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精神分析

バラを見たり考えたり。

夜明けがとても早くなった。朝ご飯もどんどん早くなっている気がする。

週末はたくさんのバラと紫陽花を見た。普段通り歩いているだけでもたくさんのお花に出会える恵まれた環境だけど知らない街のローズガーデンに行った。やっぱり特別だった。それほど広くない空間をゴージャスに彩る薔薇たちとたくさんの人たち。コスプレしたり、小さいぬいぐるみと一緒に写真撮ったりみんな楽しそうだった。あとローズソフトクリームがとてもきれいだった。食べてないけど、すれ違った人のをみてうわあと思った。たくさん写真を撮って遠くに出かけられない人にも共有して喜んでもらえた。

昨日の午前中はようやくまとまった時間で土居健郎を読みながら考えることができた。精神分析は時間もお金も無限ではないということをはっきり意識させられる設定だし、大体の人は死んでしまう前に別れるから。できたら死ではない形でそれぞれの人生で経験したいのが甘えだなと思った。実際に出会っていく以外の方法はないかもしれないけど。

すべきことを忘れていたことに思い出した。やらねば。今週もがんばろー。

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精神分析

フロイト「欲動と欲動の運命」を読んだり。

早朝から家事をしてNetflixで「教えて?イヌのココロ」を少し見てしまった。かわいい。よくぞ上手に進化を遂げてくれたと思うが、人間がいなかったら別の進化もありえたってことだよね。

昨晩のReading Freudはフロイトのメタサイコロジーの「欲動と欲動の運命」を読み終わった。愛と憎しみの反転を描写する最後の記述が見事。こんなふうに論理展開できたらとても楽しいだろうなと思う。この論文は概念とはなにか、なぜ必要かを考えるうえでも非常に重要だが、フロイトの臨床経験の中で矛盾を孕み、綻びを見せ始めた欲動概念を改めて位置付けようとする仕方はとても面白い。

訳語問題についてもいくつかの論文を読んだがどれも一理あり。IPAのジャーナルで新しいものだとイギリスで訓練を積んでエレサレムで実践をしているレイチェル・ブラスのこれ↓

Blass, R. B. (2024). What’s in a word? A brief reflection on why the understanding of Freud is not changed by replacing the word “instinct” with “drive” and the importance of reading in context. The International Journal of Psychoanalysis, 105(5), 757–765.

イスラエルの精神分析家たちの生活も気になるが、レイチェル・ブラスは古典的な説得力がある分析家というイメージ。この論文に関してはどうかなあ。わかるし、フロイトを読むときにその文脈から本質を捉えるのは絶対的に大事だけど訳語問題に関する議論としては論点をずらしているのではと思った。自分がどの言葉でそれを読むかってすごく大事だから。

それにしても今朝は寒い。暖房をつけてもいいくらいだけどとりあえず厚着している。一日中寒いのかしら。どんな気温でもおなかはすくんだな。でもまだ朝早すぎる。とりあえず白湯飲んで二度寝するか。でもこの積まれた本たちをどうにかせねば。取り組むまでの長さを短縮するにはまずエネルギーチャージか。風邪ひかないように過ごしましょう。良い日曜日を。

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Scarfoneを読んだり。

今日も涼しい、というか寒い。季節があっという間に逆戻り。そしてきっとまたすぐに夏に逆戻り。激しい。厳しい。どちらにしても老いつつある身体を冷やさず無理せず。

今年度はDominique Scarfoneの論文を少しずつ読んでいる。2021年4月にIPAのポッドキャストTalks On Psychoanalysisにも登場していた。このポッドキャストはテキストのリンクが載っているのでそれを読みながら聞くことができて助かる。論文The time before usの短縮版とのこと。副題はThe Unpast W. S. Merwin、Walter Benjamin、Virginia Woolfを召喚しての精神分析的時間論。先日読んだダナの論文と重なり合う。短縮版は最初にノーベル賞作家のフォークナーの有名な文章が引用されている。

The past i never dead.It’s not even past.

フォークナーを読むとハックルベリー・フィンを思い出す。子供の頃の愛読書だった。フォークナーはそんなにたくさん読んでいるわけではないが『ポータブル・フォークナー』のおかげで色々読めるようになった。ドライで怖くて悲しい場面の連続だけど心に重たく響く作品はいい。文学作品が引用されている論文はワクワクするな。

今日も一日長い。がんばろう。とにかく暖かくね(風邪ひきたくない)。

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金曜日

今朝は窓を開けると寒いけど暖房が必要なわけでもないし、家事をしている分にはTシャツで寒くない。昨晩は寒かった。朝は涼しいなと思ったけど薄着で大丈夫だった。昼間外にでたら寒くてびっくり。上着はリュックにもオフィスにも常備しているので夜もそれを羽織って帰った。今日はもう少し厚手の上着を着て暖かくしていこう。風邪ひきたくないけど週末はすごく暑かったのに今これってなると調整が難しい。食べ物だってやっぱり夏はピクルスと思ったばかりなのにやっぱり温かいものが食べたいよーとお豆腐グラタンを作ったり。食欲は気温が低い日のほうが増すね。今朝はお味噌汁とか烏龍茶とかで暖まった。

事故や事件のニュースを見るのが辛いけど、高橋ユキさんの記事とかは追っている。高橋さんがやりとりして公開してくれている無期懲役囚の永田陸人受刑者からの手紙は闇バイトが頭をよぎらない人にも読まれるべきだと思う。「お金のためなら」と人の命が軽んじられる、今やそれが日本社会の中心的な思考なのかもしれないが普通に抗っていく世界に身をおいていきたい。

それにしても雨の音が弱まったり強まったり大変。色々書きたいことはあるがせねばならないことの方が多い。今日は全国的にこんなお天気なのかしら。足元、気をつけて出かけましょう。

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北村紗衣『英語の路地裏』、土居の“失敗”?

少し涼しい。陽射しはない。雨が少し降っている。昨晩は雨は降らなかった。薄着のままで大丈夫だったし。気温はずっとこんな感じがいいな。

英語の勉強もしないとなあと思ったがイヤホンを出すのが面倒で、帰りの電車は北村紗衣『英語の路地裏』を読んでいた。やっぱり本が楽。この本は著者が作った入試問題の章が誰にとっても楽しめる部分だと思う。私はシェイクスピアのところが好きだな。著者の専門だしね。『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』(白水社)もとても面白かった。若い頃、ケンブリッジのカレッジの庭で学生たちが無料のシェイクスピア劇を演じていてすごく素敵だった。英語がわからなくてもシェイクスピアならなんとなくわかってしまうのは単に有名だからというだけでなく台詞回しのおかげだと思う。英語はもっとわかるようになりたいし、わからないといけないけどね、必要だから。

夜ははちみつピクルスを作ったが別のことをはじめてしまいまたふきこぼしてしまった。『あかね噺』もみながらだったし。はちみつをいれる前でよかった。お酢を入れすぎたのでちょっと酸っぱいだけど夏っぽい。この夏はいろんなピクルス作りたいな。

細々と土居健郎をまとめているがまとまった時間がほしい。まとまった時間に遊びに出かけた私が悪いがたまの休みは休むべきでしょう。これまでもすごいなと思ってきたが、自分が精神分析家になって海外の分析家たちを身近に感じながら実践をするようになってから読むとなんかこれまでとは違うすごさを感じる。ものすごくオープンだし正直だし丁寧。誰かが土居先生は失敗事例ばかり書いていると言っていた気がするが「甘え」理論も訓練分析の失敗から生まれているからねと思ったりした。失敗とはいわないか。挫折というのもなんか違うか。精神分析の実践でいえば失敗は環境側にあるだろうし、治療者としての土居先生が書くなら失敗例が多くなるのはそれはそうなのだろう。それを一般的な意味で失敗と呼ぶかどうかはともかく。

憲法が改正されませんように。憲法がたやすく変えられない歴史を持っていることが忘れられませんように。毎日各地で声を上げてくれている人たちに連帯する。

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蕎麦屋

今日もいいお天気、かと思いきや夜は雨とのこと。

この前、蕎麦屋に行った。冷たいお蕎麦を楽しみにいったのに親子丼を頼んでしまった。冷やしたぬきがはじまってたからそれにしようと思ったのにねえ。食べながら俳句を作ろうと思い狭い店内をそっとながらじっくり観察。「はい、今お伺いしますね、すいません」と親切そうで働き者の店員さんが途切れない客にお茶やら水やら蕎麦やらカレーやらを運んでいた。高いところにテレビがあってワイドショーをやっていた。テレビを見ようとすると隣の人がこちらを向いてしまうので、違うの、私はテレビを見てるの、と思いながら見るのをやめた。テレビでは花火の特集をしていた。今は、というか今も、というかいろんな花火があるのね。昔、大きな花火大会用の花火を作っていた人の話を聞いたことがある。なんだかすごい世界だったことだけは覚えている。蕎麦屋の椅子は小さくて背もたれが低くてみんなが大きく見えた。目線の先の棚には赤い板と赤茶っぽい重箱と少し変わった形の竹っぽいセイロみたいなものがたくさん積んであった。それらはいろんな人に運ばれていくお皿とはどれも違っていたし、私の親子丼も丸い陶器のお茶碗に入ってきたからもう使っていない道具たちなのかもしれない。赤い板は出前の名残かな。あれをバイクに重ねてそれらの器を乗っけて出前していたのかな。今はもう出前はしていないようだった。ビールが入っている透明な冷蔵庫の上には大きな招き猫一匹と小さな招き猫匹がにっこりしていた。二人がけの小さな机の向こうのやはり背もたれの低い椅子には新聞があった。私よりあとからきた高齢の方が慣れた様子でそこから新聞をとっていった。4人がけテーブルで悠々と新聞を広げて読んでいた。良い昼だ。すると私の隣の人も新聞に気づいたらしく立ち上がってとっていった。特にそこが新聞置き場なわけもないのだろうけどなんとなくそこに置かれている日だったのだろう。隣の人はいつものそばが季節ものだったらしく「冷やし中華に切り替わっちゃった」と言われ「おビール」と冷やし中華を頼んでいた。「おビール」という言い方懐かしいな、昼間からビール、良い昼だな、と羨ましく思いながらたくあんを噛んだ。冷やし中華のお皿は和風だった。お蕎麦屋さんのカレーも美味しいけど、お蕎麦屋さんの冷やし中華ってなにかそば要素はあったっけ。でもいいな。食べてみたい。最初に新聞を持っていた人はそばとミニカレーのセットを頼んでいた。どのくらいミニなんだろうと登場を待っていたら思ったより普通サイズだった。その人は新聞をたたんで少し離れたところにおいて蕎麦をすすりはじめた。すると私の隣の人もさっき私よりに雑においた新聞をちょっと自分の方に寄せていた。良き。お金を払う場所はまだ透明な衝立があってもしかしたらコロナで出前やめてしまったのかな、とふと思ったりした。店員さんはみんな丁寧で、常連さんも多いみたいだった。私が行った時間はお昼には少し遅めだったので店員さんがお客さん家族に挨拶しにきたりしていた。三人家族だったけど子供が小さな頃から知っているらしい。

とあれこれ観察はしたが俳句を作るのを忘れていた。だめだ、こりゃ。

今日は忘れ物しないようにしないと。いい1日になりますように。

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暑い、母の汗、本

早朝から暑い。太陽が近いような気がしてしまうが暑さと太陽との距離は関係ない。距離が関係あるしてくるのは実際にもっと近い場合。

母の汗の匂いをいい匂いとくっついてる子どもがいた。母は暑いからくっつかないでといいつつ母の汗ばんだ額を小さな手でいじりながら離れないでいるその子を腕に抱えていた。男の汗のにおいほど母の汗が語られないのは母はあまりじっとしていられないからか 汗びっしょりの子供の身体を拭き、着替えさせ、こういう仕事は別に母の仕事ではないがなんでだろう。母の匂い自体は語られない話ではない。

詩が読みたいな、と思って本棚を探りながら林芙美子の「母娘」という話を思い出した。あれに出てくる同棲相手は詩人の野村吉哉だ。ひどい男だったらしいがどんなだったのだろう。

『歌・句・諺のはなし』柳田國男/折口信夫/高浜虚子 著(中公文庫)もとても面白い。

きたない落ち葉をさまざまにいろとりどりに変容させていく虚子の楽しそうな筆致は特に。

今日もせめて熱中症には気をつけよう。みんな元気で過ごせますように。

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あかり、ハイキング

昨晩、遠くに知らないおうちの灯りが見えるなあ、同じ日曜日でもいろんな生活があるんだろうなあ、と思ってカーテンを閉めにいったらおうちの灯りだと思っていたものはその辺りのアパートの廊下の電灯だった。共有スペースの灯りというのはニュートラルな感じがしていいね、と思ったけどその灯りの下で色々している人もいるか。最近は携帯のあかりだけで済んでしまったりもするけれど。バックライトのことだけど。周囲を照らすのではなく文字を浮かび上がらせるもの。暗闇の中であえてみなくてもいいものもたくさんあるだろうし、暗闇に慣れてきて見えてくるものもあるから灯りとのお付き合いは人それぞれですね。

今朝も早速眩しい。東京29度だって。昨日も熱中症に気をつけながら軽くハイキングしたけど思ったより暑くなかった。山の中にあるお寺7つの七福神を巡ろうとしたのだけど途中で道をなくし4つしかいけず。携帯の地図にはあるのに実際の道がなかった。その分、別のところにはいけたけど。山ではお花はあまりみなかったけどハルゼミが鳴いていてびっくりした。春蝉の季語はやっぱり春なのね。私はこうして夏に聞いたけどきっともっと早くから鳴いていたのでしょうし。低山でも山道を10キロ以上歩くとさすがに足がだるい。トレラン用の靴を軽いハイキング用に持っているのだけどそれがまだ足に合わない。使いながら合わせていきたいけど足痛くなるのは嫌ね。ケアしながら合わせていきたい。

ニュースを見るのは毎日辛いけど流れてきてないニュースの方が多いのだろうからプロセスを想像できないと仕組みがわからないままになる。本来、仕組みなど知らなくても安心して暮らせる生活を組み立てるのが政治家の役目だと思うが、今はもうなんか想像力なんて働かせたらゲームに勝てないからこのまま突き進むみたいな感じで、人の命なんてどうでもいい感じだもんね。辛いし怖い。

福山の山林火災も怖い。消防の仕事も大変だ。人への直接的な被害はないのは良かったが間接的な影響は大きいだろう。早く落ち着くとよいが。

今日は月曜日。良い1週間にできたらいいな。

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精神分析

移動とか読書会とか。

とっても明るい朝。このオレンジは朝だけのもの。とりたちも元気そう。

昨日は移動が多かった。暑かったけどそんなに汗はかかなかった。汗って歩いている間より止まった時にどっとでる感じがするけど電車がちょうどよく涼しいなかゆったり座れた。快適で乗り過ごしそうになったけど。どの道でも色づき始めた紫陽花をみられた。

