。2018年4月から2020年9月にかけて、辻田真佐憲さんと西田亮介さんのお二人がゲンロンカフェで行った5回の対談が書籍化されたのがこちら。この間に何が起きたかを私たちは共有しているだろう。ウィルスによって。

辻田さんの「辻」は本当はしんにょうに1点なんだけど2点しか出ないからすいません。本当は1点のしんにょうの「つじ」さんです。

ところで、私は対談がそのまま掲載されているような本は、対談形式が多い著者以外のはあまり好きではないが、この本は書籍化に伴い大幅に加筆修正がされたという。というか大抵の場合、そうだと思うけどそうでないものもあり、雑誌ならともかく書籍だとなんだかなとなる。

内容についてはすでに呟いてしまったので書かないけど、書籍の一部はネット上で読めるので関心のある方はチェックを。私はとても関心があったのでゲンロン友の会に入っていると選べる本の中からこれを選んだ。表紙もカラフルでポップ(ポップの意味を本当はよくわかっていないけど)で置いておくだけでもかわいい。

でも置いておくだけにしないで読んだ。辻田さんは朝ドラ「エール」の時代考証(?)的つぶやきが好きでみていたのだけど、近現代史の研究者なんですね。西田さんは公共政策の社会学がご専門だそう。

この本、「プロパガンダ」というやや古い、しかもネガティブなイメージを伴う言葉を巡って二人が語り合っているわけだが、「新」と書名につくだけあって、この言葉がこの数年で生じた出来事を眺めるときのちょうどよいフレームになってくれる。

というより、お二人、とくに辻田さんがこの言葉の使い方がとても上手なのだ(西田さんはあえて使っていない)。議論を狭めるためではなく、広げるためにこの用語を使い、結果的にこの用語自体がもつイメージに曖昧さを与えることに成功している。少なくとも私はこの用語ってこうやって役に立ってくれるんだ、という感触を得た。

知ったり、学んだりすることが何かに気をつけることばかりにつながりがちな気がする昨今、情報を自分の自由な思考のために使えるようになりたい。

プロパガンダ、要するに情報戦略だが、それがどのように人のこころに入り込み、行動変容を促してきたか。精神分析的臨床の世界でも患者やクライエントと治療者がオンラインで出会うようになった。それだけではない。セミナーなどのオンライン化で彼らをオンラインにのせることになった。私たちは彼らをどのように表現していくのか。

私は、特に臨床家が対談をそのまま書籍化することが好きではない。これらは同じ問題意識から生じている感覚だと思う。話し言葉と書き言葉は違う。ともにいる場で話される言葉と身体が別々のところで話される言葉も違う。

コロナ禍の「利用」も言い方を変えれば悪いことばかりではないだろう。経験から学ぶ、という点ではたしかにものすごく気持ちを揺さぶられ、思考を促される体験だった。そこにどういう形を与えていくか、それをなんらかの合理化のもとに情報戦略として利用するか、空気感で忖度を迫るものたちに対して冷静に思考を維持できるか、どれも人のこころをどれだけ普通に慮ることができるかという話かもしれない。

辻田さんの冷静で率直な語り口は、西田さんがいうとおり「優しい」と思った。西田さんの政策に関する話は非常に勉強になった。よい対談だった。

そして以前『ゲンロン』に掲載された「国威発揚年表2018-2020」も加筆されていた。この対談が行われた期間は加筆せざるを得ない数年であり、それは今も続いている。今回「プロパガンダ」という用語がそのイメージに反していろんな世界を見せてくれたように、情報を単なる情報として受け取った結果、ダメージを受け、思考停止に陥るのではなく、情報が単なる情報である可能性を踏まえ、あれこれ考えることを意識するにはとてもタイムリーな本だと思う。

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『往復書簡 言葉の兆し』

「言葉は浮くものです」と古井由吉は佐伯一麦への手紙に書いた。日付は2011年7月18日とある。

東日本大震災後まもなく2011年4月18日からはじまったお二人の往復書簡。

「それにしても「創造的復興」とか「絶望の後の希望」とか、「防災でなくて減災」だの、これはもう絶望の深みも知らぬ、軽石にひとしい。」

「生きるために忘れるということはある。しかしこれは、忘れられずにいることに劣らず、抱えこみであり、苦しみです。風化とはまるで違います。」

古井由吉は空襲を体験し戦後を生々しく肌に感じながら書き続けた作家だった。

ラカンが示したように、作家は精神分析が明らかにするまでもなく、事の本質を知っている。古井由吉の言葉には怒りが滲む。

あれから10年。私は何も変わっていない。ただ歳をとった。多くのものを失った。

私ひとりを抱えられない言葉で私は誰かのこころと何ができるのだろう。軽石のような言葉に傷つき浮かんでこなくなった言葉とどうやったら出会えるのだろう。

あれから10年。その事実の重さをそれぞれの小さな肩に感じながら生きる人たちを支えるのはなにか。私には想像もつかない。それがあることをただ願うばかり。そしてせめて私が軽々しく人の尊厳に踏み込まないように。

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ヒトの言葉

毛布みたいなロングスカートと静電気とともに帰る。

見出しだけでウンザリするようなニュースを読むべきかどうか迷って結局読まないまま電車を待つ。

静かな空。東京の空は暗くない。

こうしてなんとなく言葉を書きながら川添愛さんの『ヒトの言葉 機械の言葉』をぼんやり思い出す。

言葉がもつ曖昧さを処理する私たちの無意識。AIには困難なこと。私たちは「ヒト」だよね?

