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お菓子 精神分析

うまみ、面白味、醍醐味

早朝より早くに起きてしまったからお布団で携帯で作業しようかなと思ってiphoneをもってお布団に戻ったら眠ってしまった。そんなものそんなもの。

今朝も調布市「feuquiage」のフィナンシェピスターシュ。ピスタチオのお菓子はもう本当にどこでも定番ですね。外国だともともとそうだったりするのかしら。昔々にもらったアフタヌーンティーのかわいいフォークでパクリ。あー、これもとっても美味しい。しっとり。かなり甘いと思うのだけどこれぞ「うまみ」では、とまた「うまみ」をよくわからないまま使う。味とは模索するもの。模索を楽しませるものが「うまみ」では。というかそもそも感覚器官を意識的に使わせるものには魅力があるのかもしれない。

私が日々営んでいる精神分析だってお互いにものすごく辛い局面はあれどやっぱり自分の面白味、人間であることの醍醐味を知るから受けた人はそれを価値あると思うわけだし。私は訓練でもあったから患者として受ける以上に膨大な時間とお金をかけたけど自分にとって本当に良い選択をしたと思う。感情をフルレンジで使うのが精神分析だと言われていたけどこれは無意識の作業を相当しないと難しいとよくわかったし、それができるようになって私の場合は楽しいこと、面白いことがそれまで以上に増えた。SNSとかで時折外側から呟かれるようにいろんなことが日本の精神分析協会にもあるけどどの組織にも少なからず何かはある。内側にいる人はその部分だけに関わっていないというよりその部分に巻き込まれながらそれをどうにかしていく人間なので批判ではなくコミットしつづけることが必要で大変。もちろん素知らぬふりをしながらとりあえず所属先として組織を使用することもできるけど私は自分の居場所を人にお任せするのはちょっと嫌。自分のオフィスを他人にあつらえてもらうのは嫌、自分の家庭を他人に評価されるのも嫌(これはしょっちゅう起こりうることだけど)。治療関係もなんでもそうだけど外側から何かいうのは簡単だよ、と思うこともある。でもそんなことを言っている暇はなくなってしまった。余裕がないから協力して、とは思う。もしも批判が「良く」する方向をむいているならそのための言論空間を守り育てる方向にシフトしていかないとではないだろうか。他人のこと、他人のせいではなく、環境因はもちろんあるものとしてそこで生きている自分のことを考える、というのは精神分析作業の前提。だからこそ精神分析はその歴史において自分が自分にいかに激しく巧みに抵抗するかを明らかにできた。防衛ってすごいし、病的な防衛と言われるものもあり、わたしたちはみんなそれを少なからず使いながら生きている。結構大きな問題を自分だけ見て見ぬふりしていられることだってできてしまう。精神分析はそういう自分でありたくない人が価値を見出すものだと思うし、大抵の人はそんな日々やっていることを変えようとは思わないわけで、本当にどうにもならなくなって受ける場合が多い、というかそうじゃないとそんなに時間とお金かける気にならないだろうからメジャーにはなりえない治療。メジャーになったらそれはそれで豊かな時代が来たな、という感じがするし好循環かも、と内側の人間としては思いたいけど。私の場合は昔から精神分析家になるというより精神分析を受けることを決めていたのでよっぽどどうしようもない自分を感じていたのだろう。フロイトを読む以外に精神分析のことなんて何も知らなかったのに不思議な縁だと思う。色々ある組織であってもどの訓練分析家の先生たちにもとてもお世話になった。人間は本当に自分にも他人にもわからない部分でできているのでそのわからない部分にまずは治療者が持ち堪える訓練が必要でこれがないと無意識は揺るがない。表面的な変化は生じてもその変化を起こしたのが精神分析かどうかはわからない。自分でも相当びっくりな自分を体験するのが分析なんだと今は思う。途中から自分で自分のこと手放して委ねて苦しんででも興味を持ち続け、それができるように関心を向け続けてくれる相手を知る。人は人に支えられている。そこへの信頼が自由をくれる。今世界のいろんなところで起きている戦争ではそれが損なわれている。精神分析ではケアはキュアの前提であって自分と他人をケアすることは分けられない。常に相互作用。本当にいろんな大変さがあるけどその面白味、醍醐味を知ることができて本当に良かった。嬉しいし。

東京の今日は雨。大きな傘を持っていこう。台風の時に傘の骨が曲がっちゃって今もそのままなんだけど元々が大きいから不便ではなくまだ直していない。傘屋さんで買ってもらったいい傘だからそこに持っていけばいいだけなんだけど。梅雨に入る前に直していただきにまいりましょう。みんな元気かな。そこそこでも何かいいことありますように。

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精神分析

リプトン、情報、4月感

南の窓から鳥の声が聞こえた。西の窓からは聞こえない。どこへいったのだろう。

今朝はアーモンドののったしっとり焼き菓子。どこのだったか。いただきました。見た目よりずっとさっぱりしていて美味しい。お徳用のリプトンと一緒に。リプトンといえば茶葉そのままよりティーバッグという印象がある。今は本当にいろんな種類のが出ていて、と少しネットで調べてみたら知らない紅茶もたくさんあった。何気なく調べるとすごく驚くわけではないが少し興味を引かれてしまう記事に多く出会ってしまう。そして読んでしまう。そしてこんな時間になる。今日はまだ時間があるからひとつ例に挙げてみるとなんとリプトンというか森永乳業というかリプトンって

「缶・ペットボトル飲料はサントリー食品インターナショナルが製造、(中略)紙パック・チルド飲料は森永乳業が製造・販売している。」

そうだ。wikipediaに書いてあった。

しかもミルクティーは「(2022年3月ロイヤルミルクティーにリニューアルしたが、2023年3月復活)」とのこと。ミルクティー「旧発売」に向けてお客さんからの問い合わせの言葉を使った短編アニメ「667通のラブレター」というのも作られたという。渋谷駅でプロモーションしていたらしいけど私は出会っていたのだろうか。渋谷駅も新宿駅もいろんなアニメの絵が大きく張り出されていたり映像が流れていたりするがそれらを横目に通り過ぎるだけでそれらの前で写真を撮ったりしている人たちほど意識的に目を向けていない。新宿駅西口と東口をつなぐ地下通路は新しい方は映像、古い方はポスターと分かれて提示されているイメージだがそんなことはないのだろうか。両方ともただの壁に見えるけど仕様が異なるのだろう。すごいことだ。

先日、同世代の友人とラジオの良さについて話していた。無駄と思われる情報と触れることって大事というような話を子育ての話の中でしていてCMの効果についてもお喋りした。テレビつけっぱなし、ラジオ流しっぱなし、というのは選択したものをYouTubeで見るのとは異なる構えをこちらにとらせる。情報に対してニュートラルな身体でいることは難しいけど情報の質や量に少し意識的になるだけで関わり方は変わるかもしれない。4月になって街の景色が変わったなと感じるのも毎年同じような生活をこちらがしているからだろう。カチッとしたスーツ姿で外の段差をベンチにしておにぎりを食べている二人を見かけたが多分これは4月の新入社員の光景。しばらくしたらすぐそばのベンチにも気づくだろう。微妙な距離感なのになんだか楽しそうで素敵な光景だった。みんなの毎日はどんな感じだろう。4月感、ありますか。私は毎日「トリー」「はなー」と密かに盛り上がっている。鳥と花の名前もそろそろ詳しくなっても良さそうなものだが全く記憶できない。それがなんでも愛でるものが豊かにあるのは良きこととして今日もがんばろう。良い1日でありますように。

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精神分析

ブールドネージュ、スカートまわり、『窓ぎわのトットちゃん』

お土産のスノーボールをつまんでそっと半分噛んだ。サクサク。もう半分もすぐに口に入れた。サクサク。フランス語だとブールドネージュというお菓子。とっても好きなお菓子のひとつ。精神分析家になるための訓練に入ったのが、つまり精神分析家候補生になったのが2016年。お金を節約しなければというのもあったけれど時間が取れなくなってフランス語の教室に通うのをやめた。先生とはSNSで繋がっている。ちょうど通っていた頃にお子さんが産まれて赤ちゃん用靴下をプレゼントした。喜んでもらえた。私はかわいい箱にちっちゃく重ねられたシューズ柄の靴下を出産祝いの定番にしている。友人は健診にその靴下でいったら人気者になったと笑っていた。「出産祝いに靴下をあげた」とフランス語でいう場合、J’ai offert à mon professeur de français une paire de chaussettes comme cadeau de naissance.ってきちんとjeを主語にしたほうがいいのだろうか。Les chaussettes étaient offertes lors de la naissance d’un bébé.みたいに受動態でいうのは不自然か。フランス語の発音が好きなのでまたやりたいがまずはお菓子で学ぶフランス語ということでいろんなお菓子を食べましょう。いつもなにかと理由をつけてお菓子ばかり食べていたらすっかり腰回りが太くなってお気に入りの巻きスカートが入らなくなってしまった。20年前に友達にもらったもので昔から巻きスカートが大好きでとても気に入っていたのに。小学生の時、巻きスカートで鉄棒をぐるぐる回っていたら滑って落ちたことがあった。スカートまわりといってスカートを少し鉄棒に巻き付けてそこを支えにするとぐるぐるぐるぐるぐる回れて私はこれが好きだったのだが巻きスカートは巻くときに左右でずれが生じるから失敗したのだろう、と今となれば思う。それにしても当時の私の多動ぶりはすごかった。暇さえあれば身体を使って遊ぶという術がなかったら教室の椅子に座っていることも難しかったかもしれない。小学校2年生の時、担任の先生が毎日『窓ぎわのトットちゃん』を読み聞かせてくれた。毎日帰りの会かなにかで数ページずつ。私はその時間が大好きだった。みんなトットちゃんと自分を重ねる部分が多かれ少なかれあっただろう。私の初恋の人でもあるその先生は私たち子供のことをよくわかっていらした。大変荒れた学年で卒業まで問題続きだったがまだ20代だった先生はいつも元気で大らかだった。友達と先生の家に遊びにいったこともある。そういう時代だった。先生が38歳になるくらいまで年賀状のやりとりをしていたと思う。なぜ38と思っているのかは忘れてしまった。先生が結婚したときは少し複雑な気持ちになった。そういう複雑な気持ちを教えてくれる先生だった。自分を持て余す子どもたちに葛藤することの大切さを自然に教えてくれた。現代は葛藤も高級品になったがそばに共に持ち堪えてくれる大人のこころを感じることができれば誰にでも抱えていられるはずのいくつものこころが今日もどこかで大切にされていますように。私もそうできますように。全く余裕がない毎日だけど今ここで先生のことを思い出したら穏やかな気持ちになった。お元気でありますように。皆さんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

修理

寝坊、でもないが、いつもより遅くなった。が、のんびり和菓子。うまい。あまい。

iphoneがそろそろ寿命らしい。Appleサポートとチャットして見積もりを出してもらった。修理するなら買い替えたほうが良さそうだけど高い。チャットの相手はAIなのだろうかと最初は思ったが言葉の使い方や処理の時間からすると違うか。Macもバッテリー修理が必要で予約をした。 Macもかなり古い。冬の高野山に持っていったときはフリーズしてしまいお正月から銀座のアップルストアに長居することになった。高野山へは修行に行ったわけではない。長期休みの恒例日本全国めぐりの旅だった。原稿が書けておらずPCを持ち込んだが原稿が進まないどころかPCは単なる荷物となり、お正月に慣れない都会で無為な時間を過ごすことになった。一番早く予約を取れたのが銀座だった。一番大きな通りにあった。今もそこにあるのかどうか知らないがアップルストアはどこもわりとメインの通りに面している気がする。渋谷の公園通りのアップルストアの隣はバレエ用品などをうっていたチャコットという店だったがもう跡形もない。ビルがなくなっていく様子を私はずっと追っていた、というか単にその前をしょっちゅう通っていたので見ていた。高校時代の友人が大人になってからバレエを始め一緒にグッズ探しに付き合ったときにはじめて入った。身体が恐ろしく硬い私にも絶対できるようになるよと勧めてくれて少し心動いたが今となるとあの時はじめても絶対できるようにならなかった気がする。友よ、あの素敵なチャコットはなくなってしまったよ。友は東京を離れてもバレエを続けていた。私のMacのフリーズは原因不明だった。店内では無理ということで工場に修理にだして直ったとなってもまたフリーズしたりした。二度目は渋谷のアップルストアに行った気がする。トラックパッドから汚れが入ったとかでお掃除してくれたりOS変えたり色々してくれたが原因不明で寒すぎたりするとそういうことが起きるかもしれないということになった。高野山は雪だった。それだけで修行だったが、素敵な宿坊の朝は早く、お坊さんたちと同じお経を唱える会に出たら足元が恐ろしく冷えて私がフリーズした。Macは結局Chromeをアンインストールしたら落ち着いたのでそういうことだったのだろうと思っている。私は私の部分をアンストールしても原稿を書けるようにはならないのでこんなんなままなんとか書いて出したのだろう、その後きちんと形になったから。あの年のお正月の銀座は中国の人がすごく多かった。今はどこもかしこもとにかく外国の人が多い。日本はどんな感じですか。都会もいいですが高野山とかも良きですよ。それにしてもシドニーでMacもiphoneも使えなくなったらどうしよう。また修理に時間もかかるしお金もかかる。困った、がいく前に治すべきだよなあ。ああ。まあ今日もなんとか過ごしましょう。よいことありますように。

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精神分析

山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』(青土社)

眠い。昨日もお菓子をいっぱい食べた気がする。満足できるお菓子とそうじゃないお菓子があってそれが甘さのせいなのか量のせいなのか味のせいなのか食べるタイミングのせいなのか気分のせいなのか他にも色々複合的な要因のせいなのか自分で全然わからなくてなんかいつも「美味しい!」となっても物足りなさが残ったりする。朝にいただくお菓子は少量でも美味しくて満足と思えるものが多いから時間帯とおなかの空き具合によるのかも。今朝は秩父のお土産「秩父よいとこ」。これは何度かいただいたことがある。白餡と芋餡かな。いい香り。甘ーい。お茶とあいます。今日はほうじ茶。温まる。ここ数日はエアコンいらずで服装の調整だけで過ごせる快適な気温。嬉しい。なんか雨が窓に当たる音がするんよ。いやね。出るまでにやんでほしいけど出るときにこそ降ってそう。そういうものですね。

石原真衣、赤坂憲雄と読んで今度は山内明美。南三陸生まれの研究者。『こども東北学』(よりみちパン!セ)を読んだことがある方も多いかもしれない。私が今回読んだのはこれもSNSで見かけた山内明美『痛みの〈東北〉論――記憶が歴史に変わるとき』(青土社)。今年三月に出たばかりなのね。震災後まもなくいろんな本が出始めて私は本屋でそれらを違和感を持って眺めていた。丸善お茶の水店でそういうコーナーがあったのだったか、少し中身を見ては棚に戻してその表紙をぼんやり眺めて立ち尽くした。なんとも複雑な気持ちになった。いつも私が買うような現代思想の雑誌や本には有名な知識人ばかりが寄稿していた。ほぼ男性。2011年5月、6月に出たそれらはどのくらい被災地の人に届いたのだろう。もちろん被害が少なくともあの日は東京だって異常事態だった。私はお茶の水にいた。自分の体験は何度も語っている。その日に限ってスニーカーを履いておらず、その日に限って上着も十分ではなく、歩いているうちに温まるかと思いきや道は人でいっぱいでノロノロしか歩けなかった。山内明美の新著にも繰り返し書かれる彼女の体験がある。彼女は当日東京で地震にあっているが南三陸の被害状況が流れる中、親と連絡が取れずにいた。どれだけ不安だったことか。あの日、私と同じ部屋で地震を体験した人は親族を失ったとあとから聞いた。皆その人のご実家が東北であることを知っていた。どうかご無事で、と言葉にするのも憚られる映像がテレビに流れ続け、みんなで立ち尽くすようにそれを見ていた。隙間時間にこの本を開き「あれ?ここさっき読んだっけ」と何度か思った。いや、読んでいない。何度も同じことが書かれているんだ、としばらく経ってから気づく。時間が経つにつれて心寄せる先が広がり響きあっていく。福島、奥尻、水俣、石牟礼道子、宮沢賢治、地元の産業、子どもの頃の<三陸世界>、外国人花嫁、アイヌ、森崎和江、確かにこの本は「記憶が歴史に変わるとき」が書かれていた。当事者の体験としてそのプロセスがある部分ではバラバラとした状態を残しながら、別の部分ではすでに整備された道の歴史を辿るように書かれていた。出来事が生々しく目の前を覆い、心を塞ぎ思考停止しそうな状態から何かを立ち上げようとするとき人はそれまでの様々な痛みと共鳴しそれらと繋がろうとするのかもしれない。そんなことを感じさせる本だった。時間がなくなってしまった。鳥たちが高いところで鳴いている。雨が上がりつつあるかもしれない。どうぞよい一日を。

