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無力

人との「つながり」がいかに理不尽なものか、私はわりといつもそればかり考えているような気がします。コロナ禍では特にそうです。そのせいか何かと押しつけを嫌います、今は特にかもしれません。もうちょっとゆっくり考えさせてほしいと思うこともしばしばです。自分の押し付けがましさを棚に上げてと言われるかもしれないけれど、少なくとも私は治療者としてはそれに対しては意識的なほうだと思うのです、多分(自分のことは自分ではわからないのでまだ訓練中の立場です)。

ウィニコットという英国生まれの精神分析家がいます。

彼は『情緒発達の精神分析理論』という本で「交流することと交流しないこと」について書きました。

英語だとCommunicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites (1963)

書名はThe Maturational Processes and the Facilitating Environment: Studies in the Theory of Emotional Developmentです。

ウィニコットは英語で読むことが大切だと思っているのでがんばって英語でも読んでいます。

冒頭にはKeatsがBenjamin Baileyに当てた手紙からの引用があります。

Every point of thought is the centre of an intellectual world (Keats)

ウィニコットもたくさん手紙を書く人だったそうです。そしてこの文章は私がこの論文で最も好きな箇所で再び繰り返されます。

I suggest that in health there is a core to the personality that corresponds to the true self of the split personality; I suggest that this core never communicates with the world of perceived objects, and that the individual person knows that it must never be communicated with or be influenced by external reality. This is my main point, the point of thought which is the centre of an intellectual world and of my paper. Although healthy persons communicate and enjoy communicating, the other fact is equally true, that each individual is an isolate, permanently non-communicating, permanently unknown, in fact unfound.

いつも考えていることの大半はこの文章に集約されている気さえします。ウィニコットが何を持って「健康」とするかはともかくいわゆる「普通」と言い換えてもいいかもしれません。

肝心なのはthe other fact以降です。an isolateである私たち(=私)、これを維持することは生きているということの本質をなしているように思います。

コロナ禍において断たれたつながりは私に改めてその理不尽さを知らしめました。コロナというウィルスは誰のせいでもなく広がりました。そしてそれに対する無力に耐えられなかった集団化した思考の行動化によって私たちは無力でいることさえ許可が必要になった気がします。それもまたひどい無力感の現れですが。

偽りの「つながり」や「連帯」がan isolateである私たちを、本来誰からも見つけられることのない不可視であるはずの私たちを剥き出しの状態にしたともいえるでしょう。

今はただこういう抽象的な言い方しかできません。もちろんこれは具体的な体験に裏打ちされている感覚です。しかし精神分析は渦中にあるものがいかに潜在性を帯びているかに驚かされてきたはずであり、その事後的な発露を待ち続けるような学問でもあると思います。

だから私は判断を最大限保留したいと思っています。それは思考や情緒が無駄に波立つことを抑えるためではなく、むしろ逆で、刻々と時は過ぎ、老いていく自分にはその時間を同質に引き延ばすことなどできないと感じながらその無力にとどまることが大切なように感じるからです。

それぞれの「孤立」が守られること、私のそれを私自身が裏切らないこと、不安な毎日が続きますがこの無力を抱え込みながら過ごすこと、まずはそこからと思っています。

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『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』からの連想

吉川浩満さんの『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)が即重版決定だそうです。パチパチ。おめでとうございます。

ちょうど「食い違い」や「論争」について考えていたときに再読の機会を得たのは幸運でした。というか、これらは常に身近すぎて考えざるを得ないことなのですが。

この本は2014年刊行の名著の文庫版です。生物の進化を「生き残り」ではなく「絶滅」という観点から照らし直す本書、サイズと装丁はかわいらしいですが、増補新版ということで収録された書き下ろし付録「パンとゲシュタポ」のインパクトもすごく、直線的な思考にうねりをもたらしてくれます(私にはありがたいことでした)。

