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お菓子 俳句

眠い、あたたかい、ありがたい。

毎日毎日あったかいお布団で寝ないとダメだよ身体痛くなる、とおよげたいやきくんの替え歌として歌う、脳内で。ウトウトして起きるたびに腕が痺れてるからまた麻痺になったらまずいなと思うのだけど寒くなるなりよりだめになる。

薄目あけ人嫌ひなり炬燵猫 松本たかし

ああ、炬燵でひとりぬくぬくしたい、が我が家に炬燵はない。なくてよかった。仕事に行けない。

そういえばオンラインでやってる小さな句会で俳句を打ちこんでいる間に寝落ちして一句しか投句しなかったうえに選句するのを忘れるという失態をまたさらしてしまった。毎日毎日なにかの理由で謝る事態が発生している。全て自分が発生源。ごめんなさい。でもみなさんいつも通り優しくてあたたかくて素敵な選評までいただいてとてもハッピーでした。人に恵まれてるのにいつまでもだめなオレはどうしたらよかんべ。今月も俳句の雑誌に句友たちの句がいっぱいのってるんだ。発売されたら買いに行かねば!選評も面白いの。そんな観点があるのか!と目を見開いてばかり。手動かさんとね、わたしも。

今朝はアーモンドとチョコのマフィン。あったかい。美味しい。あっついコーヒーとね。昨年からカフェインとりすぎたみたいで調子悪くしたから気をつけながらね。日々、気をつけねば、ということが多すぎるからこの優先順位は低そうだけど。しかし持つべきは友。ありがたいことだ。ありがとうございます。今日もよろしく。みんなも元気で。

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俳句 音楽

日曜日

いいお天気。南側の大きな掃き出し窓からも西側のわりと大きな窓のブラインドの向こうもオレンジ。きれいな空。東京は晴れかな。今日はゆっくり。NHK俳句を見た。忘れていた書き物を一気に仕上げて大きな机を覆っていた本を一度全部本棚にしまった。今はまた別の書き物のための本が出ている。今日のNHK俳句は南風主催の村上鞆彦さん。熱い紅茶とアルフォートを食べながら見ていた。なんかしょっちゅうアルフォートもらっている気がする。昨日は雪見だいふくのCMを見てコンビニに雪見だいふくの「白い恋人」バージョン買いに行っちゃた。別の新作デザートも買っちゃったからアイスはまだ。絶対普通の白いのが一番美味しいと思うのだけど「白い恋人」も大好きだからつい。オフィスのそばのコンビニで見つけて気になっていたの。あ、また甘いものの話になってしまった。村上鞆彦さんはとっても素敵。南風のみなさんの句も村上鞆彦さんの佇まいとか話し方とかもとても好き。とか言ってるけど今月は自分の結社の句誌に出す俳句も気づいたら締切を過ぎていた。今気づいたよ。ああ。とりあえず出すのが目標だったのに。全然余裕がないな。あ、NHK俳句のゲストは山崎ナオコーラさんだったのだけど子育て俳句よかった!「母の友」で本紹介(だったかな)もされていたはず。今日は都会にも出るから本屋さんへ行ってみよう。オフィスのある初台は新宿から歩いて15分くらいなわりに都会ではないからね。コンビニの数と高速道路の近さは都会だけどね。

洗濯物を外に干してきた。晴れるみたい。そんなに気温も低過ぎないみたい。低過ぎないというのは服装でどうにかなる気温ということ。

ああ、今日も切羽詰まってるのに日曜日というだけでなんだか気持ちがのんびりしている。チョコ食べたのに朝ごはん食べに行きたいとかなってる。別にいつも行かないじゃん、日曜だからって。そうね。せいぜい電源のあるカフェに朝からこもってるとかだよね。逃避せざるをえない状況ってことだよ。ならこんなこと書いてないで早くやりなよ。えーん。わかってるよー。でもあそこのパン屋さんの美味しいスープが思い浮かんじゃったんだよー。行きたいー。でもだめ。あそこは日曜日は多分遠くからくる人も多いから混んでる。ああ。どうしてあんな小さな駅までわざわざみなさん・・・。うーん。とりあえずやるか。紅茶冷めちゃった。

BGMはずっとコーシャス・クレイ。来日中。昨日すでにライブがあったのかな。お、今日明日か。なんだこれ、「60秒でわかるコーシャス・クレイ」だって。後で見てみよう。アルバムに参加していたジュリアン・ラージはこの前来たばかりだから別の人がギターするんだよね。ジュリアン・ラージとのはこれ。とてもとても素敵。

もうさっきから頭の隅っこの方で怖い自分が「早くやれよ」とうるさい。はいはい。やりますやります。返事は一回。はい。大人だからうざいとか言わない。大体私が子供の時にうざいなんて言葉なかった。

さ、がんばりましょう。

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俳句 精神分析、本

句友、一生(という時間)

暗い時間に呟きをコピペして長文にして呟きの方を消した。ここではただ指任せで書いている。空の明るさだけで起きてしまうとまだ早すぎる。トモコスガさんが「オランダの夜10時過ぎが明るすぎ」と写真を載せていた。さっきまでの東京の空と似たような色。でもないか。こっちはなんか黄色がかってる気がする。

週末、句会でたくさんの人と会って楽しかった。みんなは3年ぶりといっていたけど私は句会自体にほとんど出られていないのでもっとぶりかもしれない。新井素子さんがいらした句会ぶり。あの日と同じ服を着ていたことに会場で気づいた。同じ季節だったのだろう。コロナのおかげでと書くのは間違いかもしれないがコロナ禍ゆえに声だけの交流が始まった句友もオンラインのみで交流していた句友もいて「ここでははじめまして」と笑い合った。会えると思っていなかった遠くに住む句友も前日の激しい雨にも負けず現地入りしていてとても嬉しかった。夏の着物でいらした方たちの生地や帯にも見入ってしまった。とても素敵だった。私も自分でちゃっちゃと着付けできれば仕事あと急いで行かねばであっても着物に着替えて行きたいけどそんな日がくるとは思えない。

昨日は同じメンバーで2年目を迎えたスモールグループでの事例検討会でこちらも毎回のことだがとても勉強になった。一応私は指導する側だけど指導というよりファシリテーター役。役割としても学びが大きい。初回面接を検討する月一2時間半の会だが今回も妙木浩之先生の『初回面接入門』(岩崎学術出版社)にすでに書かれていることを実感して笑い合った。笑えるのは何回も読んだはずなのに何もわかっていなかったということに気づくからだ。臨床的な実感は本の中にあるようでない、でもある、ということなのだろう。

そんな日がくるとは思えない、というので思い出した。昨晩スーパーに寄ると私の前に店を出た人が1リットルパックのぶどうジュースとストローを持っているのが見えた。私が一生やらないであろうことをこの人はこれからするのだなあと思った。あの手持ちの雰囲気からしてこのあとおうちで紙パックからストローで直接飲むんでしょ。150mlくらいだったら私もグラスで飲む機会もあるかもしれないがぶどうジュース1リットル、紙パックからストローで、はないなぁ。多分、きっと一生ないな、と思った。誰かはしていても私は一生しないであろうことなんて数えきれない。することよりもしないことの方が多いに決まってる。なのに「一生ないな」と思う対象がこれかよ、という感じもあるが日常の発見というのはそういうものでしょ?いちいち正確に本を読むことからはじめなくても(そんな読書家なのにそれ、みたいなのもあるから)豊かな日常はそこかしこにある。臨床も同じ。

さっきから激しく鳴いている君は誰なのだ?ヨシキリ?昨日はムクドリが二羽茂みにいた。この時期のムクドリはやたら茂みにいるのだけど低いところのほうが美味しいものが多いのかしら。そこにウグイスみたいな鳥もやってきたんだけどホーホケキョって鳴かなかった。あなたはどなた?なめらかな羽に見えた。

友達が主に怒りに共感するメールをくれた。女の辛さを共有できる女友達がいるのはありがたい。彼女とも会いたい。幸いなことに私はコロナで失った人はいなかった。途轍もない苦しみは知ったし人はいつ死ぬかわからないという実感は強くしたけど。今日もいろんな人と会い、話す。主に聞くほうだけど。試行錯誤を続けよう。なんとか持ち堪えよう。「もちこたえる」か。昨晩の大河は悲しかった。おっと、ネットで拾えた歴史の資料を読んでしまった。こういうところが慌てて失敗する原因を作ってるって流石にこの歳になればわかってる。でも治らないな。どうにかなると思ってるからだろうな。ダメね。そんなこんなであっという間に時間が経ってしまう。いや、辛く苦しいときは時間なんてあっという間に経ってほしいかもしれない。そうなるとそれは無理なんだ。辛いね。でもなんとかやろう。そうはしたくない、そうはなりたくない、という気持ちに素直にやっていけたらいいように思う。

今朝のお菓子は以前働いていた神奈川県大和市のおみやげでした!

