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精神分析

心身症論文を読んだり。

少し明るくなってきた。最近また皮ふの調子が悪くて起きてしまった。結局薬に頼る。周りに勧められたことはわりとなんでも試してみるほうだが、それでどうしてもだめなら薬、というほど慎重でもないので薬はなにかと併用する。皮膚科の先生もこれじゃ辛いから薬が効くならのんだほうがいいですよ、とごく真っ当なことをいってくれる。私も医師と連携して仕事をすることが多いので薬の話はしょっちゅうきくが、それは薬そのものの話ではなく、薬の使用(不使用)をめぐって語られるその人の身体や他者に対する考え方だったり、そこから立ち上がる様々な関係性の話だったりする。身体症状の話もそう。

昨日はAndré Green Revisited Representation and the Work of the Negative Edited By Gail S. Reed, Howard B. Levine(2019)のChapter 4. Gail S. Reed and Rachel Boué Widawsky: Green’s Theory of Representation Revisitedを読んだ。フランス精神分析における心身症に関する論文。アンドレ・グリーンの用語自体には慣れてきているが毎度咀嚼には時間が必要で、ほぼ寝ているような時間もあったが、グリーンのスーパーヴァイジーの事例だったので「ああ、こういうことかもしれないな」とつながりは発見できた。精神分析の事例というのは患者と治療者とそれをめぐる人たちのものなので(物語ではない。物語という人もいるが)症状の理解は当然必要だが、それぞれがなにをみているかをとらえようとするこちらも事象をミクロに分解しつつ、ガラッと視点を変えてそれらにまとまりを見出すことが必要になる。意識的にできるのは前者だけなので後者は自分が精神分析によってそういう体験をすることが必要だが。私は訓練を通じて精神分析の文献の読み方は大分変わったと感じる。わからなさに耐える力もものすごくついたというかそれがデフォルトになっているので「わかる」方向に進もうとする場ではひとりだけ時間が止まっているようなときもある。ガラッと視点が変わる作用を生じさせるのは精神分析でいえば「解釈」。またはそういうものを「解釈」というというのか。自分がガラッと崩れるような解釈を体験することはそう簡単ではない。精神分析の場合、誰かのひとことで人生が変わる、みたいな体験とはまた別で、長く積み重ねるプロセスの先にふたりの間(間というのはあまりしっくりきていないけど)で形をえるものなうえに、それを言葉にするかはまた別の問題、しかもガラッと崩れたり、視点が生じたりするのは患者だけではない。先にそれが生じているのはすでにその経験をしている治療者のほうだといっていい。そのずれがないと自分と自分でないものを区別するプロセスも生じないかもしれない。そういえば昨日の論文にprojective reduplicationという用語がでてきてよくわからなかったが、投影によって自己の表象が二重化すること、つまり自他の区別を曖昧にするメカニズムが心身症にはあるのではないかというマルティらの仮説として理解した。これ自体は主要な概念ではないからこだわることもないのだけど、自分と自分でないものの区別がいかに困難かは日々臨床で感じているのでそこに関わる状態は気になってしまう。心身症の場合は、同一化になんらかの困難があって過剰適応したり、その分、内的な体験を語ることが難しく、身体にまつわる語りに終始したりということはある。パリ心身症学派のPierre Marty、Michel de M’Uzan、Michel Fainらに対してグリーンがいいたかったことはあまりよくわからなかったし、事例もこれは心身症といえるのかなというものではあったが、非表象領域の表象化プロセスの論文であることを考えれば心に区分ができていくプロセスがずっとそこにあったであろう「もの」や「こと」に定位置を与える描写は、この人の身体もようやく地理的な混乱(メルツァー)を抜け出しつつあるのだろうなと思わされた。

今朝は山梨県都留市の「ならや」さんのおみやげ「お菓子とうふ」をいただいた。今週もがんばろー。