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散歩 精神分析

春、ジャズ?、ツバメ

ちょっと筋肉痛。クロネコやAmazonのおかげで旅支度が少し進んだ。なによりも友達のおかげだが。感謝感謝。しかし本来一番やらねばならなかった準備…ぐちぐち(まとめちゃおう)。ぐちぐちいうのもそこそこめんどくさいわね。

早朝に洗濯機をかけた。洗わねばならないものを入れ忘れた。別に今日洗わなくてもというものはいれた。なんなん自分。

昨日の昼間は半袖で動けた。新宿中央公園の桜が葉桜になりお隣の八重桜の濃いピンクがフットサルコートと空に映えた。新緑が眩しくて赤い三角コーンにハート柄のなにかがまかれていた。お花の時期は赤いコーンも悪くないけどおいてもおかなくても良さそうな場所のコーンはこのくらい目立たない方がいいかもね。ちっこい球根はすごい数のチューリップを咲かせいろんなツツジも満開に近かった。亀たちも誰が上に乗ろうと気にしない様子で重なり合ってのんびり。新宿でさくっと用事を済ませてまたオフィスに戻った。亀って重さとか乗っかられて煩わしいとかないのね。私は10キロくらいのデッドリフトは余裕だけど(多分)足ちょっと踏まれるとかでも嫌だな。どうなってるのかな、亀さんたち。たまにまじまじと見てみるのだけどただただのんびりしておられてかわいい。

公開されてたジャズのプレイリストを適当に選んで歩いた。耳に止まった音楽は曲名もプレイヤーもわからないままお気に入り登録した。夜になってまた耳に止まった。今度は画面を見てみた。同じ人の曲を昼間登録していたとわかった。緑のチェックがはいっていた。私はこの人が好きなのかもと思ってチェックしたらネイト・スミスという有名なドラマーの曲だった。知らなかった。これはジャズというよりなんていうの?ジャンルはわからないけど違うノリで聞いていた。かっこよくてアルバムもいくつかチェックして少し前のアルバムをお気に入りに登録した。電車でリズムを刻んだが変な動きだったかもしれない。

モッコウバラでいっぱいの壁を左手に眺めながら歩いていたら右手の狭い芝生に3種類くらいの鳥がいた。鳩とスズメとあの子は誰やろ。よく見かけるベーシックな鳥なのに忘れてしまった。ガーン。校庭で遊ぶ子どもたちみたいだった。色々いる。そういえばこの前ツバメをみた!木曽路でみたたくさんのツバメを思い出して一句作ったばかりだった。素敵だよねえ、ツバメ。昨日の朝、北海道の友人が送ってくれた春景色に映っていたマガモも陽射しですごくきれい色になってた。東京はそろそろ夏の日差しだね。春短かった気がする、と書いてみたけどそんなことないか。日々の寄り道で十分満喫した。今日も少し寄り道とか遠回りとかしちゃおう。どうぞお元気で。

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精神分析

とりあえずひとまず。

今朝は「秩父 芝桜ろーる」。甘い!秩父には羊山公園という芝桜いっぱいの公園がある。もう何年も行っていない。これもお土産。本当の羊もいたような、いないような。それにしても甘い。旨いが甘い。煎茶が進む。飲み干してしまいそう。

バタバタ家事をしていたらあっという間にこんな時間。今日の予定を頭の中で反芻。定期的でない仕事が一番心配。間違えないようにしないと。間違えないようにしないと、ということがいくつかあるとかえって忘れてしまうから優先順位で考える。めんどくさいな、自分。

難しいことを色々と考えているとどんどん頭が悪くなる気分。多分、頭が悪くて考えられない部分に気づくからだね。困った困った。老眼も進むばかりだし新しい本を読む意欲もないし。ぐちぐち(いっぱいあるからまとめてしまおう)。

1901年4月13日はジャック・ラカンの誕生日でした。フロイトが『夢解釈』(岩波だと夢解釈。人文だと夢判断。)を出版したのが1900年(実際には1899年)。ラカン赤ちゃんは自分が精神分析家になるなんて考えたこともなかったでしょう。フランス精神分析の元祖となるなんて。フランスの学派はたくさんあってどこが国際精神分析協会(IPA)に所属しているのかとかも覚えられない。それでも付かず離れず勉強しているとラカン以外のフランス精神分析家や学派にも色々触れるから現代思想で引用されるラカンとは全く異なる観点からそれらと触れ合うことになる。臨床的な成り立ちからからみると患者の姿がそこにはいつも見えるので病理と離れたところから引用することは難しくなる。別の観点からいえば、私は臨床をしていなかったらラカンを読むこともなかっただろうから出会い方も色々。今日もNHK Eテレ「100分de名著」があるかな(deじゃなくてよかったのに。打ちにくい)。立木さん解説のフロイト『夢判断』。伊集院さんの反応が本当に豊かで驚かされる。知らない世界にも好奇心いっぱいに入っていってそこでの自分の感覚を結構ギリギリまで言語化しようとしているのだと思うのだけどそれがすごいと思う。ついぽろっといってしまった、みたいなことをしない慎重さも備えてるし。すごい。前に近所の店に伊集院さんがお買い物にきていたことがあって大きな人だなあと思った。だから何というわけではないがそばで見たことがあると親しみがわきますね。伊集院赤ちゃんも自分がこんな売れっ子になるとは思っていなかったでしょう。願えば叶うというものもあれば願わずともそうなっていたという場合もあるしなんかよくわからないけど今があるという場合もあるしこんなはずではなかったというのもあるしいろんな場合がいろんな時々であるから人生わからないものです。なので、というわけでもないけど私は大変なことが控えていてもとりあえず「行って帰ってくる」を目標にしている。何かあってもとりあえず無事に行って帰ってくることができればなんとかなることもあるでしょう。次なる試練もあるでしょうけど。色々ある毎日ですがひとまず今日が良い1日でありますように。やだ、なんで「ウニ」って変換されるんだ。句会の兼題が「海胆」だったからか?まあとりあえずひとまず。どうぞ良い一日を。

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精神分析

準備、中耳炎の思い出

なんと表現したらいいかわからない鳴き方の鳥の声をベッドの中から聞いていた。何かが斜めにザッと切り落とされるような音が断続的に聞こえていた。なぜ音だけで「斜めに」と思ったのか自分でわからない。夜更かしをしたが読書会のあとに友達に色々教えてもらって久々の海外へ向けた準備が進んだ。余裕がなさすぎて基本的な準備に全く頭が回っていなかった。パスポートだけは先月取り直したけど。Amazonを見ていると余計なものを買い込みそうになる。危ない。電源変換プラグもそこそこいいのを買ってしまった。こういう小物はとっても楽しい。あと「のどぬ~るぬれマスク」を勧められた。たしかに。飛行機に乗ると喉が張り付いたみたいになってしまう。私は長時間乗る時はいつも濡れタオルをもらって口を押さえたりしていたのを思い出した。すぐに喉がやられてしまうだけでなく鼻が悪くて耳抜きができず中耳炎にもなりやすいから。一度かなり重たい中耳炎になってしまった。あの痛みも思い出した。最初の職場にいた頃、北海道に行く飛行機で中耳炎になり痛いし聞こえないし大変辛かった。薬で痛みが治まった後も聞こえにくい日々が続いた。世界の音が全て遠かった。しかしすぐにこれも悪くないな、と思うようになった。当時の職場には怒鳴り散らしたり不快感をコントロールできない話し方をする人たちがいた。毎日苦痛だったそれらが膜の向こう側に聞こえた。なんて平和な!とニコニコ穏やかな気持ちでいられた。ニコニコしてると怒鳴られそうだから心の中で舌を出しつつニコニコしていた。当時の私はそういう人が話す内容を信用していなかったけど聞こえ方が変わると内容を吟味する気も起きるのかその人たちのパターンもよくわかったし、話し方抜きで言葉を聞く仕方も学んだ。不快だとその人について知ることもしたくないがそのときは余裕があった。逆に、入職したばかりの頃は不快さに囚われてしまって知りたくもないのに「なんで」と知ろうとしてしまって辛かった。そんな状況ではこちらの知る機能も働かなくなっているからいくら努力しても無理であることに気づかなかった。その後もずっと良き友人でいてくれる先輩たちが現実検討を助けてくれた。彼らはすでにそれらの不快な声を聞き流しつつ「こういうことが言いたいんですよね」と爽やかに捉えることに慣れていた。いつも優しくて面白かった。とはいえ、中耳炎にはもうなりたくないので警戒する。予防する。「のどぬ~るぬれマスク」を買いにいこう、忘れずに。

読書会ではJoyce McDougallのThe Many Faces of Eros A Psychoanalytic Exploration of Human Sexuality(Norton Professional Books)をようやく読み終わった。3ヶ月に1回くらいのペースで読んでいたので時間がかかったが読んでよかった。多くの学びがあったので忘れないうちにどこかにメモしておこうと思う。

今日から初回面接グループが始まる。みんながんばろう。毛布とか洗って外に干していきたいけどにわか雨とかあるかしら。春の天気は侮れません。あ!春の天気とか書いたから明日投句締切であることを思い出した。やばい。いつも通り一句もできていない。言葉探しもがんばろう。素敵な言葉落ちていますように。あるいは降ってきますように。

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政治、映画、フィナンシェ

日本は高齢男性政治家たちの好き放題。彼らのあり方はいろんな男性(に限らないが)たちのいろんなことの免罪符にもなっているのだろう。「だって○○だってやっている」「しかたないだろ、こんな国なんだから」など子供のまま呟きつつ。みんなが少しずつ政治家に悪い部分を集めて政治家批判しつつ自分も同じなのに自分は違うと言い張るみたいなことも起きているのだろう。もしくはただの悪を悪から生じた善みたいに言って誤魔化そうとしたり。なんの哲学もないくせに自分の悪行ごまかすためなら引用し放題みたいなこともある。SNSはそういう人に非常に協力的。

フーコー研究などその著作も面白い重田園江が「白水社の本棚」の連載で一番好きなタランティーノ映画の一つとして『ジャッキー・ブラウン』(1997)をあげていた。私も大好き。高校の時の友達と見にいった。めちゃめちゃかっこよかった。ひでーなとひどいシーンを笑いつつドキドキワクワク、かっこよすぎた。私も不当な権力に甘んじるマゾヒズムを発達させないところは真似していきたい(そういう話ではない)。

今朝は京都土産のフィナンシェを温めて食べることを忘れなかった。温めて食べた方が美味しいって書いてある紙を見る前に食べてしまっていた。まあ、どっちでも美味しかったよ。今日は予定通りこなせるだろうか。だろうか、の時点で怪しいがやらねば。

東京はいいお天気。皆さんもどうぞ良い一日を。

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あまりに良きもの、倒錯

いろんな人のライブ情報が入ってくる。コーシャス・クレイもまた5月にくる。

村井理子さんの愛犬ハリーが琵琶湖を泳ぐ映像があまりに美しい。岸政彦、齋藤直子夫妻の愛犬ちくわもあまりにかわいらしい。あまりによき姿というのはこの世に溢れているのでずっとみていたいがどれもこれもそればかりでできているわけではないので今日も普通に愛でたり憎んだりしよう。憎むまでは時間がかかるからなるべく憎しみにしないように違和感や怒りに素直になろう。

フェミニズムに影響を受けたといいながら平然と女をとっかえひっかえ利用する人(こういう場合、大抵家族もいることを考えるとどの関係性も代替可能と思っているところがポイントか。面白いことに表面的な類似性もある)が自分の身体の痛みにばかり敏感で相手の身体の痛みに鈍感であることについて考えていた。これはDVや多くの身体的な暴力についてもいえるかもしれないと思った。もちろん身体の痛みは心の痛みとイコールで考えている。私が考えていたのはヘテロセクシュアルで性器的な志向が強い場合の倒錯についてというか、それそのものの倒錯性についてなのだけど、こういう場合の方が暴力を暴力と思わないのではないか。今の政治もそうかもしれない。自分への執着を部分的に他者に投影して、それがモノである場合は思い通りにできるけど人である場合は相手にも身体と心があるから空想通りにはいかない。で何をするかというと人扱いをやめる。モノ扱いする。そうすれば何してもいい相手になる。考える必要のない相手になる。そういう倒錯性を考えると倒錯はマジョリティを説明する概念の一つになるかもしれない。イコールナルシシズムとして。他者をいなくしてしまうわけだから。でも倒錯という場合、そこにマゾヒズムの現れがあるわけでそれが自分の痛みに対するあり方に出ているのではないか、と考えたわけ。こういうことはすでに誰かが言っているかもしれないが、実感があるとこれはかなり恐ろしいことだと感じる。良きものが持つ力もそういうあり方に対しては無力というか部分的に利用されてしまうだろう。フェミニズムの知を喰いものにする「知識人」だってすぐそこにいるだろう。悪循環を断つには愛の物語が必要なのはどの時代も同じだがそれがマジョリティのナルシシズムでは困るわけだ。といってもそれがマジョリティである以上、そっちが「愛」と言われたりするわけだけど。などなど考えていました。難しい。

ああ、ハリーもちくわも近くの空を飛ぶ鳥たちもみんなあまりに良きものたち。世界がとんでもなく悪いものとしてもとんでもなく良いものたちを思い出す機能だけは残しておきたい。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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挟間美帆、俳句の本

腕が痺れて目が覚めた。いや、目が覚めたら腕が痺れていた。今も動きが悪い。とかくこうなりやすい。

昨日からずっと頭の中を挟間美帆の”A Monk in Ascending and Descending” が流れている。昨年秋に出たアルバム”Beyond Orbits”からの先行シングル。さっきはかわいいvisualizerヴァージョンをリンク先にしてしまったけどアルバム全体はこっちでチェックできるかな。私はあまりYouTubeを使わないのだけどジャズミュージシャンや曲の検索には使い勝手がいい気がする。私が求めている関連情報が出ているのかもしれない。

昨日Kindleでなんとなく『俳句がよくわかる文法講座: 詠む・読むためのヒント』(井上泰至,堀切克洋著)を読んでいた。堀切さん自身が本の紹介をしているサイトがあった。堀切克洋さんは演劇研究者でもあって私はそっちのお仕事にも興味がある。マイリス・ベスリー『ベケット氏の最期の時間』(早川書房、2021年)の翻訳も手がけておられる。『俳句がよくわかる〜』の本に「文語体の今昔」という章が2章設けられていて、その後「歴史的かなづかいのヒミツ」という章に繋がっていくのだけどこの辺りとっても面白いのですよ、奈良時代からの日本語の変遷が俳句を素材に説明されていてあくまで口語的に考えている私たちの文語として文語を捉えるから読んでいくと昔の言葉と現代語ってそんなに変わらないじゃん、だってなんとなく読めちゃってるし、と思うと思う。そして引用されているたくさんの俳句がどれもいい。赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』で芭蕉が歩かなかった、みなかった(見ようとしなかった)東北について書かれている章にはプチ旅人の私としては反省しきりだったが、この本で俳人として出てくる芭蕉の俳句はやっぱり面白くて旅人というより言葉のアップデートを試みた先駆者という感じがする。俳句を読む人って本当にこういうことよく考えてるのですよ。一方で私みたいにあまり何も考えず締切直前に投句してばかりの(出せないこともある)人の心もこうやってなんとなく惹きつけておくのも俳句で、これはやっぱり文語が全然遠い世界の言葉ではないからだと思う。だって言葉ってどれもこういう話し言葉から生まれてきたのでしょう?という感じで俳句の言葉を特別なものにしない感じがこの本の素敵なところだと思う。

それにしてもそれにしてもなのだが今日も無事に過ごしましょう。東京はいいお天気です。まだ肌寒いけど。どんな気温にも対応できる重ね着でまいりましょう。どうぞよい一日を。

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筍ごはん、硬い身体

今朝は筍ごはん。春。毎年静岡の小動物みたいな筍をいただくのだけど今年は来ないな、と思っていたらアク抜きした筍と筍ごはんのお裾分けをいただいた。正直、こっちの方が嬉しいな。フサフサの小動物みたいな筍もかわいいのだけどたくさんむきむきして小さくなってもそれなりに大きいというか、要するに茹でるのが面倒なのよね。いつも米ぬかもつけてくれるからただ茹でればイイだけなんだけど、と書くとなんでそんなことがめんどくさいのかと思ったりもするけど時間もかかるし米ぬかも結構厄介なところがあるでしょう、と思うのは、やっぱり他の料理より手間だな、と感じてるってことだね。もしかしたらほかにも要因があるのかもしれない。でもせっかく旬のものをいただくのだからはりきれるようになりたいわね。

