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精神分析

アンドレ・グリーンや鈴木智美先生の本

6時ちょっと前の東の空がとてもきれい。少しずつ紺とピンクが濃くなっていく。寒いので朝の支度はちゃっちゃと終えた。関西の友人がくれた紅茶のパンも食べた。新宿区でオフィスを構えていてもデパ地下には詳しくない。東京楽しい、と買ってきてくれたかわいくていい香りのするパン。美味しかった。

隙間時間に自分の勉強のために翻訳をするのが習慣になっている。外向けにするためには読みやすさやわかりやすさを考えて日本語にしていく必要があるが自分にわかればいいのでどんどん訳せる、というわけではなく、日本語にしても難解なものは難解なので結局それなりに時間がかかる。それでも同じ著者の文章を読み続けると言い回しや語り口に慣れてくるので難解でもそんなに気にならない。身近な人の話はある程度聞き流していても理解できるのと同じ。かな。かも。


French Psychoanalysis: Contemporary Voices, Classical Texts Series一冊目、André GreenのContemporary Psychoanalytic Practiceの第6章、The enigma of guilt and the mystery of shameを読んだと書いた。昨日はCHAPTER 7 Sexuality in non-neurotic structures: Past and presentを読んだ。ここでグリーンは自分の論文”Has sexuality anything to do with psychoanalysis?” (Green, 1995)を引いているが、両方読むと理解が深まると思う。グリーンの問題意識は以下から始まる。

「現代精神分析は、前性器的あるいはナルシス的といった異なるタイプの葛藤における防衛の一般化にしばしば遭遇する。分析の領域は、修正された枠組みにおいてこの方法を用いることに基づき、「精神分析的psychoanalytical」と呼びうる対面での関係を含むまでに拡張されてきた。私たちのセクシュアリティ概念は変化した。これらの構造において、セクシュアリティが神経症におけるそれよりも重要性が低いというのは正確ではないが、それが果たす役割が異なると言うことはできる。実際、私たちはセクシュアリティが本当は何であるのかを見なければならない。」

そしてフロイトの有名な症例「狼男」(ー「ある幼児期神経症の病歴より」)を転回点として展開した神経症でも精神病でもない境界例の患者にみられる前性器的固着、あるいは否定的なエディプス・コンプレックスに関連する固着というセクシュアリティをお勉強的に記述する。

と書いていると時間がないので書かないけどこの章はそのあとに要約された臨床事例が複数あってセクシュアリティの意味や精神分析において否定、あるいは排除されつつあるセクシュアリティに再び関心を取り戻す必要性が十分に伝わってくる論考だった。

グリーンのこの論文もそうだけど、臨床事例はヴィネットとして書きたい。日本精神分析協会訓練分析家の鈴木智美先生の『こころの探索過程―罪悪感の精神分析』(金剛出版)はその点とても参考になるし、内容も鈴木先生の語り口そのままに平易で静かで受け取りやすく学びやすい。鈴木先生はグリーンの本も訳されていたり、その翻訳のお仕事からなんとなくフランス語の文献が多いのかと思いきや私が身近な日本の臨床家の論文も多数参照されていて、鈴木先生の文章も日本語ならではの表現が多く、他の精神分析家の先生たちとは異なる実践家の本だなととても良い印象を受けた。マネージメントの章は医師にはもちろん心理師(士)にとっても当たり前に大切にしていきたい(でもなかなかなされていない)ことが多くのヴィネットと共に書かれていてとてもいいなと思った。初回面接のグループの皆さんとも共有させていただこう。

いいお天気。東京は日中、ぽかぽからしい。今週もがんばりましょう。