夜は分析家同士の読書会だった。何度読んでも内容を覚えられないのも困るけど、興味をひかれて一生懸命調べた相手のことを忘れてしまうのも困る。昨日、忘れていたのはHaydée Faimbergというパリでプライベートプラクティスをしているパリ分析協会の訓練分析家。SNSをメモ機能として使っているので検索してみたら昨年3月に彼女の論文をアンドレ・グリーンとトーマス・オグデンの論文と一緒に良きものとしてポストしていた。結局全部ウィニコット関連。ナルシシズムにおけるtemporality、symbolization、subjectivationの文脈で差異の認識の発生と伝達について考えていたらしい。Macにも部分的に翻訳したものが入っていた。ここまでやってどうして忘れるのか、といえば使用していないからだろう。書き物や発表で引用すれば忘れる頻度はかなり下がるはず。すごく雑ながら訳したのはFaimberg, H. (2014) The Paternal Function in Winnicott: The Psychoanalytical Frame. International Journal of Psychoanalysis 95:629-640とメモしておかないとまた忘れる。このブログもほぼ備忘録。忘れる力はこんなにいらないのにな。たぶん、なにかで引用しようと思って訳したのだろうけど結局使わなかったからこんな我が家の放っておかれ花壇みたいな雑さで保存されていたのね。我が家の花壇の春菊は次々にかわいい花を咲かせるのはいいけど茎がたくましすぎてほかの植物を圧迫しつつある。どうにかせねば。

そういえば先日瀬尾夏美さんの連載がはじまった柏書房のウェブマガジン「かしわもち」で渡邉悟史さんの連載『植物暴力論』もはじまった。とっても面白いのでチェックしてみてください。きちんと紹介する時間が今はない。とうか、当たり前だけど私の紹介文より本文のほうが断然面白いから。なんかこういうとき要約しなければという気になるのはどこからきた習慣なんだろう。今はこうやってリンクを簡単に共有できるとはいえ要約文化って必要だしなくなってはいないと思うんだよね。

そうだ、さっきの象徴化、主体化を時間論から考えることはAIと精神分析の違いについて考えることでもあって、AIの即時性と精神分析の遅延、事後性はまず大きい。あとは frictionless、repetitive、adaptiveの観点か。とかね、忘れないで考え続けられたらいいのにね。

とりあえず日曜日。よい一日を。

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地震、サッカー、土居

いいお天気。明日はもっと暑くなるんだって。危険。昨晩の地震はオフィスにいても大きく感じた。オフィスの入っているビルは気持ち悪い揺れ方をする。揺れの強かった宮城はしばらく注意が必要とのこと。大震災からずっと気が抜けない人もいるのではないか。震災のこともそれぞれが語っていくことが大事なのだろう。

サッカーW杯日本代表が発表になった。そんなにきちんと追ってきていないがJリーグ設立が1991年ときくともうそんなかと驚く。先輩の車でベルマーレ平塚の練習を見に行ったりしたのが懐かしい。今は湘南ベルマーレか。鹿島アントラーズの移転問題はどうなっていくのかなあ。古くからのファンにとっては残念なニュースだろう。

昨日も隙間時間は土居健郎を読んだ。土居は「精神療法のための諸注意(1967)」というフロイトの技法論のひとつ「精神分析を実践する医師への勧め(1911)」のような論文を書いている。東大精神科の精神療法演習の経験から書いたという。土居はそこででこれらは初歩的な常識のようではあるが「自分の中に潜む甘えを自覚した治療者だけがこのような心得を身につけることができる」と書いている。逆に言えば「甘え」の自覚がいかに困難かということだろう。実際常識的なことなのに人から指摘されると思わず反発したくなったり「そんなの知ってた」みたいな態度をとって素直に受け入れることができない場合、それは自覚されない「甘え」の行動化といえるだろう。いえるだろうか?わからない。

今日の夜は読書会。まだ何も準備できていないが一度は読んだことがあるものなので思い出せたらいいな。思い出せたことないのだけど。

熱中症に注意しないといけない季節になりましたね。身体大事にしていきましょう。良い1日を。

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精神分析

酢、瀬尾夏美新連載、土居健郎

好きなライターさんが紹介していたトマトサラダを作りたくてまずはトマトをつける玉ねぎドレッシングを作って冷やした。こういうときのために良いお酢を買ったのだ!なのにお酢をいれわすれたことに後から気づいた。びっくり、だけど最近こういうこと多い気がする、いや、前からかもしれない。前からと思った方が最近多くなった、というより安心できる。この年齢、衰えと不調を実感することばかりだからな。いいお酢はみんな混ぜ合わせたあとになってしまったけどいれた。あーあ。トマトを混ぜ合わせる前でよかった。またすぐきちんとした工程で作ろう。工程もなにも一番大事なお酢を必ずいれる、ということだけだけど。しかも、あーあと思いながらお酢を棚にしまったらもう一本お酢があるのに気づいた。買ってあった。なくなったと思って買ってきたのに。あーあ。ピクルスでも常備するか。夏だしね。

胃腸の調子を少しでも整えるため少しだけ甘いものを我慢しているが順調に食べてはいる。昨日は水戸土産、亀印製菓の生菓子「めろんけーき」とか。懐かしい香りがした。昔、スイミングの帰りに迎えを待ちながら食べてたメロンの形の容器にはいったアイスとか本物のメロンとの味の違いは特に気にしないですむのがメロンのお菓子ですね。スイカはちょっと気になる。スイカ&メロンバーとかになるともうなにも気にしないかな。

小さなオンライン句会の投句も完了。やはりあまりパッとしないが実景だのみ。経験と環境に助けられる娯楽(時に苦行)。それには感謝しかないが、もっと真面目に取り組まないとね、好きなんだから。

柏書房のwebマガジン「かしわもち」で瀬尾夏美さんの連載『旅をして、西大島で書いている』が始まった。私も西大島の巨大団地の一階にある瀬尾さんたちの仕事場に行ったことがあるが、あの場所にあんな明るい風通しのいい場所があるなんてびっくりした。場所づくりも上手な瀬尾さんの本も写真集も好きで持っている。この連載もいつもいい本を出す柏書房からいずれ本になるのでしょうね。毎日ひどいニュースばかりだけど、それを追うと同時に過去からの声に耳を傾けるために出向くこと、それは読書という営みでもできること。瀬尾さんの文章からいろんな街の景色、いろんな人の声を想像していきたいと思う。

土居健郎の本をようやくまとめながら読み始めた。1950年代前半、土居はサンフランシスコのインスティチュートで精神分析家になるための訓練分析をはじめ、中断した。にもかかわらず日本の精神分析家となった。1950年代後半に土居は「甘え」を着想しその普遍性を精神医学の分野に問いかけはじめる。それは最初から外に向けられたものだった。私は土居に直接教えを受けた世代ではない。いや、私と同年代でも土居先生の教えを受けていた人たちはいるので世代のせいではないか。私は土居のフロイト読解に大変な魅力を感じているので、これからも読み続けると思うが「甘え」理論は本当に厄介だ。オープンなだけに厄介だ。でも対話しないといけない。中井久夫は土居はそれを望んでいただろう、自分も応じようとがんばったがいたらなかった、というようなことをどこかに書いていた。

瀬尾夏美さんたちの活動もそうだけど、過去からの声と対話すること、それができなくなるかもしれない危機感を感じつつ。

今は曇っているけど晴れ間も出るらしい。がんばろう。

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空、ドレッシング、俳句

風もなく半袖でちょうどいい朝。空に水色も見えるけどまだ厚めの雲が多い。夜の気温も落ち着きつつある気がする。まだ一枚薄手のパーカーとかを羽織ってるけど。昨晩の帰り道は雨がぱらついていたが傘をさしている人の方が少なかった。夜中、窓を閉めようと空を見たらなんだか明るい気がして外に出てみた。月が出ているのかと思ったけど雲と暗闇しか見えなかった。なんだか明るかったけど。もうすぐ新月。月が出たとしてもその時間にはまだだっただろう。

ドレッシングがなくなったのでオリーブオイルとお醤油で作った。あと夏だからちょっとこだわろうと思って買った優しい味の黒酢も開けた。蜂蜜もなくなったばかりだからお砂糖を少し加えたけど何かちょっと足りない。友達からもらった奄美大島の炒りごまの香りがあるからいいか。大葉とかもいいかも。あとはサラダの具材を変えるか?

15日締切の俳句を10句作った。自分で読んでもなんだかインパクトのない句ばかりだが実景で揃えているので、その力に頼りたい。少し前まで投句用紙は郵送せねばならなかったがオンラインでの投句が可能になった。なのでもう少し眺める。郵便法の改正のせいだったか、土曜日の配達がなくなり、普通郵便だととても時間がかかるようになった。どちらにしても私の場合、いつも速達でないと間に合わず、郵便料金も改訂されたのですごくお金がかかってしまっていた。オンラインでの投句が可能になって助かった。

最初からオンラインでやっている小さな句会のほうの投句締切も15日。そちらも作らねば。毎回、使っても使わなくてもいいのだがメンバーから題を募集している。私はできるだけそこに出てくるお題を使いたい。今回は「水貝」というのが出ていた。アワビの刺身。私は刺身は食べたことないかも。だから作れないか。すごい贅沢そうだよね。高いのかな、やっぱり。貝はそれほど好きというわけではないが、日本酒とは合う。俳句のために一度は食べてみたい。贅沢なものは旅先で食べたいな。

夏の季語「薔薇」でも作りたかったが全然パッとしない。これだけ毎日薔薇のそばに寄っていって香りを楽しみ写真を撮っているのに薔薇のこと全然わかってないかも。でも「野バラ」のことはちょっとわかるかも。今年はまだみていないと思うけど。シューベルトのというかゲーテの野バラも有名だから知っている。オペラとかみにいきたいな。せっかくオペラシティが近いのだし。私にとっては生活空間だからもっと遠くの劇場に出向いたほうが余韻には浸れそう。オペラシティで観たらすぐに仕事モードになりそうでもったいない気がする。

とGWが終わったばかりなのに休みのことばかり考えている。休みを楽しめるように仕事頑張らないとですね。自分のあり方を丁寧に考えられる余裕が持てるといいけど。突き進むのではなくて。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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ハングルとか

早朝から部屋がオレンジ。だけど今日は一時的にお天気大荒れと言っていたような。大丈夫ならそれはそれでありがたいけど。

久しぶりの筋トレで筋肉痛がひどい。2週間空いただけでこれ。そこそこ使っているはずと思ってもほとんど使えていないということですね。

昨日は俳句の締切を思い出し、作らねばと意気込みながらも『現代詩手帖』の特集「韓国現代詩への旅」を読んでしまった。目次にはカタカナの名前が並ぶ。カタカナは漢字の一部を取り出したものだ。彼らの名前はハングルで書かれるべきなのだろう。ソウルで過ごした3日間、Instaで教えてもらったアプリが活躍した。ついカタカナか漢字を目が拾ってしまい、カタカナが現地にほぼないのはわかるが漢字をみつけてもアプリとは違う漢字だったりした。最初は戸惑ったがすぐに同音異義語でいけるのか、韓国の漢字は、と思った。こちらでの生活の言葉はハングルなのだ。その成り立ちは斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』を読んで知っていた。普段すごく漢字に頼っているわけでもない私がこういうときだけ漢字頼みかよ、とちょっとおかしく、それからは読めはしないが、視覚的な記号として地図上や路線図のハングルと現地の表記のマッチングをはかった。電車内で何度も聞いていた言葉を調べたら「ドアが閉まります」とう意味だった。表記は출입문 닫습니다と学んだ。20歳の頃、ケンブリッジの寮で仲良くなった韓国の人たちにハングルは舌の形、発音するときの口の形だから難しくない、と教えてもらった。漢字から離れて誰もが使える文字を作り出し、生き残らせた国の人たちをすごいと思うし、その国の文字を使うということを単に大事というより楽しく思えたことがなんだか嬉しかった。

今日こそ俳句、と思うが隙間時間が少ない。いいかげんスピーディーに作った駄句ばかりを出すのもやめたい。時間をかければよいというものではないが、17音に対してもっと敬意を払わねば。

それでは今日も良い1日を。

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レシピ、筋トレ、Dominique Scarfone

今日の東京は少し曇ってるかな。東の空に強そうな陽射しはみえるけど。

この前、友達の家で出してもらったお蕎麦とそれに合わせたおかずがとってもおいしくてそれらを再現すべく昨晩はずっとレシピを見ていた。あとソウルの東大門タッカンマリ横丁で食べたタッカンマリのレシピも。美味しいものと出会うとレシピを見る時間が増えてしまってよくない。東大門駅を出てすぐ気になった丘は興仁之門公園という夜景スポットだということも知った。その夜はみんなでタッカンマリを美味しくいただいたあと、公園とは反対の東大門デザインプラザ(DDP)に行って予想より暗いことに驚き(ライトアップされてもイメージしていたより暗かった)そこ直結の駅から地下鉄でそれぞれ帰った。大きさと形状にはびっくりした。ああいうのが東京に建てられるとは思えない。DDPに行くまでの川を渡ったところに平和市場という楽しそうなマーケットもあったし、川縁にもたくさん人がいて夜も楽しめそうだった。今度はしっかり遊びで行きたいな。

久しぶりに筋トレをした。一通りのメニューはこなせたけど最後の方は足が上がらなくなる瞬間もあって自分でびっくりした。筋肉を使っていなかったわけではないので疲労だな。うまくコントロールしていきたい。筋力的には今くらいをキープしていけたら上出来だと思う。体調崩したりすれば一気に落ちてしまうけど自分の中に基準ができていればここくらいまでなら戻せるかなとかイメージしやすいし。筋トレの帰りに大きなカシワバアジサイが咲いてるのを見つけた。毎年きれいに咲くのは知ってたけど今年はここのが一番早く満開近く咲いたかも、私がみたなかでは。

最近、チェックしていたカナダの精神分析家、Dominique ScarfoneのFrom traces to signs: presenting and representing をセミナーで取り上げてもらえるみたいで嬉しい。ScarfoneがHoward B. Levine, Gail S. Reedと共に編者をつとめた“Unrepresented States and the Construction of Meaning”という本に入っている。ScarfoneはSociété psychanalytique de Montréalの訓練分析家。実践からはもう引退しているとのことで残念。ラプランシュによってフロイトに立ちかえり、その方法を再検討し、ラプランシュの考えもさらに展開させた本も書いている。『Laplanche』(2014)『The Unpast』(2015)『The Reality of the Message: Psychoanalysis in the Wake of Jean Laplanche』(2023)がその主な成果。主な関心は、心的機能における時間次元に関する概念的研究ということで私にとってはすごく読む必要がありそう、と思ってチェックしていた。