今日はきれいに晴れそう。空はまだ薄い水色だけど東からの日差しが早速強い。部屋が朝日いっぱい。何が何やらな毎日でかえってぼーっとしてるだけみたいな気分なんだけどどうしたものかしら。この前、またパーソナルトレーナーの先生のところへ行ってみてもらったのだけど自分で柔らかいと思っていた肩甲骨周りが全く感覚がなくてびっくりした。昔みたいにひどい肩こりがないのも単に感覚がなく固まってるからなのか?怖い。そういう人いるらしい。ヨガやってるし、とかいって安心していたけどコロナ前からやってないし。先生に触られればそこに骨や筋肉があるとわかるのだけど自分で動かすことができなくてびっくり。でもそういう体験自体はヨガでたくさんしてきたからいずれ動くだろうとは思える。ヨガやる前の身体がほんと固くてみんなが低い姿勢を取れるなか一人だけ何もしていない人みたいな高い位置にいたりして先生も笑っちゃったりしてちょっと恥ずかしかったけど若い頃と違って全然恥ずかしさよりどうにかせねばという危機感の方が上回っていていつも先生の真前で超真剣にがんばって数年、だいぶ柔らかくなって今は見た目だけはどのポーズもそこそこ上手。全くできないポーズもいくつかあるけど。でもこれらが得意な筋力でごまかした結果の見せかけであることも知っている。先生にはバレているのだよ。はあ。指でちょっと姿勢直されるだけでふらついたりするのだからあーあって自分に対して思う。下手に運動神経がいい方だから使えるところで誤魔化しちゃうんだよね。その結果、今があると。はあ。でもさすがプロは技が多い。色々教えてもらって動いているうちに感覚ではつかめないけど鏡を見ればこんな感じかと動けるようになった。これを「今ここが動いてる」って自分で掴めるようになるためにはまずはどこが動いていないかを意識しようということで器具を購入。テニスボール2個でも代用できるけど2個を正確な位置に置ける気がしない。不器用すぎて。こうやってカシカシうっているときも時々姿勢を意識せねば。あーあ。整形の先生が言っていたことは正しかったんだなあ。いつもそう。人がいうことは大抵正しい。お世話になります。がんばりましょ。今日も良い1日でありますように。

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言葉、アーカイブ

うむ。ラベリングというかその出来事をなんと呼ぶかで事実認識が変わってしまうことは多々ある。私の仕事でいえばなんでも「アスペ」というとか。対話でなら「どんなところをそういうふうに」と聞けば解きほぐされて別の言葉になっていくわけでプロパガンダのような言葉にたやすくのっからないようにせねば。SNSは批判によってその言葉を知らしめてさらに使い勝手をよくしてしまうところがあるから怖い。

雨ですなあ。嵐になると聞いていたのだけど嵐はこれからでしょうか。滑りのよい南側の大きな窓をそっと開けて確認。あ、サンダルを避難させねば。使っていない陶器の鉢にポン。いい陶器だけど何年も使っていないからこんな入れ物扱いされている。いやいや、サンダルは大切な日用品。しっかり守ってあげねば。このサンダルが遠くに行ってしまっていないということは嵐はまだきていないということ。交通機関、乱れないといいですね。

問題を解きほぐした言葉で記述しなおし、それを歴史に位置づけ、記録されていない声の方、そしてそこには沈黙も含まれることに注目し、それらをたやすく「トラウマ」と呼んだり過度にイキイキした記述にしないように気をつける。

そういうことをする中で石原真衣のアイヌ研究、赤坂憲雄の東北学はとても勉強になった。東日本大震災の前に書かれた『東北学/忘れられた東北』の意義はますます大きい。昨年岩波書店から出た文庫は5本の論考を加えての再版で著者曰く「定本」とのこと。増補5「旅と聞き書き、そして東北学」には当時、福島県立博物館の館長として震災の記憶を記録するために奔走した著者が職を解かれたという記述に驚いた。しかし著者は奥会津ミュージアムという幻想のミュージアムを立ち上げる。今それはウェブ版で見ることができるのだがこの集積場(アーカイブ)について、特に災害との関連でそれについて考える際に参考になる本にも出会った。高森順子『残らなかったものを想起する──「あの日」の災害アーカイブ論』(堀之内出版)。この本はそもそもアーカイブとは、という視点を持ちながらメディアごとの実践が具体的に披露されている。したがって執筆陣も多様だ。アイヌ研究者の石原真衣は「語り」によって当事者の声を残しているが、アーカイブのあり方にも慎重であり、アーカイブとはなにか、何を成し得るものか、あるいは何をしてしまうものなのか、という視点は当事者を中心に考えながら立ち上げていく必要があるのだろう。記録は消費でもあるため何かをしゃぶり尽くす人を自分がしゃぶり尽くそうとしているということも生じやすい。その意味でもどうやったって想起されないものたちへの静かな関心も維持されるべきなのだろう。いろんなことが大変で難しいがまずは春の嵐に対してどうしましょう、という感じの空模様になってきた。毎年のことのはずなのにいつも同じ戸惑いばかり。どうぞご無事でご安全に。

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京都、挟間美帆、アイヌの本

京都のお土産ももうすぐおしまい、どれも個性があって美味しかったなあ。ありがとうございました。京都の景色は中学のときの修学旅行から始まっている。その前にも行ったことがあるのかもしれないがどの土地にも思い出の始まりみたいなものがあってそれは本当の時系列とは違うかもしれないし同じかもしれない。中学の修学旅行はグループで調べたところに好きに回ってよくて小さなみたらし団子屋さんに行ったりもした。今は普通に通り抜ける商店街である新京極はカツアゲに気をつけなければいけない場所としてインプットされているが「要するにカツアゲでしょ」と変換したのは私だと思う。京都は学会なども含めると友達も住んでいるし一番多く行っている土地だ。いくたびにかなりの距離を歩く。大学受験の時に泊まった宿はまだあっただろうか。母と泊まったとても古い町家は本当に素敵だった。そこはもうなくなったと聞いた。何度も見たい景色があるし一緒に行きたい場所もまだまだあるけど書き出せばとめどないであろう思い出がどんどん浮かんでくるから十分な気もする。どこにもかしこにも有名な物語が存在する京都。今朝は四条通の和菓子屋さんの栗きんとん。煎茶と一緒に。甘さを堪能してはお茶で打ち消す。また堪能する。また打ち消す。何をやっているのだ。これでは永遠に食べられてしまう。でも大丈夫。ここのお菓子は小さいから。リミットセッティングがされているのが優しい空間。

昨晩、ジャズ作曲家、挾間美帆の『情熱大陸』を見た。励まされるだろうなと思って珍しくテレビをつけっぱなしにして待っていた。励まされた。以前の柳樂光隆によるインタビューも大変面白かった。彼女の音や言葉や活動はとても魅力的。オーケストラを率いているのがとてもよき。私は音楽の才能が全くないけど音楽的な環境はとても豊かだった。父が趣味で地元のオーケストラでオーボエを吹いていたつながりなのか、いろんな有名な人たちの演奏会にもたくさん連れていってもらってよく泣いた。すぐ寝たりもしたが起きている間に聞こえてくれる音楽にはすぐ感動してすぐ泣いた。クラシックにも物語がたくさんある。いろんなことが同時に起きる。最近、海外でのカンファレンスで発表する原稿を書きながらあまり意識することなく馴染んできた世界が自分の思考を支えてくれていることに気づくようになった。明確な記憶ではなくて身体に染み込んだ印象が少し形になってきたのかもしれない。

先日、連れていってもらったカフェにDJブースがあっていろんなレコードが積まれていた。元楽器屋だったことと関係あるのだろうか。こだわりのコーヒーたちは高いが長居する人も多いのだろう。「ごちそうさま」のついでに店の人と立ち話をしていた人の肩を外から来た人が強めにたたいた。振り返ったその人は途端に嬉しそうな顔になってハグして今度はそばの椅子に二人で座っておしゃべりをはじめた。ここはそういう場になっているんだな、と思いながらめちゃくちゃ美味しいチーズのサンドイッチを頬張った。

北海道大学アイヌ・先住民研究センターの石原真衣さんの本がほしいがAmazonの置き配だとそこに置かれると雨が降った場合に困るんだよなあ、という心配があるので本屋で、でもなかった場合に困るから在庫があるか確認してなければ取り寄せてもらってとかいう手間が面倒ですでに持っているものやオンラインで見られる論文を読んだりしていた。

アイヌからみた北海道一五〇年』という本はアイヌにルーツを持つ人たちの言葉を集めた本。石原真衣さんの書き言葉は言葉に重みがあることを思い出させてくれるのだがこの本は歴史を背負うということについて自然に考えさせてくれる本。とても大変だけど応えていきたい言葉がたくさん。多くの人に読まれたらいいなと思う。

どうぞ良い1日を。

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起きるたびまだ早朝。やっとちょうどよく朝になった。ハーブティーをいれた。真夜中に何か食べると罪悪感を感じたりすると思うのだけど時間感覚って睡眠によって決まってる感じがする。書いてみるととても当たり前に思う。人間は夜は眠る仕様の動物だものね、例外があるとしても夜行性には分類されないものね。昼行性。中高生ではない。いや、昼行性の中高生もいる。自動変換は言葉あそびを誘惑してくるしトンデモナイ間違いもするから困るのだけど面白い。

昨日、SNSでフォローしている人が『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)― サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』石原 真衣 著(北海道大学出版会)を引用していて私が今度発表することと近いので読もうと思った。うーん。これはとても多くの文脈を必要とする話だからこういうところには書けない。SNSなんかではもっと書けない。書いてはいけないことってたくさんある。クローズドな場所でオープンに話すことから始めていかないとたやすく反復になる。

NHK俳句、堀田季何さんだ。いいねー。黒岩さんのコーナーもあるのか。面白いねー。俳句、本当に本当に細々と続けている。おー夏井さん。夏井さんをきっかけにすごくなっていく俳人は多い。本当にすごい仕事をしてる。お元気でいてほしい。

さあ、のんびりした。お菓子食べよう。作業しよう。

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政治とか運動とか。

白湯を飲んでいる。鳥が鳴いている。手がまだみかんの匂いがする気がする。今日も少し雨が降るのかな。少し寒い。

そばにあった山川出版社の『詳説 政治・経済研究』をパラパラ。最初に司法制度のところを開いた。この辺は高橋ユキさんの記事のおかげでだいぶ自然に身についてきた。高橋さんの文章は余計なことが書かれていない分、書かれていない知識はこちらから自然に手が伸びるのだ。最近、そういう力がある書き方や喋り方をする人っているなあ、と思って高橋ユキさんや富永京子さんのことを思い浮かべる。さらにパラ。あ「バカヤロー解散」。衆議院議員総選挙一覧に解散日、解散時の首相、選挙結果の特徴、と一緒に「通称」が載っている。「なれあい解散」「抜き打ち解散」「天の声解散」「話し合い解散」「ムード解散」など色々面白い。政治状況は全然面白くないがなんじゃこのネーミングは。最近だと「近いうち解散」が面白い。はあ、なんかため息が出るね、政治のことは。私たちの生活なのに。私たちの生活、っていう場合、貧しい人を出さないということが誰にとっても一番大事と思うのだけど逆の方向にどんどん行っている。臨床心理士資格認定協会もまた変なことしてるし。私たち女3人で代表になって賛同してくれた全国のみなさんと認定協会に議事録の開示請求とかして叶わなかったのだけど、頼んでもないことに予算(=時間)使うならやっぱり議事録開示してほしい。どういう話し合いでこういうくだらないことが決まっていくのかもはや興味だな、これは。人のこころとかいっている私たちの代表たちが育児や障害のある生活に対するサポートよりも頼んでもいないカード作りの案に時間とお金(カード自体にはかからないとしても)を割くことをどういう話し合いで決めているのか見せていただきたい。最初、冗談かと思った。メールアドレスの公表もせず、私たちとのやりとりだって最初は封書。こういうことにいちいちお金使わせて事務の人に手間かけさせて返信には名前もなく時間をかけてようやく話ができても結局議事録の存在さえ明らかにされなかった。こういう嘘みたいなことをしれっとやるのやめてほしいから運動してるのだけどこんなんで何が社会貢献だよ、と思うよ、私は。書きものでは偉そうに政治語っている人たちがこういう地道な運動に協力してくれるとは限らない。自分の周りだけどうにかなればいい世界を目指す仕事じゃないと思うのだけど。まあ、どの世界でもよくあること、だとしてもまあ、言い続けていかないことにはなかったことにされるのもどの世界でもよくあることなので言い続けないとですね。身近な人を大切にしない人ほどなによりも妻とかなによりも家族とかいうのと同じ。相手のみならず言葉自体を馬鹿にしてるのだと思う。自分の問題に他人の言葉に強い刺激を受けながら取り組みつつ自分の言葉を問い直していく精神分析の世界でも精神分析はしないけど精神分析について自分の言葉で語りたい人たちはいっぱいいるわけでそれはそれでいいけど政治のことを現実感を持って話す関係が増えていくといいな。どのアプローチがどうこうとか権威がどうこうとかではなく。普通に自分が困っていることを共有するってことだけど。いちいちSNSとかで反応するのではなくて。文句を言い続けるならきちんと運動したほうが結果は出るし。私たちの運動も相当労力使ったわりに署名とかで協力してくれた人たちに「こんな結果ですが」と残念な感じで伝えざるをえなかったけど実名で丁寧に形にしていくことは人として大事。それに本題から逸れたところで時間割くのは避けたくないですか、みんな。無駄なことは信頼できる人たちと楽しんでやりたい、わたしは。こういうことは教科書に書けるような類のことではなくて生活の知恵というか家族や友達や社会から学びつつ作っていくスタイルみたいなものかもしれないけど独りよがりではなく考えていきましょ。

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4月、ホワイトガトーショコラ

煎茶。お菓子はもうちょっとあと。少し糖質高そうなのを食べようかどうしようか迷ってる。栗きんとんさんです。どうしましょう。そういえばエクセルシオールカフェに新しくホワイトガトーショコラというケーキを見つけた。見た目はチーズケーキみたいだから最初「???」となって角度を変えて眺めてみたりしてみたのだけどつい頼んでみた(ついじゃないよ)。ホワイトチョコが練り込んであるらしい。練り込んで、というのかわからないけど。店員さんに伝えたら意外と言いにくい「ホワイトガトーショコラ」。「ガトーショコラブラン」ってフランス語で揃えた方がいいのでは。大きなお世話では。はい。でも言いやすいよ。言い比べてみて。ガトーショコラブラン。関係ないけど「シャノアール」が「Chat Noir」だと知ったときは「それで黒猫!」と思う以前に「シャ」と「ノアール」で分かれるのか、という驚きの方が大きかった。だって「シャ」なんて単語があるなんて思わなくないですか。そういえば青森では自分のことを「わ」というという話をしたばかりだな。そうそう、店員さんにお願いしたらこの時期だからか研修中の人でケースを覗きにいってもどれだかわからなくて先輩に助けを求めた。そーですよねー。見た目、チーズケーキですもの。しかもケーキの名前が書いてある札ってお客さん側にしかないのね、きっと。これは間違わないようにケースの内側にもつけておいた方がいいよ。大きなお世話か。はい。私が店員だったら自分用につけさせてもらうな。絶対間違える自信がある。それかチーズケーキと完全に位置を分けさせてもらう。右端と左端とかで。で「右チー、左ホワ(いつのまにか略す。レスカみたいな。)」と何度も暗唱する。先輩店員さんはさすがにすぐにわかるみたいで教えてあげてた。少し傾いているトレイにケーキ置いて大丈夫かしらと思ったけどコーヒーでバランス取れてた。この不安そうだけどどうにかこなしている感じが「おー、4月」だった。「一年生」という季語で一句作れそうか、もしかして。「一年生ショコラに白があるなんて」とか。どこにも出せない一句ばかりできそう。ナイスアシストの先輩店員さんはホワを見て思い出したらしく別の店員さんに「そういえば試食した?」と言っていて「えー、新しいケーキって試食できるんだー、いいなー」とこれからいただくところなのに聞き耳を立ててしまったのでした。もう一つオレンジのムースかな、新発売の商品が出てるのですよ。それも試したい。あと春野菜の天ぷらが食べたいです。エクセルにはないです。私は自分で揚げ物はしないから行きつけの居酒屋さんに行きたいです。全然行けてない。でも昨日はがんばって原稿の校正を仕上げた。引用の間違いが多くて自分にびっくりした。ご迷惑をおかけすることにならなければよいけれど。毎日謝罪すべき事柄が生じるものですね。もはや二十何年生なのに。もう食べ物関連のことしか浮かんでこないのだけど昨日も三浦哲哉さんの『LAフード・ダイアリー』で盛り上がってしまった。「トレイダー・ジョーズのサラダ」という章でLAのスーパー事情が書いてあるのだけどそれをLAに住んでいた人と一緒に見ながら懐かしんだ。私も何回か遊びに行ったからちょっとわかる。なんかさっきから外ですごくかわいい鳥の声がしてる。すぐそばにいるのね。でもカーテン動かすとどこかへ行ってしまうから聞いていよう。いや、仕事しよう。そっと覗いてみたけど見えなかった。シジュウカラかな。あら、カラスの大きな声がしたと思ったらかわいい声も遠くへいっちゃった。まだ聞こえるけど。さあ、仕事仕事。お菓子食べる時間がなくなったかも。あー。まあ、いいか。色々美味しいもの思い浮かべて結構満足したかも。普通にいつもの道を歩いてるだけで桜が本当にきれい。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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お菓子、藤原さくら、過剰

