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精神分析

フロイトを読んでいた、いる。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、マロン。こう書くとフランス語の語順っぽい。美味しい。あとゴールデンキウイ。いつからゴールデンとかできたんだなど言いながら。ホットコーヒーと。やや汗ばむ。

毎日、精神分析とは、と考えてはウンウン唸っている。私がやっていることそれ自体なのだけどそれってなんなんだろう。私は精神分析は医学でも心理学でもないと思っているので自分が所属している臨床心理学の世界と連続したものと考えていない、という時点で周りとの違いを感じる。フランス精神分析はその辺が普通にオープンで勉強しやすい。フロイトをしつこく読んでいるのもラカン派の本を読んでいると当たり前というか必須以外に思えないので常にフロイトから始める、みたいな人がまわりに増えればいいなといつも思う。しかし、フロイトを読み込むのは時間もかかるし、臨床中心の生活ではそういう時間も限られる。だからこうやって早朝に読んだりするわけだ。それぞれの限られた時間を思えば周囲に甘えているわけにもいかないしな。とかいって結構対話してもらっているか。基本はフロイトを読んでいる本と対話しながら読んでいるが、キノドスの『フロイトを読む』はバランスが良くてとてもいい。kindleで英語版も持っているので語彙の確認もしやすい。なんでフロイトを読みつつ、精神分析とは、とウンウンしているかといえば、自分がやっていることの効果や影響を常に考える必要があるから。これはいいものだ、という前提ではできないし、精神分析プロセスで生じさせる激しさや危うさは自分で十分に体験しているので気軽に導入もしない。もちろんそれは私の場合であるし、ケースバイケース。臨床家としていろんな現場でいろんなことをしてきたがその中心にあったのは週一の心理療法だった。今もそれは中心だけど考える起点と基盤が精神分析に変わってしまったのでまた新たに臨床から学ぶしかないんだな、結局。何歳になっても。

昨日は1920年の『快原理の彼岸』を読んで唸っていた。ここまでにも大量の論文を書いているフロイトが考え方をグッと変えてきた論文。ものすごい天才が考えていることなど私にわかるはずもないと思いつつ、それまでの蓄積とそのあとの流れと同じ実践に基づいているというところを頼りに読む。ラプランシュもデリダもこの論文の読解に力を割いている。局所論、力動論、経済論を考慮した心的装置を考案しようとするフロイトの記述はそれまでのメタサイコロジーの更新を伴う。意識、前意識、無意識という第一局所論からエスー自我ー超自我という第二局所論への移行、力動論はメタサイコロジー論で精緻化された通り欲動に起源を持つ力動論、そしてエネルギーの量的観点からの経済論的記述。さっき考え方を変えたと書いたけどそうではないのか。『草稿』『ヒステリー研究』ですでに構想されていたものか。でもこれまで同意するかどうかはともかくふむふむと読めていた快ー不快の解釈は臨床経験によって変わってきてしまったわけだからフロイトが一番困ったよね、きっと。自分で考え続けてきたことにどう落とし前つけるんだよって感じだったろうねえ、とわからなさをフロイトに気持ちを寄せることで誤魔化しながら読む。そういうことを今日もやるわけですね。ウンウン。がんばろう。

それにしても暑いね。ゴミ捨てに行っただけで紫外線いっぱい吸収した感じがする。ジリジリ。熱中症にも気をつけましょう。どうぞ良い週末を。