やることいっぱいだが少しずつ取り組もう。良い一日になりますように。

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事例検討会とかセミナーとか。

いいお天気。昨日は疲れたけど楽しかったな。内輪での事例検討会とアンドレ・グリーン関連の論文を読むセミナーとIPAが主催するクリニカルディスカッショングループの日本語グループ。一日中勉強だった。電車に急いで乗ったら逆方面だったり、急いで帰って次のグループまでの1時間を眠気と闘ったりは大変だった。寝たら絶対起きられない自信があった。

セミナーは『ウィニコットとラカンに学ぶ』(ルイス・A・カーシュナー編著 · 筒井 亮太訳)に入っているアンドレ・グリーンの「現代の精神分析の分岐」が前半、後半は同じくグリーンの「Illusions and Disillusions of Psychoanalytic Work」にFernando Urribarriが寄せたPostscript、Clinical passion,complex thinking,towards the psychoanalysis of the futureを読んだ。これらは精神分析の世界でグリーンがどういう場所でどういう理論を展開してきたかをおさらいするにはいいのだけどグリーンの学術論文を読むのと比べたら退屈だった。フロイトやグリーンは精読しながら彼らの思考を追うのが楽しい。わかるわからないの世界と離れている時間は楽しい。事例検討会普通のわかるわからないの世界にいたら感じられないことの方が多いのでグループでやるのは楽しい。

色々終えたあとはごはんを作りながら「あかね噺」5話、6話を見て気分転換。1話の落語シーンが演出過剰でうーんと思ったがそのあとは面白くみている。本物の落語に行きたいな。末廣亭もせっかく近いんだし。うん、そうしよう。

今日も帽子をかぶって出かけよう。良い1日になりますように。

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5月10日日曜日

光が強まったり弱まったり。昨晩も少しひんやりだった。今日は移動は多いけど一日中屋内だからどうしようかな。いつもほど夜遅くはならないから少し薄着でも大丈夫かも。電車の冷房対策は必要かもだな。

寝不足だけどスッキリ起きてしまったから早朝から家事したりしてPCの前に座るなり眠いな。一応、ノルマはこなしつつあるが、どんどんやっていかないと全く間に合わない感じもする。あ、また光が強くなった。部屋の中が一気にオレンジになるこの季節。もう少し気温が上がってきたら全てが溶け出すのでブラインドに遮光カーテンをつけなければならない。

今年も出るセミナーの資料がすでに自分で読んだことがあるものばかりだったのでよかった。でもいざ読み直したら何も覚えていない、というか読み直して、ああそうだった、このことを言いたいんだよ、と思い出した。実践から離れない精神分析家の文章は思考を促してくれるので何度も読むのがちょうどいいんだと思う。実践から受けるインパクトはものすごいので私もそれらを薄めないように言葉にしていかないとな。

それにしても眠い。まだ早朝だから二度寝しようかな。でも読みたいものもあるから起きてようかな。平日にはない余裕があって嬉しい。口内炎治るといいな。痛い。

いい1日になりますように。

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5月9日土曜日

土曜日。朝は風がなさそう。昨晩も少し寒かったけどセーター1枚で大丈夫だった。日中はそれだと暑かったけど毎日夜の寒さを警戒した服装をしている。

昨日はほとんど外に出なかったけどいつもと違う夕方の時間に少しでたら子供たちがいっぱい。学校が終わって公園で遊んでる時間だった。ちらほらおとうさんおかあさんが迎えに来たり自発的に帰る子もみえた。ひとりぶつくさ怒りながら不機嫌そうに歩いている子や歌うようになにかいいながら歩いている子もいた。大きめの広場で「やめてよー」という声が何度も聞こえて乱暴な言葉遣いの声も何度も聞こえた。なにが起きていたのか知らないけどやめてといわれたらやめなよ、と思いながら歩いた。

やっぱり平日はほぼなにもできない。こういう朝の時間に進めなければいけない。MacAirがもうだいぶ高齢で新しいソフトはインストールできないし動きものんびりになっているけど家でまだ愛用している。FMVは軽くて持ち運びにはいいのだけど充電がMacとは比較にならないくらいもたない。なのでモバイルバッテリーが必要になってくる。ソウルにはパソコン用のモバイルバッテリーをもっていなかったから発表直前に困った事態になりホテルの人に聞いたらながーい延長コードをもってきてくれて充電できた。Macのときはほとんど使わなかったけど買ってあったのはAnker PowerCore Ⅲ 45W。このモデルはもう古いのだろうな。2021年だって。それにしても重い。大体電源があるところで作業するからモバイルバッテリーはそんなに必要としないのだけど最近電源のあるカフェとかにふられっぱなしでやっぱりもっておこうかなあと思ったり思わなかったり。でも使わないともったいないから筋トレと思って持ち歩くか。ただでさえリュック重たいけど。なにか不具合が出たらやめればいいか。ひたすら家かオフィスで仕事すればいいのだけど一気にやるには外のほうが手中できるのだよね。どうしても別の仕事を見つけて取り組んでしまうから。

今日もいいことあるといいですね。どうぞよい一日をお過ごしください。

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5月8日(金)

鳥たちにぎやか。最近、鳥たちの動きが落ち着いている気がする。春の花が咲き始めた頃はそっと近づくだけですぐに気づかれて、花が満開になると蜜に夢中でこちらの動きには無関心になったけどせわしなかった。今はつばめの親は忙しそうだけどほかの鳥はわりと写真を撮りやすい落ち着きがある。オフィスのそばの鳩はアスファルトのうえでいろんな姿勢をしていてそれはそれで面白いのだけど自然いっぱいのなかにいると鳩が実に生き生きとしていて驚く。この前、明治神宮のほうを歩いていたら草むらでなにかがずっとガサガサいってるから待っていたら鳩が枝じゃなくて積み重なるはっぱの上に座ろうと奮闘していた。あんなのはじめてみた。みんなそれぞれいろいろやろうとしてるんだな。

イギリスのドラマシリーズUnchosenがNetflixシリーズ『選ばれざる者』として放映されている。初回から不穏で、そこからもじっとりといろんなことが起きて信じるって行為は怖いねと思った。主人公のロージーの誠実さはいい。サントラもいい。

昨日は昼間、ジャーナルの原稿の校正作業を一気にやった。またもや辛かった。英語だから無心にならないとできないのかと思ってたけど内容が結構濃い。今の私に書ける限界だったと思う。一気に書いて、査読を経て思い切って組み替えて、今回はじめてきちんとそれを読んだような気分。これはモーニングワークのしあげであったと思う。ラカン派もパスじゃない方法を見出せばいいのにね、とふと思った。分析家になって2年、こころをフルに使う体験ができたと思う。それはすさまじくいろんなものを残してくれたがそれは早くも薄くなってきている。分析家になるとはこの薄まっていく体験をどうワークしていくかということでモーニングワークの次の段階にあるのだと思う。

口内炎やらなにやらで疲れがあちこちに出てきている気がするが今週末も休みではないから無理せずがんばろう。お散歩はできそうなお天気。オフィスのそばの新宿中央公園の薔薇も咲いたし、アジサイがもう少し。楽しみましょ。

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GW終わり

夏の光だ。相変わらず辛いニュースばかり。

世界卓球は100周年、ルクセンブルクのニー・シャーリエンって62歳なのか。すごい。これだけ若い世代が出てくる世界で戦い続けられるってバランスがいいんだろうねえ。世界レベルの人はみんなそうなのかもしれないけどここまで身体を維持できているのが本当にすごい。でも身体って弱くてもどこか障害をもったとしても安心していられる環境こそが大事で、自分の身体に可能性を見出せる教育や会話が絶対に必要。ニー・シャーリエンは身体だけではない感じがすごくするから卓球以外でも活躍しているのだろうけど。なんであってもなにができなくても自信を持って生きていける環境が必要。

GW中は面白い会話をたくさん聞いた。特に小さな子と久しぶりに会ったのであろう祖父母の会話が面白かった。内容はほぼ覚えていないが、昨日は「じいじ、じいじ」と小さな子が祖父らしき人を引っ張ってきて、じいじ、全然追いつけるのに「〇〇は歩くのが早くなったな。すごいな」ときっといつもの褒め上手という様子で明るい声を出してて、その子が「なんとかちゃんは5歳じゃないんだって。うん?5歳?6歳?5歳より大人だよね」となりつつ、自分より色々できるらしい子の話をすると「そうらしいね」と同意しつつ、むしろそんなお話ができる孫をほめるというずらし褒めもよかった。この年齢の子どもは「我こそは!」と思いつつ自分より他の誰かに視線が向くことに敏感ですぐに不安になってしまうからみんなみんないいこ、特に目の前のあなたはとってもいいこ、と関わっていくのはとっても大事なんだよね。その子もまだ5歳みたいなんだけど「昔は風があったのにね」とか言いながら初夏の凧あげに苦戦していた。この子にとっては去年だって、先週だって「昔」かもしれないんだなと思った。10年前のことをまだ最近と思ってしまうこともがある私とは生きている密度が違う。彼らの成長は凄まじい。私はオフィスに行く前に寄り道して花の写真を撮っていたのだけど「じいじばか」と聞こえてきたときは「おおっ」と思った。でも全く動じず明るいまんまうまくその子が成功したかのように動くじいじはカッコよかったし、すぐに「じいじすごい」と切り替わるその子もかわいかった。こういう単純さで楽しいときを過ごしていくのも大事。いちいちこだわっていたら消耗するばかり、ってことはかなり多いから。

火水と結構、仕事がらみの作業をしていたけど、朝、飲み物のパッケージの文字を読みながら「○○製法ってどんな製法だよ」とかツッコミを入れている自分に気づいて休みってやっぱりどうでもいいことに注意を向ける余裕があるよね、と思った。私は見えるものは何かしら読む癖があって歯磨きとかもやたら長くなりがちなんだけど老眼になってからすぐ疲れてしまって本当に何も読まなくなった。歯磨きは相変わらず長いけど。でもこうして余裕があると老眼であっても前みたいになんでも読んでいるんだから目のせいじゃなかったということだね。ちなみに○○製法を調べてみたら実際にその会社が開発した製法だった。失礼しました。こういうふうに思ったことを覚えていて、しかも調べるということができるのも余裕のおかげ。

たまにこういう休みをとりつつ5月もがんばりましょう。

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戦禍の分析家たちの論文など。

薄い曇り空。お茶がなかなか冷めない。朝は向こうの通りを走る車の音を背景に早朝に開くドアや窓の音が響く。

昨日、18時の鐘の音をきいた。オフィスでは神宮球場の花火の音はきこえるが寺の鐘の音はきこえない。昨日5月5日は立夏、東京の日没は18時31分だった。鐘の音がきこえたとき、まだ空は明るかった。

この前、美術館の庭で蚊に刺されたところが痒い。長袖をきていたのに首と手の甲と掌をやられた。私は一度刺されるとなかなか治らずずっと痒いし、掌はほんとうにやめてほしい。ただでさえ散漫な注意がさらにそれやすくなる。すぐに気づいてペッて追い払ったのに手遅れだった。もう蚊の対策もしないといけない。

先日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsの(2024)ことをメモ的に書いた。

『発達的断絶(Developmental Ruptures):崩壊と防衛的解決の精神分析』

2015年のInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたNicolò, A. M. (2015) Psychotic Functioning in Adolescence: The Perverse Solution to Survive. International Journal of Psychoanalysis 96:1335-1353「思春期における精神病的機能:生き延びるための倒錯的解決」もこの本に所収されているか、よりまとまった形で書いてあるのだろうと思う。

どの発達段階にあっても崩壊の危機は常にあるわけだが、先日、ソウルで行われたIPAのアジアパシフィックカンファレンスでいろんな国の人の話を聞きながら東洋と西洋では崩壊に対する感覚が異なるように思った。多くの分析家や患者の人生を変えたホロコーストの話題がでると特にそう思う。ここ数年、続いていた日本の精神分析協会内部の葛藤状況に思考の場を設ける役割をとってくれたエルリッヒ先生は1937年生まれのドイツ生まれのユダヤ人で幼いときに「水晶の夜」も体験し、ドイツを出てイスラエルで育った精神分析家である。戦争によって異なる立場になった様々な国の人同士に対話をもたらすグループを運営してきた臨床家であり、その成果は論文で読める。エルリッヒ先生は今はイスラエルとパレスチナの戦争によるIPA内部の葛藤にも取り組んでいる。海外の精神分析家たちと関わることは戦争が終わっていないことを実感する機会になる。

実感から入ると実際には会っていない精神分析家の論文の読み方も変わる気がする。私はエルリッヒ先生がその日、戦禍のイスラエルからいらしたことにインパクトを受けた。

イスラエルにはYolanda Gampelという訓練分析家もいて、ホロコーストを含む社会的、政治的暴力の影響に関する論文を書いている。

Gampel, Y. (2020) The pain of the social. International Journal of Psychoanalysis 101:1219-1235で著者はいう。

「イスラエルでは、私たちの生活が、気づかぬうちに単なるサバイバルになってしまったのだと思う。暴力的な死――現実の、あるいは潜在的な死――、世界の中にひとつの場を保ち続けようとする圧力、自らの存在を個人的な仕事の範囲に限定できない悲しみ、文脈から絶えずもたらされる悲嘆、これらすべてが私たちを摩耗させる。それは、私たちが自分の潜在力を発展させることを許さない。私たちが選び、望んでいるこの現実が、私たちを幽閉している。それは、最低限の自由さえ私たちに否認する。」

著者はbackground of the uncanny(不気味さの背景)という言葉をサンドラーのbackground of safetyを射程に使用する。これは社会的暴力や戦時のように患者と分析家が同じ外傷性状況に巻き込まれている場合、臨床の基底は「安全」から「不気味さ」にとってかわり、精神分析臨床においては転移ー逆転移に揺さぶられるframe(枠)をどう考えていくかが課題となる。

精神分析の枠についてはBleger J. (1967). Psychoanalysis of the psychoanalytic frame. International Journal of Psychoanalysis 48:511–519.が古典だと思うが、ペレルバーグがCOVID-19のときの体験を書いた以下の論文はこれらを参照しながら書かれたものである。

Perelberg, R. J. (2021)が The empty couch: Love and mourning in times of confinement. International Journal of Psychoanalysis 102:16-30

精神分析は分析家自身もトラウマの中にありながらそれを理解、記述していく学問であることをこうやって何度も思い出しながらやっていくんだなと思った。

GWも今日でおしまい。私は校正作業に費やすことになりそう。まとまった時間は貴重。東京はこれから気温があがったりするのだろうか。相変わらず調節難しいけど体調に気を付けて過ごしましょう。

