シャインマスカットおいしい。小鳥くる、、、黄緑に輝く大粒シャインマスカットを俳句にしようかと思ったが無理だった。「小鳥くる」は大好きな季語。ちょうど外で鳥たちがジュワジュワ鳴き出したから合わせられないかなと思ったけど難しい。朝の鳥は集団で飛ぶ時間があるらしい。夕方もあるだろうけど朝はちょっと違う感じがする。朝はバラけて夕は集まるからかな。そういえば昨日公園の木々の中を歩いていたらアブラゼミがまだシャーシャー言っていた。今年は夏の終わりがわからなかったもんね。なんだかかわいそうに、と思った。でもきっとアブラゼミには関係のないことね。メカみたいな身体をしっかり使って力尽きていく。気候変動で寿命が変わったり土の中での生活が変わったりしたとしてもやることは同じ、みたいな雰囲気だものね。人間界は困ったものでね、と蝉に語りかけたくなる。私は仕事できても最長30年だと思う。早く訓練分析家になって後進を育てないといけないと思う。だってこの日本の政治状況をどうにもできない中で生き残り変えていくには考える人を育てるしかないわけでしょう。ただただ普通に生きている人を邪魔しないために、邪魔されないために考えながら動く人が必要。それは知識人になることでは全くない。それぞれが他人の言葉に反射的に反応する前に自分の言葉を育てていくこと。それが誰かから見てどんなつたなくても自分の言葉にならない声も含めて徹底的に大切にしてみることが必要だと思う。精神分析は知らない相手と関係を作っていく自分を体験する中で自分が最も知らない相手であることに気づく方法。もちろん被分析者も分析かも同じようにそういう体験をするわけだけど分析家の方は一度はそれを通過しているので邪魔しないでいられる。週4以上、カウチでの自由連想という強力な設定でしか抱えられない言葉と情緒があることを私は知っているからその特異性を生かして自分の言葉を育てる作業をしてくれる人が増えたらいいなと思っている。本の読み方とかも変わる、自分の言葉と関わると。いかに自分が偏見に満ちた思い込みで生きているかを知るという体験は非常に嫌なものだけどそのまま生きていくのは結構無理をしないとで、突っ走る知力と体力があるうちはいいけど立ち止まる胆力の方が物事を見る力はつくし、多様な豊かさにつながっていると思う。
福尾匠の『非美学ージル・ドゥルーズの言葉と物』を読んでいる。出てからすぐに買ったけど読んでいなかった。博士論文の改稿版とのこと。ドゥルーズ、ベルクソン、フーコーのほかに平倉圭、千葉雅也、東浩紀の議論が俎上に上げられる。哲学は言語実践である、と書いていたと思うけどいろんな概念を固定させず動きを持たせるような書き方でわからないなりにワクワクする。いずれ時間をかけて読もう。今は余裕がないけど、色々やることやっている間に今よりマシな読者になれるかもしれない。がんばっていきまっしょい。