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Dear Candidateとか。

きれいな空。昨日のこの時間は雨が上がり始めた頃。職場に着く頃には明るくなって、帰り道に傘を持っている人は少なかった。私も荷物を減らしたくてとりあえずオフィスにおきっぱなしにして外へ出たら月がとてもきれいだった。

昨日はHinze, E. (2015) What Do We Learn in Psychoanalytic Training?. International Journal of Psychoanalysis 96:755-771を読んでいた。2021年にでたDear Candidate: Analysts from around the World Offer Personal Reflections on Psychoanalytic Training, Education, and the Professionにも一章書いているドイツの精神分析家によるETEP(End of Training Evaluation Project) の議論のまとめ。分析家になる途上の候補生(candidate)が訓練の過程で学び、あるいは内在化しておくべき基本的要素の一群が提示されている。

ちなみにDear Candidateはいろんな国のシニアの精神分析家が候補生にむけてメッセージを送る一冊。2021年出版されてすぐに読んだが(全部ではなが)当時候補生だった私にはあたたかい本だった。どの国でも似たような大変なことが起きているんだな、と思える本だった。日本でアジアンパシフィックカンファレンスが行われたのはいつだったか。この本にはそこでほかの国の候補生たちからきいた「噂」みたいなものも書かれていた。そして様々な問題や困難を経験してきた著者たちのほとんどがいうのはオープンであれということ。おおざっぱにいえば。別の理論、別の言葉、訓練中に出会うすべてのものに対して。IPA “Talks on Psychoanalysis Podcast”では編者のFred Buschがこの本について話しているので興味ある方はチェックしてみて。この本に様々なかたちでかかれている精神分析家になるための訓練で必要なこと、大切なことはIPAの地域の一部門などでこうやって研究され、その成果のひとつがHinzeの論文。これはEPF(European Psychoanalytic Federation)によるもの。

アブストラクトの一部をざっと訳すとこんな感じ。

「これらの要素は、次のような能力として具体的に示される。すなわち、各セッションにおいて患者がもたらす情緒的要求と、それに続いてしばしば生じる情緒の嵐を理解する能力、自由連想の価値を評価し深く理解する能力、中立的立場を保持する能力、転移と逆転移の観点から思考する能力、そしてセッションの中で何が起こっているのか、また自分が何をしているのかを概念的に考える能力である。」

これらがいかに困難かももうすでに知っているが、だからこそ訓練が大変重要になる。IPAの訓練には3つのモデルがあり、国によって重要視されることが少しずつ異なるが、なんであっても精神分析を受けることが最重要とされることに変わりはない。特定の相手との密で長い関係は嵐が起きないほうが珍しい。しばしば思考停止し、言葉をなくしたり混乱したりするその状況をお互いがどう生き延びるか、そのプロセスを通じて思考するということを新しく体験していく、それによって自分とは異なるものに開かれることの意義を知る。そしてそれらをいずれ伝達できるものに変形していく。その作業の成果がDear Candidateのような本になる。循環。悪循環もあるだろうけど、それに気づくことができればなんとかなるかもしれない。いつも不確かだけど体験済みの希望を支えにやっていくような学問ではあるし、これからも日本で精神分析がメジャーになることはないと思う。それでもその意義と伝えられるように実践を地道に積みあげていけたらいいね、と同じ組織にいる人たちに対して思う。

今日も花粉が辛そう。良い一日になるといいですね。


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時代とか年齢とか。

今日も寒そう、かな。空が薄い。三寒四温とはもう言わないか。三寒四温は冬の季語。この時期は寒いといっても冬逆戻りじゃんというより、寒くても春だわね、という気分。梅は散りつつあるし早咲きの桜もピークを超えた。どの段階もきれいだけどね。

