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精神分析

扇風機、Dana Birksted‐Breen、自我

昨晩は涼しかった。信号待ちでは上着がほしくなるくらいだった。夜は窓を開けて過ごした。早朝、再び窓を開けた。暑くはないけどもう少し空気を巡らせたくて扇風機をつけた。動くつもりがあるのかないのかじっとみていてようやく動いている気がするくらいのゆったりさで羽を動かさんとしている。つもりはあるらしい。「そんなつもりはなかった」という言葉も治療中の頻出構文だが大体のことは「そんなつもりなく」やっているものだ。首が回るようにしてあるはずなんだけどと待っていたら羽が少しずつ早く回るのと同時に首もふりはじめた。これもものすごく長く使っているから身体が動かなくなりつつあるのだろう。コンセントまでのコードもなんだかとてもか弱くみえる。この前、トレーナーさんが「サーキュレーターはいいですよね」と言っていて「ほんとほんと」と話しながらうちもこういう小さいのにしようかなと思ったところだった。これの寿命も頭のどこかにあったのかもしれない。ハーブティーを入れる。今朝は温かい飲み物でいい。テーブルに戻ってくるとさっきよりずっと滑らに扇風機は動いていた。

昨晩はイギリス精神分析協会のDana Birksted-Breenの本を読んでいた。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”(Routledge, 2017) 

女性分析家の本を女性だけで読む会で、ジョイス・マクドゥーガルの本を読み終え、次はこれを読むことになった。Dana Birksted‐Breenは福岡の精神分析家の松木邦裕先生のセミナーでよく言及されていたので知ってはいたし、論文や動画も見ていたが一冊の本として読むのははじめてだ。今年1月には彼女のためのカンファレンスが開かれたのもチェックしていた。なので亡くなったというニュースを見たときは驚いた。6月1日土曜日の朝に亡くなったそうだ。Obituaryはこちら。the New Library of Psychoanalysisの編集長を10年、the International Journal of Psychoanalysisの編集長を15年務めたDana Birksted‐Breenだからその書き方にも注意を払って読みたいが今回読む分は分量も多く何かに注意を払う以前にとりあえず読み切るのが課題となりそう。フランスの精神分析家への言及も多そうなのでそれはありがたい。

スーパーヴァイザーの先生とウィニコット理論について話した。私が最も読み、書くときに引用するのはフロイトとウィニコットだが、最近ラカンを読む中で「自我」の位置付けに再び混乱をきたしていた。ウィニコットもラカンも「対象」については詳細に言及しているのだが「自我」となるとなかなか。ラカンは意識的主体を自我と呼んでいたりするが、私はその読み取りができていない。そもそもフロイトが『自我とエス』で示した「自我」がすでに錯綜している。昔、購読会で担当したときに「自我はこんなにたくさん役割与えられていろんなもの投げ込まれて大変すぎる」と発言をしたことがある。いまだにそう思うしラカンも対象としての自我には言及するが自我の自我部分(説明しにくい)は「主体」にすり替えてしまっている気がする。ウィニコットに至っては自我も自己も曖昧すぎるがtrue selfを自我と呼ぶとして、その自我とは、という話を先生とできたのはよかった。ナルシシズムにおける自我というものをどう考えるかというお話。はあ。突き詰めれば突き詰めるほどやること増えて時間がなくなる。臨床のおかげで頭だけで考えなくて済んでいるのはとてもいいことだと思う。昔はそうなりがちだった。いろんな経験していこう。今日の東京は少し過ごしやすいのだろうか。がんばろ。