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精神分析

S.Cooper「設定(setting)」論文など。

今の空はきれい。オレンジの色の光がいっぱい。でもこれから曇るみたい。雨も降るみたい。雨というと奄美のスコールを思い出す。あれはすごかった。奄美にいったのは2年前の年末年始か。ガジュマルの中をカヌーで散策したりしたがあれはハードだった。一緒になったご家族とのおしゃべりも楽しかったがお元気かしら。雨だから思い出したというより昨晩、Yussef Dayes, 城南海のAmamiを聴いたからかもしれない。クリスマスソングに聞きあきて流していた。

最近、「ラブ上等」をみたりHANAを聞いていたせいか頭の中がラップになりがち。朝ドラ「ばけばけ」と大河ドラマ「べらぼう」の口真似もしがち。素敵な書き手の真似もしがち、とか言って書けたらいいがそうはいかず。昨日の隙間時間も翻訳に費やしてしまった。その結果、全部は読まないかもな、と思っていた論文を読めたのはよかった。一昨日思ったほど長い論文ではなかった。気分は現実を歪める。思ったより短かったのはよかったが。

機械翻訳の力を借りてざっと読んだのはInternational Journal of Psychoanalysis(IJP:国際精神分析学会誌)創刊100周年を記念した2019年のSpecial Issueのひとつ、アメリカの精神分析家、Cooper, S. のPersonal Reflections: A theory of the setting: The transformation of unrepresented experience and play IJP, 100(6), 1439–1454。この論文は2023年にでた単著 Playing and Becoming in Psychoanalysis にも収められている。そちらはウィニコットを基盤として「遊び」概念を見直す本らしいので、論文で拾えるものから読んでみたい。今書いているものもウィニコットの「遊ぶこと」の引用から始めているから関連はあるだろう。インプットにはキリがないから書かねばならない。締切間近。

クーパーはウィニコットやグリーン、オグデンなど私が馴染んできた分析家を参照しているので読みやすく、彼らの分かりやすい部分を統合して示してくれるのも探求するのとは違う良さがあり、複数の症例も共有しやすかった。クーパーがこの論文で取り上げたのは「設定setting」。日本でもいまだに小此木啓吾の「治療構造論」は影響力があるし、IREDではコンパクトにまとまっているが、いくらでも語れる用語だろう。

クーパーの場合、設定を転移の場としてAndré Greenのventilated spacesを引用する。この用語は1975年のIPAジャーナルに掲載されたThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.から。

少し前にここに、アンドレ・グリーンのContemporary Psychoanalytic Practice by Andre Green French Psychoanalysis、英語版への序文を書いたHoward B. Levineによる説明を書いた。

序文はLimit cases, transformation, and the ordeal of the session: André Green’s extension of Freudian theory。そこにはこう書いてある。

>>介入は「風通しのよい(ventilated)」ものでなければならず、つまり、ドグマ的でも、強制的でも、過度に「確か」でもなく、潜在的でありうる意味の移行領域を巧みに支え、拡張し、さらには創り出そうとするものであるべきである。グリーン(1996)はこれを「自己組織化の認識論…、分析をオートポエティックな(autopoetic)過程として、組織化−脱組織化−再組織化の連鎖として捉えること」を要すると述べている。多くの患者にとって、まだ感じられておらず、まだまとまった意味が存在しうるという見通しそのものが、理解不能、混沌、そして空虚(空白blanc)な抑うつや境界例状態の寄るべなさと絶望から離れる進歩的な一歩である(本巻第5章)。

これを引用したときに私はventilatedを「換気された」より「風通しが良い」の方がいいのでは、と書いたが「空間」で考えてみると「風通しが良い」だとポジティブな印象が強い。なので「風通しが保たれた」くらいの方がいいかもしれない。「介入」のときはあまり感じなかったが。もしくは今がコロナ禍であの空気が共有できているなら「換気された」の方がヴィヴィッドに伝わったかもしれない。

