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精神分析

準備、中耳炎の思い出

なんと表現したらいいかわからない鳴き方の鳥の声をベッドの中から聞いていた。何かが斜めにザッと切り落とされるような音が断続的に聞こえていた。なぜ音だけで「斜めに」と思ったのか自分でわからない。夜更かしをしたが読書会のあとに友達に色々教えてもらって久々の海外へ向けた準備が進んだ。余裕がなさすぎて基本的な準備に全く頭が回っていなかった。パスポートだけは先月取り直したけど。Amazonを見ていると余計なものを買い込みそうになる。危ない。電源変換プラグもそこそこいいのを買ってしまった。こういう小物はとっても楽しい。あと「のどぬ~るぬれマスク」を勧められた。たしかに。飛行機に乗ると喉が張り付いたみたいになってしまう。私は長時間乗る時はいつも濡れタオルをもらって口を押さえたりしていたのを思い出した。すぐに喉がやられてしまうだけでなく鼻が悪くて耳抜きができず中耳炎にもなりやすいから。一度かなり重たい中耳炎になってしまった。あの痛みも思い出した。最初の職場にいた頃、北海道に行く飛行機で中耳炎になり痛いし聞こえないし大変辛かった。薬で痛みが治まった後も聞こえにくい日々が続いた。世界の音が全て遠かった。しかしすぐにこれも悪くないな、と思うようになった。当時の職場には怒鳴り散らしたり不快感をコントロールできない話し方をする人たちがいた。毎日苦痛だったそれらが膜の向こう側に聞こえた。なんて平和な!とニコニコ穏やかな気持ちでいられた。ニコニコしてると怒鳴られそうだから心の中で舌を出しつつニコニコしていた。当時の私はそういう人が話す内容を信用していなかったけど聞こえ方が変わると内容を吟味する気も起きるのかその人たちのパターンもよくわかったし、話し方抜きで言葉を聞く仕方も学んだ。不快だとその人について知ることもしたくないがそのときは余裕があった。逆に、入職したばかりの頃は不快さに囚われてしまって知りたくもないのに「なんで」と知ろうとしてしまって辛かった。そんな状況ではこちらの知る機能も働かなくなっているからいくら努力しても無理であることに気づかなかった。その後もずっと良き友人でいてくれる先輩たちが現実検討を助けてくれた。彼らはすでにそれらの不快な声を聞き流しつつ「こういうことが言いたいんですよね」と爽やかに捉えることに慣れていた。いつも優しくて面白かった。とはいえ、中耳炎にはもうなりたくないので警戒する。予防する。「のどぬ~るぬれマスク」を買いにいこう、忘れずに。

読書会ではJoyce McDougallのThe Many Faces of Eros A Psychoanalytic Exploration of Human Sexuality(Norton Professional Books)をようやく読み終わった。3ヶ月に1回くらいのペースで読んでいたので時間がかかったが読んでよかった。多くの学びがあったので忘れないうちにどこかにメモしておこうと思う。

今日から初回面接グループが始まる。みんながんばろう。毛布とか洗って外に干していきたいけどにわか雨とかあるかしら。春の天気は侮れません。あ!春の天気とか書いたから明日投句締切であることを思い出した。やばい。いつも通り一句もできていない。言葉探しもがんばろう。素敵な言葉落ちていますように。あるいは降ってきますように。

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政治、映画、フィナンシェ

日本は高齢男性政治家たちの好き放題。彼らのあり方はいろんな男性(に限らないが)たちのいろんなことの免罪符にもなっているのだろう。「だって○○だってやっている」「しかたないだろ、こんな国なんだから」など子供のまま呟きつつ。みんなが少しずつ政治家に悪い部分を集めて政治家批判しつつ自分も同じなのに自分は違うと言い張るみたいなことも起きているのだろう。もしくはただの悪を悪から生じた善みたいに言って誤魔化そうとしたり。なんの哲学もないくせに自分の悪行ごまかすためなら引用し放題みたいなこともある。SNSはそういう人に非常に協力的。

フーコー研究などその著作も面白い重田園江が「白水社の本棚」の連載で一番好きなタランティーノ映画の一つとして『ジャッキー・ブラウン』(1997)をあげていた。私も大好き。高校の時の友達と見にいった。めちゃめちゃかっこよかった。ひでーなとひどいシーンを笑いつつドキドキワクワク、かっこよすぎた。私も不当な権力に甘んじるマゾヒズムを発達させないところは真似していきたい(そういう話ではない)。

今朝は京都土産のフィナンシェを温めて食べることを忘れなかった。温めて食べた方が美味しいって書いてある紙を見る前に食べてしまっていた。まあ、どっちでも美味しかったよ。今日は予定通りこなせるだろうか。だろうか、の時点で怪しいがやらねば。

東京はいいお天気。皆さんもどうぞ良い一日を。

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精神分析

あまりに良きもの、倒錯

いろんな人のライブ情報が入ってくる。コーシャス・クレイもまた5月にくる。

村井理子さんの愛犬ハリーが琵琶湖を泳ぐ映像があまりに美しい。岸政彦、齋藤直子夫妻の愛犬ちくわもあまりにかわいらしい。あまりによき姿というのはこの世に溢れているのでずっとみていたいがどれもこれもそればかりでできているわけではないので今日も普通に愛でたり憎んだりしよう。憎むまでは時間がかかるからなるべく憎しみにしないように違和感や怒りに素直になろう。

フェミニズムに影響を受けたといいながら平然と女をとっかえひっかえ利用する人(こういう場合、大抵家族もいることを考えるとどの関係性も代替可能と思っているところがポイントか。面白いことに表面的な類似性もある)が自分の身体の痛みにばかり敏感で相手の身体の痛みに鈍感であることについて考えていた。これはDVや多くの身体的な暴力についてもいえるかもしれないと思った。もちろん身体の痛みは心の痛みとイコールで考えている。私が考えていたのはヘテロセクシュアルで性器的な志向が強い場合の倒錯についてというか、それそのものの倒錯性についてなのだけど、こういう場合の方が暴力を暴力と思わないのではないか。今の政治もそうかもしれない。自分への執着を部分的に他者に投影して、それがモノである場合は思い通りにできるけど人である場合は相手にも身体と心があるから空想通りにはいかない。で何をするかというと人扱いをやめる。モノ扱いする。そうすれば何してもいい相手になる。考える必要のない相手になる。そういう倒錯性を考えると倒錯はマジョリティを説明する概念の一つになるかもしれない。イコールナルシシズムとして。他者をいなくしてしまうわけだから。でも倒錯という場合、そこにマゾヒズムの現れがあるわけでそれが自分の痛みに対するあり方に出ているのではないか、と考えたわけ。こういうことはすでに誰かが言っているかもしれないが、実感があるとこれはかなり恐ろしいことだと感じる。良きものが持つ力もそういうあり方に対しては無力というか部分的に利用されてしまうだろう。フェミニズムの知を喰いものにする「知識人」だってすぐそこにいるだろう。悪循環を断つには愛の物語が必要なのはどの時代も同じだがそれがマジョリティのナルシシズムでは困るわけだ。といってもそれがマジョリティである以上、そっちが「愛」と言われたりするわけだけど。などなど考えていました。難しい。

ああ、ハリーもちくわも近くの空を飛ぶ鳥たちもみんなあまりに良きものたち。世界がとんでもなく悪いものとしてもとんでもなく良いものたちを思い出す機能だけは残しておきたい。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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挟間美帆、俳句の本

腕が痺れて目が覚めた。いや、目が覚めたら腕が痺れていた。今も動きが悪い。とかくこうなりやすい。

昨日からずっと頭の中を挟間美帆の”A Monk in Ascending and Descending” が流れている。昨年秋に出たアルバム”Beyond Orbits”からの先行シングル。さっきはかわいいvisualizerヴァージョンをリンク先にしてしまったけどアルバム全体はこっちでチェックできるかな。私はあまりYouTubeを使わないのだけどジャズミュージシャンや曲の検索には使い勝手がいい気がする。私が求めている関連情報が出ているのかもしれない。

昨日Kindleでなんとなく『俳句がよくわかる文法講座: 詠む・読むためのヒント』(井上泰至,堀切克洋著)を読んでいた。堀切さん自身が本の紹介をしているサイトがあった。堀切克洋さんは演劇研究者でもあって私はそっちのお仕事にも興味がある。マイリス・ベスリー『ベケット氏の最期の時間』(早川書房、2021年)の翻訳も手がけておられる。『俳句がよくわかる〜』の本に「文語体の今昔」という章が2章設けられていて、その後「歴史的かなづかいのヒミツ」という章に繋がっていくのだけどこの辺りとっても面白いのですよ、奈良時代からの日本語の変遷が俳句を素材に説明されていてあくまで口語的に考えている私たちの文語として文語を捉えるから読んでいくと昔の言葉と現代語ってそんなに変わらないじゃん、だってなんとなく読めちゃってるし、と思うと思う。そして引用されているたくさんの俳句がどれもいい。赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』で芭蕉が歩かなかった、みなかった(見ようとしなかった)東北について書かれている章にはプチ旅人の私としては反省しきりだったが、この本で俳人として出てくる芭蕉の俳句はやっぱり面白くて旅人というより言葉のアップデートを試みた先駆者という感じがする。俳句を読む人って本当にこういうことよく考えてるのですよ。一方で私みたいにあまり何も考えず締切直前に投句してばかりの(出せないこともある)人の心もこうやってなんとなく惹きつけておくのも俳句で、これはやっぱり文語が全然遠い世界の言葉ではないからだと思う。だって言葉ってどれもこういう話し言葉から生まれてきたのでしょう?という感じで俳句の言葉を特別なものにしない感じがこの本の素敵なところだと思う。

それにしてもそれにしてもなのだが今日も無事に過ごしましょう。東京はいいお天気です。まだ肌寒いけど。どんな気温にも対応できる重ね着でまいりましょう。どうぞよい一日を。

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筍ごはん、硬い身体

今朝は筍ごはん。春。毎年静岡の小動物みたいな筍をいただくのだけど今年は来ないな、と思っていたらアク抜きした筍と筍ごはんのお裾分けをいただいた。正直、こっちの方が嬉しいな。フサフサの小動物みたいな筍もかわいいのだけどたくさんむきむきして小さくなってもそれなりに大きいというか、要するに茹でるのが面倒なのよね。いつも米ぬかもつけてくれるからただ茹でればイイだけなんだけど、と書くとなんでそんなことがめんどくさいのかと思ったりもするけど時間もかかるし米ぬかも結構厄介なところがあるでしょう、と思うのは、やっぱり他の料理より手間だな、と感じてるってことだね。もしかしたらほかにも要因があるのかもしれない。でもせっかく旬のものをいただくのだからはりきれるようになりたいわね。

今日はきれいに晴れそう。空はまだ薄い水色だけど東からの日差しが早速強い。部屋が朝日いっぱい。何が何やらな毎日でかえってぼーっとしてるだけみたいな気分なんだけどどうしたものかしら。この前、またパーソナルトレーナーの先生のところへ行ってみてもらったのだけど自分で柔らかいと思っていた肩甲骨周りが全く感覚がなくてびっくりした。昔みたいにひどい肩こりがないのも単に感覚がなく固まってるからなのか?怖い。そういう人いるらしい。ヨガやってるし、とかいって安心していたけどコロナ前からやってないし。先生に触られればそこに骨や筋肉があるとわかるのだけど自分で動かすことができなくてびっくり。でもそういう体験自体はヨガでたくさんしてきたからいずれ動くだろうとは思える。ヨガやる前の身体がほんと固くてみんなが低い姿勢を取れるなか一人だけ何もしていない人みたいな高い位置にいたりして先生も笑っちゃったりしてちょっと恥ずかしかったけど若い頃と違って全然恥ずかしさよりどうにかせねばという危機感の方が上回っていていつも先生の真前で超真剣にがんばって数年、だいぶ柔らかくなって今は見た目だけはどのポーズもそこそこ上手。全くできないポーズもいくつかあるけど。でもこれらが得意な筋力でごまかした結果の見せかけであることも知っている。先生にはバレているのだよ。はあ。指でちょっと姿勢直されるだけでふらついたりするのだからあーあって自分に対して思う。下手に運動神経がいい方だから使えるところで誤魔化しちゃうんだよね。その結果、今があると。はあ。でもさすがプロは技が多い。色々教えてもらって動いているうちに感覚ではつかめないけど鏡を見ればこんな感じかと動けるようになった。これを「今ここが動いてる」って自分で掴めるようになるためにはまずはどこが動いていないかを意識しようということで器具を購入。テニスボール2個でも代用できるけど2個を正確な位置に置ける気がしない。不器用すぎて。こうやってカシカシうっているときも時々姿勢を意識せねば。あーあ。整形の先生が言っていたことは正しかったんだなあ。いつもそう。人がいうことは大抵正しい。お世話になります。がんばりましょ。今日も良い1日でありますように。

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言葉、アーカイブ

うむ。ラベリングというかその出来事をなんと呼ぶかで事実認識が変わってしまうことは多々ある。私の仕事でいえばなんでも「アスペ」というとか。対話でなら「どんなところをそういうふうに」と聞けば解きほぐされて別の言葉になっていくわけでプロパガンダのような言葉にたやすくのっからないようにせねば。SNSは批判によってその言葉を知らしめてさらに使い勝手をよくしてしまうところがあるから怖い。

雨ですなあ。嵐になると聞いていたのだけど嵐はこれからでしょうか。滑りのよい南側の大きな窓をそっと開けて確認。あ、サンダルを避難させねば。使っていない陶器の鉢にポン。いい陶器だけど何年も使っていないからこんな入れ物扱いされている。いやいや、サンダルは大切な日用品。しっかり守ってあげねば。このサンダルが遠くに行ってしまっていないということは嵐はまだきていないということ。交通機関、乱れないといいですね。

問題を解きほぐした言葉で記述しなおし、それを歴史に位置づけ、記録されていない声の方、そしてそこには沈黙も含まれることに注目し、それらをたやすく「トラウマ」と呼んだり過度にイキイキした記述にしないように気をつける。

そういうことをする中で石原真衣のアイヌ研究、赤坂憲雄の東北学はとても勉強になった。東日本大震災の前に書かれた『東北学/忘れられた東北』の意義はますます大きい。昨年岩波書店から出た文庫は5本の論考を加えての再版で著者曰く「定本」とのこと。増補5「旅と聞き書き、そして東北学」には当時、福島県立博物館の館長として震災の記憶を記録するために奔走した著者が職を解かれたという記述に驚いた。しかし著者は奥会津ミュージアムという幻想のミュージアムを立ち上げる。今それはウェブ版で見ることができるのだがこの集積場(アーカイブ)について、特に災害との関連でそれについて考える際に参考になる本にも出会った。高森順子『残らなかったものを想起する──「あの日」の災害アーカイブ論』(堀之内出版)。この本はそもそもアーカイブとは、という視点を持ちながらメディアごとの実践が具体的に披露されている。したがって執筆陣も多様だ。アイヌ研究者の石原真衣は「語り」によって当事者の声を残しているが、アーカイブのあり方にも慎重であり、アーカイブとはなにか、何を成し得るものか、あるいは何をしてしまうものなのか、という視点は当事者を中心に考えながら立ち上げていく必要があるのだろう。記録は消費でもあるため何かをしゃぶり尽くす人を自分がしゃぶり尽くそうとしているということも生じやすい。その意味でもどうやったって想起されないものたちへの静かな関心も維持されるべきなのだろう。いろんなことが大変で難しいがまずは春の嵐に対してどうしましょう、という感じの空模様になってきた。毎年のことのはずなのにいつも同じ戸惑いばかり。どうぞご無事でご安全に。

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京都、挟間美帆、アイヌの本

京都のお土産ももうすぐおしまい、どれも個性があって美味しかったなあ。ありがとうございました。京都の景色は中学のときの修学旅行から始まっている。その前にも行ったことがあるのかもしれないがどの土地にも思い出の始まりみたいなものがあってそれは本当の時系列とは違うかもしれないし同じかもしれない。中学の修学旅行はグループで調べたところに好きに回ってよくて小さなみたらし団子屋さんに行ったりもした。今は普通に通り抜ける商店街である新京極はカツアゲに気をつけなければいけない場所としてインプットされているが「要するにカツアゲでしょ」と変換したのは私だと思う。京都は学会なども含めると友達も住んでいるし一番多く行っている土地だ。いくたびにかなりの距離を歩く。大学受験の時に泊まった宿はまだあっただろうか。母と泊まったとても古い町家は本当に素敵だった。そこはもうなくなったと聞いた。何度も見たい景色があるし一緒に行きたい場所もまだまだあるけど書き出せばとめどないであろう思い出がどんどん浮かんでくるから十分な気もする。どこにもかしこにも有名な物語が存在する京都。今朝は四条通の和菓子屋さんの栗きんとん。煎茶と一緒に。甘さを堪能してはお茶で打ち消す。また堪能する。また打ち消す。何をやっているのだ。これでは永遠に食べられてしまう。でも大丈夫。ここのお菓子は小さいから。リミットセッティングがされているのが優しい空間。