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仕事 俳句

ミーティング、「ブラック・サバス」、俳句

雨の音がしなくなった。耳をすます。やっぱりしない。あ、するかな。鳥がさっきピチューピチューピチューって高い声で鳴いてたけどみんなも早起き。

昨日はとても重要なミーティングがあった。ここまでくるのに一年かかった。が、まだ続く。代表者のひとりとして動いていることは最後まで丁寧に。女3人でやってるけど結構楽しい。住んでいる地域もバラバラだからリアルで会ったこともなく小さな子供たちを抱えながらのミーティングも毎回さくさくせざるをえない。でもこの仕事だからお互いのことを手早く知ることに慣れているのかもしれない。この一年でお互いに色々あったこともなんとなく知りつつなんとなく近況報告しつつ。もちろん親密になるというのとはまた別だし「運動」の先頭に共に立つというのは緊張感も伴うものだけど違いを丁寧に補い合うこと自体楽しい。考えや見方が違うからこそ共にやる意味がある。そうか、私たちは「違う」ということに慣れているのがいいのかもしれないな。この仕事は「いろんな人がいる」と実感しつづける仕事だから。障害や病気を持つ人たちと長く関わってきているから何か考えるときにその人たちの生活が常に頭にある。違和感のあるものと共に生きざるを得ない人たちの話をたくさん聞いているとこっちも「なんでそこそんな簡単に根拠なく進めちゃうわけ」みたいなことに敏感になる。臨床は患者さんやクライエントと協力してやるものだから。「ケア」という言葉は当てはまらないように感じるな。お互いにハードだよね、思いもかけないことがたくさん起きるから。本当はそんなことは日々起きてるんだけど人間の処理能力ってすごいから大体のことはパターンに組み込めて違和感少なくできてしまう。密になるとそこが崩れる。だからハード。でもそこに転機も面白さもあるんだと思う。私は今回東京に住みいろんな意味で恵まれている立場だからこそやっておいた方がいいだろうと彼らと協力体制を組んだけどすごく勉強にもなっている。かなりの程度「普通」に生活できている人がやっておいた方がいいだろうということはたくさんあるし育てる仕事をしている責任もあるからいってることとやってることの差異を少なくしていきたい。

その大事なミーティングの前に大急ぎで俳句を作り速達で投函した。ネット句会の締切にも間に合った。いつもギリギリだけど俳句はいい、短くて。15日締切の分も作らねば。明日か。

さっきニュースで見たんだけどイギリスでヘビメタバレエ「ブラック・サバス」の公演があるんだって。オジー・オズボーンもOKしたと。見たい。日本でもやってくれないかな。私の青春時代を支えてくれたミュージシャンたちはもうかなりの歳だ。私だって残された時間の方を意識するわけだ。

今日は私がマネージしている臨床家のみなさんとのグループ。グループでの作業はそれまでの自分の見え方や感じ方を揺さぶるけれど正解があるわけでもないからせめて自分がいってることやってることの確認をしておきたいね、常に戻れるポイントを作っておくことは責任ある作業には必須だと思うし。私も勉強しよう。そして鳥や花もみにいこう。新宿中央公園とか明治神宮がお散歩範囲のオフィスでよかった。昨日私の写真を見て「似てる!」と送ってくれた動画に「私のは明治神宮」と返したらそこも明治神宮だった。似てるどころか同じではないか!とびっくりした。森で見上げる空の形はすごい。森が作る空の形というのかな。明治神宮はお花はあまりないけど蛇イチゴの小さな実がなっててかわいい。それも昨日俳句にした。

はあ、昨日はまたもや句友たちが賞をとったり嬉しいニュースもあったしよかったなあ。がんばっている人たちがきちんと評価されるってそのがんばりを知っている周りの人にも幸せをもたらすね。本人がすっごく喜んでるのも楽しい気持ちになるし。昨晩はたくさんの「おめでとう」「嬉しい」が流れてきた。もちろん私も送った。前に小さな句会を長く維持していくには駄句を出す人も必要なのではという話になった。私は駄句出し係みたいな感じだけど存在意義は十分感じる。評価にこだわるほど真剣にコミットしていないことはよくないのかもしれないけれどいろんな人が同じことしてるのって面白い。いろんな句に触れているとたまにいい句もできちゃうしね。なんでもやり続けてみるもんだ、変な無理をしない範囲で。無理自体はどうしても生じてしまうのだけどそれが過剰じゃないことが大事だよね。

ということで今日も無理なく良い一日をお過ごしください。

明治神宮
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俳句 写真 散歩

花々

行き慣れた家をピンポンした。門からお庭をのぞいたら見慣れないきれいな花がスラッと長く立つ枝に散らされたように咲いていた。人が出てきた。飯能で見つけた「食べる甘酒」を渡しながらこのお花って前からあったかという話をする。おとうさんといっしょに買った苗で昨年は花が咲かなかったという。だから気づかなかったのか。しかもどうだんつつじだという。え、私が知っているどうだんつつじはいつもの散歩道で見る茂みのようなものなのにこんなにすっと背高く咲くものなのか。きれいなピンク。お庭はほかにもこの時期のお花が美しく咲いていた。あやめ?ジャーマンアイリスって言うんだって。ドイツのあやめか。よくわからないのだけどこっちにも似たようなのが咲いていたのよ。へえ、あっちのは?などおしゃべりをして別れた。「おとうさん」は昨年一月に亡くなった。元気そうでよかった。

「どうだんつつじ」と打ったら「灯台躑躅」と出た。打ち間違えたともう一度打ったら自動変換の候補に「満点星」ともでた。あれ?なんで?また打ち直したらまた同じのがでた。これ、どちらも「どうだんつつじ」と読むそうだ。「満点星」でそう読ませるのはなかなか難易度高いが散らされたように咲く花が空に散らばる星々に似ているということだろうか。wikipediaには

「「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。満天星の表記は本種の中国語名の表記をそのまま引用し和名のドウダンツツジの読みを充てたもの。」

と書いてあった。そうなのか。お花をラテン語の学名で見ることは多いが中国語名を意識してみるのも面白いかもしれない。深夜、少しだけ片付いた床でむくみのひどい足を伸ばしながら『花のことば辞典』(講談社学術文庫)を見ていた。また片付け途中でみつけてしまった。古田徹也さんがどの本か忘れてしまったが言葉の本のどれかを出されたときに選書リストにあげていた本だ。文庫サイズの辞典はありがたい。その頃は毎日意識しなくても感じられる風や雲の方に注意が向いていてこちらも古田さんの選書で知った『風と雲のことば辞典』をパラパラすることはあったが花の辞典の方はあまり見ていなかった。パラパラ。俳句だ。

「花は夏・秋・冬にも咲くが、ただ「花」といえば、桜に敬意を著して春の季語である。」

下の4句が並べられていた。

花の雲金は上野か浅草か 芭蕉

草越しに江戸も見えけり花の山 一茶

花更けて北斗の杓の俯伏せる 山口誓子

人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太

たしかに。見えてくるのは桜、ですよね。そう聞いたからそう見えるだけかな。北斗七星の三つ星を杓に見立てるとは知らなかった。「暦生活」のサイトにわかりやすく書いてあった。

「アイリス」が「あ行」の最初のページに載っている。「アヤメ科アヤメ属の栽培多年草」と。うちの花壇にも植えてみようかな。紫のお花は梅雨に向けての構えをしっとりと作ってくれる。すぐに咲かなくても次の年に咲くかもしれない。

携帯電話には花の写真がたくさん。あっという間に日が過ぎるのでこういうサイトに使おうかと思った頃にはもうその花は枯れ落ちていたりする。季節はめぐる。外は雨の音。さっき南側の大きな窓からのぞいたときは降っているように見えなかったのに。今日は一日雨みたい。写真を撮る余裕はなくてもたくさんの木や花に出会うでしょう。辛いことも悲しいこともたくさんだけど紛らわしながらなんとか過ごしましょうか。どうぞご無事で。ご無理なく。

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俳句 精神分析

晩春、「ねば」、津山

今朝は昨日に引き続き「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」白餡のほう。包み紙にキラキラの文字で書いてある和歌は同じものでした。昨日はキラキラしてて読みにくかったけど一度読めてしまうと二度目はすんなり。なんでも触れてみるものですね。

ぼんやりしているうちに春も終わってしまいそう。春以前からもう何ヶ月もこんな感じでどうしましょう。すでに晩春ですよ。GW明け5月6日は立夏。立春、雨水、啓蟄、春分、晴明、穀雨、で立夏。

3月を切り抜けたのも嘘みたいだったけど4月はどうなるのかな。あと少ししかない。昨晩もメールの山に埋もれさせたまま忘れてて慌てて提出した書類があったしもうダメかも。こんなことばかり。でもこんなでもやるしかないですね。今月も家賃が払えることに感謝。精神分析がラカン理論のように形骸化してしまわないように実践を続ける場所を維持せねば。候補生の会のニュースレターも作らねば。大抵のことは「ねば」ではないのだけどこれらは「ねば」。

「これはマスト」という表現っていつ頃から使われ始めたの?学生時代は聞いたことなかった気がする。この20年くらい?でもこういう外国語からきたカタカナ用語って意外とすごく昔からあったりするんだよね。明治の文学とか読んでるとしょっちゅう出てくるし。正岡子規の幼名は升(のぼる)なんだけど帝大哲学科に入学する年の三月、同級生に宛てた手紙の署名が「野球」。なんて読ませたかわかりますか?もちろん「ノ・ボール」です。子規の野球愛。俳人の言葉遊び。にしても「ノ・ボール」ってどうなのさ、って突っ込んだかしら手紙をもらった大谷藤次郎(是空)は。是空は美作国西北條郡西苫田村大字山北、今の岡山県津山市の生まれ。津山には小さい頃から何度か行ったことがある。川でお魚とったりお城へ行ったり。何か買ってあげると言われても当時からあまりほしいものもなく赤べこを買ってもらった。赤べこといえば福島だと知ったのは大人になってからだけどいまだに私は赤べこをみると津山に思いがいく。かわいいよね、赤べこ。多分はじめて自分で選んで買った漫画は「キャプテン翼」だけどこれも津山の商店街の本屋さんに子供だけで行ったときに買った。当時「からだのしくみ」の図鑑にもはまっていたな、そういえば。と仕事が積まれていようと、回復できない気持ちを抱えていようと自由連想しながら生きている木曜日の朝です。

みなさんはどうでしょう。東京はいいお天気で暑くなるみたい。梅雨がくる前に傘をささないでお散歩できる時間を楽しみたいな。「ねば」だけはこなしながらなんとかやりましょうかね。どうぞご無事でできたら元気でいらしてくださいね。

ひたむきな薔薇というか下向きに咲く薔薇を下から撮った。

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俳句

石川啄木って

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

石川啄木

ひとしごとして石川啄木のことを書いていたら寝てしまった。寝よう。

起きた。コーヒー&羊羹。昨日は八つ橋をいただいたのでそっちにしようかと思ったけど可愛いオレンジ色っぽい羊羹にした。羊羹って自分では買わないけどいろんな羊羹があるんだね。美味しい。

