今朝は「葦」のパウンドケーキ、いちじく。いちじく大好きだけど高くて。この前もスーパーのいちじくを眺めながら立ち尽くしてしまった。見ていたら安くなるというわけでもないのに。今日は普通の紅茶を淹れた。色々やってる間に冷めてちょうどよくなるかなと思ったけどここに座ってしまったから熱いままいただくことになりそう。部屋の温度がまだ高めだから汗かきそう。でもこの時期は外の気温が高すぎてお散歩にも出られないし汗かく時間も必要か。
今朝は無料の仕事に関連する夢を見た。精神分析をしているとお金というのは本当に様々な意味を持つ。今読んでいるねずみ男の症例もそうだし、交換をどう考えるかということでもある。何かを考えるときにその人なりの基準があるわけで精神分析の場合は当然精神分析理論が前提になる。そしてその理論を引き継ぎつつ更新していくために多くの精神分析家が日夜臨床と検証に明け暮れている。先日サンフランシスコで開業しているオグデンの新しい論文を読んだがオグデンは「無意識なんてものはない」と強調していた。並行して読んでいるラカンも無意識の概念を更新しようとしているけど彼らのしていることの大きさにやっぱりすごいと思う。私は英語もフランス語もその書き方について何かを言えるほどわかってないけどオグデンの語り口の基本的な穏やかさはわかりやすい英語のせいかもしれない。
To say this is not to suggest
that we not use the concept of the unconscious,
it is to say that
when we use the idea,
we should be aware
that it is just an idea
– not a place,
not a second mind.
こうやって区切ってみるとさらにわかりやすい。オグデンはこの論文で無意識を実体としてみることに警鐘をならす。その概念を使うなという意味ではなく、それは単なるアイデアであり、場所でも二つ目の心でもないとオグデンはいう。要するに、と私が簡単にまとめるのはよくないが、オグデンはフロイトが「無意識」論文の冒頭で書いた部分を読み込みながらフロイトがその存在を「明白」と書いたことに反論している。この強調の仕方は主に誰に向けてなされているものなのだろう、と考えたりもするがそれはまた別の話かもしれない。フロイトの「無意識」論文自体、「欲動と欲動の運命」「抑圧」というその直前の二つのメタサイコロジー論文を踏まえる必要があるがオグデンはそれは前提として書いているのでそこには触れない。なのでオグデンを読むまえにフロイトを読む必要があるのはいうまでもない。オグデンの書き方の背景にどれだけの実践と古典との対話が積み重ねられているかを考えるとその途方もなさに驚く。私はオグデンという精神分析家が精神分析実践において患者の実存的なニードを認識する仕方を感じたいだけなので興味がある人はそれぞれ読んでオグデンのnot to convince, but to invite imaginative response.に応えてほしい。無意識について再考したあと、オグデンはトラウマに対する精神分析実践から精神分析における時間の経験を検討する。この二つの主題のつながりの部分をオグデンは書いていないのでそこにも想像力が必要だが最近の著書で書かれた認識論と存在論に関する議論を踏まえてフロイト、フェレンツィに立ち返りつつ書かれているように私は思った。オグデンは精神分析セッションにおける時間経験をこう書く。
The experience of time in the analytic session is at once synchronic (from the Greek for “together” and “time”) and diachronic (from the Greek for “through” and “time”).
これをもっとも説明しやすいのがトラウマの事例ということだろう。この議論も表面的に読んでしまわないようにしたい部分である。
なかなかしっかり本を読めないが少しずつ少しずつ。今日も良い1日でありますように。