寒い。空がグレー。東京の天気予報は晴れ時々くもり。寒いのは嫌だ。乾燥もつらい。冬だ冬だ。
それにしても毎日ニュースが怖い。高市内閣はトランプが自分と会った直後に中国に対してみせた態度から全く学ぶことをせず、というか、これまで日本の首相たちがぎりぎりのところで曖昧にしてきたものを戦略とも思っていなかったのか、ある立場についてしまえば自分の言葉が引き起こす結果について推測しなければならないのは仕事の一部だとは思っていないのか、子供の頃の夢を語るかのように他国への侵入的な発言をして時間もお金も優先的に動かさなければならないところからずらされていくのは一体なんなのか。怖い。
心理職でも自分がその専門として学問を語るならその歴史を作ってきた人たちに対してなんの敬意も感じられないシッタカブッタ言葉を吐くべきではない、ということを当たり前だと感じられない専門家もいるけど、そういう人に助けられている人もいるので同じ土俵に立つのではなく、それを反面教師として粛々と自分のできること、やるべきことをやり、やるべきではないことはやらず、ということをしていったほうがいいのだろうな、といろんな人の愚痴やらなにやらをききながら思う。みんな似たようなことはしているものだし、と思えるとすればまだそれぞれの現場で自分たちの居場所を耕してきた人たちが生き残っているからだろうけど。上の世代のせいにするのは簡単だが、自分がいる場所は自分が作ってきたようなことをいうのはあまりにあんまりだと思う。なんていうのかな、こういうの。幼稚ともいえるし失礼ともいえるし考えなしともいえるし万能的ともいえるしなんていえばいいのだろう。
よかれと思ったことがある日反転するなんて戦後まもなくじゃなくても起こるわけだ。朝ドラ「あんぱん」で「ひっくりかえらない正義」が追い求められ、「ばけばけ」で「物乞いだよ!冬がきたら、死ぬ」という言葉で限界と尊厳が示されたが、今の日本はそのぎりぎりのところさえ簡単に踏み越えられるかのようにふるまう人たちが政治を握っている。そんななか目の前の評価に流されるように生きている人たちが多いのだろうか。積み重ねもせず、自分の付け焼刃に近い勉強と狭い経験で大きな声でなにかいえば通じる社会なのだろうか。毎日こつこつ、風邪をひいたりけがをしたりしないように小さく気を付けながら生活や仕事を維持することのなかに小さな喜びや幸福を見出してきた人たちが力を落とさないように支えていく社会であれば少なくとも安全は保たれるだろうに。これからのことを考えるのであれば自分の思いや考えを主張するより自分とは違う相手の話を聞くところか始めないとなのにそういう場を設定してもそこをぶち壊すことでしか自分を表現できない場合もあり、ある程度それは傾聴すべきだが、それだと自分自身の居場所はどんどんなくなっていってしまうよ、というしかない場合もある。わかってほしい、ばかりで社会は成り立たないなんて当たり前で、わかってくれないから怒っています、もっと怒らせたら攻めこみます、なんて普通にだめではないか。言葉も思考する能力も備えているはずなのにそれを使わない、あるいは自分仕様で使うのは意地悪ではないか、とかいろいろ考えてしまうが、今日も無事にがんばりましょう。