昨晩、ジャズ作曲家、挾間美帆の『情熱大陸』を見た。励まされるだろうなと思って珍しくテレビをつけっぱなしにして待っていた。励まされた。以前の柳樂光隆によるインタビューも大変面白かった。彼女の音や言葉や活動はとても魅力的。オーケストラを率いているのがとてもよき。私は音楽の才能が全くないけど音楽的な環境はとても豊かだった。父が趣味で地元のオーケストラでオーボエを吹いていたつながりなのか、いろんな有名な人たちの演奏会にもたくさん連れていってもらってよく泣いた。すぐ寝たりもしたが起きている間に聞こえてくれる音楽にはすぐ感動してすぐ泣いた。クラシックにも物語がたくさんある。いろんなことが同時に起きる。最近、海外でのカンファレンスで発表する原稿を書きながらあまり意識することなく馴染んできた世界が自分の思考を支えてくれていることに気づくようになった。明確な記憶ではなくて身体に染み込んだ印象が少し形になってきたのかもしれない。

先日、連れていってもらったカフェにDJブースがあっていろんなレコードが積まれていた。元楽器屋だったことと関係あるのだろうか。こだわりのコーヒーたちは高いが長居する人も多いのだろう。「ごちそうさま」のついでに店の人と立ち話をしていた人の肩を外から来た人が強めにたたいた。振り返ったその人は途端に嬉しそうな顔になってハグして今度はそばの椅子に二人で座っておしゃべりをはじめた。ここはそういう場になっているんだな、と思いながらめちゃくちゃ美味しいチーズのサンドイッチを頬張った。

北海道大学アイヌ・先住民研究センターの石原真衣さんの本がほしいがAmazonの置き配だとそこに置かれると雨が降った場合に困るんだよなあ、という心配があるので本屋で、でもなかった場合に困るから在庫があるか確認してなければ取り寄せてもらってとかいう手間が面倒ですでに持っているものやオンラインで見られる論文を読んだりしていた。

アイヌからみた北海道一五〇年』という本はアイヌにルーツを持つ人たちの言葉を集めた本。石原真衣さんの書き言葉は言葉に重みがあることを思い出させてくれるのだがこの本は歴史を背負うということについて自然に考えさせてくれる本。とても大変だけど応えていきたい言葉がたくさん。多くの人に読まれたらいいなと思う。

どうぞ良い1日を。

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精神分析

起きるたびまだ早朝。やっとちょうどよく朝になった。ハーブティーをいれた。真夜中に何か食べると罪悪感を感じたりすると思うのだけど時間感覚って睡眠によって決まってる感じがする。書いてみるととても当たり前に思う。人間は夜は眠る仕様の動物だものね、例外があるとしても夜行性には分類されないものね。昼行性。中高生ではない。いや、昼行性の中高生もいる。自動変換は言葉あそびを誘惑してくるしトンデモナイ間違いもするから困るのだけど面白い。

昨日、SNSでフォローしている人が『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)― サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』石原 真衣 著(北海道大学出版会)を引用していて私が今度発表することと近いので読もうと思った。うーん。これはとても多くの文脈を必要とする話だからこういうところには書けない。SNSなんかではもっと書けない。書いてはいけないことってたくさんある。クローズドな場所でオープンに話すことから始めていかないとたやすく反復になる。

NHK俳句、堀田季何さんだ。いいねー。黒岩さんのコーナーもあるのか。面白いねー。俳句、本当に本当に細々と続けている。おー夏井さん。夏井さんをきっかけにすごくなっていく俳人は多い。本当にすごい仕事をしてる。お元気でいてほしい。

さあ、のんびりした。お菓子食べよう。作業しよう。

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政治とか運動とか。

白湯を飲んでいる。鳥が鳴いている。手がまだみかんの匂いがする気がする。今日も少し雨が降るのかな。少し寒い。

そばにあった山川出版社の『詳説 政治・経済研究』をパラパラ。最初に司法制度のところを開いた。この辺は高橋ユキさんの記事のおかげでだいぶ自然に身についてきた。高橋さんの文章は余計なことが書かれていない分、書かれていない知識はこちらから自然に手が伸びるのだ。最近、そういう力がある書き方や喋り方をする人っているなあ、と思って高橋ユキさんや富永京子さんのことを思い浮かべる。さらにパラ。あ「バカヤロー解散」。衆議院議員総選挙一覧に解散日、解散時の首相、選挙結果の特徴、と一緒に「通称」が載っている。「なれあい解散」「抜き打ち解散」「天の声解散」「話し合い解散」「ムード解散」など色々面白い。政治状況は全然面白くないがなんじゃこのネーミングは。最近だと「近いうち解散」が面白い。はあ、なんかため息が出るね、政治のことは。私たちの生活なのに。私たちの生活、っていう場合、貧しい人を出さないということが誰にとっても一番大事と思うのだけど逆の方向にどんどん行っている。臨床心理士資格認定協会もまた変なことしてるし。私たち女3人で代表になって賛同してくれた全国のみなさんと認定協会に議事録の開示請求とかして叶わなかったのだけど、頼んでもないことに予算(=時間)使うならやっぱり議事録開示してほしい。どういう話し合いでこういうくだらないことが決まっていくのかもはや興味だな、これは。人のこころとかいっている私たちの代表たちが育児や障害のある生活に対するサポートよりも頼んでもいないカード作りの案に時間とお金(カード自体にはかからないとしても)を割くことをどういう話し合いで決めているのか見せていただきたい。最初、冗談かと思った。メールアドレスの公表もせず、私たちとのやりとりだって最初は封書。こういうことにいちいちお金使わせて事務の人に手間かけさせて返信には名前もなく時間をかけてようやく話ができても結局議事録の存在さえ明らかにされなかった。こういう嘘みたいなことをしれっとやるのやめてほしいから運動してるのだけどこんなんで何が社会貢献だよ、と思うよ、私は。書きものでは偉そうに政治語っている人たちがこういう地道な運動に協力してくれるとは限らない。自分の周りだけどうにかなればいい世界を目指す仕事じゃないと思うのだけど。まあ、どの世界でもよくあること、だとしてもまあ、言い続けていかないことにはなかったことにされるのもどの世界でもよくあることなので言い続けないとですね。身近な人を大切にしない人ほどなによりも妻とかなによりも家族とかいうのと同じ。相手のみならず言葉自体を馬鹿にしてるのだと思う。自分の問題に他人の言葉に強い刺激を受けながら取り組みつつ自分の言葉を問い直していく精神分析の世界でも精神分析はしないけど精神分析について自分の言葉で語りたい人たちはいっぱいいるわけでそれはそれでいいけど政治のことを現実感を持って話す関係が増えていくといいな。どのアプローチがどうこうとか権威がどうこうとかではなく。普通に自分が困っていることを共有するってことだけど。いちいちSNSとかで反応するのではなくて。文句を言い続けるならきちんと運動したほうが結果は出るし。私たちの運動も相当労力使ったわりに署名とかで協力してくれた人たちに「こんな結果ですが」と残念な感じで伝えざるをえなかったけど実名で丁寧に形にしていくことは人として大事。それに本題から逸れたところで時間割くのは避けたくないですか、みんな。無駄なことは信頼できる人たちと楽しんでやりたい、わたしは。こういうことは教科書に書けるような類のことではなくて生活の知恵というか家族や友達や社会から学びつつ作っていくスタイルみたいなものかもしれないけど独りよがりではなく考えていきましょ。

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4月、ホワイトガトーショコラ

煎茶。お菓子はもうちょっとあと。少し糖質高そうなのを食べようかどうしようか迷ってる。栗きんとんさんです。どうしましょう。そういえばエクセルシオールカフェに新しくホワイトガトーショコラというケーキを見つけた。見た目はチーズケーキみたいだから最初「???」となって角度を変えて眺めてみたりしてみたのだけどつい頼んでみた(ついじゃないよ)。ホワイトチョコが練り込んであるらしい。練り込んで、というのかわからないけど。店員さんに伝えたら意外と言いにくい「ホワイトガトーショコラ」。「ガトーショコラブラン」ってフランス語で揃えた方がいいのでは。大きなお世話では。はい。でも言いやすいよ。言い比べてみて。ガトーショコラブラン。関係ないけど「シャノアール」が「Chat Noir」だと知ったときは「それで黒猫!」と思う以前に「シャ」と「ノアール」で分かれるのか、という驚きの方が大きかった。だって「シャ」なんて単語があるなんて思わなくないですか。そういえば青森では自分のことを「わ」というという話をしたばかりだな。そうそう、店員さんにお願いしたらこの時期だからか研修中の人でケースを覗きにいってもどれだかわからなくて先輩に助けを求めた。そーですよねー。見た目、チーズケーキですもの。しかもケーキの名前が書いてある札ってお客さん側にしかないのね、きっと。これは間違わないようにケースの内側にもつけておいた方がいいよ。大きなお世話か。はい。私が店員だったら自分用につけさせてもらうな。絶対間違える自信がある。それかチーズケーキと完全に位置を分けさせてもらう。右端と左端とかで。で「右チー、左ホワ(いつのまにか略す。レスカみたいな。)」と何度も暗唱する。先輩店員さんはさすがにすぐにわかるみたいで教えてあげてた。少し傾いているトレイにケーキ置いて大丈夫かしらと思ったけどコーヒーでバランス取れてた。この不安そうだけどどうにかこなしている感じが「おー、4月」だった。「一年生」という季語で一句作れそうか、もしかして。「一年生ショコラに白があるなんて」とか。どこにも出せない一句ばかりできそう。ナイスアシストの先輩店員さんはホワを見て思い出したらしく別の店員さんに「そういえば試食した?」と言っていて「えー、新しいケーキって試食できるんだー、いいなー」とこれからいただくところなのに聞き耳を立ててしまったのでした。もう一つオレンジのムースかな、新発売の商品が出てるのですよ。それも試したい。あと春野菜の天ぷらが食べたいです。エクセルにはないです。私は自分で揚げ物はしないから行きつけの居酒屋さんに行きたいです。全然行けてない。でも昨日はがんばって原稿の校正を仕上げた。引用の間違いが多くて自分にびっくりした。ご迷惑をおかけすることにならなければよいけれど。毎日謝罪すべき事柄が生じるものですね。もはや二十何年生なのに。もう食べ物関連のことしか浮かんでこないのだけど昨日も三浦哲哉さんの『LAフード・ダイアリー』で盛り上がってしまった。「トレイダー・ジョーズのサラダ」という章でLAのスーパー事情が書いてあるのだけどそれをLAに住んでいた人と一緒に見ながら懐かしんだ。私も何回か遊びに行ったからちょっとわかる。なんかさっきから外ですごくかわいい鳥の声がしてる。すぐそばにいるのね。でもカーテン動かすとどこかへ行ってしまうから聞いていよう。いや、仕事しよう。そっと覗いてみたけど見えなかった。シジュウカラかな。あら、カラスの大きな声がしたと思ったらかわいい声も遠くへいっちゃった。まだ聞こえるけど。さあ、仕事仕事。お菓子食べる時間がなくなったかも。あー。まあ、いいか。色々美味しいもの思い浮かべて結構満足したかも。普通にいつもの道を歩いてるだけで桜が本当にきれい。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

お菓子、藤原さくら、過剰

今日は京都、普門庵の「京フランス」というフィナンシェ。開けたとき色がとってもきれいでびっくりした。半分こにするときは縦割りにしないと。トースターで温めるとさらにおいしいと書いてあることにさっき気づいた。じゃんねん。あと2つあるからそれは温めていただきましょう。

「フランス国家最優秀職人章(M.O.F.)パティシエのパスカル・モリネス氏と、全国茶審査技術十段の酢田恭行氏が監修。素材は、フランス産発酵バターと酢田氏が選定した京都産宇治抹茶「祥楽」を使用。」

と書いてある。なにやらすごい。世の中には色々な資格のようなものがあるのですね。フランス産発酵バターと書かれているものは全部食べたくなるし文字情報ってすごい。でもいざ食べるときは「やっぱりフランス産発酵バターおいしい」とはいちいちならない。おいしいものはおいしい。そうじゃないものはそうでもない。くらいな大雑把さ。いい加減なものよのう、自分は。

昨日、藤原さくらの新アルバムがリリース。ドラマーの石若駿がプロデュース。昨年知ってライブにも行きファンになった石若駿。色々聴いていて曲として一番いいと思ったのがSongbook trio(石若駿+西田修大+角銅真実)。角銅真実と藤原さくらは似た雰囲気の声だと思ったから今回のもすぐにきいた。よかった。石若駿はドラムの才能もずば抜けているわけだけど曲作りが本当に素敵だと思う。ジャズを基盤に誰にでも届く音楽を作っている感じがする。演奏も誰とでもやれる人みたいだし、ライブでも主役だったのに全然前に出ようとしない。若い人の紹介も本当にいい形でしていたのも驚きだった。言葉のいらなさを知る振る舞い。

なのに私ときたらここまでですでに過剰だわね。過剰といえば、次の作業に移る前に最近全然読めていなかったPEP-webの論文を見ていてこの分野は興味があるな、と思ったのは兄弟関係がテーマとなる精神分析事例。相手を過剰だと思う関係の典型。ラカン派の論文だったのだけど途中までしか読めていない。でも今日からまたちょっと後回し。何度か思い出してまた忘れていた校正原稿がきた。9日まで。チェックは入っていなかったけど自分で間違いを見つけてしまった。あーあ。もっと丁寧に書けばよかったな、と読み返しながら思うけどあのときは無理だったな、とも思い返す。何事も少しずつ精進。今日の東京は曇。もうさすがにダウンは着ないよね。冬が長かったので一番暖かいむくむくしたダウンには大変お世話になりました。クリーニングに出しましょう。今日は4月4日か。4/4って並びはなんかいいですね。過剰ではない。割り切れる。今日もいろんなお花と出会えそう。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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ウィニコット「ー家族療法ではなく ーケースワークでもなく ー共有された精神分析」

以前、ウィニコットフォーラムにて発表した原稿を簡略にしたものを一部載せておく。

テーマ「ウィニコットと家族」

ウィニコットの症例といえば(スクイグル・ゲームがふんだんに使われたコンサルテーションの事例集である)「子どもの治療相談面接」と(成人の治療報告である)「抱えることと解釈」、『ピグル』の3冊は、小児科医であり精神分析家であるウィニコットと対話したいときに欠かせない。


特に「子どもの治療相談面接」では『ピグル』において議論の的となった「オンディマンド」という治療設定を選択するときの精神分析家としてのウィニコットの考え、そして「主観的対象」という「ピグル」の発症に関わる発達最早期の赤ちゃんの状況を示す概念について重要な記述がされている。


『ピグル』は、ウィニコットの死後、1977年に出版され
た『ピグル』というニックネームの女の子の精神分析的治療の記録。セッション自体は1964年から1966年にかけて、オンディマントという設定で16回。

 
ウィニコットの二番目の妻、クレアが書いた序文によると、ウィニコットは、この治療を「ー家族療法ではなく ーケースワークでもなく ー共有された精神分析」と記録していた。


ここであえて「家族療法でもなく、ケースワークでもなく」と書かれているのはおそらく、この治療プロセスの重要な要素として、セッションとセッションの間に交わされた両親との手紙や電話による多くのやりとりがあり、そこから読み取れるウィニコットのマネージメントの仕方や母親の態度の変化など、「共有された精神分析」であるそれを読者が別のものとして受け
取るかもしれないことが想定されたからではないか。


 ウィニコットは、家庭や家族を子どもの病気の唯一の原因としたり、治療のターゲットにしたことはない。彼はそれらを「環境」という言葉に含め、発達最早期には環境と個人は融合したユニットであると考えた。そのため、環境が個人を抱えることに「失敗」したり、環境が個人に対して果たすことのできなかった役割については記述したが、それが扱われたのはあくまで転移状況においてである、という点において、この治療は家族療法でもケースワークでもなく、精神分析であると考えたのだろう。

