カテゴリー
未分類

白湯、頭痛、ポリフォニー

白湯。これで「さゆ」って読むの面白い。「お湯」と同じではないのか、と思うけど一度沸騰させるのが違うとか。外国の甘いチョコレートと。白湯、あっついまま飲んだら白湯じゃなくなっちゃうけど飲んでしまってあちちってなってる。馬鹿だな。

頭痛持ちになってからだいぶ長くなってきてあまりに痛さに夜中起きてしまうこともあったり日中も歩くのが辛くなったりするのだけど慣れてくると苦痛に苦笑いが混ざるのです。どっちにしても「苦」ですけど。最近は頭に頭痛用のふっとい輪っかが嵌められたような痛みが多いのだけど寝ぼけてると外そうという動きを手がしてしまったり。それを覚醒している部分で「おいおい、とそれとれないやつですよー」とツッコミ入れたりしてる。こういう状況に「おいおい」だぜ、と思っております。一方でこんな痛くてもこんなくだらないならやっぱり結構大丈夫じゃね、と思ったり。今のところ脳の大きな異常ではないって言われてるけどそれもMRIとかで見える範囲ではだからどこでどうなるかは本当にわからないものです。

ポリフォニーという言葉を使って文章を書いたついでにそういう音楽ばかり聞いてる。小さいときから一番耳に馴染んでいるのはクラシック。特にオーケストラだからいろんなことが同時に起きている感じの不穏さとか華やかさにはドキドキしたりワクワクしたり。私は楽器の才能があまりにも乏しく演奏に混ざることはできなかったけど聞くのは誰にでもできる。今の時代はなおさら。今日も面白い音楽に出会えたらいいな。みなさんにもいいことありますように。

カテゴリー
未分類

バスで、とか。

頭があちゃこちゃ大変。お湯がクツクツ。とちおとめパクパク。今日もミントティー。昔は苦手だったのにね。

なんか疲れやすくて乗り物を使うことが多い。普通は使うのだろうけど。昨日は小さなバスに乗った。大きなバスにも乗った。今小さなバスちっこかったな、と思い返していたらその前に乗った大きなバスの運転手さんのデッカくて早口な声がかぶさってきた。バスって外の人にも放送が聞こえるようになってるでしょ。あれっていつから?バス停にいると私が乗るバスがやってきた。何やら聞こえる。いつもバス停から少し離れて止まるバスが多いバス停なのでどうやらそのことらしい。乗った。乗ったのは私一人。席は満員。二人掛けの席は半分ずつ空いているところがあったけどもっこもこの私がぎゅーぎゅー入るのは申し訳ないのでいつも座らない。運転手さんの「発車します。危ないのでおつかまりください。」の声がデカくて早口で慌てて手すりを掴んだ。この運転手さん、ちょっと慌てん坊タイプでお知らせがないとバス停もないかのように突っ走ってしまう感じで一回慌てて止まってた。でもそういう時の態度が「あ、すいません、止まります」ってなんだか自然で、なんか安心した。運転手さんが焦った感じになっちゃうとこっちはもっと不安でしょ。私はのんびり運転手さんのときでも自分が降りるバス停をお知らせするのを忘れたりするから降りる直前だけちょっと気張ったけどね。というか、大抵は誰かがピンポン(ではないけど)押してくれるバス停なんですよ。なのにこの前気づいたら通り過ぎてて「えー!!」となった。私が押さなかったからなんだけどね。悲しかった。そういえばコロナ禍の頃かな、コロナとは関係ないと思うけど、バスの運転手さん、座ってとかつかまってとかつかまってくれないと発車できないとかすっごくたくさん言っててご本人も言われる方もなんかイライラした感じになっててこりゃ大変な仕事だな、と思ってたけど全然なくなった。あれは逆効果だったかもしれないね。よくデパートとかのエスカレーターとかで「よいこのみなさん」って呼びかけがあるじゃないですか。以前「「わるい子のみなさん」っていった方が注意引くのにね」と言ったら笑われた。そういう歌あったよね。「ねないこだれだ」の論理(?)でいえば「エスカレーター走って登っちゃうこだれだ」となるか。これはくどいね。小学生にもなれば「よいこのみなさん」と言われた悪いことしたい子は「よいこじゃねーから」となるし。でもまあそうやって注意が耳に届くこと自体が重要というのはあるね。今日もどうでもいいこと書いてるな。どうでもいいことといえばこの前夜にデニーズに行ったの。そしたら両隣も向こうも女性二人か男女のカップルで話してることはそれぞれだったんだけど喋り方が日中には全く聞かないようなプライベート感たっぷりの喋り方で「まだそんな遅い時間じゃないけどこの時間はもうそんな感じなのか」とすごく面白かった。退行タイムは大事よね。外でやるのか!という感じはしたけど大事よね。はあ。朝から疲れてるな。こんなこと書いてるからか。どうぞ良い日曜日をお過ごしください。

カテゴリー
未分類 精神分析 音楽

ノラ、歴史

はあ。ため息の日々。しかも寝坊ときたもんだ。間に合うけど。眠い。うーん。体調管理が難しいなあ。秩父土産の「2月3日のごもっともさま」というクラフトビールは美味しく飲んだが。今も流しているノラ・ジョーンズのニューアルバム「visions」がとてもよくて私の気分とは真逆の雰囲気が溢れている。どうか私を呑みこんでほしい。ノラは最初からとてもかわいくて透明感に溢れていたと思うが今回は深みがある。伸びやかさがこれまでとは違うのではないか?これまでこんな何度も何度も聞くことなかったもの。これは聞きたくなってしまう。

歴史をきちんと知ることは大事なのだが正確さに関してはかなり怪しい部分というのは残るものだろうから最初からこれは私という窓から見た場合の歴史であると知っている範囲の知識で概要を描くことをしたいがそれも一苦労だ。しかしやらねば。私という限界ある人が体験したそれが事実か真実かを問題にしてほしいわけではない。むしろそんなことは問題にしないでほしい。他でやっているから。私が今回したいのはなんだろう。親は親であるという事実が覆されるみたいな体験だろうか。「オマエのカーチャンデーベーソ」と言われるような体験だろうか。そう思う人もいるからもしれない。違うな。私にはそんな外からの悪口はどうでもいい。一度引き受けたんだからしっかり役割果たせよ、偽物か本物かなんてどうでもいいんだよ、ということかもしれない。これはこう書いてみるといよいよそんな気がしてきた。だって事実だって事実かどうかわからない部分がある(意味わからないと思うが)のにそれを本物か偽物かなんて誰が決めるのさ、あなたが決めるとしたらオマエ誰だよ、という話ではないか、などなど思う。ただ、嘘言うなら逃げるなよな、とは思う。昨年だか一昨年だか事実ではないことを書いた本が賞をとり、専門家たちがより事実に基づく本を出し反論したわけだが著者は逃げてばかりいるように見えた。もらえるものだけもらって・・・と自分で自分に呆れたりしているのだろうか。それとこれとは別、と開き直ったりするのだろうか。どんなあり方も別に構わないけどそういう場所での自分のふるまいは大切だろう。

沈丁花がいい香り。メジロが元気に飛び出した。どうぞ良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
映画 未分類

3.11、BLUE GIANT

3月11日。昨晩、NHKスペシャルで「語れなかったあの日 自治体職員たちの3.11」をみた。またもや本当に何も知らなかったという感覚を強くした。ただただ言葉をなくすのみだがそもそも彼らが「言葉にならない」ということを私が言葉にできると思う方がおかしいのだろう。語ることが彼らをもっと辛くすることだけはないように、それはこちら次第でもあると思う。どうか、どうか、と祈ることも憚られるがとにかく忘れないこと。現地で受けた衝撃をいまだ思い出すにも関わらず心がけなくては想起が難しくなっているのか、と思ったりもするが想起と忘却はセットなのだろう。どうせ死ぬのだからみんな忘れて前に進もうぜ、とかみたいなことを言えるのは互いに忘れられないからかもしれない。

昨年公開された映画『BLUE GIANT』をNetflixで見た。とても見たかったので配信されてすぐに見た。昨年は柳樂光隆の記事をたくさん読んで大好きだったジャズをまた好きになった。この映画の音楽とピアノ演奏を担当しているのは上原ひろみ、素晴らしいサントラでそれはすでに何度も何度も聴いていた。物語の内容よりもドラムを石若駿、サックスを馬場智章が担当しているということでどうしてもみたかった。新宿PITINNで彼らの実際の演奏を聴いてすでにファンにもなっていた。たとえそうでなかったとしてもこの映画から彼らのファンになっていたかもしれない。そのくらいいい映画だった。後半ずっと涙が止まらなかった。昨年は数年ぶりにBLUE NOTEにも行った。名前は変えているが映画にも登場する。特別な場所で特別な音楽を聴くことを今年もできたらいいな。そのためにもがんばらねば。その前に課題山積み。体力もつけつつがんばろう。

東北にも能登にも早く暖かな春が訪れますように。

カテゴリー
お菓子 未分類

2月27日(火)朝

今年は梅の木に遊ぶメジロをたくさん見ている。ちっちゃくすばしっこくすぐに幹に隠れてしまう。何枚も何枚も写真を撮るけどはっきりメジロだとわかる程度に写ってくれることはほとんどない。私は残念だけどメジロは元気。良いことだ。スズメ、ムクドリ、ヒヨドリ、シジュウカラ、私がぐったりしている間にみんな少し遠くへいってしまったみたい。しまった、また眠ってしまった。ずーんとだるいが色々やらねば。今日は秩父土産、阿左美冷蔵のとろっとろの水羊羹。お腹痛いけど黒みつが美味しくて少し食べてしまった。かき氷で有名なお店だそうなので夏に行ってみたい。

昨日聞いたポッドキャスト。私の興味あるところ。

Episode 153 : Female Sexuality in India Today: Through an Analytic Lens with Amrita Narayanan, PsyD (Goa, India) FEBRUARY 25, 2024

この人のこの本も欲しいけどKindleでもすごく高い。

Women’s Sexuality and Modern India In A Rapture of Distress” by Amrita Narayanan

富永京子さんのポッドキャストも聞いた。なんて表現したらいいのかわからないのだけどとても良いのですよ。おすすめです。

カテゴリー
未分類

2月26日(月)朝

鳥の鋭い声。鳥がいなくなる世界はくるのだろうか。人間よりは長く絶滅しないでいてくれるだろうか。机に突っ伏したり座ったまま眠ってしまったら顔がひどい。むくみとくま。くまっていうのかな。元々浮腫みやすいけど目の下がぷくって晴れることが多い。後で逆立ちしないと。何年もしていないけど。でも昔みたいに身体が動くわけではないからひとりで逆立ちとかして怪我したら嫌だから公園の鉄棒とかでグルングルンした方が循環良くなるかしら。それももうできないか。寒いし。鉄棒、冷たいし。つぶつぶのついた軍手をしてまでやることでもないし。昔、実家にしっかりしたぶら下がり健康器があった。今もあるのかもしれない。椅子に乗っかってバーを掴んでブラーンとする。結構すぐに疲れる。内臓も伸びている感じがする。大人になってうちにも欲しいなと思ったけど実家にいる間にだって数えるほどしかぶら下がらなかった気がするし絶対ハンガー代わりとかにしてしまうからいらない。結局一番いいのはベッドでまともな格好をして眠ることだ。二度寝でそれをさせてほしいけど時間が許してくれない。だめだ、気づくとうとうとしてしまう。ご褒美のような時間がとても贅沢で少し涙出たけどずしんと来るものでもあったかもしれない。いい一日になりますように。

カテゴリー
未分類

2月21日(水)朝

毎朝迷うほどの種類のお茶が我が家には今ある。今日は寒くなるのではなかったか。まだ寒くない。昨晩は帰るときは行きの服装では寒かったのでいつもリュックに小さく詰めている薄手のダウンを羽織った。冬の間、暖房効果のためにというより外はまだ暗いだろうからとカーテンを開けずにいたが今も開けていない。今外はどんな感じなのかな、というのをカーテンの向こうの気配から推測する遊びをしている、心の中で。まだ暗いと思ったらめっちゃ明るかった、夜明けがこんなに早くなってる!とかはまだ全然なくてむしろ逆で日が長くなってきたと思ってたのに朝の空はなんだかどうしたいのかな、という感じ。冬の朝の方がすっきりしてピンクとブルーの混じり合いと凍てつく雲がきれいだった。晴れが多かったからだろう。今、晴れが腫れとなっていたのに気づいて直したのだけど最近どっか腫れたっけ、しかもそれどっかに書いたっけ。腫瘍という言葉は使った。あと書いてないけどこの前松屋でシュルメクリだっけ、あれを食べたらあれグツグツさせながら出てくるのね、びっくり。いつ食べればいのだろう、と思ったけどお店の人から何も言われなかったしいつでもいいのだろう、でもこのグツグツ怖い。どうしよう、と思ってグツグツがおさまってから食べたのだけどあちちであった、案の定。なのに一度食べ始めるとなんか止められず途中口の中の上の方がプクって膨れたから焦った。またやってしまった。口の中の火傷。口の中だから治りは早いだろう、と思ってしまう私は甘いのだろうけど怖いは怖い。氷の入ったコップを手に取り氷だけ口に含んで冷やす。一体何をしているのだろう、カウンターだけのちっこい松屋でいろんな人の出入りを眺めながら。この日は隣の席の男性がバッグで1席取っている上に逆側に長い足を不自然に伸ばしており3席分を占めていた。足が邪魔という感じの長さがなんだか羨ましい。私がバッグの隣に座ると何かをしてくれようという動きをするのだがこの松屋の椅子は動かないのよ。ありがとう。なんだかいっぱい食べていたな、そんなに細いのによう食べるのう、と思っていた。小さくカーブしているカウンターだから視界に入るのよね。そうそう、シュクメルリの正しいお名前を調べよう。お!あってるじゃん!松屋でラジオだか掲示だかで「これで忘れないよ」みたいな感じで名前の説明があったおかげかな。自然にそれに従っていたのかな。私は本当に固有名詞覚えられないからなんだか嬉しい。この前なんてなんだっけな、ああ、忘れた。ずーっと勘違いしていてその食材の専門店だと思っていたら読み間違えていただけで注文するときにその食材のを頼むときに「○○にきたんだから食べないとね」と言ったら「だから○○ではないって」と笑われた。みんなでやりとりしてる時からおかしいなと思っていたけどまさか今の今まで間違っているとは、と呆れられつつそれをいただいたのだけど肝心の○○が思い出せない。これは間違える人いるでしょ、と言いたいのだけど。まあいいか。なんかすごいどうでもいいことを書いているね。資料プリントアウトしていきますよ。今日は東京は雨っぽい。みんなの住んでいるところはどうかしら。鳥たちはお元気らしい。私たちもなんとかがんばりましょう。

ちなみに今朝読んだブログ。

PRE-OEDIPAL FREUD AND THE LOST SIBLING

Author: Mary Adams

ここで著者はThe trauma of being a replacement childに注意を促す。長男を失ってすぐの両親から生まれたジェイムズ・ジョイス、生後すぐに亡くなった姉をもつルイーズ・グリュック、そして一歳のときに弟を亡くしたフロイトなど語られない喪失を体験した家族のなかで彼らがなにをどう表現したかなどが書かれている。

Why is the concept of the ‘replacement child’ not more widely used?  

