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精神分析

梅、アイデンティティ

薄いピンクに光が満ちてくる。きれい。春の太陽。

少し前にみにいった梅園をもう一度見に行ったら満開を過ぎていた。少しだれた華やかとでもいうのか。お手入れしなくても美人は美人というのか。きれいとキョロキョロ歩いてたら知らない人に「富士山はみた?」とニコニコ話しかけられた。「いまからです」というと笑っていた。美しいものは平和と繋がってる。夕焼けに浮かぶ遠くの富士山もとてもきれいだった。

昨日はフランス精神分析の祖、ラカンの初期、エクリの最初の方に載っている鏡像段階の論文に関連してコレット・ソレールの年次セミナー2014-2015“Vers l’identité”の英訳を読んでいた。ソレールはジャック・ラカンに直接師事し、ラカン派精神分析をリードしてきた重鎮。動画で彼女の姿も語りも見ることができる。『情動と精神分析』“Les affects lacaniens”の全訳の書評を書いたときに著者Colette Solerのもっと基本的なものをと思って読み始めた。書名は“Towards Identity in the Psychoanalytic Encounter
A Lacanian Perspective”

訳者による序文の一部。

“Translation of any kind is rooted in optimism,
(中略) Sustained by this optimism, week after week for almost three years, the members of the Cartel met to engage with the text and to … make it speak English!”

精神分析の文脈におけるidentity とidentificationの区別から始まるこの本、自由自在に講義するソレールの声が聞こえてくるよう。ソレールはラカンと強く同一化しながら彼の理論を救いつつ他者との同一化をそれまでの精神分析とは全く異なる形で論じ、プチラカンを作らなかったラカンの教えのせいかそこから逃れる方向にもいっている。ラカンの鏡像段階は出発点となる重要論文。数年前にエクリを読む会に出たときはこれが取り上げられてなくて、でもその時に英訳を買っていたので自分で読んだ。これはアーネスト・ジョーンズが会長だった1936年、ドイツのマリエンバードで行われた大会で発表されたのが最初で、エクリに収められているのは1949年のもの。

ソレールのセミナーでも当然取り上げられるわけだけどアイデンティティは前期だけで論じられているわけではないからやっぱりラカンに戻るのがいいんだろうなと思う。

やることだらけなのに毎日バタバタだけど少しずつだね。どうぞ良い日曜日をお過ごしください。

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精神分析

マラブー、オグデンを読んだり。

すっきりした夜明け。今日は手首が痛い。高市首相のパフォーマンスがきつい。ひどいニュースが多い。川崎の事件は本当にひどかった。

昨日はポンプタイプを使っているハンドクリーム「アトリックス」が濡れた手に馴染ませてそのままサッと流して使うとしっとりすると聞いた。そうなのか。全然知らず普通に使っていた。今日は手を拭く前に塗ってみよう。昨年から肌の状態が一気に変わったのでこの冬はいつもよりがんばってハンドクリームを塗っている。そのせいかキレて痛いということが少ない。当たり前なのだろうけどケアが大事。

先日から『泥棒! -アナキズムと哲学-』 カトリーヌ・マラブー 著 伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子 訳(青土社)を読み始めた。そんなことしている場合ではないが、アガンベンのことも書いてあるし、今の作業に役立つかもだし、哲学はいつだってヒントをいっぱいくれるから趣味として。通勤時間に少しずつ読んでいるので全然進まないが面白い。第2章のアナーキーとアナキズムの違いもそうだったのかと。アナーキーは原理(アルケー)の不在、で、アナキズムは・・・なんだったか、見直さないとわからないが、マラブーは可塑的な力として論じる。支配に対する態度の一つとでもいえばいいのか?最初にしっかり取り上げられるのはアリストテレスの『政治学』。ここだけですごく勉強になる、というか思ったよりずっと読みやすくて短時間でも没頭できてしまう。で、まだ私はその章にいる。「統治されざるもの」は「統治しえないものではない、という言葉が心に残る、というか、ここを出発点にしているのか?まあとりあえずちょこちょこ読み進めよう。当然、フロイトの引用もあるので。

昨日は原稿を書く時間はなかったがオグデンの「自閉ー隣接ポジション」の論文が入っているThe Primitive Edge of Experience by Thomas Ogden(1989)の 3.The Autistic-Contiguous Positionを再読した。これも部分的に訳してあるが訳の整理をしていなかったのでさらに部分的にしか見つからずだったがオグデンの英語は読みやすいし、用語自体は英語で押さえておいた方が他の論文を読むときにも楽、というか私が修正しているのは英語論文なので、このまま引用すればいいから英語で読んでしまった方がいい。精神分析におけるautisticという概念を心の体験様式の基盤に据えて思考することが必要な時代だと思うし、精神分析が初期に自閉症を捉える際にした失敗は繰り返してはいけない。別のものを同じ言葉で捉える、つまりすぐに似たような言葉で置き換えずとどまり続ける試みこそオグデンの大きな貢献だと思うので、というか私はオグデンのそういうところに力をもらっているので引用しながら自分の考えを提示できたらいいなと思う。

ということで今日もいいことありますように。まだ空にピンクが残ってる。元気に過ごしましょう。

西新宿
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フィギュア、みかん、原稿

今朝の夜明けも雲が多いかな。きれいな青。フィギュアスケート女子シングルフリー、みんな衣装が素敵。中井亜美の衣装は音楽に合わせてフェリーニ『道』のジェルソミーナだった。悲しく切ない愛しいジェルソミーナ。中井亜美のジェルソミーナはとてもかわいらしかったね。

今朝はリフェンリのケークマロン。東急世田谷線線松原駅のそば。京王線下高井戸駅からも歩ける。世田谷線は2019年に50周年を迎えたらしい。街歩きマップもあるし、お散歩に人気の路線。路面電車とか歩く道と高低差のない駅や電車はいい。気持ちが穏やかになる。満員じゃなければだけど。都電荒川線のあらかわ遊園に行きたいな。こじんまりしたところはこじんまりさ自体が楽しい。

二月はいろんな種類のみかんを食べている。今日はデコポン。かわいい形だねえ。農家さんもいろんな工夫を凝らしてその土地だけのものを作っていく。色々食べたいな。

原稿が書けなくて少し提出期限を延ばしていただいた。そもそも書き方をわかっていないという気がする。でもすごく勉強になっている。いいものにできたらいいな。時間がほしい。