心底ウンザリする言葉には本来言葉がもつ力がない。何を言っても無駄だ、そんな言葉ばかり浮かんでくる。

そんなとき私はヒトだよね、と確認したくなる。

これ以上は、と感じるときAIのようになれたらと思うけど何も感じなくなるのは嫌だ。

人間の言葉はもっと難しくて複雑なはずで私たちはそれとともに生きていけるはず。

これ以上は、と思いつつ日常の一切はまだまだ言葉になっていないことに希望を。

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「この道」

新宿西口駅から都庁のほうを改めて写真にしてみると未来都市っぽいです。

2020年のままの記載があるのも。

過去が本当に過去になるなんてありうるのでしょうか。

昨年2月、敬愛する作家、古井由吉が亡くなりました。

彼の言葉を引用します。

生きているということもまた、死の観念におさおさ劣らず、思いこなしきれぬもののようだ。生きていることは、生まれてきた、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる。このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以降へ、本人は知らずに、超えて出る。

古井由吉『この道』からの引用です。

先日、帰宅してテレビをつけたらエヴァンゲリオンをやっていました。

もう20年以上が経つのですね。

当時は結構熱狂して全て見ていました。

今回、14年間、眠り続けたシンジが目にした廃墟、

昨日、新宿西口駅から都庁の方へ歩きながらその場面を思い出していました。

ここは未来都市のようで廃墟、あるいは墓場だ。

そんなことを考えながら都庁に大きく張り出された2020年のオリンピックの広告を眺めながら通り過ぎました。

都庁は淀橋浄水場が破壊された跡地です。

そして古井由吉の言葉。

「とにかく、死はその事もさることながら、その言葉その観念が、生きている者にはこなしきれない。死を思うと言うけれど、それは末期のことであり、まだ生の内である」

過去の定義の難しさは死のそれと同じであるように思います。

瓦礫、廃墟、墓場という言葉は被災地へも心を向かわせました。

もうすぐ10年、以前もここで取り上げた小松理虔さんの文章をゲンロンβで読みました。「当事者から共時者へ(9)」。多くの人と共有したい記事でした。

Facebookに載せましたが今日、辛夷の蕾が膨らんでいるのをみました。花も何輪か咲いていました。

過去がなんであれ、死がなんであれ、今年も真っ白な花が咲く場面に出会えました。

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『没後70年 吉田博展』はじまる。

没後70年 吉田博展』が上野の東京都美術館ではじまった。特設サイトだけでも訪れる価値があるが、やはり現物が見たい。今日の時点では事前予約不要だそうだ。

吉田博、1876年福岡県久留米市生まれ、1950年没。様々な土地を旅し、風景画を残している。ケンジントン宮殿でのダイアナ妃の写真で背後にみえる絵画が有名だろうか。

そしてご存知だろうか。フロイトの待合室にも吉田博の富士山が飾られていたのを。私もここを「精神分析という遊び」場のひとつにしている以上、フロイトの部屋みたいな感じで色々飾りたいが、技術がなくてひたすら「ブランク」のテンプレート(?)に書き込んでいる。まあ、ブランクスクリーンも精神分析っぽいからいいか。

フロイトの吉田博作品には最初ハテナがついていた。なぜならkiyoshi yoshidaの作品とあったから。このあたりのことは西見奈子『いかにして日本の精神分析は始まったか』に詳しく書かれている。フロイトが眺めていたのは吉田博の「山中湖」。同書に図版も載っている。山梨県側から見た富士山(これ、こだわる人はこだわる)。山中湖の静かな湖面に映る逆さ富士はやはり美しい。合宿で行ったな、山中湖。河口湖も大好きだ。

さて、これも同書に詳しいが、フロイトにこの作品を贈ったのは日本の精神分析最早期を支えた古澤平作。『フロイト最後の日記』1932年2月18日木曜のページには「古沢から富士山の贈り物」と書いてある。そして「この美しい絵を見ると、本当にいろいろ読んだものの、まだ実際に見ることを許されていない風景が、味わえます」とフロイトが1932年2月20日に古澤に宛てた手紙が紹介されている。吉田博の絵は現在ロンドンのフロイトミュージアムの食堂に掲げてあるそうだ。

ちなみにこの手紙の約一ヶ月後、フロイトは、費用面で悩んでいた古澤に規定の半額以下の分析料を提案する手紙をだしている。これらの手紙については北山修編著『フロイトと日本人 往復書簡と精神分析への抵抗』に詳しい。

吉田博も古澤平作も現場に出向いた人だった。北山先生もそうか。サンドラーやアイゼンクがいた場所へ行っている。でも北山先生の場合、いろんな現場が重なり合っていて「出向いた」という動詞がしっくりこない。西さんは資料を通じて日本の精神分析草創期に出向いた。

ところで、吉田博展のポスターには「美が、摺り重なる」とある。「摺り重なる」という言葉を聞いたのがはじめてだったのでインパクトがあった。版画というのは本当に魅力的だ。平面の微細な凹凸にさらなる深さを与え、再び平面に戻す。昨日読んだフロイトのグラディーヴァは版画ではない。浮き彫りだ。そしてフロイトのマジック・メモは、など色々思い浮かぶがとりあえず仕事にもどろう。

無事に展覧会に出向くことができますように。

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『グラディーヴァ』と手紙

グラディーヴァ ポンペイ空想物語 精神分析的解釈と表象分析の試み

前に書いたように『グラディーヴァ』にもいくつかの翻訳がある。種村訳はフロイトの『妄想と夢』論文とセットで種村氏と森本庸介氏の論考も読める。こちらはヴィルヘルム・イェンゼンの小説と訳者山本淳氏の表象分析のセット。