句会で毎回お題を出すのだけどこの前私が出すことになってなんとなく「啄木忌」にしたの。学生の頃、友達の函館のご実家に遊びに行ったときに友人の父親がドライブに連れて行ってくれてその時に立待岬にある啄木のお墓を教えてくれた。函館を満喫した旅だった。イカもさばいたし。イカ釣り船はすごく酔うからやめときなと言われてやめた。多分そのときのことがどこかで心に残っていたんだと思う。でも実際俳句を作ろうとしたら私啄木のことそれ以外何も知らないのでは、と気づき色々調べてみたわけです。そしてあーこの人は結構ダメな人だなあと思ってしまった。色々あったのはわかる。でも全ての人に色々はある。なぜこうなっちゃうの、ということが多すぎないか、啄木。そして父。女たちのことは彼らの行動を受けてどう行動したかという描写の方が多いのでよくわからないが、啄木に関してはもうちょっと考えて行動しようよ、というエピソードにあんぐりした。樋口一葉と同じで20代で亡くなっていることを思うと若さのせいもあるだろうし才能があり過ぎたからからというのもあるかもしれない。そうかもしれないが、若くても若くなくても才能があってもなくてもそれはそうなるという予測は大抵の人はつくからやらないんだと思うよ、ということをやり過ぎているように思うよ、啄木。でも友達や周りの人に恵まれたみたい。若山牧水が啄木の臨終間際の様子を書いている文章を読んで泣いてしまった。金田一京助もその間際までそばにいたのだものね。看取ってくれる人がいるのはせめてよかったと思うけどそこには父もいたんだよね。そして妻(啄木の母)をなくしたばかりなのに子まで失うとは、という和歌を読んだという。これも若山牧水の文章に書いてあったのかな。調べたばかりなのにどこに何が書いてあったか忘れてしまったけどそういうエピソードを学びました。

だから俳句の歳時記とかで「啄木忌」の例句はこういう感じなんだなあと納得した。

便所より青空見えて啄木忌 寺山修司

うつうつと夜汽車にありぬ啄木忌 藤田湘子

など。

啄木忌は4月13日。その日は盛岡にある啄木記念館は無料だそうです。盛岡を旅したときに行けばよかった。盛岡駅からバスで15分って書いてあったかな。その前に俳句を作りながら啄木をしのぶことにします。

今日は水曜日。なんとなく疲れを自覚しはじめる曜日ですね。みなさんもどうぞご無事で。ご安全に。

写真はこの本より引用。

『情報の歴史21–象形文字から仮想現実まで』

監修:松岡正剛監修

編著:編集工学研究所&イシス編集学校

発行者:編集工学研究所

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 俳句

俺俺倫理に抵抗す

鳥が鳴いてる。句友が増えていく。年齢も職業も知らないで俳句を巡ってやりとりしているだけの人も多いがむしろその言葉選びにその人らしさはでているようにも思う。句会はクローズドだけど俳句は誰にでもできるし私がいる句会はどれもとてもオープン。楽しいし勉強になる。

noteで「あれはなんだったんだろう」解明のため俺が倫理みたいな人を取り巻く家族やそこそこ歳をとった永遠少女や飼い犬のことをネタとして書きつけるときはとても嫌な気持ちになる。気持ち悪いパターンが一切変わらないから。一方で言葉豊かな句友たちと話しているといろんなことに気づく。普段使いの言葉で身も蓋もなく景色を描写する。読み方も自由なので自分では気づけなかったであろうことにもたくさん気づく。こんな豊かさを背景に搾取と依存によって退行を維持する人たちのことを考え続ける。考えるのが嫌でというかそのキャパが少なすぎて不快なものはすぐに外に押し付けてしまうのだろうから大人がやるべきことをやりましょう、という感じ。西村賢太みたいに書きたいけど全く無理なので逆に身も蓋もないことを書いて俺俺倫理に身の回りの人が騙されないように注意しないと。しないとってこともないけどこれからを生きる世代がせめて人の身体を弄ぶようなことをしないように、そうされないように、とかすごく最低限のことを考えてしまう。そういうことが普通に起きているから。どんなに知識が豊富で口がうまくても言葉がパターン的で深みがなくなんか自分のことばかりと感じる人と関係が近くなったとき、違和感さえ否認しなければ悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。いろんな要因で自分で自分を騙すことをする私たちだから事態は変わりにくいけどまずは知ることで抵抗、対抗。退行するなら専門家のいる安全な場所で。何がなくともやっていきましょう。今日もどうぞご無事で。

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俳句 言葉

滑らかに。

領収書全部やっつけたぞ、と思ったけどamazonで買った本が未入力だった。あーあ。どこかでわかっていたはずだぞ。あーあ。私の支出はとてもわかりやすく家賃、書籍、訓練費、その他という感じ。ほかにほしいものも必要なものもないから問題ないけど。あ、甘いものにお金使いすぎなのは問題かも。オフィスのある西新宿は新宿の雑踏は越えるけど歩けばコンビニ、セブン、ファミマ、ローソン全部にあたる。ミニストップも遠くない。こんな環境で我慢とか無理、とか環境のせいにしたくもなるけど変わらない自分なりに少し工夫をしましょうね、と思うのですけどね。春は、夏は、秋は、冬は、と全部の季節を言い訳にできちゃうからなあ。加齢が最も現実的なストッパーかも。

今日は3月14日火曜日。日めくりは「花種を蒔きて呪文を掛けておく 太田土男」つちおさんって読むのかしら。お名前とピッタリの一句。花種は春に蒔く種のことで夏か秋に咲く花の種ですって。どんな呪文を掛けましょうか。すごく先のことより少し先の季節に向けて欲張らずに。うーん。呪文というとなんか怖い花が咲きそうだけど種を蒔く人が掛ける呪文なんだから花に何かを託すわけだよね。何を託しましょうか。適当に呪文めいた何かを唱えながら種蒔きすること自体楽しそうでいいことありそうだからそれだけでもいいか。でも「無事に咲いて」と願うのだって小さくない願いかもしれない。だからどうかそれまで無事にいられますように、呪文が守ってくれますように、って考えるとどんなのがよいかしら。とかいっている間にきっと季節はどんどん先へ。どうにもならないこともたくさんあるけどとりあえずとりあえずでどうにかこうにか生きていけるように願う言葉をそのまま呪文に。大江健三郎さんが光さんと一緒にうちの大学にいらしたのはいつだったか。仙川あたりによくいるけれど見かけても声をかけないでください、と上品におっしゃっていたっけ。なんだかいろんな人が引き伸ばしてくれた時代が終わりに向かっているようでとても寂しいけれど亡くなったことではじめてその言葉を知る世代もあるでしょう。少しずつ少しずつ。断絶よりは滑らかに。

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俳句 短詩

高浜虚子、暮田真名、千野千佳

すごいな。世界が光で溢れてるじゃないか。とかいってまたぼんやりする。こんな時間になっちゃった。もうどこまでサボれるかチャレンジみたいになってるな。いつになったら少しはまともに動けるようになるんだろう。

3月、本当に大変なことになるぞー。でも今日はまだ2月、とかすぐに「ダイエットは明日から」的な言葉が出てくる。自分で自分の首をしめるということを人間は平気でするのですね。私だけかな。

これよりは恋や事業や水温む 

きょっしーの句です。高浜虚子ね。これは卒業する学生たちに向かって送ったんだって。ほんと、こんな気持ちになりたい。角川書店の『俳句歳時記 春』にも収録。私は同じく角川の『合本 俳句歳時記 第四版』Kindle版で知りました。

一を知つて二を知らぬなり卒業す 高浜虚子

これもほんとそうだねえ。虚子の句は俳句に興味がなくても楽しめる人が多いと思うな。いい句だと思いません?自分でも作れそうな。もちろん作れないのだけどそう思わせてくれる親しみやすさが虚子の句にはある。ふらんす堂の高濱虚子句集『遠山』は新装版が出てるから興味をもたれた方はチェックしてみてくださいね。私は暮田真名さんに教えてもらって買ったのだけどコンパクトなのがまず素晴らしいし、楽しい句集です。俳句の魅力はなんといってもその短さ!と私は思っている。短歌とか「長いなあ」と思ってしまう。暮田さんは川柳の人だけどいっぱい読んでるから俳句の話も楽しくできる。同じ575だしね。川柳は77もあって暮田さんの77は面白いよ。

余力があれば荒廃しよう 暮田真名

77。私は荒廃する余力もないというか荒廃ありきみたいになってるな。荒廃したら余力はないよ、これも77だけどそりゃそうだろうみたいなのは現代川柳ではないんだなあ。ちなみに暮田さんのは歌人の大橋なぎ咲さんとのユニットによるネットプリントの総集編『当たり』に収録。『遠山』と同じくコンパクト。紅白でかわいい本です。

私と川柳の偶然の出会いを作ってくれた千野千佳さんが先日、星野立子新人賞に輝きました☆

花筵たたまんと立つ二人かな 千野千佳

これ『角川俳句』3月号に収録された受賞作のうちからのたった10句の中のたった1句なんだけど「花筏」と誤植。「はないかだ」はたたまないでしょ。コピペすれば間違えないわけだけどもう1句、誤植があるのです。なんでかな。多分読めば「あれ?」ってわかるのでこれも興味のある方はみてくださるとよいかも。「大きさ」ではなく「大きな」が○です、とだけ書いておこう。早く訂正してほしいな。

