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精神分析

こどものことばとか。

今朝は夜明けを感じるまでもなくずっと空が暗め。雨はやんだのかな。昨晩、保育園でのコンサルテーションを終えて急いで駅に向かったときは結構濡れた、というか雨粒がよくみえるベージュのダウンジャケットを着ていたので傘をもっていたけど落ち葉の上を急ぐのが怖くて傘は杖代わりにしてしまった。家のほうはあまり降っていなかったがそれほど遠くないところに住んでいる人から大雨で大変だったとLINEがあり空気の流れを想像した。

もう日曜日で、明日はもう月曜日か。と当たり前のことを確認したくなるほどウソでしょーという気持ちが強い。昨日は保育園の子供たちの日常を動画で見せてもらいながら色々お話したがルーティンって本当に大事で、「いつものこと」を無理なくできるようになるには大人が場をどう設定していくかが大事で、場を上手に設定できること自体がやさしさと呼ばれるようなもの。大人の言葉が子供に与える影響を意識した話し合いがされていたのも素敵だった。保育現場は言葉の意味内容より言葉がもつ力の諸側面の効果や影響がよくみえるので、私がずっと読んでいるような心の原初の状態を探求する精神分析家たちのいっていることとも具体的につながっている。そしてやはりグループの力は大きい。いろんな人がいるという当たり前を当たり前にしつづけるためにできることってなんだろう。

一番面白そうなのに難しいのは言葉のコードを変えることだろう。子供はこれがすごく上手、というかまだコードに拘束されていない言語世界にいるのでとても面白い。昨日、ある人がわが子の「もう冬」という言葉に対する反応をポストしていて大変面白くかわいらしく思った。

それで思い出したのが池上嘉彦の『記号論への招待』(岩波新書)。

こんなようなことが書いてある本だ。

>例えば初めて〈雪〉の降るのを見た子供が「あっ、ちょうちょうだ」と言ったらどうであろうか。確かにこれも、ある意味では「噓」でもありうるし、また「誤用」でもありうる。しかし、今度の場合はただ訂正して「正常」化するというだけでなく、そのまま一つの使い方として受け入れるという可能性も認めなくてはならない。つまり、いわゆる「比喩」の場合である。「噓」や「誤用」の場合は、使用されている「記号」に対して現実の「指示物」の方が優位に立って「訂正」を要求する。それに対して、「比喩」の場合は「記号」も「指示物」と対等の地位を占め、前者が「意味」として予想する特徴と後者に現実に存在するそれとは異なる特徴との間に、拮抗し合う緊張関係が生じる。「記号」の方がもはや簡単に「訂正」されなくなる。

など。昨日私がみたかわいらしいエピソードは「比喩」でもないと思うが当然「嘘」でも「誤用」でもない。昨日は大人って子供の言葉訂正しがち、とか思いながら子供の心について書いていたのでそれともフィットした。「どうして嘘つくの!」と結構小さいのに怒られている様子を目にすることも少なくないし、子供の言葉を「嘘」と断定する大人も少なくないので、それは本当にそうかなあ、と思うことが多い。ややこしい書き方をしているがなんとでもいえる余白を言葉に与え続けるにはどうしたらいいのだろう。ね。

今日は日曜日で明日は月曜日だって。また書いてしまった。私は困った困ったとなっているけど、よい一日になるといいですね。