キッチンの窓を開けた。久しぶりに風を感じた。南向きの大きな窓も開けた。風は感じなかったが虫の声が蝉よりずっと下の方から響いてきた。
書評を書くためにラカン派のフランス人精神分析家の本を読んでいる。読み進めることはできるが著者の意図がよくわからない。いや、わからなくもない。彼女がラカン派らしくIPAの精神分析家がダメにしてきた精神分析で維持すべき問題をラカンと、ラカンが回帰せよといったフロイトに回帰しながら考え抜こうとする姿勢は人文知、特に哲学と共にその国に根づくフランス精神分析の健やかな育ちの結果なのだと思う。無論、とんでもなくドロドロした個人的かつ政治的な話と共にである。
それにしても「健やか」という言葉の健やかさを何といったらいいのか。それは漫画の『キャプテン翼』のイメージで精神分析で体験する苦しみとは全くかけ離れているように思える。しかし、精神分析を十分に体験しようとする情熱は結構健康志向だと思う。身体化によって身体と心が影響しあっていることを知ることも毎日のように分析の場で対話する生活をマネージすることも結構健康志向だと思う。自分のことは自分で、しかし他人を頼ることもきちんとするということをしなくてはいけなくなるから。そういうのは生活の基本だけどなかなかできないものなのだ。
私は分析家のところへ通う生活が終わり、話し相手、というより「話す相手」がいなくなったことに大きなインパクト受けた、この前。どんなときだったか忘れてしまったが急にそれを感じた瞬間があったのだ。正確にはそのいなくなった場で話すことを続けているわけだが(それを可能にするための訓練生活だったし。)物理的にそれがなくなったことを現実的に認識したという感じだろうか。なくなったことというよりその時間がどれだけ濃かったかということを実感した。なんかすごいことやってたな、と思う。精神分析体験を夢みたいだったといっていた人がいて私もそんな風に思うのかなとあまりしっくりきていなかったがまさに夢みたいだった。精神分析的な意味での。なんだかなるほどねー、だった。現実の生活という言葉を使いたくなるほどに。あれも現実だったのに時間が複数に流れるようになったんだな、と思った。
以前買った短歌がたくさん載っている冊子を見ていたらどれもとてもよくてこういう感性は私には持ち得ないものなんだけど私も生きているこの世界はこういう表現もできるんだなあとしみじみした。穂村弘、平岡直子ファンだが、若手にもすごい人がたくさん。人生は長さではないのだね。しかし経験を積むには長さが必要だね。みんなが自分のことを一生懸命やることが大事。それは人のことを考えることと直結している。そうでないならそれは本当に自分のことを考えてるってことなのか?と問うてもいいかも。他人になにかいうことはとっても簡単でいくらでも自分を「そうではない」場所に置くことができるけどそんなふうにすることで何をしているのか、ってことだし、自分のことをやるって何?って感じでとても難しいことだとは思うけどまずは自分をなんとかなんとか。とりあえず今日も無事に過ごしましょう。