昨日の帰りの電車ではフロイトをドイツ語で読んでいた。ドイツ語全くわからないのだけど、フロイトが元々使った言葉から辿りたい用語があったのでDeepLの助けを借りた。DeepLって短い文章じゃないとうまく訳せない印象があるから今回も一文ずつ改行しながら。しっかし、インターネットが全く当たり前ではない時代に子供時代を過ごした身からすると今って嘘みたい。翻訳ツールのおかげでいろんな国の文学に少しでも触れられたりするのも嬉しいし、フロイトがいつどの著作でそれを言ったかをどの言語でも検索しやすくなったり本当にすごいことだなあと思う。なのに、生身の人を殺すことをやめられないのはなぜだろう。世界が身近になればなるほど排他性も際立つのか。人は異質なものに本当に脅かされやすい。

確定申告の作業を今年はあまり嫌々言わずやっているがひとつの場所に保管しておいたレシートたちがいつのまにか複数の場に散らばっているのは何故。君がおいたからだよ、ってそうなんだけど。でも毎年少しずつ一つの場所におく、かつそれがどこかを覚えておく(見える場所においておく)という課題の達成率が高まっているように思う。何歳になってもこういう小さいことの改善を目指すものだよ、こどもたち。昔は大人になるといろんなことができるようになるような気がしていたけど全然だった。「大人だから」は特になんの説明でもなかった。そもそも子供が大人になるだけで同一人物内の変化でしかないしね。そんな変わらない心とやたら不調が増えてくる身体とつきあっていく年齢になった、ということ。でもここに書いているような日々のわりとどうでもよさそうな気づきのおかげでなんとかやっているということ。そういうことを知れたのは成長かも。

今日は雨でもいいけど風が強くなりませんように。みなさんの地域はどうでしょう。どうぞよい一日をお過ごしください。

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火曜日

カーテンを開けたら外が濡れていた。まだ夜のような、でも少しだけ紺色が明るい気もする。まもなく夜明け。雨の日でも花粉はいろんなところに潜んでいると聞くが少しはましであってほしい。花粉症の症状はそれほどひどいわけではないがどこもちょっとずつぼんやり不調。筋トレは地道に続けていて、バスケ部時代の無理やりな筋肉とは違ういい筋肉(?)がついてきた。この動きをするためにこことここのこういう動きが必要だからこの筋肉を鍛えるトレーニングをしましょう、って当時やってくれていればケガだって少なくすんだかもしれないのに。まあ、あのよくわからない思春期の私がなにか教えられてもうまくうけとれたかどうかは疑問だが。そういえば今朝はいい卵といいイチゴを食べたぞ。いただいたの。いい筋肉のためにいいもの食べないとね。睡眠が足りてないのが一番効果を薄めている気がするけど。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」も朝ドラ「ばけばけ」も楽しんでいる。トキが「学がない」といったり、フミがトキの体調に「この症状はもしかしたら」と思えていない感じだったり(思ってるかもしれない)、ヘブンの教え方が英語教師じゃなかったり、学校に行っていない、子供を生んでいない、教師になる教育をうけていない、など経験がない(かもしれない)ということ、それがその人にどう受け取られ、どういうときに影響を与えてくるかはひとそれぞれすぎるが、「ばけばけ」はそういうありうる過去の影響を最小限のやりとりで描いている。経験のなさとそれが原因で生じていそうな出来事を単純に切り取ってなにかいうことはできず(それは生活全般を覆っていないし覆わせてもいけない)、「経験がなかったらできないよね」とあっさりいうことはできないわけで「ばけばけ」はそういうトーンを含まないのもとてもいい。いや、人はそうあっさりいう以前に「こんなのもわからないんだ」的なことを思いやすく、その理由として「〇〇してないから」と結びつけやすい。これは経験のなさに限らず、あることを知って「あー、だからこうなんだ」としたい心性は誰にでもある。そしてされたほうは嫌な気持ちになる、というのも大方共通。だからなんだよ、といったん距離をとれればいいが、それも一理あると思うと「やっぱり自分が」と自分の経験のなさに本人まで全ベットとはいわないか(HANAの影響だな)、「自分の〇〇のせい」という思考になっていく場合がある。それは健康によくない。私だったら「だから、ってどういうこと?」というかな。一理は全部を説明しないよね、似たような環境でもそういう風にならない人もいますよね、もちろん多くの人が「普通に」経験できることを経験できないと大変なことってたくさんあるかもしれない、でもだったらそれは社会の問題で、みんなの問題で、個人の問題じゃないというか少なくとも「私のせい」じゃないと思うんだけど。逆にどうしてそういうところパッと切り取ってあえて言葉にしたくなっちゃうのかな、とややイラっとした気持ちをこめてしまうかもしれない。特に今は政治に怒っていますから。もーほんと、毎日のニュースにうんざりするし、これからが不安。友人が高齢化社会なのに「自分たちはもう死ぬだけだから」とかいって適当なこといっている人たちにイライラするといっていた。自分のことばかり、というのはたしかにちょっと違うんだよね。私たちは社会的な存在といわれているから。それでいうと私はこの前よく行くカフェで「年寄りになるとなんでもできる」と大きな声で笑いながら開け放しておくのが通常(閉店時しか閉まっているのみたことない)の大きい扉をガラガラとしめたのをみてびっくりしたな。普通にお店の人にお願いしてみるとかすればいいのでは。希望がかなうかどうかなんてやってみなければわからないのだから。そこがだめでも、ほかの案が提示されたり、「ほんとすいません」とかいわれるだけで悪くない気持ちになったりする場合だってあるんだから。お店の人、なにもいわずまた閉めにきていたけど。それはそれで大事かもしれない。お店側の条件って、私たちの面接の設定と同じだもんね。