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ヴァッフェル、メタル、ヒューム

なんだか夜、暑くありませんでした?まだ服装もお布団も真冬と同じなので暑くて起きてしまいました。二度寝したけどなんか暑かったよねという寝ぼけた感覚がまだ残っています。

今朝も京都若菜屋さんのお菓子。「苺クリームヴァッフェル いちごいちえー一期一会」。これもかわいい。開けるなりいちごクリームのいい匂い。私が大好きな系列のお菓子。「ヴァッフェル」ってワッフル?と思って調べたら

「欧米の伝統的なワッフル生地をさっくりと堅焼きし、芳醇なヴァニラクリームを挟んだ長崎堂のヴァッフェル。 」

という大阪の長崎堂さんのサイトが最初にでてきた。なんと。「ヴァニラ」とくっついておるのですか。若菜屋さんのも美味しいです。ありがとう。

ここのところ思いがけずっと色々大変で仕事が進まない。でもそんな状況にも少し慣れて締切を2つ守ったのは守ったことだけ偉かったと思います。内容はともかく。もうひとつは国際精神分析協会(IPA)のアジアンパシフィック地域の大会で出すパネルの原稿。もうダメだと思って1週間締切を伸ばしてほしいとメールしたらbut no later than Friday 5th Aprilということで2日遅れで出しました。日本語で15分間話す分量から随分減らすことになってしまったけどそういうものなのですね。色々素人すぎるけど今回学んだのは締切に遅れると英語でメールを書く手間が増えるということ。これはこれでめんどくさかった。

Spotifyの2024年のデータを基に、どの国でどのメタル・バンドが最も聴かれているかを示す「現在、世界各国で最も聴かれているメタル・バンドの地図」が話題に。”

というニュースを読みながら「へーおもしろーい」となっていた。

”注意点としては「何をメタルと分類するかによって結果が変わること。”

いやあ、そうでしょうねえ。

アジアンパシフィックの大会でご一緒する国を見てみましょう。

Taiwan:Flesh Juicer , Korea:Madmans Esprit , China: Nine Treasures , India: Bloodywood , Australia: Parkway Drive。で、日本はBabymetal

ふむ。早速インドのBloodywoodを聴いてみましょう。おお、インド音楽要素が強い!のにしっかりメタル。面白い。いいですね。

新しい本を読むエネルギーがないので再読ばかりしていたのだけどなんとなくKindleで読んでいない本を読んでみたのです。そうしたら全然頭に入ってこない。入門書かと思ったら博士論文を書籍化したものでした。博士論文の書籍化って多いけど難しい、素人には。まあ、まずは専門の人に役立つのが大事だからいいのだけど。読んでいたのは

成田正人著『なぜこれまでからこれからがわかるのか ーデイヴィッド・ヒュームを哲学するー』(青土社)。副題と目次からして難しいってわかるだろ、という感じだけど題名が魅力的だったのですもの。

教えて、ご本人、というわけで「普及版」といいながら全然普及しなそうな値段の『デイヴィッド・ヒューム 『人間本性論 第1巻 知性について』 (木曾好能訳、法政大学出版局)を読み始めました。さすが、ひとつひとつ丁寧。そう思ったから買ったんだもんね。ちょっとずつ教えてもらうように読みましょう。

さあ、洗濯は終わりましたが資料作りがもう少し。こんなことしてる場合ではなかったよ。どうか良い1日になりますように。

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Netflix お菓子 精神分析、本

三体、ほっこり餅、夢判断

 コーヒー&和菓子。机に向かうのが遅くなった。最近、帰宅するとNetflixの『三体』をちょこちょこみている、と早朝からすでに朝を2時間ほど過ごしたにもかかわらず書き始めたら昨晩より前に頭が戻った。朝らしさいっぱいの部屋なのに。昨晩もちょっとみた。『三体』は読もう読もうと思って読んでいないので何も知らないがこれはこれで面白い。すごいコンパクトにしちゃってるんでしょ。でも私はこれでいいや、みたいになってる。しかし、すごいね、原作も役者もゲームのことも知らない私みたいな人でもこのなんとなく知っている全く知らない世界を作り上げてしまうのだから。あ、しまった。こんなこと書きながら京都土産の「ほっこり餅」を食べてたらあっという間になくなってしまった。もっと味わって食べようと思ってたのに。この若菜屋さんのお菓子はほんと小さくてかわいい。ペタッ、モチッとした生地でニッキの香りほんのり。パクパクしちゃったけどニッキの味が残ってて美味しい。やっぱり知らない世界を知らないようにえがくって本当に難しいんだな、とまたドラマのことを思い浮かべてる。けど、味覚は「うん?何この味?」ってかなり新規性を感じるものがあるね。歯磨き粉とかも。この前、いつもと同じメーカーだからとあまり何も考えずに買った歯磨き粉が使い始めて何回かはいちいち「なんじゃこの味」となった。でも今は慣れてしまった。この最初の未知との遭遇の時間の短いこと。貴重。今年はもっとベルクソン勉強したいな。昨年、平井さんに問いを発したもののそれをしたことで自分が考えていたことにも疑問符がついた。この前のクドカンドラマはタイムマシンだったけどあれも既知である未知との遭遇だよね。そうそう、タイムマシンの物語って19世紀末までなかったそうですよ。アインシュタインの相対性理論が契機らしい、って何かで読んだ。でも記憶が意識されている以上、脳の中はいつもタイムマシン状態なわけだから「これタイムマシンものじゃない?」って今からなら思える物語はたくさんありそうですよね。神話とか。でも空間というか場所の移動、というのはかなり特殊な事態なのか、よく考えれば。一番そういう世界をたやすくこなしてるのは夢ですかね。昨晩、NHK Eテレで『夢判断』のことやってたけど立木康介さんの説明も面白かった。伊集院さんが指摘してたけどこんなこと自分でやってしまうフロイトやっぱり変だろう、と思いながら楽しくみた。しかし、なぜこの番組は岩波版の『夢解釈』ではなく古い訳を使ったかな。いろんな事情があるのかな。昨日はエイプリルフールだったけど「なにか嘘ついた?」という会話しかそれらしいことはしなかった。楽しい嘘ならつきたいもんだ。今日はどんな感じになるかな。良い一日になりますように。

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お菓子 読書

京都土産、朴沙羅『記憶を語る,歴史を書く』

今朝のお菓子は迷った。京都のお土産たちを眺めに眺め結局ひっくり返して賞味期限を確認して一番早いものからにした。お日持ちするのを買ってきてくれたけど多分どれもすぐになくなっちゃう。どれも美味しそう。今朝、選ばれましたのは若菜屋「京銘菓 焼き栗きんとん」。すごく素朴に栗の形になっててかわいい。小さいしかわいい。かわいいって二回書いちゃった。そして、うん、美味しい。結構甘いからこの小ささがとってもいい。ほうじ茶と一緒に。このほうじ茶、棚の奥で忘れられていたいい煎茶をフライパンで煎ったもの。あ、煎るっていうかな。いうね。あんな乾いてるようにみえても湯気で水分の存在に気づく不思議。すごくいい香りがする作業です。

今日は首が痛くて持ち上げづらい。ひどい頭痛は頚椎ヘルニアのせいかも。というか、前にそういうふうにいわれた。

私のオフィスは新宿が近いので「今新宿なんだけど」って急に声をかけられることがある。時間があえばちょこっと会ったりする。ごはんする時間がなくてもちょこっとお茶しておしゃべりしてバイバイするだけでほっこりする。ほっこりほうじ茶タイムを過ごしたら思い出した。

朴沙羅『記憶を語る,歴史を書く』(有斐閣 )を久しぶりに手にとった。noteでの記事は読んでいたのだけど、社会学の専門的な本でもあるから取り組めなかったのよね。でも最近、主にナチとか戦争が関わる歴史や歴史修正主義に関する本を再読していたせいか今回はじっくり読めている。何かが生じるにはいろんな条件が必要なはずなのにそれを吟味する前にパッと攻撃対象を作ったりするのも既に何か前提があるからだよね、ということを言ってるんだよね、と思いながら読んでいるのだけど違ったりして。私自身が思っていることを投影していませんように。読めていますように。まあ、ゆっくり。

ほっこりとかゆっくりとか言ってるときほどそんな場合ではないわけだけどどう焦ったら成果が出るのかもわからないし作業しつつたまにほっこりゆっくりしながらやりますわ。小さいお菓子をいただくほっこりも隙間時間の読書も時間的にはたいしたロスじゃないし、常にチャージされてた方ががんばれるかもしれないじゃん。ということでexcuseはもう結構、と自分で自分にいって始めましょうか。

東京は昨日桜が一気に咲きましたよー。暑いくらいの一日でしたから。朝と夜で駅前の景色が変わっていて驚きました。皆さんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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音楽

ジュリアン、イングヴェイ、親子丼

起きたら身体がバキバキだったが少し家事をしたら戻った。足のむくみがひどくて歩き方が変。ストレッチポールを早速サボってる。ただの椅子と化している。昨日はそのままウトウトしてドスンと落ちてしまった。あぶなーい。腰あぶなーい。怪我防止でやっていることで怪我するの良くない。日付が変わってから31日締切の原稿を送った。すっかり後回しになってしまっていたがなんとか出せた。パネルで出したものを学会誌用に文字化しただけなのだけど発表のときに好きに話してしまったから読めるものにするのに苦労した。日々丁寧に作業をしておかないとこういう苦労をするのですよ。知ってた。なのにーなーぜー。ビヨンセの新作COWBOY CARTERを聴きながらやっていたらノリすぎてしまって作業にならなかったのでジュリアン・ラージの新作にした。Speak To ME。今回の柳樂光隆さんによるジュリアン・ラージへのインタビューも勉強になった。戦前ジャズのお話。柳樂さんの勉強量もすごいけどジュリアン・ラージはなんであんなになんでも知ってるのだ、と思って読んでいると最後に柳樂さんが「なんでそんなに詳しいんですか?」と素朴に聞いてくれている。プロも驚くプロの知識。歴史に意識的である人は信頼できる。

「ジュリアン:僕はいつも歴史に興味があった。若くしてキャリアをスタートして、周りから多くの注目を集めていて、そのことに対してある種の恐れを持っていたんだ。アメリカには才能ある若者を搾取する構造があることにも気づいていた。そんなとき、歴史を学ぶことが僕の心の拠り所になった。歴史を学ぶことは、自分自身も長い歴史のなかの一部であって、あくまで大きなコミュニティの一人であるということを再認識させてくれる。そこからずっと学び続けてきて、その過程で同じ考えを持つ人たちと出会うこともできたんだ。」

なんと。7歳から学んでおられる。歴史を知ってるからスーパーうまいわけではないだろうけどあの音は唯一無二。学び方というのもあるが教え方というのもある。伝え方か。

そしてイングヴェイ・マルムスティーンが来日するらしい。うむ。こちらは私がももっとも親しんできたハードロック。彼は彼でスペシャルな人だけどなんと表現したらいいのだろう。ライブも行きましたよ。今回、誰とくるんだろう。

今年もどっかで時間作ってライブに行きたい。夏休みかな。能登にいくことは決定してるから何も東京でライブに行かなくてもいいんだよね。そういえばこの前金沢のさつまいもスイーツをお土産でいただいてとってもおいしかった。あれはどこのだったか。有名なお店と聞いたのだけど忘れてしまった。調べようとしたら金沢には有名なお菓子屋さんが多すぎて迷子になった。金沢は本当に素晴らしい街だよね。今度行ったら絶対行きたい焼き鳥屋さんがあるのだけど私たちが行ったのって新幹線が通る前だしまだあるかな。どのお店もすごく混んでてお昼を食いっぱぐれそうになっていたら「ここはやってるのかしら・・・」という雰囲気の小さなお店を見つけた。恐る恐る入ってみた。お昼もやってた。親子丼!親子丼があったらそれ一択。というかお昼は親子丼しかやっていなかったかもしれない。ものすごくおいしかった。親子丼、大好き。でも親子丼と聞くといつもそこを思い出すくらいになってしまった。夜は焼き鳥屋さんらしい。今度絶対くる。と思ったのに名前忘れちゃったよ。なんかもうなんでもかんでも忘れてしまうのだから嫌なことも忘れられたらいいのにね。嫌なことって結構積み重ねで嫌になるからなかなか消えないんだよね。美味しいものは積み重ねるとおなか壊しちゃうし。こっちはいくらで積み重ねたいのに。色々うまくいかないわね。がんばれるかしら。とりあえずお洗濯は済みました。はちみつルイボスはちょっと甘すぎるな。作業作業。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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Netflix 写真 読書 音楽

ビヨンセ、中平卓馬。

パフェを食べた。美味しかったけど多すぎた。うーん。昨日は調子が狂った、というかすでに色々狂っているところにまた狂ったからもとに戻ってるかもしれない。もとはどこだ。昨日はビヨンセが渋谷タワーレコードにきたというのを聞いて最初に狂った。誰かが同じ空気を吸えるだけ幸せ、といっていたが私もそう思う。ライブじゃなくて『COWBOY CARTER』のプロモーション?Jay-Zも来てたって。Jay-Zのライブ?わからないけどビヨンセがあそこにきたのかあ。ゴージャス。そしてうっかりNetflixで「ドリームガールズ」を見てしまった。寝不足。「HOMECOMING」もまだみられるかな。みたい、とか言っている場合ではない。

 でもね、今、東京は見るべきものが多すぎて危険。元写真部の私には欠かせない写真展たちも。竹橋の東京国立近代美術館で開催中の『中平卓馬 火ー氾濫』展は彼がもと編集者で理論家であることもあって文字情報も多い。新聞も日記も小さい文字がびっしり。急性アルコール中毒で記憶の一部を失って以降の作品を後期とすると、写真それ自体の変化というよりこの展示の仕方を許容できるようになったんだ、というかむしろこの展示の仕方で保たれる何かがあるのか、など複雑な気持ちになった。ものをものとして撮るという点に関しては後期の方がもうどうしようもなくそうなっている印象を受けた。最近は女性の写真家たちも増えて私が高校の写真部の薄暗い部室で眺めていたそれこそ中平たちの時代の雑誌にはない世界が広がっているように感じる。生活に対する構えも違うのだろうか、と考えるが、その辺だとそれは男女差というよりもっと個別的な歴史の話かもしれない。

朴沙羅『記憶を語る、歴史を書く』も関連して思い浮かべた。多くの写真がマイノリティを映すということとも関わる。私は人の話を聞くという行為でそれをしていると思っている。朴沙羅さんのようにオーラル・ヒストリーをきく仕事の人もそうだろう。そのときにこの仕事を難しくしている自分の問題に直面することがある。そこで「健康」を保ち続けるには「スキル」がいる。私は精神分析を受けなければこれだけの語りと出会うことは難しかっただろう。聞き出すわけではない仕事だから。対象とどう出会えばいいのか、という苦闘を体験しやすい仕事だからいろんな歪みも出る。だからいろんな人と関わっておく必要がある。中平のいろんなエピソードがぽつぽつと思い浮かぶ中こう書いているが後期の不自然なくらいピカッとツルッとした展示に前期とのつながりがあろうがなかろうが同じ人間の作品であることに違いはない。そういう重みと私もどう向き合っていくのだろう。いろんなことを考えた。

