夜明けの赤がきれい。やっぱり空が変わってきた。どういうことだろう。水分量か。この前、アラスカに行った人の話を聞いた。アラスカの夜明けもまた全然違うらしい。私が紹介されたYoutubeで見たびっくりネイチャー生活が普通に、しかも全部ではなく、されていた。鮭の燻製がすごく美味しかったとかスノーモービルで3日連続オーロラみにいって初日にきれいに見られたとか一本のナイフを何通りにも使うとかどこもかしこも凍るから息を大きく吸うなとかよく聞く話も個別のエピソード絡みだとより面白い。
これはそろそろ、と思って買い替えたパソコン。本当にこれはそろそろなんだな、と今使いながら思う。重たいデータやサイトは開けなくなってきたし、いろんな新しいものには対応していないし、真っ暗画面になることも増えた。もうアンティークとはいえ使い勝手よかったな、MacBookAir。新しいパソコンと比べるとつい最近までこれを持ち歩いていたのが信じられないほど重たく感じるが、うちでもう少し活躍してほしい。無理はさせないから。
昨日は小寺記念精神分析研究財団の『ウィニコットの「治療相談」を読む』のセミナーに出た。10時から17時までだったが、時間の長さより内容の刺激で疲れた。私は普通よりはウィニコットマニアなのですごいマニアの妙木先生の話を聞くと興奮してしまうらしい。妙木先生のウィニコット理解と彼が一番興味を持っている部分は、子どもと大人、両方の治療を積み重ねてきた私にも実践と照らし合わせて納得するし、やっぱりそこだよね、と思いながら聞いていたし、理論と臨床を乖離させずに思考できるからこそ大雑把にできない論点がたくさんで大変刺激的。でも、私は欲動論をどうにかしないことにはウィニコット理論だって生かされないのではないのか、と思っているので、その辺の考え方は大きく違うしウィニコット研究としてそれを考えているわけでもない。私がもっと精神分析の事例を積み重ねたら欲動論に言及しないでも生き残れる精神分析を記述できるのだろうか。欲動論抜きの精神分析ってどんなもんだっけ、という感じがしてしまう。精神分析は母子関係を基盤とした対人関係論ではないはずで、それ以前に理論は経験レベルでなんとなくわかった気になる類のものではないし、それだったら精神分析でなくてもいいんじゃね?と思うことは少なくないので臨床家として探求は続けたい。
ウィニコットがいう環境は単なる他者ではなく自己も他者も生きる場所であって、そこにある現実である。精神分析実践を描写するときにそれを当たり前のものとして描写しないわけにはいかない。むしろ前景に出して強調すべき根拠をくれたのがウィニコットだ。ただ、記述の仕方を誤ると結果的に母の責任を強調することにつながる大雑把な母子関係大事理論になる。普通に読めばそんな単純なことは全く書いていないけど、まとめてしまうとそうなるのもわかる。でももう一回書くけど理論というのは経験レベルで簡単にわかるものではないというか、学問としての精神分析があるから私たちは精神分析家という専門家でいられるわけなので、フロイトに常に戻るのは当然のこととして、それぞれが理論と臨床を丁寧にチェックしていく必要があるのだ。学問として成立しているものから換骨奪胎した自分理論でそれらしい結果を出す場合は自分理論の専門家ではあるし、それはそれで役に立つ人もいるだろうが、それを学問とは言わないのと同じだろう。学問を残すためには専門家が必要なので、専門的であるためには地道にやるしかないのだ、とほとんど自分へのエールとして書いている。
というわけでややこしやなことを昨日もたくさん考えた。出生外傷も移行空間もfalse selfも本来互いに孤立してて別々の存在である自己と他者の「関係」が前提とされての用語。でも、たとえば子宮内で守られていた「孤立」が外界へ出されることで失われることに関して考えてみる。未熟児の場合、初期の世話は保証されるが(もちろん例外はある)、より大きく生まれた赤ちゃんの方が適応を自然に期待されているとしたら、本来の寄るべなさに対するケアは不足するかもしれない。実際に母親がしなくてはならないことや身体の状態はどちらにしても負担が多いだろうけど、発達障害のように最早期には見えにくい器質的な問題を抱えている場合だって「育てやすい」と言われるような状態によって不足が生じる可能性もあるだろう。何の不足か、といえばコミュニケーションを注意深く成立させようとする育てる側の観察力といっていいと思う。ウィニコットの鏡役割、ラカンの鏡像段階とも関連させて考える。セミナーで話を聞きながらなんとなく考えていたのだが、もしそういう誰にでも訪れる不足をfalse selfの起源とするならそれはコミュニカティブであることが前提とされた世界ではコレクトなセルフであり、子宮内で経験済みの孤立したセルフとしては偽りかもしれない。true selfが子宮内にいたときのように生き生きと孤立している状態であるとして、出生によってその場を失って寄るべくなった乳児は孤立の自由を奪われた状態であり、欲動の拘束を必要とする自己になったということもできるかもしれない。私はウィニコットのunintegration,going on being, isolation(not loneliness)などの用語を欲動という力の状態で記述した方が良いように思っているし、その方がウィニコットが原初の攻撃性と言わずに運動性(motility)という用語を使ったことの説明になるのではないか、と思っている。trueとfalseの用語は「本当の自分探し」とか「嘘ついてるような自分」とかの日常的な文脈で使うなら共有されやすいと思うし日常語を使うこと自体は精神分析において初期から重要とされていることではあるけれど、これらって「本当とかそんなもん誰が決めるの」とか「そういう嘘は本当に嘘っていうの」とかややこし議論のもとにもなるので不適切、とは言わないけど記述の仕方にはものすごく注意を払わないと学問的な貢献は難しいだろうと思う。先日、藤山先生の『精神分析の深みへ』にあった分析を営む二人の空間の狭まりについて触れたが、ウィニコットでいえばこれは移行空間の生成が困難な状態といえるだろうし、移行空間がなければ自己の生成プロセスが作動することは難しいのではないか。移行空間の生成を阻むものが戦争だったり、両親の病気だったり、それを愛情剥奪というならその場合の「愛情」って母親のものだけではない。まあ、そういうこととかああいうこととか色々考えていたわけだよ。そういう時間を持てたのはとてもよかった。今日からまたバタバタか。がんばろー。

