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精神分析

心と身体

西の窓を開けたら向かいの家を薄いオレンジ色が覆っていた。南の窓から見える家はまだなのに。建物の高さで個々の家に訪れる日の出は違うということ。この時間の山の中はまだ暗いだろう。

頭を使う仕事の前に低山に登った。普段の筋トレに加え、時折、ハイキングをするようになってから、ハイキング用の筋力と体力が戻ってきたようで平均より(ヤマレコで比較)速いスピードで行って帰ってこられるし、帰ってからも仕事ができる。イレギュラーな用事と比べたら全く疲れない。標高300メートル台くらいなら簡単ではあるけど、遊びではなく合間にいくハイキングは、考えや気持ちを整理するためでもあるので岩場や水辺やそれなりの起伏はほしい。とはいえ、これも心の状態がよければそんなものなくても山は十分豊かで様々な驚きや発見をくれる。しかし、私がこういう目的でハイキングをするときは当然心の状態があまりよくない、あるいは少しでもよくしたい、というときなのできちんと目を開かせてくれるもの、耳を傾けさせてくれるもの、自分の貧しい感覚でも気づきをくれる外部を必要としているときだ。心が豊かなときはなんでもない見慣れた植物にレオ・レオーニが描いた平行植物を重ねたり、そういう知覚のジャンプができるわけだが、何かに囚われているときはまず自然界の秩序に触れて自分のちっぽけな囚われやこだわりに別の視点を持ちこみたい。しかもそれを限られた時間で、となると、環境に求めるものが増えてしまう。この前も「なんかこの道つまんない」とダラダラ続く緩いのぼりを歩きながら今私が「つまんない」と思っているありうる理由を口にしてみた。意識できている腹が立つ事柄と出来事が本当に腹を立てるようなものだったか、ということを考えながら一気に言葉にしながらこの山道を「つまんない」とか思っているのは「つまんねーな」「面白くねーな」という私の気分であって、道がやや整備されすぎて障害物がないとか薄暗い杉林ばかりで鳥も鳴いていない、とかそういうせいではまったくないんだよな、と思った。そしてそういえばなんでこの森、こんなに鳴き声が少ないの?オナガのぎゃーっとした声しか聞こえてこないぞ、とか耳がしてくれていた仕事に気づく。こうやって感覚が流れ出すのを動きながら待つ作業。

30代でまだ元気だった頃、心がそんなに健やかだったとは思えないが、分析を受ける前でまだ自分のダメさに本気で気づいていなかった分、何も考えずに生きていられたのだろう。やたら体力があってトレランをやろうと道具を揃えようとしたことがあった。トレラン用のリュックがあまりにも似合わずショックだったところまで覚えているが、その後忙しくなったのか、分析的な治療(分析ではない)を受け始めたせいか、トレランどころか運動もしなくなった。ヨガは続けていたか。時間さえあればどこまでも歩いていく癖はあったのとまだ自分で開業する前でいろんな勤務先が川や山が近くてしょっちゅう散歩していたのでなんとなく足腰の健康は維持されていたのかもしれない。50代になってこれだけ動けるのはとてもありがたい。こういうことを本当にありがたいと思うようになったのも加齢やいろんな理由で心身の様々な不調を経験したから。若いときに「若い人にはわからない」と言われた理由が本当によくわかる。経験した人にしかわからないことを共有するためにはその経験をすることが大事なのではなくてこの「わからない」という体験、つまり経験とは本当にその人独自のものだ、ということを身をもって体験する必要があるのだろう。

今朝はおいしいおいしい葡萄を食べた。ただ「ぶどう」と書かれた片面がセロハンで透明になっている三角袋に入って送られてきたのだけどすごくおいしい。巨峰なのかな。冷凍しておいたぐり茶の新茶も開けた。ようやく熱いお茶をのんびり楽しめる気候になった。身体も心もできるだけまともに動くように整えて行けたらいいなと思う。今日は水曜日。間違えないようにしよう。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生