坂本花織銀メダルか。この若さで引退かあ。この若さでいいものを次世代にたくさん残した人ですよね。すごい。私はあのスピードとパワーが大好き。みんなすごい。

今日もいいことありますように。

初台から新宿パークタワーと都庁方面
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精神分析

大変なことだ。

夜明けが早くなった。今日の東京の空はとてもきれい。

昨晩のオリンピックも色々でしたね。それぞれ本当に強い思いを経験するんだろうなあ。大変なことだ。しかも映像で何度も同じシーンを体験させられる。大変なことだ。精神分析をしていると人間がいかに他人からの言葉を素直に取り入れることができないかが本当によくわかる。もちろん私も精神分析を受けることで受けなかったら絶対に気づけなかったであろうレベルで体験した。最後の方はどんな気づきも面白かったし、防衛的にならずにいられたけど最初は辛かった。これはどんな人でもそうだ、ということは経験している人にはほぼ伝わるだろう。頭でちょっと気づいていてもそれを他者と体験することは全く別。そうやって別の何かと出会っていくことに時間とお金をかけられる人はそんなに多くないけど私は結果的には良かったな。とかなり時間をかけないとその意義は掴みにくいかもしれない。というより、自分が気づいていなかった自分と出会う衝撃を体験すればするほどその意義には気づくのだけどその作業から逃げたい気持ちもものすごく強く体験させられる。防衛とはそういうものだし、精神分析が外傷的に作用するとよく言われるのもそれと関係している。何度も何度もこれまでの自分を体験させられ、そのたびに強く揺さぶられる。それは耐え難い不快さを伴う。精神分析の作業がなされるまで、あるいはなすことが困難な場合は身体の症状が出たり、日常生活でのうまくいかなさが増すこともよくある。いいことなんてひとつもないではないか、と思いながら、苦しむ場合も多い。それ事態に対する予測はかなり初期で共有されるのも特徴的だろう。人はこうなるものだ、という理解はわりと普遍的なものだと思う。でもその強度はものすごいのでどれもプロセスとして生じると知りつつも辛い。精神分析家の方もその場で起きていることを意識的には理解しつつも自分をコントロールできないことを感じながらなんとかそこに留まり続けなければならない。その人が生きてきたやり方に触れるわけだから何が起きるかを身をもって体験していないとかなり難しいだろう。体験していないからやれてしまっているような二人になる、ということも頻繁に起きるからまた難しいし、精神分析を受ければ絶対体験するものでもない。その前にやめてしまう場合も多いし、予測される体験を避けるために何度も何度も同じことを繰り返し、何も変わらないし、変えたいとも思わないとなる場合だってある。なんて書いたところで精神分析状況で生じるものすごい複雑で矛盾だらけの出来事、あるいはそれらをまるっきり単純なもので覆う動きは身体全体で感じていくものだから伝わるような表現は難しい。オリンピック選手がまず自分でこの場に立って同じ経験をしてから言ってほしい、というのはよくわかる。が、自分の言葉の外側で何かを言うってほぼ不可能。それを超えていくなら境界を曖昧にするリスクを背負うことになるし、そのためには・・・という循環が延々続く。大変なことだ。でもみんなそれぞれがんばろう。どうぞ良い一日をお過ごしください。

新宿中央公園。ピント合わせが難しい形態。
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身体、言葉

曇ってるのかな。夜明け前の空はぼんやり。今朝もオリンピックをつけながら作業。中井亜美すごい。オリンピックとは思えない軽やかさ。やっぱり上にメダリストがたくさんいる強いチームにいるっていうのは力になるのかな。安心かも。グループとしていろんな意味で強いって下の世代には大事。私は連日、現役かどうかにかかわらずオリンピック選手たちの言葉に感銘を受けている。とても正直な印象を受ける。怖さを感じるかと聞かれればあっさり「怖さしかない」とか。そりゃそうだよな、とストンと落ちることをものすごい現場からいわれると明るい気持ちになる。防衛的になればなるほど言葉は実感や現実から離れていく。身体をかけて戦う人たちに防衛している暇などないか。言葉ばかりの世界にいるからそこになにか隠された情緒があるような気がして他人に悪意を向けたくなるのかもしれないな。言葉はどんどん事実をややこしく変えていく。身体を上手に使えるようになりたい。私は嫌なことは筋トレ前に一気にすませたりする。それとは違うか。でも、きつい、無理、死ぬとかいいながらチャレンジしているうちに頭がからっぽになる。疲れてなにも考えられなくなるけど集中しないとバランスも保てない。身体に集中する時間って本当に大事。メンテナンスのための地味で地道な筋トレだけどちょっとしたアスリート(?)みたいなメニューをこなせるようになっている。最初はどこの骨や筋肉を動かしているかも自覚できないままひたすらきつかったけど今はだいぶわかる。ヤンキー座りもだいぶできるようになってきた。ヤンキー座りができるということは足首柔らかいということ。私はかたいんだよねえ。転びやすいしけがをしやすいのはキョロキョロ落ち着きなく動くからというのもあるけど。だから身体全体のことを学びつつここを鍛えるとこっちの可動域も広がるわけね、なるほどねー、と学べるのはいいこと。擬音語をいっぱい使いながらやっている。この前はピストルスクワットなる片足スクワットにむけて手すり付きで片足スクワットをした。久々に結構な筋肉痛になった。

さあ、今日がいい日になりますように。

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オリンピック、明治神宮

また早朝からオリンピックを見てしまっている。スキージャンプ男子スーパー団体、雪で中断。たしかにすごい雪だった。それでも観客のみなさんは盛り上がっていた。寒いだろうに熱いのだな。そしてフィギュアスケートペアフリー。りくりゅう完璧。結果どうなるかな。みんな衣装素敵。デザインする人も楽しいだろうねえ、これは。フィギュア男子のマリニンの衣装もすごかった。あれが似合う人がいるんだからすごいことだ。私はフィギュア団体のマリニンの後半の演技に度肝を抜かれた。失敗したあとにあれだけ迫力ある演技ができるのか、と思った。おー、りくりゅう、金メダルか。最高の演技でとれるのは本当に嬉しいね。ドイツのペアは衣装も雰囲気もとても素敵だった。

先日もらった日本野鳥の会の「別冊ユリカモメ 生物多様性特集」で「月例明治神宮探鳥会で会える生き物たち」を読んでいた。毎日のように歩いていた日々ではなくなったが、歩いていた頃に知ってればなあ。とはいえ私のオフィスは明治神宮の西参道にあるのだからお散歩にいけばよいのだ。なんとなく用事ついでに新宿中央公園を通って新宿に出てしまうのだが。明治神宮の森はオフィスの窓からきれいに見えるので季節の移り変わりがよくわかる。冊子にも書いてあったけど落ち葉の季節が2回あるね、明治神宮。初冬と春。ナラ枯れのせいでクヌギやコナラの大木が倒れて日当たりが変わって地面の環境も変わり、木々や虫たちの状況も変わっているとのこと。池が干上がるとか、本当に少しずつ見える形で心配なことが増えてきているよね、きっと。青森に旅したときに地元の人たちから聞いた「はじめてクーラーを買った」とかとれる魚が変わってしまったとか生活の変化を直接に聞いたときも本当に恐ろしくなってしまった。

今日は雨は降っているのかな。昨晩は結構降っていた。久しぶりに強めの雨の音を聞いた。今年はすっごく寒い日は少ないけどまだ冬みたいな日もあるから身体大事にして過ごしましょう。

メジロがちっちゃく鳴きながら梅をツンツンしていた。
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散歩したり。