やはりこれは読まれるべき本です。

私はなんでも精神分析を通じて考える癖があるのでバイアスがかかっていると思いますが、正反対の読み方とかはしていないと思います、多分。でも自信がないので一応その可能性は残しながらの再読と連想です。

ここではただ連想を書いているだけというか、この本を読んだら結局また精神分析のことを考えてしまったというだけなので、本来なら省いてはいけない文脈を省いてしまっています。

だからぜひ読んでいただいて共有したいのですが、この本に登場する科学者たちの「個人的事情」=「学問=科学と人生の無関係の関係があらわになる場所」=「「ウィトゲンシュタインの壁」が立ち上がる場所」は彼らがそこで体験した引き裂かれるような痛みを感じさせます。

そしてそこを私たちが目指す場所として位置付け、私たちの態度を問い、May the Force be with you(そうは書いていないですが)と著者は祈ってくれているようです。

おそらくこの本を書くこと自体、その痛みにどうにか持ちこたえるプロセスだったのではないでしょうか。今回の文庫化を期にさらに多くの方がこの本と共にあらんことを、と言いたくなります。ダークサイドの話は今回書き下ろされた付録「パンとゲシュタポ」をぜひ。

さて、すでに別のところで呟きましたが、吉川さんが終章で示した「理不尽にたいする態度」(文脈必要ですが突然取り上げます。すいません)はあれかこれかではない思考、簡単に言えば多様性を集団が維持するための手がかりとなるように感じます。

私たちは「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」同士、互いを少し侵食しながら語らうことをやめられないでしょう(今「寄生獣」という漫画を思い起こしましたがそれはまたちょっと別の話ですね)。

だからこそ「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という「理不尽にたいする態度」はたとえそれに対して勝利を謳うものがいたとしても「負け」にはなり得ず、自分が生きるため、同時に相手の内側で蠢き続け動かし続けるための動力として機能するのではないでしょうか。

私は精神分析を「信頼」し実践している立場なので他者の体験あるいは出来事に大雑把な言葉を与える人には「執拗に」物申したい気持ちになることが時々あります。実践においては私は物申される立場でもあります。

精神分析においては自分の分析家がその対象として最もふさわしく、自分の情緒は分析家の身体とこころ(転移ー逆転移の場)を通過して自分に帰ってくるため(おおよその対人関係はそうかもしれませんが)、最大限自由であろうとするならばそこが安全ということで、カウチ 、自由連想という設定の必要性もそれと関連しているように思います。

同時に、最大限自由であるということは、そこが危険で苦闘の場にもなりうるということでもあり、カタストロフィックな体験によって自己が変容するというモデルをとるならば、その場は常に両方の性質を持つと考えられるでしょう。

ちなみに本書においてカタストロフとルビがふってあるのは「大量絶滅事変」であり、「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(ルビはイノベーション)のための作業場(ルビはワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ルビはディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである。」(p78)と書いてあります。規定はプロデュースなのですね、なるほど。

精神分析においてカタストロフは自分の内側で生じます。

そして、そこでの体験をトラウマにせず生き直しの機会として体験するためには実在する第三者の介入に対して脆弱ではない、二者関係における第三者性をお互いの内側に宿らせることが必要になると思われ、そのプロセスは必然的に長期にならざるを得ないかもしれません。

さらに、精神分析における出来事は常に事後的で予定調和はあり得ないという考えを維持するのであればそこは名付けようのない場所であり、現象の描写にしかなり得ないはず、と私は考えて文章を書いたりしています。

突き当たる壁をなかったものにせず、そこに留まろうとするプロセスにおいて両者の間に常に蠢いている他者、私はこれが「理不尽にたいする態度」が形を得たものとイメージしました。対話を志向するとき、そこを別々の二人の場とみなすのか、互いの一部が重なり合う場とみなすのか、前提はプロセスを左右するかもしれません。

そしてウィニコットが言ったように、という連想になっていきそうですが、時間がきてしまいました。再び良書に出会えたことに感謝します。それではまた。