とあったが日本の臨床では神話的にも焦点化されやすい部分だと思うけど用語としてはどうなんだろう。「代わりの子」?「取替子」だと意味が違うし「生まれ変わり」もなんか違う。私もその文脈で症例つきの論考を書いたことがあるがそのような用語としては使わなかった。ちなみに書いたのは「こころに寄り添うということ 子どもと家族の成長を支える心理臨床」の「第5章 親子並行面接という協働」です。

カテゴリー
未分類

2月20日(火)朝

この時間はすでにいろんな音がするなあ。雷おこしを食べた。歯にくっつきそうで怖かったけど大丈夫だった。歯医者嫌いだから歯医者にはよくいく。なんだそれ。歯医者は予防と治療がはっきり分かれてる。治療を受けたくないから予防する、つもりがクリーニングに行くたび不具合が見つかったりする。予防のつもりが治療することになってる。いやー。でもそういうものだね、いろんなことは。誰かを通してみないとわからないことがたくさん。友達と話しているうちに「病院にいったほうがいいのでは」と言われて精神科へ行ってみて「薬より心理療法では」と言われてこちらへくるという方も多いし。「そのくらい自分でどうにかしたら」という場合もあるし、「どうしてそこまで放っておいたの」という場合もあるし色々だけどね。私の場合、歯医者嫌いならそんなにお菓子食べるなよ、それが1番の予防になるでしょ、ってことなんだろうねえ、多分。ああ、辛い。

歌人で、俳人で造本作家の佐藤りえさんが発行している個人誌『九重』4号を読んでいた。俳人の今泉康弘さんが佐藤りえ論を書いている。お二人ともすごい。幻想怪奇俳句集『良い闇や』(2022)には夏目漱石『夢十夜』を踏まえた句があるとのことでその句に対する今泉康弘の評もいい。それが漱石のものと知っている必要はまるでない。佐藤りえが解釈した世界とそれをさらに解釈する今泉康弘の対話の姿勢が素晴らしいのだ、きっと。そもそも解釈というのは対話のすえに生じるものであるから多分そうなのだろう。漱石のものと知っている必要はないとはいえ『夢十夜』は本当にすごいよ。私は文学と臨床の両方に関わる病跡学をやりたいと思っていた時期が長かったのだけど土居健郎の『漱石の心的世界』とかにも影響を受けたのだろうねえ、覚えていないけど。あの本には『夢十夜』は入っていない。それはすごくまともな判断な気がする。どこか別の場所で書いてるかもしれないけどね。

さあ、色々大変だ。がんばろ。

カテゴリー
あれはなんだったんだろう 未分類

なんともいえない感じとか。

なんともいえない空模様。冬でも春でもなく。雲を見ても「冬だな」とか「春だな」とか思わないし。お花や光には「春だな」と感じるのだけど。あと鼻水。花粉だよねえ、これ。乾きもひどいのにどうして鼻水だけは出るわけ。人間ってほとんど水分だから?だったら外に出すだけではなくこの喉の渇きや肌の乾燥も自分でどうにかしてほしい。自分の水分、自分にとどまって。あと風。春一番。これを超えたらやっと春!そして桜。桜が咲いたらすぐにまた1日だけ雪!とかなるのかしらね。暖かい冬には大雪が降る、とこの前の雪の日に聞いた。冬が寒くないのは私には嬉しいけど温暖化は止まらなそう。JAXAに行ったときも温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」の模型の前で説明してもらったけど地球はどうなることやら。そして人もどうなることやら。私もどうなることやら。

昨晩も句友のリマインドのおかげで俳句を出せた。毎回ぎりぎり。それでもこうして作る機会を作っておかないと、というか、最近になってようやく継続的に句会にでたりする意義がこれまでとは異なる実感を伴ってわかったというか継続的、定期的なお稽古事の価値がわかったというか、精神分析みたいな毎日のお稽古みたいなことをしていながら今更何を、だが、精神分析のおかげで色々わかったというのもある。時間がないんだよなあ。

ブラタモリの女性アナウンサーの起用に関する記事に対してある人がああいう男女の起用の仕方に怒っていた。基本的に女を見下している設定だということが制作側にはわからないのだと思うのだけど女の方もそれを文化として取り入れて振る舞っているから他人事だと色々いえても自分のこととなると全く気づいてなかったりする。どっかで自分だけは別という意識が働いてしまうのだろうねえ。身内じゃないし。書いたり喋ったりするのがうまいとそっちでなんとなく補える面も大きいだろうし。それはお互いを見下している側面があるわけだけどそれも一緒に生活したりしない部分的な付き合いだと美味しいとこどりしてればいいだけなので関係性が変わることはないし。前に、常識を覆された!みたいなことをしょっちゅう言っている他人のモノ好きな男女の話を実際のエピソードをもとにして別の場所で書いたのだけど、その人が「そのあとどう動くかが大事ですよね!」みたいなこと言っててやっぱりこういう人に限ってこういうこと言うんだなあ、と思った。人にひどいことした人に限って「失敗が大事!」とか言ったりするでしょう。なんでも「失敗」として位置付けてるんだろうねえ。された方は「あれはなんだったんだろう」とずっと闇の中に置いてけぼりになったりするのに。「前を向こう!」と同じノリがひどいなあと思う。まあ、自分にはできないことをいうのが私たち、というのも本当だろうけどあまりに自分たちのことを棚上げしているのはどうかと思う、それでお金もらってたりすると。仕事でなければある程度は好きにして、っていうところあるけど公私混同はそういう意味でも難しいですね。私は男女比率を考えていなそうなイベントとかいかにも権威に媚びている場所には行かないか、行ったら何かいうかしているけどそういう私でも全然意識できていないところが多いわけでこの前富永京子さんのポッドキャスト聞いて涙が出てしまった。この話も書きたいけどやることやらねば。富永京子さんは本もおしゃべりもおすすめなのでチェックしてみてください。良い一日になりますように。

カテゴリー
未分類

1月2日(火)朝

早朝にブログを書いたと思ったら一言も書いていなかった。「一言も」ではないか。一文字も。寝転んだまま優しい人のことを考えていたんだ。私にとってはすごく具体的なその人のことを抽象的に書くとしたらどんなかなとそれを言葉にしたつもりだった。いつにまにか眠ってしまったらしい。幸福なことだ。地震のあった地域の方は眠れただろうか。地震が起きると私にとって全く優しくない人と一緒にいるときに地震が起きたことを思い出す。私はまた福島の方だったら辛いなと思って携帯をチェックした。その人にそう言ったら同意して地震で自分の抱えている仕事がなくなればいいのにといった。とても忙しくてしんどいようだったが「嫌われたくない」と公私混同で曖昧なことをやってたらそれは辛いだろう、と思った。その人は欲しいものが手に入らないとすぐ不機嫌になる人でよくわからない圧力もすごかった。自分では気づいていないようだった。知らない人がその人が持つ独特の圧力について書いていて同じように感じる人がいることに安心した。私はその後その人がひたすらしんどいと呟きながら快楽を追い求める方法を知った。そしてその圧力の意味も。一次過程優位の心は自分と自分みたいな人にしか優しくなれない。結局いろんな嘘をついていたしつき続けている。元日、みんなが集まっていてよかったと思う人もいればそれが苦痛な人もいるだろう。できるだけ普通の思いやりのなかで過ごしていてほしいと願う。

カテゴリー
未分類

1月1日(月)朝

紅白を見ながら眠ってしまった。イビキをかいていた気がする。起きたら案の定上半身が痛い。数年ぶりにカヌーに乗った。広いところへでるのはいい。一緒のグループだった4人家族も最高だった。そのあとも滝を見にいったりしたが長らく会っていないのに会えば自然にあそびはじめる親戚みたいだった。ウトウトしてしまった。もう少し寝よう。

目を閉じたら下から上へ流れる水を思い出した。樹木のこと。水のこと。乾燥しない世界にはそれはそれで色々あるとのこと。部分的に利用する心性に崩される(だけではないだろうけど)生態系の行方はいかに。私たちの死もその一部。難しい現実をよく笑いよく食べて過ごしている不思議。ただそのまんまがいいとも限らない。いろんなルールが変わってきてるようでそうでもないこの世界。いろんなことがあるけど今日もいいことありますように。

カテゴリー
未分類 精神分析

12月29日(金)朝

まだ夜みたいに月がきれい。もうだいぶ西の空にいるけど。

また私変なこと書いちゃったんじゃないの、と振り返ろうとするがすでに何を書いたかわからなくなっている。そのときは散々こんがらがった頭が「ああこういうこと」ってなってさらさらって書けて「書けたー」となるんだけどこんがらがりをどうやって解いたのかを意識化できてないからすぐにまた元に戻る。締切にまだ間に合うからがんばってみたけどと先生に見せたら英訳してみればと教ええてもらった。最近、その効果を実感していたのに忘れていた。1、2日前のことなのに。「そもそものところがダメだから」と言わずに「こんなでもやれるとこまでやる」を繰り返す。やれるとこまでしかやれないのは当たり前だけど「まあいっか」よりはいける気がする。自己暗示。

「はあ、ひろこん」と思い浮かべてすぐ「疲労困憊のことだよ」と頭ん中で言い直す。誰も聞いてないが私が聞いている。「テキトーなこと言ってると外でも出るからやめなさい」と言われたことがあるようなないような。たしかにいつもふざけているとついきちんとした場でも、というのは起こりうる。大人になってもだいぶ黙ってられるようになったけどつい、というのが多いから気をつけよう。

11月12月ととても大変だった気がするけどこのくらいはやらなくてはいけないのかもしれない。辛い。が、やらなければいけない、というか、まずい。ああ。大丈夫じゃない。今年はスケジュールのミスが本当に多くてたくさんの方にご迷惑をおかけした。本当に申し訳なかった。月一回の勉強会を「ごめんなさい、今、甲府」・・・・とか。日曜日が全部休みの日なんてないことを忘れて勝手に休みにしてしまっていた・・・本当にごめんなさい。

気をつけなくてはいけないことが増えた一年でしたの。でも無事に過ぎそうでよかった。みんなのおかげ。いつもありがとうございます。今日も良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
未分類

12月23日(土)朝

あれだけあったお菓子の最後の一個を食べた。でも大丈夫。今日からまたお菓子天国の予定。年末年始も美味しく過ごそう。でもおなか大切にしないと出かけられない。

来年6月の来日が発表されたFairground Attractionを聴いている。心地いい。これまでの歴史をよく知らないけど解散したあともちょこちょこ再結成していたということかしら。とにもかくにも朗報ですね。

また資料がなにがなにやらになっていて本来やるべきことを見失いそう。本来やるべきことってなんだ?どれのことを言っているのだ?すでにわからなくなっている。

この前、バスに乗ろうとして地下鉄の階段を上がったらバス停からバスが出るのが見えた。あー。寒かったからとりあえず次の停車場まで歩くことにした。じっと待つなんて辛すぎる。あれ?バス停って反対車線と似たようなところに大体向かい合ったところにあるよね。向こう車線の向こうにバス停が見えたのにこっちのが見えない。少し急ぐ。あれれ?子供のキックボードが突っ込むように向かってくる。リュックを掠めて他の子供に何か叫びながらその子は通り過ぎた。ああ、バスが!さっき少し走っておけば到着したであろうバス停に誰もいないのを確認してドアも開けずに通り過ぎていった。最初に見かけたバスが遅れていたのだろう。こんな短い間隔ではこない。はあ。結局目的地まで歩いてしまった。大した距離ではなかったが普通はあまり歩かない距離だったのだ。

地面を埋めていた落ち葉も少なくなりつつありいよいよ景色がシンプルになっていく。そして寒い。何度言っても消えることなどないがどうしても呟いてしまう。寒い。もういやね、乾燥もひどいし。でも昨日はゆず湯であったまりました。なんとかがんばりましょ。

カテゴリー
未分類

世界、社会、バウンダリーとか。

秋の朝は爽やか。今日はちょうどいい気温。ずっとこのままだったらいいのに。でもこれはこれで温暖化の結果のお天気なのかしら。世界で起きていることの深刻な事態とつなげて考えていく面とかいろんな時間感覚や距離感覚が必要なんだろうな。

家族以外の場所で他人の心身弄んでいる人がフェミニストに尊敬する人とか救世主とか言われていたり学者ぶって教育者やっているのを見ると絶対に変わりようのない社会の縮図を見たような気になる。片方でそれで片方でそれ、というあり方は誰しもそうだがこの場合中身が重要。バウンダリー、有限性がなぜ大切か、ということ。ちなみにフェミニストというのはその人の部分しか表していないとはいえその方面で稼いで生活をしている人に対しては私はあえて使う。家族って、教育って、友達って、セクシュアリティって、身体って、心って、と考えながら戦地で殺されていく子どもたちのことを思い浮かべたりする。以前は日本に住んでいた人たちでもあったりする。自分って、人間って、と考えるだろうか、彼らは。どうか早く戦いが終わりますように。

ベルクソンとドゥルーズの勉強続けたいな、と思ったけどもう目の前のことに追われて余裕がなくなっている。平井靖史さんの朝カル講義が昨日から始まり、それは見逃し配信ありだったので申し込んだ。自分の言ったことで派生していくものをつかむためにももう少し学んでおきたい。自分に違和感や不快感を与える相手を加害者にしながら別の気持ちよくさせてくれる対象に依存しいろんなことをなかったことにする他人事でしか偉そうなことを言えないお友達ごっこではない真剣さを感じたのはぶつかりあいは当然生じるであろうという態度で対話を求められたから。私たちの組織にもこういう緊張感は必要だろう。

今日はみんなどうかな。元気だろうか。秋の美味と出会えますように。今朝の柿も美味しかったです。

カテゴリー
未分類

再会

西側の窓を開けた。鳥の声が直接入ってきた。窓の外で溜まり込んでいたような風も。気持ちいい。書き出すと眠気がくる。コーヒーを淹れた。詩を書く友達の手作りパウンドケーキも切ってきた。ラジオからは多分テクノ。昔テクノを勉強しにドイツに行った教え子がいたがなぜドイツだったのか。小さな頃から大変な想いをしていた。テクノにはまってからがすごかった。今思えばあまり年齢も変わらなかった。いつも穏やかに微笑みながらそばにいて少しだけ面白いことをたまにいう人だった。今もその人の話をたまにすることがある。どうしてるんだろうね、とその人を思い出す私たちはなんとなく笑ってしまう。そういう人だった。

隙間時間に出かけた。本当によく笑った。出会ってから30年。連絡をとるとき少しドキドキしたんだ、というとすぐに共感してもらえた。やりとりを続けてきた友だちもいるが卒業以来はじめて会う人もいた。会えばすぐにわかる程度に見かけも変わっていないことに安堵して笑い、震災やコロナだけでなく様々な出来事をそれぞれが生き延びてきたことをみんなでねぎらいあった。小さな大学で毎日のように顔を合わせていた日々を卒業したあと、それぞれが過ごしてきた日々を聞きながらふと交わされるやりとりが当時と変わらずそれにもびっくりしあった。外からみたらだいぶ変わったに違いないけどね、と笑いつつ。入学後間もなく同じ時間、同じ車内でそんなことが起きていたのか、とはじめて知ったのもすごく可笑しかった。私は長生きしそうとか言われながら同窓会幹事にさせられたわりになんの仕事もしてこなかったけどみんなのおかげで今回とてもいい形で再会を果たせた。とりあえずというかなによりもみんな生きていてよかった、という一方で身近で亡くなった人の話をしたりもした。そういう体験が増えてくる年齢でもある。廃部寸前の弱小バドミントン部が数年後優勝を果たすチームになっていたのにも驚いた。私が部長のときは相手チームが私たちに向けるやや見下したイメージ通りのかわいいユニフォームで、しかしそこそこ粘る、が楽しむための戦略だった。強豪相手に意外と粘るから悔しくて泣いてた人もいた。イメージで人を馬鹿にしちゃいけないね、というメッセージは伝わる人には伝わったんじゃないか。

優しくたくましいみんなの日々が今日も豊かでありますように。それぞれの毎日が大切にされる社会でありますように。今朝はNHK俳句、斉藤志歩さん。鑑賞がよすぎて毎回感動しちゃう。楽しみ!

