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精神分析

ロレンツァーの場面的理解とか。

今朝もうっすらピンクがかっている時間がない。夜明けは随分早くなったと感じる。

昨日はドイツ精神分析学会(DPV)の精神分析家Bohleber, W.の2016年の論文、Introduction to Alfred Lorenzer’s Paper ‘Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy’.を読んだと書いた。アルフレッド・ロレンツァー論文「精神分析的治療における言語、生活実践、場面的理解」の紹介でいいのかな。ここに書いてあることをざっと書いておく。正確な翻訳ではないので原典をご参照あれ。これはロレンツァーの1983年の論考の再録と展開のよう。1922年生まれのロレンツァーはエルンスト・クレッチマーのもとで精神科医として訓練を受けた。無意識の「場面的理解(szenisches Verstehen)」を中心に据えた、新たな精神分析メタ理論を構築した。シュトゥットガルト精神療法研究所およびハイデルベルク大学アレクサンダー・ミッチャーリッヒの心身医学クリニックで精神分析訓練を修了し、その後、ミッチャーリッヒが所長を務めていたフランクフルトのジークムント・フロイト研究所で勤務した。これはBohleberが2013年のIPAジャーナルで紹介している同じくDPVのヘルマン・アルゲランダー(1920ー2004)の経歴とほぼ同じ。ロレンツァーはドイツ精神分析学会(DPV)の訓練分析家であり、1971年にブレーメン大学社会心理学教授、1974年にはフランクフルト大学社会学部に移り、社会化理論の講座を担当した。1991年、病を理由に研究・臨床活動を退き、2002年に死去。

1960年代のフランクフルトでは、マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノによる批判理論を基盤に、社会科学の方法論、科学的客観性、意味の解釈学的理解をめぐる、極めて刺激的で実り多い議論文化が形成されていた。精神分析も理論としてこの議論に含まれていた。
社会科学者と精神分析家の対話は、精神分析理論に豊かな進展をもたらし、その一つがロレンツァーによる新しい精神分析メタ理論構想であった。彼はドイツ精神分析を代表する理論家の一人であり、精神分析的知の形成過程を精密に理解し、精神分析を社会理論の文脈に位置づけることに力を注いだ。

彼の関心は当初から、精神分析的理解の固有性に向けられていた。彼の提唱した「場面的理解」は、論理的理解や心理学的理解の限界を超え、精神分析的認識の対象が本質的に場面性(scenic character)をもつことを明らかにした。
フランクフルトのフロイト研究所で同時代を生きたヘルマン・アルゲランダーは、臨床経験から独自に心的過程の場面性に到達し、ロレンツァーの概念を採用したが、彼はこの機能を自我に帰属させた点で、イドに場面的構造を認めたロレンツァーとは異なっている。

ロレンツァーは1965〜70年にかけて、外傷性神経症、強制収容所生存者のトラウマ、戦争外傷についても独自の研究を行っていたが、その後、主たる関心を精神分析的知の対象・方法・科学的地位へと移した。
1960年代には、ユルゲン・ハーバーマスによる「精神分析=内省の科学」という立場と格闘するが、ロレンツァーはそれとは異なり、精神分析のプラクシス(分析家が実際に何をしているか)を議論の出発点とした。彼は精神分析がそれをどのように理解しているかよりも「分析家が何をしているか」を基盤にメタ理論を構築した。彼の基本命題は、精神分析とは言語の変容に関わる営みであり、それは表象representativesの象徴化/脱象徴化の過程という象徴理論の文脈で理解される、というものである。このメタ理論は次第に異なる象徴形成の平面に位置する相互作用形式」という概念へと展開されていく。ロレンツァーにとって精神分析は、自然科学と解釈学の中間に位置する独自の科学であり、後年彼はそれを「身体の解釈学hermeneutics of the body」と呼んだ。フロイトは精神分析を自然科学の領域に属するものと見なしていたが、彼自身は――暗黙のうちにではあるが、決定的な仕方で――自然科学と文化諸科学とのあいだの境界を廃し、新たな科学のパラダイムを打ち立てた。ロレンツァーにとって、「フロイトへの回帰(Back to Freud)」というスローガンは、自我心理学者たちとは異なり、メタ心理学的立場および欲動理論への回帰を意味する。精神分析の生理学的基盤を保持しつつも、彼はフロイトのいうところの「素朴な生物学主義」とは対照的に、欲動の心身的構造を社会的過程の産物として構想することに関心を向けている。この目的のために、彼は相互作用形式(form of interaction)という基礎概念を展開する。

