まだ外は真っ暗。寒さを感じる前にプチ家事を済ませた。今朝は紅茶。昨日、ネットでプレゼント用の紅茶を見てたのだけど私が一番贈りたい紅茶はオンラインでは買えなかった。地元の特産品になっているからそっちの駅とかデパートなら買える。全国展開しなくても引き継がれていく美味しさ、しかもそれで生計がたてられるってほんと素敵。私も知見は外へ広めたいけど地元の精神分析家になりたいなと思うことはある。週一回の心理療法やスーパーヴィジョンにはとても遠くから通ってくる方もおられるけど毎日のように会う精神分析はあまり遠いと難しい。遠いの基準も人それぞれだけど生活との折り合いをどこでつけるかは考えどころ。現実検討ができることは精神分析に取り組むためにも大事な要素。色々犠牲にして、と言う人もいるけど、たしかに他のことはとりあえず背景において、みたいな部分はあるけど、個人的には「犠牲」という言葉はそぐわない状況を作り出しながら取り組んでいきたいと私は思っていた。というか、本当にいろんな人の協力を得て時間を捻出してきたからそれを私が「犠牲」とは言えない。でもなんでもやってみないとわからないことばかりだし、それをどう感じるかはその時々の関係性や状況で変わってくるし、何が起きるかわからないからなんだって人それぞれだけど。精神分析の訓練に入るとなるとそのために引っ越す人もいて、私はたまたま東京で、そんなに遠くないところで受けられて本当に幸運で時には手ぶらでいくような地元感も持てた。実践としての精神分析が全国区になることはこれからもないと思うけど何が起きるかわからないし、フロイト、ラカン、クライン、ウィニコットは他領域でも普通に参照されているわけで知的な対話の基盤はすでにある。どうなっていくのでしょうね。悲観的になることも多いけど楽しみにしたい。
今日17時から10DANCEか。これは映画?一回で終わるやつ?そんなことも知らずに見たい見たいと言っているが見ればわかるね。最近はNetflixでは何を見たかな。「薬屋のひとりごと」とか。あと「ザ・ディプロマット」とか。映画も行きたいけどちょうどいい時間がない以前に見たいと思っているうちに終わっていることが多い。時が過ぎるのは早い。
Elias Mallet Barros(2000)、Affect and Pictographic Image: The Constitution of Meaning in Mental Life. 読み始めたと書いたが、関連文献を色々読んでいるうちに誰が何を言っていたのかわからなくなってしまった。バロスのことはジョン・スタイナーがメラニークライントラストのウェブサイトで紹介しているのでそちらを参照。バロスは英国精神分析協会でローゼンフェルドたちから訓練を受け、ジョン・スタイナーたちと仕事をしていた人。その後、ブラジルに帰ってサンパウロ精神分析協会でもIPAでも活躍。クライン派の仕事を南米に紹介した人のひとり影響が強そうだけど、私が今年最も引用したボテラ夫妻、アンドレ・グリーン、アントニーノ・フェッロ、トーマス・オグデンの引用も多い。英国で訓練を受けてきた日本のクライン派の先生方もそうだけどその土地の精神分析文化に馴染んだ人が翻訳によってそれらを伝達してくれることのありがたさたるや。バロスがこの論文で依拠する主たる分析家はAulagnier, Bion, Ferro, GreenそしてKhan。
著者の主張の中心は「心的生活において同時に作動する三つの相互に浸透しあう意味の水準を考慮することの価値を主張する。すなわち、hidden meaning、absent meaning、そしてpotential meaningである。」というものなのだけどこれらを訳すにはこれら3つのmeaningの内容を正確に把握する必要がある。もちろん症例とともに詳細に説明はされているけどそれであっさりわかるようなものでもないので自分の体験と合わせて落とし込んでいく。自分のための翻訳でさえこれだけ大変なのに、翻訳家はそれを生業にしているのだからすごい。
バロスが参照するピエラ・オラニエ(Aulagnier, P)の1975年の著書 La violence de l’interprétation. Du pictogramme à l’énoncé の英語版The Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementを英語に訳したのはAlan Sheridan。ラカンを英語で読める形にした最初の(エクリはその後フィンクが英語で全訳出したけど)翻訳者。フーコーとかも訳している。オラニエのThe Violence of Interpretation: From Pictogram to Statementには訳者のノートもあってporte-paroleをword-bearerと訳したのはなぜか、ということなども書いてあった。言葉の字義、精神分析における文脈、著者の造語の傾向、英語圏での誤読の回避などいろんな目配りが必要な仕事。オラニエがどんな人か知らないのだけど概念と言語と精神病の間で生じる緊張をここまで言葉にできるのはものすごいことだと思う。英語にしてくれてありがたい。フランス精神分析の基盤を持つ人に日本語にしてもらえたらもっとありがたい。オラニエもAlan Sheridanの訳注を引用していたし信頼関係があるのだろうな。大変だけど素敵な仕事。
今日もがんばりましょう。