今日は京都、普門庵の「京フランス」というフィナンシェ。開けたとき色がとってもきれいでびっくりした。半分こにするときは縦割りにしないと。トースターで温めるとさらにおいしいと書いてあることにさっき気づいた。じゃんねん。あと2つあるからそれは温めていただきましょう。

「フランス国家最優秀職人章(M.O.F.)パティシエのパスカル・モリネス氏と、全国茶審査技術十段の酢田恭行氏が監修。素材は、フランス産発酵バターと酢田氏が選定した京都産宇治抹茶「祥楽」を使用。」

と書いてある。なにやらすごい。世の中には色々な資格のようなものがあるのですね。フランス産発酵バターと書かれているものは全部食べたくなるし文字情報ってすごい。でもいざ食べるときは「やっぱりフランス産発酵バターおいしい」とはいちいちならない。おいしいものはおいしい。そうじゃないものはそうでもない。くらいな大雑把さ。いい加減なものよのう、自分は。

昨日、藤原さくらの新アルバムがリリース。ドラマーの石若駿がプロデュース。昨年知ってライブにも行きファンになった石若駿。色々聴いていて曲として一番いいと思ったのがSongbook trio(石若駿+西田修大+角銅真実)。角銅真実と藤原さくらは似た雰囲気の声だと思ったから今回のもすぐにきいた。よかった。石若駿はドラムの才能もずば抜けているわけだけど曲作りが本当に素敵だと思う。ジャズを基盤に誰にでも届く音楽を作っている感じがする。演奏も誰とでもやれる人みたいだし、ライブでも主役だったのに全然前に出ようとしない。若い人の紹介も本当にいい形でしていたのも驚きだった。言葉のいらなさを知る振る舞い。

なのに私ときたらここまでですでに過剰だわね。過剰といえば、次の作業に移る前に最近全然読めていなかったPEP-webの論文を見ていてこの分野は興味があるな、と思ったのは兄弟関係がテーマとなる精神分析事例。相手を過剰だと思う関係の典型。ラカン派の論文だったのだけど途中までしか読めていない。でも今日からまたちょっと後回し。何度か思い出してまた忘れていた校正原稿がきた。9日まで。チェックは入っていなかったけど自分で間違いを見つけてしまった。あーあ。もっと丁寧に書けばよかったな、と読み返しながら思うけどあのときは無理だったな、とも思い返す。何事も少しずつ精進。今日の東京は曇。もうさすがにダウンは着ないよね。冬が長かったので一番暖かいむくむくしたダウンには大変お世話になりました。クリーニングに出しましょう。今日は4月4日か。4/4って並びはなんかいいですね。過剰ではない。割り切れる。今日もいろんなお花と出会えそう。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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お菓子 精神分析 音楽

ヴァッフェル、メタル、ヒューム

なんだか夜、暑くありませんでした?まだ服装もお布団も真冬と同じなので暑くて起きてしまいました。二度寝したけどなんか暑かったよねという寝ぼけた感覚がまだ残っています。

今朝も京都若菜屋さんのお菓子。「苺クリームヴァッフェル いちごいちえー一期一会」。これもかわいい。開けるなりいちごクリームのいい匂い。私が大好きな系列のお菓子。「ヴァッフェル」ってワッフル?と思って調べたら

「欧米の伝統的なワッフル生地をさっくりと堅焼きし、芳醇なヴァニラクリームを挟んだ長崎堂のヴァッフェル。 」

という大阪の長崎堂さんのサイトが最初にでてきた。なんと。「ヴァニラ」とくっついておるのですか。若菜屋さんのも美味しいです。ありがとう。

ここのところ思いがけずっと色々大変で仕事が進まない。でもそんな状況にも少し慣れて締切を2つ守ったのは守ったことだけ偉かったと思います。内容はともかく。もうひとつは国際精神分析協会(IPA)のアジアンパシフィック地域の大会で出すパネルの原稿。もうダメだと思って1週間締切を伸ばしてほしいとメールしたらbut no later than Friday 5th Aprilということで2日遅れで出しました。日本語で15分間話す分量から随分減らすことになってしまったけどそういうものなのですね。色々素人すぎるけど今回学んだのは締切に遅れると英語でメールを書く手間が増えるということ。これはこれでめんどくさかった。

Spotifyの2024年のデータを基に、どの国でどのメタル・バンドが最も聴かれているかを示す「現在、世界各国で最も聴かれているメタル・バンドの地図」が話題に。”

というニュースを読みながら「へーおもしろーい」となっていた。

”注意点としては「何をメタルと分類するかによって結果が変わること。”

いやあ、そうでしょうねえ。

アジアンパシフィックの大会でご一緒する国を見てみましょう。

Taiwan:Flesh Juicer , Korea:Madmans Esprit , China: Nine Treasures , India: Bloodywood , Australia: Parkway Drive。で、日本はBabymetal

ふむ。早速インドのBloodywoodを聴いてみましょう。おお、インド音楽要素が強い!のにしっかりメタル。面白い。いいですね。

新しい本を読むエネルギーがないので再読ばかりしていたのだけどなんとなくKindleで読んでいない本を読んでみたのです。そうしたら全然頭に入ってこない。入門書かと思ったら博士論文を書籍化したものでした。博士論文の書籍化って多いけど難しい、素人には。まあ、まずは専門の人に役立つのが大事だからいいのだけど。読んでいたのは

成田正人著『なぜこれまでからこれからがわかるのか ーデイヴィッド・ヒュームを哲学するー』(青土社)。副題と目次からして難しいってわかるだろ、という感じだけど題名が魅力的だったのですもの。

教えて、ご本人、というわけで「普及版」といいながら全然普及しなそうな値段の『デイヴィッド・ヒューム 『人間本性論 第1巻 知性について』 (木曾好能訳、法政大学出版局)を読み始めました。さすが、ひとつひとつ丁寧。そう思ったから買ったんだもんね。ちょっとずつ教えてもらうように読みましょう。

さあ、洗濯は終わりましたが資料作りがもう少し。こんなことしてる場合ではなかったよ。どうか良い1日になりますように。

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トレーニング、『他者といる技法』

昨晩はストレッチポールでぐりぐりしていたら遅くなった。最初は痛すぎた。脛がどこよりも痛い、が、二日前より痛くなかった。やり過ぎに注意して(痛みは癖になる)続けよう。少しでも体調を改善したほうがいいかなと思って個人の部屋を持っているアスレティックトレーナーの先生に見てもらった。足首と股関節の硬さに驚かれた。これ、子供の頃から驚かれている。子供の頃は身体部位としては言われなかったけど自分ではそれがどこかはわかっていたのでその後、ぎっくり腰になったとき、すぐにヨガを選択したのは悪くなかったと思う。あの痛さは二度となりたくない恐ろしいものだったし仕事も休みたくないからすぐにケアに取り掛かった。私は目的がはっきりしているとかなり地道(でもやりたくない筋トレは全然しない)。毎朝7時からスポーツジムのヨガのプログラムに出てから仕事へ行く生活を数年関したが朝8時から仕事をするようになってからやめた。で、あっという間に数年経った。怪我もしにくくなったと思ってたけど元々の身体って変わらないってことね。確かに柔らかい人は何しなくても柔らかいし。またケアしなおさないと。でもヨガに数年間通ってピラティスのマシンとかも使った個人指導も受けたことがあるのでトレーナーの先生の指示とか身体の仕組みとかについて何を言われているかはすっとわかった。足の力を抜いておなかの力で立つ、というのは本当にわかる。絶対そのほうがバランスが取れる。が、おなかの力も弱くなってるのだ。悲しい。でも久しぶりにがんばった。運動好きだからやるとなったらその場では結構がんばれる。ひとりでもがんばらねば。相談できる先生と会えてよかった。指導歴の実績もしっかりしたプロの先生はやっぱりすごいなと思う。余計なことは言わず時間で終わる。私も決まった時間にはじめて決まった時間に終わる仕事だし世間話とかしないので楽ちんだった。最近、奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』(ちくま学芸文庫)を読んでいたのだけど人間関係に「技法」とか「方法」とか持ち込むのが本当に苦手。そんなもんわかったらこんな世の中になってないんじゃないっすか、と思ってしまう。でもこの本はいい本だった。うまくいく技法とかではなくてどちらかというと私たちが他者を排除したくなったり居心地が悪くなったりするときの心の状態を説明してくれる感じの本だった。私たちは相手とともにいたければ「どうしたらいいのだろう」と悩む。いたくなければ平然とひどいことをしたり言ったりすることだって方法となりうる。相手に悪さを預けてしまうという方法。いたくないけどいろ、とかいう人も相手をダブルバインドの状態に置くという方法しか知らない人ともいえる。「一緒にいたい、でも難しいことばかり、どうしたらいいのだろう」こういう悩みは素敵な悩みだと思う。そこにとどまるのは辛いことだけどとどまってでも一緒にいたい場合、スキルではなく心のモデルをいくつか持っておくことは助けになるかもしれない。今日も悩んだり悩まなかったり色々だと思うけど良い一日でありますように。

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調布市武者小路実篤記念館

お菓子を食べるのに忙しくてなんにもない画面を眺めていた。洗濯機はかけた。コーヒーも久しぶりに飲んでいる。先日、京王線の仙川駅とつつじヶ丘駅の間にある調布市武者小路実篤記念館へいった。長い名前だ。仙川は母校の白百合女子大学があるので慣れているはずだが街に当時の面影はほとんどないのでその後行くたびに少しずつ付け足された景色からまた少しアップデートした。昨年、大学へ行ったときはちょうど駅前のルパ(パン屋)がなくなる時でみんなで懐かしんだ。ルパで「おはよー」となって一緒に大学に行ったりしていた。大学院生の頃にある先生と一緒になって「あみさんは博士課程に行くのかと思ってた!」と驚かれた。私はできるだけ早く現場で働きながら勉強したかったのでむしろなんでと驚いた。どう考えても研究向きの態度ではなかったのに。大学にはいい思い出しかないからそう言ってもらえたのは幸せなことだったのかもしれない。仙川という街も当時から大好きだった。一年生の時は白百合の少し先、ちょうど三鷹市に入ったあたりのアパートで一人暮らしをしていた。二年からはお隣の千歳烏山で暮らした。塾の講師とかメンタルフレンドとかとにかく人と一緒にいる生活だった。調布市武者小路実篤記念館は白百合とは逆の桐朋学園方面に出て、学園を道なりに進むと着く。仙川駅からは10分程度だろうか。まだかな、と思った頃に実篤公園が見えてくる。つつじヶ丘駅からだと住宅街だから少し分かりにくいかもしれない。桐朋学園の入口は濃い色の寒緋桜が満開で袴姿の学生たちを見かけた。その日は空も真っ青で椿やこぶしがますます美しかった。実篤公園は豊かな木々が日陰を作っており、お掃除をしていらした方に挨拶をされた。昔はここから富士山が見えたらしい。坂道を下ると池が見えてくる。ここは実篤が「水があるところに住みたい」という子どもの頃からの願いを叶えた家だという。広い敷地に伸び伸びとたくさんの植物が植わっていて見上げても佇んでもなにしても発見があるのでのんびりのんびりまわれた。途中、職員の方に「旧実篤邸にはいかれましたか」と声をかけられた。木の芽を大切そうにチェックしている方だった。旧実篤邸はとても素敵なおうちで玄関は広く、実篤の豊かな仕事がここから生まれたのか、と納得した。家具や民藝品もどれも興味を引くものばかりでその後記念館で見た写真や絵画を見ながら「あ、これはあのお部屋のアレだ」と言いながらあれこれ生活と作品を想像するのは楽しかった。今回は春季展「美術雑観」ということで実篤に影響を与えた画家や絵画、志賀直哉たちの書簡などを見ることができた。私は実篤と美術の関係は全然知らなかったのでその鑑賞の文章とか書簡とかとても面白かった。実篤の妻、安子さんが描いた絵葉書には家族の日常が描かれていてこれがまたとってもいい絵だった。私はオフィスが初台だから京王線沿いには出やすい。どの駅にもそれなりに馴染みがある。春に歩きたくなる道もたくさん思い浮かべることができる。街の景色は変わっても地形はそんなに変わることはない。歩くことで思い出される感触を大切にまた遊びにいこうと思う。今日は火曜日。良いことありますように。

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『ガラスの器と静物画』@東京オペラシティアートギャラリー、古田徹也『謝罪論』

今朝は箱根町強羅「ことほぎの木」の「箱根の坂 抹茶ショコラ」。すごく平らなお菓子なんだけど。美味しいわん。オレンジアールグレイと一緒に。この前、東京オペラシティアートギャラリーでやっている『ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家』を見にいってからガラスの器が気になっている。我が家にもあるし、しょっちゅう使っているけど。スウェーデン在住のガラス作家山野さんが画家とテキストでやり取りをし、そのイメージからガラス食器を作り、それを画家が静物画にするという興味深い企画。少し先延ばしにしてしまっていたが今回の展示もこのギャラリーの空間と光を効果的に使っていたもののような気がする。様々なガラスの器の小さな歪みや影がとても美しく私も写真を撮りながらゆっくりまわった。寺田コレクションもいつも面白いし行ってよかった。いろんな動きを少なめにしていると再読が捗る。私は政治のことはよくわからないけど戦後まもなくのことについて書いている文章に土居健郎がよく登場することに驚く。テレビはドラマや映画以外見ないがいろんな情報の読み方について本はとても勉強になるな。読んでいる本はTwitterにとりあえずあげている。本当はもっと乱読だけど一応全部読んだものだけあげている。再読でも全然覚えていなかったりするけどスピードは上がるから文章の構造とかには馴染んでいるのだろう。古田徹也の『謝罪論』を読み直したけど改めて読むとなんだかさらに重たいなと感じた。人の言葉の軽さにずっとずっと打ちのめされたままなんとか生活を続けている場合、謝罪の言葉は意味がないだろう。行為と言葉が自然にしっくりきている関係になければそこにある差異はすぐに嘘っぽさとして見抜かれる。傷ついた心でなければその差異も許容できたものの傷つきが積み重ねればそんな余裕はなくなっていく。言葉のひとつひとつが重みを増してしまう前に軽薄さを抑え誠実であることの大切さよ。古田徹也さんの本には戦後という言葉はあまり使われていないように思うが、言葉の問題を扱っている以上、そこに時代と国の状況が絡んでいないはずもなく、それらについて考慮したうえである言葉の使用について詳細に検討されていることがわかる。私たちは「戦後」という言葉も吟味し直す必要があるのだろう。自分の言いたいことのために軽々しく使ってはいけない言葉というものがあるのだろうから。今日は朝はゆっくりだけどゆっくりしすぎた。花粉も辛いけどなんとかがんばりまっか。

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古田徹也の本

ルイボス&レモングラス・ジンジャー。あったまる。銀座あけぼののもなかをいただいたのでそちらと、と思ったけどこれは緑茶の方が合う。桜もなかと姫栗もなかの詰め合わせ。もなかはあまり好きではないので少し変わった食べ方をする。桜の時期ね。昨日もいろんな木々の芽が膨らんでいて可愛かった。頭痛と鼻水が止まらない。頭が回らないので読んだことがある本をパラパラしてばかり。あとはNetflixでちょこちょこ。『ユニーク・ライフ』に出てくる友達役って『ディア・エヴァン・ハンセン』に出てきた友達役の人だと思うのだけど違うかな。別の映画なのに同じ役の人に見える。そしてどちらもいい感じ。おはなしはいまいちかな。最初の方で見るのをやめてしまった。『グッド・ドクター』は見続けている。これはいろんな人の背景がリアル。本筋とは関係ないがアメリカの医療現場は保険会社と弁護士の力が大きい。すぐ訴訟になってしまうものね。いろんな症状やアセスメント、処置の仕方も興味深い。パラパラ再読している本に古田徹也『不道徳的倫理学講義ー人生にとって運とは何か』(ちくま新書)がある。これはプラトン以前のギリシャの文学作品から運について考えることから始まるのだけどソポクレスの『オイディプス王』の古田流読解が興味深い。以前にもどこかで書いたが古田徹也は事実を知り自分の目を潰したオイディプスの意志と行為を尊重する。「運」や運命に翻弄されるだけではない人間をそこに見出す。フロイト精神分析の根源となるこの物語はいろんなふうに読めるので古田徹也の解釈もそのひとつとして新しい視点をくれる。盲目になることで真実に開かれることは確かにあるのかもしれない。それまでに見てきたものは絶えず目元で像を結ぶだろう。繰り返し繰り返し同じ場面が甦りもするだろう。私はオイディプスが目を潰したことに対してそうしたところで何かがなかったことになるわけではあるまいしと思う。一方で目を潰すことで身体全体の感覚が変わるわけである意味別の人になる可能性を作り出したともいえると思う。人間はどこまでももがける、というか愚かにももがく、というのかなんにしても単なる不幸ではなさそうだ。目を使わない精神分析で生じる不幸からありきたりな不幸へという移行でもある。あ、うとうとしてしまった。そりゃそうだ。今日も無理せず過ごしましょう。またねー。