今は梅が満開。あと1ヶ月もすれば桜。二人でたためるくらいの花筵でお花見もいいかもですね。私は大体歩き花見だけど。北沢川緑道とかきれいです。

千佳さんと暮田さんのユニット本を作りたいという夢があるのだけど余力どころか、という感じだからだれかー。素朴で新鮮。正直でユーモラス。虚子みたいなお二人です。

なんかカラスが怖い鳴き声をあげている。怖さにも色々あるよね、とまた暗い気分になりそうだから楽しい気持ちのまま切り上げよう。またここで会えたら会いましょう。

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俳句 読書

『スティーブ&ボニー』、3月11日、春の雨

寝不足。眠い。色々思い出したり考えたりしていると陰鬱な気分になってくる。さっき安東量子『スティーブ&ボニー』(晶文社)から引用したツイートをした。私はつながるための言葉を戦いの言葉に変換され言葉を交わすことに絶望したことがある。やっぱり、とどこかでわかっていたはずなのに希望を持ってしまったことにも重ねて絶望した。安東さんは絶望しながらも動き続ける。それをたやすく希望の証左とはいえないだろう。ただ福島で生きてきた人、福島を生きる人にとって絶望したからといって切り離すなんて何を?という感じではないだろうか。そんなことできないから絶望しながらでもこうやって生きてるんだよということではないのか。この本はアメリカで開かれた原子力に関する会議に招待された安東さんの孤軍奮闘日記でもあり様々な交流の物語でもある。そこでの講演内容を知れるのも貴重だし、それに対する聴衆の反応と安東さんの想いを知れるのはもっと貴重だ。あと1ヶ月でまた3月11日がやってくる。何度も何度も記憶を戻し、あれはなんだったんだろうと問い続ける。せめて誤解に基づく非難を回避する努力なら続けていけるのではないだろうか、こういう研究と現場を行き来する実践家の本を読むことで、と改めて思った。

空が明るくなってきた。今日の東京は「冷たい雨。今日との気温差に注意。」なの?昨晩、電車の液晶テレビ(っていうの?)でそんな予報を見た。まだ天気予報は変わっていないだろうか。「春の雨」という季語みたいに明るく暖かなイメージの雨ならいいけれどきっと違う。だって寒い。

ちとやすめ張子の虎も春の雨 夏目漱石

そうそう。今週も「ちとやすめ」と言い合いながら過ごしましょうか。リラックスするのはとても難しいことだけど力の抜けた柔らかな言葉をかけあうこと自体がそんな一瞬をくれると思うからまず言葉だけでもかな。どうぞ今日もご安全に。

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春眠

眠い。外あまり寒くない。こんな厚着してたら当たり前か。歩いたし。

キンコンキンコン何かが鳴ってる。ほんとの鳥も機械の鳥も鳴いてる。やっぱりこうしてると寒い。電車に乗った。あったかい。

静か。

電車で作業せねばなのにこんなことしてる。だめだねえ。期限あるからやるけど。

マスクしてると老眼鏡がくもる。

マスクするしないまで自由じゃなくなる日がくるとはねえ。介入すべきところってほかにいっぱいあるでしょう。

とってもおいしいまんまる金柑をもらったので3つ食べた。すごくおいしいけど2つにしておけばよかった。金柑は秋の季語なのね。春でもこんなおいしいのに。隣の家の金柑は今年は実がならなかった、気がする。見る時期を間違えたのかしら。いやいや意識しなくても気づくからそこに金柑の木があると知ったのだ。多分実を結ばなかった(なんか悲しい言葉)か少なかったかだろう。あんなキラキラしてたらわかるもんね。

死にたれば金柑の門くぐりゆく 岩田奎

そうなのか。死にたれば…

ああ眠い。生きるというか起きねば。みなさんは今日は?それぞれですね。こう書きながらウトウトしてしまう。どうぞお元気でお過ごしください。朝の光が眩しいです。

春眠をむさぼりて悔なかりけり 久保田万太郎

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こども、チョコ、小川軽舟

「○○ちゃん(むにゃむにゃ)アーンアーンしちゃったの」とさっき久しぶりに会ったばかりの2歳の子が手を繋いだ私を見上げながらいう。するともう一方の手を繋いでいた子が「アンパンマンが(むにゃむにゃ)」という。そうだった、この通りのおうちの塀にはなぜか小さいアンパンマンがいるのだ。今日もいるかな。あー鬼か。「おにはーそと、ふくはーうちしたの」というと二人が「おにはーそと、ふくはーうち」を楽しそうに繰り返し跳ねるようにするので手綱を引くように手を握り直す。小さな手。でも力が強いし動きが早い。赤ちゃんのときから知っているせいか季節ごとにしか会わないのに会えばいつもいろんな報告をしてくれる。しりとりのような、自由連想のような話に行きつ戻りつしているうちに公園に着いた。「○○先生がいたの」と鬼役を先生がしていたこともあっさり教えてくれた。わかってても泣いちゃうよね。

コンサル先でバレンタインデーとチョコをもらった。ここも年に2、3回しかいけないがいつもいろんなお菓子を持たせてくれる。この日は鏡餅のおかきも。揚げたてじゃなくてごめんなさいと。いやいや全然。とってもおいしい、と食べていたら別の小さな紙袋に入れたおかきも持たせてくれた。帰ってからいただいたチョコをみたら岡本のチョコ!私の苗字ではなくて神戸の岡本というところ。大好きな街。学会で行ったはずなんだけどいくたびにたくさん歩いておいしいお店が見つかっちゃうから大変でした。この街は俳人たちの暮らす(暮らした)街でもあって今も生きている代表的な俳人でいえば小川軽舟さんが住んでいらした。今はわからないけど『俳句と暮らす』(中公新書)の4章「散歩をする」を読むと俳句にイメージを膨らましてもらいながら岡本のこともそこで暮らした俳人たちのことも知ることができます。この本、ただ生活をすることの豊かさが書かれているとってもいい本です。私は何もわからないままはじめて連れていってもらった句会が軽舟さんたちとの小さな句会で、その頃は結社とか主宰とかいう俳句界での言葉も知らなかった。軽舟さんは『鷹』という大きな伝統ある結社の主宰だったのでした。その時にあっさり言われたひとことにちょっとショックを受けたけど言い当てられてしまったような恥ずかしさと面白さもあり、それから何年もあとになってまた誘われて俳句を始めたのもほとんど作らないわりに句友たちと繋がっていられるのもああいうはじまりがあったおかげかもしれないとか思った次第でございます。

というわけでみなさんもそれぞれの街で今日もご無事に過ごされますように。面白い景色にも出会えますように。写真はもうすぐ咲きそうな河津桜です。

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俳句 言葉

個人、関心、句友

今日は雨の予報なんですね。たまには降らないと地球水不足になってしまうけど今日は降らないでほしかったな、なんて個人的な事情はね、ああ、個人的な事情って本当に世界には関係のないこと、というか、相手が傷つこうか死んでしまおうがやりたいことをやる人はやり続けるものですね。世の中で関心を向けられるべき人は現在それを得ている人たちではないのはたしかでしょう。あからさまな差別をしている人たちはいうまでもなく、口先だけの心優しき強者も弱者には見えないコミュニティでもこれまで通りの賞賛と共感を得られるでしょうから色々なかったことにして弱者も共存するコミュニティにいい顔して入り込むのは避けてほしい。それはこういう文章を書くという行為であっても同じことだと思っています。とかいったところで傷つけられた個人がそう思っているだけの場合は集団における印象というのは変わることはないし、支持と共感のおかげで弱者を差別する自分を上手に後悔して過去の「失敗」にできてしまう人のほうが肯定的な関心と評価を得るのが「ふつう」です。構造的な問題、と日々激しい口調で言っている人でさえたやすく巻き込まれてしまいますから。声をあげるなんて怖くてしかたなくなりそうです。一方、日々死にたいと思いながらもなんとか生きている弱い立場の人たちに例外なく優先的に関心を向け一緒に考えていくことができるのもまずは個人でしょうから、まずは自分ということになるでしょうか。

昨日は久しぶりに句友の連載や句評をたくさん読んで残酷な社会との関わり方のひとつとしての俳句に励まされました。彼らはとても優れた書き手ですが書き手として生活しているわけではないし俳句で食べていく人もごくわずかでしょう。基本的にわざとらしさを嫌う俳句同様、自由で気楽な雰囲気を感じる文章はいつも新鮮です。一方的ではない関係で地道に言葉のやりとりに支えられながら今日も一日。

ああ、雨ですかねえ、東京は。鳥は今日も元気そうです。みなさんもどうぞご無事にお過ごしください。

スヌーピーに鳥の友ある日永かな 斉藤志歩

斉藤志歩『水と茶』(左右社)より

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俳句 散歩

春の光、黒酢豚、落椿

色々難しいしひどいな。そして色々進まないな。どうしましょう。

今日寒くないですか?空は薄い水色。色からして寒そう。昨日はやっぱり立春を過ぎると光が違う!と感動したのに。そういえば連日月がきれいだったけど昨晩が満月だったみたい。みましたか、空。とってもきれいでしたよ。

お昼を外で食べようかなと思ってでも食べたいものが見つからなくてようやくあそこに行こうと決めて2駅電車に乗って行ってみたら並んでいる・・そんなに人気がある店だったのか。仕方ないから美味しい肉まんでも買うかとその近くのお店へ向かったら大行列。えー。ここは人気店だと知っていたけどこんなに並ぶの?休日の様子を知らなかった。それも仕方ないからトボトボ歩いてあそこはどうかなあと向かった先は少なくとも外には誰も並んでいない!前のカップルと一緒と間違われないように少し離れて、と思ったら背の低い私など見えていなかったらしく心配ご無用でした。店の外の看板に綺麗な字で書いてあった黒酢豚をお願いした。てっきり定食形式かと思ったら実は単品でそれにご飯とかスープをつけることもできるよということだったらしく酢豚は2、3人で取り分けてもいいくらいのボリュームだった。隣の人は麻婆豆腐。余裕できれいに食べてた。胃腸の弱い私は食べられるかなあと思いつつも白いお皿の中でキラキラの黒酢に浸るように置かれた茶色くて丸いお肉たちと上にたっぷりふわっと乗せられた白髪ネギの組み合わせに感動。食べる直前に隣の人がスープに胡椒をふったせいかひとつくしゃみをしてしまった。そして見栄えに感動しながらとろっとろの黒酢からお肉と白髪ネギを掬い上げて口に入れたら大きくてうまく噛めず、しかも最初の一口は黒酢にむせてしまった。でも美味しい!時間をかけて最後まで美味しく美味しくいただいたけどこのまま電車で乗るにはお腹がおもたすぎるということで行きは電車できたのに帰りはお散歩。行きも歩けばよかった。だって春をすごく感じたから。その光のなかを歩きながら黒酢豚のキラキラを思い浮かべてたけど取り合わせで俳句を作るには私には難易度が高かった。大体の俳句の結社には自分の俳句からよかったものを選んで載せてもらえる結社誌というのがあるのだけど私が所属する結社は年4回の発行。前回は色々無理だったので投句できなかった。毎回どんな駄句でも直前に作って速達で送ることになっても出してはいたのだけど何もできないときってあるからしかたないですね。今回はなんとか出したいけどどうなることやら。先のことはわからないけどとりあえずひとつずつ直近のことからやりましょう。やれるかな。