カテゴリー
未分類

夏至、衣更、コンポ

朝の風が涼しい。夏至ですね。太陽は一番高いところへ。今日から昼間が少しずつ短くなっていく。体感とは違うけどその事実を知っていると毎年この日がとても寂しい。私の場合、朝の仕事、昼の仕事、夜の仕事があるわけではないけれど「日が長くなりましたね」「夏至ですね」と天候のお話をするのは朝とか昼間にくる人たち。「よく降りますね」ももしかしたらそうかもしれない。夜ってあまりお天気の話しなくないですか?「昨日の雨は大変だった」とか少し前の話をすることはあっても。そんなことないかしら。

衣更、「ころもがえ、ころもがへ」と読むけどこれは初夏の季語ですね。私はここ何年も衣更は少しずつ少しずつ。5月が特にそうだと思うのだけどまだ厚手の上着を来たくなったり半袖でも大丈夫そうな日があったりする。半袖を着て上着を羽織ろうかな、くらいの日に夏服が入っているタンスからその日着る服と似たような数枚をもってきてさすがにもうこれは着ないかなという厚手の冬服をそのスペースに置く。その繰り返しをしているうちにいつの間にかその季節仕様の服がそばにくる仕組み。ずっとしまわれっぱなしの服もあるけどね。つい同じのばかり着ちゃうから。

コロナ禍でオンラインの仕事ができるようにその初期に一気に整えた。その後も少しずつ仕事と生活のバランスを考えながら部屋を変えているが先日、西側の大きな窓に向いたこの大きなテーブルはここでなくてもいいのではないか、と急に力仕事をはじめた。うちの場合、動かさねばならないのはほとんど本なのでいろんなところに本を積み上げ直し部屋のほぼ真ん中にどーんと机を置いてみた。景色が全く変わった。大きな本棚にスペースも見つけた。懐かしい写真たてと写真も。どうしてもっと早くこうしなかったのかしら。でももし最初がこうだったら数年経ってこの前までそうだった場所に移動して「どうしてもっと」とか言っていたかもしれないものね。

三段ボックスの組み立てに苦戦しているときにたいして使っていなかったコンポ(という言い方自体懐かしい)でラジオを聞いていた。東京に来てから結構長くテレビもなかったしずっとラジオ生活だった。よい。音楽のサブスクもやめた。コンポのそばに積んであったCDやたくさんのカセットやMD、これら全部この小さなコンポで聞けるのだから、と場所を変えた大きなテーブルにコンポを置きラジオを聞きCDを聞きはじめた。今日はなぜかずっと一枚だけそばに置いておいたSonny Rollins、Way out west。1957年製作、発表。私が買ったのは1991年。

CDの取り出し口の小さなボタンを押して英語教材を取り出しソニー・ロリンズを入れた。すぐにあの音が聞こえてくることを期待していた。CD ReadingがTrack1とかに変わるのを待った。あれ?表示が変わらない。NO DISCとでた。えー、入れたばかりですよ、ともう一度取り出し口のボタンを押して一度取り出してもう一度入れてみた。CD Reading、でまたNO DISC。なんでやねん。でもこういう動作自体なんか慣れてるわ、と思って数回やったあと電源を落とし、またつけた。小さく何かが回転するような音が聞こえた。CD Reading→CD1。やったー。入れ直す、電源を落とす、ってこういう機器の危機に対する基本動作だよね、と思った。

昨晩は仕事後も会議があったから今日の資料を作る余裕がなかったのにまたどうでもいいことを書いてしまった。資料作りの方を日課にすべきかしら。でもきっと無理。こういう頭空っぽにして手作業する時間が必要なの。ああ。間に合うかな。がんばろう。夏至だよ、一年に数回しか言わないから言っておこう。今日は昨日より涼しい風が入ってくるけど夏至です。みなさんもどうぞお元気でお過ごしくださいね。

カテゴリー
未分類

さくらんぼ、風、鳥

山形からさくらんぼが届いた。二つに仕切られた箱にぎっしり。ツヤツヤ。キラキラ。さくらんぼは「桜桃の実」という季語でもある。「きごさい歳時記」によると「セイヨウミザクラは、明治以降日本へ導入された後、主に山形県で海外品種をもとに育種が行われ、日本の代表品種である「佐藤錦」や「紅秀峰」等の品種が作出された。」とのこと。その山形県からやってきたさくらんぼ♫音符みたい。かわいい。まずは「常温で」と教えてもらった。たしかに!冷やしたあととは全然違う甘味。そうね、果物って冷やさないで食べるときのそのままの味が格別だよね、忘れとったわ。保存の場合、カルピス漬けにして凍らせるのも美味しいと聞いたのだけど保存するまでもなくあっという間になくなってしまいそう。でも大切にいただきたいし。でも1秒でも新鮮なうちにいただきたいし。ああ、美味しいものを美味しくいただくにはいろんな葛藤があるのね。

さっき南側のベランダにでたら風がとても涼しかった。東の空がピンクがかってマーブル状になっていてとてもきれい。部屋に入ったらまたむっとした空気。全部窓開けてるのにさっきの涼しい風はどこ?今は西の窓からすごく静かに涼しい風が入ってくる。もうちょっと気づかれるように入ってきてもいいんだよ。目隠しで中途半端に開けているブラインドがカタカタいうけどそれも季節の音だから大丈夫。気にせず吹いて、でも強すぎず。なんて人間はわがままなのかしら。いう通りにしてもらえないって知ってるからいろんなこと言えてしまう。言う通り思った通りにしてもらえないから嫌になって何も言わなくなってしまう人もいるけどそれは人間同士のお話。人間って難しいというより時折めんどくさい。自然と暮らすことも本来はとても大変なことで次世代、またその次の世代とすごく先を見越して共存の道を探る必要があるのでしょうね。今元気に鳴いている鳥たちもそこに森があるって証拠だもの。空はなくならない?鳥が飛ばない空ってある?南極にも北極にも鳥はいるのね(調べた。大体渡り鳥だって。)ペンギンも鳥だよね。面白いよね、ペンギンって。ずーっとみていられる、というか生き物ってみてて飽きない。だからこの仕事してるのかな。

昨日はじめてお喋りした人たちのことを思い出してフフッてなった。ペンギンから思い出したのかな。自分の自由連想を追うのも難しいわね。

最近、フランス語再び、という気持ちが高まってきているけどその前に英語をどうにかせんとね。その前にさくらんぼ♫

Il faut de tout pour faire un monde.

カテゴリー
未分類

人のこころ

袴田さんの再審開始確定はよかった。でもよくない。こんなに長い間、心身を拘束して、身の回りの人の生活だって変えて、もう想像を絶する。姉の袴田ひで子さんももう90歳。お二人が生きておられたのは本当によかったと思う。人が人を裁きコミュニケーションの場を奪い尊厳を奪う。簡単にできてしまう。本当に恐ろしいことだと思う。世田谷事件の遺族である入江杏さんは未解決殺人事件の遺族として時効撤廃とともに冤罪防止を願っていたのでほっとしたとツイートしていらした。この事件のことも忘れることができない。あの辺は土地勘があるからなおさらだった。高橋ユキ『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う』をまた手に取りそうだ。人の心なさ、恐ろしさ。尊厳ってなんだろう。尊厳を傷つけられたときに生じる仄暗かったりドロドロした重たい闇のような感情、理不尽に晒され消耗しながら冷たく残酷な鬼と化していくこころ、知らない人はいないだろう。そんなものは自分にはないとしれっと軽薄に過ごしている人もたくさんいるだろうけれど。それが心なさ、恐ろしさというものだよ、とそれらを投影された人が感じ、支えのなかでこなしていければいいが。

毎日毎日本当にひどいことがたくさん起きている。でもそれだけではない。袴田さんを支え続けた人たちの涙、笑顔。どれだけの想いを抱えてきたのだろうか。全く想像がつかない。この複雑で残酷な毎日を生き続けていくことの困難を否認しなければ訪れるかもしれない希望を身をもって教えてくれる人たちに少しでも早く穏やかな日々が訪れますように。こう書くだけで本当にそれを穏やかといっていいのか、あまりにひどくないか、という気持ちに再び覆われるが、彼らがそう感じられるならそうなんだから何も知らない他人が再びそこに侵入するようなことはあってはいけないのだろう。

今日の東京は曇りみたい。明日は早くも花散らしの雨らしい。毎年そうだ。日々が過ぎる。季節が巡る。さまざまな人とさまざまなことに思いをめぐらせながら今日も一日。みなさんもどうぞご無事で。

カテゴリー
未分類

ロケットとかロボットとか。

どうにもならないことにもういい加減にしてくれよという気持ちでため息をついていたらすごく時間が経ってしまった。やばいやばい。そんなことでやるべきことを回避している場合ではない。実際マジでいい加減にしてと思っていたりするわけだがやめられない行動、変えられない習慣に対して他人がエネルギーを使うのは合理的ではない、と思うべきだ、と言い聞かせる。無心に読まねばならぬものたちがたくさん。ざっとは読んだがただ読んだだけなのでほとんど何も残っていない。発表の資料作っただけでなんかすでにやった気分になっていた。それとこれとは別だよ、と自分に言い聞かせないと動けない。自分に言い聞かせることが多すぎて大変。

昨日、H3ロケット、発射できなかったんだ。昔、沖縄のJAXA(言い方合ってるかな)へ行ったとき、誰もいないライブラリでいろんなビデオ(だったと思う)を見た。種子島にも行きたいな、とその時から思っているけどまだ行けていない。私はロケットというものがどうしても現実のものと思えていない。何をしに宇宙へというのも読めばわかったような気になるが「で、何のために?」とまた最初の疑問に戻ってきてしまう。ロケットとロボットはいまだ私の中では絵本や小説の中のものなのかもしれない。

この前、バスを待ちながら小さなペットショップのもっと小さな檻に入れられた犬を眺めていた。犬はよく見えなかったのだけどその店全体をまじまじと眺めることを私はこのバス停を使うたびにしている。「何のために?」という問いはニンゲンナニサマと自分が思うという矛盾から距離を取るためのものかもしれない。だとしたらずるいね、私は。オマエも人間だろ、という話。

そらー、うちゅー、と見上げているだけの毎日だけどこんなことしている間にも人間は・・あとが続かない。色々ありすぎる。

とりあえず目の前のことをなんとか。みんなは今日は?もう起きたかな。まだ早いか。土曜日だもんね。東京はいいお天気。昨日よりは寒くないかなあ。どうぞ暖かくしてお過ごしくださいね。

カテゴリー
未分類

鬼は外、福は内

仕事帰りにスーパーへ寄ったら豆コーナーができていた。先日法事でお寺へ行ったときに節分の準備を見かけたせいかもうすぐ節分かといつもより意識的だったがもう今日か。保育園では今年も鬼役の先生に大泣きする子が出るだろうか。男性の先生が鬼役すると本当に怖いから無理もない。スーパーに置いてある豆たちにはわりとかわいい鬼が書いてった。枡に入った200円くらいの豆を買ってみようかと思ったりしたが小袋がたくさん入っている福豆を買った。あとお隣にあったポリッピーも。なんだつまみではないか。そう、節分の前日から豆を食べながら鬼退治。そして節分は立春の前日ということで明日から暦は春。今日で冬が終わる。気持ち的にはずっと冬という人もとりあえず邪気祓い的(的ってなんだ?)に鬼は外、福は内を唱えて年の数とかあまり気にせずお豆食べてそれで何が起きるわけでもないことに失望よりも安心を得られますように。

昨日、いつもと違う道を通ってオフィスへ向かったら河津桜の芽が膨らんでいた。少し高台にあるその公園はソメイヨシノも八重桜もあるから少しずつ春の展開を感じられる。ちっちゃなバラ園は枯れ枝の中にもピンクや黄色のバラがシワシワになりながら咲いていてそのそばには新たな蕾もついていた。なんだっけな、なんとかリンカーンみたいな名前のバラがあってバラって本当にいろんな名前があるよなと思いながら神代植物公園のお城の庭みたいなバラ園を思い浮かべたりした。あそこは冬でもとても華やかでバラ園を十分に楽しんだあとは温室で暖まりつつ不思議植物たちを楽しむのがお勧め。面白いサボテンとかもたくさん。

鬼は外、福は内か。私の仕事は鬼退治とはほど遠い。飼いならすでもないし。和解かな、自分の中の鬼と。まあ今日は無理でもいずれいずれ。人間は(私だけ?)そうやって先延ばしするから行事って大事かもしれない。今年こそ、と思う機会がないと知らず知らずいろんな鬼を育てちゃうかもしれない。Calm down.と思い浮かんだ。鬼はともかくとりあえず福は内。

カテゴリー
未分類

記憶、ポッドキャスト。

珍しく来たばかりの電車に乗れた。いつもちょうど行っちゃったということが多いから。先週は強風で相当ダイヤ乱れしちゃってたし。なんだか車内も空いてる。受験と関係あるのかな。

今朝は資料作りをしながら宮城のお土産のラフランス紅茶をいただいた。山形だっけ、いやその人は宮城出身で帰省したときのお土産だから宮城だわ、きっと。もう、いちいちいろんな方向から記憶を確かめねばになってる。昔からか。

先日丸山隆一(@rmaruy)さんがはじめた『記憶を学問する』というポッドキャスト第0回と言うことでイントロダクションをきいた。ゲストは三村尚央さん。バリバリ脳科学の話とかではなく一般的な話題として触れやすいトピックをまずはご紹介という感じだったと思う。記憶。可能性も問題も多い領域だけどこういう柔らかいトーンで語ったりそれを聞いたりすることは脳に優しそう。うーん。私が今それを必要としているのね、きっと。だって色々大変でしょ、毎日、多分みなさんも。週の真ん中なんとか過ごしましょう。

