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精神分析

フェミニストとか「我が身を以て」とか。

窓を開けた。昨晩は傘をさしても少し濡れてなおさら冷たく感じた風が全くない。これから強い日差しがやってくるぞ、という感じのオレンジがベランダの壁面に広がりつつある。

今朝は最初にあるフェミニストの文章を読んだ。フェミニストというときに少し突き放した感じでこの言葉を使っている自分に気づく。フェミニズムという言葉は学術的にも使えるがフェミニストはその人がそういえばそうなのだろう、というような距離の取り方をしてしまう。なぜだろう、というよりなぜなら、たとえ言動がどうであっても、という括弧付きの言葉が浮かんできてしまうから。この言葉を思い浮かべる時点で罪悪感を感じてしまうのもフェミニストという言葉が持つ複雑さと強力さを示していると思う。この場合も(私にとっては)という言葉を慌ててつけたくなるわけだが。繊細で、大きな傷つきの積み重ねを包み込み大きな力にしていくための言葉は絶対に必要だが、弱者が戦わねばならないときにそこにどうしても生じてしまう相手を黙らせようとする雰囲気というのはそれこそがそれまでの、あるいは今も自分を苦しめてきた、苦しめているものではなかったか、というためらいをうむ。もちろんそれは本来感じる必要などないものだが感じてしまうのも無理がないものだ。自分にも色々な部分があるのは当たり前のことで相手によって自分が変わってしまうのも当たり前のことだから。フェミニストという言葉は誰かを括るための言葉ではなくそう表明することで生じる連帯を期待するものなのだろう。

ロシア語通訳者でエッセイストの米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』を読んだことがあるだろうか。私は米原万里の本に打ちのめされてきたが、この本も強い。打ちのめされるほどのインパクトがないと人はものを考えないので、それは力をもらうというのと同義だと思っているが米原万里の場合は特にそう感じる。この本の「私の読書日記」の中に「癌治療本を我が身を以て検証」というタイトルのものがその三まである。私は身近で信用できない癌治療本を手にしている人がいると猛反対をしたりはしないが読む分にはいいけどお金もかかることだからオーソドックスな治療をしたほうがいいよ、とはいう。精神分析なんてエヴィデンスのないことをやっている人がなにをいう、と言われたことはない。精神分析は医療ではないし、そもそもマイナーすぎてみんな知らない。だから体験したこともない人たちが自分の欲望のために気楽に理論を使用してくることもあるわけだが、それこそ精神分析的ではないのでその熱量にかえって冷めるということはよくある。米原万里は常に真剣そのものでものすごい勉強家で交流も幅広いので、というかこれらは全て連動するものだけど、その結果、冷めているのに熱い。「癌治療本を我が身を以て検証」も結論ありきではなく、実際の体験ありき。私が知っている胡散臭さをこのような形で書けるのがすごい。何も押し付けてこない。そんな本読むのやめなよ、とかまともな治療したほうがいいよ、とかいうより「あ、それ、実際に体験した人が書いていたよ」とこれを読んでもらったほうがいいのかもしれない。現実はたいてい結論ありきなわけだから別の方法など受け入れる状態にないかもしれないが。

蝉が再び賑やか。秋の虫は少し前から鳴き始めている。今日は猛暑らしい。気をつけて過ごそう。