フロイトを読むときは時間が許す限り関連文献も読んでいる、というか読みたくなってしまう。このグラディーヴァ本のオリジナリティは、「『グラディーヴァ』をめぐる書簡」について書かれているところだ。作品と解釈をめぐり、イェンゼンと精神分析家が、あるいは精神分析家同士が交わした15通の手紙が取り上げられている。シュテーケルからイェンゼン、ユングからフロイト、フロイトからユング、イェンゼンからフロイト、フロイトからイェンゼン、といった具合に。

手紙というのはその内容だけではなくて、書かれ方、送られ方、受け取られ方などいくつかの側面から手紙の書き手についても教えてくれる。

置かれている立場、その人のペース、リズム、パーソナリティなどいろんなことが手紙には断片的に現れる。フロイトが出した手紙に淡白な返事を出すユングとか、フロイトを立てつつも苦言を呈するイェンゼンとか、せっかちですぐ反応がほしくなってしまうフロイトとか。

「応用精神分析」という用語はラカンによってその意味を変えたが、フロイトを読むときはフロイト自身のテキストとそれを取り囲む政治、社会、文化、思想などの文脈の双方を参照する必要があることは間違いない。

手紙はその双方の橋渡しをする。イタリアに強い思い入れがあるフロイトがイタリアから出した手紙は岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』でも読めるはず(またもや発掘が必要)。

それにしてもなんでも分析対象にするものだ。今となっては、私たちが家族や身近な人を精神分析することは危険というのは共通認識だが、文学や芸術に対する分析ってどうなのだろう。危険ではないだろうけど、なんだか偉そうだよね、と思ったりもする。小さい時から文学に助けられてきたせいかもしれない。

私は大学生の時、夏目漱石の病跡学をやりたいと思っていたが、それも偉そうだったかも。夏目漱石は実家に全集があって、今でも文庫で持ち歩くことはよくあるほどに好きだから触れたかったのだとは思うけど。今だったらどうかな。精神分析は治療としてだけでいいかな。文学とは山本貴光さんの『文学問題(F+f)+』みたいに関われたらいいなと思うけど、あれはすごい本だからなぁ。私は人に対してあのようなエネルギーを注いではいるような気はするが。

またもやとりとめなく書いてしまった。朝のウォーミングアップ終了。身体も動かさないと。

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パーソナル

先日、久しぶりに新宿三丁目の方を歩いた。地下はよく歩くが地上は久しぶりだった。新宿東口から新宿三丁目にかけては10代後半から長い間遊び場だった。よく通ったカフェは二軒とも残っていた。当時いろんな話をした。シアターモリエールはしまっていた。改装中らしい。なくなっていなくてよかった。

昨年は別役実が亡くなった。チケットをとっていた新作公演が彼の病気療養のため演目変更になり、別の別役作品をみた。淡々とした不条理から生じるゾクっとする怖さとほかでは体験できない笑いは私の身体に心地よかった。彼の死がとても悲しかった。

最近出版された松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』にも別役実が登場するのをご存知だろうか。意外な出会いに感激した。といってもビオンを信頼する松木先生がベケットに影響を受けた別役実と近づくのは自然なことだったのだろう。

松木先生のこの事典は事典というより本だなと私は思った。事典も本だろうけど。最初から読んでもいいと思う。私は最初、興味のある概念をパラパラしていたが冒頭から読んだら可笑しくて、本として読むことにした。多分、私でなくても読者は、これまでの松木先生の著書より軽妙な語り口で精神分析の難解な概念について学ぶことができるだろう。わからないならわからないなりについていけばそのうち実践を伴ってなんとなくわからなさの感触も変わってくるはずだ。私は概念も人もなんでも「あーあのときの」と何度も出会い直せばいいような気がしている。

ところで、この本のことを先生からお聞きした時、先生が「私説」とか「パーソナル」という言葉を使っておられるのが印象的だとお伝えしたのだが、実際そこにはわけがあった。それもこの本に書いてあった。多くの問いと答えを(そしてまた問いを)くださる先生からの学びを私も少しずつ伝えていけたらと思う。

それにしても、こころを「こころ」と平仮名で書いている場合じゃないくらい疲れてしまったとき、私は精神分析と出会っていなかったらこんなにこころを使う(精神を使う、って変な感じだから使えない)ことなんてあっただろうか、と考えることがある。精神分析は様々な他者をこころの中に住まわせる手法だ。そこには悲劇も喜劇も不条理もある。負担も喜びも憎しみもある。リスクもあるが生きがいもある。持ち堪えるとか生き延びるとかそういう言葉が使われるほどに結構ギリギリの体験を内包した拡張可能性を秘めた技法であり文化だ。書くだけなら簡単だがそれでも結構大変だ。生きるって大変だ。

「パーソナル」であること。この言葉自体何度も問われる必要があるのだろう。とりあえず今日、とりあえず明日、ベイビーステップでやっていこう。

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『グラデイーヴァ』

イェンゼンという名前のノーベル文学賞作家がいるのですね。こちらはW.あちらはJ. ドイツ人の名前なのですね。

フロイトが取り上げたことでとても有名になったというこの作品。でもシュテーケルやユングがこの本の紹介をフロイトにしたというのだから、すでにそれなりに話題だったのでしょうか。

昨日取り上げたフロイトの1906年の論文はこの小説(でいいのかな)を精神分析的に理解してみるというもので、前半はこの小説の要約に紙面が割かれます。フロイトはまずはこの話を読んでからこの論文を読むことを読者に願っていますが、今も手に入るのでしょうか。種村訳にはイェンゼンの小説とフロイトの論文の両方が載ってるはずですが、それも入手できるかどうか確認してみないといけません。私は持っていますがどこにあるか発掘しないといけません。