さあ、もう行かねば。どうぞ良い1日を。

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読書

雨。再読。

久々にお茶漬け。温まる。今日は少し暖かいのかな。お茶を飲むとその瞬間だけは暑いくらい。

最近、再読ばかりしている。新刊を読むエネルギーがない。三浦哲哉さんのは読めた。レシピの紹介の仕方も素敵だし、食材も乾物も調理器具もお酒もうつわもみんな楽しいし、三浦さんは引用もいい。あの本は「おいしいトーストの焼き方」から始まるのだけどトーストの「いいにおい」って想像できますか?ほわってした蒸気のにおい。「ああ、蒸気か!」って思う人もおられるかしら。トーストって聞くと最初は乾いているカリカリのイメージが出てくる方もいるかもしれないですね。パン屋さんって10時開店とかでも早朝からとってもいい匂い。本にも書いてあったけど蒸気が落ち着くまでに時間がかかりますものね。焼き立てを売っているお店は紙袋に入れても上は開いたまま。ビニールだとすぐ白くなるくらい。紙袋だと顔近づけてあのほわほわジュワーを自分だけ吸い込んでおいて「あーいい匂いが逃げちゃう!でも閉じたらそれはそれで違っちゃう」と家まで急ぐとかやりますよね。三浦さんはトーストのおいしい焼き方を紹介しつつ「におい」ってものがどんな感じで私たちに体験されてるかもサラッと書いてくれちゃってる。おいしく賢く素敵な気持ちで過ごしたいものです。それにしても外はまだ雨。風も強そう。窓に雨粒がいっぱい。午後は晴れるみたいだけど長靴履いちゃおうかな。ショートブーツに見えなくもない、いや、ショート長靴(どっちだ)にしか見えないか。そうそう、エネルギーがないから再読してるって書いたけどこのダラダラ再読するのが結構悪くなくて、昨日は森田真生『計算する生命』を読んでいたのですよ。あ、これ文庫化されてて解説が下西風澄さんですって。この本、ざっと説明しますね、みたいな感じで計算史について書かれている部分も勉強になるし紹介されるひとりひとりのエピソードで「数学」に人間のイメージがくっついてくるし、AIや自然とも普通につながっていっていつのまにか壮大な世界になってる、いや、こうやって社会を見る方法があるのか、と私にとっては新鮮な視点をもたらしてくれた本なんだけど今回は「あー、ここここ、うっかりブルックスのファンになるところだったぜ」とかダラダラ思い出読みをしています。数学が身近になる本が増えましたよね。私は数学全然できなかったけど周りは数学好きが多いです。こういうのを読むとその楽しみがわかる気がします。三浦哲哉さんの本も森田真生さんの本も学術的なのに生活と密着している(三浦さんのは生活が前景)のがいいのかもしれない。生活大事、というか楽しきものにしていきたいです。

さあ、今日は何を再読しましょう。あ、村上春樹も最近また読んでますね。彼のはエッセイが好きです。ということで東京の皆さんはひとまず足元お気をつけて。良い1日をお過ごしください。

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白湯、頭痛、ポリフォニー

白湯。これで「さゆ」って読むの面白い。「お湯」と同じではないのか、と思うけど一度沸騰させるのが違うとか。外国の甘いチョコレートと。白湯、あっついまま飲んだら白湯じゃなくなっちゃうけど飲んでしまってあちちってなってる。馬鹿だな。

頭痛持ちになってからだいぶ長くなってきてあまりに痛さに夜中起きてしまうこともあったり日中も歩くのが辛くなったりするのだけど慣れてくると苦痛に苦笑いが混ざるのです。どっちにしても「苦」ですけど。最近は頭に頭痛用のふっとい輪っかが嵌められたような痛みが多いのだけど寝ぼけてると外そうという動きを手がしてしまったり。それを覚醒している部分で「おいおい、とそれとれないやつですよー」とツッコミ入れたりしてる。こういう状況に「おいおい」だぜ、と思っております。一方でこんな痛くてもこんなくだらないならやっぱり結構大丈夫じゃね、と思ったり。今のところ脳の大きな異常ではないって言われてるけどそれもMRIとかで見える範囲ではだからどこでどうなるかは本当にわからないものです。

ポリフォニーという言葉を使って文章を書いたついでにそういう音楽ばかり聞いてる。小さいときから一番耳に馴染んでいるのはクラシック。特にオーケストラだからいろんなことが同時に起きている感じの不穏さとか華やかさにはドキドキしたりワクワクしたり。私は楽器の才能があまりにも乏しく演奏に混ざることはできなかったけど聞くのは誰にでもできる。今の時代はなおさら。今日も面白い音楽に出会えたらいいな。みなさんにもいいことありますように。

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お菓子 読書

街のお菓子、千葉雅也『現代思想入門』

今朝もまたまたパティスリートリヨンフさん。小川町マドレーヌ。町名のついているお菓子が好きです。たとえばヴォアラの「世田谷讃菓」とかだと太子堂の風景として「芙美子のかけおり坂」、豪徳寺だと「福まねこ」とか。心象風景をお菓子に、ということなので「これはどうしてこの味かしら」と想像しながらいただくのが楽しいです。なんでも「か」は「菓」に変えてしまうところとかも好きです。小川町マドレーヌはどうして小川町?というかどうしてマドレーヌ?これは多分ごくシンプル。パッケージに「和紙のふるさと」とあるからマドレーヌ自体に街らしさがというより街のお菓子屋さんならではの定番お土産なのでしょうね。「小川町って和紙のふるさとなんだー」「そう、わしのふるさと」「・・・」みたいな会話をもたらすのでしょう。「あ、わしって私ね」「(わかってるよ。だから・・・なんだよ)」みたいな会話も聞こえてきますね。あ、くだらない。

千葉雅也さんの『現代思想入門』読みましたか?私の周りは多分「フーコー」で挫折してると思うのです。デリダ、ドゥルーズとものすごく軽やかに話されているわけだけど「フーコー」は内容からしてちょっと雰囲気が変わるからなんにも考えずに「ただ読む」という方法をしない人は立ち止まってしまうと思う。なまじ有名だし。でも本は立ち止まらないことが大事。全部平面として読むことが大事。小さい頃って多分それができていたと思うよ、みんな。絵本の読み聞かせしてるといちいち反応はあるけど立ったまま膝に乗ってきたり指くわえてぼんやりしたりしながらもわりとじっと本を見て聞いているでしょ。反応は自分の中の情報と照合できる部分とかびっくりしたりするところであるわけだけどある意味作者の意図通りなわけでそこはそこ。進むことが大事。千葉雅也さんはこの本の付録にこういう読み方についてもっと上手にユーモラスに書いてくれています。「細かいところは飛ばす。一冊を最後まで通読しなくてもいい。」など。えー、最初に言ってくれよ、と思う人もいるでしょう。でもこういうのは壁にあたってから「え、そうだったの?」となる方が学びになるのでさすがは千葉先生なのです。方法論について常に考えておられるのはnoteを購読しているとわかる。それもすごく勉強になる。この本もベースになっているのは立命館大学での授業だそう。いいねえ、こんな先生に教わることができて、と思うけどだったらこの本を読め、ということですね。高校二年生のときのお父さんとのちょっとしたエピソードも印象的。進路を考え始める時期に誰かがいてくれるって本当に大事。言葉に従うためではなく何かを言われたら反抗したくなったりなるほどそうかと思ったり考えるためのきっかけができるから。そういう相手がいろんな事情でもてなかった人たちとお会いすることが多いのでこういうエピソードにもじんときてしまうのかもしれません。そうそう千葉さんの『エレクトリック』のフランス語訳も出版予定だそう。高2の達也くんのお話。フランス人にどう読まれるのか、千葉さんご自身がフランス語堪能だからご紹介してくれることでしょう。楽しみです。

どうぞ今日がよい一日でありますように。

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お菓子 散歩 読書

思い出など

今日も小川町のトリヨンフさんの焼き菓子と紅茶。神保町の隣の神田小川町ではなくて埼玉県比企郡小川町。東武東上線の。懐かしいなあ。東上線沿いに住んでいたことがあるから駅名はすごく馴染みがある。森林公園も遊びにいったなあ。ジャングルジムで遊んでたら男の子と間違えられた。当時の彼氏と一緒だったのだけどベリーショートだったから?いつもTシャツにジーパンだったから?今もたいていそうだけど。きっとそういうイメージなんだろうね。18でジャングルジム登るのが子供っぽいというのもあるか。でも公園行ったら遊ぶでしょ。今も小さい子たちと登ることがあるけど子どもの危険防止で登っているはずなのだけど私の方がバランスとか危うくて全然ダメですね。鍛えねば。最近ようやくストレッチポールに乗る習慣はついた。脛ゴリゴリするとまだすごく痛いけどトレーナーの先生のところでやったときより痛くない気がする。というかやり方が間違っているのかも?先生、ものすごく的確だったから。怪我しやすい人は身体が感覚掴めるまでプロにきちんと教わった方がいいと思う。自己流で怪我してたら二度手間というかとっても残念な気持ちになるし。整形外科とか行かねばになるといつも混んでるし病院通いは時間がかかるから本当にやってられないでしょ。私は日曜診療のところも使ってるけど、助かるけど・・・。この歳になると友達との病気関連情報網が発達してるから「ここは混むけど順番になると連絡くれるし先生がこういう感じでいい」とか「ここでこんなになってあれは失敗だった」とか教えてもらえるのがいい。この前、友人の病院選び失敗談を聞いてて、その人が医療系の友人にその病院のことを話したら「いい先生はそんなにべらべらしゃべらない」って言われた、と聞いた。至言と思った。必要なことだけをやるっていうのが技術でしょ、医療系も支援者も。余計なことはしない。友達じゃないんだから。友達だったら色々してほしいことをしてあげたいのはわかるよ。小さい子供がいる家庭なんて本当大変だし。予防接種行ったり、熱出したり、怪我したり、なんだかんだ、と自分のメンテナンスする時間も持てないでしょう。だからできることはしたい。私は小さい子がいる友達と遊ぶときはハーブティーとか持ってくことがある。自分が一緒に試してみたいのもあるし、前もってリサーチする場合もあるかな。ハーブって好き嫌いあるものね。彼らと森林公園に行くのもいいな。小さい子はとにかくいっぱい動きたいから見える範囲が広いところで(狭いとこっちもあれこれ注意払わなくちゃで疲れてしまうものね)遊ばせてあげたい。でも最近体力ないからあんまり遠くに行かないで・・・。森林公園は今はチューリップがたくさん咲いてみるみたい。昨年はチューリップで有名な公園に行ったつもりがもう終わっててありゃーってなった。でもいいところだったから野生の花々とか鴨とか見ながらお散歩して楽しかった。なんかまだ寒くて嫌になってしまうけどいろんな種類の桜が咲き始めてて沈丁花やコブシがとってもきれいなまま終わり始めてる。昨晩も真っ白なこぶしが朽ちていく手前の大きな花で闇を照らすみたいに咲いててすごくきれいだった。三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』(朝日出版社)の終盤「索引と徴候」という章で中井久夫の『徴候・記憶・外傷』からの文章が引用されている。この本は私もよく引用させていただいている。そこで中井久夫が書いた花のにおいのところが引用されているのだけど本当に見事な描写だと思うし、その後の三浦さんの思考の展開もすごい。「懐かしいにおいのお茶があれば、それを淹れてください。飲みつつ、つづきを読んでください。」のあとの文章。懐かしいにおいのお茶、なにかな。オレンジティーかな。バイト先で最初に飲んだときはびっくりした。紅茶なのにオレンジ?今ほどフレーバーティーのない時代だもの。でもすっごく美味しかった。あれはジャム使ってたのかな。タバコ臭くて意地悪なお客さんが多くてすごく近寄り難い喫茶店だったのだけど(だからバイトがバレないと思って友達に紹介してもらった)賄いのパスタもアイスココアも全部美味しかった。厨房の大人たちは怒鳴るし最初は怖かったけど(あまり覚えてないけど多分怖かった)「メニューにないものも作ってくれるよ、これが美味しいよ」と先輩が色々教えてくれたから恐々いってみると先輩のいう通り美味しいのが出てきてニッコリしたり。そのおっさんもそのうち怒鳴らなくなった。最初から怒鳴らないでよ。先輩はメルローズに就職した。あるとき道を歩いてたら田舎道ではあまり見かけないかっこいい車がピタッと横に止まった。声をかけられて「だれ!?」って一瞬ビビったけど先輩だった。モデル体型の人ではあったけどすごくおしゃれで最初誰だかわからなかった。エプロン姿しか馴染みがなかったから。あの人が私にとって「かっこいい」の元祖かも。元祖って今もいうよね?中性的で言葉少なくて優しかった。不良時代を支えてくれた皆々様との思い出が食べ物を通じて蘇るよ。感謝感謝。こんな歳になるまでどうにかこうにか生き延びております。みんなも元気でいてほしい。あ、千葉雅也『現代思想入門』のことを考えていたのに全然書いていない!なぜだ。お菓子を先に食べたからか。まあ、今日は時間切れ。あの本はとてもいいけどかなり難しいよね、ということを考えていたのさ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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お菓子 読書

三浦哲哉『自炊者になるための26週』

今朝は埼玉県小川町のパティスリートリヨンフさんのフルーツケーキ。ここの焼き菓子をいくつかお土産でもらったのでまたしばらく朝お菓子が充実。いちごもあるし。フルーツケーキって昔はあまり好きじゃなかった。多分生地にも少しお酒が入っているのが多かったんじゃないかな。あとドライフルーツが苦手だった。歯にくっつく感じが嫌だったんだと思う。レーズンは昔から好きだけど。甘さも好きな甘さではなかったんだろうなあ。実際、いろんなお菓子は当時よりずっと癖が抜けて誰にでも美味しくなっているのかもしれない。今となっては当時のをそのままの味で食べたいけどね。きっと美味しく感じると思うの。たとえ「ん?」となってもそれが美味しいってなりそうでもある。

三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』(朝日出版社)という本がとても良くて何度もパラパラしちゃう。『LAフード・ダイアリー』も一緒にパラパラしてなんだかジーンときてしまった。三浦哲哉さんの語り口が好きで映画の本も持っているけど私が映画に詳しくないからこんなワクワク感では読めなかった。でもこの2冊は本当に生活の色々が詰まっててこんな料理本これまであったのかしら!と驚く。三浦哲哉さんはお料理も上手だけど対談もすごくいいですよ。対談は映画のことをよく知らなくてもすごく面白い。すごく前のことだけど千葉雅也さんとの対談からファンになった。味もお話も引き出すのが自然で上手。生活する人、交流する人、考える人の自然に鍛えられた末の自然体、かっこいい。自炊本、1980円で買えるんだけどこの質でこの値段はものすごくお得ですよ。これは子育ても含め、三浦さんの育ちとか生活とかに即した本なのだけど引用されている文献もいいし、料理ってレシピではないんだよな、こういう行為で、こういう思考をもたらすものなんだよな、と何度もお鍋の中確認するみたいに舞い戻って読んじゃう。『LAフード・ダイアリー』もぜひ一緒に読んでほしい。生活って面白いな、ってなると思う。今日も美味しいものと出会えますように。良い1日をお過ごしください。

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バスで、とか。

頭があちゃこちゃ大変。お湯がクツクツ。とちおとめパクパク。今日もミントティー。昔は苦手だったのにね。

なんか疲れやすくて乗り物を使うことが多い。普通は使うのだろうけど。昨日は小さなバスに乗った。大きなバスにも乗った。今小さなバスちっこかったな、と思い返していたらその前に乗った大きなバスの運転手さんのデッカくて早口な声がかぶさってきた。バスって外の人にも放送が聞こえるようになってるでしょ。あれっていつから?バス停にいると私が乗るバスがやってきた。何やら聞こえる。いつもバス停から少し離れて止まるバスが多いバス停なのでどうやらそのことらしい。乗った。乗ったのは私一人。席は満員。二人掛けの席は半分ずつ空いているところがあったけどもっこもこの私がぎゅーぎゅー入るのは申し訳ないのでいつも座らない。運転手さんの「発車します。危ないのでおつかまりください。」の声がデカくて早口で慌てて手すりを掴んだ。この運転手さん、ちょっと慌てん坊タイプでお知らせがないとバス停もないかのように突っ走ってしまう感じで一回慌てて止まってた。でもそういう時の態度が「あ、すいません、止まります」ってなんだか自然で、なんか安心した。運転手さんが焦った感じになっちゃうとこっちはもっと不安でしょ。私はのんびり運転手さんのときでも自分が降りるバス停をお知らせするのを忘れたりするから降りる直前だけちょっと気張ったけどね。というか、大抵は誰かがピンポン(ではないけど)押してくれるバス停なんですよ。なのにこの前気づいたら通り過ぎてて「えー!!」となった。私が押さなかったからなんだけどね。悲しかった。そういえばコロナ禍の頃かな、コロナとは関係ないと思うけど、バスの運転手さん、座ってとかつかまってとかつかまってくれないと発車できないとかすっごくたくさん言っててご本人も言われる方もなんかイライラした感じになっててこりゃ大変な仕事だな、と思ってたけど全然なくなった。あれは逆効果だったかもしれないね。よくデパートとかのエスカレーターとかで「よいこのみなさん」って呼びかけがあるじゃないですか。以前「「わるい子のみなさん」っていった方が注意引くのにね」と言ったら笑われた。そういう歌あったよね。「ねないこだれだ」の論理(?)でいえば「エスカレーター走って登っちゃうこだれだ」となるか。これはくどいね。小学生にもなれば「よいこのみなさん」と言われた悪いことしたい子は「よいこじゃねーから」となるし。でもまあそうやって注意が耳に届くこと自体が重要というのはあるね。今日もどうでもいいこと書いてるな。どうでもいいことといえばこの前夜にデニーズに行ったの。そしたら両隣も向こうも女性二人か男女のカップルで話してることはそれぞれだったんだけど喋り方が日中には全く聞かないようなプライベート感たっぷりの喋り方で「まだそんな遅い時間じゃないけどこの時間はもうそんな感じなのか」とすごく面白かった。退行タイムは大事よね。外でやるのか!という感じはしたけど大事よね。はあ。朝から疲れてるな。こんなこと書いてるからか。どうぞ良い日曜日をお過ごしください。