カテゴリー
未分類

花壇とリハ

今日も朝焼けになりそうな空がきれいだった。赤い光が全体に広がらないまま薄い色の空に紛れて消えちゃた感じがするけど少し眺めていただけだから見逃したのかもね。

腰が痛い。毎年この時期になると我が家のありのまま花壇ではユキヤナギとスノーフレークの存在感が増してきて「今年も咲くかな」と愛おしい気持ちになる。でも今年は存在感がないことに最近気づいた。どの季節も雑草が生えては枯れ、それぞれのお花を侵食することはなかったのだけど今年は緑の細い葉っぱを束にして掴んで思い切り引っ張っても全く歯が立たない、腰にくるだけでびくともしない雑草が生えてしまった。枯れる気配どころか株になってどしんと腰を下ろしたまんま。ほんとそこどいて。あの子たちが生えてこられなくなっちゃったじゃない。ラベンダーを植えたことと関係するのかもなあ。それまで本当にうまく季節ごとにそれぞれのお花を咲かせてきてくれた花壇の環境を変えてしまったのかもしれない。ごめんね。そのまま引っ張ると腰にくるとは聞いていたので枝切り鋏で地道にジャキジャキやってみた。手強い。だんだん無心になってきた頃、腰がグキってなった。もう随分前になるけどぎっくり腰の耐え難い痛みを経験してから怖くてヨガをはじめたり腰だけはそれなりに注意してきた。今回もやばいと我に返ってそーっと腰を伸ばし、これもう除草剤しかない状態だなということはわかったのでこのくらいにしておこうと枝切り鋏を置いたら今度は手が震えて開かない。前に橈骨神経麻痺で手首がだらんとなったことはあったけどたぶんそれとは関係なく結構手指や手首も痺れたり痛みが出たりしやすくて今回も特に右手中指を自分で持ち上げることができなくなった。震えはいつもは使わない筋肉に負荷がかかり過ぎたのだろうと思ってそのうち治るだろうと思えたけどこの感触はちょっとまずい感じだぞと左手でマッサージしたり曲げることはできるからピアノひくみたいに指動かしたり早速リハビリに励んだ。いろんな経験のおかげでこういう早めの対処ができるようになったみたい。リハビリってほんと大事。私は「やばい!」と思うと作業療法士の友人に連絡して応急処置を教えてもらえたりできてとてもありがたいのだけど身体のことは難しいね。今はこうして普通にタイプもできる。よかった。今朝、珍しくテレビつけたらテレビ体操をやってたからすごくすこしだけ真似してみた。あとは絶妙なピアノに感心しつつ呼吸をしっかり意識しながら美しい動きを繰り出す人たちに惚れ惚れしてた。全然リハビリがんばってないじゃん、ということで指は治ったものの今日も身体がバキバキです。自ら無理に対話状況を作り出し見知らぬ人を利用していくことで事態をうやむやにする態度について考えていたのだけど身体はごまかせないから積極的なケアはサボったとしても無理はしないということをしないとね。どういう除草剤がいいか相談しにいかねば。そしてまたユキヤナギとスノーフレークを植えよう。長い間毎年毎年ありがとう。みんなにとって最適な花壇というのはよくわからないけど知識もないうえに放っておくのは危機対応できないからダメね。ごめんね。色々教えてもらってきます。

カテゴリー
未分類

おなかいっぱい。ひとりになるなりおなかいっぱい。苦しいけど今日は腰をやられ肌もやられたからお風呂でケアしないとと思ってそれはがんばった。でも相変わらず苦しい。どうせ眠れないから洗濯も始めちゃったのは後悔。水炊きが美味しくて食べ過ぎてしまったの。水炊きはがんばればいいのは灰汁取りだけで時間さえ待てれば手羽肉が骨から取れちゃうくらいほろほろに柔らかくなるしお野菜いっぱい食べられるし贅沢な食べ物です。お出汁で雑炊とかラーメンとかもできますしね。長芋もいただいたから早めに使おう。あ、洗濯物できた。めんどくさいけどやりましょう。腰痛い・・・。なおさら動かねば・・。

カテゴリー
未分類

冬眠

寒い。寒さに対してどんな態度をとったらいいか全くわからない。実家の方なんてもっと寒かったのに当時はまだ寒さよりもっと色々気になっていた子供だったし東京暮らしの方が長くなってきたので当時どうやってやり過ごしていたのかいなかったのかもよくわからない。ただ自転車で前髪凍るよね、とか足が粉吹くよね、とかそういう話はしていた。乾燥も友達や医師に勧められるままに色々試してきたが今でも深刻に辛い。寒さなんて毎年それなりに長い期間毎日くるものにもいまだ対処できないのだから日々の様々なこと、特にイレギュラーなことに対処できないのは当たり前だ。などと思っても色々やり過ごせるものでもない。ああ。人間やめたい、死にたい、と言いたくなる人の気持ちもわからないでもない。「わかる!」と簡単には言えないが。私も寒いとすぐ「死にたい」と言いたくなるし言ってしまう。こんなことを書いている場合でもないのだが書かないとやってらんねーという場合もありますよね。私の場合、なんだかんだ毎日書いてしまってるけど。ちょっと聞いてよ、とぶちまけたくてもそういうわけにいかないことばかりってこともあるし。とにかく自分で蒔いた種は自分でどうにかしてくれよ、こっちは最大限注意深くしてたよ、と思ったとしても人って完全にきれたところで存在できないから巻き込まれて相当理不尽な想いをしたりもするわけでしょう。大なり小なり誰でも経験あると思う。「人間やめたい」ってなるわけだよ。死にたいよりもそっちでいこう、まずは。AIとかに詳しい人たちの方がむしろ人間のそういうところわかっていない感じあると思う。情報だけ偉そうに撒き散らしておいて他人に処理させてんじゃねーよ(言葉遣い注意)、と思うことありませんか。ないかな。私は「まずは行動でみせてください」と思うけど権力には勝てないので「きっと多分色々わからないんだろうなあ」と遠い目をするしかない。とか余裕あること言ってられないけど巻き込まれると、というか、人は直接的な関係がきれても繋がってしまっているので「なんで今更」とか「なんで私が」とか起きてしまう。あー。やっかいですね、人間。毎日「死にたい」という言葉は聞くし見かけるしそれに対してなすすべもないが相手が直接知らない人であっても死んでほしくはないのでまずは「今の状態相当きついしまずいと思っているだろうけどあなたのせいじゃないからね、絶対」と思う。いろんなことが関係していて原因なんて誰にも決められない。起き上がれないし立ち上がれないときは冬眠というか、人間的な部分色々停止させて低め安定でいきたい。本当きつくて辛いだろうけど。いずれ、いずれと願えますように。

カテゴリー
未分類

お菓子

GODIVAのチョコを一粒。コーヒーと。とりあえず。いただきものお菓子でできている身体。贅沢。ありがとうございます。チョコを一粒目の前に置いて、私はこれをパクッと食べてしまうのかな、と自分に問いかける。こんな小さいのになんと表現したらいいかわからないが段違いになっていて何やら描いてある。私はこういう細かい芸術的なところを気にせずに高級チョコをパクッと食べてしまうのか。いやいけない。じっとみてみるがよくわからない。老眼鏡かけてるよなとまた自分を疑う。大丈夫、かけてる。うーん。馬かな。ケンタウロス?違う気がする。うーん。いっか、美味しくいただくのだから、と思ったけど一応調べてみた。まずはGODIVAのWebサイトの商品紹介から。おお、王道商品ではないか。「ゴールドコレクション」ってあるから王道なのかなと思うのだけど。ふむ。レディノアⅡというのか。ハイライト&サーチ。おお、あっという間に答えが。なんだと思いますか?と言ってもお見せしてないからわからないですね。馬に乗った裸婦、レディゴディバですって。ふーん。ゴディヴァのシンボルなのか。うん。美味しい。一粒で満足。ああ、私、絶対食レポとかできない。大丈夫、頼まれていないから。今ふと先日レジ前に特別そうに置いてあったから久しぶりに買ってみたかっぱえびせんのことを思い出した。どれとっても同じ見た目、同じ味、パクパクパク、おいしー、って食べるんだな、きっと。楽しみ。みんなは今日どんなお菓子を食べるのかな。食べない人もいますよね。とりあえず今日は今日のことをなんとかしましょうか。またね。

カテゴリー
未分類

ウトウト

気づくとウトウトしている。おばあちゃんのイメージだが私は祖母のそういう姿をあまり見たことがない。母方祖母は遠方なので会うこと自体少なかったが二人ともよく笑う人だった。こんなとき私が思い出す祖母たちは別の誰かにではなく私に注意を向けてくれている。豪快にでもなく優しく微笑むでもなく、なんの不自然さも感じさせない軽やかな明るさで、足踏みミシンのある日当たりのいい縁側で、土間の向こう、開け放したガラス戸から顔を覗かせて、笑っている。車が入れない路地のスーパーで買ってくれたお煎餅も懐かしい。少しパッケージを変えた同じお煎餅を別の土地で見つけたときは感動した。あの薄暗い、店の人がいたのかどうなのかも印象にない、がらんとしたあの店だけのものかと思っていた。祖父がいないときはファミリーレストランに連れていってくれた。子どもの頃、ファミレスやファストフードは男性陣がいないときにこっそりいく特別な場所だと思っていた。車がないと生活できない土地で歩いていける場所にファミレスがあったことは今もすごく特別だと思う。そういえば祖父と祖母は車を持っていたのだろうか。隣の親戚が代わりに出していたのかもしれない。祖父とはいつもお散歩ばかりしていた記憶がある。田んぼの畦道を通って駅の隣のタコ公園でよく遊んだ。夕方空が真っ赤になるまで。祖父母は隣の市に住んでいたけれど市内でやるような小学校の行事にも自転車できてくれた。今思うと相当の距離を漕いで家にもきてくれた、いつも美味しいみたらし団子をもって。あんこもあったかもしれないが私はそのみたらしが大好きだった。その間、祖母はどこで何をしていたのだろう。あの掘り炬燵で自分だけの特別なお菓子を楽しんだりしていたのだろうか。ひとりでおしゃれをしてファミレスに行ったりしていたのだろうか。単科の精神科病院に勤めていた頃、大正生まれの方々のお話を伺う機会が多くあった。認知症の検査もたくさんとらせていただきその時に伺うご家族からのお話もとても新鮮だった。そんなに頻繁に行っていたわけではない祖父母の前で私はいい子にしていたような気がする。周りの友達みたいに言いたい放題やりたい放題できるような関係ではなかった。問題児ぶりが母から伝わっていなかったわけではないと思うが、大きくいえば私がのれなかったのは学校のルールだけだったので祖父母の家で問題児ぶりが発揮されるはずもなかった。でもそういうことではない、多分。私は祖父母のことをほとんど知らないままだった。祖父母に介護が必要になってからは母から様子を聞くのみで会う機会はますますなくなった。病院で祖父母と近い年齢の方々とお会いするなかで祖父母の話をもっと聞けばよかったと思った。他愛もないおしゃべりならたくさんした。でもおじいちゃんおばあちゃん自身の歴史をもっと聞きたかった。大きくなるにつれて大人の事情は色々と知るようになった。知らないことばかりだった。あの笑顔は私など通り過ぎてどこかへ向けられた寂しさでもあったのかもしれない。一年前の年末年始にはだいぶおばあちゃんになってきた母から母方の親戚のことをたくさん教えてもらった。さっきふと、そういえば子供の頃、と自分がしていた思い違いを思い出したのだけどお湯が沸いた音に立ち上がったらどこかへ消えてしまった。絶対おばあちゃんとのことなのに。

ウトウトしたままupするのを忘れて仕事をしていた。早朝はすでに今日ではないみたい。さぁ電車で移動の日だ。またきっと眠ってしまうだろう。夢で会いたい。

カテゴリー
未分類

ひざかけ、ストーブ、いちご

薄い電気ひざかけを連れてPCの前にきた。家にいる間はずっとこれを連れている。眠るときの布団の冷たさもこれにくるまればなんとかなる。朝はどこかへいってしまっているのが大抵だけどほのかな温もりが残っている場所に手を伸ばせばちゃんとそこにいる。私はそれを掴んで巻きつけるには少し短いけどそんなふうにして動き出す。また後でね、とPC前にそれを投げ出して洗面所へいく。寒い。ついに小さなファンヒーターがつまみを回してもうんともすんともいわなくなったのでスリムでとても軽い縦長の電気ストーブを買った。背中の方にじんわり熱を感じながら顔を洗う。部屋も身体もあたたまってからではよけいに動けなくなる。珈琲を淹れた。とてもおいしかったいちごはこれでおしまい。大きいから半分に切って食べていたが今日はそのまましゃぶるようにして食べた。あまーい。旅先で自分用に買ったチョコの入ったお菓子もひとつ食べた。今日もなんとか出かける準備がすんだ。すでに大仕事を終えた気分だ、さぁ、お布団へ、とはならないか。現実って世知辛い。今日も稼がねば。文庫を何冊か持っていこう。全部読まないかもしれないが寒くて少し寂しくなったときに少し切り替えられるように。みんなはどうしていますか。とっても寒いけどいろんな暖かさに出会えますように。またね。

カテゴリー
未分類

少しずつ確実に

ハラスメントに関する窓口って最初からかなり閉ざされてる。いろんな事例を想定して調べてみるとわかるけど声をあげにくくする仕組みになってると思うほどに。伊藤詩織さんのインタビューでもああするしかなかったというようなことをいってたと思う。どうして傷つけるほうは平然と自分のやりたいことだけ繰り返すのかな。フロイトのいった快原理は正しそうだ。そういう人もまったく痛みや悲しみを感じないわけではないのだろうけど恐ろしく欠如している部分があるのだろう。絶対に非を認めない。認めたら死んじゃうわけでもなかろうに。ある部分に関しては血も涙もなくものすごい拒否的、被害的、攻撃的になってしまう。なんなんだ。その前段階で気づいているのだからいってあげるべきなのだろうけどそれはそれで失うのも怖いとか複雑な気持ちが生じるから簡単ではない。なんにせよ小さな嘘を積み重ねるのはとてもよくない、当たり前だけど。推理小説好きじゃなくても普通に観察してればばれてしまう嘘ばっかりなんだから、たいていは。なんでこれがばれてないと思うんだろう、と思いながらみてみぬふりをして嘘をついたこちらもどうしようもなく愚かなんだろうけど。痛い目にあっても離れないことで離れなかったおまえが悪いといわれちゃったり。そんなもんですかね。そんな簡単じゃないから賢いはずのあなたがそんなわかりやすい嘘つかざるをえないんでしょ、つまり思考停止だよ、といったとしても嘘をついている人にはもうなにも通じない。嘘はつきとおさねばならない。だからばれそうになると逆ギレしたり。基本的な思いやりとか観察する力や関心をもつ力がかなり弱いのかもしれない。それが全般的な弱さにみえてその威圧的な攻撃性を覆い隠してしまって逆にケアされる対象になっていることだってあるかもしれない。特定のことに対する吸収力はすごくても人間のこころみたいな曖昧で複雑で変化するものに対して寛容でいられないのかもしれない。でも自分に対してだけは寛容であってほしいから常にそういう相手をキープしておく。重みや複雑さに耐えられないから。家庭のある人の場合は外へむかいがちかも。身内にはわかっちゃってる場合が多いから。これだけ可視化というか、相手の気持ちなど考えずに自分の欲望のままに露出していく時代になっているにもかかわらずそれができるのは常に強者のみ。だってハラスメントなどの暴力的な行為に声をあげる人の口封じみたいな構造は変わっていないのだから。地獄だ、そんなの。だから模索しよう。女か男かはとりあえず関係ない。依存関係、共謀関係は常にある。前にも書いたが「ひどいことをしてきたのはみんな女だった」と男に相談していつのまにかべったりになっている人とは今の時点では協力は無理かもしれない。お互いの利害関係が絡めば理性など感情にたやすく負けるだろう。私たちみんなそうだと思う。しかたない。そこだって簡単に暴力の場になる可能性はあるけれど愛とか性愛に言い換えてなかったことにしようとするかもしれない。それはそうだろう。そんな簡単ではないのだ。だからこそまずはたやすく敵味方に分断されることのない者同士で手をつなごう。何度か書いたが人間関係は戦いではない。だから今は無理でもいずれ、という希望も保持したい。戦いの場までもっていかざるをえなかった彼女たちから学び、それ以前をどうにかしていくことを考えることは必要だろう。それぞれが被害と加害に関わる可能性のある身として、これからの子供たちのことを考える大人としてできることを実際に少しずつ、でも動くとなったら確実にやっていく力を身につけたい。