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歩いたり頭使ったり。

立夏。朝日がさす位置が大分変った。もう結構前からだけど南側の窓からは夜明けを感じにくくなった。窓を開けるとまだひんやり。東の空からオレンジの光が広がっていた。身体が動きにくい感じがあるが早朝に起きてしまったので早めに移動するか。でもこうやってなにかしはじめると眠くなってくる。

昨日もたくさん歩いた。薔薇の季節。いろんな名前の薔薇があって面白かったしとってもきれいでいい香りだった。白い藤も満喫したし、こじんまりした美術館で係の人とおしゃべりもしたし楽しかった。私は花も美術もたくさん触れてきたわりに名前とか全く覚えられないけど触れるたびに元気になるのでやっぱり好きなんだと思う。

帰宅して校正原稿を修正して返信用封筒に入れた。忘れずに投函せねば。こっちは日本語だからいいけど、英語の原稿は自分で書いたくせに見直すのがつらいがGWあけるまでにやらねば。

休みの間にReading Freudの準備も少々。今年度はフロイトのメタサイコロジー論を読んでいる。十川幸司訳があって本当によかった。欲動概念についてはいまだに様々な議論があるので訳語に触れている論文をいくつかチェックした。

この前はノルウェーの精神分析家の論文について少し書いたと思う。今回はカナダ出身のMills, J. (2004). Clarifications on Trieb: Freud’s Theory of Motivation Reinstated. Psychoanalytic Psychology, 21(4), 673–677.人物についてはあまり調べていないが関係論の文脈で哲学的に精神分析概念を検討しているらしい。たしかに概念の整理はできた気がするが精神分析臨床になぜこの概念が必要かということを考えるには物足りなかった。著者がこの論文で討論の相手としているのはGeorge Frankという人だが欲動概念の検討ならまずはベーシックにこの人たちでは、という人ではないと思うのでどうしてだろうと思った。治療としての精神分析とは異なるようなので私が慣れていないだけかもしれない。論文を読むのは難しい。

もう5月も6日経ったのか。違う、5日だ。よかった。いや、よくない。やるべきことは多い。昨日、通りかかった古い小さな和菓子屋さんでおいしい柏餅を買って食べたときは5日のつもりで食べていた。こいのぼりもみたし。今日はどんな感じの一日になることやら。いいことありますように。

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ハイキング

今朝はとても風が強い。昨晩から警戒はしていたが。雨は大丈夫そうなのがありがたい。

昨日は三浦にハイキングに行った。坂をのぼりきったところにひろーいキャベツ畑が広がっていて思わず声をあげた。キャベツを運搬するのであろう台車が畑の中にポツンとおいてあるのが絵になった。ひっくり返しておいてあるのもあった。日曜でも休まず作業をしていらした。春キャベツなのかな。もう出荷されているものも多く、残されているキャベツがゴロゴロしていてちょっと不気味だった。このあたりのキャベツは潮風をうけておいしそう。三浦は大根も有名で、小さめの大根がコロコロしている畑も少しあったけどあれはもう使い手がないのかしら。歩いている途中に直売所があってそこのお野菜もおいしそうだったのけどまだ先があったから買わなかった。たっぷり歩きながら三崎口駅まで戻ったあと城ヶ島までバスででたがこれが大混雑。30分弱で着く予定が1時間半かかった。ずっと立っていたから少し疲れたけど三崎港の少し手前のバス停で運転手さんがここからまだかかるから歩いたほうが早いとアナウンスしてくれて一気にバスがすいた。バスに乗ったまま外を見ると三崎港の食事処はどこも行列。学生の頃にみんなできたときはこんなに混んでなかったに。あのときもくろば亭は少し待ったけど。城ヶ島も食事処は大行列。すでに2時を過ぎていたが海辺の店で名前をかいて時間つぶし。とっても小さな商店に入って一杯しながら待った。だいたい同時にきた外国出身の人たちとお店の老夫婦もまじえておしゃべりした。ひとりは東大の院生ということで以前住んでいたという別府の温泉の話とかして楽しかった。別府が素敵なところなのは知ってる。またいきたいな。名前を書いたお店に戻るとまもなく私たちの番でちょうどよかった。いい待ち時間だった。そこから城ヶ島を色々歩いて結局3万4千歩くらい歩いた。今日は風と仲良くできるかな。電車とまったりしているみたい。大変そうだけど無事に過ごしましょう。

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探したり。

今朝もいいお天気。昨晩は雲もなく月がとてもきれいだった。外にでたのが一番日射しが強い時間でやっぱり手の甲まで覆ってないとかゆくなってしまうんだなと残念だった。今日は夏山用の長袖シャツを着よう。

ロンドンでやっている世界卓球を少しみたけどドキドキしてみてられない!といいつつ怖々見ていたらいつのまにか終わっていた。途中で探し物を始めてしまったから。まったくみつからず案の定わりとわかりやすい場所でようやくみつけた頃にはすっかりなにもする気がなくなっていた。せっかくいつもより時間があったのに、と思うけど時間があるからひたすら無為に過ごすこともできるのだから悪くはないのだと思う、というか、色々ひっくり返して探しているうちに校正の原稿が入っている封筒を見つけてしまった。ソウルに行く前に積んでおいたのだった、そういえば。危ない。休み中にやらねば。

ソウルでも結構歩いたとはいえすごく狭い範囲の移動しかしていない。それでもハングルや韓国の街の様子に強く動かされることが何度かあった。韓国人作家の色々な本を翻訳で読んできたのもあるし、茨木のり子や斎藤真理子などの影響でもある。翻訳という営みについて考えていたせいか文庫のほうの中井久夫『私の日本語雑記』にも手が伸びた。以前から愛読していたが別の言葉を話す相手とコミュニケーションをする体験が新鮮なうちに読んだらまたそれまでとは異なる印象を受けた。

土居健郎の「甘え」についてはあまり進捗なし。また読み直さないと自分がなにをいいたかったか忘れてしまう。興味をもったらすぐに発表できるくらいの文章にしておかないと何度も同じ手間をかけることになってしまう。そうだ、昨日は友人の論文PDFを検索するのにもすごく時間がかかった。私が保存していたつもりの場所や形式が違ったらしい。その最中に第14回大会 大会企画分科会「精神分析とアートの交わり」の討論原稿をみつけて、これはすでに「精神分析的心理療法フォーラム 13巻 2025年12月」に掲載されているのだけど、もうちょっときちんと形にしてもいいかも、と思ってしまい、そっちを少し進めてしまった。遊こっちのほうが楽に書けそうだもんなあ。現実逃避。

まずはすべきことを可視化。実際に見えるように机の上に置いた。今日はここまで、とならないようにしよう。とりあえずいいお天気。いっぱい歩くことにしよう。

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ソウルから帰ってきたり、色々読んだり。

今朝はひんやり。北側の窓をあけたら昨晩の風はおさまっているようだった。少し厚着をしてバタバタ家事をしたりお茶をのんだりしていたら今度は少し暑い。いいお天気。

今朝は韓国で買ってきたお菓子をお茶と一緒にいただいた。25年ぶりのソウルで、今回は学会のためにいったからそんなに観光はできていないし、色々チェックしていたお土産も買いそびれてしまったが、なんといっても近く、女性たちが親切。ハングルが全然わからず、韓国語も全く聞き取れないにも関わらず、こちらがわかるように伝えてくれるのだからすごい。初日からなにかあっても助けてもらえるという感覚をもって行動できた。感謝。近いって素晴らしいな。前日遅くまで仕事して、翌日早朝に空港にいって2時間ちょっとでソウルに着いてお昼過ぎから散歩したり美術館行ったりする時間も元気もあったし、昼の飛行機で羽田に帰ってきたあとも銀行へ振込に行ったりあっというまに日常に戻ってこられた。

今朝はちょうど流れてきた韓国の詩人、小説家、批評家、翻訳家(ロシア語)のイ・ジャンウク×ペ・スアのインタビューを読んだ。「クオンの本のたね」のnoteで。

翻訳について彼が言うには

「例えば、アメリカの作家よりも韓国の作家のほうがレイモンド・カーヴァーを楽しめると思うんです。アメリカの作家は慣れ親しんだ言語と文法でカーヴァーを読み、韓国の作家は異なる言語と文化がもたらす新鮮さでもって読みます。」

そうだと思う。今回、ソウルで開かれた5th IPA ASIA PACIFIC CONFERENCEにいっていろんな発表をきいたり、自分も発表したりしたが、海外にいくと言語と文化について考えることが普段の何十倍にもなる。

イ・ジャンウクはこうも言っている。

「考えてみると私には小説家として不利な条件がたくさんあります。ソウルに住んで標準的な韓国語を使っていて、中年で、男性で、異性愛者のうえ教授まで務めていて……。」

マイノリティの要素に意識的な人である。

「大韓民国は首都圏に住む中年・男性・異性愛者・知識人が圧倒的に支配しているじゃないですか。まず格好悪いですよ(笑)。」

これは関係あるかどうかわからないが私をソウルで助けてくれたのはみんな女性だった。彼らはみんな自分から話しかけてきてくれた。それなりに距離のあるところからそうしてくれた人もいた。

ちょうどジェンダーに関わる論文を読んだところだった。

読んだのはBell, D. (2020) First do no harm. International Journal of Psychoanalysis 101:1031-1038

これはかなり強い感じで書かれている論文で、相談が急増している“rapid-onset gender dysphoria”を社会的文化的文脈を検討せず、人的資源も時間も思考も足りないなか、本来は複雑であるものをジェンダーというプリズムを通じてしかみないことで多くのことが扱われないまま残されるという問題も書かれている。そして思考の排除と社会的圧力の中で、複雑な心理的問題が身体的解決へと単純化されていることへの批判も明確。

ちょっと考えれば簡単ではないとわかることも考える時間がない、あるいはそういう時間をもたないことで解決可能な問題にしてしまう。それは大変に危険なことだ。特に人間の身体や心における解決は常に暫定的なものだろう。

とにかく難しいことは難しいままにしておく必要があるのだろう。すでに起きてから数時間たつが眠くなってきてしまった。動かねば。今日は土曜日。よい一日になりますように。

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5月

今年も5月がきた。梅雨に向かう時期は花の色も変わる。

どこにいてもいろんなことがあるな、と当たり前のことを思う。それらのほとんどは当事者同士以外では共有されることはなかったりするけれど時々信頼できる人と共有できるととても安心したりする。今日は大切なのは我慢と信頼と夢見る能力とか偉そうなことをいってしまったけどそれだって環境の支えあってこそ。自分が得られなかったものでも誰かに与えられるようになるためにはどうしたらいいものか。そういうことを考えながら行動しているうちに本当に自分は与えられなかったということを悲しめたり悔めたりする機会を得られるかもしれない。そういうことを話せる場所がだれにでもあったらいい、というかあるべきだと思う。公的な資源はそういうことに使われるべきではないか。

5月までの大仕事が終わった、といってもまったく準備不足だったがそれこそ周りの人の助けを得てなんとか終えることはできた。感謝。今度こそ学術大会の準備をしないといけない。協会の人たちと話して大きなヒントをもらったので忘れないうちに取り組まないといけない。すぐ忘れる、といわれてしまったし。その通りすぎるのでがんばらねば。

花が咲いたりしぼんだりいつのまにか実になっていたり、毎日の景色の移り変わりが早くていちいちびっくりする。毎年のように毎日のようにみている景色なのに細かくみなくても気づく変化なのだから細かくみたらそれこそ今までとは全く別のものにみえてきたりするのではないだろうか。そういえば昨日も同じようなことを書いたか。

今日はとりあえず無事に。つぎのつぎのつぎのつぎくらいにまあまあ元気に。いつも元気、みたいのって疲れる場合もあるでしょう。自分にとって、というのはとっても大事だから「一般的に」いいといわれるものには首傾げていくのもいいと思う。お互いのありようでどうしていけないかしら、ってね。

5月、美しい季節、のはず。昔からそうなはず。のっぺりした全部が同じ色にみえるような世界にしないように小さいことを積み重ねていけたらいいね。

良い一日になりますように。

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挟間美帆「Fremes」、リウム美術館、月

いつも以上に早く起きてしまったので二度寝したがまだ早い。老眼鏡はなかったがiphoneが手元にあったのでSpotifyで適当にかけたらNubiyan Twistだった。これだとさらに目が覚めてしまいそうだと思いながら聞いていたらいつのまにか寝ていた。そのあとは挾間美帆のデンマークラジオ・ビッグバンド (DRBB) とのニュー・アルバム「Frames」を聞きながらゴロゴロした。これもこれで眠気を誘うには華やかだがきちんと聴きたくなって起きた。

「私は、このバンドの歴史と、その音楽的遺産を尊重しつつ、同時に新しい音楽を創造することを目指しました。その結果生まれた作品は、明快さ、自信、そして国際的な視点に裏打ちされた作品群となりました」

と挟間美帆はいう。ウェブサイトに書いてあった。聴けばそれが実現されていることがわかる。挟間美帆の作る音楽をきくと古典もたくさんききたくなる。この音自体はすごく新しい感じがするのに。新しさって本来そういうものなんだろうけど。

そういえば先日、リウム美術館でTraditional Korean Artをみた。これは常設展で無料だが一応予約して行った。時期によっては人数制限があるらしい。私たちがいったときはとても空いていて大変モダンな空間で5世紀から19世紀までのいくつかのジャンルの伝統美術をみられた。陶磁器が特によくて、飾り方のセンスも斬新でびっくりした。三国時代にも王朝時代にも詳しくないが時代の変化はたしかに作品からも感じたし、こんな昔のものがこの保存状態で残っていたのかとかそういうことにもびっくりした。このスペースは最初にエレベーターで4階まで1階へ降りてくる順路でそのらせん階段にもびっくり。中世ヨーロッパの窓を思わせる穴からのぞくと丸くくりぬかれたようなスペースで身体を使ったパフォーマンスをしている人たちがみえた。彼らはずっと指だけでつながりながら低く小さい音を出し続け、ゆっくりゆっくり動き続けていた。身体ひとつがなりうるもの、身体がひとつずつでつながりうるからできる形が面白かった。美術館はただの箱ではないことがよくわかった。職員さんたちの服装もゆったりしていて空間になじんでいた。時間があれば有料の現代美術のほうもみたかったがまずはこれだけでかなり満足した。おもしろかったなあ。

昨晩、ぼんやりした月をみつけた。昔は月の様子で次の日のお天気がわかったと思うのだけど今は月の満ち欠けも追えない。気づいたら3、4日前の月のことを昨日の話としてしていたりする。

