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3.11、BLUE GIANT

3月11日。昨晩、NHKスペシャルで「語れなかったあの日 自治体職員たちの3.11」をみた。またもや本当に何も知らなかったという感覚を強くした。ただただ言葉をなくすのみだがそもそも彼らが「言葉にならない」ということを私が言葉にできると思う方がおかしいのだろう。語ることが彼らをもっと辛くすることだけはないように、それはこちら次第でもあると思う。どうか、どうか、と祈ることも憚られるがとにかく忘れないこと。現地で受けた衝撃をいまだ思い出すにも関わらず心がけなくては想起が難しくなっているのか、と思ったりもするが想起と忘却はセットなのだろう。どうせ死ぬのだからみんな忘れて前に進もうぜ、とかみたいなことを言えるのは互いに忘れられないからかもしれない。

昨年公開された映画『BLUE GIANT』をNetflixで見た。とても見たかったので配信されてすぐに見た。昨年は柳樂光隆の記事をたくさん読んで大好きだったジャズをまた好きになった。この映画の音楽とピアノ演奏を担当しているのは上原ひろみ、素晴らしいサントラでそれはすでに何度も何度も聴いていた。物語の内容よりもドラムを石若駿、サックスを馬場智章が担当しているということでどうしてもみたかった。新宿PITINNで彼らの実際の演奏を聴いてすでにファンにもなっていた。たとえそうでなかったとしてもこの映画から彼らのファンになっていたかもしれない。そのくらいいい映画だった。後半ずっと涙が止まらなかった。昨年は数年ぶりにBLUE NOTEにも行った。名前は変えているが映画にも登場する。特別な場所で特別な音楽を聴くことを今年もできたらいいな。そのためにもがんばらねば。その前に課題山積み。体力もつけつつがんばろう。

東北にも能登にも早く暖かな春が訪れますように。

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ジャズ

昨晩は大きい地震があった。みなさん、ご無事だろうか。

ずっとチック・コリアを聴いている。生きているのか死んでいるのかわからないほど、というより、ずっと生きているような錯覚を持っていたことに彼が死んで気づいた。いや、実際生きていたんだけど、ほんの数日前まで。

まだ79歳だったんだとも思う。まだ若いじゃないか。

私が初めてCDで聴いたジャズは家にあったマイルス・デイヴィスだった。チック・コリアのこともそれで知った。

大体のCDはレンタルの店にせっせと通ってカセットテープにダビングしてウォークマンで聴いていた。ジャズやロックはイトーヨーカドーの一角だったか新星堂だったか輸入盤を安く手に入れることができ、バイト代でせっせと集めた。

東京に出てから多くの時間を費やしたのもレコファン、池袋HMV、シスコ、渋谷タワーレコードなどだった。新宿レコファンでバイトしたかった。よく通ったカフェもずっとジャズが流れていたがあれはどこだったか。

日本での公演情報も目にしていたけど当時の私には高かった。ブルーノートには憧れ続けた。今思えばハードロックのライブにはすごくお金をかけたのだからチック・コリアもいっておけばよかった。大人の世界と思って敬遠したのだろうか。

BGMとして聴いていても時折焦燥感をもたらすのが私にとってのジャズだったけどジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、そしてチック・コリア、彼らは違った。聴き続けることができた。

生き続けている、そういう錯覚は聴き続けることができるという身体感覚と無関係ではないだろう。数年経ってチック・コリアの名前を聞いたときに「あれ?亡くなったんだっけ」とか言いそうだ。

昨晩のような地震があると、3月11日が近い、という感覚とともに過去に再接続される自分がいる。誰かの死を抱え込んで生きている、という感覚は以前このブログで墓の俳句と土居健郎に触れたときにも書いたと思う。

こころを抱えこころに抱えられて生きている。

地震が続きませんように。