朝の空のピンクはきれい。昨日の昼間は暖かった。今日は昨日ほどではないのかな。

あまり高低差のない埼玉の山をふたつ登ったというか散歩した。埼玉はほんと平野。関東平野。お隣の群馬はあんなに山に囲まれてるのに。東武東上線と八高線を乗り継いでその町にひとつしかないという駅を降りてしばらくは舗装路を歩いた。工場が多くてほとんど人がいないせいか鳥たちが賑やかでカワラヒワと思しき鳥の尾がきれいだった。ようやく土の道に出たと思ったら延々竹藪、ではないな、ある程度整備された竹の道を延々歩き、一つ目の到達点の峠へ。武将たちの思いが今の人をも熱くするらしくそこまで誰にも会わなかったのにそこだけ歴史を語る私くらいの年齢の人たちで盛り上がっていた。私たちは再び雑木林へ。街中では紫の小さなホトケノザや梅が咲いていたが、ほとんど花と出会わず。小さな山の公園の見晴台に着いたら大きな声で話す老婦人たちが煙草の煙をはいていてびっくりした。「火気厳禁」の表示の目の前で紙たばこかあ。慌てて隠してたけどこうやって山火事って起きるのかもなあと思ったりした。中学生じゃないんだからさ、とちょっと呆れた。公園には犬を連れた老夫婦や双眼鏡をぶら下げたカップルやなんとなくこっちきてみたみたいな若者とかいたが老年期の方が多かった印象。みなさん杖つきながらよく歩く。山登りというほどの高低差はなくても普通の散歩よりはずっと山道に近いのに。そのあといくつかの施設でのんびりして結局3万歩以上歩いた。帰りの電車はほぼ寝てしまい、帰ったらちょうどやっていた大河ドラマで途中からのくせに号泣した。昨晩締切の俳句をウトウトしながら作って送信したがあまり記憶がない。結社誌がオンラインでの投句になったのはありがたい。紙に清書する元気は残ってなかったからもしそうだったら今回は投句できなかったに違いない。そして今朝、メールをチェックしてひとつ用事を忘れていたことに気づいた。あー。

色々頭がこんがらがっているがやらねばならぬことばかり。がんばろう。よい一日にしましょう。

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オリンピックとか学術大会とか。

雲は少なそうなのに夜明けらしい空はみられなかった。

昨晩、色々終えて「長い一日だった・・・」と思ったけど時刻的にはいつも帰る時間と同じだった。内容がいつもと違うだけで感覚が全然違う。保育園の巡回から帰る電車が本数ないのに少し遅れておりギリギリでオンラインのミーティングにでて、読書会を終えテレビに戻るとアルペン男子大回転をやっていた。冬季オリンピックでブラジルが金メダル。選手は海外でトレーニングを積んでいるのだろうけど国というのはやはり大事なのだね。自分を規定するものは全て大事だよね。逃れようのないものとして、という意味ではなくて思考の体勢を作っていくうえで。外側から押し付けられるものであれ、自分で掴み取るものであれ。そこで自分は、そこからさらに自分は、と悩む。精神分析の文献は大体海外のを読んでいるけれど両親の国籍とかユダヤ系ドイツ人のようなルーツの記載や移民という単語はよくでてくる。やはりそれらは文脈として非常に重要となる。オリンピックに出るほどの選手の言葉もまた、私が一生経験しないような状況から生みだされたもので胸打たれることが多い。その国の人として出ることの重み。少ない練習場所で一緒にトレーニングしてきたいろんな国のいろんな人、それぞれの背景。違いに思いをよせることでしか生じないリスペクト。同じ言語を話す人同士でもこんなに通じないのに、という体験は誰にでもあるだろう。そういう違いを国名でまるめてなかったことにしないように、私はこうしたい、私はこう思う、私の言葉でいえばこう、といえる関係を育てていく必要がある。つまり自分の欲望と出会っていくこと。たやすく形にならないものたちとまずは出会う場を。精神分析はそういう場を提供できるはずだが現代はそんな能動性を患者のニードに認めるのは難しいのかもしれないし、そういう分析家になりたいと訓練に入る人も少ないかもしれない。コスパ・タイパの時代。

そういえば、そんな精神分析のことを守秘義務をもつ臨床家のみなさんにお伝えする場として、日本精神分析協会第44回学術大会が開催される。会期は2026年6月13日(土)午後〜6月14日(日)。場所は東京都新宿区、JR線、東京メトロ南北線・有楽町線、都営新宿線「市ヶ谷駅」そば、TKP市ヶ谷カンファレンスセンター。協会のウェブサイトをぜひチェックしていただけたら嬉しい。私は今年もパネルと演題をだし、司会も務めさせていただく。豊かな議論のためにがんばって準備するのでどうぞよろしくお願いいたします。

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土曜朝

東の空の細い月がきれい。

スノーボード・男子ハーフパイプ、フィギュアスケート・男子シングルフリーと見ている。戸塚優斗、素人にもわかるものすごいランだった。

あ!俳句作るの忘れてた。いや、覚えていたのだけど明日締切という意識が薄かった。結社誌用とオンライン用。15句できる気がしない・・・。が作るしかない。論文の修正が全く進まず困っているうえに今日は移動も含めて夜中までバタバタ。俳句は移動時間にやろう。

フィギュア最終グループは登場から華やかだな。日本はまもなく夜明け。イタリアは何時なんだろう。

論文の修正が進まないのは自閉スペクトラムの特性に関わる記述がうまくいかないから。ASDではなくてASの。精神分析はパーソナリティの精神病部分と非精神病部分という分類とは別に、メルツァー、タスティン、ビック、シドニー・クライン、アルヴァレズ、オグデンたちが人の心に自閉という軸を取り入れてきた。私はウィニコットを議論の基盤においているけど、ウィニコットの事例を自閉という観点から見直す作業が足りていないせいでうまく書けないのだろうと思う。わかっちゃいるが・・・。うーん。とにかくこちらもあと締切が近い。がんばらねば。

空が明るくなってきた。うすーく水色とピンクが広がってる。今日は昨日より暖かくなるのかな。とても花粉を感じる・・・。河津桜がかわいく咲き始めていた。今日も無事に過ごせますように。

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橋本多佳子の俳句とか。

今朝も雲が多い。スノーボード女子ハーフパイプ決勝もすごかった。解説の人がいちいち日本を強調しないのがいい。すごい人たちが普通に讃えられる世の中でありますように。

昨日、橋本多佳子全句集(角川ソフィア文庫)をパラパラしたら「淡路島」という題を見つけた。

一夜の島月下の石蕗の花聚まる

海より雨激しくよせる石蕗の花

など6句。秋に行ったのね、きっと。淡路島はコロナ禍で出かけられなくなる前に最後に旅したところ。この前、長いお付き合いの美容師さんから淡路島に行った話を聞いた。同じときに私は渦潮の向こう側、徳島の鳴門にいた。渦潮は淡路島からの「うずしおクルーズ」の方がおすすめだな。船だから当日にならないと予定立たないかもだけど。