この前の虹は本当に大きくてこれぞ虹という感じだった。これまでいろんな場面でみあげてきた虹のことを思い出した。正しさとかそういうのではなくて基本の形を知っていることは大切だなとなんとなく思った。あ、本当はそういう形してたの?と気づくのって本当にいろんな間違いや誤解を超えてだったりするけど、違和感を感じるところから、それを誤魔化さないところからはじまるのかもね。なにが?認識が。あぁ、となんとなくため息がでてしまう。子どものときのことでもいまだに思い出すと恥ずかしいやらひどいやらな自分がたくさんだし、これから今日のことで頭を抱えたりするかもしれないわけでなかなか難儀なことばかりだけど人を信頼してやっていけたらいいよね、結局は。どうみられてるんだろう、どう思われてるんだろう、というのは最小限は必要かもしれないけどそれに気をとられてばかりになる必要はまったくないわけで、こっちに足りないところがあると思うなら助けてくれよ、と私は思う。今って指摘だけしてほうっておくより悪くてあえて見つけ出す必要のないことを匿名でああだこうだいって自分は正しいという認識からおりないというなんだかひどいことが起きているでしょう。いろんなことはいろんな事情が複雑に絡み合って起きているので関係のない人が口出ししない、ってわりと常識だったと思うのだけど。みんなで補うあうことは本当に大事で補ってもらうことを恥だとか怖いと思ってしまうような関係は長い目でみなくても本当によくない。みんなどこか同じ程度に欠けてるものでしょう、と無理に自分の気持ちをおさめることはないけど事情を知ればなにもいえない、とうことはかなりあるのでまずは他人より自分。それぞれみんな大変なはずだもの。基本形は正しさとか完璧さとは全然違う。

月だって「今日は完璧な満月だぜ」とか絶対思わないわけで満ちたら欠けるし欠けたら満ちるしの繰り返しだし、人間だって老いていく身体を支える筋力をつけよう、とかアンチエイジングだって若さとか美しさとか言葉の意味づけを少しずつ変えながらやっていったほうがいいこともあるわけでしょう。え、本当はそういう意味だったの?ってことは結構あるわけで、なんでそんなことに囚われていたんだろう、って愕然とする体験は必要なことも多いけどそんな辛いことは最小限でいいと思うし、ましてや人に強制的に、迫害的にさせられることではないし、日々少しずつ認識を改めるゆるさをもつことで自分がまっすぐ立っているという状態がわかったりするんだと思う。少しずつ少しずつ。こわごわでもやってみたりやめてみたりいろんな自分を体験できる時間を自分にも相手にもあげられたらお互いにいいんじゃないかな。昔からいろんな先生がハンドルのあそびが大事といっていてそれはいちいち心に残ったし、その先生方の年を超えたであろう今はそれは実感になった。

世界中のニュースが痛ましいものばかりでなにもしていなくても気持ちが疲れる。そんななか毎日よく歩いているのも自分が無事に歩けていることを確かめたいだけなのかもしれない。不安なのかもしれない。それはそれで大事にしたい気持ちだけどなにも考えず呑気に過ごせる日々を保障してほしい。みんなでやっていくことのはずのことだけど中心となる人たちが大きな安心をみせてくれないとみんなは「みんな」になりにくい。

今日はどんな一日になることやら。一日で多様なことが起きるならそこそこ平和ってことかもしれない。みんなにいいことがありますように。

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「レンタル・ファミリー」をみたり。

昨日もいろんなお花を見た。ものすごく早起きしてでかけたわりに眠くもならず知らない道をたくさん歩いた。2万3千歩。そこまで歩いたように感じなかったけどいろんな景色に会えてよかった。カササギらしい鳥もみた。カチガラスともいうらしい。カチカチなくから。

この前「レンタル・ファミリー」をみた。ブレンダン・フレイザーが最初からとてもよかった。「ザ・ホエール」のブレンダン・フレイザーも大好き。今回はもっと感情の揺れ幅は少ないけど細やか。こういう人たちはこういう稼業につくだろうか、と思ったりしたがあやまり稼業などは昔からあるといえばあるが現代だとこういう切ない形もあるのだろうか。全体に派手ではないが深い葛藤がそれぞれの登場人物にあってとても面白かった。主人公の癒しとなる女性を安藤玉恵にしたのはなんだかちょっとずるい配役だなと思った。悲しいことがいっぱい怒るけど全体の穏やかなトーンはジーンときた。

今日もいろんな景色に会いたいな。鳥さんたちにも会いたいな。良い一日になりますように。

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昨日の夕方、虹がとてもきれいだった。あんなに大きくて虹色くっきりの虹をみたのは久しぶりかもしれない。

祖父江慎さんが亡くなったというニュースをきいた。大好きな人だった。早すぎる。

そうか、祖父江さんが亡くなったから虹が出たのかと言いたくなった。オフィスの窓からだんだん薄くなる虹を撮った。

なにがなにやらな毎日だがなんとか朝。世の中にはいろんな人がいるという当たり前の実感より1人の人間が大きな空虚を抱えるためになしているあまりに多くのことをどう記述すればいいのかと悩む日々。

毎日書くけど希望なんて探さなくてもみつかるものであってほしい。

虹、きれいだったな。今日がいい一日になりますように。

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月曜日

よく降っている。昨日はいいお天気だったのにね。

昨日はいいお天気だったのでお散歩をした。鯉のぼりの季節。

神社に行ったら昔の子供の遊びと書いた段ボールが小さな机に置いてあってお手玉やだるま落としやけん玉が無造作に入っていた。まずはそのそばにあった輪投げをやりあまりうまくいかず悔しい思いをし、お手玉はジャグリング的にちょっと上手に披露し、けん玉はわりとすぐ真ん中にいれてそばにいた人に「すごい!」と言われたので真ん中は横より簡単かもと言っておいた。実際そうだと思うのでみんな真ん中から挑戦した方がいいと思う。私は真ん中に入れるのは得意だけど横に乗せるのは難儀じゃ。

昨日の大河ドラマ見たけど落ち着いて考えなくてもひどい時代。辛すぎる展開。今だから戦国ヒーローとして推される彼らだが名もなきものたちにとってはなんでもいいから生活楽にしてくれよというのはいつの時代も変わらないのだろう。この「なんでもいいから」は戦争してもいいからってことじゃないけどね。誰かを殺すようなことはしない、という当たり前すぎることをまずは実行してくれよ、というところからだと厳しい。今またそんな時代なのかもしれないが。

山火事も地震も本当に怖いし心配だし気持ちが落ち着かない。絶望の中でいろんな理由つけて見出す希望じゃなくて普通に生活しているだけで芽生える希望に支えられていきたいしそのための土壌を作っていきたいものですね、みんなで。今週も無事に過ごせますように。

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Reading Freud初回だった。

いいお天気。昨晩は半分より少し膨らんだ月がきれいだった。寒かったけど。夜、もう少し暖かくなるといいなあ。昼間はこのくらいでいいからさ。

昨晩は2026年度Reading Freudの初回だった。今年度は十川幸司訳『メタサイコロジー論』を読む。すでに何度も読んだ論文たちだが、昨日、かなりじっくり精読したら「心理学草案」がシンプルに思えた。私はアンドレ・グリーンを支えに精神分析における欲動論の重要性を考えながら書いたり話したりするようになったが、昨日はその基盤となる論文、「欲動と欲動の運命」を丁寧に読んだ。欲動TriebはストレイチーによってInstinctと訳された。これらは語源は同じだがInstinctに対応するInstinktというドイツ語はあるので、フロイト自身これらを同じ意味で使っていたとはいえ、区別はやはり必要なのだろう。Revised Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, edited by Mark Solms, published jointly by the Institute of Psychoanalysis and publishers Bloomsburyではtriebはdriveに訳されている。

昨日は 導入としてフロイトを読むということ自体について書かれた『現代フロイト読本 1』の北山修論文「私有化された「フロイトを読む」」を最初に読んだ。この本は日本精神分析協会の分析家たちがフロイトの論文をひとつずつ選んで書いた論文集でそれぞれのフロイトの読み方を垣間見ることができる。北山修も訳語の問題に言及しており、私が常々どうにかして「エス」を日本語にできないものかと思っているという話もした。

今はフロイトを読むための手助けがたくさんある時代、昨日は欲動という力についてはなんとなく理解したが「心的」っなに、と振り出しに戻ったような感じもあった。北山修がいうようにあっちゃこっちゃ行ったり来たり(北山先生はもっと洗練された言葉で書いている)しながら読めばふと自分でその軌道の先にでることもあるだろう。楽しもう。

まずは日曜日を楽しもう。

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ドキュメント72時間を見たり。

少しひんやり。昨日も夜は寒かった。信号待ちで隣にいた人たちは私よりずっと薄着なのにずっとなんでもない感じで立っていた。

昨晩、テレビをつけたらNHKのドキュメント72時間をやっていた。今週は「気仙沼・酒屋の物語」。おかみが「私の手から夫が流されていって」と口調も変えずに言ったあたりから涙が止まらなかった。いろんなことを思い出してしまった。お酒に関しては依存症や身体の病気という文脈だけでなく、様々な個人的なエピソードを聞いてきたが、漁の安全と豊漁を願う酒という文脈もあるか、と酒というものについてその成り立ちからあれこれ考えてしまった。私の生活に海は全く身近ではないから、東日本大震災の被害はなおさら呆然とするものだった。彼らはずっと喪失を生きている。はじめて震災のこと話した、とこの前会った友人が言っていた。その人の実家は被災地でご家族のことは時折聞いていた。でも私はその人がそ自分がその日どうしていたかをはじめて話したことに衝撃を受けていた。たしかにはじめて聞いた。東京であの地震を地続きで感じながら家族の状況を把握し、慣れ親しんだ土地を想像し続けることは遠くで地震の話を聞いた、という体験とは全く異なる。ドキュメント72時間は単なる断片とは異なるものを見せてくれるから前から好きだが、15年たった今の語りをこうして何気なく伝えてくれたのもとてもよかった。

旅好きの友人に色々教えてもらってなにも進んでいない旅準備が少し進んだ。やることというより考えることが多すぎて歩みが止まっているが各種締切を恐々確認せねば。今日もなんとか過ごしましょう。寒暖差で体調崩さないようにしましょうね。

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ニュースとか。

岩手県の大槌町の山林火災、延焼のスピードがすごく速いらしい。心配で眠れないのではないか。大槌町は東日本大震災でも被害が大きかったところ。どうかどうか被害が広がりませんように。政府はどのくらいこうした災害に心を寄せて具体的な対応を考えているのだろう。本当に今の政府、信用ならない。

いろんな深刻なニュースを見て辛い気持ちになってチャンネル回してたらスウェーデンのヘラジカの大移動をやっていた。慎重な動き。人間はもっと慎重になるべきだし、慎重になれると思うのだけど。本来弱肉強食の世界じゃないんだから。言葉使えるんだから。

この前、お散歩していたらたこ焼きさんがあった。「へー」と思う味のたこ焼きのポスターが貼ってあったのだけどそれがなんだったのか全く思い出せない。ビールのおつまみによさそう、と思ったのだけは覚えているがまだ朝だった。最近見つけた魚屋さんに「タコがいっぱい」と書かれた練り物が売っていて「へー」と思ったら他にも「イカがいっぱい」とか「エビがいっぱい」とかあって迷いに迷ってしまった。すごく旬のものが食べたいと思っていたのでホタルイカをとりあえず買って「エビがいっぱい」も買った。私はやっぱりエビが好き。ソウルで海鮮が食べたいが余裕がなくなにもチェックできていない。友人が色々教えてくれるのが本当にありがたい。日本で韓国料理屋さんに行くと結局参鶏湯ばかり食べてしまう。タッカンマリというのを教えてもらってレシピを調べたらすごく美味しそう!だけど参鶏湯となにが違うのかな?と思って調べたらレシピがシンプル。参鶏湯はちょっと凝ってるもんね。タッカンマリなら作れそうだけど本場の調味料で食べたいよね。大学生のとき、ケンブリッジの語学学校に短期間通ったとき、寮で仲良くなった韓国人の子たちはみんな自分の家の味の調味料(?)を持っていた。学校の先生もいて、私からするとそんなに年齢差があるように見えなかったのだけどみんなはその人にとっても礼儀正しくて、年上の人に対する礼儀作法が染み付いているのもすごいと思ったし、数年後には徴兵にいくことが決まっている友達にぶつけた理不尽さもそのガールフレンドの奔放ぶりも懐かしいが、今彼らと会っても同じような気持ちを掻き立てられるのだろうと思う。ソウルの街角で実はすれ違っていたみたいなこともありそうななさそうなだが、すれ違っても絶対気づかない自信がある。あれからものすごく月日が経った。当時の瞬発力や言葉を超えたなにかで通じ合う自由さは今の私にはない。精神分析状況だと長い訓練のおかげでそれらは自ずと発揮されるというか、発揮されない場合、それを逆転移として思考することが可能だが、それ以外の場面では思い出そうとしても思い出せないことばかりだし、せめて見てもいないことを見たとかいわないようにしたいという心がけくらい。

とにかく毎日安心して過ごしたいね。ため息まじりだけど良い一日になりますように。

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精神分析

イタリア精神分析とか。

曇り空。今日は気温が上がらなそうだから服装もちょうどいい感じにしていけばいいので楽。

昨日、イタリア精神分析協会Società Psicoanalitica Italiana (SPI)の精神分析家 Anna Maria Nicolòの思春期研究の本Developmental Ruptures: The Psychoanalysis of Breakdown and Defensive Solutionsについてもうひとつのブログで少し書いた。この本はネットで拾える範囲でしか読んでおらず、IPAジャーナルに載った著者の論文について書こうと思ったのだが、本のことだけで結構いっぱいになってしまった。アナ・マリア・ニコロはフロイトの多形倒錯をブレイクダウンを防ぐ一時的な防衛配置として見ているようなのでその路線は面白そう。クライン派からウィニコット的理解へと立場をうつしてきたらしいのだけど全体としては関係論的記述というかイタリアっぽい感じがする。

イタリアのPsicoanalisi e Socialeというサイトは社会に開かれた精神分析の実践を発信するプラットフォームという感じで興味深いのだけど、元はイタリア精神分析協会(SPI)の分析家やエンジニアや心理療法家たちが立ち上げたものらしい。今はODVというボランティア団体が運営していてメンバーも臨床家だけではなく、ジャーナリストや映像の専門家もいるみたい。今のトップページには浅野にいおの「ソラニン」の評ものっている。扱っているテーマの幅広さからイタリア精神分析の主流のフィールド理論が社会的実践を伴っている様子。日本にもこういう団体ができるくらいのムードがあればいいけどなかなか難しいね。こういう団体があれば災害が起きたときの募金とか支援活動もしやすくなると思うけど。

なんかやることの種類が多くてクラクラする。情報処理能力は確実に落ちているので別の何かに頼りたいが何があったっけ、自分に。とりあえず今日もそこそこ元気に過ごしましょう。