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日本っぽさ、富永京子さんポッドキャスト

昨晩の月はチェシャ猫の口だった。沈丁花いっぱいの薄暗い遊歩道を歩いていたら少し先を白黒の猫が横切った。いつもの子だ。まだいるかなとさらに暗いところを覗いてみたがもういないみたいだった。遊歩道を離れる道に左折すると月がニッと笑ってた。

毎日1時間程度の勉強は重ねていたがそれもままならないまま日々が過ぎていく。そんなで英語が喋れるようになるはずもないが発表原稿の締切だけは着々と近づいている。日本語でだって書けていない。でも今回のチャレンジはこんな状態で言葉の通じない世界に打って出る(とりあえず自分の意見をいってみる)こと自体に意義があると思っているので私個人は色々なことを学ぶだろう。できなさをいっぱい抱える個人であり続けること、無力であり続けること、そういう隙間いっぱいの個人でいることが精神分析家になるためには必要なんだと思う、候補生生活はそういう日々だった、ということを話そう。とはいえ、私は日本の候補生として何かをいう立場なので「日本の」を強調する場合、多分こういうあり方は全然日本的ではない。どうしよう。日本文化でもっとも素晴らしいのは落語だと私は思っているのだけど落語もいざ説明しようとすると日本っぽくなくない?という場合の日本というのはやっぱりどっかクリーンなイメージなのだろう。クリーンぶってる、というか。色々曖昧にしてなかったことになるまではみないふりを貫くというか、そういうときだけ仲間意識強めるとか。落語にある笑える居心地の悪さとか、ちゃっかりしてるぜこいつというにっくきかわいさはあまり日本人らしくない気がする。

そういえば富永京子さんが夢に出てきた。昨日、帰り道に富永京子さんのポッドキャスト「仕事の合間」を聞いたからかもしれない。おもし論文を紹介してくれたりするのだけど本当におもしろい。あと富永さんはとってもおしゃれでハイブランドのお洋服の話とかもしてくれるのだけどそういうのに全く縁がない私でも聞くのが楽しい。ワクワクする。この前「え?そんなことも知らないで好きとかいってるの?」みたいな人がいたのだけどこの人何か知らないと好きとかいっちゃいけないとか思ってるんだ、とびっくりした。でもたしかに人をそうやってカテゴライズして好き嫌いを言っている人ではあった。「〜っていう相手とは付き合わない」とか。だからいつも同じような人とばかりいるんだなあ。富永さんはそういうところが全くないから逆にそういう人を思い出したのだろう。人柄は社会運動の研究者だからというわけではないだろう。すごくフランクでオープン。言葉の使い方にもすごく注意が払われている。いろんな失敗込みで話してくれるから「わかるー」ってなるし。『みんなの「わがまま」入門』(左右社)に書いていることをそのまま実践できている方なんだな。このポッドキャストとてもおすすめですよ。ちょうどいい長さ(25分くらいかな)なのもそうだし、好きに話している感じなのにメディアに出続けている人でもあるせいか聞き手に対してとても親切。美味しいお菓子のことも話してくれるしワクワク。なんで自分では高級すぎて買わないものだったりするのにこんな楽しく聴けるのかなあといつも思う。

今朝も秩父土産、「栗助」さんの「ほっくり芋」でした。これはさつま芋。シナモンのコーティングがきれいでとてもいい香り。栗のお菓子よりも甘味抑えめ、というか栗と違ってそのまま素材の甘みを活かせるのかな、さつま芋だと。私こういう素材のジャケット持ってる。今日、それにしようかな。シナモンコーデっていうの?それだとサンリオの方になっちゃうか。あのコーデができる服は持ってないな。大学生の頃の服をまだ着られるとはいえやっぱりあの頃の方がスリムだったんだな。なんかどれもきつい感じがする。というかそんな昔の服をいつまでも着るなよ、って感じかしら。ふむ。なんか今日は花粉がいっぱい飛んでる気がする。むずむずする。みなさんもどうぞお気をつけて。マスクマスク。どうぞ良い一日を。

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ノラ、歴史

はあ。ため息の日々。しかも寝坊ときたもんだ。間に合うけど。眠い。うーん。体調管理が難しいなあ。秩父土産の「2月3日のごもっともさま」というクラフトビールは美味しく飲んだが。今も流しているノラ・ジョーンズのニューアルバム「visions」がとてもよくて私の気分とは真逆の雰囲気が溢れている。どうか私を呑みこんでほしい。ノラは最初からとてもかわいくて透明感に溢れていたと思うが今回は深みがある。伸びやかさがこれまでとは違うのではないか?これまでこんな何度も何度も聞くことなかったもの。これは聞きたくなってしまう。

歴史をきちんと知ることは大事なのだが正確さに関してはかなり怪しい部分というのは残るものだろうから最初からこれは私という窓から見た場合の歴史であると知っている範囲の知識で概要を描くことをしたいがそれも一苦労だ。しかしやらねば。私という限界ある人が体験したそれが事実か真実かを問題にしてほしいわけではない。むしろそんなことは問題にしないでほしい。他でやっているから。私が今回したいのはなんだろう。親は親であるという事実が覆されるみたいな体験だろうか。「オマエのカーチャンデーベーソ」と言われるような体験だろうか。そう思う人もいるからもしれない。違うな。私にはそんな外からの悪口はどうでもいい。一度引き受けたんだからしっかり役割果たせよ、偽物か本物かなんてどうでもいいんだよ、ということかもしれない。これはこう書いてみるといよいよそんな気がしてきた。だって事実だって事実かどうかわからない部分がある(意味わからないと思うが)のにそれを本物か偽物かなんて誰が決めるのさ、あなたが決めるとしたらオマエ誰だよ、という話ではないか、などなど思う。ただ、嘘言うなら逃げるなよな、とは思う。昨年だか一昨年だか事実ではないことを書いた本が賞をとり、専門家たちがより事実に基づく本を出し反論したわけだが著者は逃げてばかりいるように見えた。もらえるものだけもらって・・・と自分で自分に呆れたりしているのだろうか。それとこれとは別、と開き直ったりするのだろうか。どんなあり方も別に構わないけどそういう場所での自分のふるまいは大切だろう。

沈丁花がいい香り。メジロが元気に飛び出した。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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栗、寄居虫、女性分析家の本

今日は「秩父菓子処 栗助」の「栗とら焼き」。虎模様で大きな栗が入っているどら焼きです。ここのお菓子、栗が丸ごと一個入ってるのが多いのかな。この前食べたのも半分に切ったらどーんと一個入っていておーっとなった。お茶にぴったり。秩父は和同開珎で有名な和銅遺跡があるのでそれにちなんだお菓子も色々。こういうのは楽しいですね。遺跡大好き。色々行ってそのたびに興味深く学ぶけど忘れてしまうのよね。前に句会で古墳のある学校があると聞いてびっくりしたのだけどどこだったか。あ、今日オンライン句会の締切だ。早く作らねば。兼題はなんだったか。「寄居虫」と「ものの芽」か。どっちも難しいなあ。今ちょっとヤドカリについて調べてしまったのだけど結構怖いね。殻の奪い合いはともかく生きている貝の中身食べちゃって殻奪うとかすごい。生き物は不思議すぎる。人間の「生きる」と全然違う感じ、というか人間がなんかおかしい。寝不足で書きながら寝てしまうな。途中まで読んでいたEarly Women Psychoanalysts: History, Biography, and Contemporary Relevance by Klara Naszkowska、いい本だと思う。ザビーナ・シュピールラインとかホロコーストで殺された人たちのことを思うとなんとも沈んだ気持ちになるがこれまで男性との関係における位置づけばかり注目されていた女性たちの独創的な仕事が紹介されていて興味深い。1章で取り上げられたザビーナの子供の言葉の発達に関する仕事はもっと取り上げられてもいいのかもしれない。2. Lou Andreas-Salomé: An Unacknowledged Psychoanalytic Theorist of Art by Shira Dushy-Barrはミューズとしてのザロメではなく彼女の芸術論に焦点が当てられている。なんとなく読み進めてしまっているが他の仕事がかなり切羽詰まってるからやめとかないと。とても眠いけど今日も頑張りしょう。

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ならされたりなれたり。

ダンデライオン&ジンジャーブレッドというハーブティーを飲んでいる。これ、最初に飲んだときは「うん?」という感じだったけど体調が良くないときに飲むと美味しい。漢方と同じか。漢方は体質とあえば美味しい、というか不味くない、って聞いたことがある。

届かないなあと思っていた資料が2月末に届いていてびっくり。お礼しなくては!というか3月が10日も過ぎていて知っていたけどびっくり。プリントアウトしはじめたら191ページ以上あった。調子の悪いプリンターが今日はわりと快調に働いてくれているからいいが、視力が落ちているせいか64ページに見えていた。どうして3桁が2桁に見えてるのか。視力のせいではないな。私は視覚的にも不注意なので他の情報と混ざったのだろう。よくある。にしてもこれ多すぎる。全部印刷しなくてもいいか。少なくとも今はここで止めておこう。精神分析もAI時代にコロナ禍にと様々な環境の変化によって設定の変更が課題になっておりテレアナリシスに関する議論が続けられている。それに対する意見交換の場もメンバー(精神分析家)、candidate(候補生)と分けて開かれたりしているのだが日本だと朝4時スタートとかでただでさえ英語力が足りないから議論に加われないし、という気持ちも手伝って起きられなかった。これだけの資料を作り、そういう場を作ってくれる委員会の先生方や候補生たちは本当に大変だ。この資料、そもそも精神分析の設定とは、ということからレビューされているから勉強になる。それにしても、この話し合いには出なかったけどIPAのYouTubeとか見てるとみんなの本棚とか見えて面白い。今みている精神分析家の本棚はあまりこだわっていない感じが楽しい。本棚だけではなくてすごい煩雑な部屋の様子とかも見えるときがある。コロナは世界共通の体験になったからオンライン状況の格差もできただろうし平され、慣らされた部分もある。人間は慣れてしまう生き物だ。差別にさえ慣れる、という昨日ここで引用したアウシュビッツの生存者であるマリアン・トゥルスキさんの言葉を思い出したりする。

空が明るくなってきた。洗濯も終わったらしい。終わったよー、と知らせる音楽が鳴っていた。毎日色々あるけど今日も地道にやりましょう。どうぞ良い1日を。

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フォントとか音とか。

喉がイガイガするのが治らない。あっつい紅茶を飲んだけどあっついのは喉に良くないかな。小田原土産のロイヤルミルクティラングドシャ美味しい。ラングドシャはクシャってなるのが音的にもいい。ドシャッだとちょっとイメージ変わっちゃうけど。今度軽いハイキングも兼ねて小川町の酒蔵とかワイナリーを巡ろうと話していた。美味しいもの見つかるといいな。2月末には「酒蔵めぐり」があったらしい。行きたかったな。私は「道の駅」めぐりも好きで全国のいろんな「道の駅」に寄ってきた。「道の駅おがわまち」は改修中らしい。東武東上線は遠くないし馴染みもあるしまたいく機会があるだろう。たまに同じ「道の駅」でもその地域だけの小さなドライブインみたいなところがあってそういうところもとても好き。昔はドライブインってもっといっぱいあったよね。大きな縦型の看板で結構な斜体で赤い文字か何かでドライブインって書いてあるイメージ。やっぱり車って走るから斜体なのかしらね。ドライブインはステイだからポクっとしたフォントでもいいよね。そういうのもあるのでしょうね。昨晩「おまゆう」という言葉は「おまえがゆうなよ」でいいのか?など思った。「おまいう」でもいいのか?ナンパおじさんに「おうちに帰りたくない子みたいに自分から首つっこんでるくせにこの人何言っちゃってんの、ちゃんちゃらおかしいぜ」と思いながら「ちゃんちゃら」ってなんだ?とも思った。「ドンジャラおかしいぜ」とかだと具体的にものが見えてきてしまうからおかしいしね。あ、だめだ。私はこういうことを言い出すと止まらなくなってしまう。今日こそう次の作業にうつれるかなあ。昨日は少しサボって隙間時間にNetflixの「グッド・ドクター 名医の条件」を久しぶりに見ちゃった。医療用語以外は聞き取りやすいから英語の勉強にもなるからいっか。3月は本当に厳しいのでずっと作業しているけどまずいな。鶴見俊輔を引用して書こうとしているものがあるけどどの本か思い出すところから始めないとだし。そもそもそろそろ行きましょう。どうぞ良い1日を。

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腰、鳥、不在

寒い。眠い。外が明るい。先晩は2回くらい豪雨警報がきた。まだ少し降っているのだろうか。鳥が鳴いている。冷たいツンとした空気は少し和らいだように思う。昨日は腰をまたやってしまいそうになった。ほんとちょっとした動きで「しまった」となった。慌てて伸ばす。おなかに力を入れる。きょうもきをつけねば。隙間時間もずっと事務作業をしているのが悪いのだろうけど早く書く作業にうつらねばなのでさすがにいつもほどさぼれない。さぼらずともマイナンバーのせいで手間が省かれるどころか二度手間になったりして愚痴を言うのもめんどくさいことも含めて愚痴を聞いてもらったりした。梅が終わりつつあり河津桜にメジロも目移り、かどうかわからないけどピンクにまぎれてすばしっこく動く小さいみどりの姿がかわいい。新宿中央公園のチューリップも咲き始めた。いろんな色があってこれもとてもかわいい。フランスの精神分析家の本を読む時間がないが精神分析の最終的なテーマとなる対象喪失に絡めて不在と無の関係について考えていた。いや、絡めてはいないのだけど結局モーニングワークをいかになせるかということだなとは思う。「あれ、ここになかったっけ」となかったことに気づくのと実は青い鳥は近くにいたよというのは違う。反対側から語る不幸論が精神分析なんだと思う。とか。プリンタがいちいち紙詰まりするようになってしまった。すごく困る。いろいろいろいろだけど今日ものりきろう。いいことありますように。

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夢、スープ

丑三つときに寝て一時間ほどで目が覚めた。ぬくぬくしながら夢を忘れないように思い返していた。一度布団を出てまた思い出そうとしたらものすごく薄れた夢の景色しか思い出せなくなっていた。iPhoneを枕元においておけばよかった。すぐに文字にしてから布団を出ればよかった。もう一度布団に戻ると布団はまだぬくぬくとさっきのままだった。潜り込むと夢の続きが始まりそうだった。さっきみた薄い夢の景色が少し濃くなった。そのまま眠ってしまった。夢はやっぱり覚えていない。さっきiPhoneと書いたがこういう機器がない頃は手書きでメモっていた。夢を記録する人や時期というのはわりとあるものなのだ。今は自分の日記も売り物にされる時代だし夢も不特定多数に向けて呟かれるものだからフロイトの『夢解釈』もまた異なる読み方をされるのだろう。NHKの「100分 de 名著」で取り上げるみたい。解説は立木康介さん。立木さんの『露出せよ、と現代文明は言う「心の闇」の喪失と精神分析」』なんて併せて読むのにちょうどいいかも。

今朝は昨晩の残り物から小松菜のスープにしょうがの千切りを入れた。いい香り。小松菜って緑の野菜の中でも使いやすいと思う。サクサク切れるしほうれん草みたいにへにゃってならないし癖もないから何にでも合うしカルシウムが多いらしい。骨も弱っていくというかほんと弱っているのを感じるから食べ物気をつけないとなんだろうねえ。小松菜は一番よく使う野菜だから効果が出てればいいな。小松菜はほんとにカルシウムが多いんだっけ、と検索したら小松菜奈が最初に出てきた。いい。小松菜奈も好き。今日は「昼間も冬の寒さ」だって。がーん。都庁に行かねばなのに。近いからいいけど。

はあ。もう5日か。昨日、ひとつ仕事仕上げたときはまだ二日だと思っていたのに。火曜日だから二日だと思う、ってすごい自分勝手な変換を行っていた。だいぶ追い詰められている証拠ね。まあやるしかないことはやりましょう。はあ。みんなみんないいことありますように。

