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精神分析

アルフレッド・ロレンツァー論文を読んだり。

寝不足。年末にもらった新潟味ののれん本舗のおせんべいが美味で遅い夜ごはんのあとに食べてしまったが、今朝は意外と胃腸にきていない、かも。あとからくるのかな。怖い。

私はやっぱり黄金揚げが好き。はちみつとお醤油はまさに黄金の組み合わせ。歌舞伎揚げも昔から大好き。あれはざらめとお醤油かな。小さい頃はいつもうちにおせんべいがあった気がするけど、今、自分で買うことはほとんどない。旅先でならあるけど。昔、祖父母の家からその辺に住む人しか使わない細い道を行った先に小さな商店があってそこで祖母がお煎餅を買っていた。ぽたぽた焼きのおいしさを知ったのはそこでだったか。あれは亀田製菓。やはり新潟。米どころの煎餅はおいしいね。そんななか詰め合わせをいただいたので色々試せて楽しい。自分で買わないのは食べ過ぎてしまう心配があるからかも。あまいの食べるとしょっぱいのが食べたくなるし逆もそうなんだから、あまいのとしょっぱいのがマリアージュしてしまっていたら食べちゃうでしょう。困りますね、おいしいというのは。

この前、ドイツ精神分析協会(DPV)の精神分析家、Bohleber,W.が紹介するアルフレッド・ロレンツァーの論文について少し書いた。そこで紹介されていた論文はLorenzer, A. (2016) Language, Life Praxis and Scenic Understanding in Psychoanalytic Therapy. International Journal of Psychoanalysis 97:1399-1414。私の設定でもPEPで読めた。最初に検索したつもりだったのに。自分がなにを考えてその論文にたどり着いたかは私にとって大事なのだけどすぐに忘れてしまうから最初の目的とずれた方向で勉強してしまっていたりする。今回もそれで検索ワードを間違ったのかもしれない。それはそれでいい面もあるけどやるべきことがあるときは本当に時間がなくなるのでいけない。自分のこういうところに不便さを感じる。さて、ロレンツァーのこの論文は英訳が2016年。訳者はPhilip Slotkinという人。元の論文はZeitschrift für Psychoanalyse und ihre Anwendungen, 37:97-115 (1983).ロレンツァーは2002年に亡くなっている。原著はボルバーの論文から私が読み取ったものとはずいぶん違った。巻き込まれることについての記述なんだという印象は変わらないが、症例の提示はないにもかかわらず著者の臨床態度がなんとなく伝わってくるような論文で、理論化に説得力があって、隙間時間を全部使って読んでしまった。著者は最初に語表象と物表象をどう扱うかを示して「物表象とは、(いまだ言語に基づかない)相互作用の記憶痕跡――すなわち、経験された行為の沈殿物であり、未来の行為のモデルである」という。そして「治療者が患者の「遊び」に参加することを基礎として、患者によって提供されるすべての素材を、夢解釈に類似したアプローチによって扱う場面的理解(scenic understanding)は、無意識への王道(royal road)なのである。」という。そして「この方法と対象の「言語ベース」の性質は、精神分析の根本的特性であると同時に、根本的問題でもある。というのも、精神分析における認識対象が無意識であるという事実は、次のような奇妙なパラドクスを生み出すからである。すなわち、精神分析は、言語の外部にあるものを、言語に基づく手段によって探究しようとする、言い換えれば、理解しえないものを理解しようとするのである。」と精神分析が逃れようのない問題を確認しつつ、主にフロイトの著作を引用しながらそのメタサイコロジーを部分的に更新していく。

ボルバーのIntroduction to Hermann Argelander’s paper ‘The scenic function of the ego and its role in symptom and character formation’、ヘルマン・アルゲランダー論文「自我の場面的機能と、それが症状および性格形成に果たす役割」(Argelander, 1970)への序論、と訳せばいいのかな。

ボルバーはそこでロレンツァーと同世代人のヘルマン・アルゲランダーの紹介をしているが、ロレンツァー自身が、自分とアルゲランダーの考え方の相違にも触れていた。ついでだからフランクフルト学派との関わりも感じさせる文章と一緒にざっと訳すとこんな感じ。

「「物象化的(reifying)」な見方の支配は、過去50年間にわたって、「ヨーロッパ諸科学の危機」(フッサール、1936年)の中核として、またわれわれの日常的盲目性の主要なトポスとして、次第に明らかにされてきた。思考が一般に物象化へと「頽落(fallenness)」していることを考えれば、精神分析的理解の場面的性格の認識が、その完全な開花に至るまでに時間を要したとしても、驚くには当たらない。というのも、それが完全に明示され、精神分析の状況的基盤を反駁の余地なく浮き彫りにしたのは、「転移と逆転移」の相互作用がもつ決定的意義が全面的に理解されるに至ってからだったからである。
この理由からしても、「場面的理解」モデルが、互いにかなり隔たった二つの研究領域において、同時に成立したということは、同様に驚くべきことではない。すなわち、アルゲランダーの臨床分析と、私自身による精神分析的方法の科学・理論・メタ理論に関する探究とである。
もっとも、両者の概念は完全に一致しているわけではない。しかし、この差異は本論の目的にとっては本質的なものではない(最終的には、付加の問題にすぎない)。とはいえ、ここで簡単に触れておくことにしよう。アルゲランダーは、場面的理解を「自我の機能」として捉えている。すなわち、場面的経験を構成するのは自我である、という立場である。これに対して私は、精神分析的知の主体の決定はイドの場面的構造を前提としている。イドは、場面的な関係公式(自然と社会的実践の諸形式との総合として)から生じるものと理解される。」

と。なるほど。ドイツ精神分析における自我心理学との関わりとそこからの転回を追うのも面白そう。たぶん誰かすでに書いてくれていると思うからいずれ探そう。

ついでだからアルゲランダーのこともメモしておく。ボルバーによると「ヘルマン・アルゲランダーは1920年生まれで、医学修業後、内科学の専門医となった。その後、ベルリン精神分析研究所において精神分析の訓練を受け、1950年代に資格を取得した。1959年には、ハイデルベルク大学心身医学講座においてAlexander Mitscherlichとともに勤務、1960年には、ミッチャーリッヒが新たに設立したフランクフルトのSigmund Freud Instituteへと移った。」

と。ここでアルゲランダーとロレンツァーは出会ったのかな。アルゲランダーは2004年逝去。今度のIPA COWAPのレクチャーでDPVの人たちの名前があったけど英語だからなあ。私はひたすら文字になったものを読んでばかり。色々聞けたらいいのにね。

冬の果物

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家