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精神分析

just for a while,ドイツの精神分析家の論文

今日は晴れてる。バタバタして夜明けを覗くのを忘れた。もう1月が終わりそう。先週、やるべきことはほとんど今週に持ち越された。

持ち越されるといえばNetflixで『ザ・ホエール』を見たのだけど「語り手は自らの暗い物語を先送りする」というセリフが何度かでてきた。私がやるべきことを持ち越すのとはだいぶ意味が違って、英語だともっと違う。

because I knew that the author was just trying to save us from his own sad story, just for a while.

メルヴィルの『白鯨』との関連は別にしてもいいセリフだよね。just for a whileがいい。

こういうことをしているから色々持ち越すわけだけど昨日は調べなくてはいけないことを少し調べることはした。

非表象領域での出来事をどう記述するかという課題がずっとあるわけで(私のというより現代精神分析のかもしれない)、ウィニコット(イギリス)のネガティブ、ビオン(イギリス)の原初思考、アンドレ・グリーンを通じてのボテラ夫妻(フランス)の形象可能性、オラニエ(フランス)のピクトグラム、今回はバロス(ブラジル)の情動的ピクトグラムと読みつつあれこれ考えていた。それでも書き物に用いた臨床素材について記述するにはまだなにか足りないと思っているところに今回出会ったのがドイツの精神分析家、Bohleber, W. (2016) Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’. International Journal of Psychoanalysis 97:1393-1398。2020年9月のIPA Off the Couch、Episode 66: Otherness, Anti-Semitism and Psychoanalysis with Dr. Werner Bohleberで声を聴くこともできる。2007年のSigourney Award Winnerでそこでの紹介を訳すとこんな感じ。

「Werner Bohleber博士は、その多大な知的エネルギーの多くを、特定の主題群に注いできた。それらは、個人レベルおよび社会的次元の双方におけるトラウマ、テロリズム、右翼過激主義、反ユダヤ主義、そしてドイツ国民社会主義(ナチズム)の時代という特異な歴史がもたらした帰結である。ドイツの精神分析家として、ボルバー博士は、ナチスの犯罪をめぐるドイツ社会の沈黙、恥、罪責という過去の問題に正面から取り組み、その関心を追究するにあたって、きわめて高い誠実さと勇気を示してきた。彼は、ホロコースト、暴力、過激主義、排外主義についての精神分析的理解に関して、重要な著書および論文を数多く著している。また、子どもの福祉に深い関心を寄せ、思春期、アイデンティティ、第二次世界大戦が子どもの発達に及ぼした世代間的影響についても研究を行ってきた。」

IPAの精神分析家になって、世界中の精神分析家と精神分析を取り巻く環境が身近になって、そこには常に戦争が関わってきたし、現在もそうであることを実感するようになった。IPAの中にも当然分断があり、議論も対話の場はあるがそこでの困難もきく。日本には日本の課題もあるが、世界に目を向ければもう少し別の対話が可能というか、必要ではないか、と思いつつ、自分が属する場所は大事なのでそこにいる。組織に入り、国際的な学会にでることで世界の精神分析家が背負ってきたものの重みは増した。本の読み方も変わった。創始者フロイトがユダヤ人であることはもちろん、ナチズムによって亡命を余儀なくされた多くの分析家の移動によって精神分析は多様になったが、移動しなかった、もしくは母国にいながら沈黙を守る必要があった精神分析家たちもいる。ドイツの分析家たちがまさにそうかもしれない、など考えながら読んでいたら同じBohleber W. (2013)が間主観性について The Concept of Intersubjectivity in Psychoanalysis: Taking Critical Stockという論文も書いており、これはまだ途中だが、大変よくまとまっているので参照していきたい。

論文の中身について触れる時間がなくなってしまった。とりあえず今日は水曜日。健やかに過ごせたらいいですね。がんばりましょう。