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異なる文化

遅くなってしまった。朝の光はきれい。東側のブラインドからオレンジの光が入ってくる。今日もハーブティーにしょうがをすりおろしていれた。しょうがでも大根でもりんごでもすりおろすと香りも出ておいしい。おろし器を洗うのは苦手だけど。

昨日はずっと英語を聞いていた。意味を聞き取るのが精いっぱいでほとんど思考できなかったので発言もしなかった。ASIA PACIFIC ONLINE CONFERENCEというイベントでインド(IPS)、オーストラリア(APAS)、中国(CSGW)、韓国(KPC)、台湾(TSG)、日本(JPS)の精神分析家や候補生が集まった。前半は韓国と台湾の精神分析家のペーパー発表とディスカッション、後半はSmall Clinical Groupsだった。これは私も昨年発表をした。昨年じゃない、二年前か。早い。今年、私が割り当てられたグループはオーストラリアの候補生が発表するグループでリスナーもバランスよく全部の国の人たちがいた。文化の違い、というか自分がいかに精神分析状況に影響を与える他国の文化について知らないかということに驚いた。驚いている場合ではないがそれによって使われる言葉もコミュニケーションも変わってくることを実感した。だからよけいに理解が難しかった。先生方はアメリカやイギリスで仕事をしてきた人も多いので自分の国の文化というものに向ける注意の仕方もずっと同じような場所で仕事をしている私とは全く異なるのだろう。もちろんそういう移動することで得られる視点ばかりではなく、それに先立ち、それぞれにとって切実な文化的問題というのがある。たとえば出自の問題は精神分析では中心的な問題だが、それは「~系~人の患者」という紹介とか自己紹介にも日常的に現れたりする。これまでもこういう話をきく機会はあったわけだがきちんとコミットするようになったのが最近でしかもこんな小さなグループで議論をするわけだからさすがに私にも切実さが伝わってきたわけだ。こういう場だからこそ浮かび上がってくる問題に対する各国の先生方の言葉選びにも感銘をうけた。みなさん、英語がとても流暢だったが生活様式としての言葉というウィトゲンシュタインの考えに改めて注意を向けたりもした。治療で生じることは設定の問題も含め各国共通していることが多いと感じた。人の心の普遍的な部分と文化を含む環境の相互作用はたしかにもっと詳細に見ていく必要があるし精神分析はそこに貢献していると思った。私も今日も一対一という小さな関係で同じ文化圏で育ってきたはずなのにまるで異なる人たちと言葉で出会う。地道に学んでいこう。

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精神分析

3月3日(日)朝

ラジオをつけた、が今朝の私の頭はダメだな、もっとぼんやりしたのを聞きたい。富永京子さんのポッドキャストはどの時間帯に聞いてもちょうどよくて好き。でも昨晩聞いちゃったからどうしましょう。音楽?ジュリアン・ラージ?いや、今日も角銅真実のニューアルバムにしよう。今日はいろんな素材がブレンドされているお気に入りハーブティーに生姜をすりおろして入れた。生姜紅茶は生姜紅茶として売っているのを常に買って飲んでいるけど生の生姜の方が柔らかく感じる。角銅真実の声も柔らかくて好き。「真実」。私の友達も「真実」。パソコン使うようになってから「真美」と間違わなくなった気がする。彼女と会った頃はまだワープロでポケベルだった。お気に入りのボールペンで手紙を書くのと画面に映し出される文字を見ながら打つのとでは単語に対する感覚が異なるのかしら。よく間違われるということを知っていたから時間の経過に伴い間違えなくなっただけかしら。確定申告をいつも通り先延ばしにしてようやくやってるけど本屋の領収書が一番多い。Amazonでも相当買っているのに。私の支出はほぼ本と家賃。訓練費用もすごいか。もうすぐこの支出はなくなる。それはそれで寂しい?いや、もっと本を買いたいしちょっと増やしたいルーティンもある。レシートを打ち込んでいると「あれ、なんで今年のじゃないのが入ってるんだろう」と思って「ああ」とにっこりしたり苦笑いしたりした。良くも悪くも節目になった出来事をそれを見て思い出す。なんとなく残していただけだけどどうやってそういう出来事を消化していくのかも興味深いからインクが薄くなって消えてしまうまで取っておくか。とかいってあっさり捨てたりもするかもね。それはそれでそういう消化の仕方。自分任せというか自分の無意識任せだから放っておきましょう。きっと好きにするでしょう。今日も勉強と事務。3月は本当に大変。手動かし続けましょう。できるかな。やるしかない。がんばろ。そっか、ひな祭りか。なにたべましょ。みなさんもどうぞお元気でお過ごしください。

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案内、春樹、間取り

胃がん検診の案内を開けた。少し前に届いた。受けなくてはと思うけどバリウムが本当に気持ち悪くなってしまうので怖くて受けたくない。でも受けねば。いつもこの葛藤。症状があるときは受けられないから症状があるときに胃と腸の両方を見てもらうのもいいなと思っていたところだったのでどうしてもバリウムを避けたいとなるとそっちになる。飲み物を一気にたくさん飲むということがないからそれだけでも気持ち悪くなるのにしかもあの発泡。何にせよ健診や検診は受けましょうね、と周りには言えるのに。ちなみに相談場所は色々あるのでその一つを載せておきますね。

村上春樹の『一人称単数』は短歌が出てくる話からだった、と思う。だから何というわけではないけどあの単価は誰かが推敲してるのかな、と思ったのだ。していなそう、春樹っぽい、と思ったりもした。私は村上春樹の良い読者ではないが大体のものを一度は開いている。多分私の注意力だとあのやや冗長で普通の人だったら次にまたそれが出てきたらむしろその冗長さの効果ゆえに鮮やかに形作られる何かが私には乏しいんだと思う。そこまでにほぼ忘れてしまっているから。作者の意図に乗れていないのだろうな。ノリが悪いオレ。なんとなくリズムがいい。下の階の人が歩いているのが聞こえる。ドンドンドンドンドンと。多分歩いている。結構大きめの歩幅で。あ、戻ってきた。いや、戻ってきたかどうかはわからない。正確には真下の部屋かどうかもよくわからない。同じ間取りではないからなおさらわからない。この前、先生に昔小倉清先生に子供に間取りを聞くといいと言われたことをお話した。私は子供の心理療法もしているので時折それを思い出す。何も聞かなくてもおうちのことを自分から書いてくれる子もいる。その子用にお絵描きできるセットはいつも準備してある。確かに間取りを描いてもらうとその家族の生活状況が見えてくることがある。私的にはこれはかなりプライベートな部分に触れることになると思っているのでそれをどこでやるかとかその扱いができる設定かどうかは重要だと思っている。人の家のものむやみにのぞかないでしょう、普通、と思うから。一部だから出せるんだよ、というのが普通だろうし。見せることも話すこともしてしまえばそれなりに発見も多いものだがその人がそうしたいと思ったときになされるのが一番いいと思う。私がその話を出したのは人の家に行くということのインパクトについて話しているときだった。小倉先生のことはすごく前にも書いたがお元気だろうか。著作集はこちら。毎年著名な先生の訃報を聞くようになった。彼らのような仕事は臨床的にも政治的にも難しいと感じる。何かを教えてもらうというより臨床をしていくうえでどのような工夫ができるかを考える素材を提供していただいたと思う。先生方が多くの患者さんと身体的、心理的に格闘しながら導いたものを簡単に評価することはとてもできないし、今の時代に出会う症例という観点からもいろんなことを残し、展開し、変えていかなければいけない。外からは見えない仕事だからこそ何度も同じパズルを解きながら少しずつレベルアップしていくような地道さが必要なのだろう。小さい子たちが同じパズルでもそれぞれの方法で取り組むのを思い浮かべたのでそんなふうに思った。小倉先生が治療した多くの子どもたちももうすっかり大人だろう。一緒にがんばりましょう。今日は土曜日か。やってもやっても何も進んでいる感じがしないけど今日もなんとかスモールステップで。

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フロイト読書会、秩父土産、語尾

今年度最後のフロイト読書会Reading Freudを終えました。来年度メンバーも募集中。音読で丁寧に読んでいく機会はなかなか持てないと思うのでぜひ。音読で通読したあとはフロイトが生きた歴史、政治、家庭、理論を絡めながら解説を加えつつ精神分析のはじまりを振り返ります。おそらく精神分析の印象はだいぶ変わると思います。メンバーの皆さんからは単なる理論や読み物ではなく「難しいけど奥行きを感じられるようになって楽しい」など嬉しい感想をいただいています。ご案内はオフィスのウェブサイトブログ「精神分析という遊び」をご覧ください。ご参加お待ちしております。

秩父のお土産をもらいました。秩父は東京からもワンデイトリップで気楽に行ける素敵なところです。今みたいにきれいになる前に泊まりで行ったことがあるのですが駅前のホテルがとてもとても怖かったのを覚えています。今はなくなってしまいました。それはそれで気になります。これまで全国の安いホテルに色々と泊まってきましたが秩父は最も思い出に残っているホテルのひとつです。あとは萩と田辺のホテルでしょうか。最近だと中津川かな。これらは全く異なる理由で心に残っています。そういえば中津川は安くなかったです。かなりネガティブな意味で心に残っちゃったから残念ですが勉強になりました。素敵な居酒屋と老舗和菓子屋さんたちに癒されたので無問題ですが。そうそう、お土産は「秩福かりんとう」「長瀞ポテトチップス 鮎の燻製風味」「源作印・赤」、あととても素敵な水羊羹。どこのって書いてあったか。いただくときにきっとまた書くでしょう。ちなみに埼玉県秩父市のイメージキャラクターは「ポテくまくん」。「秩福かりんとう」のパッケージにもいます。かわいいです。にしても秩父に限らずだと思いますが山は花粉が凄まじいようですよ。ついにきてしまいましたね。

それにしても眠いです。春ですものね。今日は移動が長いからそこで眠れそうですが寝過ごすのも怖いですよね。でも怖いと思ってれば起きられるでしょうか。今ふと「〜ですかね」といって「かね、なんていわない」と指摘されたことを懐かしく思い出しました。たしかに、という文脈だったので恥ずかしくも思ったのですが語尾になにをもってくるかは大切ですね、たしかに。印象がだいぶ変わると思うのです。生身の人の言葉は生き物なのでその人の生活と切り離すことはできませんし興味深いです。さて、いきますね。またここで。どうぞ良い一日を。

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精神分析

ウェビナーにでたり。

今日はそれほど寒くない、と思ってiphoneの天気予報を見たら気温自体が高めなわけではないみたいだった。ロンドンタイムの夕方から始まるウェビナーに出ていたので寝不足。しかも英語だったのであまりついていけなかった。移民であることや肌の色の違いによる差別やフォビアが顕著な国での臨床のリアルを聞くのは苦しいため抵抗もあったのかもしれない。まさにそういうところで耳を傾け続けなければいけないのだが。記号論専門のスピーカーはブエノスアイレスにおける心理学の存在感や精神分析的に聞くということについて話されていたようだが活発な議論を聞きつつ眠りこけてしまった。周りのみんなも今日も朝から仕事だがきちんと聞いていたらしく終わった直後にやりとりをしていた。すごい。

頭の中が空っぽなようなごちゃごちゃなようなよくわからない感じになっているのは考えるべきこともやるべきこともあるのにちょこちょこ強く感情を揺さぶられる出来事があるからか。そういうときは大抵、読んでるだけ、言ってるだけの世界なんて滅びればいいのに、と思うとき。一方、それは他人事でもないのでなんともモヤモヤした気分になる。それと同時に今日の予定が頭の中で蠢いている。せめて忘れ物をしない、という小さなところから始めなければならない。ごちゃごちゃしてるときは書くスピードも遅くなるからもうやめとこう。何も考えずに書ける以外のことは書かない場所にしてるから。こういう引っ掛かりってリスクに繋がるからまずは止まること、考えること、と自分に対して思う。

今日は東京は晴れ。良い一日でありますように。

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精神分析 音楽

昨日とか今日とか明日とか。

ジンジャーやシナモン、いろんなものがブレンドされたハーブティーを飲む。今日の天気予報だと寒そうだけどどうなのだろう。部屋にいる分にはそんなに寒さを感じない。ハーブティーのおかげか。♪明日という日が今日にはまだ気配もなく近づいてくるようで♪とラジオから流れている。優河という人の『思い出』という曲らしい。「思い出」を今日と明日の関係で言い表すことは確かにできそうだけど近いスパンだとまだまだ形になるには遠くて流れていくものをどう捉えたらいいかわからなかったり見過ごしたりやり過ごすのに精一杯だったりする。いつか「思い出」になるのだろうかと苦しむこともある。セラピーに来る方はどうにか思い出さないようにしてきたことが今の苦しみに入り混じっていたりするから今を過去の方向へ受け流していくことが難しい。精神分析は過去に遡るものと思われているが、こちらがそうしているわけではなくて言葉だけで行っている自由連想法という方法がそういう方向性を持っているということ。何かを言葉にするというのは今を過去においていくことだけどそれを受け止める他者がいる場合、その流れは滞り、今話した言葉の重みが増す。そしてそれが記憶の重たい部分を刺激する。自分ひとりであれこれ考えて辛いときは今から離れられないという状態なわけで人に話すことで一時的に楽になることが多い。しかしそれを継続的でやっていくと臨床の関係では巻き込み合うことが必ず生じるので言葉は相手を求めはじめる。それを対象希求という言葉でいってもいい。その希求に対して即座に何かが提供されることはほぼない。赤ちゃんでさえおっぱいやミルクを待って大泣きしながら「待つ」わけでどんな相手でも自分の思い通りになることはない。なるとしたらそこには双方相当無理なことをしていることになる。しかし、大人になっても大泣きしてそれが得られないことに猛烈に怒ったりする心性はあるわけだ。少し先の自分と相手に期待して今をやり過ごせるかどうかは、習慣にもかかっている。習慣を支えているもののひとつが外の時間の流れだ。今日は雨らしくまだ空は暗いがそれでもさっきより明るい。カーテンを開けて待てば今よりずっと空は明るくなってくる。眠ったら明日がまた来てしまう、と眠れない一夜を過ごしてもやっぱり明日だった時間は来てしまった。そんなとき、カーテンを閉め切って一日中パジャマで過ごすことで時間を引き伸ばすという方法ももちろんあるだろう。しかしもし普段通り仕事や活動に従事できるならいつものかなり縮小した形であっても習慣的に行っている行動をした方がいい。もしその習慣がなく定期的な区切りが自分の中に持てずにいるなら何かしらの区切りを外との関連で持った方がいいだろう。定期的な通院やカウンセリングがそういう部分で役に立つこともある。相手あることというのは常に自分に圧力をかけてくるものだし、外に出るというだけでその気配に不快を抱く場合もあるだろうけれどちょっとした空気の動き、光の変化に気持ちが変わることもある。外をちょっと感じることで持ち堪えるきっかけが生じるというのは家を飛び出したりお手洗いに立ったり鳥の声に気づいたりしたことがある人、つまり大抵の人なら体験していることだろう。今日が昨日になることも明日が今日になることも私たちに止めることはできないが、今日とか明日とかいう言葉で時間の流れを区切る知恵を持った自分たちのことは信じるに値する。なんとか今日も一日。どうぞご無事でご安全に。

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言葉とかそれ以前とか。

急がねばなのにのんびりしてしまった。「しまった」が「島田」になってしまった。島田さんという大先輩がいた。その人のおかげでどんな場所でも果たせる役割があることを学んだ。しかも明るく伸び伸びと。昨晩は読むべき論文の上で佐藤りえさん発行の文芸個人誌『九重』3号を広げたら止まらなくなってしまった。小津夜景さんも書いていた。やっぱりいいなあ。

”のびのびと発想する一番の秘訣は「無責任になること」ですが、人ってなかなかそうはなれない。”

と小津さんが書かれていた。本当にそうですね。

かささぎのこぼす涙をおつまみに 小津夜景『花と夜盗』より

もそういう感じ。4号の今泉康弘さんの作品もいいです。川柳のような雰囲気もあるけど景色が見える。あるはずのない景色まで不思議なく見えるのが不思議。

はあ。素敵な言葉たちと触れるのは幸せ。なんだけどやらねば。つくばのコート・ダジュールのパルメザンチーズサブレも美味しかったからがんばらねば。間に合わないよー。

フランス精神分析の本を読んでいる。ラカンは晩年、フィクションの次元なしに真理は成立しない、という言い方ではなく「嘘つきの真理」という言い方でラカンのいう「現実的なもの」を位置づけた。が、この時点で嘘になりえないものなどないという感じがするのでどっちが外部かという話でもあるか。ともにこぼれ落ちるものを掬い上げるとき分析主体がというより分析状況は「歴史化する・ヒステリー化する」ことを試みてるらしいがこれも「現実的なもの」に形を与えようとする行為なのだろう、か。

