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精神分析

柴崎友香の本とか精神分析とか。

今日は曇りかな。短時間でも洗濯物を外に出そうと思って窓を開けたのだけどそのときに自分が感じたことを忘れてしまった。風が入ってくるようになったなあとは感じた。

『あらゆることは今起こる』も話題の柴崎友香だが『待ち遠しい』という作品もとてもいい。年代の異なる女たちのそれぞれの日常の交錯、リアルな生活描写が本当に素晴らしい。会話も何もかもどうしてここまで細やかに描けるのかと驚きながら映像をみる以上に自分がその街で生活しているような気持ちになる。となると当然気持ちも結構揺れる。リアルに体験するということはそういうことだから。

精神分析は分析家のところに通うのが生活の一部になるのでこれまでの生活の中で感じていたことがそこで自然に現れてくるのだがそれをリアルに体験するとなるとそこにはものすごい抵抗が生じる。ずっと聞き流したりやり過ごしてきたものを誰だってみたくも聞きたくもない。どうにかしたいと強く願っているはずなのに今の自分の在り方を変えようとしないどうしようもなく強力な力が働く。カウチに横たわり自由連想という不自由の中で自分の中に蠢く様々な情緒を体験すること、ましてやそれを言葉にすることは本当に難しいことだ、ということを積み重ねれば積み重ねるほど患者は実感する。そして分析家を容赦なく巻き込む情緒の強度はよく使われる「こころを使う」治療者なんかではいさせてくれない。むしろ自分のこころなんてものがある気がしなくなってくる。患者の方もそうだろう。境界を失うことの恐れは誰にでも生じる。経験から振り返ればそれまでの異なる境界が生成されるプロセスなわけだが何かが変わることへの抵抗がこれほどまでに強いから戦争もなくならないのだろう、と実感するほどに人間というやつは、というやつである。私は私で十分にそれを体験したがまた繰り返すだろう。また、精神分析実践を続けなかったら私は精神分析家ではいられないだろう。資格は組織に属するための切符ではあるが精神分析家であるには実践を伴う必要がある、ということを実践から学ぶ日々。自分をどれだけ未知の可能性として恐れながらも楽しめるか、自分に合う合わないという判断をせずに見知らぬ誰かと協力していけるか。人は自分で決めることを強く求めるのに、いざ決めるのは自分であるということを突きつけられると困ってしまう。そういう矛盾だらけの自分に素直に困れるか。時間を無駄にしているとかいってなかったことにしまわないでぼんやりそこにいつづけられるか。精神分析は単に他人と比べるのではなく他人と比べてしまう自分に対して苦しんだり、自分の中にある小さな情熱に耳を傾けられるようになりたい人にはとても役に立つと思う。

柴崎友香が描く人物は自分の声にも相手の声にも細やかである。それは作者がそれを十分に拾っているからだが、そういう細やかさが人はそれぞれであるということを本当に肯定していくことにつながるのだと思う。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生