今日の俳句日めくりカレンダーは

落椿とはとつぜんに華やげる 稲畑汀子

今日は汀子さんですか。先日『稲畑汀子俳句集成』の読書会に出たばかり。椿ってほんと地面で咲き直すかのようにきれいに落ちますよね。ちょうどそんな写真を少し前に撮ったから載せておきましょう。それでは、また。もろもろなんとかなりますように。

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俳句 読書

句友とか『青春と読書』とか。

「花の郷 バター」

美味しそうなお名前。美味しいです。町田の社会福祉法人花の郷さんのクッキーをいただきました。

おー、句友の句がNHK俳句に!加藤シゲアキが好きな句と言っている。句も人も素敵な友がたくさんです。大好きな千野千佳さんも北斗賞の佳作に入ったし。みんないつもすごい。千佳さんの三句は昨日『月刊 俳句界 2月号』で読んだ。特別だけど普通、でもやっぱりなんだか特別、今回もそんな景色が爽やかでした。

そして私たちの俳句の先生、堀本裕樹先生が毎月連載されていた「才人と俳人 俳句交換句ッ記」は最終回。ゲストはやはり又吉直樹。やっぱりとてもよかった。載っているのは集英社のPR誌『青春と読書』です。

そしてこの2月号には山本貴光さんが今野真二『「鬱屈」の時代を読む』(試し読みあり、集英社新書)の書評を書いておられます。前にゲンロンカフェでお二人の対談をみましたけど日本語の言語学についてとても楽しくおしゃべりしててホヘーすげーと思いながら楽しみました。ということで読み始めたらこりゃまたすごい。言葉を丁寧に探索していくのが言語学なわけだけどこの本は言葉にならない、あるいはまだ言葉としての形も持っていないものがどう言葉になっていくのかという言語化のプロセスを本当に豊富な文献の引用を通じて緻密に記述、描写してくれています。普段やりがちな雑な言葉の使用(例えば「レッテル」貼り)に対する反省も促される一冊になりそうです(まだ途中)。

ちなみに今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行のときは山本貴光さんと往復書簡を交わされていました。それはこちらで読めます。

今日も色々(雑かな)あるでしょう。鬱屈した「気持ち・感情」はなかなか言葉にならないかもしれないけれど言葉を大切に人を大切につまりは自分を大切になんとか過ごしましょう。

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俳句 読書

コーヒー、銀杏、俳句

腰が痛い。指も痺れる。でもこれは危機は脱したな。別の危機はあれど私にできることがあるとすれば最小限のことをするということのみ。よけいなことをしない、誰かを巻き込まない、とにかくシンプルに、というのがモットーだけど相手あることは私だけそう言っててもしかたないし先に何が起きるかは誰にもわからないので受け身でいる。

美味しいコーヒーを入れてもらった。「美味しいコーヒー淹れてあげる」と言われたからコツを色々聞いてみた。「落ち着いて淹れる」みたいなシンプルな言い方だったが確かにコーヒーを驚かせてはいけないというのは聞いたことがある。最初に聞いたときは「コーヒーが驚くのかよ」と思ったけれどゆっくり静かに少しずつ起こしてあげるように淹れるんだってそのときは教わった。今朝も言い方は違うけど似たような感じだった。「落ち着いて」というのは私には難しいからこだわりのコーヒーは淹れてもらうに限る。味はよくわからないけれど美味しいということはわかる。美味しかった。

銀杏の雄雌両方の実をもらった。銀杏は雌株しか実を結ばないようだが実自体には雄雌両方いて、雄は二面、雌は三面なんだって。おばさんたちなんでも知ってる。初対面でも子供に色々教えるみたいに教えてくれる。私も大人になれば色々物知りになるのかと思っていたけど全然違った。でも知らないことばかりでもこうして教えてもらえばいいのだからおばさんになっても無理することもないということは知った。母が歴史に詳しくてそれも「私も大人になれば」とまたまた単純に思っていたがそんなことも全然なかった。当たり前だ。今は小学生とかが教えてくれたりする。勉強している世代の頼もしさ。おばさんたちのは経験知だからくっついてくるエピソードも生活とシームレスで面白い。

昨日は仕事の合間に「稲畑汀子俳句集成読書会 わたしの汀子俳句」というオンラインの読書会に出た。『稲畑汀子俳句集成』(朔出版)は1万2千円!でも5400句近く入っていて昨年5月の発売からすでに3刷。きれいな装丁の「栞」つきで大好きな 宇多喜代子や大輪靖宏、長谷川櫂、星野椿が寄稿。読書会に出たおかげで捲り方がわかった。

読書会のホストは汀子の息子さんの稲畑廣太郎(『ホトトギス』主宰)、ゲストは佐藤文香(翻車魚、鏡)、堀田季何(『楽園』主宰、『短歌』同人)村越敦(澤)、山口亜希子(編集者、書肆アルス)、今橋眞理子(ホトトギス)。テーマは「音」。汀子との距離の違いが生む読みの違いに触れられていたのも面白く、みなさんの対話でひとつひとつの句が瑞々しく生き返るようだったし、俳句界の重鎮というイメージの汀子の姿もまた一人の人として愛しげに語られていてこういうモーニングワークはとてもいいなと思った。

新宿中央公園の脇の道の梅も咲き始めたし春ですね。寒いですけどね。暖かくしてお過ごしください。こちらは汀子の5歳下池田澄子の句。音も文字も楽しくないですか?

また春が来たことは来た鰐の顎 池田澄子

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俳句 読書

1月7日小寒

太陽の運行をもとに一年を24等分したのが二十四節気。まずは一年を立春、立夏、立秋、立冬で4等分。それを今度は6等分。春は立春に始まり雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、夏は立夏に始まり小満、芒種(かっこいい)、夏至、小暑、大暑、秋は立秋から処暑、白露(きれいだよね)、秋分、寒露、霜降、冬はまず立冬、そして小雪、大雪、冬至、小寒、で大寒まで。

ちなみに今は1月7日。睦月、二十四節気でいくと小寒。それをさらに3つに分ける七十二候だと芹乃栄。せりすなわちさかう。あらあら七草粥の日?前にいただいた茅乃舎の炊き込みご飯の素の賞味期限がやばかったから慌てて作ったというか混ぜ込んで炊いたチキンライスをいただいてしまったよ。美味でしたからよしとしませう。チキンライスも炊き込みご飯に入るんだねえ。出汁を売るってすごい発想なのではないか?はじめて茅乃舎を知ってだしの試食?試飲?をさせてもらった時にはなんか変な気持ちだったけど美味しかった。今の時期は寒いから温かいだし汁だけでも幸せよね。暖かく暖かく。

ちなみに毎年宇多喜代子さん監修の「俳句の日めくりカレンダー」をもらっているのだけど今日1月7日はね、みんな大好き池田澄子さんの一句。2021年年末に出た『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版)は私の周りにも愛し愛されている人の多い池田澄子さんの豊かさに包まれる句集エッセイだった。1936年生まれの澄子さん、宇多喜代子さんはその一つ年上。戦争を知っている世代のこのお二人の女性たちの声は俳句でも散文でもとても魅力的。

松の内どこでマスクをはずすのか 池田澄子

また書いてしまった。今年こそは俳句をがんばらねば(毎年言ってる)。

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俳句 映画 趣味

居酒屋。映画『冬の旅』。

「はい、南蛮」カウンター越しにあまりに自然に渡されたのでつい受け取ってしまった。「南蛮、ここじゃないと思う」というと「すいませーん」とホール係の女性がすぐに受け取りにきてくれた。耳が遠くなったなと感じていた。彼は間違いを正す方だった。常連客との雑談が増え目つきの鋭さがなくなってきたように感じていた。心配なんだ。安くておいしくて通い続けてる。コロナの間はテイクアウト用のおばんざいセットを出していた。これも店で楽しめる以上に多彩なおばんざいばかりで真似して作るのも楽しかった。ビニール袋には入らない大きな正方形の箱を平に持たなければならないので風呂敷に包んでくれていた。店が再開してから再び通うようになった。大体決まった曜日に行くがいつもいつも会う人は特にいない。でも大体の常連には会っていると思う。何度も目だけ合わせて話したことのない人も若い頃から通っているらしきお酒大好きな人もみんなひとり。「ありがとうございました」包丁を握りながらクリッとしたつぶらな瞳でしっかりこちらをみて送り出してくれた。長生きしてくださいね。店長の息子たちもそれぞれに店を出して味を受け継ぐ人はいるし彼らの店も大好きだけど私はこの小さな居酒屋が一番好き。まだまだお願いいたします。