ワイルドに風に揺れてた
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精神分析

更衣、酒饅頭、人間関係

朝日がきれい。華やかさより強さが増して夏が近づいてきているのを感じる。

昨日は黄砂と花粉で辛そうな人が多かった。私も朝はクシャンクシャンしていたがあまり外にいなかったせいか大丈夫だった。それにしても気温が安定しない、というか春はこんな感じで過ぎていくのだろうけど着る服が難しい。日差しがあれば半袖がいいし、風があるとちょっと羽織るものほしいし、夜はさらに羽織らないと寒い。少しずつ衣替えをしてほぼ終わったけどこの時期のために残してある服もいくつか。薄手のシャツやTシャツに薄いコートやジャケットで出かけたいけどそれだと夜が寒いからパーカー被ったり結局なかなかの厚着をしている。風邪をひくのも嫌。

今朝はまた日光の湯沢屋さんの四色酒饅(ししきさかまん)から日光の四神の一つ、西方の白虎をモチーフにした白酒饅。形はいたって普通の酒饅頭だけどこう言われると特別な感じになる。これで白、黒、青、赤全部いただいたことになる。おいしいうえになんかご利益あるならもっといいよね。ご利益あるとかべつに書いてないけど神様のことを知りながらいただく行為ってお参りと一緒な感じがする、とか適当なことを言っていると叱られてしまうかしら。なにがなくともみんなに普通の平和な日々があるといいよ。神頼みより政治頼みだから選挙だっていってるのに毎日危機感を募らせるニュースばかり。本当に嫌になる。

自分が直接関わった場合にほんとあの人いなくなってほしいとか思うことは一時的で衝動的な感情として珍しくもないけど、直接的になにかを被ったわけでもないのに持続的に特定の誰かを排斥しようとなんらかの行為をしている状態は危ないと思う。いじめとかがそのひとつだし、特定の相手を常に称賛し、それ以外を概ね見下すことをナチュラルにやっている人は身近にもいる。その場合、どの程度関わるかは相手の行為の程度によると思うが、もしそういう関係にエネルギーを取られる場合は絶対誰かに相談した方がいい。距離を取るというのが一番いいけど、それが難しい状況もあるだろう。その場合でも一人では絶対抱えない方がいい。諦めずに状況をオープンにしていくことは大事。緊張感を感じる相手と友達ごっこする必要はない。ある場合はよっぽど大変な状況になっているときかもしれないので、やっぱり共有が大切だと思う。自分がする側になっている場合、孤独を否認するゆえに強者の立場にあるような錯覚で自分を保っていることが多いから誰かを頼る必要がなくなっていることもあると思う。なんか自分おかしなことしてるとどっかの片隅で思うのであればそれも誰かに相談した方がいい。自分が変われる可能性にきちんとかけた方がいい。自分と他人の区別をきちんとつけていく努力をみんなで協力していけたらいいのにね、と最近特に思う。

さあ、東京はいいお天気。雪国の雪はすっかり溶けるということはないのかもしれないけど桜も咲き始めたみたいだし、厳しい冬を無事に越えたことをみんなで喜べていたらいいなあ。青森とか地震が大きかった地域も。良い一日になりますように。

緑濃くなってる
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精神分析

地震

今朝もずっと地震のニュース。首相は「社会経済活動の継続」を呼びかけていたが今それをあえていう必要性ってなんだろう。これだけの地震大国で、これまでの大きな被害も知っている世代がそこから学ぶのではなく、見て見ぬ振りをし続けることこそ不安の現れだろう。この状況ならこうなるのが普通だろう、だから今は最低限この言葉かけを、この働きかけを、と当事者ではない方が心を砕くことが人間の心の基本的な作動と思っているが、どんな状況にあっても自分の不安を否認して他者まで視線を向けることをしない人はいる。それはそれで助けが必要な状態だと思うが、政治家がそれでは困る。社会経済活動の継続を危うくしている当人がこの状況で自分に言うべきことをメディアで外に投げるという権力の使い方は間違っていると思う。地震は後発地震だけでなく、これまで大きな被害を体験してきた人たちの記憶を揺さぶることもするだろう。自分だけじゃないから、自分より大変な人はいる、自分ががんばらなくては、と渦中にいる人が思わなくていいような物理的な介入を政治家たちには考え続けてほしい。自然災害は戦争のように防ぐことはできない。普通に生活しているだけの人たちが多く死ぬのを、環境が破壊されるのを私たちはずっと見てきている。だからこそ常に喫緊の課題であるはずなのにやめられる加害を正当化することばかりに時間とお金が使われるのはおかしい。自然災害を含めた環境問題に取り組むことをせず、まるで活動の基盤があるように振る舞うための椅子ではないだろう、政治家の椅子は。どうか被害が広がりませんように。自然以上に、人間が引き起こす被害が広がりませんように。

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精神分析

言葉とか料理とか。

今朝は少しひんやり。春のうっすらとした優雅な夜明けもいいな、と思えるようになってきた。そんな頃にはもう夏が立つ。なんでも気づくのが遅いな。でもまだ春の内。

内と外については土居健郎も書いているし、日本人の特徴を語られるときの補助線になりやすい言葉ではある。土居健郎は内と外についてたくさん語ったあとに、といっても便宜的なものでそんな確らしさがあるわけではないけどね、という様子で書いていた気がする。土居の文章も読みやすいが思考を追うのは難解。「甘え」さん独り歩きのせいでこちらが迷子みたいな感じがある。

多分いずれ関係してくるというか私が関係させていきたいと思っているだけだけど、今NHK Eテレ「100分de名著」ウィトゲンシュタイン特集をやっている。1回目を見逃して2回目をみたがこれだけコンパクトにする場合ここを取り上げるのかという感じがした。私が古田徹也さんの朝カルとかでの講義に出てウィトゲンシュタインを少し読めるようになったのだけど、Eテレのこの番組は誰を取り上げるときもなんとなく読めるような気分になってしまうからすごい。伊集院光と安部みちこの進行のおかげ。ウィトゲンシュタインの第2回も方言の話がとても面白くて、言葉は生活と密着しているということを再確認した。この土地でこの言葉を使うのはその土地で同じ言葉を使うのとは違うんだよ、ということを知っていることは大事。土地だけでなく、子供と大人の言葉の違いも文化の違い、時代の違いが現れる。「私が育った地域では」「平成生まれの間では」とかそれらの違いを意識した話し方をする患者さんはたくさんいるし、戦前、戦後というのが世代間伝達を考えるときのキーワードになることも多い。関係というのはほぼ言葉で成立しているので、子供の頃にこんなことをこんなふうに言われたということが何十年もその関係を規定している場合だってある。言語ゲームというアイデアは有用だ。この場合の「ゲーム」はウィニコットが「遊び」というときと同じく生活そのものと近い。

朝、ぼんやりしていたら料理の手順を間違えた。昨晩やろうと思っていたのを先延ばしにしたのだけど、昨晩だったら間違えなかったのかというとそれも怪しい。目が悪くなってレシピのみまちがいが増えているのだが思いこみも強くなっているのかもしれない。なんか変だな、と思っている場合、レシピを見直したら大抵「あーやっぱり間違ってた」と思いそうなものだが、見直したつもりで修正が効いていないということは「見たいように見る」状態になっていたのかもしれない。危険だわ。

今朝は日光のお土産「湯沢屋」の酒饅頭。やったー。日光に行ったときに前を通っているはずのお店だけどあまり覚えていない。参道にはたくさんお店があるから目移りしているうちに忘れてしまったのだろう。日光ラスクももらった。これはパッケージもとてもかわいくて味も大好き。私が日光に行ったときはこれをお土産にした。日光も特急で日帰りで行けるからとってもいい。GWとかはものすごく混みそうだけど。

そうか、もうすぐGW。出かける準備も発表の準備も何もできていない。生活整えながらがんばらないとだ。新しい週もなんとかがんばろう。

もこもこ
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4月19日(日)

今朝は相模原市緑区橋本のケーキ屋さんSUMI BAKE SHOPの桜フィナンシェ。桜色がストライプみたいに入ってて小さくてかわいい。このフィナンシェは硬め。この大きさだとこの硬さがちょうどいいかも。美味しかった。

私は大学が京王線だったから橋本駅って名前だけ身近なんだけど実際には数回しか行ったことない。友達のうちとハイキングと。私にとっては新しい駅というイメージ。駅前にきれいな図書館があって、とかいうのももうすごく前の話をしているかもしれない。この前、歳をとったと自覚するときみたいなテーマでいろんな人がポストしててどれも自分に当てはまっていてすごく面白かった。「この前」と話したけど30年前、みたいな。カフェとかで無料Wi-Fiに繋ぐとき聞かれる生まれた年にたどり着くまでにたくさんスクロールが必要とか。もうこの年になるとざっくり50代とかで細かい年齢忘れてるし、大体のことは乗り切れる胆力はついてきたとはいえ、身体の不調の話とメンテナンスの方法で盛り上がるのが常。

ここ数日は気温が安定してきたかな。ダウンからフリース、パーカーと上着も変わってきたけど夜、急に冷え込むことも多かったから薄手のダウンはいつもオフィスに置き上着して最近も数回着て帰った。本当軽くて小さくなって便利だから旅にもいつも持っていく。昨日はバタバタ動いていたら暑くなったので半袖のまま外に出たらちょっと寒かった。部屋の中で窓を開けていても外の気温そのものを感じるわけじゃないから難しい。バッグに突っ込んでいたシャツを羽織ろうかなと思ったけど歩いているうちに暑くなるか、とそのまま歩いた。ブロック塀の隙間から火を吹くように咲いているツツジとかもっこもこの白い山みたいななんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)とか品のいいハナミズキとか名前のわからないいろんな花たちもみんな素敵で歩きながらパシャパシャ写真を撮った。暑くなったらこんなのんびりと歩けないんだなと思いながらのんびり歩いていたら全然暖かくならなくてシャツを羽織った。羽織ると途端にちょうどよく、こんな薄い一枚でどうにかなる季節は最高だなと思いながらお買い物して帰った。

今日もスッキリ早起きできたのでお散歩しながら出かけよう。みたい映画も舞台もあるけど時間が合わないなあ。映画館を変えるか見る作品を変えるかすればなにかしらはあうだろうけど、結局合間合間にNetflixとか見てしまう。最近は「九条の大罪」を見ている。あまり何も考えずに見る分には面白いし町田啓太と柳楽優弥が好きなので見てるけど、ちょっと考えるとモヤモヤすることが出てくるドラマ。黒崎煌代の演技も本当によかったなあ、とそういう部分で楽しんでいるけど。

今日は日曜日。もう19日とか嘘みたい。本当色々どうしましょう。がんばりましょう。またね。

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ケーキ屋さん

今朝はパティスリーイシノの「秩父かぼすケーキ」。ちょっと不安定な丸みがかわいい。香りもよく美味しい。店主さんは秩父出身で外で修行を積んでからUターンで秩父に開業したとのこと。私が昔住んでいた烏山のケーキ屋さんでも修行されてたって。秩父にUターンしてきた人のインタビュー記事を読んだ。すごいなあ。秩父に帰ることを子供が喜んでくれて安心したという話もいい。子供の環境を変えることってとても気を遣うものね。自分だけだって余裕なくしてしまうし。

秩父は行きやすいからいつも人がちょうどよくたくさんいて私も好き。このパスィスリーイシノのお菓子は本店ではなくて西武秩父駅とくっついている温泉「祭りの湯」で買ってくれたものなんだけどこの「祭りの湯」ではいろんなお店の個包装のお菓子を一つずつ買うことができるのでとてもいい。食事もできるし。とてもいいのだけど、私は食事は地元に昔からある居酒屋さんとかでするのが好きだから「祭りの湯」ができたことで人の流れが変わり結構厳しいのでは、と心配になる。便利な場所ができるとウロウロしなくなるでしょう、私たちって。私の地元も私がいた頃は全く何もなかった駅の向こうにモールができたら「まち」と呼ばれていた中心地はシャッター商店街になってしまった。そのローカルさゆえに映画のロケで使われることはあるけれど。でも秩父の私が心配している数軒は結構クセが強いとか色々特徴があってそれを愛する常連さんもいるようなので大丈夫なのかな。私も個人で商売している身だから色々気になってしまう。

私をケーキ屋さんにたとえるなら精神分析が看板商品で、カウンセリングやスーパーヴィジョンが定番商品で、コンサルテーションが季節限定商品みたいな感じか。精神分析という商品を良いものにするために特別な修行を長年してきた。この看板商品は受け継ぎ受け継がれるものとして磨いていきたい。定番や季節限定はそこで得た学びとそれまでの臨床心理士としての経験から生み出されるから多様な商品なのでかなりいろんなことを試せる。外でのコンサルテーションは私が精神分析家であるとかカウンセラーであるとかはあまり関係なくそこでやることが私を規定する感じ。私側人のアイデンティティは揺るがないけど人に規定される部分があるのも悪くない。終わったあとに「先生ってカウンセラーさんなんですね」とか言われて「実はそうなんですよ」とかいう場合もあるからね。紹介文として知らされていることってそんな重要ではないらしい。「先生って精神分析家なんですね」はないなあ。あまりにマイナー。「精神分析って本当にあるんですか」はあるなあ。やっぱりマイナー。この15年くらいで大きな本屋さんの精神分析の棚はものすごく縮小された。本屋さん自体が縮小したりなくなったりしているというのも大きいけれど。昔はいろんな本をワクワクしながら立ち読みしてもっとワクワクした本をたくさん本屋さんで買えたのにね。日本は精神分析の地元でもないけど、日本の精神分析の歴史をつないでいけるようにがんばりましょう。お求めになる人の数は少なくても会う日数が多いのとそこで生じるインパクトはお互いに絶大なのでそこから生じるアイデアを使って多様な臨床もしていきましょう。いろんな道を歩くことで出会う驚きを楽しんだり、ショックを受けてもそれをじっくり味わうことでなにかをつかんだりそういうことしていきましょう、かね。今日は土曜日。いい一日になりますように。

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春の朝

ぼんやり。窓を開けたら鳥たちの声が聞こえはじめた。春の朝は冬の夜明けほど感動しないな。そんなの関係なく花々が鮮やかなのかな。夏の陽射しに耐えうる花、冬の寒さに咲ける花、色や音もその季節ならでは。秋は花がなかったとしても木々が鮮やかだし。今の新緑の輝かしさも素晴らしいし。それぞれの季節に似合う音の重なり合いやリズムがあるのもそういうこと。戦争なんかしたらそういうの全部失われて、ということは時間感覚も失われて、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚全て変わってくるでしょう。景色から色が抜け、平板になり、突然の大きな音に鼓膜がどうかしてしまったり、逆にナイショ話に敏感になったり、変な匂いが当たり前になったりいろんなことが変わってしまうでしょう。いろんな本や映像がそういうのを示してきた。今、まるで当たり前かのようにあるものやことや人を突然失うなんていやだ。みたくないものがたくさんあるのと本当にみえなくしてしまうのは全く別のことだよ。もう、毎日、政治に怒ってる。支配されるなんてまっぴらごめん。支配するのも嫌。いつのまにかそうしてしまう部分も知っているけどだからこそ別の道を探したい。