橋本多佳子は中村汀女・星野立子・三橋鷹女と並ぶ“四T”といわれる俳人のひとり。この句集と橋本多佳子については前にも書いた気がする。最近、私が大好きなイラストレーターの霜田あゆ美さんが装画と挿絵を描いている宮崎智之編『精選日本随筆選集 歓喜』が出た。このアンソロジーにも橋本多佳子が登場。短編「椎の実」が取り上げられている。

「淡路島」と題された俳句の手前にちょうどこの短編で書かれた一句があった。

椎の実の見えざれど竿うてば落つ

自分は淋しがりといわれる。言われてみればそうかも、と書いていくうちにやっぱり全然そうではないかも、となる話である。人はひとりでも空虚や孤独ばかり体験するわけではない。歩けば出会うものたちへの気づきに満たされていく様子が明るく書かれたこの作品は確かに「歓喜」という題にふさわしいのかもしれない。小さな歓喜。小さな椎の実がもたらすものと似たような。

今日は早くも金曜日。びっくりだびっくりだ。いい一日になるといいね。東京の空はまだ曇ってるけどこれから晴れるみたい。がんばろう。

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鳥吟行

よく寝た。曇が多いが少し明るくなってきた。

昨日は雨の中、リュックの上からもらったレインコートを羽織り、借りたNikonの双眼鏡をぶらさげ、野鳥観察へ行った。自分で推し活用双眼鏡(と書いてあった)を持って行ったがプロ仕様のを使わせてもらえて嬉しかった。100円ショップのレインコートもとても助かった。装備って大事。おかげで大好きな鳥さんたちを快適に観察できて楽しかった。一応、吟行で訪れたのだけど、春の季語になるような鳥さんたちには全然会えず。気温も低かったし、花は椿くらいだったので春の季語でなくてもOKということだったけどみなさんしっかり早春の探鳥吟行を俳句にしていた。同じ結社のみなさんともとても久しぶりにお会いできて、みなさん相変わらず面白くて俳句も素晴らしかった。枯れ木のてっぺんに気高く佇むミサゴ(鶚、季語だと冬)とかとてもきれいな模様のアカゲラ(秋)とかちっちゃくてまんまるいカイツブリ(鳰、冬)とかみんなに教えてもらいながらいろんな鳥を見られた。カイツブリは春になると背中に赤ちゃんヒナを乗せて泳ぐ姿がとってもかわいいんだって。もう春なのに、とぼやきつつ、いかにもヒナが乗りそうな平たい背中を愛おしく思った。

昨晩、メモしておいたことを書こうかなと思ったけど時間がないよ。今日は月曜日ではなくて木曜日。昨日、今週も大河ドラマやってないのか、と思ったら水曜日だった。みんなも気をつけて。間違えないか。良い一日になりますように。

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ピクトグラムとか。

空に青が増してきた。フィギュアスケート男子シングルショートプログラムを見ていた。みんなすごいな。衣装も楽しい。

先日グループで読んだバロスの私訳と私見をもうひとつのブログに載せた。いろんな論文を読んで、これはいまいち、とか色々あるがIPAのジャーナルに掲載される水準の論文はかなりハイレベルと考えてよいと思う。自分で読んだときにいまいちと感じても読んでおいて良かったと思うことの方が多い。なにより編集委員が優秀。彼らの査読を経て掲載されているのだからそりゃそうだなのである。昨日の帰り道、言葉の変容についてあるアイデアが浮かんだ。バロスの論文も思い出した。バロスは言葉とイメージの距離が近いのではないかと考えた。というより、言葉をそのまま言葉として捉えすぎではないか。言葉にもいろんなレイヤーがあって音だけ聞けば言葉として受け取ることもできるが、全く意味を成していないものもあるし、相手からの言葉なのにその部分は剥ぎ取って自分の気づきとして語られる言葉もある。しかも何度も、新しい気づき、として。そんなとき、いかにその言葉を受け入れ難いかということを感じる。オラニエはピクトグラムを精神病の患者との仕事から生み出した。どんな病態の人と出会っているかで同じ言葉でも意味づけは変わる。オラニエがいうピクトグラムとバロスのいうピクトグラムは異なるだろう。オラニエからしたらバロスのいうピクトグラムは言葉であってピクトグラムではないのではないだろうか。それは物語へ向かう言葉であって、わからないものをわからないままにしておける言葉ではない。神経症かパーソナリティ障害の描写であればそれも可能だろう。

今日は鳥を見にいくんだ。受験生たちの結果も気になる。世の中には競争が多いが結局は自分とどうやってやっていくか。相手とはどうやっていくかというより素直に関わっていけたらいいのかな。いろんな気持ちに正直でいられるような環境を自ら壊すことなく、大切に、自分を蔑ろにする環境にはNOといいがんばっていきましょう。

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お菓子、王様

今朝の夜明けは雲が多かったが月は明るかった。今日は10度超えるみたい。ここ数日寒かったものね。

徳島で買ってきたお菓子たちが最後になった。最後は穴吹駅前の日之出本店さんで買った「和三盆のふわっとチーズケーキ」。年末年始ももう遠い。春じゃ春じゃ。

カステラみたいな形をしたチーズケーキ。美味しい。徳島県美馬市穴吹町は「うだつの街並み」で有名。最寄駅は穴吹駅。徳島駅から阿波池田までバスで行ってから電車に乗った。地元のタクシー運転手さんに「潜水橋」(渡れて嬉しかった!)のこととか色々教えてもらいながら四国三郎と言われる吉野川を渡り「うだつの街並み」へ。年末でどこも空いていない通りをのんびり歩いたあと、打って変わって活気にあふれていたスーパーへ。そこの休憩スペースでも日持ちしない地元のお菓子をいただいた。それも美味しかった!帰りは穴吹駅まで吉野川沿いを歩いた。洪水が多かったらしいのでそれを防ぐためか竹林がずっと続く道だった。これは竹?竹に似ている何か?と私が知っている竹とは少し違ったけど竹細工が有名とあったからやっぱり竹らしい。徳島は吉野川に助けられたり困らされたりしてきたのね。私が行ったときは水の美しい穏やかな川に見えた。そして駅前の日乃出本店へ。かわいいお菓子がいっぱいでテンションがあがった。お土産のいくつかもここで買った。徳島は2度目だったけど眉山と阿波おどり会館で阿波おどりを教えてもらったことと阿波尾鶏が美味しかった居酒屋のことしか覚えていなかった。今回は県内に絞って色々回れてようやく徳島の地理が少しわかった。どこに行っても水が本当にきれいで穏やかながらダイナミックな地形も身近に体験できて街の人も気さくで素敵なところだった。

毎日、いろんな人と会っていると穏やかな時間もたくさんあるけど辛かったり重苦しかったり耐えがたかったりする時間もたくさんある。臨床は知的なものに還元できない形にならないものであふれている。それらを形にするだけでなく、そこに居続け、抱えていくのが仕事の基本だと思っている。スーパーヴィジョンや事例検討会でも誰にでも当てはまるような用語を使うのではなく、その人が出会ってきた場面や経験の個別性を大切に立体的に描写できるように協力したいと思っている。そんな毎日の臨床体験のなかで時折思う。人は、百獣の王でも海賊王でもなんでもよいから、小さなうちに一度はこの世界を征服してみた方がいいのではないかと。今の政治家たちを見ているとなおさら。彼らはそれを体験してこなかったのではないかと。