とはいえ、たとえフロイトの要約で省略された部分にこそ重要な部分があったとしても、フロイトの紹介の仕方はとても魅力的です。グラディーヴァのレリーフに魅せられた考古学者の主人公が、抑圧された欲望と近づいていく様子(内容はやっぱり読んでほしい)をいろんな気持ちになりながら観察する一読者の体験をフロイトはわかりやすく示してくれています。当然フロイトは『夢解釈』の技法を用いてこの小説を読んでいるので、合間合間で現代の精神分析では前提となった現象の説明を挟みます。もちろん現代でも、精神分析と馴染みのない読者にとっては「え!」という説明かもしれません。

一読者であれば、精神分析家は、というか、フロイトはそう読んだ、ということで全く構わないわけですが、精神分析とともに生きている立場としては、この後30年間、精神分析を科学たらしめようとしたフロイトが死ぬまで受け続けた批判と称賛の対象(「性」と「生」という欲動)について考えざるを得ません。

一方で、文学作品に対するこの同一化力(そんなものはないと昨日書いたばかりだけど)、そしてそこで緻密な思考を展開するフロイトはなんだか生き生きしていて読んでいてニコニコしてしまいました。私はフロイトがとても好きなんですね。

ソフォクレスのオイディプス王やシェークスピア作品を愛したフロイト、作品と作者、そして読者、この三者が織りなす無意識の交流。昨日、書いたようにこの論考は応用精神分析の始まりでもありました。「読む」「書く」という行為が、この小説において分析家の役割を担う女性の名前ツォーエ=「生命」を蘇らせたように、私たちもその行為を続けていくことは、精神分析が生命を保つためにもきっと必要なことなのでしょう(なので楽しくやりましょう、と読書会メンバーを密かに応援しています)。

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「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」1907

なんだか傘を持つのは久しぶりな気がする。

1月の東京は本当によく晴れた。

次世代を担う臨床家がやっているオンラインのフロイト読書会、次回は私がアドバイザー。

読むのはフロイト「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」1907年

Delusions and Dreams in Jensen’s “Gradiva” (1907)

1907年、この頃にフロイトはカール・グスタフ・ユング(1906年に論文集を送付)、マックス・アイティンゴン、カール・アブラハムと出会った。

グラディーヴァ、小説の主人公が熱烈に魅せられて古代レリーフのなかの女性。「歩き方」へのこだわりはとても興味深い。私もいくつかのエピソードを思い出す。

ユングがイェンゼンの小説をフロイトに紹介したことから始まったフロイトの文学研究と芸術論、これはapplied psychoanalysis(応用精神分析)のはじまりでもあった。

そういえばユング派の候補生ってユングの故郷チューリッヒにいくけど精神分析家候補生はもうそういう場所をもっていない。私は普段も旅するときもひたすら歩くが、私が精神分析に向かって、あるいは精神分析とともに歩いてきた仕方について少し考えた。

この小説の主人公は考古学者。彼の夢と「妄想」。考古学と精神分析、フロイトは文学作品に対しても優れて臨床的な観察力を発揮し、ここに類似性を見出した。

『夢解釈』で明らかにした不安夢の理解以外にも、フロイトは後年探求することになる現象にすでにここで触れている。精神病や倒錯に見られる現実の否認や自我の分裂など。

小此木啓吾先生の熱い語りも思い出すなあ。母を求める青年。小此木先生の同一化力(とはいわないが)はすごかった。

フロイトも面接室のカウチの足側の壁にグラディーヴァのレリーフのレプリカを掛けていたという。

Library of Congressのサイトを探ればいろんな写真も見られるかもだけどグラディーヴァのレリーフは普通に検索すればすぐ見つかる。

私がフロイトの何かを絵や写真で見たいときは鈴木晶『図説 フロイト 精神の考古学者』(河出書房新社)、ピエール・ババン『フロイト 無意識の扉を開く』(小此木啓吾監修、創元社)

フロイトのカウチに横になったら左側のグラディーヴァをぼんやり見ながらいろんなことを連想すると思う。カウチの横の壁には大きな絵がかかってるのだけど、私だったらカウチの横は小さい絵をかけるな。落ちてきたら嫌だし、圧力感じそう。でもフロイトの部屋はものすごくいろんなものがあるから、その一部なら気にならないか。私も賃貸じゃなかったら掛けたい絵がたくさんあるなあ。細々した思い出の品々はたくさん置いてるけど。

この論文もいくつか訳がでている。読書会は岩波書店『フロイト全集』を基盤にしている。今回私は種村季弘訳も参照。

グラディーヴァ/妄想と夢 – 平凡社

Quinodoz, Jean-Michel. Reading Freud (New Library of Psychoanalysis Teaching Series) (p.73).