※考えてることは「あれはなんだったんだろう」関連。だから重なってる。

カテゴリー
未分類

雑感

もう明るい。土地によって日の出の時間が全然違う。久しぶりに小さな街の小さな本屋に長居した正月だった。私の住む街には以前小さな本屋が2軒あったがどちらもなくなってしまった。彼らは今何をしているのだろう。

SNSのせいか気持ち悪さとか危機感をこちらに感じさせずに忍び寄る侵入者が増えたように思う。会いに行けるアイドルに会いに行くのとは違う、会いにくるある領域では知られた人みたいな人も増えたのではないか。本を読んでいるとそういう近づき方って大抵不審がられたり気持ち悪がられたり逆にもてあそばれたり騙されたりしているような状況が多いと思う。「運命」みたいのはそういうのよりもっと偶然の要素が大きいか長い時間をかけてはぐくまれたものが背景にあると思うし。このはぐくまれるものが二者関係である程度共有されていればいい感じだろうし、大抵は錯覚だとしてもそれをわかりつつお互いを思いやれていればなんらかのいいことは起こりそうだけど邪悪な(昨年よく聞いた。学んだ。)欲望まじりの人を見抜くことは難しいから結局なにが起きるかはわからないから身を任せるしかないのか、となる。最初からひどい目にあう可能性を考慮して誰かと出会うなんてしたくないし。

もうでかけねば。みなさんもお疲れのでませんように。

カテゴリー
未分類

ゆっくり

ツイツイツホームの鳥が鳴いている(575、無季)。機会音も色々だな。早朝から深夜までずっと鳴く。

ずーっと忘れられないというより二次三次と積み重なるせいで忘れられない。なかったことにできる人にとっては「まだいってるのか」とうんざりで別の意味で忘れさせてくれないことに苛立ちながらこれまで通りの日々を送る。

苦しくて悲しいことから逃れられない毎日をどうやって過ごそうか。声をあげた人が「こんなことするために生きているんじゃない」と絶望を口にしなくてすむようにできることは同じように声をあげることだけだろうか。

ゆっくり考えよう。自分には無理、自分の苦しみなんてあの人に比べたらとかも思う必要もないと思う。

ゆっくり考えよう。

カテゴリー
未分類

空しいけれど

寒くなると暖かな場所から離れられなくてそのままうとうとして朝になってしまう。身体がバキバキ・・・。その場の快楽に身を任せるとリスクもあるということね。知ってたけど。学ばない。

今日はすごく寒いそうです。辛いですね。東京なんてマシな方なんだろうけど。

訴えることができていいな、と聞いた。本当だね、と思った。訴えようと思えばできなくはない。請求通りにいく可能性が高いとしても失うものも多い。女性であれば時間がすぎることの意味は身体的なものと切り離せない。そうやって考え苦しむ時間が長引いていることに焦りも強まるが自分ではどうにもできない。毎日体を引きずるようにして布団から出る。何をしていても突然思い出されるあれこれ、記憶は薄れても痛みや衝撃は相手の存在を感じただけで何度もその時の生々しさで襲ってくる。身体を壊し仕事量を減らし収入も減った。それでも生活していかねば。余計なことは考えない方がいい。SNSもみない。相変わらず家族にも周りにも上手に嘘をついたまま地位を維持している相手をみるだけで世界の理不尽に唾を吐きたくなるだろうから。何かしでかしてしまいそうになるだろうから。どうしてしちゃいけないの?「相手が変わるわけではないのだから」。そうだろう。だからせめて公に、と思う。でも相手にも相手が、としたくもない配慮の気持ちも動く。そうやって自分の時間と心ばかりが削られ今日も出かけなければならない時間がくる。声をあげられた人が羨ましい。その苦しみも大変さもわかってるつもり。でもそう思ってしまう。そのリスクを自分はとれない。情けない。自分が悪い。それができない自分が悪い。でも、どうにかして、と無限ループ。

怒りや悲しみとともに今日も本当に辛い思いをしながら生きようとしている人に「あなたひとりではない」と言ったところできれいごとだろう。そんなことはわかってる。私とあなたの体験は違う。それもそうだろう。それでも真剣にわかろうとしてくれる誰かはいた方がいい。あなたの理不尽をぶつけたとしてもあの人にされたみたいに優位な立場からこちらを責め立て、なかったことにされるようなのとは別の体験をしたほうがいい。裁きの結果よりもそのプロセスがその人の傷の予後を左右するのと同じようにこれ以上は。今日も例の衝撃に怯えながら「絶対にまたくる」と予測することでそれを和らげようとする私たちの意識的、無意識的努力は空しいが実際に繰り返されるのだからもっと空しい。今朝はどうだろう。動けるだろうか。空しいし寒いしで散々かもしれないが責任は常にどちらにもある。ひとりで背負うものではないことを確認しよう。

本当に憂鬱な寒さ。せめてもの陽射し。暖かくして過ごしましょう。

カテゴリー
未分類

ダメな人たち

少し前にガラの悪い人と遭遇する率の高い居酒屋さんへ行った。最後に来たのはコロナ以前か。私もこの地域に住んで長いので働き者のお兄さんは結構なおじさんになっていたし、店長は新しいパートナーを得たようだった。「ちょっと待ってて、すぐ席あけるから」とその人に言われて「なんかメニューがきれいになった?」とか話しながら待っていた。下へ降りていくと酔っ払いの大きな声が聞こえた。「女なんかいらねーんだよ!」。もちろん私に向けられたものではない、と思う。「おー、ガラの悪い人いた」と特に気にせず「これ前からこうだっけ」といつも通り曖昧な記憶で久しぶりの店を楽しんでいた。店でかかっている曲とは全く違う曲を歌い出したその人はしばらくするとトイレにたった。いやたてなかった。酔いすぎ。さっきあなたが歌っていた曲からすると同世代ねと思いつつこっちに倒れこんでこないでねと願った。同世代らしき彼らの顔をみて私も歳とったなあと思った。懐かしい歌謡曲だったから頭の中ではみんな若返っていたのが彼らの顔を見たら一気に現実に戻された。立てない彼にどつかれながら細身の若い男性が「すいやせんっ」と私たちにペコペコしながらニコニコした。ドラマみたい。私はその前から彼らの噛み合わない会話がおかしくてしかたなかったのでずっと背中を向けて笑っていたが、今この瞬間は私たちの横を彼が無事に通り抜けてくれることだけを願った。彼がなんとかトイレに入った後も若者がわざと中の彼を煽り、席に残っていた決して私と目を合わせない強面だけどシャイな男性(この感じもドラマみたい)に叱られていた。昔だったらなんとなく会話をはじめた雰囲気だったが今はコロナもあるしエネルギーはないしでクールにふるまった(つもり)。しばらく経って若者の煽りにも反応できないほどだった彼は無事に出てきて再び重たそうに抱えられながら恥ずかしそうにこっちをみた。私もにっこりした。この感じ懐かしいなあ。単純であからさまで品の悪い言葉遣いで賢さのかけらもない。直接話していないのに交流が生まれた。私は彼らの言葉や態度にゲラゲラ笑ったりクールぶったりした。その後も酔っ払いたちはさらに酒に呑まれていたが店長のパートナーらしき彼女が降りてきて威勢よくテンポ良く対応してくれている間に店を出た。大きな声で呼び止めるような人たちではなかったけど最後に目の合わない彼と目が合った。恥ずかしそうに笑う彼に会釈をした。いい夜だった。もう何も考えたくない。何もしたくない。すべてどうでもいい。意識していなかったがそういうときにこういう店に導かれてしまうんだね、きっと。ダメな時はダメ。でもダメばかりでもない。ひとりになれば泣いてばかりでもさっきあんなに笑ったじゃん。そういうのがあればきっといずれなんとかなる。いつになるかはわからないし何度も嫌な目にあったり苦しいのが続くかもだけどこういう世界も存在すること自体に救われる。救い?わからないけど。お互いダメな感じだけどなんとかね。そう思った。

(upするのを忘れてた)

カテゴリー
未分類

日曜日

薬を飲み忘れた、とPCの隣においたプーさんの陶器の入れ物(なんのお菓子が入っていたんだっけな)をみてきづいた。昨日PCに向かわなかったせいだろう。飲み忘れないようにそこに置いてあるのにそこに行かなければ忘れるよねえ(忘れるのか?)。何もやりたくないときは多分やらなくていい、むしろやらないほうがいいときなんだ、と必要な連絡が直前になってしまった。みなさん、OKしてくれたけど。すいません・・。教え子が無事に出産したという連絡もくれた。本当におめでとう。

この前、赤ちゃんのときからよく知っている子どもに「将来の夢」を当てさせられた。大体わかるので3回目くらいで当たった。が「えー、まだそれ系の夢なのか!」と驚きもした。「もうひとつある」という。それも大体わかるので1回目から「惜しい!」と言われた。が正解に辿り着くまでには少し時間がかかった。近接領域が多い。聞けば「あー、確かにずっと描いてたものね」と納得だったが。とにかく表現する仕事につきたいらしい。

健やかで羨ましい。どんな夢でも叶えばいいな。これからまだまだ生きていかねばならないはずのこの子たちの未来がせめて安全でありますように、と願わねばならないような社会は本当によくない。私なんかはどんな辛かろうが苦しかろうがもう残された年月のことを考える年齢だからいいけど。

ランチもいいけど散歩がしたいというのでなんでもいい私はついていった。ただただ受け身でいることである局面をやり過ごすのも悪くない。読書するエネルギーはないけど映画なら座ってるだけ植物園なら歩くだけで驚いたりできる。でも投句締切が重なっている。どうしよう。まあ無理せずできる範囲でやる以外ないよね。できないものはできない。

私にとっては特別だった時間、私にとっては当たり前に生じる気持ち、なんでもかんでも「私にとっては」は独りよがりかな。色々あるのは当たり前。だから時間をかける。たくさん話す。失敗もいっぱいするけどいっぱい大切にする。それがたとえ私にとっては耐え難いとしても耐えうるものだからそうしてきた。この仕事はその最たるものだと思う。双方にとって。独りよがりかな。

日曜に仕事を入れることについてイギリスの精神分析家に指摘されたことを思い出した。色々考えさせらるねえ、といってまた同じ生活を続けてしまうのかしら。

今日は雨降るのかな。東京の周りの県はみんな雨マークと聞いたけどそうなの?一応靴だけ雨用にしていこうかな。乾燥してるから少しは降ってくれたほうがいいのかも。あったかくして過ごしましょうね。良い日曜日を。

カテゴリー
未分類

めんどう

SNSをみてると「めんどくさい」と思うことが多いけど直接人と会っているときにはあまり思わないな、と思ったけど思いますね、強烈に。あまりに別物で忘れてた。

今その違いについて頭の中では吟味してるけど書き言葉にするのめんどくさいから書かない。この場合のめんどくささはたいしたことないけどすでに燃料切れ。

眠れないから夏物でもたたむかとだしてみたけど結局積まれている。だしてしまったからにはいずれやらねばだけどまあいいか。まあいいか、と思えることはめんどくさくない。

映画に行く予定なんだけどその映画館久しぶり。大抵の映画館は久しぶりだけど。最後の回を見てアフタートークをきいて深夜にそこをでた。駅まで少し遠いけど余韻が心地よかった。冬だったかな。夏の身軽な服装ではなかった気がする。今回は昼間だからインスタで見かけたお店でランチしたい。

そのためには何があろうと着々とやるべきことをせねば。こういうときこそ少し前だったらめんどくさいと思ったような気がする。今はただ粛粛と、と思う。

好きな人と会うときみたいなかんじ。一日の仕事を終えて疲れ切っていても実際会えればそんなことは忘れてしまう。ずっと聞いていたいし会話がしたい、ってなる。好きの力は強い、という話をそういえばしたばかり。反転すれば苦しくて眠れない日々のもとにもなるけどむしろそれがめんどくさくなってきたらいい感じかも?時間がかかりそうだけど。

静かに自分の感触を追う。押し付けられても奪われかけても抵抗はあと。じっとじっと。言い聞かせるように。こういうのはたまにめんどくさいけどあとからめんどくさいことになるよりはまし。そう言い聞かせる。

簡単ではない。本来的に生きるのってめんどくさい、とは思わないけど。あくびがでた。少し休もう。

カテゴリー
未分類

日々と

小田急線鶴川駅そばのビルのエレベーターホールから駅の向こう側をみやると輝くように紅葉する木に気づく。ほかの木々も紅葉しているはずなのだがこの一本は魔法をかけたように輝く。私がエレベーターに乗る夕暮れどきは特に。だから私も気づけたのだろう。このビルに通い始めてから10年以上経つがいつ頃気づいたのかはわからない。鶴川は駅を出てすぐに坂道になる。つまり山なので川沿いと山道をよく散歩した。当時は週二日通っていたからお昼を買って散歩に出かけ気持ちのいい場所を探して食べた。川沿いには桜も見事で、そこを通学路とする大学生たちの変化も季節の変化と連動していて楽しかった。坂を登っているうちにいつの間にか人の家の敷地に入っていて呼び止められたこともあった。あの辺は境界が曖昧だ。白洲次郎と白洲正子が移り住んだ「武相荘」も最寄りは鶴川駅になる。正子さんの器とか持ち物が素晴らしかった記憶がある。また行きたい。本を何冊か持っていたはずだが私のではなく母のだったかもしれない。

身体が動くなってしまわないようにどうにかこうにか立ち上がる毎日。ここまで生きていればそれぞれの工夫があるだろう。こういうときそこそこダメでよかったと思う。勉強は平均的だと思うが私は「バカじゃないの?」「あたまおかしい」と本気で呆れられてしまうことをしでかすことが多い。言い方はどうかと思うけどそういいたくなるくらいなことをしでかすのだ。自分でもどうかしてると思う。私なりには理由があるのだけどそれも「なんでそうなるの」ということなので説明しない方が無難。でもこれが心身を救ってもいる。考えれば考えるほど起き上がれなくなる、立ち上がれなくなる。根っこが音を立てて生え始めそうになるのを感じる。まずいまずいまずいと気持ちばかり焦って身体に力が入らなくなっていく。そんなときに「わたしごときが」という開き直りがやってくる。わたしごときが考えたところでこれを脱することはできない。考えるな、感じろ、ではなく、考えるな、ひたすら無心にいつものことだけしろ、である。動けない自分のことなど忘れる。私は今日も起きた。私は今日も仕事にいく。ただそれだけ。ロボットになる。それが成功して無事に一日を終えてこんな時間を迎える頃には朝とは違ってこんなことまでできてしまう。これがもうちょっと賢かったらできなかったかもしれない。考えが緻密になってしまったら変なネットワークができちゃってでも大抵そういうときのそれってエッシャーの絵か出口塞がれた巨大迷路みたいないものなので考えることはできるのに出口塞がれてることとかシンプルな可能性に気づけなかったりするのでは?緻密じゃないからわからないけれど。まあともかくいつも抜け道探してたりサボり方考えてたり「あたまおかしい」とたまに言われてたりするくらいでも大丈夫なのだ。むしろだからこそ生きていける今日だってあるのだ。とか書いているが何かが変わったわけではない。明日も明後日もずっと先もこうなるかもしれない。が、それだっていろいろあるのは当たり前のこと。考えない。考えられるときに考える。みんなの今日はどうだったかな。魔法なんてないけど魔法みたいな景色と出会えた人もいるかしら。ほんと嫌になっちゃうことも多いけどよく眠れるといいですね。また明日。また明後日。なんとか出会っていきましょうね、日々と。