ベッドで飛び跳ねながら雄叫びをあげ、ジャングルジムのてっぺんで王は自分だと叫び、小さな手で大きな旗みたいにタオルを振り回し・・・。どうにでもできる!なんにでもなれる!と吠えるように宣言しよう。すごいね、かっこいいね、強いなあ、さすがだ、と大人をひれ伏させ、口々に褒めてもらいながら世界の頂点に立った方がいい。どうしたって叶わないはずの世界できちんとそういう体験をして大人になった方がいい。

子供の頃は本当に唐揚げになれるって思ってたんだよ、と笑う大人に近づいてきた子がいた。唐揚げさえあれば世界が輝いていた頃、自分が唐揚げになってしまいたかった。でもそれは多分海賊王になるより難しいと徐々に知った。そして今は笑い話だ。全てにはなれないが何かにはなれる。こっちがダメならあっちもある。支配や征服なんて今はもうどうでもいい。あの頃はまだ僕の世界には数えられるほどの人しかいなかったんだ。みんなを見渡すことができて、みんなの注意をひくことができた。でも今は世界には見えない部分がたくさんあること、行けない場所がたくさんあること、知らない人がたくさんいることを知ってる。だからひとりじゃ難しい、いろんなことが広がっていかない。だから誰か、と人を求める。そしたらまた支配欲がむくむくと、という場合もある。人間は簡単じゃない。でもできるだけ、せめて論理的になろう。言われたことをそのまま聞き、書かれたものをそのまま読み、見えるものをそのまま見よう。それが難しいからこうなっているんだろうけどね。ああ。難しい。小さな子供たちが小さなうちに王様の体験をできますように。

外は光がいっぱい。みんなの気持ちも晴れますように。

西新宿
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月曜日

夜明け前の空、まだ高いところで半分くらいの月が輝いていた。ミラノ・コルティナ冬季五輪、フィギュアスケート団体、スノーボード女子ビッグエアを見たり、選挙結果を少し見たり。タイも総選挙だったのか。アメリカのフィギュア選手、アンバー・グレンのインタビューを読んだ。苦しい。がんばってほしいが、がんばるべきはグレンではなくて、グレンたちを苦しめる人たちだろう。なんであの若さで、いろんなものを背負わなくてはならないのか。そんななかでパフォーマンスをするグレンはどう考えても素晴らしいが。応援している。

空が遠くまでピンクがかってきれいだった。向かいのいろんな形の屋根にまだ残る雪もピンクに染まった。ほどなく陽がのぼり、そこにくっきりした影を作った。雨も降らず水分不足だった東京は少しは潤ったのだろうか。それにしても眠い。当たり前だが。

昨日はブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeを担当した。ただ訳して読み上げただけだが。主にクライン派の重鎮たちの間でトレーニングを積みながら、その知見の多くを翻訳し、ブラジルに広め、IPAにおいても貢献度の高いバロスだが、日本ではあまり知られておらず翻訳もないと思う。今回の論文は症例の「わかりやすさ」と理論化の仕方にしっくりこないみたいな感じだった。でもそれもバロスのスタイル、とべつの論文を読んで思った。

それにしても眠い。今日もがんばりましょう。

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日曜日

雪少し積もってる。まだ空は曇ってるみたい。まだたまにパラパラ。レースのカーテンも開けておこう。

羽根木公園の梅まつりも河津桜まつりも始まった。雪の中の春はきれいでしょうね。踊り子号乗りたいな。

スノボビッグエアすごかった。鍵山優馬の演技もすごかった。なんであんなステップできてしまうのだろう。ジャンプなんて凄すぎてポカンとしてしまう。スキーには馴染みがあるけど子供の頃は知らなかった競技ばかり。アイスホッケーとかやってみたかったな。今はもうあの小さいパックが見えない。

昨晩は『葬送のフリーレン』を見た。フェルンとシュタルクのデートの回。人の気持ちがわかるってどういうことだろう、と考えた。

さあ、選挙だ選挙だ。足元気をつけて出かけましょう。

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オリンピック、言葉

ミラノ・コルティナオリンピック2026、冬季オリンピック100年なのね。アメリカも日本も酷すぎるし、本当にうんざりしてくるけど、戦争の拒絶を訴えるメッセージがあらゆる人の心に染み渡りますように。

開会式のいろんな身振り、手振り面白かった。言葉だけでは足りないからたくさんジェスチャーがあるとのこと。すごい。昨晩のフィギュア団体、これで引退となる坂本花織の演技に感動した。リクリュウもすごくかっこよかった。アイスダンスの吉田唄菜、森田真沙也組はでリプレイではじめてみたけどハツラツとしてて楽しかった。すごい体力、すごい体幹、と地道な筋トレ人としてはそこにまず感動してしまう。毎回、そういえば今オリンピックなんだ、くらいの興味の向け方だが選手たちにとっては本当に本当に特別な場所なのだろう。誰にとってもいろんないいことが起きますように。

昨日も慌ただしかった。事務仕事に思いのほか時間を取られてしまった。隙間時間に『ブリジャートン家』シーズン4を少し見てしまった。シンデレラストーリーそのものなのがなんか面白かった。仮面舞踏会が本当にゴージャス。お菓子がもう少し見たかったな。まだ主演の女優さんがマスクをとったところにたどり着いていないけど会話のテンポも楽しいし、かっこよさそうなシンデレラ。音楽も相変わらずいい。私はこういうのもなんでも安心して楽しみたいんだよ。平和を。ひたすら平和しか願わない。

全米批評家協会賞のファイナリストに、多和田葉子『エクソフォニー  母語の外へ出る旅』の英訳版 “Exophony: Voyages Outside the Mother Tongue” by Yoko Tawada (tr. by Lisa Hofmann-Kuroda) が批評部門と翻訳部門でノミネートされたとのこと。日本で出版されたのは10年以上前。「エクソフォニー」とは「母語の外に出た状態一般」のことだそうだ。この本は翻訳という行為そのものだから納得だなあ。松尾芭蕉『奥の細道』のドイツ語訳の話とかも面白いよ。

ながら書きしてるとバラバラしたことしか書けないな。今日もがんばろう。東京も雪が降るのかな。すぐに電車止まってしまうから心配。雪じゃなくてもしょっちゅう止まってるけど。選挙結果に先走って絶望しそうだがまずは投票。

今、日本の多くの人は「平和」という言葉を嫌っているのかもしれない。多和田葉子はいう。

「好き嫌いをするのは言葉を習う上で大切なことだと思う。嫌いな言葉は使わない方がいい。学校給食ではないのだから、「好き嫌いしないで全部食べましょう」をモットーにしていては言語感覚が鈍ってしまう。一つの単語が嫌いな場合は、自分でもすぐには説明できなくても必ず何らかの理由があり、その理由は、個人の記憶や美学と結びついている。だから、思いきりわがままな好き嫌いをしながら、なぜ嫌いなのかを人に言葉で伝える努力をしたい。」