日本語訳、ジャン−ミシェル・キノドス『フロイトを読む 年代順に紐解くフロイト著作』(福本修監訳、岩崎学術出版社)だとp.77〜も参照。

もっとこの論文について書こうと思ったけど面倒になってしまった。キノドスにも小此木先生の本にも色々書いてあるから私はまた今度にしよう。

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精神分析的心理療法とは

臨床心理士になって20年、様々な領域の職場で働きながら、毎週1回、同じ曜日、同じ時間に会う面接を続けてきました。今は、週1、2回、あるいは4回、患者さんやクライエントと、カウチあるいは対面で、自由連想の方法を使って行う面接がメインですが、当初は、固定枠を持てる職場は少なく、週一回固定枠では10ケースも持っていなかったように思います。ただ、少しでもそれを持てたことは本やセミナーで学んだことに実質を与えてくれました。

そして、そこを基盤にして細々と、限られた資源の中で、そこを環境として安全な場所にしていくこと、何が人のこころを揺らしたり脅かしたりするのか、ということを考え、何を提供し、何を控えるかなど、構造化、マネージメント、コンサルテーションの重要性に気づき、試行錯誤を重ねていきました。

30代になると、自分も週1日、2日の精神分析的心理療法を受け、スーパーヴィジョンを重ね、自分自身も多くのケースを担当するようになり、ようやく精神分析的心理療法ってこういうものなんだ、ということを実感できるようになりました。

さらに、精神分析家になるための訓練に入ってからは、そうやって少しずつわかってきた精神分析的心理療法を基礎づけている精神分析と直に触れるようになり、フロイトの症例にも精神分析を生み出した生の体験として出会い直し、開業し、実践を重ね、それらに通底する精神分析の普遍性を感じることができるようになってきました。

精神分析はとても長く、苦痛を伴う体験ですが、驚きの連続でもあります。それを「美しい」体験という人もいます。

このように精神分析を体験しながら精神分析や精神分析的な実践を行なうと、それらはこれまでよりもたしかな技法として手応えを持ち始めました。職人と同じで、訓練を受けている人の指導を受けながら見様見真似で行なってきたそれは、言葉にしてしまえばとてもシンプルなもののような気がしています。

以下はプライベートオフィスでの精神分析的心理療法をご希望の方に向けたご案内です。オフィスのWEBサイトにも載せています。https://www.amipa-office.com/cont1/main.html

たどり着くのはいつもシンプルなことなんですね(これも実感)。

ーこんな場合にー

人は誰でもなんらかの違和感や不自由さを抱えています。
それがあまり気にならない方もいれば、それらにとらわれて身動きが取れなくなっている方もおられるでしょう。

当オフィスでは、もしそのようなことでお困りの場合、ご自身のとらわれについて考え、変化をもたらしていく方法として精神分析的心理療法をご提案することがあります。

ーたとえばー

たとえば、いつも自分はこういう場面で失敗する、いつも自分はこういう人とうまくいかない、と頭ではわかっているのに苦しむばかりだったり、その結果、不安や抑うつなどの症状を呈したり、なんらかの不適応をおこしている場合、かりそめの励ましやその場しのぎの対処ではもうどうにもならないと感じていらっしゃる方も多いでしょう。

そのようなとらわれたこころの状態から自由になりたい、別の可能性を見出したいとお考えの方に精神分析的心理療法はお役に立つと思います。 

ー方法ー

この方法は、自分でもよくわからない自分のこころの一部と出会うために、こころの状態に耳を澄まし観察してみること、そして頭に浮かんできたことを特定の他者にむけて自由に言葉にしてみることを大切にします。 

ひとりではなく他者とともに、みなさんがより自分らしく生活していくためにそのような時間と場所をもつことはきっと本質的な変化と新しい出会いをもたらしてくれることでしょう。 

ーアドバイスは難しいー

同時に、この方法は、考え方や対処方法にいわゆる「正解」があるとは考えていないことを示してもいます。
そのため即効性のあるアドバイスを必要とされる方にはお役にたてないと思います。

アドバイスというものはとても難しく、「一般的にはこうかもしれない」ということはお伝えできても、単に個人の主観的な意見を押し付けてしまう危険性を孕んでいるように感じます。 

法律に反することなどはお互いのために禁止事項になりますが、生き方、考え方については誰かが答えを持っているわけではないと私は考えております。 

そのため、問題を整理したうえで一般論をお伝えすることはありますが、それ以上のアドバイス、ましてや「即効性のあるアドバイス」は難しいと思うのです。 

ー定期的で継続的な時間、少なくないお金を必要としますー

また、精神分析的心理療法の場合、ある程度長い期間、定期的で継続的な時間(週1日以上)を維持することが必要になるため、お受けになる方にも一定の時間を確保していただく必要があり、それに伴うお金も必要になります。

ー別の方法をご提案させていただくこともありますー 

このようにコストがかかるうえに、これまで知らなかった自分の一部と出会い、情緒的に触れ合うプロセスは決して楽ではないため、状況や状態によっては負担が大きく、ご希望されても始めないほうがよい場合もありうるでしょう。

そこで、ご自身の現在のこころの状態が必要としているものを明らかにするために、最初は見立てのための面接を数回行うことにしています。 

そのうえで精神分析あるいは精神分析的心理療法をご提案することもあれば、別の方法をご提案したり、別の機関をご紹介することもあります。

まずはそれぞれのお話によく耳を傾けることから始めたいと考えています。 

ー低料金での精神分析ー
週4日か5日、寝椅子に横になって行う精神分析をご希望の方は、
私は現在、精神分析家候補生ですので通常より低料金でお引き受けしております。

日本精神分析協会のHPもご参考になさってください。
http://www.jpas.jp/treatment.html

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精神分析とはなにか

精神分析ってなんだろう。ということについて色々考えます。今のところの考えは「精神分析と○○」シリーズ(なんとなくそんな感じで書いてきたこれまでの記事を集めただけだけど)としてオフィスのHPにまとめました。

先日、中公新書ラクレから出たばかりの『ゲンロン戦記』(東浩紀)を読んでいました。副題は、「知の観客」をつくる。私は東浩紀さんの本もそうですが、「ゲンロンカフェ」という開業哲学者、開業批評家としての彼の実践に関心を持って応援してきました。

