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精神分析

フロイトのしたこととか。

古いエアコンの効き目がよく温度を一度上げて寝た。少し暑いけど暑くて起きるほどではない。でも今朝はさすがに冷たい麦茶を飲んだ。身体が飲んだ方がいいよといっている感じがした。あたたかいハーブティも入れておいた。部屋が冷えたら冷めたのを飲もう。お菓子にはそっちの方が合う、と小さな小さなお花型のずんだサブレを食べてしまいながら思う。

先日、フロイトの鼠男、ラットマンの症例についての論文を読み、強迫神経症の精神分析的理解についていくつか質問が出たのでお答えした。この論文は今なら転移ー逆転移の文脈で指摘されるであろうフロイトという治療者の態度に対する批判が何パターンかある。ひとつはフロイトの誘導的、あるいは誘惑的な態度について。これもほんの一文に対してだったりするのだが精神分析における一言一言が出来事の全体をなしていくプロセスである証拠だろう。昨日、読書会での議論を思い出しながら「よく考えればフロイトはそこまでひどいことしてないよなあ」と思った。そして、フロイトのことも精神分析のことも全く知らない人(つまり大体の人)にこの部分の話を「医者に急にそんなこと言われて」と話したとして、と頭の中で会話してみた。「もっとひどい医者はたくさんいるよ、私なんてさ」というような会話が展開された。が、しかし、フロイトの患者はフロイトを医者であり、精神分析の創始者であると知っていて、今私たち日本の精神分析家に精神分析を受けたいと申し込んでくる人たちよりは精神分析を「そういうものだ」と受け入れやすい人たちだっただろう。そのためラットマンのように迎合的に振る舞う可能性は高いと思う。フロイトはそのあたりには慣れっこでそんな理想化には振り回されないが「何かがおかしい」と思わせるのがここでのフロイトの態度であり、それが精神分析だからであり、それが精神分析である理由なのだろう。ラットマンと呼ばれたランツァーという29歳の男性が最初に見せた迎合的な態度は単に相手がフロイトだからではない。フロイトは抵抗という概念を用いる。なぜなら彼が神経症の病因と考えたのはタブーとしての性、しかも個人の生活における極めて具体的な性的振る舞いだからである。そこにここまで注意を向ける臨床技法はほかにはない。フロイトが神経症の病因を性的なものに求め、愛と憎しみの両価性を強迫神経症の特徴として顕にし、自由連想という技法でそこで生じている欲動の動きの特徴を推論し、それに基づく介入によって症状を消失させた事例としてこの論文は発表されたが、実に多くの論点を含んでおり、フロイトの態度としてではなくそれを受け取る私たちの「翻訳」態度も問題にされるべきだろう。だから先日の議論では私はこの論文でも『夢解釈』の技法が基本にあることを強調した。この前読んだオグデンの論考も無意識と時間という二つの概念からこの翻訳、つまり解釈の問題を考えるときの基盤の見直しとして読んだ。精神分析において治療者も常に当事者になっていること、性を問題にする限りそうなるということ、だから治療者が分析を受けていることは必須であること、そういうことではないだろうか。

しかし眠い。こう書きながら頭の中で全く別の景色や出来事が展開している。半分夢の中みたいな感じだ。10分くらい寝てから出ようかな。やっぱり暑さのせいだろうか。どうぞみなさんもお気をつけてお過ごしください。