今朝は杜の色相環の「いろいろナッツのクランチケーキ」と熱い珈琲。八ヶ岳に住む友人が営むケーキ屋さんが年に3回送ってくれる。八ヶ岳の冬景色、素敵でしょうね。生活を営むのはステキさと大変さと。今朝の東京は風の音がすごいです。
「営む」と意識的に使った、というよりこの言葉を書くたびに注意がそこに向くのは藤山直樹『精神分析という営み』(2003、岩崎学術出版社)を読んでからかも。先日読んだと書いた藤山直樹の最新刊『精神分析の深みへ』(2025、金剛出版)の序章はこの最初の単著における「営み」という言葉の使用を掘り下げ、精神分析を「営んでいる」とはどういうことかが書かれている。「営み」は英語にするとどうなのだろう。著者は最初の本をどう英訳しているのだろう。act, activities, make love to,vividly portray,undertakingなど文脈によって使い分けることができるこの単語だが日本語の「営み」が持つ広がりを私も好ましく感じる。
広がりといえば第五章は「パーソナルな回顧」として当時はまだ新しかった「空間」という言葉で頻回の精神分析と週一回のセラピーで起こること、起こりにくいことが検討されている。『精神分析という営み』で書かれた事例が週一回のサイコセラピーであるにも関わらず多くの人に転移の衝撃を想像させたのは、著者自身が精神分析家になったことで、その衝撃に日々身を浸していたからだろう。土居健郎がその文章をJuicyという形容詞で表したのも、著者が「実感」という言葉を頻繁に使っていたのもそういうことではないだろうか。精神分析家に「なる」以前と以降と移行の時間を過ごした著者が空間の広がりよりもそれがなくなってしまったかのような狭まりのなかで体験した夢見が描写された実践的な章で私は好きだ。
著者は「できごと」という言葉を使う分析家という印象も持たれていると思う。第一章では藤山が精神分析実践を「できごと」と呼ぶ理由が「関わり」「交流」と比較して書かれている。とはいえ、いまや「できごと」という言葉もやや使い古した感じがあるのかそれほど違いが強調されているわけではない。むしろそれらが生じる、生じないということはどういうことか、そのための精神分析家の基本的な技法が書かれていると思う。非対称性をあえてそう捉えるものとしているところは密かに新しいのではないかという気がした。私は精神分析における「非対称性」が密かに、というよりかなりあからさまに精神分析における侵襲性に対する批判を示す言葉として使われていることでこの言葉の使用が思考を制限するようなところがあると感じていたので新しく感じたのかもしれない。これらの言葉はどれもプロセスであり、もっとも集合的な言葉が「できごと」だろうし、「それがない、生じない」というネガティブな面も自然に含みこむ言葉ではあるだろう。藤山は「精神分析実践で起きている事実は間主体的事実であり、ふたりの当事者のどちらもその全体を捉えることは原理的にできない(p37)」という。こういう部分を含むにも「できごと」という言葉は使い勝手がいい気がする。
フロイトは『夢解釈』を20年以上かけて改訂しつづけたが、精神分析のこのongoing性は言葉の使用がそのまま実践である精神分析にとっては当然のことでもある。大切にしたい。
外はまだ風の音。気温は高いのだろう。さっきようやく少し寒さを感じて暖房をつけていないことに気づいた。今日も明日も勉強だ。この1週間、バタバタと過ぎてしまったので少し落ち着こう。おやすみの人もそうでない人も良い一日を。