今日は3月3日火曜日。儀式としてのひな祭りにはあまり興味がないけど女の子でも男の子でもおいしいもの食べて幸せに育ってほしいと思う。このおかしな時代に人の心を、想像力を失うことのないように。今日もがんばりましょう。

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月曜日

昨日はいいお天気だった!原稿を修正する一日のはずだったが朝2時間くらいやったらうとうとして原稿がdddddddddddddddで埋まっていたり、一部消したりしはじめてしまった。自分がなにをやっているかわからなくなったので休憩。誘われるままに新宿へ。ほこてんだった!新宿の隣で働いていても休日の新宿にはほとんどでなくなってしまった。普段から東口には地下道からしかいかないけど。原稿できてないのは困ったけどいいお天気の日のお昼に外をのんびり歩けるのはいいね。気分転換になった。帰ってまたパソコンかたかたしはじめたけどほとんど無心。考えていることを意識するって難しいねえ。この状態を書くこともうまくできないんだけどね。

今日の空はうっすら暗い。ちょっとひんやり。今週はなにをする必要があるんだっけ。ルーティンは臨床。オンディマンドでやっているケースはまちがわないようにと気をつかうけどあとはリズムだからな。うーん。5月も6月も発表がある。6月の準備は全然手付かず。すでに眠いがとりあえずがんばっていきまっしょい。今日は3月2日月曜日。まずは確認から。大事大事。花粉もつらいけどぼちぼちやりましょう。

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3月。Reading Freud最終回。

きれいな朝。昨晩も月と星がきれいだった。帰宅して12時がくる45分前にカレンダーを3月にした。前を通りかかったからだけど今日どうしてもしあげねばらない原稿があるのでそれを忘れないために。さすがに危機感あるから忘れようもないけど忘れて休日を楽しんでしまいたい気持ちも猛烈にあるので自分を戒めるために。こういう自分騙しも大事。超自我を活用。昨日、時間がなさすぎたなあ、発表のときの映写のために文書をパワーポイントにはりつけるだけの作業にすごく時間がかかってしまった。もともとの原稿がどれだけみつけるのにも時間がかかった。本当にこういうの少なくしていかないとだ。なくすることは無理だとしても。

