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精神分析

身体、「個」として。

まだ真っ暗。この時間は少し明るくなってきていた気がしたのだけど。今日は曇りなのかな。

昨日はお昼過ぎまでNetflix三昧して、そのあとは色々家事したけど他になにもしていない気がする。うとうとしていたのかな。昨日の明け方だったか、起きたらまた手首より先が動きにくくなっていてやばい!となった。もう一方の手で慌ててマッサージしたり、自重で動かしたりしたら治った。横向きに寝て腕の神経を圧迫しがちなのがいけないらしい。前に橈骨神経麻痺と診断されて結構長い期間、右手(腕はOK)を使えなくなったことがあるから同じ感じになると慌ててしまう。その頃にはすでにiPadがあったから記録はできたし、食べることに関しては意欲が高いのでお箸はわりと早く左手で使えるようになった。何が不便だったかというと満員電車。荷物はリュックだからいいけど吊り革や棒(なんていうのかな)を咄嗟に右手でつかむことができない。右利きだから咄嗟に出るのが右手なんだよね。できるだけ体幹で立つぞ、と思っていたけど揺れますよというアナウンスが入って予告通りの揺れに対しても対応できなかった。まあ、これは手が動いているときも同じだけど。体幹は強くなっているはずだから今は少しは違うのかも。筋トレしてても胃腸炎とかでお腹空っぽになると一気に筋力も落ちるし、頭痛がひどいと聞くのも話すのも辛いし、身体って色々補うことはできるけど、できるだけ今ある身体機能は維持したい。少し体調悪いだけでいろんなことも無理しないといけなくなるの辛いものね。今日は両手が使えてよかった。

鳥羽和久『それがやさしさじゃ困る』から、学校の中で「学生たちはいったん個として見られない場になじんでしまうと、むしろ集団の中の一要素として溶け込んだほうが楽で気持ちよくなるという問題についてはあまり語られない」という部分が引用されていた。著者は塾の先生として集団の中でひとりひとりの子どもたちと関わっているからこの書き方になるのだと思う。臨床現場でひとりひとりと時間をかけて語り合っていても集団に溶け込んでいた方が楽という語りはよくある。しかしそれは常にそこに馴染めていない自分を強烈に感じ、それに気づかれないようにしながらであり、ここでは学校という場で「個として見られる」可能性を残しているわけだけど、学校では「必要なときに」という前置きが必要かもしれない。就学以前にその体験をしていない場合、個として見られないことを当たり前としながら、個として見られることを熱烈に求める、という非常にアンビバレントな状態になる。もちろん「適応」が求められる集団においての出方は様々で、「過剰適応」といわれたり「逸脱」とされたり「問題児」扱いされたり「甘えてる」といわれたり関わる人によって様々な表現がされているのだろう。過度に個別の関わりを提供したくなる大人だっているかもしれない。精神分析では「ああ、そういうことを本当は求めていたんだね」ということを理解するプロセスが相手が子供でも大人でも大切で、その理解のプロセスこそが個別のこころとして関わられる体験になる。しかし、さっきも書いたように個として見られることにすでにアンビバレントになっている心は個別の関わりを嫌うのも常なので、それは必要性という観点から言葉を紡いでいく必要がある。何にしても必要性は大事で、それはこちらが勝手に押し付けるものでもないし、本人にだってわからないことだからそこにまた別の難しさが発生する。まあ、終わりのない話だから考え続けるしかない。

今日は月曜日。なんとか頑張りましょ。