ーー多和田葉子『エクソフォニー  母語の外へ出る旅』

嫌い?だとしたらどうして?という対話を続けていくのも平和あってこそだ。どうぞ良い一日を。

道端の春
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シーズン4、クラウス

昨晩の月はそれを覆う雲よりずっと明るく輝いていた。夜明けの空がうっすらピンクがかってきた。きれい。今日の東京は昼間とても暖かいらしい。夜は風が強いみたい。

Netflix『ブリジャートン家』シーズン4が始まっていた。見ねば。今回はアジア系のオーストラリア人のハ・イェリンが主役とのこと。面白そう。

昨日はようやく原稿の修正に取り組めた。1時間くらいしかできなかったけどよかった。最近読んでいたものが元のものと繋がってきた感触があると「このまま地道に取り組んでいけば大丈夫かも」とちょっと安心する。古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)のカール・クラウスの章は大変勉強になった。

「他の何かの代理・媒体として働く側面のみに言葉の価値を置くならば、たとえば恣意的な文法規則の変更や言葉の置き換えといった「浄化」「融合」などによって、言葉がかたちを成しうる可能性を潰して平板なものにし、そもそも代理・媒体としての役割すら果たせないものに変容させてしまいかねない。そうクラウスは指摘するのである。」

クラウスは詩句を取り上げるけど、精神分析の自由連想、夢解釈における言葉の使用はまさにこれだ。先日読んでいたブラジルの分析家のバロス(Elias Mallet Barros)のAffect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Lifeに出ていた症例を思い出す。言葉を使うことで心の世界が大きく動くように発語は常に喚起的だ。分析家はときにそれを初語のような驚きとともに受け取るし、何より本人が自分の言葉の使用に驚くプロセスが必ず起きる。やっぱり面白い。

今日も作業を少し取り組まねば。まだ空がうっすらピンク。雪国のみなさんが安全に1日を過ごせますように。

いただいた!鳥かわいい♡
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精神分析

グロットスタインとか隙間時間にやったこととか。

今朝も空がきれい。昨晩、オフィスを出て月を探すと月自体は見えなかったが居場所はすぐにわかった。雲越しでも十分明るかった。今日も晴れみたい。あまりに雨が降っていないけど大丈夫だろうか。雪も雨も人間が対処できるくらいちょうどよく降ってくれないものだろうか。

今回の選挙はそれを強行すること自体が人の命を危うくし、ぎりぎりのところで踏ん張っている人たちをさらに追い詰めるものであることは大体の人が共有していると思う。でも、だから、とはならないのも人だろう。だからこそ、今こそ、とわざわざ自分たちの生活を脅かす人たちに投票する人はこれまで通りそうなのだろう。そうする理由なんていくらでもつけられる。期待なんていつまでだって持てる。その間に自分が脅かされさえしなければ。いや、脅かされても脅かしているのはその人たちじゃない、と自分に嘘をつけるなら。幻滅しないためなら人はいくらでも力を尽くす。精神分析は幻滅のプロセスに入ってはじめて動きが出るといっていいと思う。もちろんそれまでの長い長いプロセスあってこそだ。人は今の、今までの自分を手放すなんてできない。その仕方だってわからない。だから相手を求める。でも触れられれば抵抗する。頭ではごく当たり前のこととわかるのに、いざ自分にそれを言われると激しく動揺する。自分は間違っていない、と何も言われていないのに言い募ったりしてしまう。思わずしてしまう動揺に委ね、考えるなんてできない。人はどこまでも今のままでいることに安住しようとする。たとえそれがどんな環境でも。自分と相手の重なる部分を増やしながら、助け合いながらやっていくのが一番安全なはずなのに。いかに自分が人を受け入れていないか、いかに自分が自分を正しいと思っているか、そういう疑いにどこか怯えながら表面だけ取り繕うことにエネルギーを割き続ける。それがどんなに不毛だったか、そしてそれがどんなに必要だったかを実感するのは意外と外側の事情でどうにもならない事態が生じるときだったりする。精神分析プロセスにおいては本当に不思議なことにセッションの動きとそれは重なる。本当は不思議ではないけど、全て相互作用だから。何が起きても何も感じない人はいるわけだから、今、現にこうして。

昨日は、私の中でいつも気の利いたこというおしゃれおもしろ紳士みたいな位置付けになっていたJ.S.グロットスタインを知るべくいくつかの文献をざっと見た。アメリカの精神分析家ローレンス・ヘッジズ(Lawrene E Hedges)のWorking the Organizing Experience: Transforming Psychotic, Schizoid, and Autistic States.の序文もそのひとつ。まあ、鮮やかな・・・。グロットスタインはそこで組織化(organizing)という用語をヘッジズ(1983)に由来し、彼自身によって精緻化されたもの(Hedges, 1992)として、その概念をとりまく主要な理論を的確に軽やかに紹介していく。ヨーク(Yorke, 1986)、ストロロウおよびアトウッド(Stolorow & Atwood, 1992)における早期の組織化体験、ビオン(1962, 1963)の「乳児的破局(infantile catastrophe)」、ウィニコット(1952)の「存在し続けることの失敗(failure to go on being)」、マーラー(1952, 1958, 1968, 1972)の「消滅不安(annihilation anxiety)、タスティン(1966, 1972, 1980, 1981, 1984, 1986, 1987, 1988, 1989, 1990)そしてグロットスタイン自身(Grotstein, 1990, 1991)の「ブラックホール不安(‘black hole’ anxiety)」、パーソナリティの「早熟な閉鎖(precocious closure)」、それと対応するバリント(1968)の「基底欠損(basic fault)など。

そして乳児の能力に関してメラニー・クライン、スターン(1985)、サボツキー(Subbotsky, 1993)、シェア(Share, 1994)、バウアー(Bower, 1974 および私信)の乳児研究を紹介し、

「スターン、サボツキー、シェア、バウアーが明らかにしているのは、乳児の生において、体験や知覚が心的表象や記憶として符号化されない、あるいは符号化不可能な時期は、存在しないかもしれない、という点である」とまとめる。そしてReturning now to Hedges’s work, とさらっと戻る。どこからの球も軽やかに受け止め、鮮やかに打ち返せるのは博識なのはもちろん、私くらいの人でもいろんなところでその「私信」を目にするという印象を持つほどの対話の幅広さではないだろうか。

さらに昨日は隙間時間に岡本源太さんのnoteで公開されている講義を聞き、岡田温司『増補 アガンベン読解』を開きつつ、引用されている箇所を味わった。短いから隙間時間にちょうどいい。そして言語が形をなすことについて考えるために古田徹也『言葉の魂の哲学』も同時にパラパラした。九鬼周造の「いき」の議論と土居の「甘え」の議論を言葉の使用という側面から考えることも同時にした。隙間時間にやることはどんどん忘れていくのでこうやってメモっておかないと。あー。哲学の勉強をもっとしたいが時間が全然ない。今考えていることに絶対豊かさをもたらしてくれるのに。