とかね、こういうややこしいことを考えてると言葉の美しさが取りこぼされていく感じがするでしょう。私のまとまりのない思考でぐちゃぐちゃ考えるのはそこそこ汚い行為ですよ。嘘も意地悪もいっぱい。言葉以前の世界に言葉に戻ろうとしてるんだから仕方ないけどね。適当なこと書いてないでやろう。ああ、もう少し何か食べたいけどちょっとやってからにしなさい。はい。どうぞ皆さんも良い一日をお過ごしください。

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季語「絵踏」

今日はとても大切な日なのに喉がイガイガ。とりあえず温かい飲み物をいただきましょう。生姜紅茶かな。

この前、オンライン句会のお題に「絵踏」という季語を出した。その句会はそれぞれがお題を出してそれを使っても使わなくてもよいのだが意外とみなさんこの季語を使ってくれた。絵踏(えぶみ)は江戸、徳川時代、正月から3月にかけて行われた宗門改めのこと。島原城のキリシタン史料館で色々な資料を見たりガイドさんの説明を受けたりしながらとても悲しい気持ちになると同時にどうにか信仰を守ろうと奮闘する人たちの炎のような情熱を感じたことを思い出す。平戸、津和野などでも資料を読んだが拷問の激しさこそが信仰の強さを示しており、どちらにも激化する心に言葉を失った。人から何かを奪うことなどできないからこそ人は暴力的になる、しかしどちらも同じ人間なのだ、という事実がどこにもいけないような気持ちにさせたのだろうか。私とて人間を降りるわけには行かないからただ悲しんでも憎んでも罰しても罰せられてもいられないのである。

「誰かが見ている」というのは症状としてもありうるが絵踏させられるものと踏まれるものの視線のやりとり(あるいはその回避)を感じる「絵踏」の句をあげておこう。

踏絵してキリストの眼のなくなりぬ 滝沢伊予次

まなざしを髪でかくして絵踏かな 鷹羽狩行

絵踏する女こつちを見てをりぬ 阪西敦子

見放された、いや見放そうとしているのは自分だ、でもきっと許してもらえる、いやそんなことはないというような、強烈な罪悪感、奪おうとするものを憎むことすら憚られるような信仰と愛。阪西敦子さんの句の女の視線にはドキッとさせられた。

一方、俳人の確かな視線が注がれた一句はこちら。

苗代の泥足はこぶ絵踏かな 正岡子規

生活の中の小さな光を奪おうとうするのもまた人であることにどうしようもない悲しさと苦しみを感じつつ、今日も一日。どうぞご無事で、ご安全に。

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カールおじさん、言葉、大会

今朝はつくばのコート・ダジュールのエンガディーン。このお菓子ってエンガディネとかアンガディネとか少しずつ呼び方が違うけどエンガディーンははじめて聞いた。ロボットの名前みたいでかわいい。ライディーンみたいな。ライディーン、よく知らないけど。サブレ生地はいつも美味しい。キャラメルがベタベタしすぎないでいい感じ。美味しい。くるみの苦い部分が当たってしまった。喉が苦い。紅茶で中和。やっぱりお菓子はティーとね。「それにつけてもおやつはカール」のリズムで歌おうとしたら合わなかった。「やっぱり」ではなくて「それにつけても」だった。「それにつけても」にした人すごいな。軽やかさが違う。今は関西以西でしか買えない、ということは関東よりこっちの子供たちはカールを知らない世代になるのか。奄美大島の地元スーパーで久しぶりに見かけたよ、おじさん、とか書いても「は?おじさん?カールおじさん?だれそれ」とか言われるのかな。あのかわいいおじさんを思い浮かべてもらうような説明ができるかしら。「カールの精」とか言ったら絶対あの姿にはならないし。歴代CMかわいいな(思わず見てしまった)。前に日本語も片言の英語も通じない人と面接をしたときにお互い絵で伝えようとしたのだけど私のが下手すぎていっぱい困って泣いている患者さんを苦笑いさせてしまったことがあった。カルテ情報もあったからだけどなんとなく色々お話しして終わった感じになったけど。精神病院での仕事はものすごく忙しかったけど日常の言葉の世界とは別の基準で動いていたと思う。クリニックもいくつか経験しているけど医師に「言葉は難しいかもしれません」と言われて依頼される場合が何度かあった。これにはいろんな意味が含まれるのだけどこっちも「はい。とりあえずお会いしてみますね」と普通に受けていた。社会的に通じる通じない、わかるわからないの基準ではない関わりが臨床には溢れてる。精神分析だって言葉言葉言葉みたいに思われるかもしれないけど、というか実際にそうなのだけどその言葉が通じる通じない、わかるわからないの基準で使われているかというとむしろ「わからない」が出発点になる。これは体験でしかわからないから説明できないけど興味深いものです。あ、日本精神分析協会第42回学術大会(2024年6月8日〜9日)の案内が出ました。今年度は協会に所属していない臨床家のみなさんにも開かれた大会になるのでぜひいらしてください。私は候補生としての登壇はこれが最後かな。最後だといいな。5月の登壇が言語的には一番不安だけど「言語の問題にこだわらないで、私たちは臨床家だよ」というのが共有されているのはありがたい。このことはさっき書いた言葉が通じる通じない、わかるわからないという水準とは異なる使用をされていることの延長。臨床の言葉というのは本当に興味深いしいろんなことを教えてくれます。今日もなんとかがんばろう。

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バレンタインデーとか。

バレンタインデー。この時期にだけ出るチョコを見にいこうと思っていたのに全然行かないまま当日になってしまった。しかしすでにいただいたものもあるので今朝はベルギーのホワイトチョコとあまりハートに見えないショコラのフィナンシェ。半分こしてもハートが割れた!みたいにならないようにかしら。でも失恋の場合のハートってギザギザに割れるよね。あれ、最初に考えた人すごいと思う。ハートにリボンかけちゃった人とか。自分の身体にリボンかけちゃうのは具象的すぎてロマンがないけど象徴の力は大きい。昨晩締切の俳句もお題の一つがバレンタインデーだった。8音もとられるが元々17音だからあと9音もあるといえばある。省略の文化は逆に盛りだくさんにもできるけどシンプルなのが一番。私は俳句も作り手の情緒が滲み出ているような句は苦手。私の仕事でいえば治療者の悲しみとか苦しみとか情熱とかが近いところから患者に伝えられているイメージ。アメリカでカウンセリングを受けていた人のお話とか聞いたりビデオで見たりするとお互いにすごい情緒的だったりする場合もあるけど「情緒」という言葉の幅を考えてしまうな。俳句の場合は季語が雄弁だからそこに上手にお任せできたらいいのよね、きっと。季語とそれ以外という関係を患者さんの無意識と意識の交流と関連づけてあれこれ考える。無意識に委ねられるとだいぶスッキリすると思うけどその前にいくつもの段階がある。最初の難関は他者と出会うこと。他者と出会うことなしに自分と出会えないというのはかなりハードルが高い、人間関係というのは。お互いに変化する生き物だから出会ったつもりがもういないということも起きる。そこをつなぐのが信頼。それは無意識から生じるもの。そこに潜在的な力を見出せるかどうか。私はノンフィクション作家の高橋ユキさんの記事を読むようになってから臨床が裁きの場になっていないかをとても警戒するようになった。加害者臨床という言葉があるがそれだって組織的に行う場合とたまたま出会う関係では随分違う。たまたま出会う関係の場合、その人が加害者という分類をされた人であっても見立ての仕方はそれほど変わらないだろう。ただ目的をどこに置くかというのは重要だろう。精神分析は受けたいからといって始められるものではない。それはどの治療だって同じなはずだ。アセスメントありき。患者さんのニードがどこにあるかを把握すること。治療プロセスで「求めてたのはこれではなかった」と気づくこともあるが治療法に関してはまずは治療者がその体験をしてその効果や副作用や弊害を実感していることが大切。設定を決めるのは治療者の方であるべき。ここからはガイドがいないと入れません、という道をいくようなものだからこういう場合はこういうことが生じやすいが果たしてそれは「どんな感じ」なのか、ということがわかっていないとかなり難しい局面を知的な作業に押し込めるだけになりかねない。他者として自分を差し出すのは誰が何を言おうと簡単であってはならないのは患者も治療者も同じことだ。日本のバレンタインデーは他者に対して自分が出せるお金という観点からみても興味深いものがある。お金といえば最近メールで詐欺にあいそうになった。時間がないから書かないけどクレジットカードの有効期限が切れているから確認して、ってメールでまんまと乗りそうになった。「あれ?きれてないはずだけどなあ」と思いつつ騙されそうになるのだから怖いもんだ。不特定多数の人からお金を巻き上げて一体何をしたいのか。その行為自体が快楽なのか。子供が親のお財布からお金を取るのとはだいぶ異なる心性だと思う。忙しいときは文面も自分に寄せて読んでしまいがちでしょ。「あれ?」と思ってもなんとなく自分にとって筋がとおる方で読んでしまうというか。気をつけましょうね。怖い怖い。「あれ?」という直感を大切に今日も一日。どうぞご無事で。

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うま味とか。

寝るのが遅くなってしまったせいかスッキリ起きられなかった。それでも目覚ましなしで遅れずに起きられるけど。

今朝のお菓ティはつくばのコート・ダジュールのバレンタイン用のお菓子、いちごのフィナンシェと桃風味のアールグレイ。flavored teaはアイスだと割となんでも美味しく感じる気がするけどホットだと合う合わないが出やすい気がする。風味って難しい。和田萌さん監督の『巡る、カカオ』で「うま味」の説明に苦慮するシーンがあるのだけど最後は「Umami is Oishii」と言っていた気がする。確かに!と思ったあとすぐに「おいしい」は通じてもそれが「うま味」を指すとは限らないからわからないんだよなぁ、とOishii is Umamiは通じだとしても逆は難しいか、うーん、となった。後日、友達と美味しいものを食べながらその話をしたら「アミノ酸なら通じるんじゃない?」と言われた。それも「なるほど!」と思ったがすぐに「アミノ酸のことだよ」と言われても「ああ!あれを日本語ではうま味っていうのね!」とはならないよなあ、と思った。味の説明は難しい。三浦哲哉『自炊者になるための26週』(朝日出版社)がいろんな言語に訳されたらいいな。

はあ、やることいっぱい。ついつい、というレベルではなく遊んでしまうから進まない。東京は電車が便利で乗り継ぎに苦労することなくいけてしまう区域が広すぎる。特に神奈川、埼玉、茨城は行きやすいよね。なのに方言ってきちんとある。県境と方言って本当のところどのくらい関係しているのかしら。なんかそういうのどこかで読んだ気がするけどそれすらどうだったかな。

はあ、がんばれるかなあ、とかまたため息ついてるうちにダラダラ別の話をはじめてしまいそう。やりましょう、そうしましょう。今日は火曜日。忘れないように。私はすぐ間違うから気をつけましょう。みんなは大丈夫かな。どうぞ無事にお過ごしください。

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マーロウとか灯台とか。

チロルチョコを二つもらった。気になっていた「よいとまけ」チロルチョコと「フォンダンショコラ」。「よいとまけ」ってハスカップ味なのね。北海道土産の定番なんだって。セブンイレブンではほかにも「よいとまけ」バージョンのお菓子を見つけたけどなんだったかな。マーロウのコーヒーとドレッシングももらった。逗子のお土産。昨年、私が逗子の友人と行ったら満席だった居酒屋へ行ったんだって。偶然。私たちは満席だったから狭いエレベーター前のスペースを挟んですぐお向かいのイタリアンにいてみたらちょうど二人席が空いててそこへ行った。とっても素敵なお店だったのでそれはそれでラッキーだった。居酒屋さんの方も美味しかったとのことなので今度はそっちも行きたい。お店の話を聞いて「それってあそこ?」とわかるくらいの知識は逗子に対してはある。駅前の狭い範囲だけど。あとはいつも車で連れて行ってもらったりしてるから。プリンで有名なマーロウは40周年なのね。はじめていったのは若者のノリがまだあった大学生の頃だった。誰かが三崎にマグロを食べにいこう、と言い出して車を出せる人が出して、城ヶ島でウツボに騒いで、くろば亭で店の前のイカの泳ぎ方に興奮して、駐車に苦労しながら葉山のマーロウへ行って想像よりずっと大きくて高いプリンを買って車の中だかどっかで食べたりした。その後も何度かマーロウのプリンはもらっていてビーカーの形状も変わったりして、我が家は菜箸立てたりするのに使ってる。この前、ちょうど一つ、落として割ってしまったところ。あれは一体何年前のビーカーだろう。三崎のくろば亭も当時から人気店だったのかわからないけどその後別の街でも見るようになったし王道をドライブしたわけね、若かった私たち。みんな元気かな。まだ会っている友人もいるし、何をしているかは大体わかる範囲の人たちだから会おうと思えば会えるけど。城ヶ島は小学校の修学旅行で行って大好きになった。あの地形には大感動だった。灯台は大人になってから行っただけかなあ。小学生のときも行ったのかなあ。全国を旅してると灯台にもいっぱいいくことになるのだけどどこも素敵だよねえ、灯台。昨年夏に巡った下北半島の尻屋埼灯台は灯台自体も景色も素晴らしかった。寒立馬のことを書いた時にも書いたと思うけど。近場だと観音崎灯台がいいかなあ。見学ができるからというのもあるかな。地震があった石川県珠洲市の禄剛埼灯台も行ってみたい場所なんだけどどういう状態なんだろう。船の運航とかに影響出てるのかな。後で調べてみよう。地震のその後のニュースも見たり読んだりしているけど時間が経てばまた別の困難が現れる様子で胸が痛む。どうかますます手厚い援助がありますように。今日も一日どうぞご無事で。

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のんびり、メンバー募集

布団のヌクヌクが素晴らしすぎて全然出られなかった。良いベッドって本当に素晴らしい、買ってよかった、とかすごく昔の買い物に急に感謝したりした。ソファとかで適当に寝てしまったときとは眠りが全然違う。ここに越してきたとき、ベッドと本棚はベランダから吊るして入れてもらったんだったな。本棚は自分のは割とシンプルに大きいだけだったんだけどどうしても使ってほしいという立派な本棚を譲り受けてそれが重厚で大変だった。今思えばそれをリビングに置けばよかった。書斎にしている狭い部屋に本棚は全部押し込んじゃったから大変だったんだな。すいません。もう書斎はいっぱいだから各部屋にラック本棚も作ったけどそれでも本は増え続ける一方だからねえ。うむ。幸せなことだわね。今日はのんびりのんびり。朝のお菓子はFLOのラムレーズンサンド。かなり甘いけどペロリ。そうだ。午後の勉強会にお菓子持って行こう。臨床はひとりでやり続けるものではなくて同じ専門家の目を時折いれていく必要があるからみんないろんな形で同業者と勉強を続けている。自分がしていることを正直に見てもらうってそれなりに傷ついたりもするからやっていない人も多いし防衛的にならざるをえない部分も実際たくさんあるけどそういう自分を照らし返してもらうためにも必要。「私は私」でできるものではない、臨床は。他人の人生に関わっているわけだから。今日のグループは臨床経験豊富で裏表のない楽しい人たちと。どういうグループも役に立つけど日曜にわざわざ入れる予定は余計なこと考えないでやれるものにしたい。そうだ、来年度、第2日曜の事例検討グループに1名空きがあるので臨床をしている方はご検討ください。初回面接をほぼ逐語で検討してしますが、初回面接にいたるまでに初回面接における二人の関係を規定するあれこれが動いていることも実感します。それは自分ってどうしてもいつもこうなんだろう、という反省モードを引き起こしますが個人の反省は自分が治療を体験するなりなんなりで大切に扱う必要があるでしょう。グループではなにがどうなってこうなったかという仮説を立てていきます。このグループは私がやっているので理論的基盤は精神分析ですが、不安、抵抗、防衛、そして転移、という概念はどの治療にも役立つものですし専門用語は必要な場合以外は使っていません。このグループは発表者の方が「外から言うのは簡単だよね」といいたくなることはいまのところ起きていません。誠実に臨床に取り組もうとしている人は評価目線で他人事のように事例に接する余裕は持っていません。少なくともそうなってしまったらそれは自分の問題である、という認識を持っているものです。グループ力動というのは本当に興味深いもので一対一の関係とは全く異なる豊かさをもたらしてくれます。小グループなのでお一人2、3回発表の機会があります。とてもいい助け合いの場になっていますし、発表の仕方について考えを深めることもできると思います。ぜひお申し込みください。

もう一つのほぼ更新されない(だから多分誰も認知していない)そっちがメインだったはずのブログに募集のご案内を書いてしまったのでそれを貼っておきます。フロイト読書会もとっても面白いし他の読書会が難しくてあまりついていけないという方にも結構面白いじゃんと思えるようなグループになっています。合わせてご検討ください。