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精神分析、本 読書

『佐多稲子 傑作短編集』

紅いもタルトにミントティー。喉、鼻、頭痛をスッキリさせたい。

昨日は佐多稲子の短編集『キャラメル工場から ─佐多稲子傑作短篇集』(佐久間文子編、ちくま文庫)を読んでいた。最近、戦争、特に敗戦と憲法について考えていたからそのつながりで手に取ったのだろう。本屋での行動は大体無意識から始まる。佐多稲子は1904年生まれ。平成何年だか、10年かな、94歳まで生きた。大正モダンガールといえばなんとなくいい感じだが共産党、戦争、震災とも切り離せない作家であり、朝日新聞の戦地慰問に行ったことは敗戦後もずっと彼女を苦しめた。林芙美子もその一行の一人だったが同じように苦しんだ。何がなくとも本人は苦しんだだろうけど周りからの批判も強かった。今と変わらず人は好き勝手いうのである。無事に帰ってきてくれて本当によかった、とはならないのか。ならないのである。無事に帰ってきてしまったがゆえになんか言われるのだ。彼らが兵士の話を聞いたり、こういう文学を書いていなかったら私たちは敗戦や小林多喜二の死から何を学べただろう。人の死から学ばない人は人が生きていることも喜べないのだろうと思う。この時代は日本の精神分析導入期とも重なり、私はその文脈から敗戦などについて色々考えていたのだが、1920年代にフロイトの翻訳をした安田徳太郎は佐多稲子同様、小林多喜二の遺体と対面した一人である。私は長編を読んでいないのだけど佐久間文子の編集による佐多稲子のこの短編集は多分とてもバランスがいい。デビュー作「キャラメル工場から」は実体験からとはいえひろ子の目が捉える一瞬一瞬がリアルな格差を感じさせ心揺さぶる。どの作品も女の痛みや怒りを登場人物の対話によって正当なものとして浮かび上がらせる。以前、人の言葉を「全部正当防衛のつもりでしょうけど」とかいったバカ男がいた。自分への怒りを感情ではなく道具としてしか受け止められない人は相手を見下しその怒りを相手だけのものとして押し込めようとする。自分のダメさを知るのが恐ろしいからだろう。そういう人が哲学教えてたりするのだから哲学者たちの言葉もかわいそう。見下されたことのある女たちには佐多稲子を勧めたい。一緒に泣いてくれるし怒ってくれる文学だと思う。

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趣味

富永京子さんポッドキャスト

姫栗もなか。上手に割れず。クシャッとなってしまった。緑茶が美味しい。

昨晩も富永京子さんのポッドキャスト『仕事の合間』を聴きながら帰った。富永さん、本当に話すのが上手。おもし論文といって興味深い論文の紹介もしてくれるのだけどその説明もものすごい上手。上手という言葉にしてしまうと簡単なんだけどなんていうのかな、専門的な分野のこともこっちが全く興味を持ったことのないことも同じような楽しさの話にすっと変換しながら話してくれてるというか、疲れた帰り道でぼんやり聞いてるだけなのに耳はきちんと興味を持ててしまっている、というか社会運動の研究者は本当にいろんな人の声に耳を傾けているだろうからそもそも聞き手のことをよくよくわかっている人なのかもしれないねえ。元々そういう能力の高い人なのかもしれないし。そうそう、富永さんはいろんな人と美味しそうなアフタヌーンティーをしててすごく楽しそうなのだけど研究者同士とか狭い範囲の人と話すことが多いんだって。そこで話されている研究者同士の話の再現も「ほー」と思うのだけど、それ以外の人とのいわゆる雑談をものすごく新鮮に楽しんでいる富永さんの話も面白かったよ。私なんて仕事以外は雑談しかしていないから逆にそんなことがそんなふうに楽しいのか!と思ったり。またね、その紹介する話題も絶妙で、しょっちゅうそんな話してる人たちなら尚更ノれる話題だったりね。自分の言葉で喋っている人の話ってすっと入ってくるからいいのかもねえ。なんか好きなもののこと書いてると気持ちが和んでくるね。いいことだ。

とかいって逃避している場合か。場合じゃない。なんか頭がおかしいんだもん。だもんじゃない。はい。がんばりましょう、できる範囲で。

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散歩 読書

『東東京区区』、社会学の本

近所で用事をすませてコブシと雪柳が真っ白に咲き誇っている場所に少し寄り道しようといつもと違い道を通った。同じ場所に白い椿も咲いていた。いつもの道からだと見えていなかった。

地元の珈琲屋さんで移転してしまったラーメン屋さんのことを話した。移転先は決して便利な場所ではないのに看板も出さずに成功しているらしい。惜しまれて去ったと思われたら皆ついていったか。素晴らしい。

街歩き趣味の私はかつしかけいたさんが「路草」で連載している『東東京区区(ひがしとうきょうまちまち)』という漫画が好きなのだけど「第10話「卵・焼肉・あんみつ」」が公開されて嬉しい。舞台は上野。私が子供の頃は特急も新幹線も上野までで上野が玄関口だった頃の景色はよく覚えている。あの薄暗いホームこそ私の「東京」だった。実家にいる頃はなにかとお茶の水へ向かうことが多かったので上野で降りることはあまりなかったけどこんなに高低差がある街なのね、ということを今回の回で学んだ。たまに上野から根津、谷中、湯島の方へ抜けたりするけどここに出てくる道は歩いたことないかも。あんみつ「みはし」は憧れ。いいなあ。友達と行きたい。

仕事以外はだいぶぼんやりしていて手元にある本ばかり読んでいるのだけど再読のはずが全然新しい本に思える、やはり。奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』は二月末に名古屋に行ったときに帰りの新幹線用に買った本なのだけどようやく最後まで読んだ。三木那由他さんが解説。こんなにわかりやすく書ける三木さんがすごい。全般的な私の意欲が落ちているせいもあるのかもしれないが、この本はかなりずっしりした一冊でしたよ。今回、25年を経て待望の再刊だったらしい。私は社会学の流れとかをよく知らないのでなんとなく手に取ったが今でも、というか今だから読まれた方がいい本なんだろうなあ、と思った。いろんな場面や状況が想定されてそこで生じていることをどう理解するか(理解できないという理解をどうするかも含め)について緻密に議論が繰り広げられているが、これは古田徹也『謝罪論』に通じるところがある。というか私が選ぶ本はみんな通じるところがあるから選ばれているのだろう。だってこの本の後に手にとった大澤真幸の『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学 大澤真幸THINKING「O」第14号』(左右社)の見田宗介論文の要約にも奥村論文が登場しており、奥村隆の文庫のあとがきは大澤真幸の言葉から始まっていた。先輩後輩関係とのこと。社会学も人材豊かだなあ。あまり意識せずに色々読んできたけど意識すると「あぁ、この本の編者もこの人なのか」など少し繋がりが見えてくる。ちなみに吉本隆明『共同幻想論』もそばにあったのですこ再読したがこれも重たいねえ。私がお世話になっている世代は皆はまったであろうこの本。ここで出てくる『古事記』はやっぱり町田康のとは違うんだな。もうあれは印象が強すぎるからオリジナルとして読んだ方がいいと思う。吉本本とは異なるテンション。そうか、今私はテンションが低めなのでそこのブレに敏感になってしまっているんだな。いつもだったら振り幅考えずになんでも読んでいたわけだし。はあ。とはいえ今日もお仕事がんばりましょう。オフィス周りの地形も暗渠とかあって起伏が多い。隙間時間にぼんやり歩くか。東東京の方が個人的には魅力的だが普段使いの街への気持ちはこんなものだろう。私のオフィスがある西参道は初台駅利用もいいけど明治神宮方面に行くのも中野方面に行くのもあり。私は都庁に行かねば。新宿中央公園のコブシも黒くなってきちゃったかな。真っ白に満開に咲くとすぐ黒ずんでしまうのもコブシらしさ。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

トレーニング、『他者といる技法』

昨晩はストレッチポールでぐりぐりしていたら遅くなった。最初は痛すぎた。脛がどこよりも痛い、が、二日前より痛くなかった。やり過ぎに注意して(痛みは癖になる)続けよう。少しでも体調を改善したほうがいいかなと思って個人の部屋を持っているアスレティックトレーナーの先生に見てもらった。足首と股関節の硬さに驚かれた。これ、子供の頃から驚かれている。子供の頃は身体部位としては言われなかったけど自分ではそれがどこかはわかっていたのでその後、ぎっくり腰になったとき、すぐにヨガを選択したのは悪くなかったと思う。あの痛さは二度となりたくない恐ろしいものだったし仕事も休みたくないからすぐにケアに取り掛かった。私は目的がはっきりしているとかなり地道(でもやりたくない筋トレは全然しない)。毎朝7時からスポーツジムのヨガのプログラムに出てから仕事へ行く生活を数年関したが朝8時から仕事をするようになってからやめた。で、あっという間に数年経った。怪我もしにくくなったと思ってたけど元々の身体って変わらないってことね。確かに柔らかい人は何しなくても柔らかいし。またケアしなおさないと。でもヨガに数年間通ってピラティスのマシンとかも使った個人指導も受けたことがあるのでトレーナーの先生の指示とか身体の仕組みとかについて何を言われているかはすっとわかった。足の力を抜いておなかの力で立つ、というのは本当にわかる。絶対そのほうがバランスが取れる。が、おなかの力も弱くなってるのだ。悲しい。でも久しぶりにがんばった。運動好きだからやるとなったらその場では結構がんばれる。ひとりでもがんばらねば。相談できる先生と会えてよかった。指導歴の実績もしっかりしたプロの先生はやっぱりすごいなと思う。余計なことは言わず時間で終わる。私も決まった時間にはじめて決まった時間に終わる仕事だし世間話とかしないので楽ちんだった。最近、奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』(ちくま学芸文庫)を読んでいたのだけど人間関係に「技法」とか「方法」とか持ち込むのが本当に苦手。そんなもんわかったらこんな世の中になってないんじゃないっすか、と思ってしまう。でもこの本はいい本だった。うまくいく技法とかではなくてどちらかというと私たちが他者を排除したくなったり居心地が悪くなったりするときの心の状態を説明してくれる感じの本だった。私たちは相手とともにいたければ「どうしたらいいのだろう」と悩む。いたくなければ平然とひどいことをしたり言ったりすることだって方法となりうる。相手に悪さを預けてしまうという方法。いたくないけどいろ、とかいう人も相手をダブルバインドの状態に置くという方法しか知らない人ともいえる。「一緒にいたい、でも難しいことばかり、どうしたらいいのだろう」こういう悩みは素敵な悩みだと思う。そこにとどまるのは辛いことだけどとどまってでも一緒にいたい場合、スキルではなく心のモデルをいくつか持っておくことは助けになるかもしれない。今日も悩んだり悩まなかったり色々だと思うけど良い一日でありますように。

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精神分析

調布市武者小路実篤記念館

お菓子を食べるのに忙しくてなんにもない画面を眺めていた。洗濯機はかけた。コーヒーも久しぶりに飲んでいる。先日、京王線の仙川駅とつつじヶ丘駅の間にある調布市武者小路実篤記念館へいった。長い名前だ。仙川は母校の白百合女子大学があるので慣れているはずだが街に当時の面影はほとんどないのでその後行くたびに少しずつ付け足された景色からまた少しアップデートした。昨年、大学へ行ったときはちょうど駅前のルパ(パン屋)がなくなる時でみんなで懐かしんだ。ルパで「おはよー」となって一緒に大学に行ったりしていた。大学院生の頃にある先生と一緒になって「あみさんは博士課程に行くのかと思ってた!」と驚かれた。私はできるだけ早く現場で働きながら勉強したかったのでむしろなんでと驚いた。どう考えても研究向きの態度ではなかったのに。大学にはいい思い出しかないからそう言ってもらえたのは幸せなことだったのかもしれない。仙川という街も当時から大好きだった。一年生の時は白百合の少し先、ちょうど三鷹市に入ったあたりのアパートで一人暮らしをしていた。二年からはお隣の千歳烏山で暮らした。塾の講師とかメンタルフレンドとかとにかく人と一緒にいる生活だった。調布市武者小路実篤記念館は白百合とは逆の桐朋学園方面に出て、学園を道なりに進むと着く。仙川駅からは10分程度だろうか。まだかな、と思った頃に実篤公園が見えてくる。つつじヶ丘駅からだと住宅街だから少し分かりにくいかもしれない。桐朋学園の入口は濃い色の寒緋桜が満開で袴姿の学生たちを見かけた。その日は空も真っ青で椿やこぶしがますます美しかった。実篤公園は豊かな木々が日陰を作っており、お掃除をしていらした方に挨拶をされた。昔はここから富士山が見えたらしい。坂道を下ると池が見えてくる。ここは実篤が「水があるところに住みたい」という子どもの頃からの願いを叶えた家だという。広い敷地に伸び伸びとたくさんの植物が植わっていて見上げても佇んでもなにしても発見があるのでのんびりのんびりまわれた。途中、職員の方に「旧実篤邸にはいかれましたか」と声をかけられた。木の芽を大切そうにチェックしている方だった。旧実篤邸はとても素敵なおうちで玄関は広く、実篤の豊かな仕事がここから生まれたのか、と納得した。家具や民藝品もどれも興味を引くものばかりでその後記念館で見た写真や絵画を見ながら「あ、これはあのお部屋のアレだ」と言いながらあれこれ生活と作品を想像するのは楽しかった。今回は春季展「美術雑観」ということで実篤に影響を与えた画家や絵画、志賀直哉たちの書簡などを見ることができた。私は実篤と美術の関係は全然知らなかったのでその鑑賞の文章とか書簡とかとても面白かった。実篤の妻、安子さんが描いた絵葉書には家族の日常が描かれていてこれがまたとってもいい絵だった。私はオフィスが初台だから京王線沿いには出やすい。どの駅にもそれなりに馴染みがある。春に歩きたくなる道もたくさん思い浮かべることができる。街の景色は変わっても地形はそんなに変わることはない。歩くことで思い出される感触を大切にまた遊びにいこうと思う。今日は火曜日。良いことありますように。

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『ガラスの器と静物画』@東京オペラシティアートギャラリー、古田徹也『謝罪論』

今朝は箱根町強羅「ことほぎの木」の「箱根の坂 抹茶ショコラ」。すごく平らなお菓子なんだけど。美味しいわん。オレンジアールグレイと一緒に。この前、東京オペラシティアートギャラリーでやっている『ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家』を見にいってからガラスの器が気になっている。我が家にもあるし、しょっちゅう使っているけど。スウェーデン在住のガラス作家山野さんが画家とテキストでやり取りをし、そのイメージからガラス食器を作り、それを画家が静物画にするという興味深い企画。少し先延ばしにしてしまっていたが今回の展示もこのギャラリーの空間と光を効果的に使っていたもののような気がする。様々なガラスの器の小さな歪みや影がとても美しく私も写真を撮りながらゆっくりまわった。寺田コレクションもいつも面白いし行ってよかった。いろんな動きを少なめにしていると再読が捗る。私は政治のことはよくわからないけど戦後まもなくのことについて書いている文章に土居健郎がよく登場することに驚く。テレビはドラマや映画以外見ないがいろんな情報の読み方について本はとても勉強になるな。読んでいる本はTwitterにとりあえずあげている。本当はもっと乱読だけど一応全部読んだものだけあげている。再読でも全然覚えていなかったりするけどスピードは上がるから文章の構造とかには馴染んでいるのだろう。古田徹也の『謝罪論』を読み直したけど改めて読むとなんだかさらに重たいなと感じた。人の言葉の軽さにずっとずっと打ちのめされたままなんとか生活を続けている場合、謝罪の言葉は意味がないだろう。行為と言葉が自然にしっくりきている関係になければそこにある差異はすぐに嘘っぽさとして見抜かれる。傷ついた心でなければその差異も許容できたものの傷つきが積み重ねればそんな余裕はなくなっていく。言葉のひとつひとつが重みを増してしまう前に軽薄さを抑え誠実であることの大切さよ。古田徹也さんの本には戦後という言葉はあまり使われていないように思うが、言葉の問題を扱っている以上、そこに時代と国の状況が絡んでいないはずもなく、それらについて考慮したうえである言葉の使用について詳細に検討されていることがわかる。私たちは「戦後」という言葉も吟味し直す必要があるのだろう。自分の言いたいことのために軽々しく使ってはいけない言葉というものがあるのだろうから。今日は朝はゆっくりだけどゆっくりしすぎた。花粉も辛いけどなんとかがんばりまっか。