今日は七十二候でいう「地始凍(ちはじめてこおる)」。小春日和に安心しつつ少しずつ大地も冬支度。

凍てつく大地で若い女性が死んだ。とてもかわいい寝顔と同じ死顔で。

アニエス・ヴァルダ「冬の旅」の話。楽がしたい、自由に生きたい、それが何を意味するかなんてどうでもいいのだろう。他人がそれをなんと言おうとそれが求めうるものである限り彼女は歩き続ける。ヒッチハイクで移動しては薄っぺらいテントで眠る。大きなリュックと臭気に塗れながら。汚い女と言われながらも出会う人たちを魅了し水や食糧、仕事と居場所をえる彼女の求め方は最低限のそれで相手のケアや憧れを引き出すのはすでに大人になった彼らが失ったあるいは得られなかったものを彼女に見出すかららしい。一方、彼女の在り方そのものが喪失の結果のようにも見え、これ以上の喪失を拒むもののように感じられた。それゆえ彼女は繋がりとどまることに対して受け身でしかいられない。彼女が追い出される場面で放った言葉がまさに今の私が使いたかった言葉で心に残ったのだが記憶に残っていない。まさにそう言ってやりたい、そんな言葉だったが言う機会も同時に失っているので思い出す必要もない。彼女の怒りが突発的に表現される場面には少し安心した。彼女の名前のイニシャルが貼り付けられた肩掛けバッグのスクールガールっぽさがその年齢の危うさに対するこちらの親心を掻き立てたのかもしれない。私もまたすでに失っている側のひとりで彼女のような頑固さや意地や必ず再び歩き出す力は持っていない。彼女に対する無力は今は世界に対するそれのような気もするが、凍てつく大地で寒くて眠れずママと口にする、もしくは倒れたまま死んでいくような厳しい環境にもない。

もう行かねば。放浪ではない日常をなんとか今日も。

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俳句 未分類

台風、見通し

台風が近づいているらしい。外国だと台風には名前があるよね、と思ってwikiをみてみた。今はアジア名というのもあって日本からは「琴」とか「山羊」とか星座に由来した名前を提案してるんだって。最初「日本 yagi やぎ 」の並びを見たとき2度見したけど星座ね、なるほど。琴座って久しぶりにみた。アメリカのハリケーンは人の名前で好き勝手に投影できてしまうせいか「それは合わないのでは」とか思わないけど日本の台風は数字で呼ばれているのしか聞いたことがない気がする。

今空は静かなのだけど台風前のなすすべなしな感じってこれまでの経験からきているのかな。時折強く吹く風、そしてまた静けさ、突然降っては止む雨、そしてまた、という繰り返しにリズムを見いだせないことが見通せなさに対する諦めを生じさせてるのかな、とか。

今思い出したのだけど今日速達で出さなくてはいけない俳句を投句用紙に清書していない。昨日のうちにやろうと思って持ち歩いていたのに投句用紙が載っている結社誌もない。どこ?持ち歩いていてオフィスで出しておいてきてしまったのか・・・。多分そうだ。もー。締切間際に作って安心、という態度もいただけないが、無くしものの多さよ・・・。こういうのは何度もやっているので予測がつく。見通しがつく。相手は台風ではなく自分だもの。なのでなすすべなしではないが、こんな自分にはいつも軽く眩暈がする。やろう。探そう。なかったら別の手をうとう(あるのかよ)。

あー。兎にも角にも台風でもなんでも自然にはなすすべなし、とはいえ、被害が生じませんように。気をつけて過ごしましょうね。

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俳句

珈琲分布地図

早朝からせっせと仕事。どうして今やっておけばいいのに、という時間はダラダラ過ごしちゃうのかしらね、とあんまり気にしていない感じで書けるのは締切を一日過ぎた作業を終えられたから。ダメですね。

とても高い声で鋭く鳴く鳥がいるのだけど毎朝聞いてるのにその鳥の名前を知らない。鳥の名といっても個別の関係ではないから呼ぶ機会もないのだけど「あの子は一体誰かしら」とは思う。

毎朝、スーパーでお得大容量みたいな感じで売ってるドリップパックのコーヒーを淹れるのだけど今日も失敗してしまいました・・。安物のせいかお湯を注ぐと肩というか腕みたいにカップに引っ掛ける部分が片方ちゃぽんと落ちちゃって粉がブワーっとカップ内に広がるという惨事、惨事というほどではないけどコーヒーの粉って細かいからちょっと面倒。ということで毎回両側を注意深く押さえながらそっと淹れることを心がけてる。不器用さがこういう失敗に拍車をかけてるから注意深く。もう子供の頃からなんだから大丈夫。ならどうしてさっき失敗したのー。どうしてかしら。そっと両側を押さえてゆっくりお湯を注いで「よし、できたー」と思って手を離したときに指に引っ掛かってしまったのかもしれない。なんか余計なことを考えた気もする。トポン、プワーッ。見慣れた景色。もはや「あ」とか「あー」とか声を上げることもせず「またやってしまったけど大丈夫」と心で呟きながら棚から茶漉しをだし、別のカップにコーヒーの液体(って書くのもなんか変だけど)のみを移しかえる。よし。茶漉しと最初のカップに残ったコーヒーの粉はやっぱり細かすぎるのでしっかり乾くのを待ってから捨てましょうね。乾くと匂い消しにもなりますしね、ということでサク山チョコ次郎(お菓子)と一緒にいただいております。

新涼の壁に珈琲分布地図 岩崎照子

1980年、牧羊社から出版された句集『二つのドイツ』から。

確かに珈琲専門店に行くと地図が貼ってある。私はそんなに味にこだわりがないので「酸味が強くないのがいいです」くらいをお伝えしてお店の人に教えてもらっておすすめを買うときもある。でもコロンビアがちょうどいい感じというのは覚えたからそれを買う時もある。

あぁ、コーヒーの生産国のこと。大学時代の友人がホンジュラスで働いていた。ホンジュラスの教え子たちの労働のことも聞いた気がする。今こうして思い出したのだからきっと大変な状況を聞いたのだろうと思う。水を出すとかそういうところから一緒にやっていたように思う。彼女の明るくのんびりした口調とかわいい笑顔と子供たちとの楽しいエピソードしか思い出せないせいかその深刻さは教科書的知識で後付けするように思い出さねば、という感じになっている。

珈琲分布地図は労働の場所の地図でもある。爽やかな夏の朝に鳥の声を聞き分けようとしコーヒーを失敗しながらも入れ直す。今ちょうど月刊「母の友」2022年7月号の特集「涼しく楽しく!夏をのりきる」の表紙を見た。とても素敵。みんなでスイカを食べている。平和にも幸せにも色々あるだろう。「〜だから不幸」と決めつけることはできないように思うし、戦火の中、心で守る小さな平和は紛れもなくそうなのだろう。でも季節をいちいち楽しみながら他愛もないことを他愛なく繰り返せることは決して当たり前ではないんだな。すぐに忘れてしまう考えるべき問題を少し思い出せてよかった。

Tちゃん、元気かな。帰国しておうちに遊びにいっていろんなおしゃべりをして以来会っていないかもしれない。どこかで小学校の先生をしていると思うのだけどまた外国で似たような仕事をすると聞いた気もする。

みんなそれぞれの場所でどうか元気で。

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俳句 短詩

誰川

依存というのは応える人がいるから成立する。それを「依存」に変えるのは受け手であり、自由度を狭めていくのは両者。

身内に誘われ句会にでたとき斜め前に座っていた人の句がいちいち素敵でファンになった。その後仲良くなってこの前ももうすぐ1歳になる子と遊びつつたくさん話をした。

コロナ以前に私が立ち上げた小さなネット句会の「談話室」でその人が俳人津川絵理子さんのファンなんだと書いていて、そーなんだ!と思って私も句集を買ってみた。私は結社には入っているが結社誌と毎月のこのネット句会で締め切り直前に句を作るだけなので全く上達しない。仲間たちの情熱になんだか申し訳なく感じることもあるが彼らとおしゃべりするのは楽しいし、この句が好き!と感じるのにはなんの努力もいらない。好きな句はたくさんある。曖昧にしか記憶できなくても特に問題ない。

それにしても鳥たちが元気。おはよー。お互い早起きだね。

とても楽しいおしゃべりを終えて仕事に戻る電車でぼんやりSNSを眺めていると「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字を見つけた。「あなたが誰でもかまわない」というので申し込んでみた。こういうノリは久しぶりだ。

私はまぁもろもろなんだっていいのではないか、ある程度のルールを守って楽しくやれれば、と思っているので俳句界に限らず人間関係の「濃さ」を感じる場所は排他的なものを感じてしまうことがある。まだ若い人たちが他人に「才能」を見出したり見出されたりしていろんな感じになっているのを見るとなおさら大変そうだなぁとなる。それだけで食べているわけでもないのにそんな使命感やマッチョ感は必要なのか、いやそういうのが好きなのか。というか使命感とマッチョ感(という言葉はないか)を一緒にしてはだめか。とにかく過剰さを感じることがある。言葉が本当に豊かな人たちの集団なので過剰なのは言葉だけなのかもしれないが。その人とも「そういうのは私はいいかな」と話した帰り道だった。こういうのは肌感覚というか生き方というか個人的な好みのようなものにすぎないが判断や選択には影響を及ぼす。

私の好きなその人の句は何かや誰かに依存的な感じがしない。使命感も義務感もなんかアツいものがない。ただポンッと場面や景色が置かれているだけ。シンプルでわかりやすく受け手に特に何も求めてない。賞をとったりもするわけだからそのあり方で十分人のこころをつかむのだろう。

「あなたが誰でもかまわない川柳入門」、川柳のことも講師のことも何も知らなかったが俳句を相対化してみたかったのかもしれない。相対化できるほど知らないので違和感を少し明らかにしたかったのかもしれない。

講師は暮田真名さん、後から知ったのだがZ世代のトップランナーと言われている柳人だ。Z世代というもの自体よくわかっていなかったし、時間的にアーカイブで受講するしかなかったのだが、導入ですでに「この人すごいな」と思った。私の好きなその人と似た雰囲気を感じた。

ということで仕事をせねば、だからまたいずれ。

暮田さんの講義の課題提出率の高さにスタッフの方も驚いていたが、あの講義ならそうだろう、と思う。本当にこちらが誰でも構わないのだ。何も求められていないのだ。ここには逆説がある。