さて、この用語が使われたグリーンのThe Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D.(「分析家、象徴化、そして分析設定における不在」、1975年)はIPA 地域間精神分析百科事典(IRED)日本語版の「設定」の項目でも参照されている。とてもいい論文で、私は幸運なことに勉強会で訳を共有していただいているのでまた読み直そう。ventilatedのところは忘れていたし。ちなみに「設定」に関しての基本論文はBleger J. (1967). Psycho-analysis of the psycho-analytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519. IREDでもそうだが「設定」を論じるなら必ず参照されていると思う。

クーパーがグリーンを引用する仕方はこんな感じ。

>>Green(1975)は、表象された体験と表象されていない体験とのあいだに存在する一種の継ぎ目を、「風通しの保たれた空間(ventilated spaces)」と呼んだ。こうした屈曲点、すなわち患者と分析家それぞれが内側に抱える精神分析のためのセッティングが衝突する地点において、セッティングは、患者の遊びのルールを見出そうとする分析家の試みを保持する。そのルールの意味は、患者によって防衛されており、また時に分析家にとっても到達不能である。

グリーンの言っているventilatdが必要とされる状況よりも一般的な意味で応用が効きそうな書き方だと思う。それはグリーンとの比較だけでなく、全体に対してそんな感じを受けた。

グリーンといえば、私はまるで馴染みはじめたような気になっていたが、昨日、Reading Freudのときに使えるなと思って訳していた論文がすでに一度自分で訳したものだった。しかも自分が担当した論文だった。途中から読んだせいか全く気づかなかった。前より理解度が深まったのかと思ったら繰り返し学習の効果だったみたい。繰り返していたことは忘れていたのに。でもグリーンの論文は何度読んでもわからないし、試行しつづけるために読むものだからまあいいのだろう、と思う。以前ほど体力、気力を使わずに読めるようになったのは収穫だし。初期のフロイトから読んでいる人たちには絶対にいい刺激になると思う。精神分析が欲動論と対話をやめたらそれは本当に精神分析なんですか、というのをグリーンはすごく広いところからもすごく近いところからも迫ってくるからね。ラカンのそばにおさまれなかったそのスケールをくらおう。私もいい紹介ができるようにがんばろー。

ちなみに読んでいたのは
The psychoanalytic frame: Its internalization by the analyst and its application in practice。クーパーの「設定」とは全く違う「枠組み」のお話。この論文は
Contemporary Psychoanalytic Practice(2012,Karnac)とThe Freudian Matrix of André Green  Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century(2023,
Routledge)の両方に入っているのもややこしい。重要論文だからなのだろうけど。これらはどっちもそんなにややこしくないいい本だと思う。グリーンの好き嫌いだけ知っておけば、難しいけどややこしくはない。

それにしてもウィニコットはやっぱりすごい。オグデンやグリーンを読むとそれまで読み落としてきた部分がハイライトされるような感じで読み方が更新される。嬉しいし楽しい。「ピグル」をピグルとウィニコットが会った日時に合わせて読んでいた日々が懐かしい。ああいうのまたやりたい。老後かなあ。老後までもつかなあ、身体。身体がやられたら気持ちもつらいし。この数年、「調子が悪いときに今みたいなのんきでごきげんな時間を思い出せるかなあ、思い出せる自分でいたいなあ」とか思うようになった。いろんな思い出が押し寄せることも増えた気がする。精神分析を受けているときは「なんで今こんなこと思い出したんだろう」ということばかりで最初はそれを思考できない苦痛があったけど後半はそういう無意識の流れに委ねた方が楽な感じになっていった。随分、長くかかったけど幸運だった。今は「思い出せるかなあ、思い出したいなあ」か。大体の日々を鳥だ、月だ、夜明けだ、とかいって喜べる自分で過ごしてほしい。頼むぜー。

ということで今日もがんばりましょう。いいお天気のままならいいのに。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生