おなかが気持ち悪い。果物と炭水化物を摂りすぎたかもしれない。今朝も扇風機が時間をかけて回り始めた。今は快調。
昨晩は読書会だった。どの学派にも属さず、IPAのジャーナルの編集長を15年間やってきたDana Birksted-Breenが精神分析の未来のために残してくれた書物として読んだ。置き土産なら自分の欲望を押し付けるものではなくてこういう全世界に通じるものであってほしいな、と思うのでありがたい。Twitterですでにあれこれ呟いた。日本の精神分析は治療者の逆転移に基づく描写が多いと思うし、実際それは必要なのだろうけど、その背後の理論モデルがないと「それはそうなのかもしれないけどそれって精神分析じゃなくてもいいんじゃないの」となると思う。もう多分20年くらい前のことだけどセミナーで英国のタヴィストッククリニックの子どもの臨床家、Anne Alvarezの技法を紹介をしてくれた平井正三先生に藤山直樹先生が「それは普通に子供と遊ぶときと何が違うのかなと思ってしまうのだけど」と質問していた。こういう素朴な問いはとてもよくて技法には理論的基盤があるということ、そしてアルヴァレズのそれを知る機会になったと思う。例えば最近、私はラカンあるいはラカン派、ラカン派以外のフランスの精神分析家の文献を読んでいるけど昨晩読んだ精神分析設定と絡めた場合の一つの理論的想定はこれ。根源的幻想。ブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』を使用してちょっと書いてみる。
私たちの最早期の光景とはどんなものだろうか。そしてそれはどんな幻想だろうか。フィンクによるラカン、ラカンによるフロイトの説明はこんな感じである。斜線を引かれたS(自我ではなく主体、意識と無意識に分割された主体)と欲望の原因=aとの関係において、斜線を引かれたS(分析主体)のaへの固着を「根源的幻想」と呼ぶ。これは無意識の幻想であり、フロイト理論における「原光景」(生を構成する性行動の役割)と重なる。この幻想には原因としての<他者>=aの内部に想定された欲望と主体の関係が含まれている。そしてこれが無意識的幻想の場合、そこへの通路は夢である。分析設定(here&now)において、分析家は分析主体のこの欲望の原因となり根源的幻想を投影される。このとき分析家は他者であり<他者>であるが、分析主体にとってこの他者は<他者>でしかなくこれまで分析主体が体験し観念化してきた<他者>であり幻想を生きる。しかし、分析家は他者であり、<他者>の欲望は徐々にこれまでの想定とは異なったものになる。フィンクは「それどころか分析主体がいつも想定していたようなものであったことはおそらく一度もない」と「おそらく一度もない」は太字にして書く。この辺の分析家の態度はお話としてはわかるが分役状況というのは分析家の方も意識的に何かをやれる状態ではなくなっていると私は考えるし、こういうことが生じるのは意志のせいでも意図のせいでもなく現実がそうなのであり、それがないと治療は進展しないだろう。なのでフィンクの描写する分析家の態度はかなり防衛的に思える。この部分がそうというわけではなく、むしろフィンクはそうではないほうだと思うが、ラカン派の分析家の書き方は皮肉を聴かせた極端なものが多い。私はそういうのが苦手。起きたことは正確に描写してほしい。SNSでもこれは皮肉なのか、本音なのか、適当なのか、とよくわからないものには注意を向けないようにしている。わからないから。わからない私に問題があるのだろうけどそういうレトリックはめんどくさいと思ってしまう。患者のこと考えるのにそれいる?と思う。いや、むしろ患者の言葉に対してそういう態度を持てること自体はかなり必要なことかもしれない。うーん、ここは難しいな。精神分析がやっていることって母子モデルを外してしまえば結構AI的なのでかなり皮肉きかせられるような人間的なものとセットでないと難しい面があると思うしな。
そうそう、根源的幻想のお話。この後「一例として」と出されるのが、私主催のReading Freudで読んでいる通称「鼠男」、何度も読んでいる論文「強迫神経症の一事例についての考察」なんだけど、フィンクはものすごーくあっさり要約。鼠男の父親が欲望の原因であるということを言いたいだけだから仕方ないのだけど、この症例の混沌とした部分はその見立てにも関わるでしょう。
などなど色々考えて自分の理論的基盤のもとに臨床をしているわけでその基盤を育てるのもまた臨床なわけだからどっちがどうというのではなく両輪なんだけど私も精神分析の未来を考えて学んでいかないとな。今日はグループ。がんばろう。