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精神分析

古田徹也の本

ルイボス&レモングラス・ジンジャー。あったまる。銀座あけぼののもなかをいただいたのでそちらと、と思ったけどこれは緑茶の方が合う。桜もなかと姫栗もなかの詰め合わせ。もなかはあまり好きではないので少し変わった食べ方をする。桜の時期ね。昨日もいろんな木々の芽が膨らんでいて可愛かった。頭痛と鼻水が止まらない。頭が回らないので読んだことがある本をパラパラしてばかり。あとはNetflixでちょこちょこ。『ユニーク・ライフ』に出てくる友達役って『ディア・エヴァン・ハンセン』に出てきた友達役の人だと思うのだけど違うかな。別の映画なのに同じ役の人に見える。そしてどちらもいい感じ。おはなしはいまいちかな。最初の方で見るのをやめてしまった。『グッド・ドクター』は見続けている。これはいろんな人の背景がリアル。本筋とは関係ないがアメリカの医療現場は保険会社と弁護士の力が大きい。すぐ訴訟になってしまうものね。いろんな症状やアセスメント、処置の仕方も興味深い。パラパラ再読している本に古田徹也『不道徳的倫理学講義ー人生にとって運とは何か』(ちくま新書)がある。これはプラトン以前のギリシャの文学作品から運について考えることから始まるのだけどソポクレスの『オイディプス王』の古田流読解が興味深い。以前にもどこかで書いたが古田徹也は事実を知り自分の目を潰したオイディプスの意志と行為を尊重する。「運」や運命に翻弄されるだけではない人間をそこに見出す。フロイト精神分析の根源となるこの物語はいろんなふうに読めるので古田徹也の解釈もそのひとつとして新しい視点をくれる。盲目になることで真実に開かれることは確かにあるのかもしれない。それまでに見てきたものは絶えず目元で像を結ぶだろう。繰り返し繰り返し同じ場面が甦りもするだろう。私はオイディプスが目を潰したことに対してそうしたところで何かがなかったことになるわけではあるまいしと思う。一方で目を潰すことで身体全体の感覚が変わるわけである意味別の人になる可能性を作り出したともいえると思う。人間はどこまでももがける、というか愚かにももがく、というのかなんにしても単なる不幸ではなさそうだ。目を使わない精神分析で生じる不幸からありきたりな不幸へという移行でもある。あ、うとうとしてしまった。そりゃそうだ。今日も無理せず過ごしましょう。またねー。

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読書

読書(山本七平、鶴見俊輔、河合隼雄)

早朝、投句を忘れたことに気づいた。リマインドもあったのに。ああ。自分で立ち上げた句会なのに。余裕がないってよくない。

今日はまたまた秩父市の「栗助」さんのお菓子から「おらが家のそば」。あ、美味しい!そば粉の皮に黒胡麻の餡が包まれているお菓子。良い焼き色の皮に白胡麻がパラパラっとまぶしてある。

そんなことしてる場合ではないのだけどいろんな本の読み直しをついしてしまっている。山本七平『「空気」の研究』の文章がかっこよくてついつい色々積んである文庫たちやKindleに入ってるものを貪り読んでしまった。鶴見俊輔は『旅と移動』は良いけど『不定型の思想』はあまり楽しめなかったな、そういえば。だから今回読んでないけど。「中空構造」の話をしたついでに河合隼雄の『母性社会 日本の病理』もパラパラした。中空構造の本はどこにいったのだろう。この『母性社会 日本の病理』はセットで読むといいのでは。河合隼雄の本ってどんどん読めちゃうけど私は父殺しとか母殺しとか言葉に慣れすぎてしまっているのか違う言葉にしてほしくなってしまう。父、母という言葉を包み込むとか切り離すとかいう機能を示すものとして使うのはわかるけど実際はそういう機能は限定的だし父、母という言葉を使うことでかえって意味を狭めていると思う。河合隼雄は母性原理に基づく倫理観を「場」の平衡状態の維持に価値を置く「場の倫理」、個人の欲求充足や成長に価値を置く父性原理に基づく価値観を「個の倫理」とするのだけどこの「場」の話になるとこの二つの倫理は分け難くなるというよりも倫理ではなくなっていく。みんなが「場の力の被害者」になろうとする場所の倫理に対しては別の名前が必要そう。

さっきそろそろ出る準備しようと思って充電していたWi-Fiを見たら充電されてなかった。スイッチのあるコンセントでやったんだけどスイッチをパチンってするの忘れてた。がーん。なんで同じことを何度も何度も繰り返すのかしら。スイッチ付きコンセントなんかない時代にはこんなこと起きなかったのに。Wi-Fiもなかったけどね。今はなんでもかんでも充電充電。Wi-Fiもわいも充電不足じゃわい。東京は今日も晴れて気温が高くなるみたい。花粉が怖いけどお散歩行きたい。本格的に花粉症になってしまったのか鼻が止まらないのでちょっといいティッシュ買ってる。はー。みんなみんな朝からお疲れ様。昼からでもお疲れ様。夜は普通にお疲れ様。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

日本っぽさ、富永京子さんポッドキャスト

昨晩の月はチェシャ猫の口だった。沈丁花いっぱいの薄暗い遊歩道を歩いていたら少し先を白黒の猫が横切った。いつもの子だ。まだいるかなとさらに暗いところを覗いてみたがもういないみたいだった。遊歩道を離れる道に左折すると月がニッと笑ってた。

毎日1時間程度の勉強は重ねていたがそれもままならないまま日々が過ぎていく。そんなで英語が喋れるようになるはずもないが発表原稿の締切だけは着々と近づいている。日本語でだって書けていない。でも今回のチャレンジはこんな状態で言葉の通じない世界に打って出る(とりあえず自分の意見をいってみる)こと自体に意義があると思っているので私個人は色々なことを学ぶだろう。できなさをいっぱい抱える個人であり続けること、無力であり続けること、そういう隙間いっぱいの個人でいることが精神分析家になるためには必要なんだと思う、候補生生活はそういう日々だった、ということを話そう。とはいえ、私は日本の候補生として何かをいう立場なので「日本の」を強調する場合、多分こういうあり方は全然日本的ではない。どうしよう。日本文化でもっとも素晴らしいのは落語だと私は思っているのだけど落語もいざ説明しようとすると日本っぽくなくない?という場合の日本というのはやっぱりどっかクリーンなイメージなのだろう。クリーンぶってる、というか。色々曖昧にしてなかったことになるまではみないふりを貫くというか、そういうときだけ仲間意識強めるとか。落語にある笑える居心地の悪さとか、ちゃっかりしてるぜこいつというにっくきかわいさはあまり日本人らしくない気がする。

そういえば富永京子さんが夢に出てきた。昨日、帰り道に富永京子さんのポッドキャスト「仕事の合間」を聞いたからかもしれない。おもし論文を紹介してくれたりするのだけど本当におもしろい。あと富永さんはとってもおしゃれでハイブランドのお洋服の話とかもしてくれるのだけどそういうのに全く縁がない私でも聞くのが楽しい。ワクワクする。この前「え?そんなことも知らないで好きとかいってるの?」みたいな人がいたのだけどこの人何か知らないと好きとかいっちゃいけないとか思ってるんだ、とびっくりした。でもたしかに人をそうやってカテゴライズして好き嫌いを言っている人ではあった。「〜っていう相手とは付き合わない」とか。だからいつも同じような人とばかりいるんだなあ。富永さんはそういうところが全くないから逆にそういう人を思い出したのだろう。人柄は社会運動の研究者だからというわけではないだろう。すごくフランクでオープン。言葉の使い方にもすごく注意が払われている。いろんな失敗込みで話してくれるから「わかるー」ってなるし。『みんなの「わがまま」入門』(左右社)に書いていることをそのまま実践できている方なんだな。このポッドキャストとてもおすすめですよ。ちょうどいい長さ(25分くらいかな)なのもそうだし、好きに話している感じなのにメディアに出続けている人でもあるせいか聞き手に対してとても親切。美味しいお菓子のことも話してくれるしワクワク。なんで自分では高級すぎて買わないものだったりするのにこんな楽しく聴けるのかなあといつも思う。

今朝も秩父土産、「栗助」さんの「ほっくり芋」でした。これはさつま芋。シナモンのコーティングがきれいでとてもいい香り。栗のお菓子よりも甘味抑えめ、というか栗と違ってそのまま素材の甘みを活かせるのかな、さつま芋だと。私こういう素材のジャケット持ってる。今日、それにしようかな。シナモンコーデっていうの?それだとサンリオの方になっちゃうか。あのコーデができる服は持ってないな。大学生の頃の服をまだ着られるとはいえやっぱりあの頃の方がスリムだったんだな。なんかどれもきつい感じがする。というかそんな昔の服をいつまでも着るなよ、って感じかしら。ふむ。なんか今日は花粉がいっぱい飛んでる気がする。むずむずする。みなさんもどうぞお気をつけて。マスクマスク。どうぞ良い一日を。

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精神分析、本

あちゃこちゃ。

今朝は亀屋万年堂の桜いちご大福。甘酸っぱい。最近二度寝してしまうから朝の時間が減っている。夜も遅いからきちんと寝たほうがいいのだけど作業は朝やらないと全然進まない。鶴見俊輔コレクション『旅と移動』(河出文庫)に入っている「キラーニーの湖ーアイルランド」というエッセイがある。私はこのエッセイが好きだ。「嘘」や「にせもの」について考えるときにその光の部分を示してくれる。そうか、嘘やにせものというのは何かからの距離の問題なんだな、と「旅と移動」という題名からふと思う。定点にいればそれは確かなものかもしれないが移動すれば途端にそれは不確かなものとなるかもしれない。私たちは常に動き続ける世界で自分の居場所を守ろうと必死になるところがある。それはなにかしら確かなものがないと自分の輪郭を保つことが難しいからだろう。境界はたやすくぼやける。もちろん動き続けるといってもほとんどは身体を伴わないわけで脳と心の世界の話だが。色々知らないことが多いが知らないなりに何かを語るとしたら自分の体験を語るのが一番確からしいかもしれない。しかも実感を伴うものを。それはそうと、と書いてみたものの頭があっちゃこっちゃいっていて定まらない。止まれ止まれ。ドードー。どうして馬とかに「ドードー」っていうのかな。語源はなんだろう。「まあまあ落ち着いて」の「まあまあ」と同じ?「まあまあ」もどこからきたのかな。「ママー!」って子供が叫ぶのとはだいぶ雰囲気が違うけど音は同じ。色々聞こえてくる音を勘違いして受け取っていて気づいて恥ずかしくなったりひとり笑っちゃったりすることが多いのだけどこの辺にも受け取り手の限界を感じる。限界があるから笑えるのだろうけどちょっと間違いすぎだろう、と自分に対しては思ったりする。こんなんで大丈夫では全くないけれど仕事に関しては経験が支えてくれていると思う。やっぱり私はそこを支えに頑張っていかないとな。ないものはないのだから助けてもらいながらやりましょう。ないものと決めつけないで「絶対あるぞ!」と思って何かを頑張ることも大切だと思うけどね。人それぞれ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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未分類 精神分析 音楽

ノラ、歴史

はあ。ため息の日々。しかも寝坊ときたもんだ。間に合うけど。眠い。うーん。体調管理が難しいなあ。秩父土産の「2月3日のごもっともさま」というクラフトビールは美味しく飲んだが。今も流しているノラ・ジョーンズのニューアルバム「visions」がとてもよくて私の気分とは真逆の雰囲気が溢れている。どうか私を呑みこんでほしい。ノラは最初からとてもかわいくて透明感に溢れていたと思うが今回は深みがある。伸びやかさがこれまでとは違うのではないか?これまでこんな何度も何度も聞くことなかったもの。これは聞きたくなってしまう。

歴史をきちんと知ることは大事なのだが正確さに関してはかなり怪しい部分というのは残るものだろうから最初からこれは私という窓から見た場合の歴史であると知っている範囲の知識で概要を描くことをしたいがそれも一苦労だ。しかしやらねば。私という限界ある人が体験したそれが事実か真実かを問題にしてほしいわけではない。むしろそんなことは問題にしないでほしい。他でやっているから。私が今回したいのはなんだろう。親は親であるという事実が覆されるみたいな体験だろうか。「オマエのカーチャンデーベーソ」と言われるような体験だろうか。そう思う人もいるからもしれない。違うな。私にはそんな外からの悪口はどうでもいい。一度引き受けたんだからしっかり役割果たせよ、偽物か本物かなんてどうでもいいんだよ、ということかもしれない。これはこう書いてみるといよいよそんな気がしてきた。だって事実だって事実かどうかわからない部分がある(意味わからないと思うが)のにそれを本物か偽物かなんて誰が決めるのさ、あなたが決めるとしたらオマエ誰だよ、という話ではないか、などなど思う。ただ、嘘言うなら逃げるなよな、とは思う。昨年だか一昨年だか事実ではないことを書いた本が賞をとり、専門家たちがより事実に基づく本を出し反論したわけだが著者は逃げてばかりいるように見えた。もらえるものだけもらって・・・と自分で自分に呆れたりしているのだろうか。それとこれとは別、と開き直ったりするのだろうか。どんなあり方も別に構わないけどそういう場所での自分のふるまいは大切だろう。

沈丁花がいい香り。メジロが元気に飛び出した。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

栗、寄居虫、女性分析家の本

今日は「秩父菓子処 栗助」の「栗とら焼き」。虎模様で大きな栗が入っているどら焼きです。ここのお菓子、栗が丸ごと一個入ってるのが多いのかな。この前食べたのも半分に切ったらどーんと一個入っていておーっとなった。お茶にぴったり。秩父は和同開珎で有名な和銅遺跡があるのでそれにちなんだお菓子も色々。こういうのは楽しいですね。遺跡大好き。色々行ってそのたびに興味深く学ぶけど忘れてしまうのよね。前に句会で古墳のある学校があると聞いてびっくりしたのだけどどこだったか。あ、今日オンライン句会の締切だ。早く作らねば。兼題はなんだったか。「寄居虫」と「ものの芽」か。どっちも難しいなあ。今ちょっとヤドカリについて調べてしまったのだけど結構怖いね。殻の奪い合いはともかく生きている貝の中身食べちゃって殻奪うとかすごい。生き物は不思議すぎる。人間の「生きる」と全然違う感じ、というか人間がなんかおかしい。寝不足で書きながら寝てしまうな。途中まで読んでいたEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance by Klara Naszkowska、いい本だと思う。ザビーナ・シュピールラインとかホロコーストで殺された人たちのことを思うとなんとも沈んだ気持ちになるがこれまで男性との関係における位置づけばかり注目されていた女性たちの独創的な仕事が紹介されていて興味深い。1章で取り上げられたザビーナの子供の言葉の発達に関する仕事はもっと取り上げられてもいいのかもしれない。2. Lou Andreas-Salomé: An Unacknowledged Psychoanalytic Theorist of Art by Shira Dushy-Barrはミューズとしてのザロメではなく彼女の芸術論に焦点が当てられている。なんとなく読み進めてしまっているが他の仕事がかなり切羽詰まってるからやめとかないと。とても眠いけど今日も頑張りしょう。

