世界のニュースに気持ちが追いつかない。夜明けは今日もきれい。
昨日の朝、論文の手直しを少しした。いくつかの点でもう少し根拠をしっかり提示する必要がある。そのためには素材の方も別の箇所を使用した方がよさそう。結局、全体的な手入れが必要。夜はそういう作業する時間はないので毎朝、少しずつやっていくしかない。関連してオグデンの自閉ー隣接ポジション(autistic-contiguous position)論文を読み直したけど、その後の展開があまりされていないのもさもありなんという気がした。今手元にないのでこの部分が、と正確に引用できないけど、この概念が展開するにはタスティン、メルツァーといった自閉症に関する代表的な論客の言わんとしたことを理解するのはもちろんだし、彼らの使う「自閉」が自閉症だけを指しているわけではなく、誰にでもある心の機制であるという理解が必要である。それ以前に自閉症を含むさまざまな病理のインテンシブな精神分析的治療を体験しておくことは不可欠なわけだ。精神分析の概念はインテンシブな治療である精神分析体験で必然的に生じる患者と分析家の強い情動体験をもとに展開してきている。それが生じない事態を考える場合もそれまでの二人が積み重ねてきたい時間の中で明らかになってきた「生じなさ」に対する強い自覚が起点となる。それは相手に、あるいは二人の関係性にオグデンがいう意味での自閉的な要素を見出すことでもある。今は専門家でない人が「アスペ」とか「自己愛性パーソナリティ」とかカジュアルに使うようになったがそこに含まれる相手を見下した態度は知らないこと、わからなさへの耐性の低さを示しているのだろう。オグデンたちがいう自閉という言葉は決してそういう水準のものではないが、専門家であってもこの言葉で換気されるイメージの偏りは大きいので、使用しにくい言葉だなとは思う。夢やイメージ以前の感覚的印象の散らばりによって混乱が生じたときに心がとる態勢を臨床素材の描写と共に記述していく難しさったらない。カモフラージュのためではなく、空間以前の表面でなされる反応としての模倣が対象との間でどのように形を変えていくかを記述する語彙を育てられたらと思う。精神分析は自分の中の圧倒的な語彙不足、言葉の誤った使用への気づきに打ちのめされ、それまでの自分の体験に対する見方がガラッと変わる。人は誰でも自分のことを棚に上げて他人のことを色々いっているものなので、ナルシシズムは傷ついても、人より自分という場所からまた始められるのは大事なのでは、と思うが、その苦しみも半端ないので、現代社会に生きる人の特徴を踏まえた上で理論と技法の更新が必要なんだな。常に大仕事という気がする。
今日も寒そう。風邪ひかないように過ごしましょう。