東浩紀さんがいう「観光客」という概念は、精神分析を語るときにも重要です。

私はゲンロンや哲学の結構良い「観光客」であり「観客」だと思っています。彼らのことを人としてはよく知りませんが、私にとってそれは重要ではなく、彼らの思考や活動に触発され続けているものなので、その内側にいけなくてもずっと支えていきたい知がそこには存在するように思います。

ところで、そこにはいってみてはじめて「知らなかった!」と驚く景色があります。

東さんがチェルノブイリにいわば素人として降り立って知った、ガイドブックにはあったけどその姿を知らなかった景色、私も旅をするのでそのような驚きをたくさん体験してきました。

精神分析もまた、多くの「観光客」を持つ「知」のプラットフォームです。ここでいう「観光客」は、精神分析を受ける(単に「する」が正解かも)、という体験をするより、精神分析家の本を読んだり、ファンになったり、精神分析に触発されていろんなことを話し合ったり、そうやってゆるい繋がりを維持している人たちのことです。

そしてその人たちの存在こそが精神分析という文化を維持しているように私は思います。私がゲンロン友の会にはいったり、本やアーカイブを購入し、そこに触れ続け「観光客」であり続けることでその一端を担っていると感じるように。

精神分析家になるという選択をする人はそれほど多くないでしょう。哲学者になるという選択と同じです。内側での作業はひどく孤独なものですが「観光客」の存在が励みになります。私はそのマイナーな立場から彼らに注意を向けて精神分析という体験を少しずつ対話的な言葉にしていけたらいいなあと考えています。

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日本の精神分析家の本

日本の精神分析家の数は多くありません。国際精神分析学会(IPA)所属の分析家でいえば1学級ほどの人数で、訓練のための分析を提供する訓練分析家となると数えるほどしかいません。(日本精神分析協会HP参照 http://www.jpas.jp/ja/

だから精神分析なんて全然身近じゃない、かというとそうでもなく、精神分析家は意外と身近なのです。たとえば土居健郎先生、たとえば小此木啓吾先生、たとえば北山修先生、たとえば、、とあげていけば「あ、この人知ってる」という方は結構おられると思います。

精神分析家の先生方の発信力が強力、というか大変個性的なので、これまた少しずつですが、先生方の本について下記URLのブログでご紹介したいと思います。すでに書いたものもご関心があればどうぞご覧ください。

日本の精神分析家の本(妙木浩之先生)

日本の精神分析家の本(北山修先生、藤山直樹先生

精神分析の本

ちなみに私は、大好きだった合唱曲、「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者が、この北山修先生だとは全く知りませんでした。

精神分析ってまだあるんだ、と言われることもありますが、精神分析は特殊な設定にみえて、というかそれゆえに、すごく生活に近く、先生方の本に出てくる人たちはみな、私たちが自分自身のなかにもみつけられる部分をお持ちです。あまり難しいことは考えず、できるだけ無意識にしたがって共有していけたらと思います。

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フロイトを読む


noteで一番読まれている記事。みなさんがフロイトに関心があるのなら嬉しい。精神分析のアップデートの基本作業が「フロイトを読む」だと思うから。

以下はなんとなく書いたnote引用。

「フロイトを読む」という試みは世界中でいろんな方法で行われている。

私がフロイトと出会ったのは随分前で、子供の頃から「夢判断」(今は「夢解釈」と訳されている)は知っていた。自分で読みこなしていたわけではなく、大人が引用する部分を耳で聞いていたわけだが、夢には無意識的な意味があるということは、子供の私にもごく自然に、なんの違和感もなく受け入れられていた。私に限らず、夢の意味を考えるということはクラスでもテレビでも本でも普通に行われていたことで、「無意識」は現在の精神分析がその用語を使用する以上に生活に浸透していたのだろう。

あえて取り上げると物議を醸すというのは精神分析臨床ではそうなのであり、有るというならエヴィデンスを示せ、というのは、愛情でもなんでも多分そうなのである。そしてそれが不可能であることも大抵の人は承知しているはずで、だから切なくて苦しいのに、精神分析はいまだに厳しい批判に晒されている。でもフロイトの意思を継ぐ者はその人だけのこころが可視化するのは生活においてであることを知っている。

またもや適当なようだけどそんな気がするな、私の体験では。

月一回、私の小さなオフィスでReading Freudという会を行っている。少人数で1パラグラフずつ声に出して読み、区切りのいいところで止め、話し合い、なんとなくまとまりを得て、また読み進める。この方法はとても有意義で、声のトーンやスピード、フロイトの書き言葉との向き合い方はわからなさに持ちこたえようとするその人なりの仕方をあらわしているようでもある。

随分前に、小寺記念精神分析財団という、精神分析及び精神分析的心理療法の知識的なことを学べる財団主催の臨床講読ワークショップというセミナーでフロイトを系統立てて読むようになった。このセミナーは毎月一回、平日夜の3時間、フロイト論文を一本、それと関連する現代の論文を2、3本読むというものだった。

このセミナーは私がやっている小さな読書会と違って20人ほどが参加していて、毎回担当を決めて、レジメを作り、この時間内でそれをもとに議論をするという形だった。日本の精神分析家の福本修先生が論文の選択と解説をしてくださり、数年間でかなりの数の論文を読むことができた。フロイトを中心とした現代の精神分析家のマッピングが自分なりにできたのはとてもよかった。

キノドスの『フロイトを読む』(福本修監訳、岩崎学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b195942.html)はこのセミナーのメンバーが訳したものである。私が参加する以前のメンバーなので私は翻訳に参加していないが、この本はフロイトを読むときのお供として活用すると精神分析概念を歴史的に学ぶことができ、何年にも渡って加筆するフロイトの思考の流れを追いやすくなる。

