冒頭から泣いてしまった。まだ読み始めたばかりだ。
ドミニク・チェン『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(新潮文庫)
先日、下北沢の本屋で対話の本として目に止まった一冊である。ブックカバーがすでに誰かとの対話が丁寧になされた様子を示していた。普通の文庫より小さく感じた。そっと手にとり冒頭を読んで泣きそうになった。一度閉じて本を置いた。やはり買った。2020年1月にでた単行本の文庫化とのこと。ドミニク・チェンの本や活動は『ゲンロン』で見たり読んだりしている程度には知っていた。Nukabotとの丁寧な関わりが印象に残っていた。
娘の誕生をこんな風に観察しその体験をこんな風に記述できるのは著者自身が「表現とは何か」を追い続けてきた人だからかもしれない。最初からひきこまれるその来歴は娘の成長を観察しながら辿りなおされた著者の歴史の一部のようである。著者は「日本に生まれながら、台湾とベトナムにも家族を持ち、フランス人として教育を受ける中で、いつも自分の居場所に違和感をも抱きながら、複数の「領土」をせわしなく出たり入ったりしてきた」という。著者が冒頭に参照するのは哲学者のドゥルーズだ。ポリグロット(多言語話者)となりさらにゲーム言語と出会い「領土」の拡張の悦楽を知った著者は吃音という身体的な「バグ」にも生命的な次元における創造性を見出し、娘の「心のなかでは確かに反響している」であろう言葉にならない言葉を待つ。
少年から青年へと成長するなかで哲学やその教師と出会い、「言葉でしか記述できない事象」だけではなく「言葉の網からこぼれ落ちる事象もまた、世界に満ち溢れている」という実感を得た著者の表現行為の広がりとそれに対する内省と考察、そして再び戻る娘の環世界での対話。著者は娘の姿を眺めていると「もう自分では忘れてしまっていたこどもの頃の「世界の学び方」を再び生き直している思いがする」と書く。
「共に在る」ことへ向かって学問的知見と共にシンプルかつ丁寧に紡がれる体験と思考は私の身体にも優しく馴染みよく感じる。このあとも静かに慌てず読み進めようと思う。
さてやや慌てねばならない時間になってきた。「わかりあえなさ」に乱れる想いは多くあれど子どもの環世界を想像しつつ他者の来歴に耳をすますこと。それは私の仕事でもある。
今日もそれぞれの一日が無事にはじまりますように。