もう明るい。南の空に月を探したけど見えなかった。空にオレンジが広がる位置がずいぶん変わった。風はない。もうすぐ梅雨か、と思うのは髪のうねりから。
青葉食み次の青葉へ麒麟の子 潮見悠
ご自身の結社、主宰への挨拶句だろうか。麒麟主宰、西村麒麟さんは今年第三句集『鷗』で第75回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞されるなどこれからの俳句界を担う存在、なのだと思う。俳人に対してどのような表現が適切なのかよくわからない。こんな普通の表現でいいのか?俳句界の未来を担うとは?と中途半端に俳句の世界に足を踏み入れているせいか言葉が気になってしまう。塩見さんは麒麟さんからの信頼も厚く、まさにこれからも、の人だった。麒麟の子、まだ高いところの青葉に届かなそう。だからこの「次の青葉」は別の木の青葉なのだと思う。親麒麟のそばでのんびり横にずれてはむはむする柔らかい口はなにも喋らなくても何か良いものをくれる。
きりんの子かゞやく草を喰む五月 杉山久子
という句もある。リズムもいい。輝く草をはむはむするきりんの子もいつもより黄金さを増していそう。成長って眩しい。
保育園の子たちも小学生、中学生、高校生、大学生もみんなまだまだこれからの子供たち。急がず自分の可能性を広げていってほしい。実際、彼らと会っているとそのポテンシャルはものすごくて大人の「そんなことしてたらなになにになっちゃうよ」的な予言はほぼ当たらないのである。彼ら自身もそれを知っている。知っているのだけど、そういう予言は大人に言われなくても超自我的な不安としてすでに内在化しているからまた複雑で色々難しくなっちゃったりはする。自分に対して「あいだ」を「余白」を残しておくことだよ。いずれ死ぬということ以外、誰にもわからないことだらけなんだから、未来なんて。
さあ、今日も一日がんばりましょ。