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精神分析

姑娘、「まとも」

まだ少し雨が降っている。ずっと降ったり止んだりだったのだろうか。私がオフィスを出る頃は強い雨は少しぱらつく程度で誰も傘をさしていなかった。鳥たちが鳴き始めた。

近所の本屋さんで戦争の本が並べられていた。水木しげる、半藤一利の本が目立っていた。旅先で「姑娘」という言葉を知った。それについて何か話したあとその名前の中華料理屋も見た。移動した先のギャラリーにも姑娘という作品があった。なんだか妙に心に残る単語だった。水木しげるの漫画の背表紙を眺めていたら「姑娘」があった。手に取ると裸の若い女性とその背後に日本兵たち。水木しげるならではの間の抜けた切迫感。読んだ。意外な話だった。運命とはなにか、理不尽とはなにか、戦争を起こすとしたらやはり人間なんだな、と思った。これ、昔読んだことがある気がする、と実家の桐の箱を思い浮かべた。そこには水木しげるの漫画がたくさん入っていて、それに気づいてからは長時間そのそばで読み耽った。ただそれはこの漫画が刊行される以前のことだから「姑娘」という単語は別の漫画で見たのかもしれない。この表題作と一緒に入っている作品は戦艦の描写も見事な戦争もの。どうして戦艦にこんな名前をつけるのか。美しい土地や季語みたいではないか。いや、戦艦はそれ自体で見れば美しいのだ。広島で学会があったとき、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)にも行った。ちょうど映画のロケが行われていたときだった気がする。圧巻だった。しかしいくら戦艦が美しく立派で、いくら優しい人間が乗っていたとしてもそれが戦争である限りそこで何を言ってもきれいごとだ。もちろんそこから美しいなにかを見出すこともありうるだろう、ただ生き延びるために。戦争で人生が狂わされた人もいれば、人は誰でもどこか狂っているから戦争が起きるともいえる。でもどこか狂っているなんて当たり前のことが誰かを死に追いやることを当たり前にしていいはずはない。自分の狂気も優しさや間抜けさと同居している。どの瞬間に「まとも」になれるかが境界を越えるかどうかを決めるのだろうけどそれは自分のどんな意志を持っても一人ではどうにもならないものでもある。誰もが当事者である、というよりは、少なくともそれは他人事ではないということだと思う。たらればの話をする以前に前提を確かめる。何を基準に「まとも」というのか、とか。難しいし眠い。なんとかやっていこう。