今期の朝ドラはみていないので「ばけばけ」でときが止まっている。熊本編は何も起こらない(ということは実際はないのだけど)ということで退屈に感じた人もいたようだが、ラフカディオ・ハーンが熊本でみたものを書いた作品を読むのは楽しく、ドラマでもうまく取り入れられていた。「停車場にて」がその一つ。これは土居健郎が「「甘え」の構造」で引用している。ハーンが驚いて書きつけたような日本人の心情がそこにあるらしい。心情とは違うか、心的傾向というか、いや、集団と個人の関係か。

今日もお仕事。仕事できる日々が奪われませんように。いろんなことを自分で決める猶予がありますように。相談しながらたくさん迷って決められないことも許容される時間をたくさん持てますように。昨日も書いたけどもう晩春。夏が来てしまう。気持ちよく過ごせますように。

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ウィニコットとラカンに関する本を読んだり。

鳥たちが賑やか。みんな朝早い。今朝はDélices tarte&caféの紅茶のクッキーを紅茶と一緒に。大阪のお土産。熱い紅茶を飲むと暑いね。

昨晩、ルイス・A・カーシュナー(Lewis A. Kirshner)の『ウィニコットとラカンに学ぶ 臨床的対話とその思想』(筒井亮太訳、日本評論社)をパラパラした。原題はBetween Winnicott And Lacan A Clinical Engagement。ウィニコットとラカンを両方取り入れながら実践をしている精神分析家たちの論文を集めたアンソロジー。

第1章「ウィニコットとラカンのあいだの空間で考える」の著者はデボラ・アナ・リウプニッツ(Deborah Luepnitz)。この論文はIPAジャーナルに掲載されたもので以前読んだことがある。

リウプニッツはToward a new Middle Group: Lacan and Winnicott for beginners. という論文も書いていてこれはIn M. Charles (Ed.), Introduction to contemporary psychoanalysis: Defining terms and building bridges . Routledge/Taylor & Francis Group. という主要な精神分析理論を紹介する入門書に収められている。

どちらもいろんな人がいろんなことを言っている本だけど、どこからでも読み始めることができる方がこの余裕なき時代にはあっているのかもしれない。精神分析を体験するには心の余裕を作るために時間の余裕も作らないといけないけど。

私はいつ始まるかわからない精神分析のために当時かけもちしていたいくつかの職場に事情を話して理解してもらって数年後に分析家から枠があいたけど使うか使わないかという連絡がきて一度はすぐに合わせることができずまた待ってまた連絡がきて今度は受けて、と余裕を作るにも時間が必要だった。ご迷惑をおかけしたにも関わらず暖かく送り出してくださった上司の先生方には本当に感謝しているし、常に相談に乗ってくれたさまざまな職種の友達のおかげとも思う。それに数年のウェイティングの期間も訓練目的ではないセラピーを精神分析家に受けていたので環境的にも気持ち的にもいろんな準備ができたのも恵まれたと思う。自分のためにそこまでやるかという感じもあったけどこれを生業にするのだからこのくらいはやると思ってやってきた。いまだに大変だったなあという気持ちが先にくるけど、精神分析家になってから今度の6月でようやく2年だからこれからだなあという感じ。この年齢でこれからがあるのはありがたいけど身体の衰えは着実だからがんばってもってくれよと願うしかない。臨床心理士資格の更新も5回したけど(25年やってきたということ)これはもう更新しないかもしれないなあ。してもあと1回だろう。それだってそれまで生きてるのかな、みたいな気分になるが平均寿命まではそれなりに長くあるので精神分析家としての人生はそこそこ長くあってほしいし、時間の中のさまざまな時間を自分で引き伸ばす努力をしていかないといけない。論文を書くとかで。大変だねえ。とりあえず今日も無事に過ごしましょう。良い一日になりますように。

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晩春

早くも晩春。蛙の目借り時という季語が好きだが最近それにぴったりの眠気があったかしら、と思うとない気がする。寂しい。昨日はイレギュラーな用事がありいつも迷う丸の内で知っている道だけ歩くように気をつけ、帰りはまさに春闌という景色の中を歩きながら戻ってきた。春日傘を使っている人もちらほら見かけた。私は晴雨兼用の傘を持っていたけど写真を撮るのに邪魔だからリュックに入れたままにした。平日の昼間は宴より小さなひとり、ふたりでソメイヨシノより遅く咲く桜の花の影でのんびりする人たちを見かけた。政治家はこの平和を守ってくれなそうだが私たちは守っていかないといけない。

子どもの頃は家のそばも通学路も田んぼや畑があったから季節の移り変わりはそこで感じていたけど日常的にお手伝いしていたとかではないから身体がそれを覚えているというほどでもない。GWに2回旅したのと鉄道七尾線の車窓に続く水田の風景はとってもきれいで、この時期になるとあの田んぼはどうしているかなと思い出したりはする。と同時に地震で隆起したり倒壊したりしたあの道やあの建物はどうしているだろうと思う。和倉温泉もだいぶ泊まれる場所が増えてきたとのこと。また伺いたい。

我が家の放っておかれがち花壇、いや放っておきがち花壇に昨年春菊の種を蒔いたが収穫が遅れ立派な茎に成長し花芽がついてきた。もう今年は花を咲かせてしまおうと思う。この時期に種を蒔くとしたら西瓜か?西瓜を植えたら案山子も立てるか。こんな小さな花壇だけどきっと鳥たちはやってくる。山椒の木だって植えたばかりの数年はアゲハの幼虫に食べられちゃってた。いまやいくらでもどうぞという感じの立派な木になったけど。昨日はヤマツツジにとまったアゲハを慌ててそばにきた外国の人と並んで写真におさめた。

先日、ケラリーノ・サンドロヴィッチと緒川たまきがやっているケムリ研究室の舞台を見に行った。サボテンの涙、と書こうとしたが正しくは「サボテンの微笑み」。でもこの芝居、たとえ「涙」と間違っても通じるとても悲しく切ない舞台だった。緒川たまきの無垢と愚かの境界線をなくす芝居はもう大好きすぎて今回も堪能したけど、嫌なやつを追い詰める不気味な芝居にもいいぞいいぞとなった。この作品のことは色々書けそうだけどもう色々話しちゃったからみんなの感想とかを読んで楽しんでいる。体験を話せるって本当にいいこと。でも体験の場が狭まったら話されることだって狭まるのだからほんと政府にはしっかりしてほしい。結局そこだが。資源を外国に頼らないとやっていけない国なのにどうして自分ならできるみたいな態度を取り続けているのか。どうして、って私たち国民を犠牲にすればいろんなことは不可能ではない(それでも可能ではないと思うけどね、全然)という前提を崩す気がないからだろうけど。現実にこんな大きな危機が訪れているというのに自分の生活だけは別、と思えているうちは突き進むのみか。本当にやめてほしい。もうっ!朝からなんだなんだだけど毎日なんなんだよというニュースばかりでしょう。そりゃ怒るよ。平和な朝を平和な昼を平和な夜を普通に過ごしたい。そのために色々考えることはそんなに難しいことなのかな。がんばりましょうね、私たち。とりあえず今日を。

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お菓子、グッド・ドクター、甘え

さっきまで面白いくらい鳥が賑やかだったのに少し遠くへ行ったみたい。今朝はいただきものの薄い黄色の柑橘と二宮の小さなケーキ屋さん「菓子の里」のレーズンサンドを熱い紅茶と。こういうのは間違いなく美味しい、とレーズンサンドを見るといつも買ってしまう。私の美味しいレーズンサンドの代表は小川軒の「レイズン・ウイッチ」。あと六花亭の「マルセイバターサンド」。新宿の地下道を歩いていると京王デパートの真ん中の入り口あたりで期間限定で有名店のお菓子を売っているのを見かけるのだけどそこに時々どちらも登場する。北海道のお菓子は北海道展とかよくやるし購入しやすいけどいつどこで見てもほしいお菓子がたくさん。バラで売ってくれたらもっといいけどそういうのは「菓子の里」みたいな街のお菓子屋さんで買うのがいいか。「菓子の里」のレーズンサンドはサクサクとしっとりがちょうどよくてとても美味しかった。絵本に出てきそうなお店だったな。たくさん歩いていると小さな素敵な出会いがたくさん。一方、最近旅先でのお土産やさんでは有名なお土産が一つずつ買えたりして自宅で色々試せるようになった。でもきっとまだ気づかれていなかったり地元の人には大人気とかのお菓子もあると思うし、お菓子行脚はやめられません。

この前、Netflixで『グッド・ドクター 名医の条件』を久しぶりに見たら話がとても進んでいた。そんなに長く見ていなかったのか。これは自閉症の外科医ショーンを中心とした医療ドラマ。患者との関わりを通じて浮かび上がるそれぞれの育ち、葛藤、そして成長をゆっくり描けるのはショーンが主人公だからこそ。ショーンの戸惑い、怒り、悲しみ、興奮、誰の手にも余る豊かな情緒がそれぞれの脆い部分を動かすし、それぞれのキャラを際立たせる。ショーンの一見奇妙な行動をチームのみながケアとは違う必要性と想像力で理解しようとする筋立てもいい。希少な病気を扱ったりもするのでそれも興味深く、人間の身体ってすごいし、それによってあらわになる人間模様も複雑だ。犯罪や信仰なども顕在化する場所だし。

信仰といえば土居健郎『甘え・病い・信仰』(創文社) で土居が引用した聖書の部分が面白かった。これは『土居健郎選集』全8巻のあとに出版された一冊。で、長崎純心大学キリスト教文化研究所における長崎純心レクチャーズ第3回1999年10月25日~10月27日の講義を加筆、修正した本。電子版もある。土居健郎は聖書も「甘え」で切ってしまう。「甘え」という概念を正確に理解しないと土居の言っていることもなんでもかんでも甘えかよとしか受け取ることができないかもしれないが、土居は概念を説明ではなく生成のために使っていることも強調していると思う。このくらい具体性を持った抽象概念の使い勝手は悪くないが適当に使えば概念としての価値は落ちる。臨床に使える概念として少しでも息を吹き込めればいいなと思う。

ここまで書いて眠くなってきてしまった。まだ時間はあるが電車が混む前に出かけよう。今日の曇り空に八重桜が映えるでしょう。皆さんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

モッコウバラ
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早起きとか枇杷の木とか。

寝ても寝ても眠い、ということは今日はないがまだいくらでも寝られそう。でも寝てばかりだと腰が痛くなるからね。と毎日なにかをしすぎると不調が生じるということを書いている気がする。

すっかり日の出が早くなって明るくなったからと起きてみてもまだ5時台。ここ数年といってもすでに10年くらい経っているかもしれないけど目覚ましがなくても早朝に起きてしまう。朝一番で精神分析やスーパーヴィジョンを受けていた年月もむしろ快適に早朝散歩しながら出かけたりしていた。人の少ない都会で昼間には誰も気が付かなそうな葉っぱや花や実をじっくり眺めながら歩いた。それがこの冬、数回寝坊した。自分で少しびっくりした。30代のときに働いていた精神科病院で老齢の看護師さんたちが「年寄りになると早起きしているんじゃなくて起きちゃうのよ」と迫力ある声でいっていた。私はその起きちゃうがとても早くにきたんだなと思っていた。大学生までは低血圧で朝全く起きられなかったのが血圧もどーんとあがった。朝からごきげんなのはいいがやっぱり長期間寝不足だったと思う。頭も身体もこころもちょうどよく動かして今日も疲れた~といっぱい寝て朝の光とともに起きることを自然にできるようになりたい。

分析家のオフィスに通うまでに枇杷の木があった。私は「今朝の枇杷」という感じでしょっちゅう話していたと思う。分析を終えるときは終わりの作業に数か月準備することが多いが、私の場合、約10年間の分析の終わりはとてもゆるやかに設定された。終わる話がなんとなくでてから一年以上かけただろう。それまでがあまりに大変だったから実際そのくらい必要だったと終わってから思ったが、ここで終わってもいいけどこういうことがあるからもう少しやろうかな、まあそうだね、みたいなことをのんびり話しながらやっていた。そのゆるやかな作業の日々のある日、枇杷が枇杷がとかいっていたらあっというまに一年経ってしまった、といったら分析家は笑った。シルヴァスタインの『おおきな木』(The Giving Tree)とは別の形で私の時間を整えていてくれたあの枇杷はきっとまだ日当たりのよい都会の道であまり日陰を作ることもなく、誰かに実をとられることもなく日々を過ごしているのだろう。そういえばそんな枇杷の下で、外国の人が枇杷のパックをもって食べていたことがあった。びっくりしたし楽しい気持ちになった。その人が今自分は枇杷の木の下にいると気づいていたのかどうかはわからない。言葉がわかればそんな話もきけたかもしれない。

今日はどんな一日になるのかな。いい一日になりますように。

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日曜日

よく寝た。春は疲れやすいな。いや、何も進まない理由を疲れているから、としているだけだな。この一週間の自分を思い出しても特に疲れる理由も疲れていた時間も浮かんでこない。忘れているだけかもしれないが忘れるくらいのものならね。とほほ。とほほ。春のオフィスに光があまり入ってこないせいかしら。結局なにかのせいにしたくなるけど明るいテラスみたいなところにいたってきっとごきげんになるだけでなにも進まないに決まっている。あー。でも実際、春の私のオフィスは薄暗い時間が多い。冬はきれいに日差しがはいってポカポカなのに。昨日は外に出て強い光に驚いた。朝はまだまだ柔らかい光だったけど一気に夏だった。今日は昨日みたいなお天気なのかしら。日差し対策も必要かしら。昨日はなにもしてなくて首の後ろがじりじり焼けるのを感じた。

昨日はすべきことを頭のすみにおきつつパソコンでkindleにはいっている本を再読していた。パソコンの前にいればやった気分になるとものでもないがいつでも取り組めるぞという心構えになる気がして、といってもそれで成功したこともないけれど。

再読していたのはH. D. (Hilda Doolittle)のTribute to Freud。これ邦訳がでているのだけどもうすごく高い値段でしか買えないみたい。原著は2012年に新版がでて、序文をアダム・フィリップスが書いている。ということは古典として読まれるべき本という位置づけなのでは、と思うので日本でも新訳がでてもいいのかもしれない。アダム・フィリップスは妙木先生が一冊訳してるけどほかは訳されていないのではないかな。彼はウィニコットのこともたくさん書いているので私はチェックしてるけど。彼の対談とかもYouTubeでたくさんみられるのでよくみている。英語よくわからないけど本屋さんでやるイベントとかだと背景も含めて興味深い。

