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精神分析

禁欲原則とか。

鳥たちが賑やかに通り過ぎていった。彼らにも朝の挨拶のようなものがあるのだろうか、という疑問をこれまでなんども書いている気がする。調べればいいじゃん、ということかもしれないがこの問いはそういう類のものではない、ということがSNS上などでは通じない世の中だからコミュニケーションって変わったなあ、と思う。私は実際の人と対面して、見かけ上は一方的に話を聴いているが、問いかけを答えるべきものとは思わないし、問いが答えを求めていないどころか問いかけの形にして言いたいことがあることも知っている。まずひたすら耳を傾けること。その意義は今はますます大きいような気がしている。なんてことを書こうと思っていたわけではないが、精神分析の基本設定について考えていた。フロイトは禁欲規則 rule of abstinenceといって精神分析をしている間は結婚したり外側を大きく変えるような行動はするなというようなことをいった。そういうのを精神分析の世界では「行動化」というのだが、フロイトの時代は週6回通うとはいえ治療期間が今よりずっと短いのでこれもある意味契約のひとつだろう。しかし禁止なんてできるはずのない心があるとわかっているから精神分析はあるので二人の関係に外側を使って何かを生じさせようとする心について考えるのが現代の精神分析家の態度である。小此木啓吾をはじめ、私の親世代より少し上の精神分析家たちはフロイトに忠実であるとともに「日本では」ということを模索してきた。小此木先生はフロイト的治療態度、主に禁欲原則・分析の隠れ身・医師としての分別(Freudian fundamental attitude(neutrality・abstinence rule・analytic incognito physician’s discretion))に関するお話をフェレンツィ的態度との比較においてたくさんしていた。私の親より少し下の精神分析家たち、つまり今の日本精神分析協会の役員世代の先生方は世界を標準にしたフロイト再読が普通であり、それぞれにフロイトの技法を咀嚼し「自分では」ということを話されている。外では十分に指導的な立場にありながら分析家の中では子どもみたいな私たち世代はフロイトに素手で立ち向かっている人がいるかどうかわからないが私は続けていこうと思っている。応用分野で精神分析が使われる場合でももうすでに古びた印象がある精神分析を治療法として今を生きる患者に使用しているからには今の時代で精神分析ができることを考える必要がある。とはいえ、人と話すたびに古びゆく自分を実感する毎日、まだ本当の子ども世代の患者にも「今はね」と言われながら教わる日々。まあそれはそれでありがたいことだ。なにかもっと言いようのない良さについて書こうと思ったのに全然違うことを書いてしまった。言いようのないものは言いようがないのだからしかたないか。無理に言葉や形にする必要などないこともたくさんあるのだろう。今日もがんばろう。どうぞご無事で。お元気で。