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精神分析

ロマンとか。

柳樂光隆さんがいろんなジャズ・ミュージシャンにインタビューする記事をよく読む。そこで知ったカート・ローゼンウィンケルを聴いていた。先月、KURT ROSENWINKEL’s THE NEXT STEP BAND REUNIONとしてBlue Note東京でライブをしたばかりだ。今日はNYでライブらしい。ドラマーの石若駿も小さい頃からカート・ローゼンウィンケルを聞いて影響を受けてきたという。柳樂さんのnoteで読んだ。

「降ってくるって美しいことだよね。自分にとっては曲を書くってことは、基本的には考古学みたいなものなんだよね。砂漠に行って、いろんなところを掘る。そして、何かが見えたら、その周りの砂をブラシで丁寧に取り除いたりする。僕にとっての作曲はそんな行為だ。簡単に全貌が現れることもあれば、なかなか掘り出せないこともある。ピラミッドがきれいな形で見つかることもあれば、壺の破片が見つかったから、その周りを掘ってみたけど、そこには何もなくて徒労に終わったりね。ひたすらいろいろ探したのに、やっと出てきたのがスプーンだったりすることもある(笑)。」

文脈もあるから石若駿との対談インタビューを全部読んでほしいのだけどカートの言葉はとても素敵。

フロイトも精神分析を考古学で例えるならこんな感じでいえばよかったのに。フロイトが私の祖父だったら、いや、父でも兄弟でも分析家でもなんでもいいがもし話せる立場にいたらそういってしまう。そしてきっと反論されるか解釈されるかするのだろうね。ロマンがない。精神分析をよく知っている立場からすれば精神分析にロマンはあるのだけどロマンに対してアンビバレントなのではないかな。今は犯罪でもノンフィクションで読んだほうがいいもののほうが多くて、いかにそこにロマンを持ち込まずにいられるかの重要性を学んだりする。異質さは異質さとしてドンと置いてドライに繊細に関わるという点でフロイトが外科医のたとえを用いたのは適切だと思う。私たちは「関係性」とかいうごまかし言葉を多用しがちだし「物語」が好きだったりする。わかりやすいのはいいけどそんな簡単じゃないから困ってきたわけで今ここでそれを再演しているわけでしょう、と考えると私はそういう方向の分析家ではないな。組み立てていくのではなくて降ってくるものをドライに繊細に捉えられたらいいのに。低頻度の面接であってもそこでは要素の断片化と統合が繰り返されている感じがするけど何かと何かがつながっていく感じは低頻度の面接のほうが持ちやすいと思う。一人の時間の方が長ければ自然とそうなるだろう。高頻度になると常に他者(=分析状況)が情動的な撹乱を起こしてくるから自分でつなげる作業はできない。いつのまにかという変化ばかりで情緒的な撹乱はお互いにとって危機になるがそれが生じないと変化は起きないとみる。実際そうだろう。精神分析は頻度だけではなくカウチ使用、自由連想という基本原則を伴い、内容を取りこぼしつつ抱える設定になっているし、そこでの意識の質は他の治療法とはだいぶ異なると思う。そこで無意識とかいっている。

沖縄トロピカルフルーツティーを飲んでいる。いただきもの。暑いけど美味しい。冷たい麦茶が減らない時期になってきた。今日も外は暑いのだろう。少しずつ少しずつ秋めいてきたけれど。良い音楽、良い読書、良い出会い。地球に優しく過ごしたいものです。