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精神分析

夕日、翻訳

冬至を過ぎても夜明けは遅い。寒い。エアコンが一生懸命働いている。えらい。

昨日は久しぶりに夕方に家に帰った。玄関前の花壇の落ち葉をきれいにした。先日の強風のせいか、見慣れないゴミも落ちていたので拾って大きなゴミ袋に入れた。種まきをしたお花たちは大きくなりつつあるが放っておいていいのだろうか。かわいい雑草と区別がつかなくなりつつある気がする。部屋に戻ると夕日が向かいの家の窓でものすごいオレンジ色を放っていた。普段はどんなだったか。そんな光でも放ってなければ注意を払うこともない。これからも「そういえば」ときちんと見ない限り知らないままだろう。それで何の問題もない。大体のことはそんなものだろう。夕日。それがどこかの家の窓に映ったものでも夕日であれば夕日とわかるのに。

12月はなにかからの逃避のように翻訳をしていた気がする。ちょっとの時間にもずっとやっていた。なにからの、と考えてもよくわからない。体調管理にやや気を使ったくらいでそんなのはいつものこと。どうしてだろう。子どもの心理療法のための本のための一章も〆切前に提出できた。いろんなお返事も英語以外のものはきちんとした、と思う。まあ、何かがあるのだろう。そうでなくてもアンドレ・グリーンとオグデンを読み続けた一年だった。難しいけどワクワクしながら読んでいるといってもらえたのはとても嬉しかった。そういう共有を求めているのかもしれない。

それほど寒くない日が多かったせいか年末という感じがまるでしない。今年の仕事を無事に収めたのでいつも降りる駅で降りないでもっと先へいってみた。さらにちょうどきたバスに乗ってみたりしながら年末感を探した。門松、お正月にむけた買い物の行列、お年賀の準備、世の中はたしかに年末だった。

今年もあと3日。できるだけ俳句をつくろう。そうだ、そうしよう。