まあ、できることを地道にやろう。積み重ねは信頼できる。もう週も後半。焦るががんばろう。いい1日になるといいですね。

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立春

立春。日の出は6時39分。まだ暗い。暦の上では今日から春。「立春大吉」も季語。どこかにお札貼ってあるかしら。

立春や月の兎は耳立てゝ 星野椿

月も毎日きれい。オフィスを出たときは少し欠けた月がとても明るかった。帰宅する頃には雲に隠れていたけどそこだけ明るくてすぐにわかった。へたっぴかくれんぼ。ちっちゃい子のかくれんぼって本当にかわいくて見つけてないふりをするのもとても楽しい。ハイハイができるようになった赤ちゃんだと本人隠れてるつもりがあるのかないのかわからないけどあっという間にとっても上手に隠れてしまう。カーテンの向こうとかに。そういうときはこっちもちょっと必死。見つけるとニコニコしたり泣いちゃったりするけどどちらにしてもこちらは安堵。

昨日はビオン経由でフェッロとチビタレーゼのThe Analytic Field and its Transformations By Giuseppe Civitarese, Antonino Ferro Copyright 2015を読んでいた。若いときにラッカーを読んでいたらバランジャーを読むといいよと妙木先生に勧められてはまった。が、フェッロにはあまり興味が持てずなんとなくフィールド理論を読まなくなった。最近、私より若い世代がフィールド理論の翻訳をしてくれているので興味を向ける人が増えているのかもしれない。私が読んでいたのはGiuseppe Civitarese, Antonino Ferroが二人で書いてきたものの論文集のような一冊。読みながらなんとなくフィールド理論に乗れなかった理由がわかった。ビオンを自分でたくさん読むようになったからだと思う。勉強しつづけるってこういう発見があるからいい。この本のChapter 8 A Beam of Intense Darkness: a discussion of the book by James Grotsteinは貴重。日本でグロットスタインがどれだけ読まれているのかわからないけど私が読むような本には大体登場する。「私信」という形の引用が多い気がするのは気のせいなのかな。フェッロとチヴィタレーゼはこの「ビオンおよびBFTモデルを理解するうえで不可欠」ということでグロットスタインの主要論文を書評する形式をとっている。が、グロットスタインの主要な論文を自分で読むのもいいと思う。私がフロイト、ウィニコットはもちろん、グリーンとオグデンが私がなにかを論じるときの基盤なのだけど、グロットスタインは彼らにもよく引用されている。でも邦訳がない(と思う)。なんでだろう。たくさん書いているし、ビオンを臨床と接続させるにはとてもいいと思うのだけど。ビオンだけに取り組んでもなかなか実感湧かないと思うし。pepによると一番引用されている論文として上位に来るのはGrotstein, J. S. (2004) The seventh servant: The implications of a truth drive in Bion’s theory of ‘O’. International Journal of Psychoanalysis 85:1081-1101。これそんなにややこしくはないけど長い。ここで著者が提案するのは題名にあるとおり「真理欲動」。truthの議論は難しい。「真理欲動は無意識的意識unconscious consciousnessと協働して機能すると仮定されるんだって。精神分析に関心のない人はもうこの辺でなんのこっちゃだと思うけど、こういうことを細かく考えるのが好きで、そうしながら精神分析に使う言語が作られていくと考える私にとっては面白いんだな。学び合い。

今日も長い。春を感じつつがんばろう。

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節分

夜明けの空がとてもきれい。昨晩は月もとても明るくて四方八方に光の筋を尖らせていた。日曜日は郊外からの車窓に大きな月を発見。冬の月は低い位置にあってもそんなにおどろおどろしくないのね。

さて、2月4日は立春。ということは節分は今日。冬と春の分かれ目。節目だから節分。意識していたわけではないが週末に豆を買った。店構えが魅力的でお煎餅やさんと思って入ったら豆菓子屋さんでこの時期らしくさくら豆が推しとのことで買った。ほかのも試食させてもらった。豆はどれもおいしいよね、という感想になってしまう私は季節のおすすめに従うのが吉。ピンクのお豆、珍しいし。いろんな美味しそうな豆たちが並んだ数段の棚の一番上には阪神タイガースグッズがたくさんあった。大ファンなのかと思いきや、最初は隅っこに少し置いていただけなのにお客さんの持ち込みも多数とのこと。「隅っこに少し置いていただけなのに」と何度か繰り返しておられたのがおかしくていっぱい笑ってしまった。ニコニコの店主さんが、流通している国産の落花生は1割程度と教えてくれた。なんでも輸入なんだね、日本は。落花生といえば千葉が有名だけど実は神奈川発、など色々教えてくれた。この商店も多分不況の煽りを受けているだろう。長年地道にやってきた商店が安心して暮らせる日々に向けてすべきことは、言葉を誠実に使う政治家を選択すること。SNSなど使わずとも伝わる言葉と地に足のついた政策を実行したことがある人を選択すること。排除や差別の構造を理解せず、意気揚々と晒すこと、煽ることをするような人を選ばないこと。今だったら青森の大雪がそうだが、人の生き死にが関わる状況で選挙という方法が選択されたことをおかしいと言い続けること。緊急に訴えたいことがある人たちの声を無視して成り立つ政治にいいことなんてない。袴田ひで子さんの「せめて人間を守るような法律を」という訴えも辛い。人生のほとんどを理不尽との戦いに費やさねばならなかった人たちの声に強くインパクトを受ける心を私たちは保持できているだろうか。

昨日は第68回グラミー賞授賞式だった。ネットに流れてくる様子をちょこちょこチェックしていた。ICE OUTのバッジをつけてのスピーチに拍手する人たち。自分が持つ力を良い方向へ使える人たちに感動する、というか、ありえないことが現実に起きていることに戦慄する。

昨日は一句の俳句を作るのにやたら時間をかけてしまった。寒月で作りたかったのだけどできなかった。ささやかな時間が脅かされないことだけが願い。というかそんな当たり前のこと願わなくても守ってほしい。人の心はそんなに強くない。どんどん容易い方に流れる。何も考えず、反射的にそれっぽいことをいう人たちが踏みとどまるにはどうしたらいいのか。自分の欲望を他人に預けてなかったことにするだけでなく、いつのまにかそれが自分の満足かのように振る舞ってしまうのも人間だ。どうか自分を大切に、と思うが、それが常に闘いになってしまう現状が辛いけどがんばろう。福がいっぱい訪れますように。

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2月月曜日

今日は濃い朝焼けがみられた。俳句を作らねば。と書いたところでなんと先月の句会の選評をしていなかったことに気づき、慌てて書いた。自分でリマインドメッセージだしたのに。すっかりやった気分でいた。みなさんの正月の句を読んだだけで満足してしまっていたらしい。いつもギリギリとはいえ、最近、こういうことなかったのになあ。やっぱり一月は色々調子狂っていたのだろう。

