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精神分析

國分功一郎のスピノザの本

よく寝た。時間ではなくて質。睡眠って「量」のことを「時間」っていう。「時間」ってほんと特殊。ベルクソンのいうこともわからないではない。

今朝は小布施の栗のスティックケーキとハーブティで。

最近、「意識」について考えていたらスピノザが気になって久しぶりに國分功一郎『スピノザの方法』(みすず書房)をパラパラしていた。「あとがき」でまた泣いてしまった。2022年に出た『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)はこの「あとがき」に書かれた「誰かと一緒に読む」「誰かと一緒に考える」を実現した本なのだろう。どこかにそう書いてあったかもしれないし、書いてなかったかもしれない。

私はスピノザがデカルト読解でこう解説している部分を國分さんが解説している部分が好き。『スピノザの方法』の199ページ、<S公理九>、デカルトの空の例に対するスピノザの二冊の写本の例。

「ある人がここに同一の手で書き写された二冊の本(一冊は著名な哲学者の作品で、他はつまらぬ人間の作品であると仮定しよう)を見て、その言葉(つまり心像としてあるかぎりにおいての言葉)の意味には注意せずに、たんに筆跡と文字の列だけに注意するなら、彼はその二冊の本の間に違った原因を求めるように彼を強いるいかなる相違をも認めないであろう。むしろこれらの本は、彼には同じ原因によって同じ仕方でできたものと見なされるであろう。しかし言葉や文章の意味に注意するなら、彼はそれらの間に大きな相違を見いだすであろう。そしてこれによって彼は、一方の本の第一原因が他方の本の第一原因とはなはだ異なっていたこと、しかも一方の原因は他方の原因に比し、実際にその両方の本の文章の意味が、すなわち心像として考察されるかぎりの言葉が、相互に異なっているだけそれだけいっそう完全であったことを結論するであろう。私はここで、必然的に存在するはずのこれらの本の第一原因について語っているのである。もっともあるひとつの本が他のある本から模写されうるのは自明のことであって私もそれを容認ー否、予想する。しかしいま言っているのはそうしたことではない。」

面白くないですか。この後の國分さんの解説を読むとなるほど、と思うと思う。これ、人の話を聞くときにもそう、と勝手に別の話にしてはいけないのだけどどっちがどっちかなんて観念次第でしょう、ということでもあると思う。これって私が治療でよくいう「いいとか悪いとか上手いとか下手とか嘘とかほんととかはあまり関係ない」というときの感覚を思い出す。この本、デカルトを読むスピノザに対する國分さんの姿勢が一貫して他者というか、研究者の立ち位置の維持には強固な意志が必要なのだろうなと思った。この本を読んでから岩波新書の『スピノザー読む人の肖像』を読むとすごくスッキリした本だなと思うのだけど実際に読んだときは粘りが必要だった。粘ってよかった、と思えるのが國分さんの本だし、いい本ってことだと思うけどね。

さてさて、夜中までこんな読書をせずに読まねばならない本があるのだ。しかも英語だ。はあ。がんばりましょ。