が、またいずれ。良い連休でありますように。

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俳句

菜の花と雛

二度寝して少し汗ばんで起きる。すでに起き出していた身体とすでに暖まっていた部屋が少し春を行き過ぎた。暖房を消してあれこれして机に戻ると足元が寒い。外はすっかり明るい。少し前に「日脚伸ぶ」とキャプションをつけて夕日の写真を投稿した。もはやわざわざ日が長くなったと言わずとも朝も夕もそれが当たり前になってきた。過ぎていく季節を感じながらまだ済ませていない確定申告が頭をよぎる。毎日空をみあげ、花を愛で、鳥を追いかけながら暮らしたい、とかいっていられない。世知辛し。

辛子ってさ、と辞書を引いてみた。やっぱり形容詞「から(辛)し」の終止形からきてるんだ。「カラシナの種子を粉にした香辛料。黄色で辛く、水で練って用いる。またカラシナの別名。」とある。辛子は最初から練ってあるチューブのを使っている。おでんの時期ももう終わり。この冬はおでんもお鍋も数えるほどしか食べなかった。この後辛子の出番は?ああ、ひな祭りか。菜の花の辛子あえ。スーパーできっちり切り揃えられた菜の花が白い薄い紙でくるんとまとめ置かれているのはなかなかの存在感で、その緑を茹でてさらに鮮やかに、そして黄色いお花の代わりに辛子を置く、というか菜の花のおひたしに辛子を使うのってそこからのアイディア?など連想が浮かぶが、兎にも角にも春はこれから濃くなっていくはじまりの色を楽しむ季節。

目を入るるとき痛からん雛の顔

長谷川櫂 『天球』1992

When the eyes are put in

how it must hurtー

the doll’s face

こちらは英訳。「澤」主宰、小澤實さんの『名句の所以』の英訳版で読むことができた。

Well-Versed

Exploring Modern Japanese Haiku

Ozawa Minoru
Translated by Janine Beichman
Photography by Maeda Shinzō & Akira

今日も海の向こうでは色を失うばかりの戦いが続いているところがある。雛に痛みを見出すようなこころが「贅沢」なんかにならないことを願う。

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俳句 読書

旬を味わいたいな、と思って草間時彦『食べもの俳句館』(角川選書)を開いた。

「六月は梅雨。関東地方の梅雨入りは六月九日ごろという。」と読み始めて、あ、もう7月、と少し先のページに移動する。この本は1月から順番にページが割かれているのだ。

冷奴、鮒ずし、朝餉、冷酒などなど上段に並べられている季語を眺めるだけで美味しい食卓が見える。

鮒ずしの季語はとても懐かしい。もう何年が過ぎたのか。まだ何も知らなかった。知ればご一緒するには気が引けていただであろう大きな俳句結社のみなさんとの鮨屋での句会。友人が連れて行ってくれた。どなたの句か忘れてしまったが鮒ずしと雨を取り合わせた一句をいただいた。似たような湿度と匂いを感じてとてもお似合いの素材だと思った。まだ句会のルールも何も知らなかった頃。とてもとても懐かしい。

さて7月(p136〜)には16個もの季語が並ぶ。

6月は?とページを戻すと泥鰌鍋、莫迦貝、新生姜(この二つはセット。一杯屋下物莫迦貝と新生姜 石塚友二)など7個。

7月のエッセイはこう始まる。「立葵の赤い花は下から咲き昇って行く。花が天辺に達したら梅雨明けだというのは、昔からの言い伝えである。」なんて素敵なんだろう。6月を読み直す。

「六月は梅雨。」ふむ。そうだね。7月の方が断然好きそうだ、作者は。

冷奴隣に灯先んじて 石田波郷

もいい。しかし、

朝餉すみし汗やお位牌光りをり 渡辺水巴

が気になった。

「戦争前の東京の中流の家庭の姿をよく見せてくれる一句である。」とこの朝餉の場面を描写する時彦。水巴は「黒胡麻はお気に召さない」そうだ。

ここで水巴のことを調べ出してしまい、とりあえずメモのようなTweetを残して仕事へ行った。

わたなべすいは。1882(明治15)年、東京都台東区に生まれ、1946(昭和21)年、強制疎開で移った藤沢市鵠村で没。父は近代画家の渡辺省亭。妹のつゆは水巴と同じく俳人である。

内藤鳴雪に師事後、復活した『ホトトギス』雑詠欄で虚子に見出された。主観の尊重を説く「主観句に就いて」という拝論も発表しており、虚子には「無情のものを有情にみる」と評された。

同時代の俳人としては村上鬼城、飯田蛇笏、前田普羅、原石鼎が輩出、大正の興隆期だった。水巴は1916(大正5)年に俳誌『曲水』を創刊・主宰、俳人以外の職業につかず、生涯それを貫いた俳人だった。

という。それぞれの俳人がそれぞれの時代を生き、食べ、俳句を作り、生活をする。

冷酒の氷ぐらりとまはりけり 飴山 實

水飯のごろごろあたる箸の先 星野立子

ルンペンに土用鰻香風まかせ 平畑静塔

などなど。

食べ物の句は美味しそうでなければいけない、と言われる。

それは見栄えや味だけではない。音、香り、感触、空模様、全てがその時々の食べ物を作っている。

もうこんな時間だ。明日は明日の朝餉あり。ありかなしかも人それぞれか。まずはどうぞ良い夢を。

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俳句

小鳥来る

長月、旧7月17日、大安、立待月、小鳥来る

日めくりには素敵な言葉がたくさん。いつも1日の仕事を終えて、めくって、というか、私の場合は剥がしてからじっくり見るのだけど(見ないで積まれていく時もあるのだけど)今夜は特に癒されます。

だって立待月と小鳥来る、なんて素敵な言葉なのでしょう。「なんて素敵な」という言葉を使うときに思い浮かべるのはジュリー・アンドリュースです、なぜか。

毎日毎日空ばかり見ています。夕方オフィスに戻るとき、急に黒い雲がやってきて冷たい風が吹いたときは少しびっくりしました。降るのかしら、と思って少し急ぎ足でオフィスに帰って、夜の仕事を終えてカーテンの向こうを見たら広い空が白く光りました。そしてオレンジの稲妻も。パソコンに手書きで描くときのちょっと曲がってしまった線みたいな光が短くビビッと。

今日はパソコンも持ち歩いているし、大雨とかいやですよ、と思って今度は小走りで帰宅。降られずに間に合いました。

降られた方もいらっしゃるでしょうか。地震や大雨の地域のみなさんはご無事でしょうか。

小鳥来る、秋の季語です。空を見ていて出会えたらきっと笑顔になるような、いろんなことあったけど今年も会えたね、と思えるような、そんな季語だと思いませんか。

小鳥来る、この季語は、私が使っている平井照敏編の『新歳時記(秋)』河出文庫には載っていません。私が持っているのは1996年の改訂版初版です。その代わりではないけれど載っているのは「小鳥網」。「秋に群れなして渡ってくる小鳥を霞網、別名ひるてんを用いて捕獲してしまう猟法で、昭和二十二年以降禁止されてしまったもの」で「残酷な猟法」だったそうです。

どうしてこちらの季語を載せたのでしょう。理由はわかりません。今日の日めくりの「小鳥来る」をみて明るくなったこころが曇ってしまいそうです。

人を見て又羽ばたきぬ網の鳥 高浜虚子

これを読むとき、私たちは網の鳥になった気がしませんか。生きようとする力を本能と呼ぶとして、人はあまりに大雑把な万能感を行使して自らのそれを放棄することもあるのかもしれません。

その行為がなくなるとき、その季語もまた私たちから遠くなっていきます。でも多分、言葉は行為よりずっと長生きする必要があって、想像力がどんどん乏しくなっている私たちはそれに助けてもらいながら同じ過ちを繰り返さない努力をしたり、生きて会うことはなかった人と対話したりするのかもしれません。

小鳥来る音うれしさよ板庇  蕪村

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俳句 精神分析

写生

朝、窓を開けると秋の風が入ってくるようになりました。でもあと数時間もすればまた夏の熱気に覆われるのですね、この街も。すっきりと去ることはできない夏の気持ちを熱気というのかもですね。

ところで、俳句のお話ですが、俳句は素材を写生することで感動が生まれるので、擬人法は「月並み」としてあまり歓迎されません。

友死すと掲示してあり休暇明 上村占魚

どきっとしますね。休暇明けの掲示板を写生しただけなのに。これが俳句が持つ力です。たった17音なのに知らないはずのその風景がパッと浮かび、こころ打たれてしまう・・・。それでは月並みといわれる擬人法はどうでしょう。

五月雨を集めてはやし最上川

えっ、擬人法なの?と思うくらい自然。これは月並みではありません。松尾芭蕉ぐらいになると自然も人もこころの中で十分に融けあってしまうのでしょうか。月並みではない擬人法も実はたくさんあるのですが、私なんかが作ると月並みというかやや陳腐な句になりがちですねえ、やはり。

素材を時間をかけて観察してその感動を伝えること、事例研究みたいです、私たちの世界でいったら。相手のことをよく観察して、そこで生じているやりとりや二人の間の現象を細やかに言葉にしていくこと、精神分析でいえば、クライン派や対象関係論と呼ばれる学派の人たちがそうですね。事例を読むだけでその方の様子が浮かび、こころの世界まで伝わってくる。後からならいくらでもなんとでもいえる、みたいな書き方とは全く違います。私はそういう事例研究が好きだし、そう書けたらいいな、と思っています。その人の姿を勝手に変えてしまわないように。

今日はどんな風景と出会うでしょうか。目にとまったものがあったらいつもより少し長く立ち止まってみようかな、日曜日ですし。

さえざえと水蜜桃の夜明けかな 加藤楸邨

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俳句

虫の息

アブラゼミも虫の息か、と少しトーンダウンした声をききながら帰ってきました。アブラゼミに「虫の息」とかいうものかしら。虫が虫の息なのは当たり前か、など考えられるのは平和なことかもしれません。

