Blass, R. B. (2024). What’s in a word? A brief reflection on why the understanding of Freud is not changed by replacing the word “instinct” with “drive” and the importance of reading in context. The International Journal of Psychoanalysis, 105(5), 757–765.
今年度はDominique Scarfoneの論文を少しずつ読んでいる。2021年4月にIPAのポッドキャストTalks On Psychoanalysisにも登場していた。このポッドキャストはテキストのリンクが載っているのでそれを読みながら聞くことができて助かる。論文The time before usの短縮版とのこと。副題はThe Unpast W. S. Merwin、Walter Benjamin、Virginia Woolfを召喚しての精神分析的時間論。先日読んだダナの論文と重なり合う。短縮版は最初にノーベル賞作家のフォークナーの有名な文章が引用されている。
夜は分析家同士の読書会だった。何度読んでも内容を覚えられないのも困るけど、興味をひかれて一生懸命調べた相手のことを忘れてしまうのも困る。昨日、忘れていたのはHaydée Faimbergというパリでプライベートプラクティスをしているパリ分析協会の訓練分析家。SNSをメモ機能として使っているので検索してみたら昨年3月に彼女の論文をアンドレ・グリーンとトーマス・オグデンの論文と一緒に良きものとしてポストしていた。結局全部ウィニコット関連。ナルシシズムにおけるtemporality、symbolization、subjectivationの文脈で差異の認識の発生と伝達について考えていたらしい。Macにも部分的に翻訳したものが入っていた。ここまでやってどうして忘れるのか、といえば使用していないからだろう。書き物や発表で引用すれば忘れる頻度はかなり下がるはず。すごく雑ながら訳したのはFaimberg, H. (2014) The Paternal Function in Winnicott: The Psychoanalytical Frame. International Journal of Psychoanalysis 95:629-640とメモしておかないとまた忘れる。このブログもほぼ備忘録。忘れる力はこんなにいらないのにな。たぶん、なにかで引用しようと思って訳したのだろうけど結局使わなかったからこんな我が家の放っておかれ花壇みたいな雑さで保存されていたのね。我が家の花壇の春菊は次々にかわいい花を咲かせるのはいいけど茎がたくましすぎてほかの植物を圧迫しつつある。どうにかせねば。
最近、チェックしていたカナダの精神分析家、Dominique ScarfoneのFrom traces to signs: presenting and representing をセミナーで取り上げてもらえるみたいで嬉しい。ScarfoneがHoward B. Levine, Gail S. Reedと共に編者をつとめた“Unrepresented States and the Construction of Meaning”という本に入っている。ScarfoneはSociété psychanalytique de Montréalの訓練分析家。実践からはもう引退しているとのことで残念。ラプランシュによってフロイトに立ちかえり、その方法を再検討し、ラプランシュの考えもさらに展開させた本も書いている。『Laplanche』(2014)『The Unpast』(2015)『The Reality of the Message: Psychoanalysis in the Wake of Jean Laplanche』(2023)がその主な成果。主な関心は、心的機能における時間次元に関する概念的研究ということで私にとってはすごく読む必要がありそう、と思ってチェックしていた。
セミナーは『ウィニコットとラカンに学ぶ』(ルイス・A・カーシュナー編著 · 筒井 亮太訳)に入っているアンドレ・グリーンの「現代の精神分析の分岐」が前半、後半は同じくグリーンの「Illusions and Disillusions of Psychoanalytic Work」にFernando Urribarriが寄せたPostscript、Clinical passion,complex thinking,towards the psychoanalysis of the futureを読んだ。これらは精神分析の世界でグリーンがどういう場所でどういう理論を展開してきたかをおさらいするにはいいのだけどグリーンの学術論文を読むのと比べたら退屈だった。フロイトやグリーンは精読しながら彼らの思考を追うのが楽しい。わかるわからないの世界と離れている時間は楽しい。事例検討会普通のわかるわからないの世界にいたら感じられないことの方が多いのでグループでやるのは楽しい。
2015年のInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたNicolò, A. M. (2015) Psychotic Functioning in Adolescence: The Perverse Solution to Survive. International Journal of Psychoanalysis 96:1335-1353「思春期における精神病的機能:生き延びるための倒錯的解決」もこの本に所収されているか、よりまとまった形で書いてあるのだろうと思う。
著者はbackground of the uncanny(不気味さの背景)という言葉をサンドラーのbackground of safetyを射程に使用する。これは社会的暴力や戦時のように患者と分析家が同じ外傷性状況に巻き込まれている場合、臨床の基底は「安全」から「不気味さ」にとってかわり、精神分析臨床においては転移ー逆転移に揺さぶられるframe(枠)をどう考えていくかが課題となる。