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映画 未分類

3.11、BLUE GIANT

3月11日。昨晩、NHKスペシャルで「語れなかったあの日 自治体職員たちの3.11」をみた。またもや本当に何も知らなかったという感覚を強くした。ただただ言葉をなくすのみだがそもそも彼らが「言葉にならない」ということを私が言葉にできると思う方がおかしいのだろう。語ることが彼らをもっと辛くすることだけはないように、それはこちら次第でもあると思う。どうか、どうか、と祈ることも憚られるがとにかく忘れないこと。現地で受けた衝撃をいまだ思い出すにも関わらず心がけなくては想起が難しくなっているのか、と思ったりもするが想起と忘却はセットなのだろう。どうせ死ぬのだからみんな忘れて前に進もうぜ、とかみたいなことを言えるのは互いに忘れられないからかもしれない。

昨年公開された映画『BLUE GIANT』をNetflixで見た。とても見たかったので配信されてすぐに見た。昨年は柳樂光隆の記事をたくさん読んで大好きだったジャズをまた好きになった。この映画の音楽とピアノ演奏を担当しているのは上原ひろみ、素晴らしいサントラでそれはすでに何度も何度も聴いていた。物語の内容よりもドラムを石若駿、サックスを馬場智章が担当しているということでどうしてもみたかった。新宿PITINNで彼らの実際の演奏を聴いてすでにファンにもなっていた。たとえそうでなかったとしてもこの映画から彼らのファンになっていたかもしれない。そのくらいいい映画だった。後半ずっと涙が止まらなかった。昨年は数年ぶりにBLUE NOTEにも行った。名前は変えているが映画にも登場する。特別な場所で特別な音楽を聴くことを今年もできたらいいな。そのためにもがんばらねば。その前に課題山積み。体力もつけつつがんばろう。

東北にも能登にも早く暖かな春が訪れますように。

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精神分析

ならされたりなれたり。

ダンデライオン&ジンジャーブレッドというハーブティーを飲んでいる。これ、最初に飲んだときは「うん?」という感じだったけど体調が良くないときに飲むと美味しい。漢方と同じか。漢方は体質とあえば美味しい、というか不味くない、って聞いたことがある。

届かないなあと思っていた資料が2月末に届いていてびっくり。お礼しなくては!というか3月が10日も過ぎていて知っていたけどびっくり。プリントアウトしはじめたら191ページ以上あった。調子の悪いプリンターが今日はわりと快調に働いてくれているからいいが、視力が落ちているせいか64ページに見えていた。どうして3桁が2桁に見えてるのか。視力のせいではないな。私は視覚的にも不注意なので他の情報と混ざったのだろう。よくある。にしてもこれ多すぎる。全部印刷しなくてもいいか。少なくとも今はここで止めておこう。精神分析もAI時代にコロナ禍にと様々な環境の変化によって設定の変更が課題になっておりテレアナリシスに関する議論が続けられている。それに対する意見交換の場もメンバー(精神分析家)、candidate(候補生)と分けて開かれたりしているのだが日本だと朝4時スタートとかでただでさえ英語力が足りないから議論に加われないし、という気持ちも手伝って起きられなかった。これだけの資料を作り、そういう場を作ってくれる委員会の先生方や候補生たちは本当に大変だ。この資料、そもそも精神分析の設定とは、ということからレビューされているから勉強になる。それにしても、この話し合いには出なかったけどIPAのYouTubeとか見てるとみんなの本棚とか見えて面白い。今みている精神分析家の本棚はあまりこだわっていない感じが楽しい。本棚だけではなくてすごい煩雑な部屋の様子とかも見えるときがある。コロナは世界共通の体験になったからオンライン状況の格差もできただろうし平され、慣らされた部分もある。人間は慣れてしまう生き物だ。差別にさえ慣れる、という昨日ここで引用したアウシュビッツの生存者であるマリアン・トゥルスキさんの言葉を思い出したりする。

空が明るくなってきた。洗濯も終わったらしい。終わったよー、と知らせる音楽が鳴っていた。毎日色々あるけど今日も地道にやりましょう。どうぞ良い1日を。

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精神分析、本

国際女性デー、本

著名人の訃報が相次ぎいろんな人がいろんなことを書いているのを目にした。私は「えっ」とはなるが「ショック!」とかはならない。大抵はその人自身というよりはその人が生み出したものに育てられたり共にあってくれたことに対するいろんな気持ちが一気に押し寄せてくるから「ショック!」となるのだろう。私もショックと言えばショックだが「!」がつく気持ちにはほとんどならない。自分の年齢がもう人生後半だからかもしれない。長生きする場合もあるだろうけど明らかに衰えたり不調をきたしはじめる身体は確実に死に向かっているという実感を私にもたらすので「ああ、こういう死に方もあるんだなあ」などぼんやり考えたりはする。

昨日は国際女性デーだった。最近ミモザをたくさん見かけていたのでもうすぐなんだなと思っていたけど昨日だった。特に意識していなかったがちょうど出たばかりの本がその日にふさわしかった。Relational Perspectives seriesから

Early Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance

この本は、ザビーナ・シュピールライン研究協会というのだろうか、The International Association for Spielrein Studiesのカンファレンスでの成果を本にしたものだ。

ザビーナ・シュピールライン(Sabina Spielrein 1885年11月7日-1942年8月12日)はロシアのユダヤ人の分析家である。映画『危険なメソッド』で描かれた通り、ユングの愛人であり共同研究者であったがその後フロイトと出会い精神分析家になった。フロイトの「死の欲動」概念にも影響を与えたと言われる非常に強い思考の持ち主である。最後はドイツ軍によって娘と共に殺された。この本はザビーナ・シュピールラインと同じく、初期の女性分析家たちに光を当てたものだがまったく知られていない人たちのことも書かれているのが興味深い。

序文で編者のKlara Naszkowskaは以下のように書いている。

”This book stems from my deep conviction that we can foster social and ethical change through taking responsibility for the past and through refocusing how we manage the education of it. ”

「この本は、過去に責任を持ち、その教育をどのように管理するかを再考することによって、社会的および倫理的な変化を促進できるという私の深い信念から生まれた。」

“Thou shall not be indifferent in the face of lies about history. Thou shall not be indifferent when the past is distorted for today’s political needs. Thou shall not be indifferent when any minority faces discrimination. […] Thou shall not be indifferent when any authority violates the existing social contract. […] Because if you are indifferent, you will not even notice it when upon your own heads, and upon the heads of your descendants, another Auschwitz falls from the sky. ”

時間がないので最後だけ訳す。2020年1月、アウシュビッツ強制収容所解放75周年記念の式典でアウシュビッツを生き延びたポーランド出身のマリアン・トゥルスキさん(Marian Turski, historian, journalist, and Shoah survivor)がしたスピーチの一部である。

「もしあなたが無関心であれば、自分自身や未来の子どもたちの頭上に、新たなアウシュビッツが空から降りかかってきてもそれに気づかないだろう。」

過酷な時代を患者として(精神分析家はみな患者である時期をもつ)、分析家として生きた女性たちの人生に触れること、しかもまだ語られ過ぎていない人たちのそれを知ることは価値あることだろう。少しずつ読んで学んでいこうと思う。

May every day be International Women’s Day.

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精神分析、本

雪、楽しみは千葉雅也新刊。

昨晩遅くカーテンからのぞいたときにはまだ雪じゃなかったのに朝起きたら真っ白。気温が低すぎないから積もらなそう。これでようやく春かしら。もう春だよね。お花がいっぱい。でも桜の時期にもう一度くらい降るかしら。確定申告があと一歩。これまではただ憂鬱だったけど色々と気づくことの多い作業だった。やり始めたらサクサク進んだ、ような気がしていたがかなりの時間を割いた。まずい。精神分析で生活していくためにはもっとがんばらねば。基本給のない世界だから。東京の電車、もうちょっと雪や風に強くなって。今日は全く問題ないけど。昨年後半は時間感覚が明らかにおかしく雑な作業をしてしまった。今年はみんなのがんばりに支えられて結構がんばってるつもり。何やってても楽しいと思うほうだけどやりたいこと考えたいことはたしかにまだまだ山積み。組織に属している限り役割も引き受けていかないとだし。みんながんばろーね。ひとりしごとだけどひとりの学問じゃないもんね。楽しいといえばもうすぐ千葉雅也さんの新しい本『センスの哲学』(文藝春秋)がでる。とても楽しみ。これまで千葉さんの日本語にどれだけ助けられてきたか。ドロドロしたものをSNSと実際でスプリットしてるどこか気持ち悪い言葉とは全然違う。私が思う普通の思いやりはああいう文章に滲んでいる。千葉さんの小説に出てくる暗さとか揺れとか本当に繊細な色づかいを感じませんか。そしておしゃれ。千葉さんのイベントに行くとそのセンスに学ぶことが多い。言葉の使い方もそのひとつなんだろうなあ。千葉さんの一連の作品とかnoteとか読んでいるとそれだけで相当勉強になる。こういうのも立場曖昧にして小手先で言葉使う人は人の身体や心も適当に使うよな、という学びがあってこそだけどね。がんばってどこか飛び込まなくてもそういう体験なら山ほどするでしょう、きっと。でも美しい日本語に触れたり様々な質をもつ繊細なモノに触れることは意識的にしないと難しいと思う。私は日々いろんな人に実際に深く関わっていく仕事だからそういうものとの出会いに恵まれていると思うし千葉雅也さんの最初の本の頃からずっと追えているのもラッキーだった。あ、私の仕事はそれぞれの人の言葉というものに驚きを持って出会うことが多くてそれはとても繊細だけど力強く鮮やかだったり全くの空虚だったりして私は精神分析のおかげでそれと出会えるようになったと思っているってこと。プロセスを共に過ごすこと。ただそれだけのことだけどただそれだけのことではないことが生じる。そういう地点を目指しているというのもある。意識的にではないけれど。だって起きてしまうでしょう、ここだと、という感じ。起きてしまうことに対してどう自分のこころを動かしていけるかは訓練でどのくらい無意識にチャレンジできるかというかそれを信頼して委ねられるかにかかっている気がする。怖いことだから。フロイトが限界ある自己分析にも関わらずその領野を開いてくれたことに超リスペクト。いかん、普段使わない言葉を適当に使ってしまった。せっかく美しい日本語のことに触れたのに。今日もなにがあってもなくともなんかよくわからなくともそれぞれとりあえずはじめていますか。東京の雪は午前のうちにやむ予報。それでもどうぞ足元にお気をつけて。

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精神分析

フォントとか音とか。

喉がイガイガするのが治らない。あっつい紅茶を飲んだけどあっついのは喉に良くないかな。小田原土産のロイヤルミルクティラングドシャ美味しい。ラングドシャはクシャってなるのが音的にもいい。ドシャッだとちょっとイメージ変わっちゃうけど。今度軽いハイキングも兼ねて小川町の酒蔵とかワイナリーを巡ろうと話していた。美味しいもの見つかるといいな。2月末には「酒蔵めぐり」があったらしい。行きたかったな。私は「道の駅」めぐりも好きで全国のいろんな「道の駅」に寄ってきた。「道の駅おがわまち」は改修中らしい。東武東上線は遠くないし馴染みもあるしまたいく機会があるだろう。たまに同じ「道の駅」でもその地域だけの小さなドライブインみたいなところがあってそういうところもとても好き。昔はドライブインってもっといっぱいあったよね。大きな縦型の看板で結構な斜体で赤い文字か何かでドライブインって書いてあるイメージ。やっぱり車って走るから斜体なのかしらね。ドライブインはステイだからポクっとしたフォントでもいいよね。そういうのもあるのでしょうね。昨晩「おまゆう」という言葉は「おまえがゆうなよ」でいいのか?など思った。「おまいう」でもいいのか?ナンパおじさんに「おうちに帰りたくない子みたいに自分から首つっこんでるくせにこの人何言っちゃってんの、ちゃんちゃらおかしいぜ」と思いながら「ちゃんちゃら」ってなんだ?とも思った。「ドンジャラおかしいぜ」とかだと具体的にものが見えてきてしまうからおかしいしね。あ、だめだ。私はこういうことを言い出すと止まらなくなってしまう。今日こそう次の作業にうつれるかなあ。昨日は少しサボって隙間時間にNetflixの「グッド・ドクター 名医の条件」を久しぶりに見ちゃった。医療用語以外は聞き取りやすいから英語の勉強にもなるからいっか。3月は本当に厳しいのでずっと作業しているけどまずいな。鶴見俊輔を引用して書こうとしているものがあるけどどの本か思い出すところから始めないとだし。そもそもそろそろ行きましょう。どうぞ良い1日を。

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精神分析

腰、鳥、不在

寒い。眠い。外が明るい。先晩は2回くらい豪雨警報がきた。まだ少し降っているのだろうか。鳥が鳴いている。冷たいツンとした空気は少し和らいだように思う。昨日は腰をまたやってしまいそうになった。ほんとちょっとした動きで「しまった」となった。慌てて伸ばす。おなかに力を入れる。きょうもきをつけねば。隙間時間もずっと事務作業をしているのが悪いのだろうけど早く書く作業にうつらねばなのでさすがにいつもほどさぼれない。さぼらずともマイナンバーのせいで手間が省かれるどころか二度手間になったりして愚痴を言うのもめんどくさいことも含めて愚痴を聞いてもらったりした。梅が終わりつつあり河津桜にメジロも目移り、かどうかわからないけどピンクにまぎれてすばしっこく動く小さいみどりの姿がかわいい。新宿中央公園のチューリップも咲き始めた。いろんな色があってこれもとてもかわいい。フランスの精神分析家の本を読む時間がないが精神分析の最終的なテーマとなる対象喪失に絡めて不在と無の関係について考えていた。いや、絡めてはいないのだけど結局モーニングワークをいかになせるかということだなとは思う。「あれ、ここになかったっけ」となかったことに気づくのと実は青い鳥は近くにいたよというのは違う。反対側から語る不幸論が精神分析なんだと思う。とか。プリンタがいちいち紙詰まりするようになってしまった。すごく困る。いろいろいろいろだけど今日ものりきろう。いいことありますように。

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夢、スープ

丑三つときに寝て一時間ほどで目が覚めた。ぬくぬくしながら夢を忘れないように思い返していた。一度布団を出てまた思い出そうとしたらものすごく薄れた夢の景色しか思い出せなくなっていた。iPhoneを枕元においておけばよかった。すぐに文字にしてから布団を出ればよかった。もう一度布団に戻ると布団はまだぬくぬくとさっきのままだった。潜り込むと夢の続きが始まりそうだった。さっきみた薄い夢の景色が少し濃くなった。そのまま眠ってしまった。夢はやっぱり覚えていない。さっきiPhoneと書いたがこういう機器がない頃は手書きでメモっていた。夢を記録する人や時期というのはわりとあるものなのだ。今は自分の日記も売り物にされる時代だし夢も不特定多数に向けて呟かれるものだからフロイトの『夢解釈』もまた異なる読み方をされるのだろう。NHKの「100分 de 名著」で取り上げるみたい。解説は立木康介さん。立木さんの『露出せよ、と現代文明は言う「心の闇」の喪失と精神分析」』なんて併せて読むのにちょうどいいかも。

今朝は昨晩の残り物から小松菜のスープにしょうがの千切りを入れた。いい香り。小松菜って緑の野菜の中でも使いやすいと思う。サクサク切れるしほうれん草みたいにへにゃってならないし癖もないから何にでも合うしカルシウムが多いらしい。骨も弱っていくというかほんと弱っているのを感じるから食べ物気をつけないとなんだろうねえ。小松菜は一番よく使う野菜だから効果が出てればいいな。小松菜はほんとにカルシウムが多いんだっけ、と検索したら小松菜奈が最初に出てきた。いい。小松菜奈も好き。今日は「昼間も冬の寒さ」だって。がーん。都庁に行かねばなのに。近いからいいけど。

はあ。もう5日か。昨日、ひとつ仕事仕上げたときはまだ二日だと思っていたのに。火曜日だから二日だと思う、ってすごい自分勝手な変換を行っていた。だいぶ追い詰められている証拠ね。まあやるしかないことはやりましょう。はあ。みんなみんないいことありますように。

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精神分析

異なる文化

遅くなってしまった。朝の光はきれい。東側のブラインドからオレンジの光が入ってくる。今日もハーブティーにしょうがをすりおろしていれた。しょうがでも大根でもりんごでもすりおろすと香りも出ておいしい。おろし器を洗うのは苦手だけど。