今日は仕事して遊んで仕事しての日曜日。もういよいよ色々まずいので進めましょうね、自分。がんばったら絶対あとが楽しくなるって経験はたくさんしてきているのだからがんばろうね、自分。みんないい一日にしよう。

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土曜日

今日は土曜日。いいお天気。東京は夏日になるって。突然だ。昨日も風が強かった。八重桜もどんどん散る。春の薄い空の桜を写真に撮るのは難しい。自分の眼で見ているようには撮れない。濃い八重桜なら、と思ったけどそれほど変わらなかった。梅の実もあまりに緑で葉っぱとみわけがつきにくいので撮り方に工夫がいる。チューリップみたいに地面をとる分にはきれいに撮れるけど空の光は難しい。

NASAのアルテミス計画、もう帰ってくるんだ。もう、でもないのか。月は遠いね。無事でなにより。月の裏側と表側ってどの位置との関係で裏とか表とかわかるんだろう。またJAXAで勉強せねば。

昨日の街歩きは新宿ではなく、朝早くに少しだけ遠出をした。たけのこごはんとたけのこと蕨をもらって食べてからでたのに朝ごはん二回してしまった。お昼は余裕がなかったからちょうどよかったかも。食べ過ぎると胃も痛くなってしまうから気を付けないと。さてさて普段の移動範囲が狭いからちょっとでも遠出に感じられるのはお得。ちょっと足を延ばせばすぐに知らない町だし。出勤時間の中山道を少々。あ、知らないと思っていたら前に行ったことがあるよ、といわれた、ということもしばしばだけど、街歩きはいつでも楽しい。昔の人は何時くらいが出勤時間だったのかしら。都会の現代人は早いよね。続々と駅に流れこんでいく似たようなスーツ姿とすれ違いながら不思議な気持ちになった。今日は土曜日だから電車も少しすいているね、朝は。今日は紫外線にきをつけねば。すぐかゆくなってしまうからね。

昨日、いくつか大切なことを思いついてメモしていたのだけどなんだったか。ノートをみればわかることだけど文章にしていないからみても思い出せないかもしれない。臨床上の気づきは繰り返し生じるからきっとまた同じこと考えるでしょう。期待しよう。今日もがんばりるれろ。

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精神分析

金曜日

今朝も風が強い。開けた窓をすぐに閉めた。昨日は風に吹かれながら散歩した。なんかいろんなものをすいこんだ気がする。基本的にマスクしてるけど。

昨晩、枯れ木だった木に葉っぱがたくさんついててびっくりした。本当につい先日まで枝には何もなくて鳥の居場所になっていていい写真がたくさん撮れたのに。新緑も今だけの色だから素敵だけど。

新年度になって疲れている人が多い。そりゃ疲れるだろうというシステムは変えていったほうがいいが改良の結果が今だとしたらこんがらがりようは無力感につながる。大変なことだ。少しずつほつれた糸を、とやる余裕があればいいが。

なにか仕事を頼まれるたび自分が意識してこなかったあれこれに気づく。私の得意分野と思われての依頼なんだろうけど仕事としてやっているものは本当に一部なのでいざそれを仕事にとなると切り替えが必要。でもなんでも仕事になる可能性があるという構えで取り組んでいたらいい仕事できなそうし。まあいいのかな。

この風で雨まで降るのは嫌ね。昨晩、帰り道、急に雨が降ってきて慌てたけどうちの方は降っていなかった。今日も降るなら傘いらない程度であってほしいな。良い一日になりますように。

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精神分析

春塵、イメージ

陽射しが強い。でも春の空は白い。いろんなものが飛んでるから光が拡散しちゃう。拡散とはいわないのか。散乱かな。

春塵や東京はわが死にどころ 鈴木真砂女

春塵やマクドナルドの黄なるM 岸本尚毅 

先日から移動時間は村松武司『朝鮮植民者 ある明治人の生涯』(皓星社)を読んでいる。砂ぼこりを感じながら。「植民者」という耳慣れない言葉が使われている理由も聞けばなんだか重たい。岸政彦の生活史シリーズのおかげで同じ地域で生活してきた人でもそれぞれ全く異なる語りになるのは多くの人が驚いたことと思うし、同時にその語りの集積がいろんな「同じ」を浮かび上がらせるのも多くの人が目撃したことと思う。村松武司『朝鮮植民者 ある明治人の生涯』は、村松が母方祖父の浦尾文蔵から話を聞き、そのノートに基づいて書いたものだ、という以外にまとめようもない。ある人の生涯を要約できるはずもない、という当たり前のことに気付かされる。今度ソウルに行くが、彼の足取りとどこか共にするところもあるのかもしれない、と思いながら読み進めている。「イメージと違う」という言葉があるし、それが自分に向けられることもしばしばだが、そんなとき私は、そんなの当たり前だろう、と心で呟く。自分が描くイメージを豊かに広げ、別の世界へ飛んでいけるのは素敵なことだが自分のイメージに合う、合わない、というのは特に何も、それ以上のことはない、という感じがする。

精神分析は特に目的もなくその人の自由連想(それが自由な連想になるのはかなり経ってからとはいえ)を聞き続ける仕事なわけだが、そこであるイメージが浮かんでもそこにとどまることは私はあまりない。浮かんでは消え、突然思い出されては忘れ、ということを繰り返しながらすぐそばのその人、患者にとっては切り離すことのできない自分自身の現実の輪郭がはっきりしてくる。それはもはやイメージではなく、イメージを作り出す基盤となる身体で、ようやく「自分」になるということだろう。

今朝は二宮の小さなかわいいケーキ屋さん「菓子の里」の小さなパイナップルのケーキ。ふわふわで美味しかった。二宮は駅からすぐ吾妻山公園という菜の花と桜がとてもきれいな公園に登れるのがいい。公園を出て散策していたらとてもかわいいお店を見つけてつい入ってしまったのが「菓子の里」。昔ながらの、という感じで小さな空間にぎゅっとかわいいお菓子たちが並べられている中にいるのは短時間でも至福。色々欲しくなったけど色々我慢して色々買った。

今日は気温はどうかな。最近、夜が本当に寒いけど今夜はどうかな。平和を願える穏やかな一日になりますように。

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精神分析

春、水曜日

いいお天気。春。太陽の位置が変わって早朝の部屋の雰囲気も変わった。昨晩は寒かった!一日のなかの気温差がすごいね。

平日は寝不足が続くのがきついというか身体によくないので食べ物とかほかの部分でどうにかしなくてはいけないけど今週は筋トレもできていないし順調にお菓子を食べることはしているし。意志を強くもちたい。四月ももう1週間以上すぎている。新入生たちはまだバタバタかな。学校のシステム、特に大学は難しいね。私の頃はまだわかりやすかったと思うのだけど。一人暮らししながらでもそんなに混乱することもなかった気がする。担任制で手厚かったからかな。みんな少しずつ慣れてくるから慌てずに乗り切ってほしいな。

なんか政府にみはなされた国民みたいになっているというか政治家だけが国民みたいな?なんだそれ。メディアは当たり前のことをいう機能を失っているしもう色々ダメダメだよね、日本。日本だけではないけれど。今日も国家議事堂前では平和憲法を守るための緊急アクションがある。生配信もある。政治家のみなさんにはなんとか良心を取り戻してほしい。彼らなりの良心ではなくてもっと普遍的な。という場合の良心って?哲学者のみなさんはなんらかの答えをそれぞれお持ちだと思う。そもそもそれってなに、というところに関心を向け続けることはとても大変なことなのだろうね。

お花の時期は寄り道必須だけどいつもの道を一本ずれるだけで知らない景色に出会えるのだからいいよね。同じ道だって季節によって見え方は変わるから歩くって楽しい。この前歩いてるときに「ああそうか」と思うことがあって「ちょっとアイデアが浮かんだからメモしていい?」と止まったら相手も「自分も今曲思いついた」とのこと。お互い一緒にいても別々の作業をしてるもんだね。そしてこうして重なり合う。再現できるほどに曲思いつくってすごいな。昔、作曲の宿題があってなにがなにやらで家族にやってもらったけどあれは素敵な曲だった。ああいうのは才能だから宿題なんかにしないでくれよ。私だって再現できない鼻歌なら日々量産してるんだから。

またどうでもいいことを書いているが今日も長い。でもいいお天気で嬉しい。北国の春も暖かそうな映像が増えてきた。みんな身体に気をつけてがんばろう。どうぞ良い一日を。

梅の実
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精神分析

言葉の責任とか

今朝も暖かいけど空は白い。春の曇空は雲がないの?今日はずっと曇という予報とお昼過ぎくらいまで雨という予報と社によって違うみたい。春の天気はそんなもんよね。

朝のお菓子。秩父で買ってきたお菓子はこれでおしまいかな。玉木屋さんの「秩父 よいとこ」。秩父産の太白芋というさつまいもを使用したほっくりお菓子。緑茶と。優しい甘味で美味しいでござる。私は特急好きなんだけど西武池袋線の特急ラビューは特に好き。池袋で既に楽しい気持ちになれる。山に行くときは朝早いからコンビニでお菓子を買って乗車。ちょっとゆっくりすれば池袋駅構内で色々買えて楽しいのだけど秩父にも美味しいものはたくさんあるし、ハイキングのあとに食べる楽しみは取っておかないとだからね。

しまった。朝から気持ちだけ遊びにいってしまった。平日になると仕事以外何もできないけどやらねば。昨日もあっという間に終わってしまったからな。新宿から歩くくらいしか動いてないかも。

毎日、自分の言葉の使い方だけでなく使われ方に関して思うことが多い。自分の都合に合わせて他人の言葉を使いたくなるときは相手に責任を預けていると考えることもできる。もちろんそうでない場合もある。自分の感覚や情緒が言葉になるまでの距離は相当遠いはずなのに言葉って雑に使われがち。かなり長い沈黙を自分の言葉と共に過ごすためには文学作品を読むのがいいと思う。文学作品の言葉はこちらがたやすく使えるようには書かれていないから。要約とか感想とかも求められていない限りはする必要もないし、書き言葉がもたらす衝撃に対して反射的に言葉にすることなんてほぼなくて(驚きの声をあげたり涙が急に出ることはあってもね)沈黙を深めることでその感覚と対峙することの方が多いから。私の場合は。

今日もそんなこんなあんなな色々を考えて過ごすのでしょう。自分の言葉に責任をもて、みたいな超自我的な言い方はしないけど、言葉には責任が伴うね、ということは共有したい。

雨降らないといいなー。曇のままいこう、東京の空。良い一日になりますように。

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精神分析

散歩とか舞台とか邦画とか。

空が白い。東京はこれから晴れるらしい。昨日は資料整理していたら11時くらいにおなかがすいてしまい、早めのお昼でもしようかな、と歩きだしたらごはんより散歩みたいになってしまい、またもや春を堪能。桜は葉桜になり、花びらがほかの木にくっついて別の花のようになり、ツツジもハナミズキも咲き始め、新緑がとてもきれいだった。今だけの色。そういえば別役実の脚本にピクニックの話があった気がする。「うわー、きれい」とのんきな気分が一転して別の「うわっ」に変わるというか言葉を失うというか。別役実だからたぶんきっとそんな作品。

別役実を思い出したのはケラリーノ・サンドロヴィッチが別役実の文体はもはや血肉と化しているとポストしていたからだろう。ケラさんならそうだろうなあ。すごい。あれは青山円形劇場最後の公演だったか、別役実が体調を崩し、新作ではなく旧作から選んでのケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の舞台があった。円形は本当にいい劇場だった。こんなに長く使わないのなら使い続けながらあとを考えればよかったのに。それはともかくケラさんと別役実は本体が似ているのだろう。特に当時とそれ以前は。私も別役実の『別役実のコント教室: 不条理な笑いへのレッスン』などの本を愛読していた。あの怖さはなんというのだろう。怖さは怖さなのだがそれまでの景色が一気に現実味を失うような怖さをあの短さで書けるのは本当にすごいと思う。ケラさんの最近の舞台は別役実とは違う明るさの不条理を描いていると思うけど日常のよくわからない敵意の応酬よりずっと平和で本当に面白い。不条理とナンセンスにあふれた「世界」になら協力したい。

人間が人間をコントロールできると素朴に信じているような世界はまだ「世界」になれていないと思う。世界はそうできていないからいろんな可能性をひめていて、だからいろんな人がいて、だから楽しいことがたくさん起きるはずなのに、今は狭く狭く、自分がみえる範囲だけなんとかなってればいい、みたいな感じでしょう。それはまずいでしょう、という人には精神分析はますます必要ともいえるけど、そういう人は多くないから今がこうなっているわけなので精神分析を求める人はますます減るのかもしれないね。が、しかし、多くの人に不要といわれようと必要な人がいるから世界中で受け継がれてきた学問であり治療法ではあるので、なぜ生き残ってきたかを言葉にしていくことは大事。私は精神分析を受ける人と精神分析家になる・であることを試みようとする人の相互作用が、異なる言葉が共有できる言葉になる基盤を作り、そこで伝達されてきた言葉を守ることにつながっていると実感しているので、そんなようなことを今度ソウルで話してくる。実践を伴ったことで実感とともに書けることは増えている。でも英語だと通じるか不安。日本語でも不安だけど。通じたらいいな。演題が通ったということは少なくとも一部の人には通じているわけだしがんばっていきましょう。とにもかくにも、今いる場所や相手に憎しみを抱いたときに、そんな自分は嫌だ、と思えること、そんなときに世界の広さや見えなさに恐れより希望をもてること、そういう素朴な好奇心に協力したい。

週末の事例検討会でも言葉の選択と使用、それまでの時間で生じていることについて考えていてやっぱりすごく興味深いなと思った。その人を、私たちを表現する言葉を模索していきたい。

最近Netflixで、見たかったけど見ていなかった邦画を2本みた。一本は『ナミビアの砂漠』。とてもいいのだけど、画面が揺れるから酔ってしまって一気にみることができない。私はああいう撮り方はとても苦手。『リリイ・シュシュのすべて』もそうだったよね。きつかった。『ナミビアの砂漠』に関しては河合優実の身体の使い方だけで十分ではないか。あの歩き方、走り方、声の出し方、すごく面白い人物造形だと思う。

もう一本は『あのこは貴族』。ポスターが素敵で門脇麦も好きだし見にいきたったけど逃してしまったから配信があって嬉しい。すごくいい映画だった。高良健吾はああいう相手役うまいよね。ああいうっていうのは役どころという意味ではなくて、女の邪魔をしない演技。しかし、格差ってすごい。それぞれがナチュラルに少しずつおかしなことしているのは格差とはまた別の話かもしれないけど、すりこまれているものの強力さよ。華子も美紀もそれぞれにああいう友達がいてよかった。今やっている映画もいくつかみたいのがあるのだけど時間が全然合わない。テレビでやってくれるといいな。

今日は月曜日か。また新しい一週間がんばりましょう。

桜の花びらが別の木の花に。