今日は俳句の日だそうです。バイクの日でもあるそうです。ハイクの日、と山へ向かう人もおられるようです。819. 他にも何かあるかもしれません。

今年の夏はお祭りの音をほとんど聞きませんでした。「あ、お祭り!」と思って音のする方へ向かったらお寺のなにかだったことはありましたけど。駅や電車が色とりどりの浴衣でいっぱい、という光景も見ませんでした。来年はどんな夏になるのでしょう。と思う前に秋ですね。木々は今年も変わらず色づいてくれることでしょう。

現れて消えて祭の何やかや 岸本尚毅

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俳句

立秋(仙台七夕まつり)

さっき「つぶやき」で今日は立秋ですよ、びっくり、というようなことを書いて、日めくりの写真を載せました。その右上に小さく「仙台七夕まつり」と書かれていたのを見つけた方もいらっしゃるかもしれません。

一度は行ってみたい仙台七夕まつり。今年は8月6日から8日まで行われるはずでしたが「250万人もの大勢の観客を安全安心な形でお迎えすることは、その準備を含めとても難しく」中止を決定した、と「仙台七夕まつり」のサイトに書いてありました。日本一といわれる誇りある伝統行事の中止、悔しさ、悲しさ、虚しさ、決断を余儀なくされたみなさんがどんなお気持ちかははかりかねます。現実的な損失も大きいかもしれません。それでも「伝統を絶やすまいと、市内の各商店街では素敵な七夕飾りが飾られています。いつもとは違った思い思いの七夕を、ぜひお楽しみ下さい。」と「仙台七夕まつり」のFacebookに書いてありました。たしかに、伝統のはじまりはひとりひとりの小さな、でも切実な願いだったりするのかもしれません。

それにしても250万人ですか。宮城県の人だって全員が行くわけではないでしょうけど宮城県の人口を超えていますね。

華やかな喧騒をのんびりのんびり移動して、賑やかな通りを抜けて、ほとんど人気のない場所に出るときのあの感じ。東京の満員電車から吐き出されるように外に出て互いの顔も知らなまま四方八方に向かっていく、あの無言の群衆とは全く異なる人の流れ、音、空気。ひとりひとり全く異なる文字で書かれた願い事。

お祭りは身体とこころの全部で感じるような特別な瞬間を思い出せてくれるような気がします。移動や集まりが難しいのであれば記憶のなかで、夢のなかで出会えたらと思います。 

今日は立秋。まだ真夏と出会ったばかりだけど秋がどんな感じかはよく知っています。

そよりともせいで秋たつ事かいの 鬼貫

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俳句 精神分析

「月がきれい」と思いながら帰宅できる日が続いている。とかくと、そう思えない日もあるのか、と思われるかもしれないけど、不思議とそうでもない。ほんとに不思議と。

山を 海を 川を 空を 月を 私たちは嫌ったり憎んだりすることができるのだろうか。私は山育ちだから山に対する怖さと海に対する怖さは質が全く異なる。知っているからこその怖さと未知ゆえの怖さ。しかし知っているといってもごく一部。災害と会えば呆然と立ち尽くすしかない。憎むにはあまりにも知らなすぎる。

一方、私たちは本当に小さなことで誰かを好きになったり嫌いになったり愛したり憎んだりする。自分とよく似た姿の相手は自分とよく似たこころを持っている、という前提があるせいかもしれない。

フロイトは精神分析の創始者だけど、やっぱり怖かったんじゃないかな、両方の意味で、と思うことがある。読んでいると。

こころと自然。昔からあるテーマ。似たような木々が立ち並ぶ山を切り崩すことはその多様性を奪うかもしれない。表面ではなくそのなかをその背後を見ようとすることはとてつもなく侵襲的かもしれない。

最初に何かをしようとする人が背負うであろう大きな何か。フロイトも、地球が回っているといった人も、「神は死んだ」と言った人も、月を目指した人たちも、はじめての子を持つお母さんお父さんも、この世界に出てきた赤ちゃんも、と書いていると先のことを見通すことができない私たちみんなが主語になりうるか、とも思う。積み重ねては振り出しに戻るような、でも最初の最初とはちょっとずつ違うような軌跡を積み重ねる。ひとりひとりがみんな。

今日の香港のニュースにもいろんなことを感じた。「それって誰が決めるんですか」という問いかけも普遍的かもしれない。

こんな何十年も月がきれいと言い続けて、しかもそれは私が生まれるずっと昔から言われ続けていることで、愛でるものがあることの大切さを思った。

墓石に映つてゐるは夏蜜柑 岸本尚毅

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俳句 精神分析

精神分析は時間がかかる、というけれど、なんだって時間がかかりますよね、と思う。この歳になってもまだこんな、ということからして。

だから急がない。

いつ何が起きるかわからないから早く決めて次へ進まなくちゃ、という場合もあるかもしれないけど、いつどうなるかわからないからこそ急がなくても、とも思う。走らなければならないときは自然にそうするだろうし。そうでもないかな。たまには走っておかないと急に走ろうとしてぎっくり腰になる、みたいなことも起きるのかしら。

現実的なことには合わせざるを得ないし、それが全て、という時もあるとは思うけど、それならそれでいずれ来たるべきなのか、いつまでも来ないのかよくわからない先のことより今に委ね直すことをその都度していけたらいいなと思う。

着物に詳しい友人に博多織というのを教えてもらってそれについて調べていたらなんとなくそんな気がした。たくさんの経糸と太い横糸、中島みゆきの歌も思い出しますね。

私たちは何も知らない。

いつか、いつか、と小さく願いながら出会いをつないでいく。言葉を紡いでいく。昨日引用した石田波郷の手花火の句もそうかな。

少しずつ少しずつ。

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俳句 読書

花火

今日も暑かったですね。夜の風もなんとなくまとわりつく感じになってきました。月は良い感じに雲隠れにし、でした。夏の月って雲の向こうでもなんとなくすっきりと明るく感じませんか。

以前、お世話になっている先生に「書く」練習として沢木耕太郎を「読む」ことを勧められてとりあえず『一瞬の夏』を読みました。内容はうろ覚えですが、最初に神田でビールを呑んで、新宿でウィスキーを呑んで、1杯目のビールだけが汗を引かせてくれた、というような記述があるのです。この話って結構暑苦しいお話だと思うのですが、その前振りとしてかっこいいなぁと思いました。

ビールの一杯目ってほんとそういう感じですよね、という話ではないのですが、夏ですねえ。今年はビアガーデンとかどうするのでしょう。

今年は十勝の勝毎花火大会は中止らしいです。帯広の藤丸百貨店屋上でビールを呑みながら見たことがあります。ああいう夏がまたきてくれますよね、と誰に聞いたらいいかわからないけど、きてくれるといいですね。でも私には北海道は寒くて、その日も途中でリタイアしてガラスの内側で音と本物が放つ光をみていましたけど。東京の夏はエアコンで喉がやられてしまうし、一体どこがちょうどよいのか・・困ったものです。

今年は小さく線香花火もいいかもしれないですね。

手花火を命継ぐごと燃やすなり 石田波郷

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俳句

暑中見舞い その二

暑中お見舞い申し上げます。

先日お会いしたばかりですがお元気ですか?あのお話はまた改めてお返事しますね。

会うといつも同じような話ばかりしてしまうので、お手紙くらいなにか目新しいことを書きたいな、と思ったのですが意識するとなおさら何も思い浮かばないものですね。

明日も「暑い暑い」ばかり言っているうちに一日が終わりそうです。それはそれで平和でしょうか。

何も思い浮かばないので、今日の日めくりにあった俳句を書きますね。大好きな俳人のちょっとあれな句です(私の鑑賞を今度聞いてくださいね)。

男にも唇ありぬ氷水 小川軽舟

それではまた近いうちに。またみんなでいつものお店で集まりたいですね。それまでなんとか無事に過ごしましょう。

ということで、今日も宛先のない暑中見舞い、やってみました。書くことがない、みたいなことを書いていますが、今日は結構あったかも。月もきれいだし。十三夜ですって。でも葉書に書ける量は本当はもっと少ないですものね。自分のなかにおさめておくことも大事かもです。いずれもっと伝えたい気持ちが強まったときのために。

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俳句 読書

成長

坂の上の小さなおうちだった保育園はいまや駅前に第一、第二と園舎を持つ認可保育園になった。あの頃赤ちゃんだった子たちはもう小学生だ。長い間成長を見守っていると大きくなったその子たちに当時の面影を見ることがある。

毎月どこかしらの保育園を巡回する。4、5歳になると年に数回しかこない相手のことも覚えている。「また会ったねー」と寄ってくるスピードも雰囲気もそれまでとあまり変わらない。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男 

少し前にここでとりあげた句だ。その日、保育園にいくともうすっかりおしゃべりでやりとりするようになった子どもたちが「またきたー」と寄ってきた。そして口々に「歯が抜けたんだよ」と口をいーっと横にひらく。最初に生えたであろう下の前歯が抜けている。なんともいえずかわいい笑顔はこの時期だけのものだ。「永久歯」が生えてくる。

永久歯とはに抜け落つ麦の秋  桑原三郎

この歳になると目に見える変化もないので特に成長は喜ばれないが再会を喜び合うことは相変わらずある。喪失は子どもの頃よりもずっと日常になる。

ところで、女が歳を重ねることをリアルに書いたのは藤沢周平だと思うがどうだろう。今、私の手元には「夜消える」が二冊ある。何故だかわからない。第一刷が1994年。多分一度読んで、読んだことさえ忘れてまた買ってしまったのだ。古い方の一冊にはもうカバーもかかっていない。別の小説を探していたら本棚に並ぶ二冊を見つけた。並べたことすら忘れてしまっている。そもそも今これを書き始めようとしたときに私はこのことを書こうとしたのだ、そういえば。