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精神分析

衝撃とか狂気とか。

果物がいっぱい。とても嬉しい。桃とキウイを冷蔵庫から出した。桃はしっかり。皮もしっかり。と思ったら一部が黒っぽくなっていた。中も薄い茶色に。こんなしっかりに見えてデリケート。ちょっと雑に運ばれてきたな、と思ったのはこういうとこに結果として現れる。味はとても美味しかった。キウイも断面がとてもきれいで瑞々しくてとても美味しかった。美味しいってこれまでの人生で最も使っている言葉だったりしないだろうか。しないか。

昨日、西加奈子の『わたしに会いたい』(集英社)のことを書いた。移住先のカナダで乳がんの手術をうけ治療の日々を書いた『くもをさがす』と同じ時期の短編だっただろうか。文芸誌に掲載されたものを集めたものだと思う。『わたしに会いたい』の中でも乳がんの話があった。胸、髪、それまで当たり前に自分の一部だったものを失うことは西加奈子自身の体験でもある。他の短編も女が受ける様々な行為が書かれていた。一見衝撃的だがどれも身近で、あるいは実際に体験したことがあるものばかりだった。私は日々こういう話を様々な雰囲気の中で様々な話され方の中で聞いているのになんでこんなに衝撃的なんだろう、というよりこんなことが実際に起きていること自体が衝撃で、でもこれは実際に他人事ではなくて、なのにこれらをまるで遠くの世界のように感じながら衝撃とかいっていることが衝撃的なのかもしれない。乳がんはまだ経験していないが患者さんたちの体験は聞いてきた。膣、子宮、こころ、見えないところにも容赦なく侵入してくるものたちに対する反応も様々だ。それでもこの話たちが希望をもたらすのはどの話にも観察して描写してくれる人が必ずいること。小説には他者がいないということがない。臨床では他者を不在にするこころの実際を思い知らされることがあるのだが、それは絶対に記述できない。だから小説に希望を感じる。そこには人がいてこころがある、なんだかんだいって。それは希望だ。特にこの本は一人称と二人称に貫かれているのが印象的だった。社会に殺されることなく生き残る基盤をどこに見出すかは自由だが精神分析は一人称と二人称、しかも一人の人間の中のそれらに貫かれた技法であることを私は強く意識しているのでこの本のその部分に注意が向いた。精神分析は社会の狂気ではなく自分の狂気と欲望を扱う。そういう技法が今は全く流行らないこともこの社会にいれば当たり前とわかるが女であることのどうしようもなさを生きるにも自分が誰であるかを知ることは助けになる。私がかなりの危機とともに体験してきた狂気が私を生かし患者とこころ合わせる術となっているという実感も今の時代は共有されにくいだろう。それも自分なのに、自分であるかもしれないのに、という恐れとともに生きるのはとても不安なことだから。

だいぶ爽やかになってきたとはいえ汗ばむ。今日もがんばりましょう。