精神分析の枠についてはBleger J. (1967). Psychoanalysis of the psychoanalytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519.が古典だと思うが、ペレルバーグがCOVID-19のときの体験を書いた以下の論文はこれらを参照しながら書かれたものである。
Perelberg, R. J. (2021)が The empty couch: Love and mourning in times of confinement. International Journal of Psychoanalysis 102:16-30
この前はノルウェーの精神分析家の論文について少し書いたと思う。今回はカナダ出身のMills, J. (2004). Clarifications on Trieb: Freud’s Theory of Motivation Reinstated. Psychoanalytic Psychology, 21(4), 673–677.人物についてはあまり調べていないが関係論の文脈で哲学的に精神分析概念を検討しているらしい。たしかに概念の整理はできた気がするが精神分析臨床になぜこの概念が必要かということを考えるには物足りなかった。著者がこの論文で討論の相手としているのはGeorge Frankという人だが欲動概念の検討ならまずはベーシックにこの人たちでは、という人ではないと思うのでどうしてだろうと思った。治療としての精神分析とは異なるようなので私が慣れていないだけかもしれない。論文を読むのは難しい。
そういえば先日、リウム美術館でTraditional Korean Artをみた。これは常設展で無料だが一応予約して行った。時期によっては人数制限があるらしい。私たちがいったときはとても空いていて大変モダンな空間で5世紀から19世紀までのいくつかのジャンルの伝統美術をみられた。陶磁器が特によくて、飾り方のセンスも斬新でびっくりした。三国時代にも王朝時代にも詳しくないが時代の変化はたしかに作品からも感じたし、こんな昔のものがこの保存状態で残っていたのかとかそういうことにもびっくりした。このスペースは最初にエレベーターで4階まで1階へ降りてくる順路でそのらせん階段にもびっくり。中世ヨーロッパの窓を思わせる穴からのぞくと丸くくりぬかれたようなスペースで身体を使ったパフォーマンスをしている人たちがみえた。彼らはずっと指だけでつながりながら低く小さい音を出し続け、ゆっくりゆっくり動き続けていた。身体ひとつがなりうるもの、身体がひとつずつでつながりうるからできる形が面白かった。美術館はただの箱ではないことがよくわかった。職員さんたちの服装もゆったりしていて空間になじんでいた。時間があれば有料の現代美術のほうもみたかったがまずはこれだけでかなり満足した。おもしろかったなあ。
昨晩は2026年度Reading Freudの初回だった。今年度は十川幸司訳『メタサイコロジー論』を読む。すでに何度も読んだ論文たちだが、昨日、かなりじっくり精読したら「心理学草案」がシンプルに思えた。私はアンドレ・グリーンを支えに精神分析における欲動論の重要性を考えながら書いたり話したりするようになったが、昨日はその基盤となる論文、「欲動と欲動の運命」を丁寧に読んだ。欲動TriebはストレイチーによってInstinctと訳された。これらは語源は同じだがInstinctに対応するInstinktというドイツ語はあるので、フロイト自身これらを同じ意味で使っていたとはいえ、区別はやはり必要なのだろう。Revised Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, edited by Mark Solms, published jointly by the Institute of Psychoanalysis and publishers Bloomsburyではtriebはdriveに訳されている。
昨日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsについてもうひとつのブログで少し書いた。この本はネットで拾える範囲でしか読んでおらず、IPAジャーナルに載った著者の論文について書こうと思ったのだが、本のことだけで結構いっぱいになってしまった。アナ・マリア・ニコロはフロイトの多形倒錯をブレイクダウンを防ぐ一時的な防衛配置として見ているようなのでその路線は面白そう。クライン派からウィニコット的理解へと立場をうつしてきたらしいのだけど全体としては関係論的記述というかイタリアっぽい感じがする。
イタリアのPsicoanalisi e Socialeというサイトは社会に開かれた精神分析の実践を発信するプラットフォームという感じで興味深いのだけど、元はイタリア精神分析協会(SPI)の分析家やエンジニアや心理療法家たちが立ち上げたものらしい。今はODVというボランティア団体が運営していてメンバーも臨床家だけではなく、ジャーナリストや映像の専門家もいるみたい。今のトップページには浅野にいおの「ソラニン」の評ものっている。扱っているテーマの幅広さからイタリア精神分析の主流のフィールド理論が社会的実践を伴っている様子。日本にもこういう団体ができるくらいのムードがあればいいけどなかなか難しいね。こういう団体があれば災害が起きたときの募金とか支援活動もしやすくなると思うけど。
昨晩、ルイス・A・カーシュナー(Lewis A. Kirshner)の『ウィニコットとラカンに学ぶ 臨床的対話とその思想』(筒井亮太訳、日本評論社)をパラパラした。原題はBetween Winnicott And Lacan A Clinical Engagement。ウィニコットとラカンを両方取り入れながら実践をしている精神分析家たちの論文を集めたアンソロジー。
再読していたのはH. D. (Hilda Doolittle)のTribute to Freud。これ邦訳がでているのだけどもうすごく高い値段でしか買えないみたい。原著は2012年に新版がでて、序文をアダム・フィリップスが書いている。ということは古典として読まれるべき本という位置づけなのでは、と思うので日本でも新訳がでてもいいのかもしれない。アダム・フィリップスは妙木先生が一冊訳してるけどほかは訳されていないのではないかな。彼はウィニコットのこともたくさん書いているので私はチェックしてるけど。彼の対談とかもYouTubeでたくさんみられるのでよくみている。英語よくわからないけど本屋さんでやるイベントとかだと背景も含めて興味深い。