カテゴリー
精神分析

shameとか。

空のピンクがあっというまに白っぽいグレーにとけてしまった。暖房を消し忘れた不安に苛まれる季節になったのでさっさとでかける準備をして暖房を消してちゃっちゃっと色々やる。私の場合、不安で戻ってきたら本当についていた、ということがあるので本当にいけない。寒いといろんな行動が怪しくなるので気をつけねば。

昨晩は、アンドレ・グリーンの関連でJean Guillaumin(1923-2017)とBernard Brusset(1938-)のことを調べたり動画を見たりしていたら眠ってしまった。ふたりともSPPのメンバー。グリーンはThe enigma of guilt and the mystery of shameで羞恥心に関する7つの説明をしているが、そこに登場するのがこの二人。ついでだからそのなかの3つをご紹介。こんな感じ。いつも通り正確には原文をご参照あれ。

1.羞恥心shameという情動について書かれた文献は非常に少ない。文献の中で挙げるべきものとしては、とりわけ思春期における羞恥に焦点を当てたジャン・ギヨマン(1973)とベルナール・ブリュセ(1993)の研究がある。

2.最も示唆に富んだ描写は文学や芸術作品に見られる(読者には、私が以前に行ったAjaxとオイディプスに関する研究〔Green, 1982a〕を参照されたい)。私の見解では、羞恥を最も強く表現しているのは、ブランカッチ礼拝堂にあるマザッチョのフレスコ画――『楽園追放(アダムとイブの追放)』――である。そこでは、誘惑の場面における最初の男と女の美しさ、誇りを帯びた表情、威厳に満ちた態度と、神の怒りにさらされた後の彼らの姿とが対照的に描かれている。アダムは両手で顔を隠している。彼は泣いているのかもしれない。しかし確かなことは、彼が他者に見られることから身を縮め、かつて享受していたすべてのものを失ったことに耐えられず、苦痛に満ちた羞恥の感情に押しつぶされているということである。一方イブは、苦悶によって顔がゆがみ、エロティックな感情を呼び起こしうる身体の部位――胸部と陰部――を腕で隠しており、そこから彼女の罪責感を推し量ることができる。しかし、聖書が示唆しているように、ここで優勢なのは羞恥の感情であり、それが消しがたい痛みを引き起こす。なお、性器を覆う葉は後の時代に付け加えられたものである。

3.私は羞恥の発達的総合を提示することはできないし、それを特定の発達段階と結びつけることもできない。ただ一つ断言できるのは、羞恥には自己愛的な起源があるということである。すなわち、身体的起源への初期投資、コントロール喪失の役割、そして何より、羞恥にさらされた個人は無力であり、他者の容赦なき嘲笑や軽蔑の前にさらされる標的のように脆弱であり、いかなる防衛手段も奪われていると感じる、という確信である。羞恥とは、敗北を認めること、弱さの露呈、外見と尊厳の喪失であり、ときには自らの内的世界が人々にさらけ出されたかのような印象をもたらすことすらある。羞恥の起源にある主要な要素を同定しなければならないが――羞恥の限界は前意識を超えるものではないとしても――それによって思考へアクセス可能な概念化を試みることができるだろう。

とか。

1に関しては英語版で注記があって「このコメントはフランス語圏特有の視点を反映している。なぜなら、1970年代・80年代のコフートの研究をはじめとして、この主題に関する英語圏の広範な文献が存在するからである。PEP-Web をざっと検索しただけでも、タイトルに shame を含む論文は 360 本以上あり、その大半は 1980 年以降に書かれている。」とある。

これは北米の関係論の文脈で土居健郎の「甘え」が注目されたことと関係あると思う。甘えは恥と罪悪感を伴うだろうから。超自我概念の起源も追っていたけど色々重なり合ってくるなあ。12月は年末からの休みを省くから3週間と心得よ、と自分に言い聞かせている。今日は火曜日。がんばりましょー。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生