という感じ。このあと、三層モデルとか二層のプロセスとかを用いてロレンツァーが解釈学とは異なる場面を理解する学問として精神分析を捉えたみたいなことが書いてある感じ。より巻き込まれる感じが強いってことだと思う。そして多分水平、垂直の二層は環境と関係で言い換えできるかもと思うけど言語以前の形象を記述するのって本当に難しい。ないけどあるんだ、ということをひたするいう感じ。兎にも角にも戦後のドイツ精神分析はフランクフルト学派第一世代との関連で理論化が進んできた感じなのかな。私はハーバーマスしか読んでいないからまとまったものを読まないとだな。あ、場面的理解って私が英訳から訳してしまったのはszenisches Verstehenなんだけど訳者もそのニュアンスを伝える英語がないからとりあえずこうした、みたいなことがどこかに書いてあった気がする。単なる場面ではなくて舞台とか上演とかに関わる単語だって書いてあったかな。忘れてしまった。Bohleberはローレンツァーとアルゲランダーの紹介をしつつ、ドイツの精神分析家としてトラウマの研究を続けている。アルゲランダーの紹介もローレンツァーの紹介と同じ感じの書き方で読みやすかった。今、メモを探す余裕がないので論文名がわからないけど2013年のIPAジャーナル。1960年代以降、ドイツの精神分析が自我心理学と離れていく様子をガダマーの「真理と方法」の影響などから書いていってたと思う。私はガダマーのこれも読んだことがないけど「遊び」について言っているところは別の論文で読んだことがあってウィニコットと似たようなこと言ってるなと思った。記述が似ているだけで違うのだろうけどね、全然。細かく検討しないとみんな似てる、みんな同じ、と言いがち。危険。ただ「わからない」「知らない」「経験したことない」と言えばいいものをちっちゃい同じ探しで括ってく。危険。

衆議院議員選挙のお知らせもきたけどほんと嫌だ。期日前投票も始まった。杉並区長の岸本聡子がこの時期にこういうことをされるとどれだけ困るかをきちんと書いていたがそんな声も届くはずもなし。今がどんな時期か、とか考える力もその気もないから今こうなっているのだし。声の聞けない政治家なんて本当にいらない。口角の上がり下がりとかどうでもいいがそれで読めてしまう内容しか言葉にできないなんてもっとダメだと思う。自分のためだったら誰の時間やお金を使っても構わない、という愚かな権力者イメージそのままの人をリーダーの位置に置いてしまったことで多くの人が迷惑を被っているわけだが、それに賛同する人たちが多いのも事実。誰かに秩序づけてもらわないとたやすく不安になるのが人間で、だから神は必要だったし、今も神的なものが求められることは多い。だからか?それにしても神っていうのも同じ人間の形でイメージできてしまうのが微妙に巧妙だと思う。私たちって同じ人間だと思うと自分がモノ扱いされてもなんか理由があるような気がしてそんなものなのかなって思っちゃったりする。なにかに強く違和感をもつって本当に難しくて、相手がなんらかの点において自分より弱い立場だと認識した場合にしかその違和感を表明できない場合も多いと思う。なんで自分がこんな目にあうわけとか、なんかおかしくない?と思うことはあってもそれを「革命」の動機にするにはそうしない理由がいくらでもでてくるのではないだろうか。もちろんそんなのは個人の自由だけど、と放っておくこともできるわけだけど、そういうことは考えておいたほうがいいのでは、と今の政治状況にあると特に思う。わからないけどさ、精神分析を受ける人は自分のそういう考えられなさをどうにかしたいと思っている人が多い気がする。そのせいで実際に辛い状況であることを自覚するプロセスで精神分析を求めることが多いのではないかな。というか、こちらがそういう状況だと理解するからこそ提案するというのもあるか。まあ、このへんは相互作用なので、まったく個別の出会いと導入のしかたになるだろうけど。理解するとか考えるというのもそれってそういうことじゃなくてということはそれぞれよくあると思う。「もうちょっと考えてから行動しなよ」というより「早い、早い」といっがほうがとりあえず効き目があったりするのと同じで考えろとか勉強しろとかそういう言葉ってすごく曖昧。私がいった考えるはそういうことじゃないとか言い出す不毛さってあるでしょ。言ってもわからないとわかってるくせにわからせようとしてる自分のことも嫌になるしね。嫌になっても止められないし。

なんかダラダラ書いているとキリがないけど仕事の時間。今日は早くも木曜日。東京はいいお天気。梅がきれい。がんばりましょう。

ろうばい