サンドラーの『患者と分析者』(北山修、藤山直樹監訳、誠信書房http://www.seishinshobo.co.jp/book/b87911.html)のような教科書もコンパクトに重要概念とその歴史、現代的な意義がわかってとてもおすすめだが、まずは「フロイトを読む」、精神分析に関わるときの基本の作業はこれだろう。

とか書いているが、私は読んでもすぐ忘れてしまう。もうずっとそうなので、読んだときのインパクトが大事、精神分析ならなおさら内容よりインパクトが大事、だってそれは無意識が揺すぶられた証拠だから(言い訳かも)、と思って読んでは忘れる、をそのつもりなくり返している。


私たちのReading Freudで現在読んでいるのはウルフマン症例、「ある幼児神経症者の病歴より」である。使用しているのは『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』だ(藤山直樹監訳、岩崎学術出版社 http://www.iwasaki-ap.co.jp/book/b341286.html)。

1910年にフロイトが出会ったロシア人貴族である男性。この患者がみた夢から「ウルフマン」と名づけられた。あまりに有名で、関連文献もたくさんでているこの症例論文、当然私も何度か読んでいる。そしていつも通り忘れていた。

ひとりひとりが全く異なる声で、1パラグラフずつ読んでいた。私は読まれ方で喚起された疑問などをぼんやり考えながら聞いていた。その日はちょっと眠くて「夢」という言葉が出てくるたびにうんうんと夢見がちになっているのを感じた。

章で区切って、とりあえず書いてあることの理解を手助けしながら意見を聞いていたら、なんだかこれまであまり感じたことのない感慨に耽ってしまった。

宗教からして、言葉からして、身分からして、とにもかくにもいろんなことが違いすぎる。病歴も大変すぎる。方言だって理解できない私が、まるで違う環境を生きてきた彼の体験を追体験することは到底できそうにない。

なのになぜだろう。話をしているうちにやはり私たち(私だけではないと思う)はこの症例に身近さを感じてしまう、視覚像を共有したような気がしてしまう、普遍的な情緒を、こころの動きを捉えてしまう。少なくともそんなときがある。それはフロイトの思考に導かれているからだ、逸脱も含めて。どうやら私の感慨は、精神分析がもつ普遍性に対するこれまでとは異なる水準の気づきだったらしい。知らんけど、といいたいけど。

この多神教の国、日本においても精神分析が生き残っているのは、この普遍性ゆえに違いない。この普遍性は確実に、私(たち)が精神分析臨床に持っている信を支えている。たぶん。

以前も書いたが、フロイトの著作の翻訳に完全なものがありえず、それが夢解釈と同様に多義的で、精神分析と同様に終わりのない作業であることから示唆されるように、精神分析がもつ普遍性というのは関わり続けることで生じる変容可能性であり、身体の死を超えてなお生き残るなにかなのではないだろうか。

夢見がちでこんな感慨に耽っただけかもしれないが新鮮な体験だった。

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保育園巡回というお仕事

若い保育士たちと対等に仕事を共にできるのは他職種だからだろう。

彼らは現場の切迫感でこちらと対峙する。みてもいないようなこと言うなよ、という迫力を感じることさえある。

違和感に敏感で、傷つきながらもそこに居続け、笑えない状況だとしても遊びと生活を絶え間なく提供する。そういう役割を毎日生きている。あるいは生きようとしている。保育士の仕事は過酷だ。

一方、外部から短時間、年に数回出向く私の役割はかなり限定的だ。というよりむしろ限定的であることを意識し、どこを切り取っていくかを観察によって短時間でアセスメントしていく必要がある。今は様々な保育園の形態や動きがわかるので集団力動も読みやすい。でもこの現場の事情に慣れるまでは苦労した。

限られた時間でおこなう支援は、見かけはのんびりと静かに、しかし実際は現場のスピード感を邪魔しないようやりとりをする必要がある。自分の持ち物と役割を自覚することが大事と感じる。

いくつかの中学校でスクールカウンセラーをしてきたが、保育園のスピード感は育児のそれであって、時間と空間を構造化するスキルは欠かせない。症状や障害のある子どもの行動観察、テストを取りにくい子どもに対する臨機応変な態度、15分間インテークで身につけた聞き方、何かしら役立つものをシンプルに言葉にする努力、などなどこれまで体験から学んできたことを総動員し、反応を確かめつつ、お互いに試行錯誤しながらなんとかやってきた。もう何年になるのだろう。

「先生がくる日はいつもと全然違う」

多くの巡回相談員が言われる言葉だ。

普段の姿を見せたい保育士が、小さな子どもの手を取って笑いながらそういえるような関係はいい。本質はそこではないと彼らはすでに知っている。

私をみて泣き出す0歳児に「人見知りするようになったんだよね」と優しく抱き上げて報告してくれる関係もあたたかい。

私たちは年に数回、合わせても数時間しか会わなくてもお互いの仕事を知っていく。

0歳児からの最初の数年間、子どもたちの成長はこちらの予想を裏切り続ける。大きく見れば本に書いてあるようなことが起きているだけと思われるかもしれない。でもここで起きていることは今ここの関係でしか見られないとても個別の現象だ。

毎年0歳児から5歳児まで新たな子どもたちを迎えながら、毎年毎日、同じように戸惑い、ときに荒ぶる気持ちを抑え、彼らの仕草に笑い、一緒に手をたたき、成長に驚き続ける。

数年も付き合っているとお互いの仕事が浸透しあって観察はさらに精緻になる。真剣な遊びのように共に仕事をする。その点では精神分析と同じだ、と私が思うのは、私の持ち物がそれだからだろう。