東京はいいお天気。各地で梅まつりが始まっています。いろんな種類の梅がかわいくて私も色々いきたい!甘酒とかビールとか飲みたい。大抵は各地の商店街がお店出しているので楽しいです。地元だとクリニーング屋さんが焼きそば券をくれたりします。寒いけど春です。どうぞ良い休日をお過ごしください。

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「自我とエス」から100年

The International Journal of Psychoanalysis, Volume 104, Issue 6 (Decmber 2023)が届いたのでパラパラした。

2023年はフロイトの『自我とエス』出版から100年ということでEducation SectionはHoward B. LevineのOn looking into The Ego and the Id 100 years afterから始まる数編の論文だった。昨年出版されたFred Busch, Natacha Delgado編のThe Ego and the Id 100 Years Laterと合わせてチェックしておきたい。どちらも様々な国や学派の人が書いている様子。フレッド・ブッシュは自分の編著にもジャーナルにも書いている。精神分析を体験すると歴史の重みを知りそこに触れざるをえない静かな衝動に突き動かされるようになるが精神分析家になるというのは個人の歴史を超え、精神分析そのものの歴史を遡らざるをえない状態になることなんだ、という実感を強めている。隙間時間に細々と資料を読んだり周りとテキストでやりとりしながら現在に至るまでの様々な出来事に思いを馳せる。日本でいえば私は後期の土居健郎、小此木啓吾をリアルに知っている世代だ。土居健郎は直接指導は受けていないが小此木啓吾には慶應心理臨床セミナーで講義を受けていた。ゴシップ的な話も多いこの界隈とは離れ、精神分析家小此木啓吾という視点から彼の思索を眺めるとその引き出しの多さと中身の豊富さに驚愕する。そして小此木先生は日本語がうまい。美しいというよりかっこいい。私はドイツ語版Das Ich und das Es、英語版The ego and the Idと比べると『自我とエス』という題名はセンスがないと感じている。小此木先生だったらエスを日本語にするとしたらどう訳していただろうか。そうやって参照したくなる。2003年に亡くなったので昨年で20年が過ぎたのか。早い。『自我とエス』出版80年後。土居健郎が語られることは多いが小此木啓吾を語るとしたら、という空想をする。私をご指導くださった先生方はもう高齢だったり亡くなっていたりする。語りえないこと、語れないことを語ってほしいとは思わないがどうか先生方が内に、外に、体験した精神分析の歴史を学ばせてください、と以前よりずっと強く思っている。

はあ。やるべきことを思い浮かべたらため息が出てしまった。やるしかないが。ああ、やるしかないが・・・。みんながんばりましょう(巻き込んでる気分)。どうぞ良い一日をお過ごしくださいね。

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チグハグとかゴチャとか。

昭和初期からやっている老舗の商品だけを引き継いで営んでいるカフェに連れていってもらった。想像していた外観と全く違った。白を基調とした洋風のお部屋で和のものをいただくという感じ。これが友人の家とかだったらそんなチグハグな感じを受けないと思うのだが店だとなんだかチグハグしていて面白かった。家はもっと雑多に色々あるものね。チグハグするほどひとつひとつが際立たないのが生活っぽさというのかもね。ごちゃっとせざるをえない。今だって目も動かさず視界に入るものだけみてもごちゃっとしてる。名刺とかお香とか取り替えたばかりの電池とかユースキンとか髪ゴムとか。所ジョージのガレージみたいなところはごちゃっとしているけど統一感がある。ああいうゴチャもある。チグハグは会話にも使う。ゴチャやグチャはあまり使わないでしょう。臨床の言語には使うけど。私がここに書く文章はチグハグもゴチャもあると思う。グチャはあまりないかな。とか書いているけど「ゴチャ」はさっき私が自分で使った言葉でチグハグと同じ水準で使う言葉ではないな。「ごちゃごちゃしてる」とかいうならともかくね。こういうズレ感はいっぱいありますよね。面白い。「ズレ感」って比較的新しい用語?というかさっき「昭和初期」って書いたときも思ったけど私の「比較的新しい」は平成初期だったりする場合もあるからな。私にとって「昭和初期」もそれなりに昔だけど、自分も昭和を10年以上過ごしていて明治、大正に生まれた人とも出会ったりしてきたわけで、平成とか令和の新しさの方が際立ってしまうのよね、自分の中で。それにしてもこうやって指が動くままに書いていると言葉を意識が後から追う感じになってその変さに気づきはするのだけど、いや気づかない時もあるけど、まあいいかとなるね。精神分析では週4、5回、分析家のそばに横になって(横に横になってと書くと変な感じかも)自由連想をするわけだけどこれはね、とても難しいよ。「自由ってなんて不自由!」と実感するのが自由連想だから。でも「そう感じたらそういえばいいんだよね」ということをそういうインパクトから学ぶのも自由連想。何年もかけてようやく力の抜けた感じが出てくるのだけど性格はあまり変わらないかもしれないけど力抜けていると色々楽にはなりますよね。週一、対面の心理療法でもそういうことは起きて身体化もなくなったりするけど精神分析の場合はなんか言語の構造が変わる感じがある。途中、身体化が激しくなったりだいぶおかしな状態になることもあるけど。私はなったし結構みんななると思う。外身はなんとか保っていても内側は嵐、しかしそれは精神分析家との間で生じつつそこにおさめられる、密な設定はそのためだからなんとかなるという感じ。なんとかならない局面を作るのも人との関わりだけどそれをなんとなするのも人との関わりだから分散と凝集は両方大切。なんだってどっちかってことはないからいろんな人がいろんなことをしているわけでどっちかに強く向かうとしたらそれはそれなりのリスクがあるのかもしれないね。時間と偶然性に多くを委ねる精神分析はハイリスクなのかな。でも生活するってほとんどそういうことだからむしろ生活療法では、とも思う。世界に目を向けると精神分析もあまりにそれぞれで驚くけどそれのどれを大きな流れにしていくかというのは政治的な話でもあるから色々難しい。いろいろ難しいけど今週も無事に金曜日まできた。無事ではないが今こうしていられる範囲では無事。みなさんもどうぞご無事で。お元気で。

そうだ。この前、メモ的に書いていたフロストの詩とそれを読むオグデンのことをほとんど更新されていないメインのブログに書いた。結局メモのままだけど載せてしまった。

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当時

少し時間ができたので少し歩くところで待ち合わせをした。時間がなくなって通ることもなくなったその道は昔自転車で家庭教師に通っていた道だった。中学のときから不登校になり家の状況もなかなか複雑で当時、その子と定期的に会えるのは私だけだった。当時はまだポケモンが100をちょっと超えたくらいしかいなかった。その子のおかげで私はポケモンに相当詳しかった。いろんなことはもう忘れてしまったがその子は不登校を経験した子が多く通うという高校へ進学した。学校へ行けるようになり私との関係も終わった。そう思ったある日、その子の祖母から電話がかかってきた。当時はまだ電話が主な連絡手段だった。ものすごく慌てた様子だった。その子がいなくなったという。私は祖母に状況を確かめつつその子がひとりでいなくなるということがあるだろうか、いや、誰かと一緒にいなくなるようになったのだろうか、など考えたりした。しかしよく考えればその時間はそれほど慌てなくても大丈夫な時間でもあった。

数時間して母親から電話がかかってきた。無事だったという。はじめて母の声を聞いた。それまでのお礼を言われた。とてもいい子だった。あまり言葉のやりとりはしなかったけど私たちは小さく、よく笑った。静かに淡々と過ごしてもふと愉快な出来事が生じたりするのだから一緒にいるというのは面白い。なぜか二人で体験した修羅場もあった。時折祖母に誘われるままに台所で一緒にごはんをいただいた。祖母の時代の風習に驚きつつ、家庭の文化の継承についてとても興味深く思ったのを覚えている。

私も母にお礼を言った。おばあちゃんにも本当にお世話になったことを伝え、くれぐれもよろしくと伝えた。その電話以降、やりとりはあっただろうか。なかった気がする。お元気だろうか。もうすっかり大人の年齢になったに違いないその子は当時すでに私よりずっと背が高かった。ご家族みんな元気でいてほしい。いろんなことを教えてくれてありがとう。

今日もいろんな心と出会う。わかるわからないのお話ではないところで静かに昨日やこの1週間の話を聞いたりする。話はいつのまにか状況から離れていつもの心の話になるだろう。プロセスが全て。精神分析においては。生活と同じ。

東京は今日は晴れらしい。どの地域の方もどうかお元気で。良い1日でありますように。

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雪のあと。

隣の家の雨戸が開く音。今日はお互い遅いですね。私は資料作りに時間がかかってしまった。二度寝してしまったし。何度寝でもしたい。東京の雪はあっという間に溶けた。昨日の朝は雪かきも少ししたが夜帰る頃には隅に追いやられて盛り上げっている雪以外はほとんど消えていた。朝と日中はいろんな雪だるまを見た。小さな子が球体を作って持ち上げようとしても持ち上がらない。「重たい」「重たいね」とお母さんと言い合っている。お母さんは赤ちゃんを抱っこしてその様子を見守っている。その子もなんどもがんばるがどうしても持ちあがらない。「重たいね」と私も呟きながら通り過ぎる。ちょうど横を通るとき、その子が「えいっ、えいっ」と小さな足で自分で丸めた球を踏み始めた。イライラしている様子はないが悔しかったのかもしれない。自分で作ってそれが使えなければ壊す。なんかすごく大切なプロセスのような気がした。小さな足では壊すのも容易ではないようにみえたが。今度雪が降る頃にはこのくらいの重さなら持ち上げられるかなというプロセスが働くだろうか、それよりもこのくらいの球なら軽々持ち上げられるようになる方が早いかもしれない。子供の成長は早い。

雪を見ながらロバート・フロストの詩を思い出し、フロストを愛する精神分析家のオグデンのことと一緒にちょっと書いていたのだが別のところにメモ的に書いていたので暇があったらまとめたい。ちょっと、かなり余裕がない。もう行かねば。

どうぞみなさんもよい1日を。寒さにもお気をつけてお過ごしくださいね。

(メモ的に書いてるのはこんな感じ)

昨晩、雪を眺めながらロバート・フロストの詩を思い出した。ひとつStopping by woods on a snowy evening,もうひとつはDust of snow.

サンフランシスコの精神分析家であるトーマス・オグデンはフロストを好んで引用し、その解釈を行ってきた。彼にとって詩を読むことと分析実践において患者の話をきくことはほぼ同じである。彼は近著”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

8章 Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson.でもロバート・フロストの最も有名な詩を取り上げている。Stopping by Woods on a Snowy Eveningがそれである。

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雪が降った。

グループLINEに時間差で雪の写真があがる。東京の同業者たちの帰り道だ。みんな似たような時間まで仕事をしている。関西は雨だったという。同じ東京でもいろんな道があるものだ。向かい風に傘を傾け、前傾姿勢で駅へ向かう人、タクシーから降りようとする人が先に外に出した傘先、ポケットに手を入れ足元を確かめるように見る人、そしてそれを見るその人の隣の人、誰もいない住宅街、電燈が雪と同じ色をしている。青い電車が通り過ぎるホーム。平面をいろんな色の平行線が横切る素敵なデザイン画になっていた。私は足跡はあるが人気のないまっすぐな道を歩きながら写真を撮った。その写真に友人がthe vanishing pointという言葉を使ってコメントをくれた。消失点のことだ。街道と高速道路がまっすぐに走るこの道は平行線がいくつも並びそのずっと先でそれらは交わってみえる。交わることなんかないのに。北海道の人はこんな雪に傘なんかささないと聞いた。私も隙間時間に傘をもたず非常口に出てみた。あっという間に服に白い点々ができた。東京の雪はべちゃっとしている気がする。部屋の中からはもっと粉雪みたいに見えたのに。家の最寄駅もはじめてきた街みたいになっていた。まだ残るクリスマスのイルミネーションが再び存在感を増していたが、ポツンとした様子に見えた。皆が傘を開きその横を無言で通り過ぎる。立ち止まって写真を撮ろうとすると前にいた人が先に立ち止まった。その人の邪魔にならない場所からシャッターを切る。携帯で撮るとシャッターを切るという感じは薄い。傘が邪魔だが手ブレしないようにちょっと耐える。ピコン♪いい写真が撮れた。いつもの散歩道も歩いてみた。とてもとても素敵な景色で小さく声があがった、私の中で。小人さんたちが喜んでいたみたい。雪が嬉しくて小さなふわふわの手袋とふわふわの帽子でいくつも雪だるまを作っていたあの子は中学生になった。「まだ雪嬉しいのかな」というと「嬉しいみたいよ」と雪だるまマークと共に母親から返事が来た。「みたい」がその子が大きくなった証。わからない部分、わかろうとしなくても大丈夫な部分、そもそも触れえない部分、そういう場所を大切にされてきた子も自分で必死に守ってきた子もどうか良い一日を。

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雪の予報の日の朝

今日は雪が降るそう。雪に弱い地域(東京)に住んでいると警報と言われてもあまり対処方法がないけどとりあえず手をポケットに入れないでいいように厚手の手袋をする。普段全く使わないですんでいるのは幸運だが痛んでいるのではないかと懸念されるスノーブーツを履く。使わないと痛むでしょ、靴。あれ、結構ショック。スノーブーツとかはいいの買ってしまってるし。能登地震で家族を亡くしたという方の話を読んだりした。話してくれるだろうかと現地に入り、なぜ話してくれるのかと思う。矛盾する心の聞き手に対して「彼ならそれを望むだろう」と言いながら語り出す人など。地震から1ヶ月、ただただ呆然とするような状況を生き残り遺品に触れる。少し前までただ静かにそこにしまわれていたものが剥き出しになり遺されたモノとなる。「これはあのときの」と一緒にいられたら一生口にしなかったかもしれないモノとの思い出が想起される。語れば涙が出てしまう。語れば気持ちが動いてしまう。聞き手が躊躇するのは被災地へ入り自分自身も心揺さぶられる中、語らせてしまうことで生じる心の揺れをどこかで予測するからではないか。多かれ少なかれ人はそういう経験をしているだろうから。うとうとしてしまった。資料に目を通しておかないと。どうぞご無事で。

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立春

立春。昨晩、お菓子を食べ過ぎた。今朝も我が家のお菓子たちの前にしばし佇んでみたがさすがに手に取る気が起きなかった。そんな日もあるのか。とかいってこう書いている途中に「やっぱり」とか思って取りにいきそう。東風解凍、はるかぜこおりをとく。ほんとかな。たしかに昨晩、遊歩道の梅が満開になっているのに気づいた。そこにこの色の梅あったんだ。雪国に春がいち早く届きますように。

NHK俳句、そうか、もう選者が変わる時期か。いつもなにかやりながら流し見してるけどなるほどねえ、と勉強になる。俳句も学問だねえ。だからいい句ができないのか・・・。勉強は嫌いではないのだけどなんせ地頭の限界が来るのが早い。集中力の限界はもっと早い。アプリとか使っていると自分の特徴がよくわかる。この前、携帯に入れたアプリを人に試してもらいながら私の場合こうなる、というのを説明した。笑われた。なんでそうなっちゃうの、という感じだよね。理解されにくいことをしてしまうことを笑われたり不思議に思われたりしてきたけどおおむね受け入れられてはきた。よかった。でもこの歳になるとそのなんとも衝動的で不器用なやり方を私なりに制御する、あるいは利用するやり方も身についてきたよ(と以前迷惑や心配をかけた人にご報告したい気持ち)。その時々で落ち込んだりもするけど引きずることはない。身の丈を知るって楽になるってこと。昨日の英語でのミーティングはみんな違う国で暮らしていて英語が母国語ではない人たちの方が多かったのでチューニングに苦労した。どれも新しい情報として入ってくるから処理に時間がかかり思わず喋れない英語を口に出してしまうということはなかった。喋り出したらよくわからないことを言い出してしまったというのはあったけど。英語話すのがとても不安と言っていた私よりずっと達者な候補生の方も安心したことでしょう、きっと。モデレーターの方はおいおい大丈夫かよ、と思ったかもしれないけど。でも、精神分析は母国語で実践しているわけだから英語できないとかは全然気にしないで大丈夫、そういう人たちでやりとりするから面白いんだから、みたいなことを言っててにっこりになった。多分そう言ってた。私が無駄にポジティブなだけではないと思う。

昨晩も最悪な姿勢で寝てしまったので痺れがまずかった。寒かったけどきちんとする余裕がなかった。身体の外側も内側も動けなくなるのは避けたいから気をつけないと。2月、3月は特にダメ。締め切りがあるでしょ、確定申告とか。ああ深刻。。。みんなみんな健やかでいられますように。外で鳴いているのはどなたかしら。ジョウビタキに会いたいな。またね。