朝焼けも月もきれい。月はまだまだ高い位置にいる。
少し前、アラン・N・ショア『右脳精神療法ー情動関係がもたらすアタッチメントの再確立』を読んでいた。「甘え」「恥」「罪悪感」「超自我」の関連で「相互退行」について書いてあるものを読みたかったので。
精神分析での退行はバリントがいうように「新たな始まり」の契機となりうる。ショアによると「更新された臨床モデルでは、相互の再エナクトメント内の退行は「外傷性の反復」と「新たな始まり」を表し、それによって新奇性と修正情動体験の右脳の創造的処理の表現の文脈を表す」とのこと。「相互の」が大事。
ショアは右脳に情緒的な自己表象、左脳に言語的なそれ、と左右差を前提に、母親的対象の右脳(=自己)との同期によってそれらが発達することを述べている。アタッチメントの確立とトラウマの関係を脳のレベルで捉えるショアの言っていることは精神分析の一面を精神分析実践を伴わずに可能にし、その説明にエヴィデンスを与えうるのだと思う。メンタライぜーションと似てるのかなと思ったのだがわからない。よく読むと抽象的で私の実践による実感とはあまりうまく接続できずにいるが。相互退行についてはボッテラ夫妻の論考がしっくりきたのでそっちを追うか。
「甘え」については『右脳精神療法』の訳者解題とあとがきで「アタッチメント形成における子どもの情動不安の大半は「甘え」にまつわる情動の動きである。私たち日本人であれば、言葉の生まれる以前の情動的コミュニケーションの世界を「甘え」を通して明示的に捉えることができる。」が、ショアはこの文化を知らないので「情動的コミュニケーションの断裂によって生まれる心理を恥shameとして論じている。」とあるが土居健郎の本は参考文献にはあがってはいなかった。
最近、また不登校に関する話題を多く聞くようになった。臨床ではこれまでと変わらず学校に行かない子はたくさんくるがそれがメインのトピックにはならない。
そういえば、と河合隼雄の『母性社会日本の病理』 (講談社)をめくってみた。
>これらの疑問に答えられぬまま、日本の多くのインテリは親子関係のことは、たかだか「家庭欄」のことで「文化欄」で論じられることではないとたかをくくっている。その実、外での高尚な理論と裏腹に、内で「女・子ども」と真に対話し対決することを避けて通っている。ここには、軍部との対決を避けて文化を論じていた、昭和の初期の青白いインテリの姿を連想させるものがある。そのような態度に対して、登校拒否の子どもたちは文化・教育の危機に対する警鐘を──無意識ではあるが──身をもって打ち鳴らしているのである。彼らを単なる脱落者として見ることなく、警鐘を鳴らす者としての意味を取りあげ、教育ということを、広く文化、社会、宗教などの問題と照らしあわせ、再検討することの必要性が痛感される。「敵」はアメリカ大陸などにいるのではなく、われわれ母性文化の本城である「家」の中にはいりこんできているのである。
河合隼雄は
>母なるものの力は、「包含する」力であり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこむ。これに対して、父なるものは「切る」力をもっている。
としてグレートマザーの威力を語ったうえで父なるものの不在を語るが、この理解は学校にいかない子どもとその子がいる家庭の全体の根底にある問題、つまり社会の問題に押し返すべき問題と読むべきで、よって不登校の説明には特にならないと私は思うし、学校にいかないということをどこまで象徴的に強調するかは考えどころだろう。
ということで今日もそれぞれ色々協力しつつがんばりましょう。