2025年度のReading Freudが終わったので色々書きたいがとりあずSNSにメモだけした。1911年「心的生起の二原理に関する定式」(全11)を精読して、帰ってきてすぐに「精神分析概説」の気になる個所をパラパラできるくらいにはつながってきた。二原理というのは快原理と現実原理。「精神分析概説」の冒頭(180ページ)では快不快の記述はこんな感じ。

「自我はその活動において、自我のうちにもとからある刺激緊張、または自我のうちにもたらされる刺微緊張に注意を払うことで誘導されていく。刺激緊張の増大は一般に不快として、減少は快として感じ取られる。しかし、快、不侠として感じられるのは、おそらく刺激緊張の絶対的強さではなく、その変化のリズムのうちにある何かであろう。自我は快を追求し、不快を避けようとする。」

「変化のリズム」というのがいいですね。

さて、今年度のReading Freudは1895年「心理学草案」を精読するという難しいことをやったわけだがわからなさにとどまり楽しめるメンバーのみなさんのおかげで毎回有意義だった。「快原理」が用語として使用されたのは「夢解釈」が最初ということだが内容自体はすでに「心理学草案」でも検討されている。ついでに「精神分析概説」の「心理学草案」に関連する個所を引用しておこう。岩波「フロイト全集22」194ページ。

「あらゆる科学は観察と経験に基づいているが、それらは、われわれの心的装置が仲介するものである。しかし、われわれの科学は、この装置自体を対象としているので、他の科学とのアナロジーはここで終わる。われわれは、心的装置を対象としたわれわれの観察を、同じ心的知覚装置を用いて、まさに心的なものの裂け目の助けを借りて、省かれているものをもっともな推論によって補い、それを意識的な素材に移すことによって、行う。われわれは、いわば、無意識的な心的なものに対して、ひとつの意識的な相補系列を作るのである。われわれの心的科学の相対的な確実性は、このような推論の拘束力に依っている。この仕事に深く携わった者は、われわれの技法があらゆる批判に耐えることを見出すであろう。

この仕事に際して、われわれは、われわれが心的なものの質と呼ぶものの区別を行うように強いられる。われわれが意識的と呼んでいるものについては、われわれは特徴を述べる必要がない。それは、哲学や一般的見解の意識と同じである。そのほかのあらゆる心的なものはわれわれにとって、無意識である。すぐにわれわれは、この無意識の中に、ひとつの重要な区別を仮定するように導かれる。多くの過程は容易に意識的になり、次にはもはや意識されていないかもしれないが、それでも、苦労なく意識的になりうる。つまり、再現されたり想起されたりしうる。

そのときにわれわれは、意識はきわめて束の間の状態にすぎないことを思い知らされる。意識的であるものは、ある間そうであるにすぎない。われわれの知覚がこのことを確証しないと」

と続いていく。このあとの「前意識」の話も重要だ。

私はたぶん岩波の『フロイト全集』を全巻もっている。福本先生が担当していた小寺の講読会にでていたときに私が全集を破って(論文ごとに切り離して)持ち歩いていることにびっくりされたけど当時は「読まないよりこうしてでも読んだほうがいい」といったのを覚えている。だってこんなに網羅的に読むようになるなんて思っていなかったから。破ったのは主要論文のいくつかだけだけど今になると破らなきゃよかった。どこかにいってしまって探す手間のほうがかかっているし、当たり前のように読む生活になると全集の中にきちんとおさまってくれていたほうがずっと使い勝手がいいことを知った。大抵の人はそんなこと当たり前だと思っているであろうこともわかる。でもまあこんな生活になるとは、と思うような生活を経験できているのはこの年になれば面白く感じる。色々あきらめられているから。でも今日はあきらめてはいけない。なんとかしあげないと。あー、せっかくいいお天気なのに。早々に洗濯はしたが。良い一日になりますように。みなさんも。

今回はこの黄色い本の使い方も紹介した。