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精神分析

自称。

風の音。洗濯は早朝にできあがるようにタイマーをかけていた。早すぎるのでベッドに戻る。エアコンが微妙に寒かったり暑かったりで寝たり起きたりしてしまう。夏は本当にちょこちょこ仮眠とりながら生きながらえる感じか。それにしても眠い。いや眠くない。寝たい。これだ。少し寝てまた起きた。宇多田ヒカルが聞こえたから。

宇多田ヒカルが精神分析を受けていたと聞いて精神分析に興味を持つ人が少し増えたらしい。日本の場合、「精神分析」を頻回の設定でのカウチでの自由連想、という捉え方をしている人は少ない印象。私のところにこられる場合は、私が実際におこなっている精神分析の方法を説明するのでそこではじめて「そうなんですね」と理解される場合も多い。もちろんオフィスのWebサイトにも詳細に書いているし、皆さんそれを読まれてから申し込むようなのだが人間って意外とこういうところがある。馴染みのない情報を処理する枠組みを持つのは自然にできることではないのだ。「書いてあったでしょう」「言ったでしょう」というのは継続的に会っていても「あれ、そうだっけ」となることも意外とあるのだから面白いものだ。それに私が所属する国際精神分析学会(IPA)の制度に則ったものだけが「精神分析」ではないので、自称でも構わないのだと思う。もし私が「自称精神分析家」だったらそう言うけど。それは私が認知行動療法を求められてこれこれこういう本とセミナーで勉強したくらいで実践経験ほとんどないですよ、というのと似たようものでとにかくその人の言葉での説明は大事だろうと思う。実際やってみないとそれがそれでないことにもはっきり気付くことはできないのだから曖昧なものを「自称それ」と言いながらやるのもなしではないだろう。それぞれの臨床家の倫理や治療観による。

ラカンを読んでいて情動論的転回について考えるに至ったが精神分析独自の文脈があるからやはりまたフロイト『夢解釈』に戻ることになる。不思議だ。このテキストは本当に原点なんだな。

今日も暑くなりそう。どうぞお気をつけてお過ごしください。