多くの人に、多くのことを習ってきた。習うより慣れよ、というより、習い、慣れる、をひたすら繰り返し、特定の文化に所属し、浸透するように型を身につける。0歳児の苦闘に戻ったような、その頃の視線や腕を思い出すような、そういう体験をこの年齢になっても積み重ねている。そこで得る得難い想いは小さな彼らのそれであり、若い彼らのそれとも重なり合うのだろう。

保育園に通い、子どもたちや保育士たちと「遊ぶ」ように仕事をする。保育園巡回はそういうお仕事なんだろう、私にとって。

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歩きながら撮る

相変わらず歩きながら空ばかり撮ってる。

山手線を降りて人混みを縫いながらオフィスへ向かう。新宿パークタワーの三角の屋根が空を指している。モノクロの夕暮れに向かってぼんやり歩いていると、時々後ろの人がぶつかりながら追い抜いていく。さっきよりもっと端のほうをだらだら歩く。

文化服装学院のほうに出ると道が開ける。西新宿は東や南と比べると同じような色が多いが、この辺りは華やかだ。

さっきよりモノクロの夕暮れに近づいたが、グレーの雲の濃淡ははるか彼方まで続いている。少し圧倒された。あの明るい鱗雲はどこへいってしまったのだろう。美しい水色に規則正しく並ぶ白い雲たち。立冬を過ぎた頃から感染者数が増え始めたが、その頃はまだそんな空が見られた気がする。

外灯で少し不自然に輝いている銀杏を見上げる。銀杏にも個性があって、日当たりなど環境との相互作用で色づき方は異なるという。高層ビルが好き好きな高さで建つこの街の銀杏を見ているととても納得がいく。

店の窓はクリスマスの灯りが増えた。この時期、西新宿の高層ビルにはいつの間にか大きなクリスマスツリーが現れる。オフィスを構えてからは、毎年11月に東京オペラシティのサンクンガーデンでの設営場面を見るようになった。

20年以上前、できたばかりのオペラシティを通って家に帰っていた。あの頃、一階にはドーナツ型のソファがいくつかあって、この時期になるとその真ん中にサンタクロースが置かれていた。

西新宿からも多くのベンチが撤去された。居場所を減らすことで成立する美しさとはなんだろう。

色々な色、色々な形のコートがあるものだ。まだ大きなマフラーを巻いて身をすくめるように歩いている人は少ない。上着の前も開けたまま俯き加減に、あるいは賑やかにおしゃべりをしながら女性たちが通り過ぎる。数人は新宿駅へ続く地下道へ消えていった。

まだ肩パッドが流行っていた頃の私のコートはパッドを外してもかっちりした形を保っている。これパッドの意味あったのかなと思うこともある。このコートを着ると自分のシルエットが長方形になってしまいちょっと可笑しい。背の低い私には大きすぎるような気は最初からしていた。よって着こなせず、たまにしか着なかったからまだきれいだ。でもなぜか今年はこればかり着ている。年齢がこの形に追いついてきたのかもしれない。

前方からは仕事を終えたらしきスーツ姿の男性たちが横に広がったまま向かってきた。数年前の学会で同じ学派の先生方がこんな感じで歩いてきた場面を思い出した。オーシャンズ11みたいだ、と思ったんだ、そのとき。

今年はコロナで学会なくなったけど。

道で偶然出会った年配の女性とおしゃべりをした。とても80代には思えない身のこなしで前から歩いてきた彼女にすれ違いざまに気づいた。あまり体調がよくないらしい。人を蝕むものはコロナだけではない。

お金の問題についても考えていた。オフィス街では私が一生体験することがないであろう金額の話が飛び交う。お金も人を蝕む。誰でも座れるベンチが撤去されていくように。

こころをお金で語ったのも精神分析だが、フロイトはかなり切実な問題としてこれを扱った。

精神分析家になるためには訓練が必要である。国際精神分析協会(IPA)の基準と他の団体のそれでは異なる点があるが、なんにしてもそれに「なる」ためには精神分析を受ける体験が必須だ。長い歴史に支えられた組織で長期間、ある型を自分のものになるまで身に付け、かつその少し先を見据えるために鍛錬を積む。目には見えないが手応えのある環境として、存在として、自分を提供し、かつ自分の生活を維持していくために、莫大なお金と時間をさいて修行する。提供できる自分になるために。育てる自分になるために。それは痛みにしか感じられない場合もあるけれど、もしそうならその痛みを体験する自分にじっと注意を向ける。痛みを通じて学ぶことは多い。今大人気のアニメたちもそれを描き出している。もちろんそれらが光と闇で描き出すように、痛みが憎しみに変わり奪い取ることで満足を得る自分になる可能性だってあるだろう。憎しみに覆われた彼らが空を見上げている場面はあまり見ない。

もはや運みたいなものかもしれない。精神分析家候補生になるためには訓練分析家からの査定があるが、私はそれをなんとか通過してなんとか候補生としての生活を維持している。しかし、この「なんとか」とか「ギリギリ」の感覚はいつも付き纏う。いつ終わるかわからない日々であること、大切な人をいつ失うか全くわからない日常を生きていること、その不確実さだけがなんとなく私を奮い立たせ、持ちこたえさせる。

「希望」とかたやすくいう人をわたしは疑う。というか私は言わない、たやすくは。あえてそんなこといわなくても今日もなんとかやっている、私はそういう事実を大切にしたい。そこには静かな価値が眠っている。

明日にまた会える。多分。そしたらまた写真を撮ろう。

ところで、一ヶ月前に歩きながら撮ったのはこちら。季節はめぐる。

https://note.com/aminooffice/n/n38ce1485734e

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