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精神分析

勉強とかやってみるとか。

昨日は帰ってくるまではそんなに寒くなかった。もう寝ようかな、というくらいにとても寒くなってきた。雨の音も強くなっていた。少し勉強しておかないと、と机の前に座ったが眠くなるばかり。いつのまにか突っ伏して寝ていた。いけない、と思ってまた寝た。再び起きたら結構な時間。寒いのがいけないんだとベッドへ。起きたら洗濯物ができあがっていた。朝はそんなに寒く感じないのが不思議。バタバタ動くからかしら。旅に出ると早朝散歩に出るけど朝だと寒くても大丈夫。最近は冬は南に行くから楽なだけかもしれない。

昨日、勉強しようと思っていたのは、またラットマン(鼠男)とウルフマン(狼男)の関連。せっかく精読しているので深めておきたい。特に、フロイトにおける強迫神経症の病理を攻撃性、つまり肛門性愛の観点から辿ること。ラットマンではもっぱら能動的に記述された肛門性愛はウルフマンでは受動的なものになる。フロイトは肛門に器官として受動的な役割を与えているけど排泄やそれと混同される出産は必ずしもそうでもないだろう。なのでこれはきっと肛門性愛以外でも説明ができるのだが、たとえば「眼差し」という線で考えていっても結局他者の身体を必要とすることは変わらないので別の身体図式で考えることもできるが肛門でもいい、というかむしろわかりやすいし、臨床経験がそうであるならその線で考えるのが妥当だろう。そもそもサディズムとマゾヒズムがたやすく反転するように能動と受動の区別は曖昧だ、などなど。クラインのいう攻撃性もそのあとに確認する。

カウチでの自由連想という特殊な設定を体験する人は少ないが、そこで語られることの豊穣さには目を見張るものがある。それは意味内容の話ではなくて言葉を発すること自体のインパクトから生じる心の動きの複雑さだ。お金も時間もかかるが、いつ死ぬかわからないならなおさら自分に投資することで他者に貢献するという選択も悪くない、と自分の体験から思う。もちろん優先順位は自分にしか決められない。私は10年前の自分のまま生きていくこともできただろうが、今を知っているとあのまま生きていくのはキツかったな、と思う。精神分析家になりたい、とコンサルテーションに訪れる方はいるけど、資格にこだわって結局精神分析から遠ざかる人も見てきているし、精神分析は心理学でも医学でもないので自分の専門性は放っておいて自分の限られた人生のためにまずは投資してみればいいのに、と思ったりする。何度も書くけどお金と時間はかかってしまう。しかし投資というのは目に見えないものにしていることが多いし、精神分析家になりたいならその道は通るしかないけど、その欲望が行動を邪魔するならそれはとりあえずおいておいて自分が何をしたいのか考える場として使うほうが役立つかもしれない。「受けたい分析家がいない」というのも聞くけど「この人がいいよー」という類のものではないし、今の自分と遠いところに行きたいなら、自分で選択したら何かいいことがあるという錯覚こそ遠回りになると思う。どっちにしても一度関係が始まれば幻滅は常に生じるし、こっちじゃなくてあっち、というのはそういうときこそ思うわけだけどその事態をどう超えていくかだろう。我慢する、とかではなく。私が思うに、自分が相手を知っている、ということはないし、自分が自分を知っている、ということもない。どれだけ異質なものに出会っていけるかが臨床の仕事でもあるので、それを生業としている私にはそういうこだわりはなかった。組織には疑いを向けていたから組織に入っていない人に、と通ったこともあったけど結局その体験を通じてIPAという組織に入ったわけだし。何が起きるかなんて誰と会ったとしても何かは起きるし専門家という枠を信頼できるかどうかでしかない。そこから導かれる自分の無意識自体は変わらないと思う。そう思えるのも随分経ってからになるから全然信じられないと思うし、意識の領域であれこれやっているうちは大変だろうけど。信頼性の薄い世界だね。でも今周りに信頼できる世界なんてあるかしら、とも思う。自分が自分を生きるためにはこれこれこうして、というのはなくて、どれもこれもやってみないことには、という話か。今日もがんばりましょ。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生