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精神分析

Reading Freudでアンドレ・グリーンを読むなど。

昨晩は「つかれたー」と何度もひとりごちてしまった。今週もあっという間に過ぎた。今朝は夜明けを眺めていたら眠くなってしまい二度寝してNHK俳句を見逃した。最近、全然見ていない。俳句を遠くにしないようにしないと。好きは好きだからね。

昨晩は今年最初のReading Freudだった。今年度はフロイトの『心理学草案(プロジェクト)』(1895)を岩波訳で精読した。読み終えてから関連文献を読んでいるが、最初に精読したときはほぼわからなかったのにそれについて書かれたものを読みながら草案に戻るとなんかわかったような気分になるから不思議だ。内容を理解する、というより「あ、だからあそこでこう書いていたのか」とか「これってあそこに書いてあったことか」と文章が秩序だって立体的になってくる。するとフロイトが多くの読者を想定し、実際に多くの人に読まれた本に書かれていることの源泉を発見した嬉しさを体験できる。フロイトの発見を再発見する楽しみがある作業。

昨日、使用したのはANDRÉ GREEN “Le Discours vivant”(Presses Universitaires de France, 1973)の英訳版。NEW LIBRARY OF PSYCHOANALYSISの一冊で “The Fabric of Affect in the Psychoanalytic Discourse” 。これも英訳はAlan Sheridan。情動の観点からフロイトの著作を簡潔に紐解く手捌きは鮮やかで、今回は『草稿G』(1895) 『心理学草案』(1895)について書かれている箇所を読んだ。『草稿G』については前にもここで書いたがメランコリーについて書かれたもので『喪とメランコリー』を読む際は参照してもいいと思う。『心理学草案』についてアンドレ・グリーンはこう書いている。

「(・・・)理論的諸問題に取り組もうとする並外れて大きな努力を示すものであり、しかもフロイトがその後二十年以上にわたって、少しずつ展開・活用していくことになる仮説の大部分が、最初にして一挙に噴出するかたちで姿を現している最初の試みでもある。すなわち、量と質との関係、自由エネルギーと拘束されたエネルギーとの区別、経済論的仮説、満足体験と苦痛体験に関する最初のモデル、自我の最初の素描とその対象との関係、象徴化の役割、一次過程の定義、そして思考の理論――言語および意識との関係において、情動の攪乱的な役割が姿を現すその理論――である。この著作のきわめて大きな利点は、メタサイコロジーのこれらすべての基礎概念を、明確に連関づけて提示している点にある。もちろんそれは、随所に遊びの要素を含む、緩やかな連関ではある。しかしそれでもなお、きわめて重要な連関であることに疑いはない。」

と。まさにそうなのだけどあっさりまとめてくれちゃうもんだわね、とがんばって読んだ私たちは思ったりもする。グリーンのこの本は「情動」という側面から切り取っているという点では偏りはあるが、フロイトを読む際の補助線になる。アンドレ・グリーン=難解、なだけではなく英国対象関係論とフランス精神分析の架け橋になっているくらいだから、フロイトと私たちをこうして繋ぐことだってしてくれるのだ。昨年はグリーンをたくさん読んでたくさん訳してきたがこういう文献との出会いもあって報われている気がする。

さらに、なにのために読もうとしたのか忘れたが昨日はなんとなくGreen, A. (2002) The Crisis in Psychoanalytic Understandingも読んだ。そしたら私がここでたまにぼやいているようなことがきちんと精神分析の危機として書かれていた。書くならこのくらいの熱量で書かないといけないのね、と思いながら読んだ。

ロベルト・カラッソ『Ka』(1998)の引用からかっこよく始まるこの論文、冒頭だけでも雰囲気は伝わると思うので私が機械翻訳を用いつつ訳したものを載せておく。

「将来、歴史家たちが現在の精神分析の時代を振り返るとき、彼らはこの時期が精神分析的理解の危機を経験していたと結論づけるかもしれない。私たちは、自分たちの学問分野の発展を、他者が擁護する諸理論との関係の中に自らを位置づけることで追っているつもりでいる。しかし実際には、私たちがそれを行えるのは、きわめて近似的で個人的な翻訳を通してにすぎない。とりわけ、それらの著者が自分たちと同じ思想的家系に属していない場合、私たちは、彼らと何とか結びつきを作ろうとする試みとして、そのような翻訳を行っているのである。そして私たちは、しばしば自分たちにとって異質なものの前で、礼儀正しさと敬意を入り混ぜた態度で、一般的な意見交換に参加する。最良の場合でさえ、彼らが推論を構築する基盤の妥当性について、私たちは懐疑的である。というのも、根本的には、私たちはもはや共通の理解の原理を共有していないからである。

フロイトは、ある種のバランスシートを作成するように、精神分析の仮説が公理として見なされるべきなのか、それとも研究の成果として見なされるべきなのかを判断するのは困難であると認めることで、この問題に間接的に言及している(Freud, 1938)。その結果、私たちは一方では交換における過度の緩さと、他方では問いかけをほとんど許さない強硬な姿勢とのあいだで引き裂かれることになる。しかしながら、この状況には利点もあった。それは、最も厳密なものであっても、いかなる科学的方法も、明確に限定された公理や基本概念の集合に基づいてはいない、ということを私たちに認識させた点である。フロイトはすでに1915年にこのことを指摘していた。ここで生じる問いは、私たちの発見がもつ価値に関するものである。

私たちは、共通の臨床実践という領域においてさえ、合意に達することができるという幻想を抱くことはできない。しかも、この境界自体も決定的な助けにはならない。というのも、精神分析の始まり以来、臨床領域はあまりにも大きく変化してきたため、今日ではその統一性を見出したり、その限界について合意したりすることが、かつてよりもはるかに困難になっているからである。さらに、この多様化の進展は、ビオンの用語でいう定義的仮説と、それに関連する理論的・臨床的原因病理論的概念の発展を促してきたが、それらはしばしば互いに乖離している。

この問題を考える上で最も適切なのは、構造と歴史との連関を形成しようとする思考である。ここでいう構造とは、精神を構成する様式と呼びうるものが、安定―不安定の勾配を中心として、収斂・補完、もしくは対立といったかたちで秩序づけられていることを意味する。葛藤の圧力は、それらの内部調整を硬直と解体のあいだで揺り動かす。

一方、歴史とは、時間性の展開、より正確には精神分析が示してきた絡み合った複数の時間性(Green, 2000)を意味する。構造と歴史との関係は、精神分析だけが独占しているわけではないが、この領域では他分野以上に複雑であることが明らかである。」

と続いていく。フヒー。古典を読む意義は伝わる人には伝わっていると思うけど、実践と理論を乖離させないように丁寧に織り込んでいく作業をさまざまな形でしていかないといけない。大変なことだ。がんばれたらいいなー。今日は事例検討会。多分これまでで一番ぎゅっとした話しあいができている会でもう何年も続いている。先日書いた子供の心理療法に関する一章もそこで受けたインパクトのおかげで一気に書けた。そういう相手がいるって本当に大事。若い人たちもいろんな年代、いろんな経験の方と患者のことを自己流ではないやり方で検討できて、検討会が終わる頃にはその人の人生が歴史性を持って立ち上がるような感覚を持てるような場を作っていってほしい。色々文句もぼやきもあるだろうけど、政治と同じで、そこを変えていくのは自分でもある。がんばれたらいいね。

いいお天気!良い日曜日になりますように。

新宿中央公園の梅とパークタワー

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家