カテゴリー
未分類

唖然としたとしても

ギターがキュイーンっていってそんなパンチはないけど激しく歌うバンドの曲を流しっぱなしにしている。ずっとハードロックに浸っていた日々はいつからか遠くへいってしまった。こうやって聞く分にはどこかしら熱くなりそうな気もするが熱いのはコーヒーのせい。

耐え難く理不尽と感じるのは親密な関係においてだけ(社会の理不尽はデフォルト)というより仕事では「親密さ」そのものが学会のテーマになるくらいその定義は曖昧なのでここでは家族とか恋人とか相手の人生のことも考えながら継続的に築いていく関係くらいな感じで書く。あれ?こう書いてみると理不尽だと思ったけどそもそも親密な関係ではなかったということ?とか思ったり。自分の定義づけによってなにかに気づくのはそこに内的な対話がない場合独りよがり。そう思いたいからでしょう、となる。でも一応私は精神分析のおかげで常に対話状況にあると思うのでそう思いたい自分に気づくことくらいはできていると思う。え?そもそも親密な関係ではなかったってこと?となるとさらに深部を突き刺された感じになる。もうこれ以上えぐれる厚みも残っていないくらいなのにさらに。皮膚みたいな表層はまだその奥を想定できるから希望があるか、と一瞬思ったけど、表面でバチバチ跳ね返していたら結局コミュニケーションにはならないからそもそも心が揺れ動くような関係を持ちにくいかな。内側に入れたくないわけだから。それだったらさっきみたいに「あれ?」とか「え?」とかならないでしょう。そういうのってまさかコミュニケーションの成り立つような親密さが成立していなかったなんて、という唖然さだと思うから。絶望的な気持ちで消えてしまいたくなったとしてもいずれムクっと起きあがろう。私たちは生活しなくてはならない、ならないというわけではないけれどあなたが生きてきた歴史を大切にしてくれる人がたまたまその人ではなかっただけだからそんなたまたまのために何か捨ててしまうのはやめよう。向こうは何事もなかったかのように動けているのに自分だけこうして動けないまま過ぎていく時間が本当に辛くて悔しくてやりきれないと思うかもしれないけど時間はなんにしても有限なので起き上がれるまでのどん底にどうにか耐えたいね。ポカンとしたり号泣してはシーンとしたり、自分の状態をじっと観察したりしながら。

土居健郎のいう「甘え」って大事なんだなと改めて思う。欠損を外から補うことは不可能。どんなに本を読んでもどんなに講義を聞いてもそんなもので埋めれば埋めるほど自分の傷つきにも相手の傷つきにも鈍感で頑丈な自分ができるだけかもしれない。そんな風になってはいけないような気がする、私は。

今日はどんな自分でいられるでしょうね。コントロールはできないとしてもこれまでと大きく変わることもないはずなので無理せずなんとか過ごしましょう。

カテゴリー
未分類

朝日

定点観測していた紫陽花に朝日があたっていた。そこに花が咲いてたの。数ヶ月前。多分目を凝らせばその痕跡が見えるはず。

夕方、海に近い空がきれいだった。ぼんやり歩いていたら声をかけられた。はじめて通る道なのに。この人はいつも私の想定より背が高くてスリム。軽く混乱してわかってんだかわかってないんだか自分でもよくわからないやりとりをして手を振った。

朝の車内は静か。たまに咳がきこえるくらい。まだみんなマスクはしているけれど咳には少し鈍感になったかな。敏感さは攻撃と結びつきやすいからちょっと怖い。

この電車、いろんな人と一緒に乗ったな。いろんな気持ちで。一回きりの人。偶然会った人、何年ぶりかの人、いろいろいろいろ。こんなこと思い出すのはあれだな。秋だな。いろいろいろいろだもの。

先日はじめて会った人と最寄り駅まで同じルートだったのでおしゃべりしながら帰った。見事な同時通訳ができるその人はおしゃべりも楽しかった。関係があるのかないのか分からないけど。

ああ。おなかがすいた。寝不足の影響はもうあまり感じなくなった。「いつも眠い」がそれかな。目の前の女の子はかばんに顔を埋めて眠ってる。だいぶ横に傾いてる。でもさっき握ってたスマホが落ちたのを両足でしっかり挟んでキャッチしたのはすごかった。眠ってても反射神経。茶色い髪に朝日がきれい。私はこっち側に座ったことを後悔。断続的に強い光に襲われて手元もみえなくなる。しかもきちんと一瞬あつい。この子も太陽もすごい。

ぼんやりぼんやり周りをみながら今日も過ごす。優しい人の言葉と会いたいな。とかあえて思うのはやっぱり疲れてるからかも。少し眠ろう。リュックに顔を埋めてしまおう。たまにあっついけどいいお天気はありがたいよね。それぞれに良い一日でありますように。

カテゴリー
未分類

かいぶん

早朝の雰囲気が本当に冬に向かってる感じがする、と思いながらいつものコーヒーを飲んでいた。贅沢ルマンドバタースコッチキャラメル味がお供。「贅沢」とあるから買ってしまったんだ、きっと。書かれなかったら「たかっ!」と思って買わなかった、多分。完全に戦略にのっている。まあそんなことばかりで負けつつもなんとか生き残っている。美味しさにかけては贅沢したい。美味しさで生き残れているのかもしれないしね。

洋服はほとんど買わない。いまだに大学生の頃の服を着ていたりする。今年も同じ服ばかり着ていた。衣替えはいつからか中途半端で季節と合う服を出してはもう着ない服をしまうという感じ。毎日そうしていれば違う服も着つつ衣替えもいつのまにか完了するのかもしれないけど洗ったらまたそれを着てしまうからなかなか交換が進まないまままた次の季節になる。眠った服は二度寝三度寝。防虫剤だけはいれとくね。次の季節こそは!おやすみなさい。まあ、私は人間関係も取っ替え引っ替えする方ではないし(普通か)何かを披露したい方でもないからこのあり方がちょうどいい気がする。

昨晩、帰りの電車で回文を考えていた。よくやる。そしていつも通りひとつも思いつかなかった。

小学生のとき回分って流行らなかった?布団が吹っ飛んだとか?いやそれ親父ギャグ。「(思いつかん)」いやそれ怪文。ボケしつこい。だって真面目につっこむから続けたほうがいいのかなと。わたし負けましたわ。なに急に。だから回分だよ。戻ってきてよ。すごい!ネットで拾った。仔猫かよ。こねこ!

みたいな会話を脳内で繰り広げながら考えたが無理だった。電車に乗る時間がもっと長ければ。いやそんなことはない。回文は手強いぞ。

村上春樹作、友沢ミミヨ絵『またたび浴びたタマ』という小さくてとっても素敵な回文絵本(というのかな)を密かにオフィスにおいていて時々めくっては喜んでいる。

えー、どっちから読んでも同じだったの?えー、私たち逆から読んでただけってこと?漢字が違うと感じ方変わるよね。という感じで今日も多様なコミュニケーションに対して寛容でありたい。

あー回文思いつかないかな。朝の通勤電車でもやろう。お時間ある方はぜひ。できないのが普通(当社比)だからできなくてもストレス溜めないでね。別のことでもきっと色々あるでしょうから。なんとか過ごしましょう。

カテゴリー
未分類

浪費

つくづく世界を消費するのが好きな人たちだな、と思いながら画面を眺めてすぐに閉じた。何年間もそうやって生きてきたんだなあ。カオナシみたい。ああであるとはバレないカオナシ。バレた方が幸せだと思うこちらがおかしいのかもしれない。生き方ってある程度一貫性がないと接している方は不安になるから。ある一言で人生変わったみたいな話もそれだけで変わってるわけじゃないし。その言葉を待っていた、ただひとつの願いを実現するために、ということだってあるし、なんかぼんやり生きているうちにすっと入りこんでくることもあるし、なんにでも経緯がある。

世界を浪費する人たち。と言ってもエゴサばかり。世界ってもっといろんな人が次に世代を繋ぎながらケアしあいながら過ごす場所かと思ってた。戸惑いと躊躇いが言いたいことを言えずにさせるけどそうであっても汲み取ってくれる関係が基盤かと思っていた。

現実はそうではない。ドラマとかでよくあるような、現実にはもっとあるようなスプリットの典型として。「きちんと帰ってきてやっただろう!」飲み歩いて帰ってきた父親の怒鳴り声。怒鳴り声に萎縮して黙りこむ母親。寝たふりを準備する子供たち。さっきまで一緒にいた人たちはこんな姿知らない。

とか。

浪費。歴史も知らない未知の土地に踏み込んでそこが持つ歴史的な圧に耐えられないまま「!」付きで世界に構われにいっている人たちと変わらないように思うのだけど何が違うのだろう。心優しいあなたはこう言われてあの人はそう言われているのマジでおかしい、と思うことがあるけどほんと何が違うのだろう。

言いたいことはすでに言えない。なんて言われるかわかってるから。辛くても軽めにしか言えない。ほしい言葉は返ってこないから。期待してもっと辛くなるのが嫌だから。

ほかの人に対する態度と自分に対する態度を比較するだけだとひどく傷つくことが多いから「何が違うんだろう」とかいっている。理由探しをしてしまう。どっちにしても口だけの人たちだよ、そういって距離をとればいいのに。面倒とわかっていて傷つきながら付き合っていくのはなぜだろう。昨日と同じ結論ということは毎日同じ結論。不毛。それでも結果から学ばないのはなぜだろう。それはそれでそういう人だからか。

こんなことを考えながらうとうとしていろんな景色を見たけれどすでに忘れてしまった。過ぎたことは過ぎたこと。とりあえず今日を。

カテゴリー
未分類

そういうもの

ひとりアンビバレントもふたりからそしてその周りから生じたものだけどそこにとどまって言葉をまつだけの人はやっぱりひとりぼっちだしひとりぼっちにさせていることに気づかない人は二人あるいはそれ以上のふりして人の気持ちがわからないという意味でひとりぼっちだと思う。わかりたくないとしたらなおさらそう。

自分の邪魔をする人は中に入れてあげない。自分を気持ち良くさせてくれる相手が好きなんだ。

「そうなんだね」しかない。

そういう人は一見人気者に見えるかもしれないけれどよく見れば、いや見なくても、その支持者はいつも同じで広がりがない。とても狭い世界で、変わらない自分のあり方を愛してくれる人が集まっていればそれはそう。

でもこういう心性は誰にでもあって一部で人気の人たちみたいに偽装上手になれない人にとってはものすごい不適応の原因となったりする。同じ心性をもって同じように自分自分自分なのに、と思うかもしれないけど偽装できるって大事で剥き出しの自分を隠せずにいたらそれは受け入れてもらえない可能性が高いに決まってる。

「決まってる」のかなあ。

「おまえもじゃん」と言い返せる力がないから口のうまい人たちと差ができちゃうのかなあ。同じじゃん。むしろ内と外が違いすぎるおまえたちの方がいろんな人傷つけててやばいじゃん。

比較になんの意味もない。自分はどうするんだろう。自分はその人とどうするのだろう。これからどうしていくのだろう。結婚とか出産とかが大きな節目になるのは二者関係の重みが際立つからというのもあるだろう。責任が問われる。でもそれさえいくらでも見て見ぬ振りができる。自分がどうありたいか。相手を相手の歴史を相手の状況を考えられる人は自分もそうしてきてもらっているはず、と考えていいのだろうか。逆にそうしてきてもらっていないから仕方ないと諦めるのってだいぶ違うと思うけど。

こんなことも考えていてもしょうがない。いやしょうがなくない。行動につながることだから。めんどうだけどしかたない。そういうものそういうもの。

カテゴリー
未分類

真夜中と早朝の間に書いてる

大好きなお布団にたどり着けずに眠ってしまった。思ったより身体バキバキじゃないかも。よくやることとはいえ気をつけねば。

昨晩写真付きでツイートしたつもりが写真を添付していなかったことにあとから気づいた。学生時代、テレビがなくてラジオでドラマを聞いた。あの感じ。泣いたなあ、あのドラマ。電波悪くて調整したりしながら。なんのドラマだったか。「トレンディドラマ」ってやつだったと思う。「トレンディ」なんて言葉使ったことないままあれから30年近く経つ。人生あっという間だな。と思うとき私は還暦を一区切りに考えているから本当にあと少しなのだけど100歳まで生きる想定の人は「まだあるのか、オレの人生」と思うかもしれない。と書くとき私はネガティブな意味で書きながら「まだあるのか、オレの人生、やったぜ」と思う人もいるか、と思ったりする。私は愛する人たちを愛していける人生ならいくつまででも生きていたい、かといえばそうでもない。やはりいずれ死ぬという前提があるから愛してもいけるのだろう。

何を朝から。まだ朝ですらないのか。でも真夜中というには朝だ。それにしても寒がりすぎるな、私は。上からも足元にも暖房が必要。循環悪すぎる。乾燥もするようになってきた。面倒だけど対策しないと痒かったり痛かったりあとが大変だからがんばりましょうね(きっと同じタイプの人いると思う)。

今のこれを仕上げたら安心していろんな本が読めるのだからやらねばな、やらネバダ。っていう大人が私の子供時代にいた気がする。あれなんだったの。ギャグでもないというか。親だったらどうしよう、と一瞬父親の親父ギャグを思い出してしまった。父親の親父ギャグってなんかそのまますぎる気もするが特にひねりを加える必要もない(当たり前だ)。

色々気になるが信じる。伝えなくても伝わっていると。そんなはずはないとも本当は思っているけど忙しくて余裕がないなか伝えても誤解が生じるだけかもしれない。だから「信じる」となんとなく陳腐に聞こえるようになってしまった言葉を自分にだけは確かなものとして使う。独りよがりでもいいや、今のところ。

まだ明るくなってないみたい。仕上げたらひと眠りしよう。

カテゴリー
未分類

スイーツ

まだ10月というのにお布団が一番好きという人になってしまった。秋のスイーツは相変わらず楽しくいろんな人とそんな話ばかりしている、スイーツを食べながら。

秋は人が出会ったり別れたりも多いというか彩りを添える絶好の季節なのか恋の話もたくさん。出かける気になるもんね。私はもうお布団が一番だけど。

彼や夫のことを男性に相談してしまうことで得られたり失ったりするものとか、女友達にはバレバレなことがなぜか彼にバレない、夫はみてもいない、いやそういう部分はみたくないという向こうのニーズとあっているのだろうとか、恋愛ごっこに時間をさけるのって幸せかもねとか、配偶者と老後と死について話し合うなかで知った新事実とかこれまでとは違う愛の形の模索とか。

