早朝からコーヒーをこぼしてしまった。あーあ。わりとよくあるからそんなに残念でもないけど火傷しなくてよかった。小学校一年生のとき、ひとりでパンを焼こうとトースターで火傷した。当時から背も低く不器用だった私にとっては大きな冒険だっただろう。何度も思い出していた出来事なのに今はだいぶ薄れている。びっくりして痛くてでも少し誇らしかった。ような気がする。今もうっすらと跡があるけど当時はプクッと赤く膨れててその後もちっこいミミズがいるみたいになってた。こんなに薄くなるとは思わなかった。
トースターって種類はいくつかあれど昔からあまり変わらない。黒電話みたいに「何これ」とならずに今も残ってる。この前、小学生がCDプレイヤーを使うのに戸惑っているのもみた。という私はとても久しぶりにCDを買いにTSUTAYAへ行った。頼まれたはいいがどこを探したらいいかわからない。「ユ」のところをみたけどない。え?メジャーな人だよね。配信だけとか?頼まれたんだからそんなことないよね。果たしてこの名前はこの読み方であっているのか、など海外旅行かタイムトラベルかみたいな気持ちで狼狽えていた。お店の人に聞くにも「さん」づけにすべきかとかで悩んでしまった。思い切って「優里のCDありますか」と聞いてみたら「あ、優里さんですね」とあっさり「さん」づけだった。でも店員さんもさっき私が探した場所で「あれ?」となっていて名前が書いてある仕切りが無くなっちゃってるけどここに何枚かと教えてくれた。買えたー。よかった。私は今apple musicで優里さんの「ドライフラワー」を聴き始めた。
色々やってたらもうこんな時間。そうそう「嫌われたくない」「いい人でいたい」「みんなに好かれていたい」という人がいるじゃない?ということを書こうと思ったのだった。状況も不安の質も色々違うから一概には言えないけれどスプリットによってそれが成立してしまう場合について書いておこう。
「嫌われたくない」。これだけいろんな人がいるのだからなかなか難しいのでは、と誰でもわかりそうなものというかわかっちゃいるがということだと思うけど、
自分が不快な思いをしたくない→不快な思いをさせる人は嫌い→自分が嫌いなアイツは自分のことを嫌っている→嫌われたくないから排除→自分は誰も嫌ってないし、誰にも嫌われてない(スッキリ。次行こう。)、という場合がある。
女性が力を持つことを嫌う男性の態度にも近いものがあるかも。排除された側の「人をなんだと思ってるんでしょう」という怒りと悲しみの表明がフェミニストたちの運動でもあるのでしょう。フェミニストでなくてもひとりひとりが排除や差別の歴史を抱えていることは間違いないと私は思う。人を人とも思えない人たちだってそうだからこそこうなのかもしれない。でもだったらそれを繰り返すのではない方法で、と毎日頭痛とともに考え続けている。というか考えると頭痛がする。難しくて。でもパッと誰かの名言当てはめてわかったふりしても仕方ないから別の知的能力を使わないと。なくてもあるかもと信じないと。適応という意味では成功しててすでに「強者」である人がそういう心の構造を持っている場合、伴侶もそれ以外のパートナーもフレンドも取り巻きもいたりするから勝ち目はないと思うかも。でも人間関係って戦いではないから。そういう人たちはわりとすぐ戦いの言葉使うけど。子ども向けに攻略本とか出したくなる心性もそんな感じ?たとえそれが人間の本性だったりしたとしても本性とか本質語る前に言葉と行動。実際に特定の相手に言われたことされたことで怒ったり悲しんだり長期間ひどく苦しんだりするのだから、お互いに。
好き嫌いなんてすぐに反転する。好きだったり嫌いだったりする。ぐちゃぐちゃしたものを抱えて毎日やっていくのは辛いけれどとどまる。そうすれば薄くなったり濃くなったり出来事が意味を変えていくことに気づく。それを観察しよう。
東京は今は雨なの。午後は晴れるみたい。きっとお昼に外に出る頃には靴がキュッキュッていう。なんとかやりましょう、今日も。