夜明け前の空の青。静か。
精神分析における言葉と時間の関係を考えるにはベルクソンが必須だと思って平井靖史さんの本を中心に色々勉強しているわけだが、精神分析だけでも相当の勉強が必要なので時間が全く足りない。引用できるほど理解できるとは思っていないのであくまで精神分析が展開してきた時間概念を精緻化、あるいは展開するために読む。平井さんの本は難解ではあるが、本当に丁寧に書かれているので何度も読んでいるとだいぶわかった気がしてくる。
たとえば、フロイトの「想起」について考えるときに、平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社)を読んでいると、ベルクソンの『物質と記憶』を引用して書かれている部分に興味を惹かれたりする。なかでも考えさせられた部分を脚注だけど引用すると
「通常は、「夢見る」こと自体が、生を司る欲求や意志の緩みに起因するわけだが、想起の場合は、逆説的なことに「夢見ることを欲求する(vouloir rêver)」(MM87[115])ことが必要だとされる」
とか。なんとなくわかった気分になるでしょう。こんなふうにわかった気は直感を得るためであればわりと大事だけど間違った理解は学問のためによくないのでフロイトやウィニコットの印象はできるけど、ベルクソンの引用には怖気付く。なんにしてもその直感を使うなら精神分析理論の方をかなり正確に理解しておく必要があるな、と思いながら取り組んできた。私はもともと実践志向だが、理論なき実践はないとはいえ、私の頭では実践なしで理論の理解はできなかった。フロイトの著書に早くから出会ってはいたが、どちらかというそれまで慣れ親しんできた文学的な興味で読んでいたし、いざ、こういう実践の中に身を置くとすごく特殊なことをものすごいスピードで思考しながら書いていたんだなと思う。その思いつきの様子が大体書簡にも書かれているのも面白い。相手あってこそ。
相手あってこそ、という気付き、誰にも頼らずひとりでやってきたつもりが全然そうではなかった、という気づきは大事だが、誰にも頼れない環境がある子供がいるのもまた事実で、というか、本当に事実なんだよ、ということを知ってほしいと思うことがよくある。頼りたくても、というより、頼らなくては生きていけない中をぎりぎりで生き残ってきた子供たちがいる。それでも生きられたのだからいいじゃん、と軽々しい言葉を投げかけられながら生きてきた子もいる。もちろん養育者を守る福祉制度(親への支援、保育士の待遇、研修)の不足など社会施策の問題もあるし、子供単体でも母子ユニットでも父母子の三角形でもそれだけで生きられるはずもない。なのに、という現実を考え込んでしまうことは多い。多分、普通に困っている人が優先される政治はこれからもずっと遠い。「普通」が変わっていくから。すでに変わっているから。とにかく無事で、と願うより、安心して送り出し当たり前のようにまた会える毎日がいい。どうぞ良い一日を。