「恋愛」といえている間は関係が移りゆくことが前提なので秋と相性がいいのかも。冬の恋は冷めてしまうと本当に辛いだけ。寒いだけでほんと気が滅入る。温かいペットボトルで暖めあうくらいの関係を秋のうちにキープしたい。

鈴木涼美さんが書く恋愛に関しての記事にはいつも納得しかない。女のリアルな話をたくさん聞いてきた女は女に優しい。でもこれはある程度年齢がいっているからこそかもしれない。いや、でも私の年齢でもお姫様みたいな人もいて姫にお付き合いして男性性を維持している人もいて家ではパートナーが泣いていたりこっそり相談機関を活用したりしていたりするのも世の中のリアル。困ったら相談って大事。「恋愛」とくくることで見て見ぬ振りをしている部分が問題になってくるとその相談はもはや「恋愛相談」とかいっていられない感じではあるが、「恋って秋っぽい」とかいう余裕があるうちは困ったらまず鈴木涼美といいたい。女友達の優しさ。という話をしていると必ずお勧めとして登場するのは叶姉妹。これもわかる。先輩って大事。

だって女の立場は弱い。そこに身体的にも共感のある人が苦しむ女子の周りに多くいますように。男性や物語やお勉強も助けになるけどまずその前に。人と関わること自体が辛くて別の視点を取り入れること自体に負担を感じる場合はお布団かな、まずは。リズムある生活も大事。もろく傷つきやすいこころにも身体にもまずは休息、そして無理のない刺激。カーテンを開けるところからっていうでしょ。秋のスッキリ涼やかな陽射しだったらお布団かぶりなおして再び夜のふりしなくてもいられるかも。毎日色々あるね。スイートなことばかりではないわよね。今日もなんとか過ごしましょうね。

カテゴリー
未分類

書き連ねた

昨日とても美味しそうな梨が届いたので早く食べたい。でも作業が先。寝不足なだけで全然進んでない。梨の水分大好き。ちょうどいい甘さ。思い浮かべてる時間があったら食べた方がいい気がする。

パラドキシカルな文章をパラフレーズするというのは難しくて結局繰り返してるだけみたいになって袋小路にはまる。

毎日偶然とはいえ少しずつどうしようもなさを垣間見る場面に出会ってどうしようもないものにどう関わっていいかわからず途方にくれ沈黙する。偶然じゃなくて私が見ようとしてこなかっただけかな。

学会で福岡からくる友達とごはんを食べる約束をした。コロナで会えていなかった。何年ぶりだろ。私も福岡へ行きたい。福岡は空港から街まですぐにでられるからいつでも行きたい。昔、家族みんなでいって福岡の街で遊んだ、学会に少しでつつ。なんでだったか。まあなんとなく理由つけてどこかへ行くというのはいいものだ。

臨床で起きていることを耳障りの良い言葉にすることはできないな、私にはと思う。いってることとやってること違う問題は仕方ないにしても。普通じゃないことをまるで普通かのようにやっているけどはじめて言葉になること、はじめて生じる交流のインパクトは誰かに伝えるために起きるのではない。伝わらないとわかってるから起きたんだ、ということもしばしばだから。

こんなことを書き連ねている場合ではないんだった。すぐ忘れてしまう。あー。もう。とりあえず梨をいただこう。ウィニコットのことでいっぱい書きすぎてしまったのをどうにかせねばと思うけどとりあえずあと。毎日とりあえずばかりで溜まっているんだか少しは片付いているのか全然わからんや。まあ、体調だけは気をつけて過ごしましょう。

カテゴリー
未分類

ウトウト

久しぶりに朝から時間があった。早朝から何をしていたか覚えていないけどフランス革命の話が何かで出てきてそれに関する本を読み始めたらすぐに眠ってしまった。まだこれしか経っていない、まだ○○時、とウトウトしては起きてを繰り返しているうちにそれなりの時間になってきてお昼どうしようかなとなった。カフェで仕事しようかなと思ったけど最近のカフェは怖くなるくらい寒いのでそんなに魅力的な計画とは思えなかった。変でしょ、あの寒さ。外は暑くて冷たい飲み物を飲みたいのに中は寒くてあったかい飲み物を飲んだとしてもすぐに冷えちゃう。変でしょ。

隣駅まで歩いた。よくいくカフェはおやすみ。どうしたのだろう、最近。この前は開店時間を遅らせるって張り紙があったけど。何かあったのかな。今回は張り紙も確認せず遠目に閉まっているのを確認して電車に乗った。上着を2枚リュックに忍ばせていたけど電車はノースリーブのワンピースでも寒くなかった。最近、電車は寒すぎない。節電?コロナの状況はどうなんだろう。今は以前より感染したことを公にしやすくなっているように思うが、当時のあれはなんだったのだろう。人のこころは脅かされやすく言葉達者な人たちは争いやすい。SNSを眺めながらそのやりとりをここでやる意義とは、さらにその状況や他人の言葉に素早く乗っかって賛同や反対の意を示すことで生じることとは、など考えた。よくわからないが私はやらない、少なくとも反射的には。その内容よりそういうやりとりのあり方自体に問題を感じるので身近な人が乗っかっていると残念に思う。が、相手を励ましたいだけかもしれないし、そういう「優しい」関係はどんな残酷な状況でも存在するし、それが何かを変えていくのかもしれないのだからそれぞれがそれぞれのやり方をすればいいのだろうなと思う。私は寂しさや失望をじっと感じながら何もいうまいと思ったりもした。

いつものルートを歩いても寄りたい気持ちにならずそのビルを出ては次のビルへ入った。あまりおなかはすいてないけどこの前知ったばかりのお店に行ってみようと思った。お肉とごはんをもりもり食べて元気になっていくお客さんを見るのが楽しかったから。私はもりもり食べられないけど雰囲気をいただこう。

日曜日は空いていた。すぐに入れた。赤ちゃんを連れたご夫婦が二組、赤ちゃんは一人はお母さんの膝の上に立って壁で何かをしており、一人はベビーカーで一点を見つめ、それをお母さんが面白そうに見つめながらお肉を頬張っていた。あとは年齢が読めないけど似た顔や髪型の4人グループ、多分家族。狭いテーブルいっぱいに広げられた白いお皿にこんもりふわふわの湯気をあげる白ごはんやお肉たち。どんどん少なくなっていく。保育園だと「ぴっかりーん」と空になったお皿を褒められる場合がある。ぴっかりーんだった。背後で「美味しそう!」と声をあげる元気な人と誰かたち(声しか聞いていない)、斜め前には首周りのデザインが可愛いニットを着た細身の人。ここははじめてらしく立てた携帯で何かをみつつもキョロキョロ。ほかの人がレジの方へエプロンを取りに行くのをみて真似ていた。そんなところにそんなのがあったんだ、と二度目の私も学んだけど取りに行かなかった。バチバチはねたらでいいや。いろんな場所からごはんのほかほか湯気が上がっていてそれだけで楽しくなった。この前とは別のお肉を試してみた。いろんな味も試してみた。美味しかったし黒胡椒が一番合うなとか思った。でも途中からおなかいっぱいで気持ち悪くなってしまった。これもいつものことすぎてどうにかならないものかと思うけどしかたない。お会計を済ませてノロノロと歩いていると少しずつおなかがこなれていく感じがしたけど仕事の時間以外ずっと寝たり起きたりしていた。前に書店でもらってきたフリーペーパーで知らない作家の文章をちょっと読んだか。あと谷川俊太郎が誰かとしている往復書簡の谷川俊太郎の分も。お坊ちゃんだったんだって。知ってた気がする。そうであることで同じ出来事を多くの人と少し異なる形で体験したかもしれない、というような語りだったと思う。ぼんやりしながら思い浮かぶ相手に気持ちだけ飛ばして自分からは誰とも連絡をとらなかった。

夜、ブルシット・ジョブという言葉をぼんやり思い浮かべた。朝から晩までぼんやりしていた。ブルシット。「やってらんねー」という感じかなと思った。でもやってるんだよね。「やってらんねー」と自分で言うならいいけど相手に「ブルシット」とか言われたくないなと思った。「不要不急」もそうだったけど「なんであなたが決めるわけ」というようなことって多い気がする。人の言葉を簡単に自分の言葉にするのと同じ態度な気がする。何を防衛したいわけ、と思うのは仕事柄か。そう思いながらも関わり続けていること、注意を向けたいのはそちらの側面。

あ、またウトウトしてしまった。寝ても覚めても覚めても寝ても。いいことありますように。

カテゴリー
未分類

未分類

消せば暑いしつければ寒いものってなーに。冷房。いや、冷房のせいにしてはいけない。もう15年前のものとはいえ除湿機能だって「除湿」と「衣類乾燥」と「冷房除湿」の三種類ある。温度だって調整できるのにそれらの機能を使わずなんとなくつけたままなんとなく寝るから寝たり起きたりになる。と頭ではわかっていても最近少し涼しくなってきたのをいいことに油断(?)が続いておりますね。というわけで今朝も身体がバキバキ。部屋を出たらまだまだムッとした暑さで少し身体がほぐれた。

それにしてもなんとなくわかるのは「衣類乾燥」だけなんだけど。「除湿」って普通の除湿?普通の除湿って何?何がどう違うのだろう。さっきまで冷房だったのだけど「冷房除湿」ってやつに変えてみよう。冷房より身体によさそうだ。

具合の悪い人といるとどんな感じだったら負担にならないかなあ、と一緒にいる感覚を頼りに言葉や態度を調整しようとするけどこれがなかなか難しい。身近な人だとなおさら。具合が悪いというのはその人の調整機能がいつもほど働かないということだから「良くする」ことはできない(「良くする」ってなに、とか思ってしまうからそもそも使いづらい言葉だな)としても医者にかかることを勧めたり外側の力を活用することはしたい。すでにここからハードルが高かったりする(医者嫌い、薬嫌い、はそれはそれで事情がある)がそれはクリアーしているとして、辛くてしんどい状態にあるその人は調整機能不全によりいろんなことを負担に感じやすい状況にある場合が多いのでせめて現状維持、機能がどんどん落ちていきはしないから大丈夫、ということを余計なことをと思われずに伝えるにはどうしたらいいのかと悩む。そして失敗する。仕事柄、いろんな症状や状態に慣れているし知識のある部分もあるし色々わかっちゃいるが失敗する。冷房に対してと同じか。いや違う。人間は単に「機能」とかいう言葉で括れない。ひとりひとり反応が違いすぎる。コミュニケーションをしようする限り失敗はつきものだ。そういうズレがあるからこんな多様な集団でやっていけるのだろうけど。もちろん人間を二種類とか三種類に分けてしまうような人もいるだろうけどそういうのには静かに抵抗するのみ。バカに見えても、いや実際に私はバカなんだろうけどそこまで単純ではないんだよ、分けるにしたってもっと種類あるだろう、と。

8月31日に尾久守侑『偽者論』(金原出版)というキラッキラ(動画を見てびっくりした)の表紙の本が出る。前作なのかな、詩集『悪意Q47』(思潮社)を読んで現代詩ってこういうものなのかという驚きとともに「この嫌な感じ知ってる」と若い頃の感触を思い出した。安心した子どものような、そうせざるを得ない自分に対する悲しみのような、狂気にはいたらない苛立ちのような混ぜこぜの書き方が印象的な詩集だった。『偽物論』という書名を見たときもこれはfakeかfalseかと思ったが何かのツイートでfakeという写真があったのでそっち要素が強いのかな(そっち要素ってなんだ?)。

私は「偽」という言葉を見るとどうしても精神分析家のウィニコットのfalse selfを思い浮かべてしまう。false selfでこの多様な世界になんとか適応している私たちに真実とか良さとかあるんだかないんだかわからないもの押しつけないでほしいんだけど、と誰にともなく思う人だっていると思う。

昨日、町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』を笑いながら読んでいた。BGMは町田康「犬とチャーハンのすきま」。

町田康は「なんで俺は」を考えるのが本当にうまい。「なんで」とか言いつつ全然原因探しなんかせずにどんどん思考を展開させる。そうこうしながら「もしかしてこうだったんじゃないか」というところに辿り着くときにはいろんな出来事の厚みが増していて「まあどう思おうとそう思う余地は十分にあるよな」という気持ちにさせられる。正解とかないだろう、世界って、と大切な人に何もできないどころか余計なことをするという失敗を繰り返す自分のことも少し許容できる。ごめんよ、今のところこんなことしか。

「犬とチャーハンのすきま」に「うどんのなかの世界」って曲があるんだけど「〇〇なんかもいれてみればいい、大丈夫。」という無責任さが重苦しくも清々しいかっこいいが変な曲だ。「うん?うどん?」と正気に戻るときにはどこかが少し広がっているような気がした。

朝から何書いてるんだろう。このブログ「カテゴリー」というのに分けられるんだ、そういえば。私的デフォルトは「精神分析」なんだけど、多くは「精神分析、本」にしているかも。自分で決めたカテゴリーだからなんでもいいのだけど、今日も本のことは書いたが「未分類」にしよう。

カテゴリー
未分類

頼もしさ

机に向かうのが少し遅くなった。鳥たちはもうバラけてるよう。

どうしても気持ちが強くむいてしまう人やもの、ことに振り回されているうちに受身でいることを選んだ気がする。どちらにしても壊れていくなら私を保てる時間を引き伸ばせる方を思ったのかもしれない。

1歳3ヶ月になる子の隣に座った。「久しぶりだね」口をキュッと結んでチラチラと私をみるが不安や緊張が高まってはなさそう。突然のことで引越し祝いも誕生日プレゼントもあげられなかった、とあとから気づいた。録画された昔の「みぃつけた!」が小さな音で流されていた。違う。「いないいないばぁ!」だ。ワンワン大活躍だな。テレビを見たり私を見たり立ち上がってテレビに近づいていって転んで立ち上がったりしているうちに声を出すようになった。今日は特別だから夏の彩りの美味しいお弁当を買っていった。コーンと枝豆のまぜごはんもきれい。この前は二段重ねの小さなちらし寿司だった。一緒に食べようと椅子にのせると前に置かれたごはんを見て大きな声をあげた。食べよう食べよう。私たちのごはんもじーっとみている。まだこちらの目線など気にしないのもいい。今のところ食べるのが大好きだそうで本当にモリモリ食べていて頼もしかった。コーンが大好きでねだっては一粒のせてもらい美味しそうに口に入れてた。美味しいよね、私も好き。前回は持つことはできても飲むことができなったマグをひょいと片手で持ち上げて上手にストローでお茶を飲んでいた。頼もしい。このくらいの年齢の子を見ていると「頼もしい」とよく思う。慌ただしくも楽しい時間が過ぎるなか、いつから自分が壊れることを想定するようになったのだろうと一瞬思った。