昨日はずっと英語を聞いていた。意味を聞き取るのが精いっぱいでほとんど思考できなかったので発言もしなかった。ASIA PACIFIC ONLINE CONFERENCEというイベントでインド(IPS)、オーストラリア(APAS)、中国(CSGW)、韓国(KPC)、台湾(TSG)、日本(JPS)の精神分析家や候補生が集まった。前半は韓国と台湾の精神分析家のペーパー発表とディスカッション、後半はSmall Clinical Groupsだった。これは私も昨年発表をした。昨年じゃない、二年前か。早い。今年、私が割り当てられたグループはオーストラリアの候補生が発表するグループでリスナーもバランスよく全部の国の人たちがいた。文化の違い、というか自分がいかに精神分析状況に影響を与える他国の文化について知らないかということに驚いた。驚いている場合ではないがそれによって使われる言葉もコミュニケーションも変わってくることを実感した。だからよけいに理解が難しかった。先生方はアメリカやイギリスで仕事をしてきた人も多いので自分の国の文化というものに向ける注意の仕方もずっと同じような場所で仕事をしている私とは全く異なるのだろう。もちろんそういう移動することで得られる視点ばかりではなく、それに先立ち、それぞれにとって切実な文化的問題というのがある。たとえば出自の問題は精神分析では中心的な問題だが、それは「~系~人の患者」という紹介とか自己紹介にも日常的に現れたりする。これまでもこういう話をきく機会はあったわけだがきちんとコミットするようになったのが最近でしかもこんな小さなグループで議論をするわけだからさすがに私にも切実さが伝わってきたわけだ。こういう場だからこそ浮かび上がってくる問題に対する各国の先生方の言葉選びにも感銘をうけた。みなさん、英語がとても流暢だったが生活様式としての言葉というウィトゲンシュタインの考えに改めて注意を向けたりもした。治療で生じることは設定の問題も含め各国共通していることが多いと感じた。人の心の普遍的な部分と文化を含む環境の相互作用はたしかにもっと詳細に見ていく必要があるし精神分析はそこに貢献していると思った。私も今日も一対一という小さな関係で同じ文化圏で育ってきたはずなのにまるで異なる人たちと言葉で出会う。地道に学んでいこう。

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精神分析

3月3日(日)朝

ラジオをつけた、が今朝の私の頭はダメだな、もっとぼんやりしたのを聞きたい。富永京子さんのポッドキャストはどの時間帯に聞いてもちょうどよくて好き。でも昨晩聞いちゃったからどうしましょう。音楽?ジュリアン・ラージ?いや、今日も角銅真実のニューアルバムにしよう。今日はいろんな素材がブレンドされているお気に入りハーブティーに生姜をすりおろして入れた。生姜紅茶は生姜紅茶として売っているのを常に買って飲んでいるけど生の生姜の方が柔らかく感じる。角銅真実の声も柔らかくて好き。「真実」。私の友達も「真実」。パソコン使うようになってから「真美」と間違わなくなった気がする。彼女と会った頃はまだワープロでポケベルだった。お気に入りのボールペンで手紙を書くのと画面に映し出される文字を見ながら打つのとでは単語に対する感覚が異なるのかしら。よく間違われるということを知っていたから時間の経過に伴い間違えなくなっただけかしら。確定申告をいつも通り先延ばしにしてようやくやってるけど本屋の領収書が一番多い。Amazonでも相当買っているのに。私の支出はほぼ本と家賃。訓練費用もすごいか。もうすぐこの支出はなくなる。それはそれで寂しい?いや、もっと本を買いたいしちょっと増やしたいルーティンもある。レシートを打ち込んでいると「あれ、なんで今年のじゃないのが入ってるんだろう」と思って「ああ」とにっこりしたり苦笑いしたりした。良くも悪くも節目になった出来事をそれを見て思い出す。なんとなく残していただけだけどどうやってそういう出来事を消化していくのかも興味深いからインクが薄くなって消えてしまうまで取っておくか。とかいってあっさり捨てたりもするかもね。それはそれでそういう消化の仕方。自分任せというか自分の無意識任せだから放っておきましょう。きっと好きにするでしょう。今日も勉強と事務。3月は本当に大変。手動かし続けましょう。できるかな。やるしかない。がんばろ。そっか、ひな祭りか。なにたべましょ。みなさんもどうぞお元気でお過ごしください。

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精神分析 読書

案内、春樹、間取り

胃がん検診の案内を開けた。少し前に届いた。受けなくてはと思うけどバリウムが本当に気持ち悪くなってしまうので怖くて受けたくない。でも受けねば。いつもこの葛藤。症状があるときは受けられないから症状があるときに胃と腸の両方を見てもらうのもいいなと思っていたところだったのでどうしてもバリウムを避けたいとなるとそっちになる。飲み物を一気にたくさん飲むということがないからそれだけでも気持ち悪くなるのにしかもあの発泡。何にせよ健診や検診は受けましょうね、と周りには言えるのに。ちなみに相談場所は色々あるのでその一つを載せておきますね。

村上春樹の『一人称単数』は短歌が出てくる話からだった、と思う。だから何というわけではないけどあの単価は誰かが推敲してるのかな、と思ったのだ。していなそう、春樹っぽい、と思ったりもした。私は村上春樹の良い読者ではないが大体のものを一度は開いている。多分私の注意力だとあのやや冗長で普通の人だったら次にまたそれが出てきたらむしろその冗長さの効果ゆえに鮮やかに形作られる何かが私には乏しいんだと思う。そこまでにほぼ忘れてしまっているから。作者の意図に乗れていないのだろうな。ノリが悪いオレ。なんとなくリズムがいい。下の階の人が歩いているのが聞こえる。ドンドンドンドンドンと。多分歩いている。結構大きめの歩幅で。あ、戻ってきた。いや、戻ってきたかどうかはわからない。正確には真下の部屋かどうかもよくわからない。同じ間取りではないからなおさらわからない。この前、先生に昔小倉清先生に子供に間取りを聞くといいと言われたことをお話した。私は子供の心理療法もしているので時折それを思い出す。何も聞かなくてもおうちのことを自分から書いてくれる子もいる。その子用にお絵描きできるセットはいつも準備してある。確かに間取りを描いてもらうとその家族の生活状況が見えてくることがある。私的にはこれはかなりプライベートな部分に触れることになると思っているのでそれをどこでやるかとかその扱いができる設定かどうかは重要だと思っている。人の家のものむやみにのぞかないでしょう、普通、と思うから。一部だから出せるんだよ、というのが普通だろうし。見せることも話すこともしてしまえばそれなりに発見も多いものだがその人がそうしたいと思ったときになされるのが一番いいと思う。私がその話を出したのは人の家に行くということのインパクトについて話しているときだった。小倉先生のことはすごく前にも書いたがお元気だろうか。著作集はこちら。毎年著名な先生の訃報を聞くようになった。彼らのような仕事は臨床的にも政治的にも難しいと感じる。何かを教えてもらうというより臨床をしていくうえでどのような工夫ができるかを考える素材を提供していただいたと思う。先生方が多くの患者さんと身体的、心理的に格闘しながら導いたものを簡単に評価することはとてもできないし、今の時代に出会う症例という観点からもいろんなことを残し、展開し、変えていかなければいけない。外からは見えない仕事だからこそ何度も同じパズルを解きながら少しずつレベルアップしていくような地道さが必要なのだろう。小さい子たちが同じパズルでもそれぞれの方法で取り組むのを思い浮かべたのでそんなふうに思った。小倉先生が治療した多くの子どもたちももうすっかり大人だろう。一緒にがんばりましょう。今日は土曜日か。やってもやっても何も進んでいる感じがしないけど今日もなんとかスモールステップで。

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言葉 読書

地震、読書

揺れた。昨日から地震が多い気がする。そして早朝に地震が多いと感じるのは阪神・淡路大震災のイメージが大きすぎるのか。今朝も同じくらいの時間だった。あのときその場にいたわけでもなく、当時テレビもなく、時間差で知った地震だったが友人たちが住む地域だったので連絡を取り合ったりなにより気持ちが落ち着かなかった。被災した方々の思いはいかばかりか。

昨日の朝、水村美苗の『日本語で書くということ』(ちくま文庫)を少し読んだ。夜、ウィニコット協会にだす原稿を書いていると「こんなところにも文庫積んでたんだ」と本棚の隅のスペースに目が行った。せっかく書き始めたのにすぐにこんなだ。手に取ったのは前田愛『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)。また似たような本を手に取ってしまった。夏目漱石はどちらにも登場するのだけど断片だけでも面白いような気がする。すでに読んでしまっているからそう思うだけかもしれない。覚えているわけでもないのに不思議なものだ。この本にも「言葉と身体」という章があり、そこを開いた。久しぶりに開いた。「この本にも」と書いたのは言葉と身体は精神分析では切り離せず常に議論の対象だから、なのだろうか。それだけではないかもしれない。「コードとコンテクスト」とかよりはずっと身近だしこうしてなんとなく開くのにちょうどいいのだ、と思って読み始めたらまた結構読んでしまった。この章では蓮實重彥の「横たわる漱石」という論文が引用されている。私はこの論文は『夏目漱石論』(講談社文芸文庫)という本で読んだことがある。「横たわる漱石」は『夏目漱石論』では第一章なのでよく覚えている。日本史の教科書で旧石器時代と縄文文化にばかり詳しくなるのと同じで(私だけではないと思う)最初の出会いには何度も立ち返ってしまうものだ。だからあえて「過去は振り返らず」みたいなことをいうわけでしょう。こういう適当なことを書き始めると止まらないし使い方よくわかってないけど「知らんけど」で適当に終わらせることになるから気をつけねば。この章だけでもやっぱり面白い。『伊勢物語』の和歌の読み方もとても素敵な章であることも思い出した。手に取ってみるもんだ。いや、いつでも読めるのだから今やるべきことを。それもそうだ。ちなみにこの本と一緒に積んでいたのは野谷茂樹、石垣りん、郡司ペギオ幸夫、山口昌男、丸山圭三郎。だからウィニコットの書き方について考えていた時に読んでいた本ってこと。色々無意識で繋がってるんだ、きっと。でもなんでもかんでも繋げるのはもっと時間があるときにやらないと。毎日自分で自分を叱っているけどやっぱり自分で自分をはあまり効果ない。でも誰かに叱られるのも嫌だしなあ。締切とか時間的な区切りで約束しておくことは大切だ。ああ、これもそろそろ時間切れ。あくびばっかりでるけどがんばりましょう。

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読書

2月29日(木)

足元の小さなヒーターが一生懸命作動している。ありがたい。とはいえ寒さもピークを過ぎただろうか。相変わらず真冬のモコモコした服装で出掛けてはいるが。iphoneの天気予報を見た。帰る頃には雨マークも。乾燥が解消したり花粉が飛ばないのならそれはそれでいいことだ。雨の日の靴選びに、というより空模様を読めないせいで雨に弱いスニーカーを履いていて何度も失敗している。それを解消しようと長靴だけが増えてしまった。適切な時に履かなければ意味がないのだが空模様が怪しいぞというときは長靴を履いてしまうようになったら失敗は減った。大雑把に対処していくのはオシャレではないが不快でない方がいい、私の場合。今朝はカラスの声が大きい。ゴミの日じゃないけど。いや、ゴミの日ではないからか。

水村美苗の『日本語で書くこと』を読んでいた。好きなんだ、水村美苗の文章。2009年に出版されたエッセイ集に少し加筆修正がなされて2022年に文庫化されたものだ。装丁は安野光雅。小説を書くことについて書きながら自由自在に本の案内もしてくれている。色々と読むべき本はあるがこういう本に出てくる本は特に信頼して読めると思う。私は手当たり次第に本を読んできたが結局はこういう本に出会うのであってまずは王道と出会うことで歴史を知るということが大切なのだろう。途中、読書に耽っていたらこんな時間になってしまった。今日も長い。頑張ろう。一日得した気分の二月でも気は抜けない。明日から三月。もう手遅れかもしれない、という気分にもなるがまだ遅れてないからなんとかしよう。長靴はこう。

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読書

本と本屋と

おなかがすいた。でも今朝も飲み物だけ。外が明るい。洗濯機をかけていたのを忘れていた。先日名古屋駅にくっついている高島屋の8階にある三省堂浅田彰『構造と力 記号論を超えて』を買った。この本自体は持っているが文庫版には千葉雅也による解説がついている。それ目当てだ。ものすごくスッキリした解説。なんらかの枠組みを提示されることで本はグッと読みやすくなるがどんな枠組みを提示されるかが非常に重要。本当に助かる。それにしても久しぶりに充実した本屋へ行った。私が最も使う新宿の本屋たちは私にはどんどん使いにくくなっていると感じていたので嬉しかった。千葉雅也たちがではじめた頃の新宿ルミネのブックファーストは現代思想の本も充実していてたくさん買った覚えがある。そこも先月閉店したと聞く。池袋はどうなのだろう。リブロで千葉雅也の選書フェアなどで色々買ったがそこももうない。ジュンク堂などは相変わらずだろうか。この小さな街に越してきた頃には駅近くの本屋のほかに本当に小さな本屋が数軒あった。今は私が一度も寄ったことのない本屋が一軒だけ残っている。街の本屋に専門書は求めていなかったし夜遅く帰ってきてもパッと寄って本を見られる環境はとても恵まれていた。

本屋へ行くと子どもたちが読んでいる本も気になる。まだ二語分がではじめたくらいのこどもたちと本をよむのも楽しい。重たそうなのに片手で引き摺るように持ってきて自動的に膝に座る。膝が足りない時は少し一触即発の雰囲気になるがみんなに見えるように絵本を少し上に掲げるとすぐにそちらに目線がいく。とても集中してみえるのに「おーしーまい」となると我先にと次の絵本を私の目の前に差し出してくる。本屋でも子どものスペースが充実しているところは多い気がする。名古屋三省堂はどうだったか。意識してなかったけどとにかくどのフロアーも人が多く活気があった。

今日も風が強いのだろうか。どうぞみなさんお気をつけて。

アイデンティティ・ポリティクスを超えて――『構造と力』文庫化を機に/浅田 彰

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2月27日(火)朝

今年は梅の木に遊ぶメジロをたくさん見ている。ちっちゃくすばしっこくすぐに幹に隠れてしまう。何枚も何枚も写真を撮るけどはっきりメジロだとわかる程度に写ってくれることはほとんどない。私は残念だけどメジロは元気。良いことだ。スズメ、ムクドリ、ヒヨドリ、シジュウカラ、私がぐったりしている間にみんな少し遠くへいってしまったみたい。しまった、また眠ってしまった。ずーんとだるいが色々やらねば。今日は秩父土産、阿左美冷蔵のとろっとろの水羊羹。お腹痛いけど黒みつが美味しくて少し食べてしまった。かき氷で有名なお店だそうなので夏に行ってみたい。

昨日聞いたポッドキャスト。私の興味あるところ。

Episode 153 : Female Sexuality in India Today: Through an Analytic Lens with Amrita Narayanan, PsyD (Goa, India) FEBRUARY 25, 2024

この人のこの本も欲しいけどKindleでもすごく高い。

Women’s Sexuality and Modern India In A Rapture of Distress” by Amrita Narayanan

富永京子さんのポッドキャストも聞いた。なんて表現したらいいのかわからないのだけどとても良いのですよ。おすすめです。

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2月26日(月)朝

鳥の鋭い声。鳥がいなくなる世界はくるのだろうか。人間よりは長く絶滅しないでいてくれるだろうか。机に突っ伏したり座ったまま眠ってしまったら顔がひどい。むくみとくま。くまっていうのかな。元々浮腫みやすいけど目の下がぷくって晴れることが多い。後で逆立ちしないと。何年もしていないけど。でも昔みたいに身体が動くわけではないからひとりで逆立ちとかして怪我したら嫌だから公園の鉄棒とかでグルングルンした方が循環良くなるかしら。それももうできないか。寒いし。鉄棒、冷たいし。つぶつぶのついた軍手をしてまでやることでもないし。昔、実家にしっかりしたぶら下がり健康器があった。今もあるのかもしれない。椅子に乗っかってバーを掴んでブラーンとする。結構すぐに疲れる。内臓も伸びている感じがする。大人になってうちにも欲しいなと思ったけど実家にいる間にだって数えるほどしかぶら下がらなかった気がするし絶対ハンガー代わりとかにしてしまうからいらない。結局一番いいのはベッドでまともな格好をして眠ることだ。二度寝でそれをさせてほしいけど時間が許してくれない。だめだ、気づくとうとうとしてしまう。ご褒美のような時間がとても贅沢で少し涙出たけどずしんと来るものでもあったかもしれない。いい一日になりますように。