今日は隙間時間に吾妻先生がでていたウェビナーをみるつもり。日本の精神分析家の話をどうして英語できかねばならないのか疑問だが。しかも土居の「甘え」についても話すらしいのに。土居は日本語でということにこだわったのに。日々の臨床を英語でやっている人はともかく(吾妻先生は英語でもやっておられると思うが)臨床で日本語を使っているのに、ということには常にひっかかっていきたい。単に英語にするの苦手、とかいう理由ではなくて。そんな理不尽を感じつつ、私は今日は自分の英語論文も見直さねばならない。英語を日本語にして、また英語にしてだけならともかく、私が使った日本語はこれだったのか?いや、こっちか、とやっているうちに論旨を忘れたりさ。大変なことだ。でも機械翻訳のおかげで世界は本当に広がった。昨日はこういうのもみてしまった。

Winnicott and Freud – Polish Psychoanalytic Society – November 20, 2021 Prof. Dr. Leopoldo Fulgencio (University of São Paulo) Prof. Dr. Martine Girard (France, Toulouse)

2021年11月20日にポーランド精神分析協会が開いた「ウィニコットとフロイト」という会。

Leopoldo Fulgencio 教授(サンパウロ大学)
Martine Girard 教授(フランス・トゥールーズ)の対話。

これは英語の字幕でみられる。普段はポルトガル語とフランス語を使うお二人なのかな。この動画、うちの洗濯機が鳴らす音楽と似たような音がしたり犬が吠えてたりして最初はそっちに気をとられてしまった。テーマはとっても魅力的。とにかくこちらが自分のためにどういう変換を加えるにしてもその人の母語を大切にすることは絶対大事。同じ日本語を使っているはずがまったく通じないことも増えている今、言葉ってなんだっけ、という疑問はつねにつきまとうけど。選挙の話ですけどね。嫌なニュースばかり、って思わない人が多いからこういう結果なのかな。いやだいやだ。「普通」や「常識」がどんどん崩れていく。臨床の現場も変わっていくのだろう。相手を「救いたい」という動機で心理士になる人は相変わらず多いと思うが、自分を救いたいならともかく相手をとなる場合、それはなにをすることでなにを意味することなのか、そういう会話を続けていくことで大切なものと出会っていけるか、普遍的ななにかを見出していくことはできるのか、大変疑問だ。

昨日はたくさんのロウバイをみて、いい香りにニコニコした。帰りに寄った中華料理屋さんでそのあたりの桜の見どころも教えてもらった。もう夕方だったのにその日はじめてのお客さんだといわれ、観光地に向かう駅なのにその駅回りが使われない状況を感じる話しぶりにきゅーっとなった。たくさんおしゃべりしていたら常連さん家族がきてほっこりした。お互いのこと何でも知っている感じがよかった。「今日は飲んで平気なの?」「髪型変えたのね」など。全然脂っこくないさわやか中華でおいしかった。長く続いてほしい。人を大事に、自分を大事に、今日もがんばろう。

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駒テラス西参道、『サハマンション』、バロスのピクトグラフィック論文

寒そうな朝空。色々薄色。昨日のお昼、寒かったけどいいお天気だったのでオフィスの周りを散歩した。小田急線参宮橋駅に続く一本道(明治神宮の参道、西参道)には日本将棋連盟がやっている「駒テラス西参道」がある。この道は整備されて夜も明るめになった。昨年までカフェもあったのになくなってしまったのが残念。一度しか利用したことないけどこじんまりしててのんびりできた。イベントも色々しているみたいだけどもう少し盛り上がってもよさそうなものだけどという雰囲気。昨日はみんなでテレビの対局をみていたようだった。そういうの楽しそう。数年前、高知の高知城にいったときは、お城に続く公園で何組もの人たちが小さな机を並べて将棋やってて、これ毎日やってるんだろうな、という様子ですごくいい感じだった。私もデイケアや小児科のグループで将棋を教わること多かったし、将棋は意外と浸透しているんだろうなあと思うのだけど。渋谷区のまちづくりの一環でもあるのだし、いい場所にあるのだからもうちょっとなにか、と思ってしまう空間ではある。私が知らないだけでもりあがっているときも多いのかもしれないけど。子どもたちがたくさんいるときは楽しそう。そばにボールとか使える公園もあるし、子供たちにとってのほうが敷居が低いのかもしれない。

昨日『サハマンション』チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳のこと書いたけど、あれは筑摩書房だから出版社のウェブサイトをポストしたのだけどトップページがポストされちゃったからやり直した。ついでにトップページからも色々みてみた。こういう時間久しぶり。老眼になってから手あたり次第読むことが減った。すぐ疲れてしまう。まずどーんと入ってきた大きめの文字は茨木のり子生誕100年、没後20年。そうなのか。茨木のり子のことも韓国文学つながりで前に書いた。詩を読みたいねえ。そして次に目についたのがAマッソ加納の連載「何言うてんねん」(webちくま)。最新のを読んでみた。面白かった。芸人さんに詳しくないから名前は知ってるけど、くらいな感じなんだけど、絶対面白いだろうな、と思って読んだらやっぱりおもろかった。すごいよねえ。しゃべるように書けるんだよね、きっと。そうだ、昨日『サハマンション』を思い出したのは今の日本の政治状況に絶望しか感じず、サハマンションみたいに絶望が渦巻きそうな場所ではぐくまれる希望がほしかったからかも。新しい登場人物がでてくるたびにガーン、ガーンと心が撃ち抜かれそうな気分になるのに後半にいくにつれ希望が積みあがっていく感じ、なんだあれは。忘れてしまっている部分も多いけど、これ映画にしたらかっこいいだろうな、と思った。ごく普通の罪悪感が維持されている世界は優しい。そう考えると今の日本の政治家たちの心なさはすごい。自分の利益の追求以外なにもみないから平気でうそもつくしなかったことにする。選挙に希望を見出せる国にしよう、みんなで。

1月は本当にあっとまに終わってしまった。本当にまずいのでとりあえずひとつひとつ確実に終わらせようと(最初からそうすべきだったと知ってる)とりくんではほうっておき、を繰り返していた2000年のエリアス・マレ・バロス(Elias Mallet Barros)のInternational Journal of Psychoanalysis ,81(6):1087-1099、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life by Elias Mallet Barros(情動とピクトグラフィック・イメージ― 心的生活における意味の構成 ―)を全部訳して勉強会のみなさんに共有した。そんなに難しい英語ではないとはえ内容も難解なのでなんとなく時間がかかった。その間に関係ない論文を色々読んでいたのもよくなかった。長い目でみればいいのかもしれないがすぐに忘れてしまうのでやるべきことをきちんと形に残すこと。2月はそれに集中したい。ああ。

とはいえ、今日は日曜日。きちんと休むぞ。1月は睡眠時間の確保にもがんばった。ただ眠い時に寝てただけど。だからこうなったわけだけど。ぐちぐち。メリハリ大事。良い日曜日をお過ごしください。