ごはんを食べ終わってまた隣に座る。すっかり懐いてくれている。あまりにかわいい笑顔で私をみたので友人と顔を見合わせて笑った。前より広くなったスペースでよく動く。小さないないいないばぁをたくさんする。そういえばマグにタッパーの蓋をのせて外すような動きを私に披露していたのもいないいないばぁだった。フロイトがfort-daと言いながら糸巻き遊びをする子どもに惹きつけられたのもよくわかる。繰り返されるけど少しずつ変わるそれに。この前はちょうどつたい歩きができるようになった頃だった。椅子は手押し車のようでそれは今回もそうだった。おむつを替えたあとポイポイとおむつをカゴの外に出しはじめた。「入れといて」と特に期待もせずいう私たちの言葉よりみられていることがなんらかのやる気を出させるのだろう。わからないがおむつを一つカゴに戻した。私たちが手を叩いて褒めると頬が緩んだ。この年齢の子の表情というか表情筋?微細な変化が遠目にでもわかる、遠目というほど距離とらないけど。もう一つ戻す。また私たちにニコニコと手を叩かれる。また戻す。繰り返す。いないいないばぁの変形ver.だね。途中から自分でも手を叩き、小さな手で上手にタッチもできた。ニコニコさんだ。別にお片付けなどできなくてもいいのだが(全く片付けられない大人との引っ越しストレスの話もした)何かをしては喜ばれる、そんな体験はたくさんあってもいいと思う。私がその動きを忘れかけた頃、その子がとっても明るい顔でそばにきて両手を叩くようにして合わせた。思わずニコニコした。お片付けしてくれたのね。すごいすごいありがとう、と私も手を叩く。一緒に叩く。笑う。幸せ。

いつからこんな風にできなくなったのだろう。思い思われること、動きを呼応させること、何も難しいことはないのに。

昨晩は私たちがネット上に立ち上げた小さな句会の投句締切だった。彼らと過ごした時間のおかげでいつもと違う気持ちで言葉に向かえた気がする。

壊れることを想定しない自分を前向きというのかな。彼らには前も後ろも過去も未来もまだないか。これからたくさんの分離を経験するなかで今ここの幸せが幻だったように感じるときがくるかもしれないけど大丈夫だよ、と言ってあげたい。あなたは今こんなに頼もしくて私たちを幸せにしてくれる。それを私たちが覚えている。覚えていたい。いずれ過ぎる、いずれ終わる。それは本当のことだけどそんなことあえていわずとも今ここに委ねられるように今日も過ごせたらと思う。

今日は火曜日。無事に一日過ごしましょう。

カテゴリー
未分類

光で混じり合う領域

カーテンを開ける。レースのカーテンが少し破けてきた。確かにそういう年月が過ぎたかもしれない。満月だ。空はもうだいぶ明るい。でも満月もしっかり光っている。太陽と月が一緒にいる時間はなくても光で混じり合っていく。

せっかく楽しかったのに、限られた時間しか一緒にいられないのに、今そんな話してなかったのに、私が嫌がると知っているのに・・・。

こう並べているとだんだん自分のいってることが馬鹿みたいに思えてきてさっきまでマグカップの湯気で誤魔化しつつ涙ぐんでいたのがスーッと冷めて無表情になる。こういうのは私のわがままだから相手にとっては理不尽なだけなんだから考えても仕方ない。さあ帰ろう、と立ち上がろうとする。

一応専門家としては全然仕方ないとは思わないけれど。

ひたすら自分のなかでこなしてこれは誰のせいでもないというところに落ちつける。人は自分の欲望を優先させたいものだ。ちょっとした好奇心を満たすことの方が好きな人へのちょっとした愛情表現より優先されることなんて誰にでもあるし実例ならSNSに溢れている。してほしいこと、してほしくないことなんてそんなはっきりしているものではない。こちらには一番重要なことでも相手にとってはどうでもいいということだってありうる。様々なズレの中でどう均衡を保つのか、相手の自由も自分の自由も尊重するってどうすればいのか。大切にしたい人にどういう態度を取れば大切にしていることになるのか、もう、なんだかケアという言葉について考えるときと同じ難しさがある。

餌を与える、という言葉がちらつく。嫌な言葉だ。その人の特徴をよく知っている。こうしたらこうなるということを知っている。だからこうしておけばいい。こうなるのは仕方ない、だから慣れないと。私がここで反応しすぎたらその人はなおさらそれをするだろう。なんの悪気もなく、忘れてたルーティンを思い出したかのように。だったら反応しすぎる私の問題なんだろう。

臨床でもそうだが、私たちは関わりがつらくて仕方なくなると相手を変化しないものとして捉え始める。相手にとってもそのほうが楽な面もたくさんある。でも変わらないってありえるのか、お互い。

マグカップを両手で握るようにして頭を垂れる。頭で考えているうちに落ち着いてくる。これを知性化というと頭の中でいう。だいぶ落ち着いてからその人のことを具体的に思い浮かべる。気持ちがざわつき始める。なんだ何も落ち着いてないじゃないか。自分に嘘をついてる。本当のことがいいたい。それが私のわがままでどんな馬鹿らしいことでも私はそう思った、私はこんな気持ちだった、もう我慢したくない、といいたい。

また涙が出てくる。頭で考えてるだけじゃダメだ、やっぱり。今日した会話を思いだす。たまにしか会えなくても積み重ねてきた言葉のやりとりを思いだす。冷たい手も暖かい手も思い出す。悲しいことより理解しあおうとする時間の方がずっと長いことに気づく。いつもこの繰り返しだ。どうしてすぐに小さな方に反応してしまうのだろう。もちろんその一言に私が反応するのにも理由がある。でもお互いを知るほどズレもたくさん知ることになるのは普通のことでは。だから言い合いをしたりほかでは感じないような気持ちになったりする。親密さは大抵強い気持ちとセットだろう。

ちょっとした好奇心を満たすことの方が好きな人へのちょっとした愛情表現より優先されることなんて誰にでもあるし実例ならSNSに溢れている、と書いた。データをとったわけではないが印象では子育て中の夫婦、特に母親側に多いつぶやきな気がする。辛いなと思う。なぜその一言が言えない、という事態は第三者が登場すれば増える。二者は常に第三者に揺さぶられる。そこで私たちが感じる気持ちはどうしたらいいかという話以前にまずは無条件で傾聴されるべきだろう。とても簡単なことなはずなのにそれを求めることすら許されないという絶望を抱えていれば自分に対してもどんどん懐疑的になる。それは辛い。もちろん湧き上がる衝動を抑圧し無理や我慢にとどめるか、もう壊れてもいいとぶちまけてみるか、それぞれのあり方はどれにも間違いはないだろう。それに関係というのはずっと続ければいいというものでもない。選択肢があることを忘れてしまうほどに身動きが取れなくなる前にお互いがお互いの光に支えられていることを感じる瞬間が生まれたらいいのに。

私はできたら時間をかけたい。限られた時間をお互いにとって開かれたものにするために言葉にするまでにも時間をかけたい。そこには確かに無理があって嘘っぽい自分にうんざりし泣き過ぎて頭痛で起き上がれないこともあるが、とりあえず事実に即した気持ちを優先的に描写することをしていきたい。結局臨床と同じみたい。

どうにもならない気持ちのときほど別の仕方を探せたらいいと自分に願う。与えられた構造が有限であるのは当たり前。それでも私には長すぎる時間だったり広すぎる空間だったりするのだろうからそっちを意識したい。ただでさえ限りあるものをさらに自分サイズにしてなんていたらそれこそ独りよがりだもんね、と持ち直していきたい。

どれもこれもまた心揺さぶられたらあっさり忘れそうだから宣言ではなく希望として書いておこう。すべき、やらねばという言葉で自分を縛るのも変だと思うから。

太陽と月。光で混じり合う。そういう領域を増やせたらいいな。

良い日曜日を。

カテゴリー
俳句 未分類

台風、見通し

台風が近づいているらしい。外国だと台風には名前があるよね、と思ってwikiをみてみた。今はアジア名というのもあって日本からは「琴」とか「山羊」とか星座に由来した名前を提案してるんだって。最初「日本 yagi やぎ 」の並びを見たとき2度見したけど星座ね、なるほど。琴座って久しぶりにみた。アメリカのハリケーンは人の名前で好き勝手に投影できてしまうせいか「それは合わないのでは」とか思わないけど日本の台風は数字で呼ばれているのしか聞いたことがない気がする。

今空は静かなのだけど台風前のなすすべなしな感じってこれまでの経験からきているのかな。時折強く吹く風、そしてまた静けさ、突然降っては止む雨、そしてまた、という繰り返しにリズムを見いだせないことが見通せなさに対する諦めを生じさせてるのかな、とか。

今思い出したのだけど今日速達で出さなくてはいけない俳句を投句用紙に清書していない。昨日のうちにやろうと思って持ち歩いていたのに投句用紙が載っている結社誌もない。どこ?持ち歩いていてオフィスで出しておいてきてしまったのか・・・。多分そうだ。もー。締切間際に作って安心、という態度もいただけないが、無くしものの多さよ・・・。こういうのは何度もやっているので予測がつく。見通しがつく。相手は台風ではなく自分だもの。なのでなすすべなしではないが、こんな自分にはいつも軽く眩暈がする。やろう。探そう。なかったら別の手をうとう(あるのかよ)。

あー。兎にも角にも台風でもなんでも自然にはなすすべなし、とはいえ、被害が生じませんように。気をつけて過ごしましょうね。

カテゴリー
未分類

立秋と二度寝

虫の声だ。今年も立秋の日にそう思った。夜が急に静かになった。

新宿駅西口を出て歩いているとどんどん蝉の声が大きくなる。新宿中央公園全体の形が自然に脳内に描かれるのはこの季節だけだ。

光と音でその距離を測れることを子どもの頃に知った。地元は雷が多い土地だった。空が真っ白に光りしばらくすると遠くから地鳴りのような音が響いてくる。それが一気に集まりバリバリっと空を破るときは近い。光が鳴ってからそれが聴こえるまでの秒数を数えるまでもなく近い。当時はとても怖かった。実際にあった怖い話もたくさん聞いたからだろうか。ゴロゴロ、ゴロゴロという音が少しずつ遠ざかっていく。あの人の街はもう通り過ぎた?自分では超えられない距離を想う。

音で距離を測り空間の形をつかむ。近所の森でアブラゼミが鳴き始めたが鳥の声がかき消されない程度になった。新宿中央公園は30年近くずっと身近で園内の地図だって何度かみている。思い浮かべたのはその地図だったのかもしれない。公園に入ると音は上から降りはじめる。何種類もの紫陽花はフェイドアウトして鳴りを潜めている。あるいはすでに切り取られた。繰り返す生に切断を持ち込む。現状維持のためか、これからのためか。紫陽花同志ではそんなことは起きないから考える必要もない。

立秋。気候変動を肌で感じているつもりだがなぜこの日に秋を感じるのだろう。「夏ってこんなに暑かったっけ」と毎年思うのだから私に掴めるほどの変化は起きていないのか、もしくは季語が持つ力か。それを秋と感じる仕方はきっとあまりにも多様だ。

じっと考えこむ。答えなどないというか問いにすらできない事柄を。問いの形にしてしまえば何かを言いたくなってしまうかもしれない。みなかったこと知らなかったことにできたとしても。いやできない。見えたものは見えたもの。秋がきた。秋と名付けられた自然現象のなにかをそれぞれが掴み取ってそう思う。問わずともそれの仮の名前はそれであり、私にとってのそれもそれである。ただそれだけ。なんだか眠くなってきた。その場しのぎしよう。ちょっと二度寝しよう。

カテゴリー
未分類

副都心線:明治神宮前

あー、渋谷止まりか、と思う。渋谷からバスでオフィスの近くまで行けるので雨の日とかはとてもいいのだけど同じ渋谷でも東横線からだと結構歩く。副都心線直通の電車だったら新宿三丁目で乗り換えることになる。そこから新宿へ出て、新宿からオフィスまで歩くとなったらそっちの方がいっぱい歩くことになるわけだが結局歩かねばならない距離や時間で選んでいるわけではないのだな。直通ではなく渋谷止まりの電車を見るたびにどのルートで行こうか迷ってしまう。

いつのまにか他の路線に乗り入れる電車が増えた。

精神分析家の藤山直樹先生がご自身の本の最後に副都心線が開通して賑わう明治神宮前にて、みたいなことを書いていた。ちょうど見直そうと思っていた『集中講義・精神分析 上』(岩崎学術出版社)を手にとった。あとがきの最後を後ろからめくる。

「二〇〇八年九月 夏の名残の夕立の音を聞きつつ、神宮前にて」

あれ?違う。では『精神分析という営み』(岩崎学術出版社)を。はじめて明治神宮前にある先生のオフィスへ伺った頃に出た本。あのグループで一緒だった仲間から今年精神分析家が誕生した。育てている。この本は國分功一郎さんや村上靖彦さんも言及している転移の本質を描写した本だ。藤山先生の本で一番読まれるべき本だと思う、ということは以前にも書いた。二日目のグループが終わったあとのオフィスで著者割で買ってサインをいただいたのだと思う。藤山先生の落語を聞いたのもあのときがはじめてだった。今や安くともお金をとってホールで披露するまでになっている。寿司でも落語でも精神分析でも極めるのが好き、というか極まっちゃう(日本語間違っているってわかってる)のか、あと俳句も。この時点で私は「あ、多分、『落語の国の精神分析』(みすず書房)だ、副都心線開通のことが書いてあるのは」と思っているがそばにおいていないので確認できない。

一応『精神分析という営み』のあとがきの最後をみてみる。

「二〇〇三年 初夏の神宮前にて」

あれ?シンプル。この本もさっきのも夏に出たのね。あ、これはこの前の一文が大事なのか。

「フロイトも見し暗澹を昼すがら寝椅子のうへに編み上げほどきて」

ほとんど短歌。フロイトの見た暗澹はすごかっただろう。ユダヤ人であることに生涯苦しめられた。死ぬ間際にナチスから逃れロンドンへ移住。姉たちはガス室で殺された。フロイトのテクストは苦しみよりも悔しさや人間のやることなすことを徹底的に見つめていこうとする姿勢に貫かれていると思うけど。

副都心線が開通したのはいつだろうと調べてみた。2008年か。だったら『集中講義』上巻が出たときじゃん、と思うけどこのときの副都心線は先生のオフィスがある明治神宮前まで伸びておらず和光市と渋谷間の往復だった。東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転開始は2013年3月16日。やはり『落語の国の精神分析』のあとがきに書いてあるのだろう。

面白いのは副都心線開通に関する年表をウィキペディアでみていると

「2013年(平成25年)

2月21日要町駅 – 雑司が谷駅間で携帯電話の利用が可能となる」

などちょこちょこと「携帯電話の利用が可能」となった日時と区間が記されていることだ。そういえば前って電車で携帯使えなかったんだっけ。今や通じすぎる時代になった。気持ちが通じることの難しさは何も変わっていないけど。精神分析が細々と生き残っているのもそのせいだろう。

そうそう、なぜ『集中講義』を手にとったかというと三浦哲也さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩書房)をパラパラしていたらアントナン・アルトーの

「映画は、人間の思考の曲がり角に、すり切れた言語がその象徴力を失い、精神が表象の戯れにうんざりする、まさにその時点に到来する。」

という言葉が引かれていたのをみて「藤山先生もどっかで精神分析は鞍馬天狗のように現れるんだみたいなこと書いてたよね、そういうこと言うから精神分析の印象悪いんだと思うよ」と思い、どこに書いてあったんだっけ、と思ったから。探してばかりだな。まあ、50歳近くなってもまだ候補生という立場で(精神分析のトレーニングってそういうもの)直通運転とは遠い世界にいるのだし「おー、やっと携帯繋がったよ」という感じでいろんなことが繋がっていけばいっか、と思っているので地道にのんびりやりましょ。

今日は東京は30度超えないみたい。大雨の被害がこれ以上広がりませんように。