透明感のある夜明け。きれい。昨晩はインターネットバンキングの設定などに色々手間取りすごく寝不足。今はなんでもかんでもアプリ使いながら紐づいていて意味がわからない。個人情報って「教えてくれれば管理してあげる」(っていうかできていない事例いっぱいあるでしょ)ではなくて、誰にも言わないでいられる自由を保障されてこその情報じゃん。何年くらい前からだろう。情報は明け透けにして当たり前みたいな雰囲気が出てきたのって。前にもさ、と書き出したらキリがないほどおかしなことを経験しているけどまあよい。この寒いが爽やかな朝に愚痴ってられるか。こんなんじゃ逆に安全が守られているという感覚をもつ方が難しいってことさ。
土居健郎(1920年3月17日 – 2009年7月5日)の「甘え」について発表するので掘り下げていかねばならない。が、なんとなく楽しく読書してしまってそういう体勢に全くならない。土居健郎は平易な言葉で、語りかけるように書くのでつい学問を忘れる。語りかけるようにというのは、一方的ではないということで、土居自身の驚きなど息づかいを感じさせるということである。『土居健郎選集』全8巻の中には難しいものも易しいものも含まれるがどれも読みにくいということはない。その8巻のあとに出版されたのが『甘え・病い・信仰』(創文社)である。これは長崎純心大学キリスト教文化研究所における長崎純心レクチャーズ第3回、1999年10月25日~10月27日の三日間の連続講義を加筆、修正した一冊である。電子版があるので誰でも入手できるし、講義なので質疑応答があるのがいい。ビオンの本なんかだと質問した人はますますわからなさにのまれていくというようなやりとりが見られるが土居はひたすら正直である。相手の考えを問い、対話をする。そしてそこには特に答えはない。自分の考えがあるだけである。「甘え」概念が逆輸入されたわけだぜ、と私はここで思うわけである。わけである、とか書いたが今自分の考えを相当端折って無理やり結論づけたことに自分でも気づいているが、今は時間がない。発表までにはなんとかするつもり。SNSを備忘録代わりに使用しているので昨日ポストした土居健郎による森田療法と精神分析について考える論文も読んでみてほしい。森田療法の専門家に土居は森田正馬(1874年〈明治7年〉1月18日 – 1938年4月12日)熱いみたいなことを言ったら、森田を一番読めた人かもしれない、と土居のことを言っていた。そうなのか。その人に森田を読むなら森田自身の著作から入ってしまった方がいいと言われたので土居がその論文で取り上げた一冊も読んでみた。全部ではないが、かなり興味深い実践が書いてあるのでぐんぐん読める。ちょっと今名前を忘れてしまった。神経質の本態みたいな名前の本。技法としても興味深いが森田の時代、森田は神経症をこう考えていたんだな、みたいな面白さにはまる。そしてそれは私たち精神分析家が神経症とアセスメントするときと対して変わらない視点だと思う。ただそれに対する対処は随分独特。と言っても精神分析側から独特と言ったところでどっちがだよ、どっちもかよ、という話ではる。土居は森田療法を説明したうえでそれを精神分析的に考えてみるということをこの論文でやっている。森田には丸井清泰との論争があるが、その後の世代には森田の弟子である高良武久とカレン・ホーナイと交流があったり、土居もその世代との交流があったり、森田療法と精神分析、森田療法と世界との対話を可能にする土地は地道に耕されていたといえるのだろう。
土居の論文はいくつかの点で興味を引くが、土居が以下のように森田と禅の関係に注目したことは、土居とキリスト教、もしくは土居と精神分析との関係についても何か言わんとしているかのように思えた。
But what is really interesting about the possible connection between the two is the fact that, in spite of the obvious similarity between his thinking and Zen Buddhism, Morita disclaimed any special connection between the two.
にしても、今日もいろいろ大変だ。がんばっていきまっしょい。

